一
私の若い頃の気持は、今の若い人々のそれと何も根本的に変ってはいまい。ともかく過去の日本は古くさく思われ、新しいものをと 偏 えに追った。ほとんど 凡 ての若い者は、反抗的である。これがあるために生長があるのであるから、そういう反抗が何かの意義を背負っていることは否定出来ぬ。ただ若さのために、反抗の内容がとかく皮浅なものに流れるのは止むを得ぬ。年を重ねて思慮が深まれば、行き過ぎのために損もまた大きかったことを気附くのは当然である。だが若い頃は何もそんな反省はなく、 一途 に新しいものに意義を感じ、周囲を振り向こうとはせぬ。外国のものに心酔するのはそのためである。目新しいからである。心酔するほどであってこそ、充分受取れるのだともいえる。こういう心理は若い者の特権ともいえるが、そのままでよいとはいえぬ。若々しさは一生涯あってよいであろうが、それは何も「若さ」で止まれという事ではない。人間は年齢の恩沢に充分に浴すべきであろう。いつまでたっても若いままではこまる。年とらずば、つまり経験や知識を積まぬと分らぬ真理が色々とあるからである。
しかし世界の中で、一番新しさに心酔しているのは日本人ではないであろうか。他国においてすら新しい出来事が、いち早く 伝 って来るのは日本である。言葉や身なりや様子まで、洋化されるその速度はとても早い。こんなにも惜し気なく自国のものを 棄 ててかかる国民は、他にちょっといないかと思われる。なぜそんなに外国を崇拝するのであろうか。この「外国」は、今では欧米の事を意味するが、 旧 くはシナであった。ほとんど何もかも範をシナにとり、シナ通であることが、その当時の教養ある文化人を意味した。それ 故 漢学の素養が何よりも緊要であった。ただこの場合面白いことには、漢学が古典文学の教養をいつも要求した事である。 孔孟 、 老荘 の教え、または詩聖の文章、それに仏典への勉学など、いずれもその教養の欠くべからざる基礎をなした。
かかるシナへの尊敬が、今は西洋へと移った。ただ後者の場合は、必ずしも古典の教養を出発としていないことに著しい違いが見える。今のは精神的な古典より、科学の方が主体である。この相違は、日本の新しい文化内容をずっと物質的なものにさせた。これは二義三義の西洋を追っていることをも意味する。
では何故、かくも容易に西洋崇拝に 堕 ちるのであろうか。一つには在来の因襲がなかなか重く、これから解放されようとするのである。今では日本的なもの、東洋的なものは、 吾々 を縛り、吾々を過去に結びつけるほか、何ものでもないと考えられるからである。それ故西洋的なものに自由さ新しさを感じ、在来の経験や知識にないものを、そこに見出すのである。しかし第二の理由は、前述の如く東洋の文化に見出せなかった科学の発達に驚嘆したことである。今の文化が主としてその上に築かれているため、東洋の立おくれを感じ、従って西洋の優位を見出し、吾々の劣勢を恥じる気持を生じるに至ったのである。かくして驚嘆は崇拝を誘った。それ故西洋化が、文明化を意味するに至ったのは当然な成り行きであった。そうして 何人 も西洋化を進歩のしるしとして疑う者はなかった。この傾向が西洋への追従、 摸倣 を 来 したことは必然である。先進国は前に後進国は後ろに歩く順位を生じ、これが上下の位をすら意味した。これが西洋崇拝を根強いものにさせた心理的事情であると思える。
吾々がこれによって、色々新しいものを教わり、ために生活を一変させ、かつてなかった文明の恩沢に浴するに至ったことは疑う余地はない。軍隊の装備化、政治の体制化、法文の合理化、工業の機械化、文藝の自由化、その他宗教、言語、風俗の近代化等々、いずれも西洋崇拝とその追従の 齎 らす結果であった。それ故この勢いの前に、過去の風や日本的なるもの等は、惜し気もなく棄てられ、多くの者はこのことに矛盾を感じる 暇 すらなかった。
この現象は明治になって顕著となり、今度の敗戦によって一段と拍車をかけた。例えば衣服の変遷、絵画の推移などは、その具体的な姿を明確に反映するものであろう。
二
