PHILOSOPHY

構想力の論理

三木清

 

Published in Feburary, 1946|Archived in January 10th, 2024

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EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原文ママ。
底本を『三木清全集』から文庫に編入した際に岩波文庫編集部によって施された①旧字・旧仮名遣いの現代的な表記への変更②一部漢字表記の平仮名への変更③編者・藤田正勝によって付された本文中の補足(〔 〕内)はそのまま活かしたが、(1)岩波文庫編集部によって付されたルビの一部(2)編者・藤田正勝によって本文外に付された注解の全部(3)筆者・三木清によって付された膨大な出典の全部を割愛した。
ARCHIVE編集部による補足を〈 〉内に入れ、一部の漢字にルビ(ex. 漁撈)を付した。
(とりいそぎ)全部で四章ある論文のうち最初の序と一章を収録した。
底本の行頭の一字下げ・見出しの三字下げ・六字下げは一字上げ・三字上げ・六字上げに変えた。

BIBLIOGRAPHY

著者:三木清(1897 - 1945)
題名:構想力の論理
初出:1946年(『構想力の論理』。本稿「神話」論文は雑誌『思想』〈1937年5月〉が初出)
出典:『構想力の論理 第一』(岩波書店。2023年。9-116ページ)

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構想力の論理 第一

ここにその第一冊を世に送る構想力の論理についての論文は、雑誌『思想』に連載されたものである。種々の事情から余儀なくされた中断の後、再びそれを書き続けようとするに当たって、私は読者のために、しかし何よりも私自身のために、すでに発表された最初の三章を一冊に纏めておく必要を感じた。それはもと研究ノートの形で書かれたものであるが、いま若干の補修をなすにとどめてそれを原形のままで刊行することにした。完全な体系的叙述はこの研究が最後に達したところから始まらねばならぬ。叙述はここにまず現象学的な形において行われ、しかる後純粋に論理的な形に進むであろう。
 
研究ノートとして書き始められたこの論文のやや錯綜した論述の中で読者に道を示すために、私はこの序において私の意図が何処にあるかを簡単に記しておこうと思う。それは私の近年の思想的経歴を要約して述べることにほかならない。もちろん、今後この論文を書き続けるに従って私の方針にも変化発展が生ずることであろうと思う。それは私のように、考えてから書くと云うよりも書きながら考えてゆくという習慣を有する者にとっては、当然のことである。
 
前著『歴史哲学』の発表(一九三二年)の後、絶えず私の脳裡を往来したのは、客観的なものと主観的なもの、合理的なものと非合理的なもの、知的なものと感情的なものを如何にして結合し得るかという問題であった。当時私はこの問題をロゴスとパトスとの統一の問題として定式化し、すべての歴史的なものにおいてロゴス的要素とパトス的要素とを分析し、その弁証法的統一を論ずるということが私の主なる仕事であった。この間の事情は私の論文集『危機に於ける人間の立場』(一九三三年)において特徴的に示されている。合理的なもの、ロゴス的なものに心を寄せながらも、主観性、内面性、パトス的なものは私にとってつねに避け難い問題であった。パスカルが私を捉えた(『パスカルに於ける人間の研究』一九二六年)のも、あるいはまたハイデッゲル〔ハイデガー〕が私に影響したのも、そのためである。私の元来の歴史哲学的関心か唯物史観の研究に熱中した時(『唯物史観と現代の意識』一九二八年)においてさえ、唯物史観の人間的基礎を求めようとしたのも、やはり同じ心に出たものである。ロゴス的なもののためにパトス的なものを見失うことなく、しかしまたパトス的なもののためにロゴス的なものを忘れないという私の要求は、やがてヒューマニズムの主張の形をとるに至った。いわば人間学からヒューマニズムへ進んだのであり、その時期を現しているのが私の評論集『人間学的文学論』(一九三四年)である。
 
すでに云ったようにロゴスとパトスとの統一を対立物の統一として弁証法的統一と考えることは、たとい誤りでないにしても、余りに形式的に過ぎるということは、私自身つねに感じていた。多くの人の手によって弁証法が一種の形式主義、いわば新しい形式論理、便宜主義にさえ堕落させられてゆくのに対して、私も反感をもたざるを得なかった一人である。ロゴス的なものとパトス的なものとは弁証法的に統一されるにしても、その統一は具体的には何処に見出されるのであるか。単なる論理的構成にとどまらないその綜合は現実において何処に与えられているのであるか。この問題を追求して、私はカントが構想力に悟性と感性とを結合する機能を認めたことを想起しながら、構想力の論理に思い至ったのである。かくして私は私の年来の問題の解決に近づき得るかも知れないという予感に導かれながらこの研究ノートを書き始めた(『思想』一九三七年五月)。しかしその最初の章「神話」を書いていた頃の私にとっては、ロゴスとパトスとの綜合の能力として構想力が考えられたまでであって、一種の非合理主義ないし主観主義に転落する不安があり、この不安から私を支えていたのは、「技術」という客観的な合理的なものがその一般的本質において主観的なものと客観的なものとの統一であるという見解に過ぎなかったと云える。しかるにやがて「制度」について考察を始めた頃から、私の考える構想力の論理が実は「形の論理」であるということが漸次明らかになってきた。ギリシア哲学、特に最近アリストテレスを取り扱った(『アリストテレス形而上学』一九三五年、『アリストテレス』一九三八年)ことが、その点について私の思想を進めることになった。構想力の論理といういわば主観的な表現は、形の論理といういわば客観的な表現を見出すことによって、私の思想は今一応の安定に達したのである。かようにして私は私自身のいわば人間的な問題から出発しながら、現在到達した点において西田哲学へ、私の理解する限りにおいては、接近してきたのを見る。私の研究において西田哲学が絶えず無意識的にあるいは意識的に私を導いてきたのである。もっとも、私のいう構想力の論理と西田哲学の論理との関係については、別に考えらるべき問題があるであろう。
 
この論文の意図について誤解を除くために、また展望を与えるために、さしあたりなお次の二三の点を取り立てて記しておこう。
 
構想力の論理によって私が考えようとするのは行為の哲学である。構想力といえば、従来ほとんどつねにただ芸術的活動のことのみが考えられた。また形といっても、従来ほとんど全く観想の立場において考えられた。今私はその制限から解放して、構想力を行為一般に関係附ける。その場合大切なことは、行為を従来の主観主義的観念論におけるごとく抽象的に意志のこととしてでなく、ものを作ることとして理解するということである。すべての行為は広い意味においてものを作るという、即ち制作の意味を有している。構想力の論理はそのような制作の論理である。一切の作られたものは形を具えている。行為するとはものに働き掛けてものの形を変じ(transform)て新しい形を作ることである。形は作られたものとして歴史的なものであり、歴史的に変してゆくものである。かような形は単に客観的なものでなく、客観的なものと主観的なものとの統一であり、イデーと実在との、存在と生成との、時間と空間との統一である。構想力の論理は歴史的な形の論理である。もっとも行為はものを作ることであるといっても、作ること(ποίησις〈poiesis〉)が同時に成ること(γένεσις〈genesis〉)の意味を有するのでなければ歴史は考えられない。制作(ポイエシス)が同時に生成(ゲネシス)の意味を有するところに歴史は考えられるのである。構想力の論理は形と形の変化の論理であるが、しかし私のいう形の哲学は従来のいわゆる形態学と同じではない。形態学は解釈の哲学であって行為の哲学ではない。また形態学の多くが非合理主義的であるに対して、私のいう形の哲学はむしろ形相学(Eidologie)と形態学(Morphologie)との統一であり、しかも行為の立場におけるそれを目差すのである。
 
従来の論理も、恐らく近代科学に拠り所を求めた論理を除いては、すべて形の論理であったといい得るであろう。形式論理を完成したと称せられるアリストテレスの論理は、もと形あるいは形相(イデア、エイドス)を実在と見たギリシア的存在論と結び附いた形の論理であった。けれどもその場合形は不変なものと考えられて歴史的なものとは考えられなかった。弁証法を大成したといわれるヘーゲルの論理も、根本において形の論理であり、ヘーゲルはそれに歴史的な見方を入れたが、しかし彼もまたギリシア的存在論と同様、観想の立場に止まって行為の立場に立っていない。彼の弁証法も反省の論理もしくは追考の論理であって、行為の論理、創造の論理ではない。構想力の論理は形の論理としてアリストテレスやヘーゲルの論理につながるのであるが、それは形を歴史的行為の立場において捉えるのである。しかし構想力の論理は形式論理やヘーゲル的弁証法を単純に排斥するのでなく、かえってそれらを包括する。構想力の論理は原始論理(Urlogik)として、それらを自己の反省形態として自己の中から導き出すのである。
 
構想力の論理は行為的直観の立場に立ち、従来の哲学において不当に軽視されて来た直観に根源的な意味を認めるであろう。けれどもそれは単なる直観主義であるのではない。真の直観とは反省によって幾重にも媒介されたものである。それは無限の過去を掻き集めて未来へ躍入(ルビ:やくにゅう)する現在の一点である。しかしながら構想力の論理は単にいわゆる媒介の論理であるのではない。媒介の論理は結局反省の論理に止まって、端的に行為の論理であることができぬ。それは、そこではあらゆる媒介が結局抽象的なものとされ、そしてあらゆる媒介が一つの形に集中される最も生命的な跳躍の一点を過してしまうのである。そのことは芸術における創作作用において、また一般に技術における発明において明瞭であろう。そして人間のあらゆる行為は、これを環境に対する作業的適応と見るとき、すべて技術的であると云わねばならぬ。技術の根本理念は形である。かようにして構想力の論理を技術と結び附けて考えるならば、形の論理と科学との関係が理解されるであろう。技術は科学を基礎とし、近代科学の発達によって近代技術の目覚ましい発展は可能にされた。そこから考えられるように、構想力の論理は科学の論理に媒介されることによって現実的な論理に発展し得るのである。
 
固有な意味における科学の理念は近代に至って生まれたものであるが、それ以前においても技術はもとより存在した。それは科学が発達しなかったといわれる東洋においても存在した。技術は人類の文化と共に古く且つ普遍的である。近代科学も技術的要求から生まれたのであり、またつねに技術的目的に適用されている。従って技術の理念であるところの形の理念に定位をとる文化の理念は、科学の理念に定位をとる文化の理念よりも普遍的であり、科学もそのうちに要素的に包括されるのである。近代的ゲゼルシャフト以前のゲマインシャフト的文化の理念は形の理念であったと見ることができる。今日、科学の理念に定位をとった近代のゲゼルシャフト的文化の抽象性が指摘され、新しいゲマインシャフト的文化が要求されているとき、構想力の論理は新文化の創造に対して哲学的基礎を与え得るであろう。しかしこの新しいゲマインシャフトはゲゼルシャフトに抽象的に対立するのでなくかえってこれを止揚したものでなければならぬように、形の論理も科学に抽象的に対立するのでなくかえってこれに媒介されたものでなければならぬ。
 
