PHILOSOPHY

世界史の哲学:理性が世界を支配する

フリードリヒ・ヘーゲル

岡田隆平訳

Published in 1830 - 1831|Archived in December 1st, 2023

Image: Raffaello Sanzio, "Scuola Di Atene", 1509 - 1511.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

小見出しを付し、旧字・旧仮名遣いは現代的な表記に改め、一部の漢字は開いた。
傍点による強調は太字に統一した。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:フリードリヒ・ヘーゲル(1770 - 1831)訳者:岡田隆平
題名:世界史の哲学:理性が世界を支配する原題:「前篇 一般的序論」「第一章 世界史の理性観」
初出:1830 - 1831年翻訳初出:1949年(第一出版株式會社)
出典:『ヘーゲル 世界史の哲学』(第一出版株式會社。1949年。3-12ページ)

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歴史の哲学

諸君!
 

この講義の対象は世界史の哲学である。

 

歴史とは何か、世界史とは何か、ということについて私は何事をも述べる必要がない。この点については一般的な表象で十分であるし、また大体において我々の意見も一致している。しかるに我々の考察する対象が世界史の哲学であり、我々が歴史を哲学的に取り扱わんと欲しているということは、この講義の題目を見て直ちに奇異に感じられるであって、恐らく何らかの説明かあるいはむしろ釈明を必要とせねばならぬであらう。

 

けれども歴史の哲学とは歴史の思惟的考察にほかならぬし、また我々は断じていかなる場合にも思惟を中断することはできない。人間は思惟的であり、これによって動物から区別されるからである。人間的であるすべてのもの、感覚、見聞、認識、衝動、意志の中には、ーーそれが人間的であって動物的でない限り、思惟が含まれている、したがってまたいかなる歴史の研究にも思惟が含まれている。しかし、かように思惟がすべての人間的存在にも歴史にも一般的に関与してあることを引き合いに出しても、我々は思惟が存在するもの、与えられたものに従属し、それを基礎とし、それに導かれると考えているから、それで十分だとは思われない。しかるに哲学には、思弁が存在するものに顧慮なくそれ自身の中から生産する独自な思想が属しており、思弁はかかる思想をもって歴史に臨み、歴史を一素材として取り扱い、それをあるがままに放置しないで、この思想に適合させ、歴史を先天的に構成しようとする。

 

歴史は生起したものに関係する。歴史の考察には、本質的に自己自身の中から自己を規定する概念が対立するように見える。もちろん我々は諸事件を寄せ集めて、出来事が直接眼前に存在するままに表象することもできよう。確かにこの場合にも諸事件の結合、実用的と称せられること、したがって出来事に対する原因や根拠を発見することが重要な問題ではある。けれどもそれには概念が必要であつて、これによって概念的理解がその反対の関係に陥ることはないと考え得られる。だがかかる方法においては、根底にあるものは常に諸事件であって、概念の活動はそこに存在するものの形式的、一般的内容、すなわち原理、規則、原則に限定されている。かように歴史の中から演繹されるものにとって理論的思惟が必要であると認められているが、それを照明する根拠はやはり経験から生じるべきだとされている。しかるに哲学が概念の下に理解するものはこれとは事情を異にし、ここでは概念的理解は概念自らの活動であって、他所から生じるような素材形式との遭遇ではない。かかる実用的歴史に見るような両者の親交は哲学における概念を満足させるものでない。哲学における概念は本質的にその素材と内容とを自己自身の中から取り出するものである。かくてこの点に関しては、前掲のごとく諸事件の結合が行われるにもかからず、出来事と概念の独立性と互いに対立するという最初の区別は依然として存在している。

 

しかるに我々がここにより高い立場を探るや、この同じ関係が〔全く哲学を度外視するにしてもすでに〕歴史考察の内部に現れて来る。第一に我々は歴史の中に、概念から縁遠い諸々の成素や自然条件、雑多な人間的思惟、外的必然性を見る。他方、我々はかかるすべてのものにより高き必然性の思想、永遠の正義や愛の思想、絶対的に真理なる絶対的目的を対立させる。この対置されたものは自然的存在の対立における抽象的要素、概念の自由と必然性とに基いている。それは種々の形態を採って我々の心を惹き、かつ世界史の理念におても我々の心を奪うところの対立である。この対立を世界史において絶対的に解除されたものとして示すのが我々の目的である。

 