私どもは文藝の面で『 白樺 』を発刊して、同人相寄って仕事をしたが、よくその歴史が示す通り、扱った文学も絵画も彫刻も宗教も、ほとんど一切が西洋のものであった。例えば美術を例にとるとしよう。その頃私たちは西洋のものの方にずっと詳しく、東洋のものはほとんど貧弱な常識を出ることがなかった。どんなに偉いものがあったとしても、東洋的たるの故に、顧る気持がなかった。おくれた表現だと一口に片附けていたに過ぎぬ。まして、新時代を背負う道とは 如何 にしても考え及ばぬことであった。『白樺』の挿絵はこれのまがいもない表現で、東洋のものを扱い出したのは、発刊してから十余年の後であった。
同じように、キリスト教は私に大きな魅力であった。儒教はもとより、仏教の如きは、全く時代にそぐわぬ宗教に過ぎないと考えられ、将来日本を救うものはキリスト教だと考えられた。もとより漢文を 怠 けたために漢字による古典が、楽に読めぬに引きかえ、聖書の方は翻訳が現代文であるから読みやすい。それで私はキリスト教に関する新しい書物を読み、神学を学び、教会に通い、多くの説教を喜んで聞いた。中学から高等学科にかけての頃である。その頃は実際偉いクリスチャンがいた。 内村 鑑三 、 植村 正久 、 海老名 弾正 その他 錚々 たる説教者がいた。今からすればその当時私が理解したキリスト教の如き、誠に浅いものに過ぎなかったのは事実であるが、それでも受入れようとする気持ちには純なものがあった。ともかくキリスト教は仏教や儒教などよりは、吾々にとって「新しい」ものであることだけでも、魅力があった。おそらくこの「新しさ」こそは、その当時、多くの若い者をキリスト教に誘った原因であったといえる。私もその一例に過ぎぬ。
私は大学において、席を哲学科に置いたが、その頃は哲学とは西洋哲学を意味するもので、東洋哲学などというものは、ごくぼんやりした存在に過ぎないものであり、将来に 活々 した役割を果し得ないもののように思いこんでいた。だからプラトン全集は買っても、一冊の『 起信論 』にさえ、手も触れぬという始末であった。
ところで、キリスト教の勉強は、最初プロテスタントの神学から始まったのであるが、深い思索は、古い時代に 遡 るほど 豊 になることが気づかれ、逆に近代より中世へと遡るに至った。このことが、やがてプロテスタントよりカトリックへと私の注意を誘ったのは 必定 であった。ところでキリスト教真理を追求して行った時、中世紀の思想の中で、私を最も引きつけたのは神秘思想であった。 何故 なら、そこに最も深いキリスト教的体験と思索との結晶を見たからである。私は 能 う限りその文献をあさり、私の書斎はそれらの本で所せまきに至った。(今でもその文献は日本では最も有力なものかも知れぬ。)
ところでその神秘思想家の中で、最も私の心を打ったのは、十四世紀の神学者エックハルトであった。この宗教家は今でも私にとっては第一流の思想家であると思えてならぬ。思索が深遠で鋭利で自由で、その説教のある言葉は、宗教そのものの 箴言 であるとさえいってよい。彼の大胆な 表詮 は当時のカトリックから異端視され、 遂 に追放の 憂 き目に会い、ために彼の本は「読むべからざる文字」として排斥され、カトリックからは全く封じられているのである。当時若い日本人たる私にとって、プロテスタントとカトリックとの反目の如きは、ほとんど問題ではなく、むしろ対立する心の狭さの方が目につくので、カトリックにおける「ブラックリスト」のことも、私にはさしたる問題とならなかった。むしろエックハルトの如き思索者を見棄てる見方の方に、愚かさや不自由さを見ないわけにゆかなかった。 異安人 だといって見棄てるにしては、彼の説教には珠玉の如き言葉が 充 ち充ちているのである。「読むべからざる本」ではなく、 凡 てのクリスチャン、凡ての宗教家が「 須 らく読むべき本」だと思われてならぬ。国境を越えた普遍な真理に充ち充ちているからである。今でも私はその頁を繰ることを楽しむ。人間としてよくもここまで考えぬいたものだと思われる場合が多い。
三
