諸言
武蔵野は全体からいうと水に乏しい地域であるから、関東平野中でもいたって水田が少ない。しかし細かく見ると、地表水の見られないところもある一方、川や泉によく涵養されたところもある。また地表水のない地域中にも、地下水の浅いところや深いところがあり、それらにしたがって居住とか耕作とかは少からず影響されている。二十五年前、小田内通敏氏はその著『帝都の近郊』中に、東部武蔵野の水を取り扱っているが、ここでは全武蔵野について述べよう。
武蔵野の水は地表水としては河川、湧泉ならびに湧水個所に湛えられる湧水池があり、地下水としては、ロームや砂や砂礫の粒子間の空中に帯水する空隙水がある。
地下水
武蔵野台地西部は地下水面が深いため、旅人や定住しようとする住民がいかに苦しんだかを物語るものとして、逃げ水や堀兼の井の伝説がある。逃げ水というのは遠くを眺めると水の流れるように見え、そこと思われるところに行くと水を見ないという奇現象である。夫木集に
東路にありといふなる迯水の
にげかくれても世を過すかな(俊頼)
むさし野の草葉がくれに行く水の
迯げかくれてもありとこそきけ(読み人知らず)
などと詠われ、武蔵野歌枕の一となっている。しかし巷間の伝説でいかなる現象であるかは知るに由なく、水を得られない旅人の幻覚とか、夏日草原の面が激しい日射でいわゆる偽水の現象をなして見えるとか、霖雨の頃の野水であるとか種々の説もある。対象そのものがはっきりしていないから科学的に取り扱いえないことは当然である。広い武蔵野の中に一つくらいはつかみどころのないものが残されていてもよいであろう。
堀兼の井というのは井戸を掘っても掘っても水が出ないという有名な深井で、千載集に「法師品漸見湿土泥決定知近水のこころを
むさし野の堀の井もあるものを
嬉しく〔も〕水の近づきにけり(俊成)
この外にも多くの歌人に詠まれている。しかし堀兼井所在地は中世の頃すでに明らかでなく、足利時代末期武蔵野を遍歴した道興准后は廻国雑記に「堀兼の井見にまかりてよめるは、今は高井戸という。
俤ぞかたるに残る武蔵野や
堀兼の井に水はなけれど
昔たれ心づくしの名をとめて
水なき野辺を堀兼の井ぞ
やせの里は、やがてこのつづきにてはべり。
里人のやせといふ名や堀兼の井に
水なきをわびて住むらん
と記してあるから、当時すでに廃井となってしまったように思われる。徳川時代になると武蔵野研究者は苦心して跡を探ったが、所沢町の北に多くの堀兼井の跡とするものがあってどれが真のものかあるいは始めから沢山あったのかさえ明らかになっていない。普通入間郡堀兼村大字堀兼の浅間社の境内にあって、石で畳まれた浅い窪地を呼んでいる。横にある新しい井は底まで深さ一九メートルあって、現在では台地中の最深井ではないが表面一、二メートルのローム層の下は崩れやすい砂礫層よりなり、しかも地下水位の変化が大きく井壁が崩れやすく鑿井(ルビ:さくせい)やその維持には困難を感じたであろうことは想像するに難くない。
往時いかに鑿井に困難を極めたかは、ところどころに残るすり鉢形の井戸の存在からもわかる。その一つは青梅鉄道五ノ神駅の直東に見える熊野社のこんもりとした杉並木の前にある螺井で、蝸牛の殻に似ているので、住民はマイマイヅイドと呼んでいる。井戸の口は、矩形でそれぞれ一六・五メートルおよび一四・三メートルもあり、すり鉢状の窪地は三〇度の傾斜をなし地面下四メートルにある底面は方七メートルあり、螺旋形の小道で降られるようになっている。底には深さ八・三メートル(昭和十五年三月十五日、水面まで七・五メートル)の玉砂利で固めた普通の釣瓶井戸がある。(第一図参照)けだし崩れやすい砂礫層を垂直に掘るに困難し、大きく窪地を作ってから掘り込んだのであろう。