形の論理は文化の普遍的な論理であるのみでなく、それは自然と文化、自然の歴史人間の歴史とを結び附けるものである。自然も技術的であり、自然も形を作る。人間の技術は自然の作品を継続する。自然と文化あるいは歴史とを抽象的に分離する見方に対して、構想力の論理は両者を形の変化(transformation)の見地において統一的に把握することを可能にする。自然から歴史を考えるのでなく、歴史から自然を考えるのである。そこからして構想力の論理はまた、これまで数学的自然科学に対して不当に蔑視されてきた自然並びに文化に関する記述的科学にその正当な位置を与えることができるであろう。
 
ゲマインシャフト的文化が一般にそうであるように、東洋文化の理念も形であったと云うことができる。しかるにギリシアにおいては形が客観的に見られ、「概念」を意味するようになり、かくして近代科学と結合されるに至ったのに反し、東洋においては形は主体的に捉えられ、かくして象徴的なものと見られた。形あるものは形なきものの影であり、「形なき形」の思想においてその主体的な見方は徹底した。この思想は我々にとって重要である。形は形に対して形であり、それぞれの形は独立である、かような形の根柢にあってそれらを結び付けるものは近代科学の理念とされる法則のごときもの、何らか客体的に捉えられ得るものでなく、かえって形を超えた形、「形なき形」でなければならぬ。形は主観的なものと客観的なものとの統一であるといっても、構想力の論理はいわゆる主客合一の立場に立つのでなく、かえって主観的・客観的なものを超えたところから考えられるのであり、かくして初めてそれは行為の論理、創造の論理であることができる。ただ東洋的論理が行為的直観の立場に立つといっても、要するに心境的なものに止まり、その技術は心の技術であり、現実に物に働き掛けて物の形を変じて新しい形を作るという実践に踏み出すことなく、結局観想に終わり易い傾向を有することに注意しなければならぬ。ここにそれが科学及び物の技術の概念によって媒介される必要があるのである。
 
右の思想はもとより十分に展開されねばならぬ。私の研究はさしあたり現象学的であり、それも漸くその緒についたばかりである。私はまず神話、制度、技術の三つのものを取りあげたが、私の目的はそれらを主として構想力の論理の見地から取り扱うことであるから、独立の神話論、制度論、技術論としては不完全であることを免れない。私の目的から云っても、それらについてなお考うべき種々の問題があるであろうが、不備な点は論述の進むに従って補ってゆこうと思う。
 
  一九三九年七月

東京に於て  
三木 清

第一章 神話

「構想力の論理」Logik der Einbildungskraftという語はバウムガルテンに由来している。それは「想像の論理」Logik der Phantasieとも呼ばれた。カッシレル〔カッシーラー〕に従えば、想像の論理という概念はバウムガルテンの弟子マイエル(Georg Fr. Meier)及びテテンス(Tetens)によってドイツの心理学のうちに根をおろし、カントにおける「判断力の批判」Kritik der Urteilskraftもこれと関聯を有している。すでにパスカルは理性の知らない「心情の論理」logique du coeurを見出した。現代においてもリボーの「感情の論理」logique des sentimentsあるいはハインリヒ・マイエルの「感情的思惟の心理学」Psychologie des emotionalen Denkensの説のごとき、いずれも抽象的思惟の論理とは区別される論理について述べている。果たしてかように理性の論理と異なる論理は存在するであろうか、存在するとすれば、それは如何なるものであろうか。ここに構想力の論理という名称を復活させて研究を始めようとするのは、その問題である。我々の意味する構想力の論理は、リボーの感情の論理、マイエルの感情的思惟の心理学等に対して如何なる聯関を有するであろうか。それは溯って形式論理と如何なる関係に立っているであろうか。更に一層重要な問題は、普通に弁証法といわれるものと我々のいう構想力の論理との関係を明らかにすることである。弁証法こそ一般に形式論理と異なる論理であると認められている。
 
およそ形式論理と異なる論理の考えられねばならぬ理由には種々のものがあるであろう。詳細は後の論述に俟たねばならぬが、研究の出発点において我々の立っている問題状況を示すために、さしあたりその若干の理由を挙げてみよう。
 
まず形式論理の抽象性が指摘され、これに対して何らかの具体的な論理が要求される。いわゆる形式論理の抽象性は何処に存するのであろうか。形式論理はその根源において形相 forma を実在と見たギリシアの存在論と密接に結び附いている。形式論理にいう形式はもと形相の存在論と関係している。従ってもし具体的な物は形相と質料とから成るとすれば、形式論理は物の論理でなく、物の論理としては抽象的であると云われるであろう。ロゴスあるいはヌースはアリストテレスにおいて物から質料を置き去りにして形相のみを受け容れる能力と考えられた。形式論理はいわば単純にロゴス的な論理である。しかるに我々が物そのものに、その物質性における物に突き当たるのは身体によってである。我々は物として物に突き当たる。いまその主体性における身体をパトスと名附けるならば、物の論理は単純にロゴス的な論理でなくて同時にパトス的なものに関わらねばならぬであろう。従来の論理学においては思惟の基礎もしくは前階に知覚が置かれ、我々がそれによって物そのものに触れる感覚はほとんど顧みられなかった。感覚が問題にされることがあったにしても、感覚も知覚や思惟と同様ただ知的な意味において捉えられ、感覚が同時にパトス的な意味を含むことは問題でなかった。ひとが「身をもって考える」場合、身体を有する人間として行為的に思考する場合、形式論理は抽象的であると云われるであろう。そこに主知主義のギリシア的論理に対して感情の論理のごときものがなければならぬように思われる。
 
形式論理は知識の論理であるとしても、行為の論理ではあり得ないであろう。行為するというとき、我々は身体をもって物そのものに突き当たるのである。行為には身体が必要であり、また行為の対象は抽象的一般的なものでなく、個々の具体的なものである。従って行為の論理は何らか形式論理と異なるものでなければならぬ。しかしそれは構想力の論理のごときものであり得るであろうか。感情の論理といい、構想力の論理というとき、普通に考えられるのは美あるいは芸術の領域である。バウムガルテンは想像の論理によって美学の基礎附けをした。カントが判断力の先験的構造のうちに求めたのも美の法則性の根拠である。かくて構想力の論理のごときものが認められるにしても、それは美の論理あるいは芸術の論理であって、行為の論理とは考え難いようである。しかしながら、もしすべての行為がやがて論ずるごとくポイエシス(制作)の、言い換えると表現的行為の意味を有するとしたならば、行為の論理は、従来単に芸術的表現について考えられたに過ぎぬ構想力の論理がそれであると云い得るであろう。もとより我々はいわゆる審美主義の立場を承認しようとするのではない。かえって表現の根本的な意味を明らかにすることによって、芸術のみでなく一切の行為を認識作用をも含めて、その根柢において理解し、かくして構想力の論理を表現的世界一般の論理として美の領域への拘束から解放して、道徳や理論、特に理論と実践との関係のうちに示すということが、我々の問題である。
 
ところで行為は本質的に社会的である。そして形式論理と異なる論理が要求されるに至ったのは特に集団心理に関してであった。形式論理は単に個人的なものでなく、超個人的普遍性を有すると云われるであろう。しかしそれはまさにそのことによって歴史的限定を離れた人間、永遠な抽象的本質としての人間を前提する。歴史的な社会の心理、これによって制約された人間の心理の具体的な活動は形式論理を超えている。言語、神話、風俗、慣習、制度、等、すべて集団心理の産物と見られるものは形式論理によっては捉えられない。歴史の主体は元来いわゆる客観的精神でなければならぬとすれば、形式論理は歴史の論理であることができぬ。弁証法は歴史の論理と見られているが、我々が今ことさら構想力の論理というものを持ち出そうとするのは、歴史個人的なものに還元しようと欲するのでなく、むしろ反対である。しかし歴史の主体は抽象的一般的なものでなく、また単なる精神ではない、それはいわば社会的身体を具えたものであり、身体性によって個別化されたものである。またあらゆる歴史的なものは環境において存在し、環境に働き掛けると共に環境から働き掛けられる。それは環境を限定すると共に環境から限定されることにおいて同時に主体として自己を自己によって限定してゆく、そこに歴史的な形が作られる。構想力の論理はかような歴史的な形の論理として考えられるのである。
 
形式論理は主体の論理でなくて対象の論理である。言い換えると、それは既にそこにあるものについての論理である。弁証法もヘーゲルにおいてはなお対象的あるいは客体的であったと云うことができる。主体的立場あるいは行為の立場における論理は、形式論理はもとよりヘーゲル的な弁証法をも超えたものでなければならぬ。行為するとは広い意味において物を作ることであり、新しいものが作られることであるとすれば、行為の論理は創造の論理として構想力の論理のごときものでなければならぬであろう。それは悟性の立場のみでなくヘーゲルのいう理性の立場とも異なり、構想力の立場に立たねばならぬ。構想力の論理が歴史の論理であるということは、歴史を単に理解する立場においてでなくかえって歴史を作ってゆく立場において考えられることである。もっとも、バウムガルテンの想像の論理ないしカントにおける判断力の批判は主として美の領域について考えられたのみでなく、美の理解あるいは享受の立場に立ち、芸術の制作活動そのものの立場に立っていない。しかし構想力が特別に芸術家の能力と見られるのは、芸術的活動が特別に創作と見られることと関係があるであろう。我々の仕事は構想力の論理を美の領域への拘束から解放して広く行為の世界へ導しき入れると共に、それを歴史的創造の論理として明らかにすることである。
 
すでに云ったごとく形式論理はもと単に形式的であったのでなく、それはギリシア的な形相の存在論と結び附き、つまり形の論理の一つであった。ただこの存在論には歴史的な考え方が欠けていた。ヘーゲルの弁証法も或る意味においては形の論理であるが、歴史的な見方を含むという特色を有している。けれどもヘーゲルの哲学もギリシアの存在論と同様、観想の立場に立ち、真に行為の立場に立っていない。構想力の論理は歴史的な形の論理であり、且つこれを作る立場における論理である。それは物の論理であるといっても、物とは歴史的な物をいい、それは表現的なものとして形を有するものである。創造といっても、形のあるものが外に作られることでなければならぬ。歴史的な形は単にロゴス的なものでなく、ロゴス的なものとパトス的なものとの統一である。構想力の論理はかようにしてロゴスとパトスとの統一の上に立っているのである。
 
しからば構想力とは何であり、構想力の論理そのものは如何なるものであろうか。概括的な答は後に廻して、我々はむしろ現象学的に研究を進めてゆこうと思う。ヘーゲルが現象学から論理学への道を辿ったのに倣い、我々は現象の分析のうちに論理を追跡してゆかねばならぬ。