私の東洋思想への排除は、誠に概念的なものであった。別にこれこれという明かな理由もなく、ただ反抗的にそれを過ぎ去ったものとして、始めから棄ててかかったのである。因習の弊害もあることであるから、考えると、 強 ちこの否定に理由のないこともない。しかしそのために、始めから何ものをもそこに見ようとはしないのである。省みると、それは反抗心に 囚 われて、心が不自由になっているからで、必然に一方的な見方に落ちていたのである。実は新しい自由を求めて、新しい不自由に 堕 ちている矛盾に気附かなかったのである。今の若い人々といえども、私のかつてのこの不自由さを、やはり繰り返していることが、どんなに多いであろう。それは若さからくる未熟さの故で、致し方もないのである。それは歳月を待ってのみ改まることなのであろうか。ともかく私にはそうだったのである。
私はここで改めて東洋の古典をむさぼる如く読み始めたのである。ところが何ものもないのだと思い込んでいたそれらの思想の中に、大したもののあることが気づかれるに至った。しかも有難いことにその特色を知る上に、私のキリスト教的教養は非常に役立ったのである。私は今もキリスト教の神秘思想を尊敬して止まぬ。しかしそれであればこそ東洋の思想の深さをも見返し得るに至ったのである。それ故 迂遠 な道草をしたともいえるが、しかし無駄骨を折ったわけではない。道を遠くに求めたればこそ、近くに在ることが分るに至ったのである。今にして思うと東西両洋の思想を幾分なりとも見得ていることは、私にとってどんなに 幸 なことであるか分らぬ。
そうしてキリスト教のみが、新しい東洋を救う力だと思い込んでいたのは、ひとえに新しきものを追う反抗的な若さの故で、決して東洋の思想をよく省みての上のことではない。事実私のそれまでの東洋に関する知識内容は、極めて貧弱でまた皮浅なものであった。実に無智に近いのに、それを過ぎ去った不用のものと、きめこんでいたのである。今でも東洋思想を省みぬ人々に、かつての私と同じような態度を執る人があるかと思われ、一言する次第である。
四
このうち儒教はシナにとっては、最も重要な歴史的意味を持つが、この儒教は倫理的、道徳的色彩の濃いものであって、これは充分に宗教的とはいい難いのである。そうして倫理的な見方は、西洋にも近似したものを見出し得るのであって、ソクラテスの如き、マーカス・アウレリウスの如き、いずれも倫理的思想の濃いものである。
これに比べると道教の方には、ずっと純東洋的な色彩が目立ってくる。「無為 自然 」を説くのであるから、キリスト教などとも大いに違う。それに道者の暮し方とか、道教による神仙的な藝術とか、西洋では見かけぬ表現を持っているのである。この思想が東洋文化に及ぼした影響は決して 些少 なものではない。
しかし何といっても、質からまた量から、圧倒的に力のあったのは大乗仏教である。もとインドに発したものではあるが、むしろシナに来て大成されたといっても過言ではない。その影響にあるのが朝鮮と日本との仏教なのである。朝鮮はどの方面でも保守的で、わずか華禅二宗よりほかに発展しなかったが、日本は沢山の宗派を生み、天台宗や真言宗や禅宗などのほかに、 日蓮宗 とか浄土宗とか真宗とか 時宗 とかいうものは、新しく日本で興った独立の宗派である。
小乗仏教はセイロンとかシャムとかビルマとかに残るが、大乗の方は、本家のインドでは既に亡びたも等しく、チベット、ネパール、シナ、朝鮮、日本に残るのであるが、今日もなお 盛 なのは日本で、十三門派を数える。『大蔵経』の如き大出版が明治以降三回も行われているくらいで、これに比べると近年のシナは決して 活潑 とはいえぬ。今度の中共政治のため、一段と 萎縮 してしまった形である。日本も明治初年頃、廃仏 毀釈 のために、大きな危機に面したが、よく持ち 堪 え、東洋諸国の中で 独 独り日本が大乗仏教の伝統を一番よく守り継いでいる形である。そのうちのある宗派は 大 に衰えを見せているが、ある宗派は今も 盛 に動いていて、明治この方の仏書の刊行も実に 夥 しい数に上る。千五百年のその歴史の間、これが藝術に及ぼした影響は 甚大 で、絵画に彫刻に詩歌に、音楽に演劇に、仏教的要素が極めて著しい事は誰も知る通りである。