全体の深さは一二・三メートルであるが、付近にある近頃できた釣瓶井戸の深さ一二・三メートルと一致する。蝸井は現在も一四戸で使用しており、住民はこれを神聖視し毎年新の一月十七日に井戸替えするという。将来もぜひいまのままに保存しておきたいものである。徳川時代の終わりにできた新編武蔵風土記稿に「螺井、社地(熊野)の内にあり、名義詳ならず、井の上に凹なるところ広さ十歩四方もあり、それより下れることわずかにして水を汲べし、凡長五尋許の縄を用ゆ、井中二丈許、以下は大石を以囲む、近き比作りし井にあらず、真に古様なり」と記してある。
入間村(所沢町北)にも七曲り井というのがあるそうであるが、訪問の機がない。北多摩郡小平村小川の鎌倉古街道の横に近頃まであった二、三の螺井は跡形もなくなってしまった。
最近には軍関係の敷地となったものが少なくないが、日支事変前の頃まで狭山丘陵の北、西、西南方や「武蔵野の蹟は今入間郡に遺れり」といわれた所沢町の北の大野原などには直径二キロメートル以上もある雑木林、松林などが残り、四キロメートルの間一軒の百姓屋も見えないことが珍しくなかった。それらはたまたまその場所が武蔵野新田のように計画的に開墾されなかったからであることはもちろんであるが、部落のできなかった現在でも二五メートル以上の鑿井をするのに家を建てるくらいの費用を要するからでもある。
かような深井地帯の原野も徳川時代に入ると、幕府や川越藩は封建制度を維持する必要上生産力拡充計画をなし、開墾して新田と化した。新田聚楽のあるものは当初から現在まで地下水に頼らず、玉川上水の分水路の水を飲料としている。野火止付近の部落は、この適例で大和田町の菅沢や西分などは現在も酒屋等の外は井がなく、灌漑水路から庭先まで暗渠で引いて小さな「呼び井戸」という水溜りを作り杷杓で汲んで使用している。
多くの場所では始めは用水の水を使っていたものも旱天の時渇水したりするおそれもある上、衛生思想が発達し用水に汚物を捨てないような申し合わせになっていても、雨後など天水桶をかき回したような地表水を使うのを止め、井戸を掘るようになってきた。そのうえ鑿井技術の発達によって、深井の穿掘も費用はかかるにしても不可能ではなくなった。かようにして、地表水と地下水とを併用する部落が少なくない。
水路があっても、始めからところどころに共同井戸を穿ったものとしては、砂川村の一番から十番までの各々に一つずつの共同井戸が水路のそばにあって、用水の渇水に備えてあった。しかし今ではこの外にも個人井戸が沢山できてきた。
水利の便の悪いところは、初めから地下水にのみ頼らざるをえなかった。新田中でも古いといわれる青梅町東方の新町や所沢の東北の上富・中富・下富はこの例である。二〇メートルないし二五メートル近い井を掘ることは、当時としては困難な仕事で、新町の鑿井に対して、同村の開拓者吉野織別之助は「同(慶長十八年)十月我等屋敷に井穿取掛十一月二日に成、差渡四尺深さ拾五石に而疊み、次郎右衛門同三日より始め極月朔日成、差渡四尺深さ拾四帚云々」と記している。この鑿井のために織別之助は慶長十八年二月に代官に「去年中奉窺候新田出百姓無御座候尤今以井穿不申候間井穿人馬近村より出申候様に以御威光爲御觸被遊可下候」と願い出ている。当時すでに鑿井術は、相当に進んでいた。かく計画的新田聚楽の場合には、井は困難にしても不可能事ではなく、夕立の雲より広いと称せられた有史以来の無人の原野にも農耕地が開かれたのであった。
しかも、雨の少ない年には、井水枯渇し困難が一通りでなかったであろう。三富新田では開拓当時の百姓は芽を刈り日蔭に干し、手足を拭き取って入浴に代え、あるいは井が少なかったので、水を大樽に入れ馬背で運搬したという。近く昭和八、九年および十五年の渇水の時には、井戸さらいも効なく、渇水した部落では二軒以上の遠方から荷車、リヤカー、天秤棒等で運搬するのを目撃した。当時所沢西北の三ヶ島新田では、一樽清水を三十銭で売買したという。
