カンディンスキイ
昨年〔一九一三〕一二月中旬、ドクトル・ヴォルフスケエル Dr. Wolfskehl によってカンディンスキイ Kandinsky に紹介されてから、学者文人、美術家に多くの知己を得た。諷刺雑誌 『フリイゲンデ・ブレッタア』の語をか〔借〕らずとも、この種の社会は Schwäbinger と名づけられている。大学〔ミュンヘン大学〕以北の町全体の総称であるが、下町から離れること遠い住宅の 区街 で、わるくいえば高等遊民、よくいえば思想家、芸術家の巣窟である処から、頭髪を長くして黒い帽子でも被っていると「あれはシュヴェビンガアだ」という 通語 が出来たのだ。自分もまたこのシュヴァアビング連の社会に出入する機会が多くなった。
カンディンスキイは一八六六年モスクワに生まれたというのだから、もう五十に近い年輩だのに、一見した所、四十を越して間もあるまいと思われる位若々しい。身長は高い方ではなく、 顔全体の表情は態度の謙譲なるにもかかわらず、温厚というよりも、 穎敏 な、感情家というよりも才智に勝った人らしい。近眼鏡をかけた眼は力強く、大きく、 毗 が長く切れて、眉毛の上釣所やなぞ、モンゴオレ〔蒙古人〕の血を受けていると、ヴォルフスケエル氏からきいていたが、なるほどと 諾 かれた。
カンディンスキイは実に話し 巧 である。文字の才能の豊かな人であることは、外国人なるにもかかわらず、立派な 譬喩 に満ちたドイツ文で論文を書くのみならず、暗示に富んだ散文詩をも書いていることで知れる(彼はドイツにおいて教育をうけたのではない。モスクワの大学で 経済学を修め、卒業後も労働報酬問題を興味を以て研究したが、それを 拋 ってミュンヘンに 来 り画家となった、と彼自身の書いた小伝に説いてある)。
彼の芸術論は、その著 Über das Geistige in der Kunst や『 青騎士 』に載っている Über die Formfrage、それから最近ベルリンのSturm〔シュトゥルム〕社から発行された一九〇一年から一三年までの作画集*に添えた、その芸術的変遷を中心とした伝記等で窺われる。新しい運動には抜目のない我が国の文壇のこと故、大概紹介されているかも知れない。自分はいまは、ここに彼自身の口から出た彼の態度を書くにとどめる。
彼の 画 は対象から離れようと試みるものである。 有 ゆる対象は色彩の広さと強さから起こる芸術的効果を高めるために犠牲にされている。それ故、彼は絵画の音楽を作ろうとするものだという批評や、彼は外的対象を離れて 精神の情態 を描くのが目的であるという観方に対して、 仮令 その二つの観方が彼に対する讃辞であるにしても、その画風をこの二つのいずれによっても規定されることを絶対に好まない。
「各芸術はその 根蔕 において異なった表出の方法を有している。したがってそれによって各芸術はその固有の使命を果たさなければならない。一つの芸術が他の芸術に代わろうとする如きは、あり得ないことである。自分を目して絵画を以て音楽を作ろうとするものとせられるのは心外である。 精神の情態 云々に対しては、いかなる美術でもこれなきものは美術でないといえば十分である。自分は要するにいかなる美術的手段よりも最も自分が愛する絵画的手段によって純粋の絵画を作りたいのである。対象に縛られない、純絵画の本質としての、独立したインテンジイフな生命を 齎 すような画面を作ろうとするのが自分の願望である」。
これが彼の信条であり態度である。彼はコムポジチオンと題する最近の作(彼のこの頃の作には対象に因んだ画題のものは少ない。Komposition I, II, IIIという風な番号をつけたものが多い)を示して、この頃 漸 く対象から離れることが出来るようになったと語られた。 啻 にこの 画 にとどまらず彼の近作に対しては、いかなるものが描写せられてあるかを見るべきではなくって、生命のリュトムス〔リズム〕が、色彩の天賦を持った芸術家の、自由な賦彩的創造衝動によって現わされたる美術的運動、旋律、諧調に感入しなければならない。
「音楽は原始時代には舞踊の伴奏だったのが、今日は純なる音の芸術になったでしょう。それを認めながら絵画のみを対象に従属させようとするのは不合理です。ーー
樹木は 木材 になるがために生えたのではありません。樹木は樹木として伸びたいのです。しかるに人間は樹木が木材にならないと 無意味 だといいます」
と彼はつけ加えた。
この日はヴォルフスケエル氏と主人夫婦と四人卓を囲んで茶を飲みながら話した。 夫人は体軀の小柄な色白の婦人で、ミュンタアといって青騎士派の画家として名のうれている人である。
自分はちょうどこの夏パリの山本 鼎 君から、奈良三月堂の絵馬をもらって来たので、それを贈ると非常に喜ばれた。彼の書斎の壁にはこのバイエルン国の中世紀時代の民族的美術ともいうべき硝子絵( Glasmalerei )とて、宗教的礼拝を目的として、聖母子や、キリスト磔刑の図なぞ描かれたるもの多し)が一面に掲げられてある位だから、自分の贈物は彼を喜ばしたに違いない。彼はまた幼少時代、祖父からもらってこれを玩具に遊んだものだとて、 五面六臂 (顔面は五重の塔に 傚 い、上へ上へと重ねられたるものなり)の観音の真鍮像を示された。
自分は、氏のことに関してハウゼンシュタイン氏の『シュトゥルム』紙上に寄せた、カンデインスキイ弁護の手紙を訳したよしを語ると、同氏もこの地に居住しているからとて紹介状を翌日郵便で送ってくれた。