神話は最も原始的な観念形態と見られている。十八世紀の啓蒙哲学、十九世紀の実証哲学は、神話の独自性を認めないで、単に科学の前段階のもの、科学の非科学的な代用物に過ぎぬと考えた。コントの三段階説はその古典的な例である。かような見方の誤謬は次第に訂正されるに至った。マリノウスキーに依れば、神話は無駄なラプソディでも空虚な想像の目的のない流出物でもなく、難儀な仕事の、すこぶ る重要な文化的力である。そのすべての関心は実践的な目的に向けられている。神話は知的な説明でも芸術的な形象でもなく、未開人の信仰と道徳的智慧との実践的な憲章である。またレヴィ・ブリュールは未開人の心理についての実証的研究に基づいて、彼らの心理と我々文明人の心理との関係は子供の心理と成人の心理との関係でないように、彼らの神話は科学の前段階と見らるべきでないと主張している。いま我々にとって未開人の神話が特に問題であるのではないが、そこから示唆を得るためにまずその説を検討してみよう。
 
未開人の心理はデュルケーム派の社会学者に依れば集合表象 représentations collectives の問題にほかならない。集合表象というのは或る与えられた社会群の成員に共通な表象であり、そこにおいて世代から世代へ伝えられる。それは個人を単に個人と見ることによっては説明されぬ性質を有し、かえって個人に押しかぶさり、個人においてその対象に対する尊敬、恐怖、崇拝等の感情を喚び起こすのがつねである。集合表象は普通にいう表象と同じに考えられてはならぬ。表象といえば普通には、知的な、認識に関わる現象を意味している。しかるに未開人の心理においては表象は感情的且つ運動的émotionnel et moteurな要素とこん じ、この要素によって彩られ、浸透され、従って表象された対象に対して純粋に知的な表象とは異なる態度を伴っている。感情的且つ運動的な要素はこの表象の構成的な部分である。レヴィ・ブリュールはかような未開人の心理の特徴を、神秘的 mystique でまた前論理的 prélogique であるところに認めた。神秘的というのは、感覚には分からないけれども実在する力、影響、作用に対する信仰を意味している。未開人の集合表象においては如何なる存在、如何なる物、如何なる現象も我々に対して現れるのと同じでなく、実在そのものが神秘的である。彼らは物の客観的な関係にはほとんど無関心であって、何よりも神秘的な連繁に注意を向ける。出来事の間の因果の自然的な関係は気附かれないか、極めて小さな重要性を有するに過ぎない。彼らの考え方は前論理的である。前論理的という意味は、論理的思惟の出現に対して時間的に前の段階を形作るということではない。未開人の集合表象は我々の思惟のごとく矛盾を避けるように強制されていないという意味において前論理的といわれるのである。レヴィ・ブリュールによれば、集合表象及びその結合は主として「分与の法則」loi de participationに支配されており、論理上の矛盾の法則に対しては無関心である。即ちそこでは物、存在、現象は、自己自身であると同時に自己以外の他のものであることができる。それらは自己自身であるのをやめることなしに自己の外部に感じられる力、能、性質、神秘的作用を発しまた受ける。例えば、ボロロ族の人間は赤い 鸚鵡 おうむ であることを自慢しているが、それは彼らが死後赤い鸚鵡になるとか、赤い鸚鵡が転形したボロロ人であるとかというのでなく、ボロロ人は実際に赤い鸚鵡であると考えているのであって、本質的同一を意味している。彼らは人間的存在であると同時に赤い羽根の鳥である。すべてのトーテム社会においては、分与の法則に従って、一つのトーテム群の個人とそのトーテムとの間に、これに類する同一性を意味する集合表象が存在している。単に静学的見地においてのみでなく、動学的見地においても同様に、或る存在または現象の生成、或る出来事の出現は、神秘的な条件のもとに一の物から他の物へ伝わる神秘的な作用から結果するのである。それは接触、振替、共感、遠隔作用など種々の形式のもとに表象される分与に依存する。未開社会の大多数においては、狩猟や 漁撈 ぎょろう における獲物の豊かさ、季節や降雨の規則正しさは、一定の人間による一定の儀礼の執行に、あるいは特殊な神秘的力を有する神聖な人間の現在または健康に結び附いている。未開人の心は対象を単に表象する以上のことをする、それは対象を占有し、また対象から占有される。それは対象と交通する。それは単に表象的な意味においてでなく、かえって同時に身体的な且つ神秘的な意味において対象に分与するのである。それは対象を単に考えるのでなく、対象を生きる。儀式や典礼はトーテム群とそのトーテムとの間に真の共生 symbiose を実現する効果を有している。その場合、集合表象は極めて強度に感情的な心的状態であって、そこでは表象は運動や行動から分化することなく、社会群に対してその求める共同 communion をもたら すのである。
 
かようにして最も純粋な姿における未開人の心理においては、個人と社会群との、且つ同時に社会群と周囲の物の群との分与が感じられ、生きられる。これら二重の分与は連帯的であって、一方の変化は他方の上に反響する。群の成員である各人の個人意識が強まるに従って、社会群と周囲の存在または物の群との神秘的な共生の感情はより少なく内面的に、より少なく直接的に、より少なく恒常的になる。一方の場合にも他方の場合にも多かれ少なかれ外的な連繋が共同の直接的な感情の代用物となり始める。言い換えると、そのとき分与は表象される傾向を有している。もはや現実的に生きられていないところの、しかもつねに要求されているところの共同は、今や間接的な仕方で求められることになる。分与はもはや社会群の各成員によって直接的に感じられていない故に、それは宗教的なあるいは呪術的な行為、神聖な存在や物、僧侶や秘密結社の成員によって行われる儀礼等を絶えず拡大することによって得られる。レヴィ・ブリュールは神話の起原をまたまさにかくのごときところに認めている。社会群に対する個人の分与がなお直接的に感じられている場合、周囲の存在の群に対する社会群の分与がなお現実的に生きられている場合、即ち神秘的な共生の時期が続いている限り、神話は稀で貧弱である。これに反して一層進んだ型の社会においては神話は次第に豊富になる。神話は、もはや直接的なものとして感じられていない分与を実現するために媒介物の力を借り、これによってもはや生きられていない共同を確保しようとする場合における未開人の心理の産物である。神話は社会群の自己の過去との、そして同時に周囲の存在の群との連帯性の表現であり、この連帯性の感情を保ち、絶えず新たにする手段である。分与の法則に支配される未開人の心理においては神話はその表現する神秘的な実在との共同の極めて強い感情に伴われている。そこでは客観的な要素よりも神秘的な要素が遥かに重要な位置を占めている。自然史も神聖史のうちに含まれる。我々が客観的と呼び、我々にとって存在を定義し分類する属性は、未開人においては感情的な且つ運動的な要素のうちに包まれ、彼らの注意は専らこのものに向けられるのである。
 
ところで社会の発達するに従って論理的思惟が発達し、概念が発達する。これによって前論理的な考え方は消滅してしまうであろうか。レヴィ・ブリュールはかくのごときことは不可能であると述べている。発達した社会においても前論理的な考え方の痕跡は大多数の概念のうちに消滅しないで残っている。存在や現象の客観的な性質や関係を純粋に表現するのは科学的思惟の用いる少数の概念に過ぎず、かような概念は一般に甚だ抽象的であって、現象の特定の性質、その特定の関係を表現するに過ぎぬ。他の最も普通に用いられる概念は、前論理的な考え方においてこれに相応する集合表象があったものの形跡を留めている。例えば、霊魂、生命、死、社会、秩序、血族、美、等の概念を分析するならば、そのうちには分与の法則を示すような或る関係の含まれていることが見出されるであろう。仮に大部分の概念から神秘的な前論理的な要素が取り除かれてしまったとしても、そのために神秘的な前論理的な考え方が完全に消滅するとは云えない。純粋な概念とその合理的組織とによって実現される論理的思惟は以前の表象のうちに表現された心理と同範囲にわた るものではないからである。後者は純粋に知的な機能を有するのでなく、知的な機能はそこでは未分化の要素として運動的な、特に感情的な要素と融合して複雑な全体を形作っている。従って社会の発展の経過において認識機能が分化し、集合表象のうちに含まれていた他の要素から分離し、かくして一種の独立性を獲得するにしても、それはそれが除外した要素の等価物を供給することができぬ。この要素の一部分はそれの外部に、それと並んで限定されない形で存続する。論理的思惟の発達は分与の法則のもとに形成された表象が矛盾を含む場合容赦しないであろう。論理的思惟がかように不寛容であるに反して、前論理的な神秘的な心理は論理的要求に対して無関心である。それは矛盾を求めもしないが、矛盾を避けもしない。論理の法則に従って厳密に秩序附けられた概念の体系と隣り合っていることも、それに対してほとんど何ら影響を及ぼさない。論理的思惟は決して前論理的な心理の普遍的な相続人であることができぬ。強く感じられ生きられた分与を表現する集合表象はその論理的矛盾の証明にも拘らずつねに維持される。分与の内面的な 生々 いきいき した感情は論理的要求の力に匹敵することができ、且つこれを超えている。多くの制度、宗教上の、道徳上の、政治上の制度はかような集合表象を基礎とし、またその表現である。我々の社会においても分与の法則によって支配されている表象及び表象の結合は決して消え失せることなく、論理的法則に従う表象及び表象の結合と並んで存続している。実に「我々の心的活動は合理的であると同時に非合理的である」。そこにレヴィ・ブリュールはまた宗教上の教理や哲学体系の歴史を説明する鍵があると云っている。

さてレヴィ・ブリュールの云うごとく我々の社会に至るまで一層進歩した社会においても集合表象が存続するとしたならば、神話は単に人類発達の原始的な段階に属するものでなく、むしろあらゆる社会においてつねに存在するものでなければならぬであろう。なぜなら彼の云うごとく個人の社会に対する分与が直接的に感じられ現実的に生きられている限り神話はかえって稀であり、要求されるその分与が間接的な手段によって達せられねばならなくなった場合に神話が生ずるとすれば、社会の発達と共に個人意識が発達した場合には集合表象の表現は何よりも神話の形式を採らねばならないであろう。単に古代の神話があったのみでなく、それぞれの時代にそれぞれの神話がある。自由、平等は十八世紀の神話であった。現代には現代の神話があり、いわゆる「二十世紀の神話」(Alfred Rosenberg, Der Mythus des 20. Jahrhunderts, 1930)がある。今日、神話の重要性はローゼンベルクのごとき非合理主義者が考えるのみでなく、主知主義者といわれるヴァレリイのごときも、「最初に神話があった」(Au commencement était la Fable!)と記している。しかもそれは単に時間的な意味においてのみでなく、むしろ論理的な意味においてそうである。この社会の制度そのものがすでに何らか神話的意味を含むと云うことができる。我々にとって問題であるのは現在も存在した創造されるような神話である。神話をかように見た上で、それと構想力との関係は如何なるものであろうか。
 
