偶然の諸相
一
偶然が有るとか無いとかいうことがかなり無造作に論議されるのを見受けることがある。いったい偶然というのは何かと問うと、その答は多くの場合、明瞭を欠いている。偶然という言葉の内容する概念を漠然と考えて、そういうものが有るとか無いとかいって論議をする。論議の対象は厳密に云えば必ずしも一つでない。偶然という概念の下に甲は或るものを考え、乙は少しく違ったものを考え、丙は更にまたやや違ったものを考えている。人間について論議をする場合に、甲は直立した動物を考え、乙は笑う動物を考え、丙は理性的動物を考えているようなものである。概念が漠然としていては論議または論争が問題の解決に向って共通の努力であることができない。論議のための論議、論争のための論争に堕してしまう。偶然の有無を論議するためには、論議の対象である偶然の概念を 先 ず 明 かにした上で初めて、偶然が如何なる意味に於て有るか無いかということを論議することができるのである。
偶然という言葉が存在する以上は、偶然という概念の存在することは否むことはできない。問題は偶然の概念が現実に於て妥当性を 有 っているかどうかということである。妥当性の問題は概念とその諸相を明かにするにつれておのずから解決されて行く。それゆえ我々は先ず偶然の概念とその諸相を 闡明 することに力を注がなければならぬ。偶然の概念とその諸相とが明かになると共に如何なる領域に於て偶然が妥当性を有つかということが偶然の各種の形態に関しておのずから開明されて行くのである。
偶然という概念は何を意味しているか。偶然とは必然の否定であるということができる。これは盲目という概念を規定するのに、 目明 の否定であるというようなものであるが、目明の方が我々にとって親しみのある概念であるから、目明の概念を基礎として盲目の概念を闡明することができるのである。それならば必然とはいったいどういうことであるかというに、同一という性質上の規定を様相の見地から言い表わしたものである。それ故に「甲は甲である」という同一律の形式が最も厳密な必然性を表わしている。与えられた自己が与えられたままの自己を保持して自己同一の形を取っている場合に、そういう同一者は他者であり得ないから、自己の在り方を必然的というのである。
同一性、従って必然性はどういう様態を取って現われてくるか。先ず「甲は甲である」というのが根本的な形態である。これは概念と徴表との間に存する定言性である。概念と徴表とが共に甲である点に同一性、従って必然性が存している。 然 るに「甲は甲である」という命題は「甲ならば甲である」という命題へ展開する。第一の命題に於る甲という概念が第二の命題では甲という理由として立てられ、第一の命題に於る甲という徴表が第二の命題では甲という帰結として立てられて来たのである。理由と帰結との間に存する仮説性が「ならば」という言葉で表わされている。そして理由と帰結とが共に甲である点に同一性および必然性が存している。更にまた「甲ならば甲である」という命題は「甲は 甲 であるか 甲 である」という命題へ展開する。なぜならば「甲ならば甲である」という命題は具体的には「甲ならば 甲 である」「甲ならば 甲 である」というような命題を含んでいる。そして「甲ならば 甲 であるか 甲 である」という命題は中核を簡単に言い表わせば「甲は 甲 であるか 甲 である」という命題に帰着するのである。これは全体と部分との関係に基いて各部分の間に存する離接性を表わしている。 甲 と 甲 とは甲という全体にあって離接的な部分を構成している。そして部分である 甲 と 甲 との和と、全体とが共に甲である点に同一性、従って必然性が存している。以上三種の必然性の様態を定言的必然、仮説的必然、離接的必然と名づけることが出来る。