武蔵野台地の地下水は、これまで多くの学者の研究もあったが、著者は日本学術振興会の補助を得て、昭和十三年五月以来調査中で、調査地点は約二千に達している。あるいは砂塵が煙幕のように吹きまくる中を、顔をそむけつつ自転車を走らせ、あるいはうららかな春の日よりに麦畑を分けて彼方にそびえる屋敷林に向かって歩き、あるいは翠巒連なる西に向かい桑畑中を自動車で迅走したり、苦しく、また楽しい幾多の思い出を残した。おかげで武蔵野の中で平均五、六〇〇メートル四方に一個所は足を踏み入れることになってしまった。(第二図)
地下水を述べる前に、地質をちょっと語らなければならない。台地の上には火山噴出物が西風で運ばれてきた関東ローム、いわゆる赤土が覆っている。ロームは西に薄く東に厚くなるが、一番厚いところで一〇メートル位である。もちろん谷底などではその後の川水の侵蝕で削り取られその代わりに河川の運んできた沖積土が覆っている。ローム層の下部には少量の礫を混ずるところもあり、砂層となっているところもある。(とくに東京市内)しかし時には厚さ一メートル内外の粘土層となっている。粘土の色は黄褐色のこともあるので黄土と呼ばれているが、硫化鉄を含み緑色を帯びることもある。これは採掘し壁土にしたり、粗製の瓦の原料にしたりする。(第四図)
ローム層の下には、西部武蔵野では厚い玉砂利層がきている。砂利は東するにしたがい次第に細くなり、東京付近では粗砂に移化する場合がある。東では介化石を含むことがある。
東京市付近や南部武蔵野においては、砂礫層の下には厚い青色粘土層が出ている。この層は、たとえば神田御茶ノ水付近の神田川の崖下に省線電車の車窓から見ることができる。しかし北部台地には、これに相当する粘土層を欠いている。
粘土層より下は粘土層と砂礫層との互層が厚く積み重なっている。
これらの地層の地質時代に関しては、地質学者の間に異なった意見が発表されているが、少なくとも、青色粘土層までは第四紀の始の洪積世のものといわれている。
以上の地層中、ローム層下部に粘土が厚く発達するところでは、地下水はローム層中にも湛えられている。東京新市域の大部分の井はかようなローム井で、したがって浅い。ちょっと考えると、渇水しがちのようであるが、かならずしもそうでない。水質はよく味もなく、癖のない水であるが、浅いため下水の近くなどでは汚されるおそれがあり、沢庵工場の近くの井などは塩気を帯びてみて茶を沸かしてもまずいというような場合もある。
黒目川、柳瀬川方面の墓地の一部には、局部的にローム層下に粘土が発達するので、一般の深い地下水面のところどころに局部的に浅い水の地域がある。この地下水は、主地下水と分離して上方に横たわっているので、宙水または上水(ルビ:ウワミズ)と呼ばれている。宙水域では浅くて水を得られるので親村から一戸二戸と移住して小さい小村をなすことがある。所沢町から大和田町にいたる道に沿って、かような小聚落が沢山ある。(第三図)野火止の南の平林寺付近の聚楽もかようなものである。第四図は柳瀬川の北にある和田原(第三図のほぼ中央)における切口を示したものである。