神話は単なる認識の産物でなく、感情的な且つ運動的な要素がその中で重要な位置を占めている。神話の形成には分与の法則のごときものが働くであろう。しかし分与が直接的、いわば本能的でなく、かえってレヴィ・ブリュールの語によれば「分与が表象される傾向を有する」場合に初めて神話が生ずるとすれば、そこには或る論理がなければならぬであろう。この論理は感情の論理であり、更に適切に想像の論理もしくは構想力の論理と呼ばれることができる。リボーに依れば、人間が外的並びに内的感覚の直接的知識を超えるや否や、彼が直接的経験あるいはその追憶によって与えられるものの彼方に冒険を企てるや否や、説明し、推量し、予見するために、彼は二つの手続き即ち推理すること raisonner と想像すること imaginer とをしか有せず、子供や知的文化を持たぬ民族において見られるごとく両者はもと混合したものであるが、人間精神の発達に従って分化し、合理的論理と感情の論理との間の分離が生ずる。即ちリボーのいう感情の論理も想像の論理にほかならない。感情的推理は多くの場合想像の、特に創造的想像の作業である、と彼は書いている。またレヴィ・ブリュールによれば、未開人にとって神話と夢とは全く類似の性質を有している。彼らの心理においては可視的な世界と不可視的な世界とは一つである。感覚的な実在と神秘的な力との間には絶えざる交通が行われている。かようなことは夢の中で最も直接に、最も完全に実現されるであろう。夢に見られるものは未開人にとって覚醒時に得られる知覚と同価値のものである。彼らにしても粗野な心理的錯覚に欺かれはしない。彼らは夢と覚醒時の知覚とを区別することができ、眠れる時のほか夢みないことを知っている。ただ夢に見られたものが多く矛盾を含むとしても、未開人の心理においては矛盾の原理は重要性を有しない。彼らといえどもすべての夢を無差別に信ずるのではなく、或る夢は信ずべき真の夢 vision とせられ、他のものは単なる夢 rêve に過ぎぬとせられる。しかしかような留保をした上で、未開人の眼にとっては夢に見られたものは覚めた状態において認められたものと同様に、むしろそれ以上に、実在的である、なぜなら夢の中で啓示されたものは高次の秩序に属し、事物の経過に対して不可抗的な影響を及ぼすと信ぜられるから。かくして夢の入る世界と神話時代の世界とはほとんど区別されない、とレヴィ・ブリュールは書いている。しかるに構想力と夢との類似はすでに古くから云われてきた。社会学者のいわゆる集合表象は構想力において継続され、純化されるのであって、神話はその一つの場合であると考え得るであろう。
 
構想力の作用と夢、また幻覚、更に狂気との近親は、これまで特に詩人の構想力について語られている。それらに共通な特色は、想像表象の強さ、その感覚的な明らかさ、現実の限界を超えてのその自由な形成である。詩人は彼の構想力の産物である諸形態、諸状況を知覚と同じようにはっきりと見る。彼は自分の作り出した人物が現実の人間であるかのように彼らと一緒に生活し、彼らの苦痛を現実の苦痛と同じように感じる。フロベールは、ボヴァリー夫人が毒を飲む有様を描いたとき、自分の舌に 砒素 ひそ の味をはっきりと感じ、続けさまに二度まで食物を吐いた、と云っている。またゲーテは、悲劇を書こうと企てるだけでおそろ しくなり、この企てによって身を毀してしまうかも知れないという気がした、とシルレル〔シラー〕に話している。それらの場合一種の深い分与が認められる。ところでディルタイは、詩人の構想力に基づき心像 Bild が現実的なものを超えて自由に展開する場合に従う法則を分析し記述することを試みた。芸術における構想力の作用は認識におけるそれとはもとより神話におけるそれとも区別されねばならないけれども、彼の説には一般的に見て我々の研究を進める上に手懸かりとなり得るものが含まれている。
 
従来の支配的な心理学においては表象は固定した事実として取り扱われ、かかる表象が互いに再生し合い、押し退け合う法則が立てられた。しかしこのような法則は抽象に過ぎない。現実の精神生活においては心像の、即ち解体されていない単一な表象の運命は、感情と注意の分配とに依存している。心像はかくして衝動的な力を得る。それは生命であり、出来事である。それは生じ、展開し、再び消え失せる。心像はその組成要素が脱落しあるいは排除されることによって変化する。物理学者が夢に空を飛ぶとき重力の経験は彼にとって失われ、画家がモデルからマドンナを描き出すとき反撥する特徴は排除される。また心像は伸びたり縮んだりすることによって、それを組成している感覚の強度が増したり減じたりすることによって、変化する。夢の中では棚から落ちる本の音が砲声となり、隣の人のいびき が怒号する激浪となり、足の裏の下の湯タンポに触れてはエトナの頂上をさまよっているように思われる。更に心像及びその結合は、その最も内的な核の中へ新しい組成要素や結合が入り込んでこれを補足することによって変化する。聯想が種々にかような変化を導き入れる。かくて「構想力の原現象」 Urphänomen der Einbildungskraft ともいうべきものは、ゲーテが自分について観察した心像の展開に存している。ゲーテは云う、「私にはかような天分があった、眼を閉じ頭を垂れて、眼の中央へ向けて一つの花を思い浮かべると、その花はひとときもその最初の姿に止まらないで、花は解きほぐされ、その内部から再び多彩な、そして緑の葉をもった新しい花が展開した。それは自然の花でなくて空想の花なのではあるが、彫刻家の薔薇形装飾のように規則正しい。芽ばえ出てくる創造物を固定することは不可能であった」。またオットー・ルートヴィヒは告白している、「私の行き方はこうだ、まずある気分、或る音楽的な気分が先に来て、それが私には色となり、次いで一つのあるいは幾つもの形態が、何か或る身構えとか身振りとかにおいて、単独にあるいは互いに対しているのが見えてくる。不思議にもかの像もしくはかの群は、普通には大団円の像でなく、しばしば単に何かある感動的な状況にある一つの特徴的な姿に過ぎぬ。初めに見られた場面から、時には前方に向かい、時には終末に向かって、絶えず新しい彫塑的な身振狂言的な形態と群が飛び出してきて、遂に私は全体の戯曲を持つのである。これらの一切は非常なあわただ しさで起こり、私の意識はそのとき全く受動的な状態にある」。ディルタイに依れば、心像は心における一つの出来事であると同時に一つの形成過程 Bildungsprozess である、それは心的生活の全体の聯関によって制約されまた基礎附けられている。表象もしくはその組成要素はこの聯関の作用のもとに内的変化を遂げる。心的聯関は普通には意識に上らないにしても、つねに一つの全体として統制的に働いている。しかるに夢や狂気においてはこの統制が減じあるいは失われ、心像は 気随 きずい に展開し、結合される。これに反し詩人の構想力においてはこの聯関が働いているのであって、ただ感情、情緒、感官的組織の異常な力が現実の限界を越えて心像を自由に展開させるのである。天才は何ら病的な現象でなく、かえってかような心的聯関の完全性と力とから発するところの本質的なものに対する眼光である。ここに心理主義の誤謬に陥ることは避けねばならぬけれども、理学において認められることは論理学においても認められるであろう。古典的な心理学においては表象は個々の固定した事実と見られた。それはいわゆる原子論的公理の上に立っている。同じように古典的な論理学においても表象は固定した内容を有するものと考えられた。ボルツァーノの「表象自体」の思想はかくのごとき見方の対象論理的に純化されたものであると云うことができる。表象についてのこの見方は形式論理における同一の原理もしくは矛盾の原理と結び附いている。ギリシアの論理はその意味においても表象の論理であったのである。しかるに構想力の論理においては心像そのものが動的形成的なものと考えられる。表象は形像として孤立したものでなく、感情と内面的に結合し、一つの全体によって活かされている。その基礎は原子論的公理とは反対に全体性の公理である。
 
次にディルタイによれば、我々の精神物理的存在のうちに我々にとって内的なものと外的なものとの関係が与えられており、そしてこの関係を我々は到る処へ移し入れる。我々は我々の内的状態を外的形象によって解釈しないし感覚化し、外的形象を内的状態によって生気づけないし精神化する。そこに神話の、形而上学の、とりわけ詩の強力な根源がある、とディルタイは述べている。芸術作品の核心をなす観念性はかように外的形象による内的状態の象徴化に、内的状態による外的現実の生命化に存している。構想力の論理は象徴の論理であると云うことができる。カッシレルのいわゆる「象徴的形式の哲学」(Ernst Cassirer, Philosophie der symbolischen Formen, 3 Bde, 1923-29.)は構想力の論理に従って書き えられねばならぬであろう。従来の論理学においては論理の法則は抽象的に思惟の法則ないし形式として、従って抽象的に主観の法則ないし形式として規定された。あるいは他方、それは同じく抽象的に客観もしくは対象の法則ないし形式として規定された。言い換えると、論理は主観と客観との生命的な結合点あるいは一致点において捉えられていない。しかるに構想力の論理はまさにその点に見られるのである。それは単なる意識の活動に属するのでなく、むしろ我々の精神物理的存在のうちに根をおろしている。
 
更に構想力の象徴化と聯関して、ディルタイは、詩人において働く構想力の規則性から構想力は型(タイプ)的なものを、観念的なものを作り出すということが従ってくる、と述べている。すでに夢や狂気においても感覚や内的状態に、これらの状態を解釈し、説明し、表現する一定の形象が注目すべき規則正しさをもって結び附くのが見出される。それは貧弱な、萎縮した象徴の一種である。しかし人類においては神話や形而上学や詩の象徴が豊富に、しかも合法則的に発展する。象徴とはタイプ的な形象である。タイプは形式論理における類概念のごときものではない。タイプは個別的であると同時に一般的である。それはどこまでも個別的なものでありながらつねに一般的なものを指示している。構想力の論理は型の論理である。タイプは単に客観的なものではない。それは単に外部にあるものの模写あるいは抽象ないし概括ではなく、内部から、自己の情熱から作り出されるものである。タイプは観察の混ぜられたインスピレーションの創造であるとユーゴーの云ったごとく、ロゴス的なものとパトス的なものとの統一としての形である。
 
構想力の論理にとって展開、全体性、象徴、型、等の概念は基本的なものであろう。ただそれは生の哲学の内在論をとることができぬ。構想力の論理は主観主義並びに客観主義の抽象性を脱するといっても、いわゆる主客合一の立場に立つのでなく、かえってこれをも超えた立場に立つのである。しかし今ディルタイ流の内在論を批評するに先立って、我々は再び神話の問題に戻り、その性質と哲学的根柢とについて考察しなければならぬ。

