ARCHITECTURE

第三日本

ブルーノ・タウト

森㑺郎訳

Published in 1934|Archived in December 1st, 2023

Image: Bruno Taut, "Alpine Architektur Pl. 6", 1919.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

旧字・旧仮名遣いは現代的な表記に改め、一部の漢字は開き、適時ルビを振った。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ブルーノ・タウト(1880 - 1938)訳者:
題名:第三日本
初出:1934年(明治書房)
出典:『日本文化私觀』(明治書房。1934年。323-338ページ)

FOLLOW US|REFERENCE / INTERACTION

XINSTAGRAMLINKTREE

第三日本なるものが生まれ出でねばならないが、未来の胎内にいかなるものが蔵されているかは分からない。

 

第二日本とは、朝鮮および支那文化を吸収していた当時のあの日本である。

 

第一日本、それは、今日もなお伊勢神宮に認められる、前史文化の独自な吸収同化を行ったあの「大和」時代のことである。最初の朝鮮文化の影響はキリスト紀元当初の数世間にわたるものと推定されているが、支那文化は、約六〇〇年頃仏教の渡来とともにはじめて、積極的に浸透しはじめ、それと同時に新しい思想の勃興を見たのであるが、日本における偉大なる融和総合のかたちが成就したのは、じつにそれよりなお四六世紀後、西暦一〇〇〇ー一二〇〇年頃のことであった。いまも残る素晴しい彫刻、絵画、あるいは源氏物語のごとき文学がそれを立証しているのであるが、建築術の方面では、おそらく平泉の、小さくはあるが、芸術的にはすこぶる偉大な廟、金色堂が残されている。

 

政治的葛藤の繰り返された時代には、もっぱら前代の産み出した創作の破壊が事とされた結果、十七世紀に小堀遠州の作品や偉大な詩人や画家達によって第二日本の復興を招致するのに、なお四五百年を要したのであった。

 

その後再び文化的発展を妨げたのはやはり政治であった。徳川幕府の権力政策は文化的の統一を破壊した。この権力はしばしば芸術を助長することもあったが、それは同時に芸術を権力の奴隷たらしむることを意味していたのである。その結果が、芸術および文化の洗練された自由な発動が個人的な埒内に押し籠められているというような今日の状態となって現れて来ているのである。

 

「第三日本」 それは西欧の、地球上ほとんど正反対の位置にある世界の文化の吸収同化の後に現れる一つの渾一体である。

 

本書の目とするところはまったく文化の問題に限られているのであるが、日本においては「文化」なる語の観念はかなり純粋な姿を止めている。アメリカは論外としても、いずれにしてもヨーロッパにおけるよりも純粋である。平易直截にいうならば、文化とは物尺で測ったり、数字で現わしたりすることのできない事物を指していうのである。

 

一体、第三日本ーー上述のごとき渾一せる文化の国日本の光はすでに、かすかながらもすでに照り初めているのであらうか。

 

率直に答えることが必要であるならば、「ナイン 」と答えざるをえない。

 

国際外交上における日本人の公然たる自賛はますます強くこの否定を確証するばかりであり、かかる自賛そのものもまた単なる模倣にすぎないのである。元来日本の良風にしたがえば、自賛ということは最も厳に禁じられているところで、自分の物はつまらぬもの、賤しきものと謙遜するをもって良しとされているのである。

 

ヨーロッパ文化はその深さにおいて、到底支那文化に比せらるべくもないが、在来の日本文化とはまさに対称の状態にあるものなるがゆえに、日本はそれを同化吸収するには、非常な長期間ーーおそらく百年の時日も短かしと思われるほどの時間を要するであろう。

 

支那に対しては日本人はその自己中心思想を放棄し、それと同時に、支那の文化的潮流の源がインドにあることも認めてきたがここに日本人にとってはなはだ危険な境界線が一つある。それはインドへもまたギリシャ文化の潮流が流れきっているということである。このギリシャ文化の流れは支那の古代彫刻にかなり明瞭に現われているのであって、これは日本の古代彫刻にも認められるところである。「キモノ」と「ゲタ」とは、日本人が、ギリシャ人と相似た美的感覚を持っていたために、進んでギリシャ文化の潮流を吸収同化したことの証左ではないであらうか。まことに問題とするに足るものがある。

 