所沢町の西、東川(谷戸川)の浅い谷の中にある弘法大師の三ッ井戸には諸国に多くある湧水伝説が付会されている。一〇〇メートルも離れたところにある井が深さ二一メートルもあるのに、わずか二メートルで宙水を得ている神秘性がかかる伝説の起因になったのであろう。鎌倉古街道も、ここの横を通り源頼朝の陣屋があったともいわれている。所沢の東柳瀬村日比田の馬場の三ツ井戸はその東の城(小田原北條時代の城)の馬の飲料水ともいわれている。東隣の日比田部落のあるところの地下水面の深さが一五メートル内外であるのに、わずか二メートルで良質の水を湛えている。昭和十三年または十五年の渇水時には、部落の水源となり、さらに新しく六つの宙井戸さえも付近に掘られた(第三図)。扇屋町の南の森の中にぽつんと一つ離れてある久保稲荷のあるところも、宙水域とよく一致している。
宙水に対し真の一続きになっている地下水を本水(学術的には自由水)と呼び、その水面はいわゆる地下水面をなしている。本水は東部武蔵野では、ローム層下部をさえ浸しているが、だいたいその下の砂礫層に帯水されている。したがって泉もたいていは砂礫層から出ている。(第四図、赤バッケの崖)
本水面の深さは、東京新市域方面では浅く二—三メートルの所が多い。板橋・豊島・杉並・中野・淀橋・世田谷・荏原・目黒区方面の地下水はかようである。しかし侵蝕谷に臨む崖線の地においては、地下水面が低下しているので、一〇メートル以上に達するところが珍しくなく、赤羽・淀橋・渋谷の崖線の井には底まで一八メートルに達するものさえある。浅い井はローム層から取水するが、深い井の底からは砂、砂礫が出る。(第二図)
西に行くにしたがいようやく深くなり、新市域より西はだいたい一〇メートル以上となる。所沢町付近を境として西の方は二〇二八メートル位の深井が珍しくなく、井側には砂利や玉石が出ている。二八メートル以上の深い井はきわめて少なく、最も深いものは青梅鉄道河邊駅(青梅駅の二つ手前)近くの深井は三三・五メートルに達する。所沢町も深井で有名なところで二八メートル内外の井が多い。
平坦な台地では地下水の深さは場所によってあまり異なっていない。まれにある線を境として、地下水面の深さが急変するところがある。著者はこれを地下水瀑布線と命名した。武蔵野大地の地下水瀑布線は、距離にして五〇メートル位の間で、七、八メートルの水位の差があるから、平坦なところではそれだけ井戸の深さも変わる。瀑布線の主なものは、板橋区大泉町付近と神田川南側を井ノ頭池から西大久保にいたるもの、三鷹村仙川付近のもの等がある。その線を境として一方の地域で帯水層の下にある粘土層が薄く、あるいは欠けているため、地下水を保持することができず、谷中に流出し去るために急に深くなるのである。(第二図)
東京新市域の西(保谷村付近・杉並区天沼町・三鷹村仙川付近)には局部的に地下水面が盛り上がって浅くなっているところがある。これも局部的に粘土層がこの下で厚くなっているからであって地下水堆という。保谷村の上宿の東北には四軒寺といわれる四つの寺があり村内でも古い部落であるが丁度堆上にあって浅い地下水の得られるところに当たっている。(第二図)
以上述べた自由水より深いところでも粘土層の間の砂礫層には、水質のよい水が水され、一〇メートルも深く掘井を穿つと揚水できる。水面はたいてい自由水のそれに等しいが、朝霞町膝折方面では、地面にも達する自噴井があり、膝折などでは街道に沿ってどくどくと流下し住民は野菜などを洗っている。赤羽方面の低地には自噴井が多い。掘抜井は学校・工場・役所等の用水を供給している。所沢町や善福寺池付近では上水道の水源となっている。
湧泉
水層が地表に接するところに湧泉を生ずる。武蔵野の湧泉は、水層と地表との関係位置から三つに分けられる。水が地表よりも幾分か下にある場合には湛水して湧水池を作るが、これは後に述べる。