歴史は存在するもの、存在していたもの、すなわち諸々の事件や行為のみを純粋に把握せねばならぬ。歴史が与えられたものにのみ固執すればする程、かつーー与えられたものは直接そこになくして、思惟と結合した種々の研究を必要とするからーーこの場合生起した出来事のみを目的とすればする程、歴史はますます真なるものである。この目的に哲学の研究は矛盾するかに見える。そしてこの矛盾すなわち哲学が思想を携えて歴史に向かい、歴史を思想によって取り扱うという理由で受ける非難に関しては、私は序論で説明したいと思う。すなわち第一に世界史の哲学の一般的規定が掲げられ、またそれと結びついている直接的帰結が指摘されねばならぬ。これによって思想と出来事との関係が自然に正しく解明されるであろう。そしてすでにそのためにも、また世界史において非常に豊富な材料が我々の眼前に迫っているのであるから、序論をあまり冗長にわたらせまいとするためにも、歴史的なものの取り扱いの目的や関心についての見地、原則、見解に関して、それから特に概念、哲学と歴史的なものとの関係に関して流行し、あるいはますます新しく案出されている無限に多くの特殊な誤れる見解や反省に論及することは不要である。私はそういう見解を全く看過するか、あるいは序に指摘するだけでさしつかえない。

*どの歴史の新しい序説もーーさらにまたかかる歴史の評論の序説までも一々新しい学説を案出している。

理性が世界を支配する

世界史の哲学の予備概念について第一に注意しておきたいことは、すでに述べたごとく、第一に哲学が思想をもって歴史に臨み、歴史を思想にしたがって考察するという非難を加えられていることである。哲学が携えて行く唯一の思想はしかし、理性が世界を支配し、したがってまた世界史も合理的に行われてきたという理性の単純な思想である。この確信と洞察とは歴史そのものに関して一般に一つの前提である。だが哲学自らにおいてはこれはなんら前提でない。哲学においては、理性がーーここでは神との関係を詳しく説明せずに、この理性という表現に我々は立ち止まってさしつかえないのであるがーー実体であると共に無限な力であり、それ自身あらゆる自然的、精神的生活の無限な素材であると共に無限な形式、かかる内容の活動であることは思弁的認識によって説明されている。ーー理性が実体であるというのは、それによってかつそれにおいてすべての実現性がその存在と存立とを有するからであり、かつ無限の力というののは、理性が単に理想、当為に止まって、どこか現実界の外部で、恐らく単に特殊なものとして若干の人間の頭の中に存在するごとき無力なものでないからであり、ーーまた無限な内容というのは、理性がすべての本質性および真理であって、それ自身自己の活動によって加工される素材であるからである。理性は有限的行為のように、その活動の栄養と対象とを受け取る外的材料や与えられた手段の制約を必要としない。理性は自己の中から栄養を摂り、かつそれ自身自らが加工する材料である。理性は自分が全くそれ自身の前提であり、その目的は絶対の究極目的であるごとく、それ自身その目的の実行であり、かつこの内的なものを実現して、自然的宇宙のみならず精神的宇宙の現象ーー世界史ーーの中に産み出していく活動である。されかくのごとき理念が真なるもの、永遠なるもの、絶対的な力を有するものであること、この理念が世界の中に顕示され、かつ世界においてはこの理念、その尊厳と栄誉のほかには何ものも顕示されないということは、すでに述べたごとく、哲学において証明され、したがってここに照明されたものとして前提されている。

民族において理性が顕示する

哲学的考察は偶然的なものを遠ざけること以外に他の意図を持っていない。偶然性は外的必然性と同じものであって、それ自身外的事情にすぎない原因に帰せられる一つの必然性である。我々は歴史においては一般的目的、世界の究極目的を追求すべきであって、主観的精神や心情の特殊目的を追求してはならぬ。この究極目的を捕えるために、いかなる特殊目的でもなく単に絶対目的のみを関心事となし得る理性によらねばならない。この絶対目的は証言を自己自身によって与え、自己自身に有する内容であって、人間が自己の関心事となし得るすべての存在はそれによって支持されている。理性的なものは絶対的な存在者であって、すべての存在はこれによって価値を有する。理性的なものには種々異なった形態があるが、民族と称せられる多様な形態をもって精神が自らを顕示する形態の中に、理性的なものは最も明瞭な目的として存在している。我々は意欲の世界が偶然に委ねられていないという確信と思想とをもって、歴史に立ち向かわねばならぬ。諸民族の事件の中には究極目的が支配していること、世界史における理性ーー特殊主観の理性でなく、神的なる絶対的理性ーーは我々が前提する一つの真理であること、この証明は世界史そのものの論述である。世界史は理性の映像であり行為である。しかし、その本来の証明はむしろ理性そのものの認識に存している。世界史においては理性が自らを実証しているにすぎない。世界史はこの唯一の理性の現象、すなわち理性が自己を顕示する一特殊的形態、特殊的要素たる諸民族の中に表現される原像の模像にすぎない。
 
理性は自己内に安定して、その目的を自己自身の中にもっている。理性はそれ自身を現実界に産み出し、自己を完遂する。思惟は理性のこの目的を自覚しなければならぬ。哲学的方法は初めは何か奇異の感を起こさせるかも知れぬ。それは表象の悪しき習慣からすればまた偶然と見られ、単なる思いつきと考えられるかもしれない。思想を唯一の真なるもの、最高のものと承認しない人々は哲学的方法を評価することは全く不可能である。