もちろんこれはことごとく想像であるにすぎない。が、文化感情がインドにおいて一の境界を設けていることははなはだ奇異の感を抱かしむるものがあり、また、全ヨーロッパ文化の母胎もまたインドであることを思うと、ますます不可思議でもある。こうなると、アジアは全然おなじ母胎から生まれた子供であることになり、根本的相違などありえようはずはない。事実、容貌の点ではすでに問題ではないのである。イタリア人、スペイン人、あるいはドイツ人とも、ことにユダヤ人と絶対に区別をつけることのできないような顔をもった日本人は多数にいるのである。すべての日本人が必ずしも黄色い肌をしているわけではなく、仙台近郊の農民はいちじるしく白色である。これと同様のことがしばしば日本人の有する文化にも見られる。日本の農家を見ても、その外見においては、ヨーロッパ各地の農家と驚くほど酷似しているが、それは確かに外部からの影響を受けずに成立したものとしか思えない。ヨーロッパ農家の写真をある日本婦人に見せたとき、彼女は、それが日本のではないということを、いかにしても信じなかったほどであった。この点から見ても、日本人とヨーロッパ人とはお互いに好感を抱き合うことができ、事実、両国人間で幸福な結婚生活に入っている者もすくなくない。だが今日の日本においてヨーロッパ人をして容易に近づかしめないものがあるのは、確かに現代日本の中に文化的混乱状態が存するせいである。私が日本へ来たのは日本の文化への憧憬からであったが、いまはその文化よりもむしろその人間を愛し尊敬する気持になっている。

 

人が、自分は他人とちがうのだと言い張るとき、それは常に自己の弱さの現れである。民族間でもそれは全然おなじことだ。「自己の特殊性」の強調される背後に隠されているものは、劣等感や喪失せる自意識の心理的な煩悶であり、特色を失った顔に歪んだ仮面を被せているのである。商取引の場合に、自国風習の特殊性を楯に取ることは、不正邪悪を行わんとするときに好んで用いられるトリックである。

 

日本人の動作とヨーロッパ人の動作とがしばしば全然反対であること、たとえば人を差招く手振りにしても、我々ヨーロッパ人が人を送り出す場合に用いる手振りをなすといった類のことは多数にあるが、両大陸間の遠大な距離を考えれば、このような外的事象の相違はすべて当然のことであるばかりではなく、距離から見たその思想の絶対的な相似に比しては、じつに取るに足らないことである。両国間の相違のみに重きを置く者はなにかしら悪意を抱いている人々であり、その反対に両国間の相似均等に重きを置く者は好意ある人々であるということは、確かにいいえることであろう。

 

精神的な点では、これに反して、相互間の差異を誤解したり、見ぬ振りをしようとするのは、明らかに罪悪であろう。精神文化というものは、たとえそれが差異を認めようとするものであっても、その背後に潜む「意図」が少なければ少ないほど、ますます力強くなるものである。このような場合には、ほかの世界のかかる精神文化の産み出す精華からこそ、真の知識人は興味を抱くにいたるのである。元来、アジアとヨーロッパの精神生活のあいだには、友愛とはいえないまでも、常に相互の尊敬の念が存していたのであった。東洋は西洋にとってある壁の向こう側に通じて開かれた門のごときものであり、西洋は東洋、とくに日本にとってやはりそうなのである。

 

世界のロゴスが人類の本質の中にかくも相違した要素と互いに補足し合う要素を創造したことは、その最も偉大なる功績である。だがこれらの二要素はその唯一のロゴスの一部分たるにすぎないがゆえに、二要素の優劣を定めたり、あるいはいずれか一方が不必要であり、それを抑圧打倒してもかまわないと考えたりすることは愚もはなはだしき業である。

 

だがこのロゴスに抗する武器はありえない。ロゴスの国にあってはあらゆる武器、あらゆる暴力が打破せられ、したがって金力が塵芥視されるところ、そこにロゴスの国が始まるのである。

 

では、あの世界、東洋と西洋の本質的な相違はどこに存するのか。

 

東洋ーーそれは、ヨーロッパ人にとっては、静の境地である。寂静と宇宙観的瞑想の境地である。東洋人の精神的活動は、まず対称の全体を静観し、じっと決断が自然に盛り上がってくるのを待機するという受動性から生まれるものである。

 