未開人の神話と普通に神話として知られるもの即ちギリシア神話、エジプト神話、インド神話などとは、まして現代の神話といわれるものとは、直ちに同一に見ることができないであろう。そこにはブランシュヴィクのいわゆる「知性の年齢」の差があり、これに応じて構想力の年齢の差が、あるいはむしろ構想力の論理における段階の差が考えられるであろう。しかしレヴィ・ブリュールも云うように、かの前論理的な考え方は今日に至るまで文化社会においても存続し、それが神話の源泉と認められるとすれば、あらゆる神話のうちに何か共通の構造が含まれるのでなければならぬ。そして詩人の構想力の作用と神話の創造における構想力の作用とは直ちに同じでないにしても、ディルタイのいう詩的構想力の法則に類するものがすでに未開人の神話のうちにも或る仕方で働くのが見られるであろう。まず集合表象においては表象は孤立したものでなく、感情的な且つ運動的な要素と一つであることをレヴィ・ブリュールは力説している。心像はそこでは全体によって生かされたものである。次に神話の論理は一種の象徴の論理であると云うことができる。分与の法則に従う未開人の集合表象においては、物は自己自身であると同時に自己以外の他の物である、「一切の物は可視的存在と同様に不可視的存在を有する」ということは、まさに象徴を意味するであろう。ブランシュヴィクも指摘したごとく、レヴィ・ブリュールのいう分与の概念はプラトン及びマルブランシュの哲学を想起させる。すでに十六世紀末以前に一人のスペインのエズイタ派の僧侶は、ペルーのインディアンの神話的思想について語りながら、そこにはプラトンのイデア説を思わせるものがあると言明した。神話解釈における象徴主義はアレキサンドリア学派の新プラトン主義に発するといわれている。新プラトン主義者及び彼らの説を発展させたクロイツェルによれば、神話は象徴にほかならない、この象徴はもと哲学的教義や道徳的観念を包むように定められたものであるが、後に至ってかような象徴の意味は失われ、神話は実際の事実として理解され、歴史的形式のもとに発展したのである。しかし我々はあらゆる神話にプラトンの神話と同様の起源と生成とを認めることができないであろう。そのうえかくのごとき象徴主義の弱点を突く批評としてトゥタンはルナンの次の言葉を挙げている、「太古において人類が教義を覆うために、教義と象徴とをはっきり区別しつつ、象徴を創造したと推量することは甚だ重大な誤謬である。これらすべてのものは、思想と言語、イデーその表現とのごとく、同時に、同一の弾みをもって、不可分の瞬間において生まれたものである。神話は包むものと包まれたものという二つの要素を含むのではない、それは未分のものである。未開人が彼の創造した神話の意味を理解したかどうかという問(ルビ:とい)は当を得たものではない、なぜなら神話においては志向は物そのものから区別されていないから。ひとは神話をその彼方に何物も見ることなしに、単一な物として、二つの物としてでなく、理解した」。もっともルナンのこの言葉は神話の有する象徴性を否定したものでなく、かえって象徴の一層深い意味を示したものにほかならぬ。象徴とは内と外とが一つであるということである。外部を離れて内部があるのでなく内部と別に外部があるのでもない。内即外、外即内というところに象徴は成立する。普通に象徴において象徴された意味と考えられるものはいわば第二次的に後から抽象されたものに過ぎぬ。象徴の意味は単に客観的に捉えられ得るものではない。プラトンにおいても神話は単に図解的 illustrative なものであったのではない、それはすでに論証によって得られた結果を絵画的にするアレゴリイであったのではないのである。プラトンにおいても神話はイデア説を越えたところに、イデアが生成並びに主体の問題と関係附けられることによって創造されたのである。象徴は内と外とが一つのものであり、しかもそれがなお象徴といわれるとすれば、象徴の最も深い意味は象徴する物なくして象徴するということでなければならない。神話の特色とされる擬人論は象徴の低い段階に属するに過ぎぬ。真の象徴は何物かの象徴であるのでなく、象徴する物なくして象徴するということが象徴の本質である。しかしそのことは何をいうのであろうか。そこに構想力の超越的問題が横たわっている。
 
神話においては志向と物そのものとが区別されないというルナンの言葉は、神話の創造における構想力の働きを明らかにするであろう。構想力 Einbildungskraft, imagination は像 Bild, image を作り出す能力であるが、かような像は本来単に図解的 illustrierend なものではない。図解的な像においては、それから独立に客観的なイデア的意味が存在し、感性的な像はこのものに対する直観化 Veranschaulichung の働きをなすに過ぎないと考えられる。フッセル〔フッサール〕に依れば、想像の像 Phantasiebild はかように図解的なものであり、意味賦与的な作用に属することなく、思念された意味を直観的に例示するに止まっている、 imaginatio(構想力)の像は intellectio(知性)にとって単に手懸かりを与えるに過ぎず、理解の補助となるにしても、それ自身、意味または意味の担い手として働くものではないというのである。この種のプラトン主義ないしデカルト主義によっては構想力の本質は捉えることができぬ。構想力は理性よりも根源的である。人間と動物との最初の区別をなすものは理性でなく構想力である。「文明の低い段階においては理性よりも以上に構想力が人間を動物から区別する、そして芸術を追放することは思想を追放することであり、言語を追放することであり、一切の真理の表現を追放することであろう」、とジョウェットは云っている。構想力の像が思想の象徴と見られるべきでなく、むしろ逆に思想がこの像の象徴と見らるべきである。構想力においては主観的なものと客観的なものとが一つである、主観的即客観的、客観的即主観的というのが構想力の論理である。「構想力によって我々の感情的な能力と知的な能力との間に絶えざる一致が建てられる」とメーヌ・ドゥ・ビランが云ったごとく、我々の主観的な能力と客観的な能力とは構想力において直ちに一つに結び附いている。そこにはパトスとロゴスとの内的な統一が存する。また「構想力によって身体と精神とは聯関する」とカスネル(Rudolf Kassner)が云ったごとく、身体と精神とを分離する二元論においては構想力の積極的な本質は理解されないであろう。主観的即客観的という意味において構想力は「勝れて形而上学的な能力」faculté métaphysique par excellence もしくは「存在論的な能力」と見られ得るであろう。外界の実在性を意志に対する抵抗として説明しようとしたフィヒテの思想、そのディルタイにおける変形も、いまだ主観主義を脱したものでなく、そしてそれはなお自然的存在に定位したものであって、芸術作品の実在性を初め、およそ歴史的な表現的な世界の実在性はそれによっては説明されない。この世界の実在性は構想力の論理によって基礎附けられねばならぬように思われる。しかし構想力において主観的なものと客観的なものとが一つであるといっても、単なる主客合一の立場において外界の実在性のごとき問題が考えられるというのではない。構想力の論理はかえって主観的・客観的なものを全体として超えたところに見られねばならず、従ってここでも構想力の超越論的性質が問題でなければならぬ。神話における超自然的なものと自然的なものとの混合はかような超越の原始的な形像である。
 
分与の概念は主観的なものと客観的なものとの一致の意味において構想力にとって例えば感情移入その他の概念に比して遥かに重要であろう。その意味が普通に考えられるようなプラトンのイデア説の範囲内においては十分に理解され得ないことはすでに述べた通りであるが、ブランシュヴィクは、分与は未開人の心理の意味に拡げられる場合ストア哲学の汎混合 panmixie のごとき意味を有すると論じている。明らかに分与は未分割の状態を意味している、けれども構想力による身体と精神との一致がいわゆるモニズムの立場において考えられないように、分与はストア的な汎神論を基礎としては理解されない。トゥタンに依れば、神話の特徴的な性質は少なくともその一部分が超自然的な且つ非合理的な出来事の物語であるということに存するが、その地盤はフェティシズムやアニミズムでなく、しかしまた汎神論や一神教でなく、多神論が豊富な多彩な神話の存在に必要な条件である。未開人の神話はギリシア神話などと同じ意味において多神論的と見られ得ず、またそれはフェティシズムないしアニミズムの要素を含まないとは云われ得ないであろう。しかしながら彼らの社会においては、諸神話が相互に一般的な論理的な連絡を有することなく、その意味において多元的であることは、多くの人々によって注意されている。具象的な表現に対する欲求、特殊な物や行動を表す語彙の豊饒は、彼らの社会に共通な特徴である。彼らの心像における具体的な特殊性の富そのものが彼らにとって特殊な心像から一般的な観念への移行を不如意にしている。かようにして神話の創造のうちに構想力の作用を認めるならば、構想力はつねに特殊なものと結び附いている。そしてそれは未開人の場合に止まらない。構想力の作り出すものは概念でなくて形である、そして「形の多様性」Mannigfaltigkeit der Form が構想力の論理の根である。形は一でなく、形は形に対し、形は多であることによって形である。構想力の論理は個物の論理である。もとよりそれ論理という以上、特殊は何らか一般的なものと関係しなければならず、個物と個物とは何らか一般的なものによって関係附けられているのでなければならぬ。しかしかかる一般的なものは客観的に捉えられ得るものではない、個物と個物とは客観的な一般者によって結び附けられているのではない。形の多を結び附ける一は形であるよりも形無きものである、それはいわゆる「形なき形」である。「すべて生ずるものは象徴である、それは完全に自己自身を表現することによって爾余のものを指示する」(ゲーテ)。個物は個物として自己を完全に表現することによって、他の同様に独立な個物と無限に連なるのである。個物の独立性がどこまでも承認されつつ、しかも個物が自己とは全く異なる一般者において相互に関係附けられているところに構想力の論理が認められねばならぬ。特殊と一般との関係は差し当たり次のように理解することができる。構想力とは像を作る能力であるが、この像はつねに個物的なものである。それは像として或る知的なものであり、構想力は知的なものと考えられる。しかし他方構想力は単に知的な能力でなくかえって感情であり、感情の性質は一般性(全体性)と見ることができる。従って構想力において個物的なそして知的な像はつねに同時に一般的な意味を有している。個物的と一般的という相反するものはそこでは直ちに一つに結び附いている。個物的即一般的、一般的即個物的というのが構想力の論理である。この場合もとより構想力は単に心理学的な意味に理解さるべきでなく、その超越論的な意味が問題である。また我々は未開人ないし古代人の神話のうちに構想力の論理が芸術的創作におけると同様の姿において発現していると考えるのではない。それが集合表象によって制約され、しかるにこのものの基礎となっている一般者が真の一般者でなく、個体の独立性を否定するところに神話の制限が認められるであろう。
 
ウゼネルに依れば、あらゆる神話的表象作用において心霊化 Beseelung と形像化 Verbildlichung とは二つの主要な過程である。単に心霊化もしくは人格化によって神話が与えられると考えるのは間違っている。同時に意識の深みから形像が浮かび出て心霊化と結び附かねばならぬ。二つの過程は結合したものであり、この秘密に充ちた根源のうちにあらゆる宗教的表象の、そしてまた言語や詩の基礎がある。かような心理並びに運動形式は、悟性的思惟と科学とに対し、「神話的」mythisch と呼ばれる。その過程は生理的 刺戟 しげき の作用と同じように無意的に無意識的に作用し、比論的推理の場合を除き、あらゆる思惟法則の外に立ち、しかも精神に対し直接的な確実性と現実性とを有している。神話的表象作用にとって物と像とは完全に一つである。かくのごとくウゼネルが心霊化と形像化というのは、前者は感情的なもの、後者は知的なものと見られ、それらが一つに結び附いたものあるいはそれらを一つに結び附けるものとして、我々は構想力を考える。更にウゼネルは、シュライエルマッヘルが宗教と科学とを単に直観と理性として区別したのを不十分であるとし、両者は我々の意識に上る精神的過程においても根本的に異なっており、しかも両者の統一点が存しないわけでなく、科学者における新しい思想も詩人の構想に類似するところがあり、共に神話的表象作用と同一の精神力によって生ずると述べているが、そこに構想力の論理が働くと我々は考えるのである。