帯水層が地表面より幾分高いところにある場合には、通常帯水層をなす砂礫層の下部が湧水によって掘り崩されて後退したり孔ができたりする。かような泉は、地形の急変個所、段丘崖の下、侵蝕谷の側壁等に多くある。特に多いのは東北境荒川の谷に接する部分と国分寺に始まって多摩川河岸にいたる野川上の段丘崖下、府中の東の多摩川線の小段丘の下などである。野川線の湧泉列の泉はとくに水量が豊富にあるので砂利の小石を積んで造った山葵畑や養鱒池のように冷たく醇良の水を要するような用水に利用されている。ここから出る小川は冬も水が割合暖かいから霜枯の候でも湿地性の草が青々と茂っている。古代人の居住にとっては湧泉はきわめて重要なものであって、原住民の遺跡はみな湧泉の近くにある。国分寺付近の湧水など以前崖の下にあった国分寺の位置を決定したものといえる。小金井の貫井弁天(ヌクキは温井の意で、水温高しとの説もあるが、筆者の測定では他の湧水とまったく同温であった)深大寺・野寺の満行寺など皆寺の背後に大きな湧水がある。
帯水層が地表面よりも相当に高く、ことにその下に粘土層のような不透水層が発達する場合には、湧水は粘土の崖を瀉下して小さな滝となることがある。等々力峡谷の出口にある不動瀧や白子の大瀧・王子名主瀧(今は人工が加わっている)などはその例である。昭和十四年の初夏学生を連れて不動瀧の調査に行くと、裸体の老爺が念仏しながら龍ノ口から奔下する水に身を打たせてあるのを見たが、とうてい東京市内で行われているとは信ぜられなかった。かような湧水は、樋で導いて飲料または庭園の観賞に供せられることも珍しくない。
河川
武蔵野南の境には多摩川(下流は六郷川)西北の境には入間川、東北および東の境には荒川(下流は隅田川)が流れている。それらを詳しく述べる暇はないが、多摩川の水は羽村で取り入れて承應二年(一六五三年)できた玉川上水で導き、江戸市民の口を潤したのみならず、分水して地上の農村の用水となったことは、人のよく知るところである。現在は、暗渠で狭山丘陵に導き、谷を堰き止めて山口および上下の村山貯水池を造り、ふたたび暗渠で淀橋浄水所に送り東京市民の生命線となっている。
台地中にある河川は、西半部においてははなはだ乏しく、かつ平時には水がなく雨後にのみ流れるような間欠河川である。狭山丘陵の西北寄寺村から出る不老川は「トットラズ」という難しい訓をもっている。秋の豪雨後には、流水があるが、冬に雨が降らないと地中に滲透し流水は年を越すことがないというためにかように呼ばれているのである。狭山丘陵の西の箱根ヶ崎村の狭山池から出る蛇堀川の名の蛇堀は、石のごろごろしている意味で渋谷の蛇崩川と同じ語源である。その中にあって台北の西北方加治丘陵との境を流れる川は、加治丘陵からの水を集めて台地中を一段深く流れ、沿岸には街道に沿って水田・聚落が発達し、根通りと呼ばれている。
かように西武蔵野にはほとんど河川と呼んでよいものはないが、所沢町付近を頂部として放射状に幅の広い谷が始まって東北にあるいは西南に向かって流れている。なかんずく、柳瀬川は狭山丘陵中の現在山口貯水池のある谷から源を発し、村山貯水池から出る北川および丘陵の南に沿って流れる前川を合し、所沢町の南を通り大和田町を経て荒川に合するものである。谷底の大部分は水田化され、河岸には堤防も築かれ台地内最大の河である。それが住民に利用されたことは前にも記した道興准后が廻国雑記に「この所(所沢)を過ぎてくめ〱川といふ所はべり。里の家々には井などもはべらで、たゞ此川を汲みて朝夕もちいはべるとなんまらしければ
里人のくめ〱川とゆふぐれに
なりなば水は氷もぞする」
と記している。江戸名所図絵にもすでに指摘されているが、新田義貞鎌倉攻めの時戦闘は地上の原で行われたが太平記には夜には北條勢が久米川に宿したことを述べており、いかに柳瀬川の水が兵站上重要であったかがうかがわれる。久米川は所沢町の南、鎌倉街道が柳瀬川を横切る橋の袂に達した中世の宿場である。