ヨーロッパは、東洋人にとっては、動の境地である。大系的な分析総合、方法論的な思考法と活動、個人の能動性の境地である。

 

東洋的な思考法は、その欠点に対しなんら補償となるべきものがないために、現在表面に現れている世界の諸事象の渦中にあって、まったく後退してしまっている。東洋人自身もそれを自覚しているのであって、その結果ますます熱烈に西洋の文化的所産を目指して、手を差し伸べているのである。

 

だが西欧は、その思考法があまりにも強く合理的なものを、そしてそれゆえにまた技術を強調しすぎる結果に立ちいたったために、その所産がそんなにも激しく摸倣せられ、採用せられている今日、自己に対して懐疑的となり、あの瞑想の境地に近づかんとしつつあるのである。

 

だが、この両大陸は、相互に充分に知り合わぬかぎり、奇怪至極な混乱状態に陥るのである。東洋は、先に日本に関して述べたような皮相的な摸倣に流れ、西洋は、「哲学的」背理、神秘思想に し、ときには、全然無意味な言辞を信じたりするようになるのである。かかる言辞を信じながら、しかもそれが無意味であるということを信仰の理由としている人々さえもここに生じてくるのである。

 

東洋的な瞑想はかかる現象の入るべき余地を全然残していない。このような瞑想は詮索沙汰や神秘思想ではなくて、単に人間の本質は宇宙に基礎を置いているのだという事実を反省するのみである。それゆえ、この東洋的瞑想は西欧の所産の根本ともなっていたのである。しかし決して意識的な教化の結果そうなったのではなく、まったく潜在的なものである。だが欧米の東漸とともにその所産を活用するに欠くべからざる体系的方法が侵入してきた結果、東洋に独自な瞑想的態度ははなはだ朦朧としたものとなり、さらに危険にさえもなってきたのである。

 

西洋文明も、それに合致する理論を伴っていない場合は、大きな危険を包蔵しているのである。西洋文明の諸所産の根本義は一般大衆によって自由に駆使操縦せられえるというところにあるのであって、その理論の最適例はイギリス流のコモン・センスである。コモン・センスはイギリス文明の中に含まれる個人個人の関係をできるかぎり単純化せんとすることから生まれたものである。これを最も明瞭に現わしているのものはyouという語である。独語にはすでにduとSieの区別があるが、イギリスでは大人と幼児の別なく、あらゆる階級を通じて共通に、また動物に向かってさえも、すべて呼び掛けの場合には、ただこの一語があるばかりである。日本語では、これと反対に、二人称を現わすだけでも、莫大な数に上っている。そこにはあたかも富士山の線のごとくに、広い麓から次第に絶頂に達するニュアンスの度合いがあるのだ。富士山をその最も純粋な象徴とする日本人の思想傾向もまた、これと同様に一の尖端における合流を目指しているのである。これはそれだけを切り離してみればきわめて美しい。しかしながら横の結合個人対個人の単純なる関係、コモン・センスが欠けていては、文明との調和はまったく不可能なことである。現代生活においてますます増大しつつある恐慌現象に直面して、いかなる程度までこれらの人生諸相に融合調和したかという試練を経る必要を現代人はもっている。それは事実上現代文化感情に対する試練であるが、日本の日常生活を観察した結果は、残念ながら、この現代文化感情の存在をすこぶる疑わざるをえないのである。ある汽船が沈没した際、多数の乗客、船員の溺死を眼前にしながら、船長のみが救護されたとい記事を読んだときにはじつに愕然としたものである。現代的な考え方からすれば、かかる船長のごときは、将来まったく破廉恥漢としてのみ余生を送らねばならないはずである。

 

コモン・センスの概念はさらにジェントルマンの概念と関係している。往時の「サムライ」なるものが、しばしばいわれているように、実際にジェントルマンと一致するものであったとするならば、なぜ現代の服を着けたサムライが現れないのであるか、これはじつに不思議なことである。いわゆる紳士協定(gentlemanagreement)なるものは、相互のジェントルマンシップに信頼して、書類を用いずに、口頭で契約協定を行うのであるが、それが、日本においては、両者間の一方に支払いの義務があるような場合は、その当事者がかかる協定の当初の前提、すなわち彼自身にも前提されているジェントルマンシップを守らないという結果を見ることがしばしばある。契約ということが通例当初の暫定的な希望と解釈されて、後にいたって、それが残念ながら遵守できなかったと言い逃れるのを常とし、拘束的な義務とは見做されていないのである。それにもかかわらず、日本人といえども、その時間表が上述の意味で「契約」と同様なものと見られるような鉄道は役に立たぬということを良く心得ているのである。