しかしそれよりも更に注意されてよいと思うのは、日本人の性格、風習、ものの考え方見方に、潜在的に仏教が働いている点で、これは決して根の浅いものではない。このことは西洋人の生活と比べて見ると、如何に異るかが分ろう。吾々は運命的に仏教的血を 以 て生れてきているといってもよい。キリスト教を信じ仏教を嫌う人といえども、日本人である限り、行為、思想に東洋的なものが根強く残っているのは明かな事実であろう。そうして東洋的なものとは、大乗仏教的なものであるのはいうを 俟 たない。東洋人はどの道東洋人で、その東洋の文化の基礎をなしたのが仏教であるから、どんな人といえども、かかる性質から分離しているわけではない。それは丁度 容貌 が東洋人たる特色を持つのと同じだといえよう。米国にいる二世といえども、純西洋的ではない。
五
もっとも宗教のことは、その人の性格や境遇で 主 に決定されるもので、東洋人だから西洋の宗教がいけないというような事はない。それはそれで東洋の生長にまた何か役立つものである。ただキリスト教である場合は、次のことは覚悟してよい。キリスト教は西洋で発達したものであるから、いわば西洋の方が先進国で、そのキリスト教的体験は、西洋の方で熟し深まったものであるから、日本人がキリスト教徒となる限り、西洋人の思想、経験などの 後 を追うことになる。だから今もそうだが、外国の宣教師のいつも下に 在 ることになる。そうして常に教わり従ってゆく位置に立つ。日本のクリスチャンが西洋のクリスチャンを導いてゆくというような時はなかなか来ぬ。それで多くは摸倣に終始することとなろう。よい事は 真似 てもよいのであるから、別にこれでも 差支 えないともいえるが、しかし進んで、日本でキリスト教を更に一歩進めるのでなければ、使命が 果 せぬ。
西洋そのままでは不自然な点もあるから、東洋的なキリスト教というものに進展するのが自然だと考えられる。また日本でなければ生れぬキリスト教となるなら更によい。この日本的なキリスト教となって始めて存在理由が現れるのである。ただの西洋の真似では価値が低い。それは思想的に日本を従属的なものにするに過ぎまい。信仰は自由であるから、何の宗教でもよいわけであるが、いずれも日本的なるものに熟することにおいて、始めて正当な意義を持つのである。そうして進んでそれが世界的な貢献をするようにならねばならない。ただその宗教が西洋的なものである場合、それを日本化するまでには、多くの 紆余 曲折が 要 ろう。
ところで、キリスト教を日本的なものにするとは何なのか。吾々の血で肉で心でそれを 活 かすということであろう。この場合、吾々の血、肉、心には 自 から東洋的色彩があるのであるから、独自の東洋的体験で(即ち西洋的ではないもので)キリスト教を熟させる意味となろう。この場合必然に東洋的気質の基礎をなす仏教などと無関係ではなくなる。
私の考えでは、明治この方、日本人のじかの体験からキリスト教を立てた人として、内村鑑三氏を特筆すべきかと思う。この熱心なクリスチャンは、なかなか敵もあって、よくいわぬ人もあるし、思想的にも狭い所があったのは事実と思うが、しかし 気魄 は 大 にあって、日本からキリスト教を輝かそうとした唯一の人ではなかったかと思う。しかしかかる性格はその背後に日本の古武士的なものに由来する所があったのを、私は気づかないわけにゆかなかった。ともかく東洋的な性格を持ちつづけた所に、独特なものがあり、また、そこから確信を得たのだと思う。同氏のキリスト教は、決して西洋の真似ではなかった。
六
例えばある日本人が英文学を専攻とすると仮定する。随分学問をしても、言語の点でまた根本資料などの点で、英国人の右に出るのは至難であろう。もし可能なら東洋的見方で英文学を批判するということ以外にはあるまい。この場合、東洋的見方とは何か。それは結局、東洋の伝統による見方ということになろう。そうしてかかる伝統のうち最も深いものは仏教的見方であることは疑う余地はあるまい。東洋的見方が深いものである場合は、英国人が近づけぬ批評を完成することが出来よう。そういう独自の批評をなし得ぬ限り、日本人が英文学者になるのは余り意味がない。たかだか啓蒙的な仕事に止まってしまうであろう。これにも 幾許 かの意味はあるが、結局二次的な仕事に終ろう。