偶然とは必然の否定であるから、定言的必然の否定として定言的偶然があり、仮説的必然の否定として仮説的偶然があり、離接的必然の否定として離接的偶然がある。定言的偶然とは「甲は乙である」という場合に、乙という微表が甲という概念に対して有つ関係である。仮説的偶然とは「甲ならば甲である」という場合に、この命題に対して「乙ならば乙である」という命題が有つ関係、従って甲と乙とが有つ関係である。離接的偶然は「甲は 甲 であるか 甲 である」という場合に、 甲 または 甲 が乙として言い表わされる可能性に基いている。部分としての乙が全体としての甲に対して有つ関係が離接的偶然である。必然性が同一者の同一性の様相的言表であったに反して、偶然性とは一者に対する他者の二元性の様相的言表にほかならない。必然性は「我は我である」という主張に基いている。「我」に対して「汝」が措定されるところに偶然性があるのである。必然性に終始する者は予め無宇宙論へ到着することを覚悟していなければならない。それに反して偶然性を原理として容認する者は「我」と「汝」による社会性の構成によって具体的現実の把握を可能にする地盤を踏みしめているのである。
二
定言的偶然は論理学上の概念的見地を出でないものである。茶柱が立つのはめでたいというような観念は定言的偶然に基礎を有ったものである。煎茶という概念は茶の葉を煮出して飲むものという内包との同一性に於て把握されている。 斯 ような概念の構成的内容に対して捨象された契機が概念の可能的内容をなす場合がある。煎茶は茶の葉を煮出して飲むものである。茶の葉はたとえ茶碗の中へ出て来てもやがては底へ沈んでしまう。その事実が本質的徴表として煎茶の概念の構成にあずかっている。そして茶柱が浮標のようにうかんでいるということは初めに構成された煎茶という概念にとって非本質的徴表が可能的内容として表れているのである。そこに概念の同一性にとって定言的偶然を形成している。偶然が日常性の関心によって「めでたい」と解釈されたのである。四葉のクローバーというようなものも同様である。三葉ということは多くの場合にまたは殆ど常にクローバーに見出されるものであるから、我々は同一性に於てそれを目撃して本質的徴表としてクローバーの概念の構成的内容とするのである。四葉ということはクローバーのの可能的内容をなし得るものあるが、概念との間に同一性を欠く限り、定言的偶然を形成しているのである。偶然であるから、四葉のクローバーは幸福の象徴とされている。人間の皮膚が黒色であるというようなことも定言的偶然である。我々が有つ人間という概念の中には皮膚の色ということは内包として含まれていないか、または皮膚は浅色をしているということが内包の中に含まれている。皮膚の黒色ということは例えばエチオピア人に於て人間の可能的内容をなし得るものであるが、我々の有っている人間の構成的内容ではない。黒い人間が現われた場合、我々は「魔笛」の中の鳥刺の論法に倣って、黒い鳥もあるように黒い人間もあるものだという風にひそかに考えて驚異の情をおさえるのである。煎茶という「我」に対して茶柱は「汝」である。三葉のクローバーという「我」に対して四葉のクローバーは「汝」である。浅色の人間である「我」に対して黒色の人間は「汝」である。「我」と「汝」のあるところに具体的現実もあり社会もあるのである。
定言的偶然は概念の普遍的同一性の包摂機能にあずからないところに生ずるものである。包摂機能は「常に」または「殆ど常に」という図式をもって営まれる。それ故にその機能に捨象された定言的偶然は「常に」および「殆ど常に」の否定として「或るときは」または「 稀 れに」という構造を有っている。偶然を表わす語が「稀れに」ということに根柢を有する場合があるのはそのためである。「わくらばに」という偶然を意味する古語があるが、わくら葉とは夏のころ紅葉のように色づいてうら枯れた木の葉で「稀れに」しか見なものである。「たまたま」の語も偶然を意味すると共に「稀れに」の意味をも有っている。元来「たまたま」は「たま」を反覆することによってその意味を強調しているのである。 然 るに「たま」は「手間」の義であるという。「たま」は「まま」と殆ど同一の意味を有っているから「たま」と「まま」とに共通の「ま」が核心をなしている。「ま」は「間」である。空間的および時間的の間隔である。やがてまた間隔を置いてより存在せぬものを意味する。従って「まれ」なものを意味する。「まれ」とは「間有れ」の約である。「ま」は稀れあり存在せぬものであるから「ま」はまた偶然を意味する。音便で「まん」と言えば更に勝義化される。「まに合う」とは偶然の機会に適合することである。「まがわるい」とは現われた偶然が適合性を欠いていることである。「こんなまになった」とは斯ような偶然の事態に成り行ったことを意味している。要するに「ま」を中核として「まま」も「たま」も「たまたま」も「まれ」もみな定言的偶然に基礎を有った言葉である。