構想力においては知的なものと感情的なものとが一つに結び附いている。リボーに依れば、構想力はつねに知的要素と感情的要素とを含み、その内的な統一である。それ自身のうちに内面的に且つ生成的に知的要素を含むところに、構想力と単なる感情とが区別される。従って構想力の哲学は単なる合理主義でも単なる非合理主義でもない。構想力の論理は感情の論理であるよりも形像の論理である。形像は動的発展的なものである。構想力の論理は静的論理ではない。形像が動的発展的であるのは、それが元来感情的なものと知的なものとの、主観的なものと客観的なものとの綜合として生成するものである故である。ところで神話からあらゆる知的要素を排除しようとしたのは、現代の神話理論家として注目すべきソレルである。ソレルは、主知主義の哲学は歴史上の偉大な諸運動の説明に対して根本的に無力である、と考えた。すべての革命的時代において人々はそれぞれ異なる形の神話によって革命に準備され、そして神話を頼りに行動してきた。この場合行動の以前に受け容れられていた神話と行動によって成就された事実とを比較して論議することは無意味である。歴史的力としての神話は全体として取らるべきであって、諸要素に分解してはその現実的な意味を捉えることができぬ。かくしてソレルはユートピアと神話とを峻別している。神話は事物の叙述でなくて意志の表現である。ユートピアはこれに反し知的労作の産物である、理論家は事実を観察し、反省し、論議した後に、現存社会をそれと比較し得るようなモデルを作ろうとする、それは空想的な制度であるが、それについて思弁し得るに十分であるだけ現在の制度との類似を提供している。しかるに神話は一定の社会の確信の運動の言葉における表現であり、行動に相応する感情の総体を一切の反省的分析の以前に一纏めに唯一の直観によって喚び起こすものである。各々の瞬間が独創的な歴史の運動においてはあらゆる予知が拒まれている。予知するとは物が創造されるに先立って創造することである故に自己矛盾である。ソレルは自己の神話論はベルグソンの哲学を根拠とすると称しているが、そのうちには種々の重要な洞察が含まれている。まず、神話は従来多くの場合芸術的な見地から考察されてきた。しかるにソレルにおいては神話は歴史的力として行為に関係附けられ、その立場から評価されている。次に、神話といえば普通に、過去に属するもの、それ故に伝統的保守的なものと見られるに反して、ソレルは現代の神話(社会主義的革命、サンヂカリストの総同盟罷工)を考え、それが現在の行為に、従ってまた未来に働き掛ける意味を理解した。神話の歴史的創造性の強調は彼の説の著しい特色をなしている。更に、神話とユートピアとの区別も注目すべきものであろう。ひとは未来について過去と類似のものあるいは過去の諸要素に類似する諸要素をもって再び組み立て得るもののほかは予見しないとベルグソンが云った通り、ユートピアは真に未来の像を描くものでなく、過去のものを未来のうちに投射するに過ぎぬ。ソレルはまたユートピアのオプティミズムを反動的と見做し、ペシミズムなしには如何なる崇高なものも成就されないと考えた。
 
しかしながら神話とユートピアとの区別は大切であるにしても、神話から一切の知的なものを排除することは不可能である。神話的要素を含まぬユートピアの存在しないように、ユートピア的要素を含まぬ神話も存在しないであろう。神話における知的なものとは客観的な一般的な知識のごときものをいうのではない。ソレル自身が神話を心像 image と云いあるいは表象 représentation とも云うとき、それは構想力の像をいうのでなければならぬ。構想力は単なる感情でなくて同時に知的な像を作り出す能力である。神話の形成のうちに構想力が働くことはソレルの考えるような神話においても明瞭である。ソレルは、神話は意志の表現であると云い、そしてニューマンの次の言葉を肯定しつつ利用している、「厳密に云えば、行動を創造するのは構想力(想像)ではない、それは希望もしくは恐怖、愛もしくは憎悪、欲望、激情、エゴイズムの、自我の衝動である。構想力はこれらの起動的な力を動かすという役割を有するに過ぎぬ、そしてそれはこれらの力を喇戦するに足る強力な対象を我々のうちに現前させることによってそのことに成功する」。感情と意志とを別個のものと見ることができるかどうかが疑わしいのみでなく、身体性から抽象して構想力を考えることはできない。構想力はまさに希望もしくは恐怖、愛もしくは憎悪、欲望、激情、衝動等と結び附いたものであり、それ故にデカルトやパスカルは構想力を誤謬の根源とも見做したのである。構想力は感情と結び附き、その中から像を作り出す。構想力によって感情は対象的なものに転化され、そのものとしても強化され、永続化されることができる。我々はソレルの直接行動論の神秘的な浪漫主義、非合理的な主意主義に賛成し得ない。感情のうちにも論理がある、構想力の根柢に意志があるのでなく、むしろ意志の根柢に構想力がある。我々は一方主意主義の非合理主義に同意し得ないと共に、他方意志の根柢に理性をおく主知主義の決定論にも同意し得ない。意志の自由の問題は、単なる合理主義によっても単なる非合理主義によっても解決されぬ。構想力の哲学は、抽象的な合理主義と非合理主義とを共に超えたものとして、意志の自由の問題に対しても解決の鍵を与えるであろう。すでに神話がそうであるごとく、ユートピアの生成においても構想力が働いている。ユートピアも構想力の産物である。そして構想力に関して神話とユートピアとの差異を考えるならば、カントにおける構想力の区別に従って、神話は生産的構想力 Produktive Einbildungskraft に、ユートピアは再生的構想力 Reproduktive Einbildungskraft に属すると見ることもできるであろう。カントは深い洞察をもって予見 Vorhersehung を想起 Erinnerung と同じく再生的構想力の作用に帰しているが、それはユートピアについてのベルグソン的・ソレル的見解に致させられることもできるであろう。歴史的世界において神話はユートピアに先立ち、ユートピアは科学に先立つ、構想力は理性よりも根源的である。ユートピア的社会主義は科学的社会主義に先行した。そしてもしソレルの直接行動論における総同盟罷工のごとき神話は逆に、すでに与えられている社会主義の理論を劇的に集中的に表現したものであるとすれば、ここに理論が実践の立場へ移される際における構想力の作用という一つの重要な問題が提出されることになる。実践的思考の能力とは一般的な理論を具体的な形に転化する能力であり、かように Theorie(理論)を Form(形)に転化する能力は構想力に属している。実践家の構想力によって理論は形となるのである。しかるに理論が実践家の構想力によって直観的な像に転形して現前するに至るというには、理論の根にすでに或る仕方で構想力が働いているのでなければならぬ。いまソレルに就いて見れば、彼は社会現象の科学的研究にとって根本的なものとして三つの規則を述べている。一。現象の間に建てられるすべての分類、すべての関係、実がそのもとに現れる様相は、追求される実践的な目的に依存している、この目的をつねに明瞭にしておくことが賢明である。従って社会学や経済学においては、初手から、率直に主観的な行き方を採ることが、自分の為そうとするところのものを知り、かくしてその一切の探究を自分の推奨する種類の解決に従属させることが、必要である。例えば社会主義は、あらゆる問題を極めてよく限定された精神において取り扱い、自分が到達しようと欲するところを知っている少なくとも労働運動が自分の上に十分な圧力を加えている限りーーという点に大きな利益を有している。二。概念による認識方法は古代において、動かぬもの、幾何学的な存在を研究するために作られたものである。従ってそれは、あらゆる瞬間にその位置、様相及び 広袤 こうぼう を変ずる 雲霧 うんむ にもすべき社会的事実に対しては適用され得ない。動くものを捉えるためにはギリシア的方法を 抛棄 ほうき しなければならぬ。社会現象の研究にとって有効な手段は、スタイル化された射影 projections stylisées ともいうべきものである。練達の士は、その知識が彼らの企てた探究にとって有益と見える如何なる特性をも逃さないような形像の体系 systèmes d'images によって社会現象を包括しようと努力する。「社会学が極めてしばしば不毛に止まっていたとすれば、理由は、それが主として創造的構想力 imagimation créatrice を持たぬ人間によって研究されたためである」。ソレルに依れば、マルクスはスタイル化された射影の組織に非常な巧妙さを示した人であった。昔から画家や彫刻家はスタイル化に基づき、不動のものの緊張によって動くものの明瞭な観念を与えることに成功してきた。哲学は芸術から学ばねばならぬ、両者は相互に甚だ近親な二つの活動である。不動のものの緊張による動くものの表現は、変化が一層多く規則的であり、読者に一層多く親しまれており、法則の存在の観念を彼に示唆するに一層適しており、即ちいわばリズム的であればあるだけ、一層よく成功する筈であって、マルクスの弁証法のごときはかようなものである。三。イデオロギー的構成はもとより必要である、しかしそれはまた最も頻繁に我々の誤謬の原因でもある。従って実践においてよく限定された形式を獲得した制度、慣行及び経験的規則の上に働く反省の産物でないすべてのものを斥けなければならぬ。ヴィコ〔ヴィーコ〕は、歴史においてはまず、反省的思惟が事物を理論的に把握するに先立って、事物を感知し且つ詩的に表現する庶民的智慧が存在すると云ったが、この命題はマルクス主義者にとっても重要である。そしてこの規則に、マルクスによって述べられた一つの重要な命題、即ち歴史的に後に現れるものは以前のものの説明に対する鍵を与えるということ、例えば産業資本の概念が初めて高利貸資本や商業資本の性質を完全に理解させるということが繋がってくる。イデオロギー的に基礎的な原理は一定の社会がその全発展を遂げた時に初めて現れる。未来を予見し思想によって構成しようと欲する者は空想に終わるのほかない。未来の社会の原理を方式化し、そこから何物かを実践のために演繹するということは不可能である、そのような原理は現在の社会が消滅し新しい組織に場所を譲った時に初めて明瞭に認識され得るものであるからである。現存社会のうちに見出すことを望み得るのはたかだか部分的生成に過ぎない。ソレルは附け加えて云っている、「神話を用いないで原理から行動への移行の理解し得る説明を与えることが可能であるかどうかを私は疑うものである」。彼に従えば、マルクスにおける資本主義社会の破局という観念は、階級闘争と社会革命とを具象化するために一つの神話として提示されたものである。神話を用いることなしには原理から行動への移行を説明し得ないというソレルの命題は、理論と実践との関係における構想力の作用を明瞭に示唆している。しかし我々はいま我々の後の研究の題目をなすべき社会科学の方法に関するソレルの右の見解の批評に立ち入ろうとは思わない。ここで我々に関係のあることは、彼が社会科学の研究において、彼自身の仕方で、構想力に重要な意味を認めたということ、それ故に彼のいう神話も構想力の産物にほかならないということ、あるいはそれは理論が実践の立場から構想力によって神話に転化されたものであるということである。神話はもと理論に先立って一定の社会団体の中から生まれる。それはヴィコがデカルト的合理主義に反対してその独自性を主張した「詩的智慧」である。知性に対する構想力の根源性が認められねばならぬ。理論も実践の立場においては構想力によって神話化される。科学的世界観や無神論をも含めて、人類思想の歴史を神話の変遷として理解しようとするチーグレルの企て(Leopold Ziegler, Gestaltwandel der Götter,Dritte Auflage 1922.〔レオポルド・ツィーグラー『神々の姿の変様』第三版〕)はあまりに詩的に過ぎるとしても、知性の産物も歴史的世界においては何らかの仕方で神話化される。その可能性のうちに知性の根柢に構想力が存在することを認め得るのである。ソレルの説から考えねばならぬ弁証法と構想力の論理との関係はやがて我々にとって最も重要な問題となるであろう。