世界精神の進行

諸君、それ願わくば、諸君の中でいまだ哲学に親しんでいない人々は、理性への信仰を抱き、理性の認識への渇望をもって、この世界史の講義に出ていただきたい。ーーそして諸科学の研究に際して主観的欲求として前提さるべきものは、もちろん理性的洞察、認識への要求であって、単に見聞の蒐集への要求ではない。しかし、実際には私はかくのごとき信仰をあらかじめ要求する必要を認めない。私が前提として述べてきたこと、また私がなおこれから述べるであろうことは、単にーー我々の学に関してもまた前提としてでなく、全体の概観として、我々が行わんとしている考察の成果として考えられるべきである、ーーただ私はすでに全体を知悉しているから、この成果は私には知られている。したがって世界史が合理的に行われてきたこと、世界史が歴史の実体をなし、永遠に同一の本性を備えて、世界の中にこの本性を顕示するところの世界精神の合理的、必然的なる進行であるということは、初めて世界史そのものの考察から生じた結果であるし、またこれからの考察から生するであろう。(世界精神は精紳一般である。)このことはすでに述べたごとく、歴史そのものの成果でなければならぬ。しかし、我々は歴史をそれあるがままに採らねばならぬ、我々は歴史的、経験的に研究せねばならない。ことに我々は専門の史家によって迷わされてはならぬ。というのは、すくなくともドイツの史家の間には、なお偉大な権威を有し、いわゆる資料研究を大いに自慢している史家の間にさえも、哲学者を非難しながら自ら歴史において先天的捏造を行っている人々もあるからである。一例を挙げるならば、直接に神から教えを受けて完全な洞察と叡智をもって生活し、あらゆる自然法則と精神的真理の透徹した知識を備えた最初の最も古い民族が存在していたとか、ーーあるいはしかじかの僧民族が存したとか、ーーあるいはまた特殊な一例を示すならばーーローマの一抒情詩があって、それからローマ史家が古代の歴史を汲み出した、等々という捏造が広く行われている。ーーかような先天性は多才の専門家に委ねておこう、ことにそういう先天性は我がドイツでは稀れでないのである。

理性と世界の相互規定

そこで我々は第一の条件は歴史的な存在を忠実に把握することであると言っていいであろう。しかし忠実把握するというような一般的な表現は曖昧である。尋常普通の史家でさえも、全く与えられたものに身を委ねて受容的にのみ振舞ふと考え、またそう自認しながら、自己の思惟については受動的ではない、すなわち彼は自己の範疇を持ち込んで、その範疇を通じて目前に在るものを見ている。真なるものは感覚的表面には存しない、ことに学的であるべきすべてのものにおいては、理性を眠らせてはならぬし、また追考を適用せねばならぬ。世界を理性的に見る者にとっては世界はまた理性的な観を呈する。両者は交互的規定に立っている。
 
もし世界の目的が知覚から生ずべきであるといわれるならば、それは正しい。しかし、一般的なもの、理性的なものを認識するためには、理性を携えていかねばならぬ。対象は追考に対する刺激剤である。普通に我々は世界が観察されるままのものであると考えている。我々が主観性のみをもって世界に向かうならば、そのとき世界の状態は我々自身の性状通りに見出されようし、我々はあらゆる場合にすべてのものがいかに作られねばならなかったか、いかに行わるべきであったかを一層よく知るであろう。しかし、世界史の内容は理性的であり、理性的であらねばならぬ。神的意志は力強く世界を支配しており、偉大な内容を規定し得ぬような無力なものではない。この実体的なものを認識することが我々の目的でなければならぬ。そしてこれを認識するためには、我々は理性の意識を携えて行かねばならない、ーー肉眼でもなければ、有限な悟性でもなく、むしろ事象の表面を透徹し混乱せる雑多な諸事件を貫徹する概念の眼、理性の眼を携えて行かねばならない。さてかように歴史を取り扱うならば、これは先天的な取り扱いであって、もとより不穏当であるといわれるかもしれぬ。そのような言葉は哲学には無関係である。実体的なものを認識するためには、我々自身理性をもってそれに向かわねばならぬ。もちろん一面的な反省をもって向かってはならない。かかる歴史を歪曲し、それ自身誤れる主観的見解から生ずるものである。かかる主観的見解は哲学の関するものではない。哲学は、理性が支配者であるという信念をもって、出来事が概念に適合するであろうという確信を抱き、そして今日特に、いわゆる炯眼をもって純粋に先天的なものを歴史のうちに持ち込む言語学者の間に流行となっているごとく、真理を転倒させはしないであろう。もちろん哲学は理念を前提する限り、また先天的にも研究はする。しかし理念は確実にそこに存在している、これこそ理性の確信なのである。

例えばニーブールは彼の政治をローマ史のうちに持ち込んでいるし、またミューラーも彼の著「ドリス族」の中で行っている。