 

かくのごとき現象は、瞑想においては美しい形式となっているあの東洋的な大まかな感情が、弱い性格の者には曖昧模糊の態度となって現われる結果だと私は思っている。この曖昧な態度が、商人根性と結びついて、まず相手を籠絡し、あとになって完全に薬籠中のものとする手段として、商取引に利用せられているのである。

 

ヨーロッパの体系的方法が、温かみなく、偏狭で動揺的な態度を招致したとするならば、日本的瞑想は曖昧模糊の態度を招来したのである。これもまた俗悪低級化の一つである。しかも、できるかぎりすみやかに根絶されねばならぬまったく危険な俗悪低級化にほかならない。

 

とはいえ、私は完全にジェントルマンであり、現代服を着た「サムライ」である現代日本人を二三知っている。また一つ一つの事象の中には、すでにヨーロッパにする完全な理解と最も旧式な優秀な家庭文化との融和さえ現れてもいるのであってーーこここそまさに第三日本への先駆者であるのである。

 

あるとき、二人の日本人が私の家で一時間も私を待たねばならぬことがあった。その中一人はまだ青年で、畳の上に脚を組み合せたまま、本を見たり、身動きをするでもなく、ただじっと座っているのであったが、心に大和魂を持ち、しかもヨーロッパを理解している彼は、この一時間を瞑想的な精神の集中に利用したのである。ところがいま一人の方は、商人であって、すぐに横になって、眠りこんでしまった。この光景こそはじつに明瞭に両者の対照を示すものであろう。

 

西欧文明の所産、機械や機械製品を単に表面的にのみ採用することはもとより正道ではない。その場合には日本の良き伝統に対する 罅隙 こげき はますます拡大されるがゆえに、この道を取るのは誤りである。

 

第三日本への道はまことに精神的ヨーロッパに通じているのである。

 

大多数の日本人が心に強い保守思想を抱いているのであるが、それにもかかわらず、これは真理である。

 

日本人が精神的ヨーロッパに到達するためには、なによりもまず精神的日本から出発しなければならない。同様にヨーロッパ人が精神的日本に到達するには、精神的ヨーロッパから出発しなければならないのである。

 

この道を進むとき、両者は初めて、より豊かとなるのである。ともに、率直明朗な相互扶助が現出し、与える者もまた大いに利するところあるにいたるのであろう。

 

かくいえばとて、それは決して皮相的なインターナショナリズムでも、世界の単一化でも、また全地球を退屈なものにすることでもない。もしかかることを目指すならば、その結果は、非文化の、すなわち床の間の裏側の跳梁を招くに違いない。

 

それはロゴスの命令である。その命にしたがわざるとき、ロゴスは恐るべき報いをくわえるのだ。日本は再びこのロゴスを満足させるように心がけてほしいものである。

 

本書は決して他意あって成立したものではない。すこぶる微力なものではあるが、なんらかの「意図」が背後にあるのでは決してない。いかなる潮流が宇宙に存し、それがいかなる方向に流れているか、それは誰の知るところでもないのである。

 

しかし、日本の文化を愛する者は、感情の命ずるがままを実行せねばならぬ。そこで私は、あたかも医師がとくに好意を抱ける患者に対するごとくに、対症診断を企てたのである。それが正しいかどうか。ことに細部にわたっての判断はしばらくおいておきたい。

 

私はヨーロッパ人として本書を著述したのである。ヨーロッパ人として私は日本の文化を愛し、それゆえにまたヨーロッパ人として、それが永久に愛さるる価値あるものたらんことを希望して止まない。

 

しかしこのことは、日本文化が絶えず発展を続けて、すべて全世界の知識人を悦ばしたところの文化と同様に、燦然と、明朗純粋に、世界の文化創造の工作に資するにいたるときにのみ、ただ可能なのである。

 

日本! この語は今日もなお、その昔ながらの純潔の光輝を放っているのだ。病はまだ軽い。正しき道の見出だされるのもさほど困難ではあるまい。

 

    第 三 日 本

 

にいたる道の見出ださることを心から希望して筆を描く。