歴史の世界に入るならば、すでに理論でさえもそうであり得るように、あらゆるものが神話の意味を担うに至ることが可能である。かくして神話の概念はもはや普通に神話といわれるような特定の言語的表現を有するものに限られることなく、あらゆる存在の一定の存在の仕方を表すものとならねばならぬ(この場合 mythologie という語は用いられない、ただ mythe というべきである。トゥタンに依れば、mythologie という語は二つの異なる意味を含んでいる。それは、一方では mythologie grecque,mythologie égyptienne 等の場合におけるごとく、「神話と説話との総体」l'ensemble des mythes et des légendesを意味し、他方ではかような神話と説話とに関する一切の研究、詮索、体系を、言い換えると「神話学」 science des mythes を意味している。いずれにせよ mythologie の概念はロゴスに関係するに反して、mythe の概念は普通にいう神話の意味から転化されると共にあらゆる存在の一定の存在の仕方に拡張されて存在論的な意味に用いることも許されよう)。もとよりあらゆる存在が神話的な存在の仕方を有し得るのは、社会の成立の基礎がアリストテレスの考えたごとく人間はロゴス(言語)を有する動物であるということであるのに基づいている。そして或る物が神話として存在するに至るということは、それが最初から神話を意図して作られるということでなく、歴史の世界がその根柢において構想力の論理によって成立していることを示すものにほかならない。この後の点が我々の根本の問題である。
 
神話はソレルによって歴史的力として認められた。彼のいう神話は主として未来の創造に関している。しかるにベルトラムは主として過去の伝承の形式として神話を考えた。すべて在ったものは象徴 Gleichnis に過ぎぬ、とまずベルトラムは云う。如何なる歴史的方法も、十九世紀の素樸な歴史的実在論が信じたように、体現的な現実を、それがもと在った姿において見ることに役立ち得るものでない。歴史とは何らかの在ったものを概念的に再構成することではない。むしろ歴史とは以前の現実の現実性を奪い去ることであり、それを「存在のひとつの全く他の範疇」へ導き入れることである。歴史叙述が作り出す像は新たな、いわば一層高い度の現実である。歴史的に見ることによって、我々は過去の生活を現在化するのでなく、かえってその現在性を脱せしめるのである、それを我々の時間へ救い入れるのでなく、かえってそれを無時間的にするのである。過去の生活のうち存続するものは、我々が如何にそれを明白にし、精査し、追体験しようと努力するにしても、決して生活ではなく、かえってつねにその説話である。あらゆる出来事のうち歴史として生き残るものはつねに最後は説話である。説話は歴史的伝承の最も生命的な形式である、それはその最も原始的な形式であると共に最も究極的な形式であり、その最も古い形式であると同時にその最も深い形式である。それのみが、如何なる時にも働くものとして、昔と今とを現実的に結合する。ただ像として、形態としてのみ、ただ神話としてのみ、過去の人物は生きる。如何なる文献学も、如何なる分析的方法も、この像を形作ることができもしなければ、その内的な法則と固有の衝動とに従う変化を妨げたり速めたりすることができもしない。この像は絶えず変化し、絶えず一層少ないそして絶えず一層太い線を現してくる。型的であると同時に一回的なものとなるのである。かような説話形成の過程を規定する法則の作用は様々な種類の説話において同様に認められる。例えば古代の英雄神話と中世の聖者伝説との間には何ら原理的な方法的差異が存しない。また説話形成の強度は決して原始的な精神的教養の状態に依存するのでなく、意識的な分析的な時代においても説話は除去されることなく、背後に押し込められさえもしない。増しゆく自覚、自己制御、文献学的知識等の一切は、説話の生成に対して極めて狭い影響を有するのみであって、抑制的なものとしても促進的なものとしてもこの影響は本質的でない。神話が自己を貫徹しようとする場合、目覚めた監視的な知性は、今日も昔に変わらずその如何ともなし得ぬ制限に出会うのである。個人的生活の限界を越えて個性が生き続け、働き続けるということは、ブルックハルトの語を借りれば、魔術であり、宗教的な過程であって、かようなものとしてあらゆる機械的な、あらゆる合理的な影響を脱している。
 
歴史の生命的な伝承の形式が神話ないし説話であるという見方には或る真理が含まれている。もっとも、神話としての歴史は科学としての歴史を不可能にするものでも無意味にするものでもない。我々はベルトラムの神話的歴史観をそのまま承認することができぬ。その浪漫主義、審美主義及びそれらに関聯した有機体説(生物有機体との比論)等には批判を要するものがあるであろう。構想力の哲学は抽象的な合理主義に同意するのでないと同じく浪漫的な非合理主義に一致するのでもない。神話の形成は構想力に属している。歴史的事実及びその認識も構想力に基づいて神話に形成されるのであり、そしてそのことは歴史そのものの根柢に構想力の論理のごときものが存在することによって可能である。ベルトラムは説話形成にあたって「蓄積の法則」が作用すると云っている。ここでも持てる者には益々与えられる(ひとは金持ちにしか金を貸さない)。人類の記憶は忘恩的であるが、感謝する場合には度を越えて感謝するものであり、過去のあらゆる小さい祭壇を奪ってその最も大きな記念像を飾るのである。ベルトラムのいう蓄積の法則の根柢にはスタンダールが恋愛論の中で述べたような「結晶作用」が存し、むしろこれと同じものでなければならぬであろう。スタンダールは恋愛心理の発展を次のように分析している。まず感歎がやって来る、この第一の段階は純粋に感情的である。次に快楽の牽引が、即ちあらゆる形式における欲望が目覚めて来る。そして次に希望が来る、ここに構想力の活動が始まり、リボーの解釈に従えば、それと共に価値の判断が現れる。かようにして恋愛が生まれる。そして次に第一の結晶作用が始まる。結晶作用というのは現前するすべてのものから愛の対象が絶えず新しい完全性を持つようになるものを発見してゆくことである。これによって愛の対象は理想的な完全なものに形成されてゆく。しかし次に懐疑が生まれて一時この作用を混乱させる、やがてそれに打ち克つとき第二の結晶作用が行われる。リボーの註に依れば、この過程は愛にのみ固有のものでなく、緩やかに孵化するあらゆる情念の根底〈「底」は原文ママ〉に存在している。そしてドゥラクロワは、結晶作用の説は愛において構想力が極めて大きな役割を演ずることを示すものであると述べている。愛とは要するに心臓の運動に対する構想力の仕事である。我々は我々の作り出した空想的な存在を愛するのであり、しかし我々はそれを愛する故に作り出したのである。即ち結晶作用によって愛の対象は神話化されると云い得るであろう。愛と構想力とは分離的に働くのでなく、構想力はもともと表象的にして感情的である。リボーは、愛が理想化された場合、言い換えると、感覚から概念を出て来させる作用に似た除去と抽象との作用によって、愛がその身体的な、本能的な、衝動的な要素からできるだけ軽くされた場合、感情的推理は消え失せて、なかば感情的でなかば知的な、それ故に混合的な推理が現れると註釈を加えているが、我々はかような機械的な説明に満足し得ない。構想力の論理は混合的推理というがごときものでなく、元来パトス的にして同時にロゴス的である、身体的であると共に精神的である。一般的に云って、リボーの「感情の論理」はなお多く機械的な見方に支配されている。そのことは彼の心理学の制限に基づくと共に、感情の論理というがごときものを特別に考えようとしながら彼が依然として形式論理の影響のもとに立っていることを示すものである。ベルトラムのいう蓄積の法則は純化と完全化との、即ちイデア化の作用を意味し、結晶作用のごときものと見ることができる。愛と結晶作用とが結び附いたものである限り、構想力の論理は愛の論理である。エロスそのものが神話的なものである。もっとも我々はここに想起されるプラトンないしプラトン主義者の宇宙論的なエロスの神話もしくは形而上学をそのまま受け取ろうというのではない。我々はかえって歴史的世界の根柢に構想力を考えようとするのである。けれども構想力の論理はベルトラムの自然神秘主義的な内在論によってはその基礎を明らかにすることができぬ。それは愛の論理としてもエロスの論理からアガペの論理にまで高まらねばならぬ。
 
歴史的に存在するということは、ベルトラムに依れば、神話が形成されることであり、物が地上からいわば天界へ上げられることであり、即ち事実 matter of fact の世界から形像 image の世界へ上げられることである。そこにはリボーのいう、感覚から概念が出て来る場合における除去と抽象との作用に類するものが認められるであろう。しかるに論理学者がしばしば論じているごとく、感覚的な物から抽象によって概念が作られ得るためには感覚的な物のうちにすでに一般的なものが含まれているのでなければならぬ、プラトン的に云えば、物はすでにイデアに分与しているのでなければならぬ、と考えられるであろう。形像はイデアのようなものである。けれどもそれは固定したものでなく自己のうちに発展を有している。リボーの云ったように、イマージュは動的要素 l'élément moteur を含み、このものはそれを客観化し、外形化し、我々の外に投射させる。歴史の根本現象に属する métamorphose(形の変化)はイデの論理によってでなく、イマージュの論理によって考えられる。形像は純粋なイデアではなく、いわば身体をもったイデアである。ゲーテにおける Mütter(母たち)の神話はそのことを語っている。形像 image は理念 idée の象徴と見らるべきでなく、むしろイデはイマージュの象徴と見らるべきであろう。イマージュは影の薄くなったイデであるのでなく、かえってイデはイマージュから抽象されたものである。イマージュは物の写しであるのではない。イマージュを物の写しとなし、それ自身物と同様に存在するかのごとく考える素樸な形而上学ないし存在論が構想力の本質の理解を妨げてきた、とサルトルも云っている。物とそのイマージュとを比較すれば、そこに本質の同一 l'identité d'essence が、即ちイデア的同一が認められるであろう。しかしそのことから存在の同一は従って来ない。物としての存在と形像としての存在とは存在の様式 le mode d'existence を異にする。すべての存在の様式を物理的存在の様式の型に従って構成するという我々のほとんど打ち克ち難い習慣を何よりも払い退けねばならぬ、とサルトルは書いている。さもなければ表現の論理というものは考えることができぬ。そして同時に我々はイデア的同一の立場に固執して、フッセルのごとく構想力の像を単に図解的なものと見ることをやめねばならぬ。更にまたもしイデアは論理上事実に先行すると云わねばならぬとすれば、我々は一層多くの理由をもって、形像は事実に先行すると云っても好いであろう。ヘーゲルに依れば、論理の内容は「自然と有限精神との創造以前の永遠なる本質における神の叙述」であるが、かような論理は彼の云うがごとき純粋思惟に属するのでなく、構想力に属するのでなければならぬ。ゲーテの云ったように、構想力は「理性の先駆者」である。構想力の論理は創造以前のものでなくかえって創造そのものの論理である。しかも創造の論理は超越論的性質を有するのでなければならない。超越なくして創造は考えられない。そして我々はかような超越をまず神話的形像において見ることができるのである。