定言的偶然は一般概念に対して存するものである。定言的偶然の存在に対する疑問は、一般的には個々の事実および個物の存在に対する疑問を意味する。個物の存在に対する疑問は、何故に類や種のほかに個物が存在するかという問である。そしてこの問は結局は存在そのものに対する問である。ならば、与えられた種はその内に個物を含まないならば、自己が個物となって、類に対して存在するであろう。その類はまた自己内の特殊を否定することによって、自己が個物となって、上位の類に対して存在することとなる。斯くして、最高類に遡るのである。そして個物を否定して最高類の存在のみを考えるということは、一つの空虚と抽象とを考えることにほかならない。次に定言的偶然が特に例外の形を取って一般概念そのものを危くする場合に対する疑問に対しては、例外を許容する一般概念は固定的静的のも
のではなくて、生成的動的のものとして 寧 ろ一般概念への動向を意味していると答えなければならない。一般概念の有つ普遍性は課題的普遍性である。一般概念と個物との間には動きがある。個物は論理に対して非公約性を有っている。そこに例外の可能性が存するのである。
定言的偶然の存在に対する疑問は問題を新たな地平へ展開させる。茶柱が偶然的存在であるのは煎茶という一般的な概念が思惟された場合においてだけである。自分の飲もうとした茶に茶柱が立っているのは、茶碗の中へ出て来た茶の茎の両端の重さの不均等なことにその原因がなければならない。「クローバー」と「四葉」との結合が偶然的であるのも一般的な概念が思惟された場合に於てだけである。「この」という指示代名詞によって「クローバー」に限定を与えると同時に、一つの特殊なクローバーと四葉との関係はもはや偶然的ではなくなるのである。「このクローバー」が「四葉」であるのは、栄養の状態か、創傷の刺戟か何かの原因がなくてはならない。皮膚の色の相違による人種の差別も「人間」という概念的本質にとっては偶然的である。しかし一つの特殊な人種と皮膚の色との関係は決して偶然的ではない。「この」人種が一定の皮膚の色を有っているのは光線とか温度とかまたはその他に原因がなくてはならない。定言的偶然は論理学上の概念性の次元に於てのみ成立しているものである。我々はこの洞察に基いて定言的偶然から仮説的偶然へ移って行くのである。
三
定言的偶然が純粋な論理的偶然であるに対して、仮説的偶然は勝義に於ては経験的偶然であると見ることができる。さて仮説的関係の基礎をなす理由律はその根柢に於て同一律に根ざすと考え得る限り、同一律と同様に必然性を有っている。然るに理由性が経験界に現象したものが因果性と目的性である。目的性は倒逆的因果性にほかならない。要するに仮説的偶然は経験界にあって因果的偶然および目的的偶然として現われている。因果的必然と目的的必然とが否定される場合に、因果的偶然と目的的偶然とが現象するのである。因果的必然および目的的必然は同一性に於る「我」である。因果的偶然と目的的偶然とは「汝」として「我」に対するものである。
偶然を表わす言葉のうちで、否定語を契機として有っている「ゆくりなく」、「端なくも」、「不図」などはいずれもみな因果性または目的性の否定と緊密な関係を有っている。否定語によって「我」が否定されて「汝」が生れるのである。
因果的偶然と目的的偶然とは 各々 消極的偶然と積極的偶然とに分けて考えることができる。消極的偶然とは一つの事象に関して因果性または目的性の非存在が消極的に目撃される場合であり、積極的偶然とは二つまたは二つ以上の事象間に因果性または目的性の仮説的必然的関係の非存在を見るのみならず更に進んで積極的に他の何等かの関係の存在を目撃する場合である。