私たちは西洋から学ぶべきものは、どこまでも学んでよいが、いつまでも学んでいるのでは意味が 淡 い。学ぶのは、独自の世界を開拓するまでの準備であってよい。学ぶそのことが目的なのではなく、学んだものを自己のものとし、次には、それを他人への贈物とせねばならぬ。この場合、西洋的なものを贈っても意味は淡い。なぜなら西洋的なものは西洋人が贈るのがもっと自然であり、当然だからである。
西洋から吾々が学ぶものがあるが如く、西洋も東洋から学ぶものが多くあろう。日本人の中には、特に若い日本人の中には、日本がどんな贈物を西洋になし得るか、どんな持物を所有するかについて、無智な人が甚だ多い。しかし、それでは日本人としての存在理由が薄い。よく振返れば、東洋的なものの中に世界に寄与すべき新しいものが多々あろう。マッカーサーは日本人はまだ十二歳の年齢に過ぎぬと評したそうである。アメリカはもっと 大人 で、日本はまだ幼稚だと評している言葉なのであろう。たしかにアメリカよりずっとおくれている点があるから、この批評は一理あると言ってよい。しかしどんな面でもアメリカの方が進んでいると考えているなら、それこそ子供らしい考え方であろう。ある文化内容では、日本の方がずっと大人だと言える。吾々がアメリカをまだ十二歳だと評したとて当る部分があろう。伝統の浅いアメリカには、随分幼稚だと思われるものがある。どの国だとて、大人の部分と子供の部分とがあるのである。科学とか、機械力とか、経済力とかでは、日本は十二歳はおろか、五、六歳と言われても仕方ない場合があろう。しかしそんな幼稚なものばかりが日本の内容ではない。まして東洋の内容ではない。 大 に西洋に教えてよいものが沢山あろう。それを深く反省すべきだというのが私の考えである。マッカーサーは東洋思想の深さなどは、てんで頭にないのである。
それに、そう西洋から学んでばかりいないで、まして今のように模倣ばかりしていないで、明治この方一世紀近くなった今日、そろそろ西洋に教える位置に立ってもよくはないか。教えてよいものが多々あるからである。おかしなことに、これを自覚して立つ人が少く、かえって近頃は西洋人の方から東洋に学ぼうと熱心になっている傾向が見える。私は先年米国に旅し、日本の 白木造 りの 平家 が大した影響を与えているのに驚かされた。日本人がそのよさを説いたのではなく、向うで感心しだしたのである。日本の建築家たちは、ひとえに西洋を摸そうとしているから、日本建築の基礎に立って、新しい様式を生み出す人がほとんど出ない。あれば西洋人が日本建築を見直しているので、それをまた真似て、日本風を加味しようなどとしているのである。実に不思議極まる状態だといってよい。どうして日本の建築家たちは、故国の建築から 斬新 なものを自ら 汲 み出して来ないのか。それは西洋崇拝が無意味に連続している弊害だといえよう。近時、焼物の面で東洋が断然西洋を導きつつあるのはどういうことか。これも西洋人自らの要求が致したところで、日本が指導したためとはいえぬ。しかしこれからは、進んで日本の力を示すべきではないか。日本人が日本のものを何でも古くさいと考えている間に、かえって西洋の方で、新しさをそこから汲みとるとは、誠に変態的な現象といってよい。
七
論理的判断とは何か。どういう性質がそこにあるか。それは分析し比較する判断なのである。漢語では「分別」といううまい言い方を使う。分別とは文字が示す通り、ものを分けて考えることである。例えば正しいか正しくないか、上か下か、右か左か、速いか遅いか、遠いか近いか、重いか軽いかなど、 凡 て分別することから起る。そうして判断とは、その一方を選び、他方を 棄 てることである。