その東南方を流れる黒目川は、久留米にある諸湧泉に源を発して急に大きくなり、膝折を通って荒川の谷に出る。この河は人工的にいくつにも分流されて広い谷中の水田灌漑や水車を廻すのに用いられている。野川は国分寺の西に源を愛し、段丘崖から出る湧水を集めつつ段丘崖に沿って多摩川の渓谷に出るが、谷幅は狭く水は冷たいのであまり利用価値は大きくない。
東部武蔵野に行くと、高度五〇メートル位のところから、急に幅が狭く割合深い谷がたくさん初まる。谷頭は杓子状に固く膨れ、井ノ頭の名のように湧水があって井ノ頭池・善福寺池・三宝寺池を始め多くの小さい池がある。井ノ頭池等以下の三つの池は一直線に並んでいるので何か地質構造線を意味するようでもある。しかしいずれも人工的に大きくしたもので他の小さい池と同じ性質のものであり、他の池の分布を考慮するとむしろ五〇メートル線に沿う円弧上に配列されているといったほうがよい。これらの谷は西部武蔵野の河と異なり曲流しているので格別の趣がある。(第五図)国木田独歩は「武蔵野」中に「前略、其他名も知れぬ細流小溝に至るまで、若しこれを他所で見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高の嫌なく、林をくゞり、野を横切り、隠れつ現はれつして、しかも曲りくねつて流るゝ趣は春夏秋冬を通じて吾等の心を惹くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長したので、河といへば随分大きな河でも其水は透明であるのを見慣れたせいか初は武蔵野の流、多摩川を除いては悉く濁て居るので甚だ不快な感を惹いたものであるが、だんだん慣れて見ると、やはり此の少し濁た流れが平原の景色に適つて見へるやうに思はれて来た」と描写している。これらの流れが水に乏しい武蔵野台地のオアシスとして居住者の飲料に水田の灌漑用に重要視され、進んでは神聖視されたかは、谷の斜面に祭られる無数の氷川神社、弁天や名も知らぬ祠の存在によっても頷かれるところである。独歩の文にあるように少し濁った水中には暖かい時期には石松藻や仙人藻が流れにしたがってゆらゆらとしてその間を小魚が泳ぎ回り、小児達が撑網で追い回し、太公望が釣糸を垂れている。大根の収穫の頃にはいたるところで農夫が大根の土を洗っていることも徒歩旅行者の常に目撃する光景である。都市化したところでは下水道となって汚水が流れ込み、放つ悪臭は都市衛生上問題化されて暗渠に化したものもある。石神井川下流の瀧野川などはかつては水を多く要する王子製紙会社の工場の現在の位置への立地を促がしたのであった。目黒川・神田川などの下流は船を通じ貨物運搬にも利用されている。
池沼
武蔵野台地にある池沼は水田に灌漑するための堰と湧水個所の湧水池とである。東京市内には庭園の池や養魚池さては防御用の城濠がある。狭山丘陵には村山・山口貯水池がある。
水田を灌漑するために堰いた池は、割合に乏しいが、最大のものは荏原区池上洗足町の洗足池である。洗足池は湖畔の御松庵に日蓮上人の袈裟掛松などがあり、日蓮上人が池上本門寺に赴く時に足を洗ったものだという伝説もあるがもとより付会の説である。
私は大正十二年から十五年にかけて百回近くも調査したことがある。池面の高度一九・二メートル、面積四五、七〇〇平方メートル、深さは満水位で二・三メートルで、南の水門の直前にある。以前はとくに冬など水は澄んでいたが、東京市の発展に伴い、下水が入るようになってから、年中濁っている。一面にセンニンモが繁茂し、雑魚を産する。大正十二年から、水上クラブができて遊覧ボートがたくさん浮かんでいる。池岸には御松庵の外勝海舟の墓、日蓮上人銅像等がある。