目的的消極的偶然には無目的としての偶然と、反目的としての偶然との二通りの場合がある。無目的としての偶然とは単に目的性を否定する場合であり、反目的としての偶然とは実現さるべき目的を肯定すると共に、その目的の非実現を特殊の事例に於て目撃する場合である。第一の単なる無目的の場合に属するものは、機械観的決定論の半面として宇宙の全体に目的的偶然性が主張されるような場合である。例えば澄んだ水や眼は偶然的な混合によって造られたものと考える。水や眼が物の姿を写すことの目的に造られたものでないことは、同じ特性を有った他のすべての表面の滑かな物体と変りない。眼が見えるのは偶然に現在のように組織され、現在のような場所に置かれているからである。そこには何等の目的というべきものは無い。宇宙は目的的偶然によって支配されてる。このように考える場合の偶然が無目的としての目的的消極的偶然である。
第二の反目的の場合は、白痴の如きがその一例である。人間にとって思考活動の存在ということが実現さるべき一つの目的性を意味しているとして、白痴はその思考活動の非存在を意味するから偶然的のものと考えられるのである。また、三葉を有つことがクローバーにとって実現さるべき目的の一つであると見た場合、四葉のクローバーは目的の実現を欠いているから、偶然的のものである。目的的消極的偶然のこの第二の様態は定言性に於る一般概念を目的と見做して目的の実現を要請するところに生じて来るのである。
目的的積極的偶然は例えば樹木を植えるために穴を掘っていると地中から宝が出て来たというな場合である。樹木を植えることが目的で、宝を得ることは目的の中に含まれていなかったから、宝を得たことを偶然というのである。一方に、植木屋が地を掘って樹木を植える行動の系列と、他方に、盗賊が地中に宝を隠匿した行動の系列とがあって、その各々独立した両系列間に目的性以外の何等か積極的な関係が立てたのである。
日常生活にあって偶然といわれるものの大部分はこの目的的積極的偶然である。この場合、積極的に目撃されるものは何であるかというに、目的として立てられはしなかったが、しかも目的たり得べきようなものである。目的的積極的偶然には特に一種「目的ならぬ目的」が強い陰影を投げかけているのが常である。植木屋にとって宝は「目的ならぬ目的」である。目的として目指されはしなかったが、しかも地を掘ることの目的でもあり得たようなものである。もちろん目的的消極的偶然にあっても、目的の非存在が主張される以上は、何等かの「目的ならぬ目的」があって、それに対して「目的ならぬ」ことが、目的の非存在が、特に主張されるのである。 然 しながらその場合に目的の非存在そのものの把握に一切の重点が置かれている限り、目的的偶然は消極性に於て表れるのである。それに反して、目的的的偶然にあっては特に「目的ならぬ目的」の存在が積極的に強調されて目撃されるのである。換言すれば「目的ならぬー目的」という二肢的構造にあって、目的的消極的偶然は上肢を特に強調し、目的的積極的偶然は寧ろ下肢に力点を置くのである。
目的的偶然は因果関係の見地から見れば、何等かの原因の結果として生じたもので、因果的必然性を備えていると考えることができる。偶然の存在を否定する者の中には目的的偶然の蔭に潜む因果的必然を指摘して事足れりと考えている者もあるようであるが、目的的偶然の裏面に因果性の存することは誰れも否定しようとはしない。白痴は目的的消極的偶然であると云ったが、白痴であることは大脳の組織、特に細胞の遺伝質のうちに何等かの原因を有っているであろう。目的的積極的偶然について云えば、土地を掘って宝を得たことは、不透明な土の中に静止していた物品の有つ惰性と、鍬の機械的作用と、更にその土地の地形と地味とに原因が存しているであろう。それ故に目的的偶然は定言的偶然と同じ方向を取って、因果性の問題へ還元されるのである。
因果的偶然のうちで因果的消極的偶然は自由の問題と緊密な関係に置かれている。因果的消極的偶然は非決定的自発性を意味する限り「おのずから」という語によって表現され、目的的必然と結合して自由の意味を取った場合には、「みずから」の語が用いられるのが普通である。非決定性、自発性としての偶然は、目的的必然性としての自由の不可欠条件を構成すると考えることもできる。