なぜなら両者は相反し同一たることが出来ぬ。開いていてしかも閉じているというのは論理的矛盾だからである。醜ければ同時に美しくはない。善と悪とは違う。自分は他人ではない。大と小とは区別される。無は有の否定である。それ故論理の法則は、ものを二つに分け、それが 互 に矛盾し、一致しないという判断の上に立っているのである。それ故逆にいえば、矛盾するもののない世界、二つに分けられない領域については、論理的判断は意味がなくなる。そのことは論理の可能は相対界二元界を予想するということになろう。それ故その判断はいつも相対性、二元性を出ぬ。それは互に、 葛藤 し 反撥 する。それ故、これを闘争から救うために、一方を肯定し一方を否定する。善を取り悪を捨てるのは、そういう働きの現れである。科学は真を取り偽を棄てる学問といってよい。この論理が行われればこそ科学が成立するのである。
だが東洋人の心を傾けた真理とは何か。分別されたものよりも、分別されないものに、注意をよけい向けたのである。分別された世界の悲劇は、 永劫 の闘争ということである。この世界に 沈淪 したら、遂に心の平和はなく、自由はない。それ故、かかる二元のない世界、起らぬ世界、分れぬ世界、つまり 不二 の世界に、最も大なる注意を向けたのである。キリスト教にもこの要求がなかったとはいえぬ。しかし東洋の宗教思想に比べると、 遥 かに少くまた不徹底であった。東洋は分析の上に立つよりも、分析の 未 だ起らぬ世界に立とうとしたのである。この要求は、必然に二元的論理判断に止まることを許さない。不二の考えが東洋で異常に深まったのはそのためである。それ故東洋哲学にとっては「善と悪」の問題より「不思善、不思悪」の境地の方が、もっと重大な問題なのである。それでキリスト教にはちょっと見出せぬ観念、 即 ち「即」とか「如」とか「 只麼 」とかいう言葉が現れて来たのである。ある時はこれを「一」ともいったが、しかし更に「不二」と呼ぶ言い方を好んだ。一は二に対して分別されやすいからである。それ故「不」とか「無」とか「空」とか「非」とか「寂」とかいう言葉が仏典には無数に出てくる。いずれも分別の二を 超 えようとする表詮なのである。それ故これを「 未生 」とか「不生」とかいった。 盤珪禅師 は一切の教えをこの「不生」の二字に託して説いた。「円」(円融)とか「中」( 中観 )とかいう言葉も、 凡 て不二を説こうとする要求から起った言葉なのである。儒教思想を代表する『中庸』においても、「中」とは「未発」と説いてある。仏法では 円宗 を 標榜 するものが少くない。「中」も「円」も「不二」を意味するに 外 ならぬ。 就中 、前述の「即」と「如」とは最も重要な文字であって、その内容の理解に仏教思索を集中させた。そうしてこの思索では実に徹底したものを示した。こんな思想こそ、分別に立つ西洋思想の 識 らない境地であった。これがために科学を促しはしなかったが、その代り大した宗教思想に熟し切った。つまり西洋は分別が主役を勤め、東洋は不二への直観が、一切の出発となっているのである。この不二観こそは、将来東洋から西洋に贈物として届けるべき大切な思素である。これはキリスト教にも、西洋哲学にも、充分な発達の跡がない。大乗仏教の 独壇場 ともいえる。科学では遅れたが、この思想ではずっと先に出ているといってよい。東洋人はどうしてこの特色ある面を遠慮なく活かさないのであろうか。
八
誰も知る通り、仏教では人間に対して神というようなものを建てないのである。なぜなら、そういう神の考えには二元性の 滓 がまだこびりついているからである。そのため仏教を無神論だという人があるが、それは浅い批判に過ぎまい。仏教は有無の二を立てない立場であって、有神無神そのいずれにも属さぬ。有無相即、有無不二に 在 るのであるから、有神論の如きには止まれぬ。同じように無神論にも止まることが出来ぬ。 強 いていえば、不二論とでもいおうか。不二に無上の姿を見るのである。この不二を仮りに神というなら、かかる神はもはや人間に対するもの、被造物に対する造物主ではなくなる。そんな区別はまだ分別に滞る者の判断に過ぎぬ。
しかもこの不二は決して抽象的概念ではなく、人間そのものが 依 って立つ根本的性質なのである。かかるものを本具、本分、 自性 などといったが、人間はかかる本具の性において、既に不二に在るのである。このことを明かにするのが仏教の教学であり、身を 以 て 味 うのがその信仰生活なのである。