洗足池の東南に小池がある。やはり貯水池として作った深さ〇・七メートルばかりの小池である。北に湧泉があって冬の寒い日など農家の女が衣服を洗っていた。両側の丘には樹木が茂り、靜かなところであったが、十数年後に訪問するとあたりは住宅地に変わり、池は大衆池というモダンな名で呼ばれる釣堀となり、昔の面影はまったくなくなってしまった。
湧水池は武蔵野の一点景である。(第六図)「若し萓原の方へ下りて行くと、今まで見えたい景色が悉く隠れてしまつて、小さな谷の底に出るだらう。思いがけなく細長い池が萓原と林との間に隠れて居たのを発見する。水は清く澄で、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映してゐる。水の濤(ルビ:ほとり)には枯蘆が少しばかり生えてゐる。此の池の濤の徑をしばらくゆくと又た二つに分れる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君は必ず坂をのぼるだらう」それは国木田独歩の「武蔵野」の一節である。
谷の頭、谷の側壁、段丘崖の下などに大小様々の湧水池がある。その側壁や底などに帯水層が出て絶えず清冷な地下水を涵養している。水は澄み、夏冷たく冬も地表水に比し暖かいので凍るようなことはない。深さは一メートル未満である。岸はたいてい湿気を好む杉林に囲まれ、杉の葉や小枝などが落ちて池底を覆っていることも珍しくない。水温は年中二〇度以下であるから浅い割合に蘆はあまり繁茂しない。畔には弁天や氷川神社が祀ってあることが珍しくない。
これらの池は、前述のローム層下の砂礫層の上部だけが谷に露出し、そこから砂礫層中に帯水する地下水が湧出し、砂礫層を掘り崩して作ったものである。したがって池の形は丸みを帯びた杓子状のものが多く、細かく見ると丸い小さな湾をもっていることが特色である。湧水個所は冷たくて、水草が生えないが、出口の方に行くと水が温められてヨシなどが繁茂し、葉茎が積み重なって腐植土を作る。かようにして出口の水底が高まることも水を湛える一つの役割を演ずるのであろう。水を少しでも余計湧かせたいという要求や祠の庭園というようなわけで池の形には人工が加えられている場合が少ない。
井ノ頭池
吉祥寺にある井ノ頭池は神田川の水源をなしている最大(四五、八〇〇平方メートル)の湧水池である。二股に分かれ北の入江の奥には蛇頭の湧水個所、南の入江には弁天があり、中央の半島には杉林に囲まれた動物園や淡水水族館がある。ロームの下の砂礫層が池底に出ているのでその中に帯水する水が盛んに湧出し池底に砂礫層下の粘土の下盤は出ていない。試錐によると盤は池底一〇メートル位の所に横たわっている。ここだけで湧出するのは東に行くとローム層の下が粘土質化して砂礫層の水の湧出を妨げるためであることが分かっている。徳川家光は、ここを訪うて水の清冷を愛し命じて江戸城に引かせたという。ただし池畔の辛美(ルビ:こぶし)の樹に小柄で井頭の字を彫ったので、この名が出たというのは誤りで、かようなところはほかにも多くあっていずれも井頭などと
行けばさやまの池の秋風(堯惠)
とある。ほかにも池の結氷を歌った和歌も多い。これから見ても井ノ頭池のように湧水がたくさん出る池でないこともわかる。現在四囲は草原で松など植はり公園風になっている。
主要参考文献
小田内通敏 帝都の近郊(大正七年)
高橋源一郎 武蔵野歴史地理 昭和三—七年(一—四)
仁島仁吉 武蔵野台地の地下水(陸水学雑誌五巻四号、昭和十年)
鈴木敏 東京地質図幅説明書(明治二一年)
復興局建築部 東京及横浜地質調査報告(昭和四年)
吉村信吉 武蔵野台地の地下水、特に宙水、地下水瀑布線、地下水堆と聚落発達との関係(地理教育三二巻一、三号、昭和十五年)