自然科学の従来の大体の傾向は因果的必然性の概念によって因果的偶然性の概念を排除しようとしている。たまたま偶然誤差、偶然発生、偶然変異などの概念が生じても、それらは忽ち因果的必然性によって克服されてしまう。これらの概念はもと因果的偶然に関連して出来た。すなわち、偶然誤差は量の測定に於る誤差の原因に関し、偶然発生は生物発生の原因に関し、偶然変異は遺伝質に起る変化の原因に関し、いずれも何等かの意味で偶然性を目撃しようとしたのである。しかし偶然誤差に対しては、因果法則に適する如きものを測定さるべき量として決定することによて、偶然発生に対しては、化学的合成を通路として無機物と有機物との境界を近接させることによって、偶然変異に対しては、変異の原因を実験的に必然化することによって、いずれも偶然性に必然性を置き換えてしまうのである。哲学上の唯物論は自然科学の決定論と提携するのが普通である。
それに対して哲学上、唯心論のうちに非決定論を極力擁護するものがある。その立場から見れば、因果法則は抽象的のものとして科学の実際上の格率であることはできるが、具体的な現実の世界にあっては厳密には適用されない。すべての計量は単に近似的である。絶対の精密に到達することは原理的に不可能である。実験的立証とは結局は諸現象の可測的要素の値を、出来るだけ接近した限界と限界との間に圧縮することに帰する。我々が見るものは謂わば物を入れた容器に過ぎない。物自身ではない。そして我々の粗雑な測定方法の効力範囲を越えた程度の微小の非決定性が諸現象に内在し得る。それがすなわち因果的必然の非存在としての因果的偶然である。
最近の自然科学は超唯物的傾向を示して非決定論に 左袒 する態度を示している。すなわち因果的消極的偶然の観念は、謂わゆる不確定性原理に基いて量子力学的偶然性として肯定されている。その哲学的展望はたしかに遠大なるものがあるに相違ない。 但 し必ずしもすべての有力な自然科学者の承認するところでないのみならず、原理的に云って自然科学的思惟の本質そのものと果してどの程度に相容れるかの点になお疑問が残されることも否み得ないであろう。我々は因果的消極的偶然に関しては自然科学の領域にあっても既にそれを認めようとする傾向のあることだけに注意を向けるにとどめて早計な断定を控えて置こう。
因果的消極的偶然に対してなお因果的積極的偶然の観念がある。たとえば屋根から瓦が落ちて来て、軒下を転がっていたゴム風船に当って破裂させたとする。または隕石が白熱状態で落ちて来て、石油の発源地を発火させたとする。その場合、瓦は屋根の朽廃による固着の喪失か、風力による離脱の促進か、何等かの原因があって、その結果として落下の法則に従って一定の場所へ落ちた。ゴム風船は最初に受けた微小の衝動とゴムの弾性と風船の球形と地面の傾斜凹凸とが原因となって、その結果として運動の法則に従って一定の場所へ転がって来た。因果系列を異にする二つの事象が一定の積極的関係に置かれたことを偶然というのである。同様に、一方に、自然が石油の発源地を存在させた仕事と、他方に、隕石の進行の方向および隕石が地球に接触する地点を決定した力との間には何等の関連がない。各々独立に自己の系列に於て展開する二つの因果関係が一定の積極的関係に置かれたから偶然というのである。二つ以上多数の事象間の積極的偶然にあっても二つの事象間の関係が基礎的原型をなしている。
なお因果的積極的偶然は他の偶然の形態を基礎づけるものである。例えば、茶柱が立つことは定言的偶然であった。しかしそれには茶碗の中へ出て来た茶の茎の両端の重さが著しく均一を欠いているということに因果的必然性が認められた。しかしそういう因果的必然性は恐らく更に因果的積極的偶然に根拠を有ったものである。すなわち一定の茶の葉の集団の中へたまたま一定の形状の茎がまぎれ込んだという因果的積極的偶然が基礎になければならない。また或るクローバーが四葉であることは定言的にも目的的にも偶然と見られるものであった。しかしそれには創傷の刺戟というような因果的必然性が考えられた。しかしそういう因果的必然性は恐らく更に因果的積極的偶然に根拠を有っている。或るクローバーの葉が形態的発生の初期に於て創傷を受けたということは、烈風がたまたまその部分に砂を打ち当てたというような因果的積極的偶然に基いていなければならない。