日本の仏法は十三派もあるが、しかし不二という思想においては全く一致しているのである。ただこの不二を常識的に理解することが困難なのは、論理的内容ではないからである。つまり普通の論理では手のつけられぬものである。二と不二とは次元が異るといえる。それ故、二で不二を 覗 くことは出来ぬ。ここが説明の尽きるところで、「不言の言」だとか、「無義の義」などというのはそのためである。つまり不二は一切の相対から自由なのである。相対に在っても相対に 囚 われぬものなのである。それ故、一切の場において時において 無碍 なのである。相対する二つのものの葛藤がここに絶える。つまり自由そのものなのである。無碍が不二の当体である。その不二に人間本来の面目があると説くのが仏法である。だから不二を仏性として人間は生れていると説かれる。仏性は不二性に 外 ならぬ。だから不二が仏で、名のつけようがない。名づけ得るものは既に二で不二ではない。「 仏 」とはかかる不二に目覚めた人間を 指 すのである。「覚者」であって、人間を離れた神ではない。
先にも述べた通り、どの仏法も結局は不二の教えに外ならぬのであるが、中でこの不二の説き方に特色のあるのはおそらく禅宗であろう。不二は論理的判断の対象とはならぬから、わずかに詩的表現に託すことになる。または矛盾した言葉をそのまま出すことになる。前者の例。
竹影 堦 を払えど 塵は動かず。
月は 潭底 を 穿 てど 水に 痕 なし。
後者の例。
空手にして 鋤頭 を 把 り、歩行して水牛に 騎 る。人は橋上に在って過ぎ、橋は流れて水は流れず。
ちょっと考えると、わけが分らぬ。分らぬのは分別で分ろうとするからである。論理で 審 こうとするからである。そんな 物指 を許さぬ境地を歌っているのがこれらの詩である。 慧超 、かつて 法眼 益禅師に問う、「如何なるかこれ仏」
師いわく、「 汝 はこれ慧超」(『 碧巌録 』七)
誠に間髪を 容 れぬ、これに分別など加えたら、真理は千里の遠きに去ってしまうであろう。
洞山 初禅師に僧問う、「如何なるかこれ仏」
師いわく、「麻三斤」(『碧巌録』十二)
分別などで読んだら、手もつけられぬではないか。こんな境地を見つめているので、科学が 後廻 しになる。しかし科学で何でも説き得るかというと、 大 にそうでない。ここにまたこの問答の値打ちが光る。誠に東洋的表詮の面目躍如としているのである。こんな問答は西洋には見られぬ。全然新しい思想系として、西洋人が驚嘆するのも無理はない。論理の正確さなどを以てしては、歯も立たぬのである。これは大に東洋的に開拓された道として、西洋に説かれてよい。古い禅は、再び新しい禅となって、世界に容れられるであろう。
九
もとより仏教の特色は禅の 自力門 ばかりではない。これと全く異る道を進むものに他力宗がある。いうまでもなく念仏を称える浄土系の諸宗である。浄土宗、真宗、時宗、これら三派の教えは、いずれも他力の教えを説くが、そのある面はキリスト教と著しく近似する。 凡 てをイエス・クリストに 委 ねることによって、救いを見出すのは、全くの他力道だといえる。イエスを 阿弥陀如来 に置きかえたら、浄土宗があるともいえる。ただ仏法においては、他力の考え方が絶対的なのである。あらゆる二元的立場を断ち切ってあるのである。真宗の如きはこの絶対他力門を標榜するものであるが、例えば同じ他力宗でもキリスト教においては、「神は愛なり」というが、同時に厳しい審判者として考えられる。審判者とは善悪をはっきりさせる分別者を意味する。彼の審判によって正しき者は救われ、正しからざるものは地獄に 堕 ちねばならぬ。つまり正邪の二が明瞭に区別されているのが、その審判である。だがこれを仏教から見るなら、再び二元の分別に執している考えといわざるを得まい。例のミケランジェロのシスティンの壁画にあるクリストの姿を見よ。それは力の 審 きである。 呪 われた多くの悪者が、奈落に沈みゆく光景を見るであろう。仏画にも地獄の描写があるが、意味は大に違い、それは永久の呪いではなく、救われるための 苛責 なのである。