決定論者は宇宙の一切の事象の関連は投網全体のすべての糸の結び目が龍頭の一点に集中するが如くに考えている。すなわち、すべて偶然と呼ばれるものは二つ 或 は二つ以上の原因が一緒に作用して交叉点を必然的に生じているのであるとか、諸現象の原因のつながりを認識しさえすれば何等の偶然はないわけであるなどと安易に立論をする。そして偶然とは認識不足に基づく主観的迷妄に過ぎないと結論する。もちろん偶然と考えられたものが実は諸原因の必然的結合から生じたのである場合は 屢々 ある。しかしそういう場合を無造作に普遍化して、すべての偶然は諸原因の必然的結合の産物であると推論するところに、却って認識の不足または思惟の幼稚がありはしまいか。偶然などというものはなく、すべては神霊の意によってもたらされたのであると信ずる原始人の心理と、偶然などというものはなく、すべては自然によって決定されたのであると信ずる自然科学的決定論者の心理とは不思議な類似を示している。すべての目的的偶然の裏面に目的的必然を考えないではいられないのと、すべての因果的偶然の裏面に因果的必然を考えないではいられないのとは素朴的独断論という点に於て軌を一にしている。
目的的積極的偶然と因果的積極的偶然とは偶然性の顕著な様態である。二つまたは二つ以上の事象間の関係が偶然であると考えられるのであるから、積極的偶然は相対的偶然とも云われる。また偶然はすべて相対的であるとも考えられる。そして積極的相対的偶然の積極性と相対性とは動的相対性として遭遇または邂逅の意味を取って来る。偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。偶数とは一と一とが遇って二となることを基礎とした数である。偶然の偶は偶坐の偶、配偶の偶である。偶然性の核心的意味は甲と乙との遭遇である。「我」と「汝」との邂逅である。我々は偶然を定義して「独立なる二元の邂逅」ということも出来るであろう。「行当りばったり」「廻り合せ」「仕合せ」「まぐれ当り」などいう偶然に関する言葉は相対的積極的偶然を暗示してるのである。
問題を展開するために我々は 仮 りに決定論の立場に立って見よう。交叉点の成立に関して出来るだけ偶然を除外して考えて見よう。丙点で甲と乙とが交叉する場合、例えば街上或る地点で甲の男と乙の男とが出逢った場合、甲は 甲 を、 甲 は 甲 を原因とし、乙は 乙 を、 乙 は 乙 を原因とし、 甲 と 乙 とはSを共通の原因に有っていると考えよう。そうすれば甲と乙との邂逅は厳密なる意味で偶然とは云えない。然るにS自身はまたMとNとの交叉点を意味している。そこに偶然の余地がある。しかしそのMを含むM M M の因果系列と、Nを含むN N N の因果系列とは更に共通の原因としてTを有つと考えることができる。然るにそのTもまた一つの因果系列と他の因果系列との交叉点を意味している。そこに偶然の余地がある。しかしその二系列にはまた共通の原因があると考え得る。斯くして我々はXに遡る。このXとは果して如何なるものであろうか。我々は経験の領域にあって全面的に必然性の支配を仮定しながら理念としてのXを「無窮」に追うたわけである。然しながら我々「無限」の彼方に理念を捉え得たとき、その理念は「原始偶然」であることを知らなければならない。斯くて問題は仮説的偶然の経験的領域から、離接的偶然の形而上学的領域へ移されるのである。
四
「甲は 甲 あるか 甲 である」という命題が離接的命題であった。部分としての 甲 および 甲 が全体としての甲に対して有つ関係が離接的偶然である。その関係に基いて部分の偶然性はこの部分でもかの部分であり得るという性格を有っている。 甲 は 甲 でもあり得る。 甲 は 甲 でもあり得る。
「たまたま」という語は「儻」の字をもって当てられることがあるが、儻は「或然之詞」すなわち「もしくは」とか「或は」とかを意味する。それ故に儻の字の意味する偶然は「 甲 或は 甲 」の場合の偶然、すなわち離接的偶然でなければならない。例えば「心には忘れぬものを 儻 も見ざる日 数多 く月ぞ経にける」という場合、全体としての一年は部分として三百六十五日を含んでいる。仮りに某月某日、相見たとしたならば、それは三百六十五の部分の中の一つに当っているので、他の部分としての他でもあり得たのである。然るにそれは儻某月某日あったのである。某月某日であったことは全体としての一年に対して偶然性を有っている。その偶然とは離接的偶然にほかならない。