だから彼らの 傍 らに地蔵 菩薩 を描くのを忘れない。浄土系の仏法における慈悲の阿弥陀は、決して審判者を意味せぬ。彼の心に善悪上下の差別はない。善も 容 れ悪をも容れるのが弥陀である。だからそれは「 凡夫成仏 」の教えにまで徹する。罪から逃れ得ぬ凡夫を地獄に棄てるのが弥陀ではない。彼の慈悲は、凡夫に善人の資格を要求しない。そんな資格のないのが凡夫ではないか。その凡夫をどうあっても助けようとの誓願を立てたのが弥陀なのである。否、誓願そのものの当体が弥陀なのである。衆生を救わぬ限り「 正覚 を取らぬ」という誓いは、その大願の決意を示すものである。善人をも悪人をも共に容れないような慈悲を、仏法では慈悲とはいわぬ。否、その 済度 の誓願を、悪人の上にこそいや強める。悪人は彼の慈悲の外にいるわけにゆかぬ。
「求めよ、さらば与えられん」などというのは、弥陀の声ではない。求めぬ前に救いが十二分に用意してあるのである。「さらば」というのはおかしい。求めるから与えられるのではなく、与えられているので求めるという方が正しい。 叩 くと否とにかかわらず、開かれる準備は完了されているのである。ここが絶対他力の 所以 である。
ここまで考え及ぶと、キリスト教は新しく多くのものを真宗などから 汲 み取ることが出来よう。何故ならキリスト教で、まだ充分説かれていない他力の教えが、ここで十二分に説かれているからである。「善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人においてをや」というような考えは、そのよい例ではないか。日本の浄土系の三宗は、もっと世界のためにその宗義を宣揚してよい。あの数々の 妙好人 の言行などは、是非とも西洋に伝えたい。それは宗教の最も新鮮なる課題となるに違いない。充分に世界的意義をもつものなのである。
ともかく東洋人が、思想の面で世界に貢献出来るとすれば、それはやはり東洋の伝統の中で熟したものの中に見出されるであろう。西洋的なもので、西洋に貢献しようとするのは望みが薄い。東洋人はやはり東洋人としての立場で仕事をすべきであろう。その方がずっと自然であり、また妥当ではないか。
考えると、世界の平和は東西両洋の相互敬意に見出されねばならない。世界を一色にする事で平和を得ようとしても無理であろう。自然が違い歴史が違うからである。東を西に化してしまうことで、平和が来るのではない。むしろ東と西とに別れていることに特別な意義を見出すべきである。もとより別れるその事が目的ではなく、別れつつも相結ばれるところがなければならぬ。二は一のためだともいえ、一は二あってますます一の意味を深めるともいえよう。それ故お互の尊敬と理解とが必要である。またお互が自らの立場に存在理由を見出さねばならない。
東西に別れて相争うのも、東西をなくすのも共に自然ではない。一方が一方を征服したり従属したりしても、問題の解決はない。やはり東は東のままで、西は西のままで、互が尊敬し合うという事でなければならない。この尊敬こそ二であって二でないものを生み出すのである。それには東は東としての意義を、西は西としての意義を 把握 すべきである。その時こそ東は東であって東でないものを、西は西のままに西に終らないものを現すのである。今日の日本のように、過剰な西洋崇拝は、決して日本を幸福なものにしない。まして確実なものにはしない。その事はやがて西洋にとっても世界にとっても不幸だといえよう。
以上、色々理窟を述べたが、それは 後 から顧みて、これを理智的に整理したまでのことで、もっと大きなまた真実な理由は、東洋人としてその心の故郷である東洋の思想、特に仏教に、おのずから帰る時が来たというに尽きる。ちょっと考えると、説明にも何もならぬようにも思われるが、説明を越えている所があるだけにもっと必然さがあろう。説明ではっきり出来るようなものは高が知れていよう。そうしてこの心の故郷に帰ったことこそ、東洋人としての自覚、確信に私を導いてくれた。私は東洋に特に日本に生れた自分の命数に何よりも感謝するものである。