すべて偶然の遊戯は離接的偶然の観念に基いている。賽ころの現わす一定の面を偶然の性格を有つものとするのは、他の五あり得たと考えるからである。なるほど確率論はそこに何等かの恒常性を求めて偶然を除外しようとするであろう。然しながらその謂わゆる偶然の除外とは何であるか。確率とは何であるか。一事象の生起の確率とは、その事象の生起に都合の良い偶然の機会の数が、偶然の機会の総数に対する比をいうのである。すなわち、都合の良い偶然の機会の数を、偶然の機会の総数で割って得る商が確率である。それ故に、賽の遊戯に関して確率論が規定するところは、一定の賽の目の現出および不現出のすべての偶然的な機会と、その目の現出する「都合の良い」偶然的な機会との間に存する数量的関係に過ぎない。それには、賽ころが完全に同質で相称である場合と、完全さが幾らか欠けている場合とによって相違があるが、完全であると仮定して、先験的確率として立てられる蓋然法則はただ各々の賽の目が現われることに 1 6 の確率があるというだけである。六回に対して一回現れることが蓋然的であるというだけである。しかもこの理論上の数量関係は実際においては無数の場合の総和に於て理念的に妥当するだけである。回数が少なければ極端に片寄ることまでもあり得るのである。またもし、その賽ころを例えば一万回に亘って実験して見た結果、一の面の確率が 9 60 で、反対の側の六の面の確率が 11 60 であることがわかったとすれば、それが謂わゆる経験的確率である。この場合、経験的確率はさきの先験的確率 1 6 よりも客観的価値を多く有っているわけであるが、しかし、結局は同じ性質のものである。確率の先験性、経験性のいずれに 拘 らず、蓋然法則は謂わゆる巨視的地平に於て成立するので、微視的地平に於て各々の場合にどの目が出るかという偶然的可変性は依然として厳存しているのである。しかも偶然の偶然たる所以はまさに微視的なる細目の動きに存している。その点に、偶然性の問題の哲学的提出に対する確率論の根源的無力があるのである。
もとより、微視的に見て、個々の場合に賽の現わす面は賽、投げ方、空気の抵抗、投げ出される平面などの物理的性質によって必然的に規定されているでもあろう。然しながら、究竟的な立場に於て、他の必然性の因果系列をも取り得たと思惟し得る点に、いま現実として与えられた因果系列が必ずしも絶対性を有っていないと思惟し得る点に、依然として偶然性が存するのである。
離接的偶然は究竟的には形而上的背景と展望とを有って浮出て来る。離接的偶然が究竟的に成立する形而上学的次元にあっては、このクローバーが三葉でなくて四葉であることも厳密なる偶然であり、浅間山が断層山でもなく 褶曲山 でもなくて火山であることも偶然である。豊臣秀吉が京都でも大阪でもなく、またその他何処でもなく尾張の中村で生れたことも偶然である。また我々は無数の異った我を含んだ無数の世界があり得たと考えることが出来る。我々はアメリカ人でもフランス人でもエチオピア人でも印度人でも支那人でもその他のいずれの国人でもあり得たである。我々が日本人であるということは偶然である。我々はまた虫でも鳥でも獣でもあり得たとさえも考え得る。虫でもなく鳥でなく獣でも人間であることは偶然である。大海に潜む寿命無量の盲の亀が百年に一度その頭を出す。また唯一の孔ある浮木が海中に漂うて風のままに 東 し西する。人間に生れることは、この盲の亀が頭を上げたとき、たまたまこの木の孔に遇うようなものであるという譬は汲んでも尽きない形而上的の味を有っている。一離接肢が現実として眼前に措定されたとき、離接的偶然としての原始偶然が一切の必然の殻を破ってほとばしり出るのである。原始偶然は形而上的遊戯の賽の目の一つである。原始偶然は「我」に対する原始的「汝」である。しかもその「汝」は先ず最初に「我」の中に邂逅する「汝」である。
以上に於て偶然の概念をその諸種の形態に於て考察して来た。偶然の諸相を理解することは偶然の本質および意義を会得することと同じではないが、一方には偶然の本質および意義の会得へ到る道程を構造し、他方には偶然の有無を論議する不可欠条件を形成するものである。偶然の本質と意義とは必然のほかになお可能および不可能との関連を全般的に究明し、且つ時間の地平に於て問題を展開することによって把握されなければならない。