普通に神話は遠い過去の出来事を物語るものと考えられている。しかるに未開人の心理の研究に依れば、彼らは継起的な過程において展開する時間の一つの時期であるような過去の観念を有せず、神話と歴史とは彼らにとって同一の時間における異なる時代として区別されるのではない。およそ世界の進化の思想は彼らに欠けている。神話の世界は長い歴史的発展の初めにあるものと考えられるのではない。その時代は今日の存在と事実が動いているのと同一の時間の部分であるのでなく「未だ時間の存しなかった時代の時間」に属すると考えられている。神話時代はいわば時間前もしくは時間外 prétemporel ou extratemporel である。彼らは神話的世界の存在の様式と現実の世界の存在の様式とが性質的に全く異なっていることを感じる。「神話時代は単に過去の時間としてでなく、また現在及び未来として、即ち一つの時代としてと同様に一つの状態として考えられているのでなければならぬ」。かくて未開人があらゆる物の初めに神話的世界があるというとき、それは単にこの世界がいわば超越的なもしくは超歴史的 métahistorique な古代に属するということを意味するのでなく、また特に、すべての存在がそれから生まれるということ、あるいはこの時期が「創造的」であるということを意味している。その意味において彼らの神話は一種の「創世記」である。「未開人にとって神話は、完全に信仰するキリスト者にとって創造の、堕落の、十字架におけるキリストの犠牲による贖罪の聖書の物語があるのと同じものである」、とマリノウスキイは書いている。プロイスも、未開人には時間の長さの観念がないと云い、神話は原始時間 Urzeit に属すると云っている。それは原始歴史 Urgeschichte に属する、と我々は云うことができるであろう。神話の実在性と現実の実在性とは本質的に異なっている。かくて例えば「祖先」という語は、一方神話的存在を表すために、他方現世代の先祖を表すために、しばしば無差別に用いられているが、二つの場合において意味は同じでない。後の意味における祖先も未開人にとっては重要であり、彼らの生活と幸福とは祖先の好意に依存すると考えられ、祖先は神と見做されることがあるにしても、この祖先は彼らと同様に過去の一定の時間に生まれそし死んだものとして理解されている。しかるに神話の語る祖先は、それとは明瞭に区別され、如何なる歴史の綱も彼らを現在の世代に先立つ諸世代に結び附けるものでない。彼らは「時間外」の時期に、「いまだ時間の存しなかった時間」に属し、そこにおいて彼らは今日存在するものを「創造」し、「生産」したのである。この生産が生理学的意味のものであるかどうかは、神話的思惟にとっては問題にならない。神話的思惟は因果の連繫のメカニズムに対して無関心であって、「創造」もしくは「転態」 métamorphose と呼ばれるものにのみ心を留めるのである。
 
かくて注目すべきことは、未開人にとって神話の世界は歴史の過去の出来事でなく、原始時間あるいは原始歴史に属すると考えられているということである。神話は「超越的価値」を有している。神話はもと「説明」を目的とするのでない、それはただ「超自然」を反映するのである。原始時間というのは過去現在未来と継起する時間の部分でなく、むしろ同時的に過去現在未来であり、継起的な時間に対して超越的である。そして原始歴史というのは時間のうちに経過する歴史の部分でなく、かえって一切の歴史の超越的根源である。神話と普通に歴史といわれるものとは全く秩序を異にしている。ソレルにおける神話とユートピアとの区別もかくのごとき秩序の差異を基礎として理解され得ることでなければならぬ。また歴史叙述を神話形成と考えるベルトラムが、歴史的に伝承することは過去の生活を我々の時間へ救い入れることでなく、むしろそれを無時間的にすることであると云っているのも、そこに根拠を求めなければならぬ。伝承もひとつの創造である。未開人にとって神話的世界は超自然であり、勝れた意味における実在である。それは自然の根柢である。神話時代の英雄、祖先が、現在の存在を生産し、創造したと見られるのである。世界の創造と人間の生成とは神話の主要な内容である。何らかの超越を考えることなしに創造は考えられないであろう。神話の特色はこの超越があたかも神話的に表象される点にある。即ち神話的存在は、一方創造されたものの超越的根源として、創造されずして創造するものと考えられると共に他方あるいは動物として、あるいは半動物半人間の混合的存在として、あるいはまた我々と同じ人間として考えられる。未開人にとって神話的世界は超自然である、しかしこの世界と現実の世界との間には如何なる空隙も、如何なる 牆壁 しょうへき も介在しない。超自然と自然とは判然と区別されるあるいは拮抗する二つの実在として互いに対立するのではない。もとより神話的世界の存在は我々の世界のそれに相応する存在と甚だしく異なっている。前者は後者に欠けている多くの魔術的な力を所有している、また前者は今日の存在がその微かな痕跡をしか所有しない能力を最も高い程度において享有している。けれどもこの差異は要するに大小多少の差異に過ぎぬ。言い換えると、神話においては超越の真の意味が捉えられていないのである。かようにして超自然と自然とが無造作に混合しているところに、如何にして神話が、その神秘性を失った場合、単なる歴史のうちへ容易に繰り込まれるかという理由がある。そこにまた何故に超自然的力の自然的過程に対する干渉が未開人の心を煩わすことなく、あたかも当然のことであるかのように考えられる理由が見出される。そこではかかる干渉も自然に対して暴力を加えるものでなく、自然の秩序を危うくするものでないほど、超自然と自然とは混合しているのである。超越の意味が正しく理解されない限り、自然の意味も正しく把握されないであろう。
 
種々の神話において世界の創造が如何に表象されたかを検討することは我々の問題でない。神話を愛する者(フィロミュトス)も或る意味では智を愛する者(フィロソフオス、哲学者)である(διὸ καί ὁ φιλόμυθος φιλόσοφός πώς ἐστιν.)とはアリストテレスの言葉であるが、就中(ルビ:なかんずく)ギリシア神話は古来絶えず哲学的思弁の対象となってきた。かかる思弁のうち我々はいまただ一つ、かの神話の哲学に深い関心を有したシェリングに依るサモトラケの神々についての解釈を取り上げて見よう。サモトラケはギリシア民族の礼拝のうち最も古いものとされるカベイロイの礼拝をもって有名であった。カベイロイはアキシエロス、アキシオケルサ、アキシオケルソス及びカスミロスという四つの神の群を構成している。これらの神々の名はギリシア的起原のものでない。シェリングに依れば、その第一の神、万物の端初たる第一の自然であるところのアキシエロスは、フェニキア語において、まず飢、貧を、更にこが れ、渇望または憧憬を意味している。この思想は全自然のうち最も古いものは夜であるとする神話的思想に通ずる。夜の本質は欠乏、貧窮、憧憬である。この夜は闇即ち光に敵対するものでなく、光を待つものであり、あこがれの、受けることを求める夜である。同じように、第一の自然はすべてを食い尽くす火であるとする神話的思想も、その全本質が渇望と憧憬であるという意味を含んでいる。この火は自身はいわば無であって、すべてを自分のうちへ引き入れずにはおかぬ存在への飢餓を現している。その下にもはや何物もない最も下なるものは、ただ渇望、在るというよりもただ在ることを求めるものであり得るのみである、とシェリングは云っている。憧憬 Sehnsucht は万物の端初であり、創造の第一の根源である。古代の歴史家はアキシエロスをデメテルと同一に見た。第二の神アキシオケルサはペルセポネに等しく、魔術 Zauber を意味している。しかも娘は別の姿における母にほかならない、即ち全自然の最も内面的な本質は存在への飢餓であり、この動力の不断の牽引によってすべてのものは最初の無決定性からあたかも魔術によってのごとく現実もしくは形成に持ち来されるのであるが、根源的に形のない神はペルセポネにおいて形をとり、この神が本来初めて生ける魔術となる。アキシオケルサとアキシオケルソスとは魔術という共通の概念によって結ばれている。この第三の神アキシオケルソスはディオニュソスであるが、ギリシアの歴史家に従えば、ハーデスである。ハーデスとディオニュソスとは同一であり、死者の国の主が同時に慈悲深い神であるというところに秘義が隠されている。かくしてサモトラケの最初の三つの神はデメテル、ペルセポネ及びディオニュソスの間に見られるのと同じ順序と関係とを含んでいる。第四の神カスミロスは召使いを意味し、ヘルメスにあたる。しかし彼は最初の三つの神に仕えるのでなく、彼らとは異なる上位の神に仕えるのである。もし彼が下位の神と上位の神とに同時に仕えるとすれば、前者に仕えるのはただ、自身これよりも高いものとして、下位のものと上位のものとの間の媒介者である限りにおいてであって、かようにいわば上位の神と下位の神との間の導きの結びであるということが実にヘルメスの本来の概念である。カスミロスはもと神の先に行くものを意味し、従って彼に先立つ神々の召使いでなく、将来の神の召使いであり、来るべき神の告知者、伝令である。アキシエロスは最初のものであるが、最高のものでなく、カスミロスは四者のうち最後のものであるが、より高いものである。それ故に一般に古代の神話の説明にとって、特にサモトラケの神話の説明にとって、流出 Emanation の観念は適合しないように見える、とシェリングは述べている。なぜならカスミロスは初めの三つの神に対して下に立つのでなく、むしろ上に立つのであるから。しからばそれらの神々がすべて、直接にはカスミロスが、仕える神とは何であるか。それらすべての神々はその活動によって世界全体が、宇宙が存立する力であり、従って世界的な、宇宙的な神である。その創造は必然性の世界である。しかるに彼らが、中にもまずカスミロスが仕える神は超世界的な神、彼らを支配しもって世界の主たる神、造物者(デミウルゴス)あるいは最高の意味においてゼウスである。かくして今や上昇的系列が認められる、即ち最も深い所に渇望を本質とするケレス(デメテル)がいる、それは一切の現実的な、顕現的な存在の第一の、最も遠い端初である。次にすべての可視的な自然の本質もしくは根拠であるペルセポネと、幽冥界の主なるディオニュソス。そして自然と幽冥界との上に両者を相互に且つ超世界的なものと媒介するカスミロスあるいはヘルメス。そしてそのすべての上に世界に対して自由なる神、造物者。カベイロイの教説はかくのごとく下位の自然神から彼らを支配する超世界的な神へ上昇する体系を形作っている。
 
いま我々に関係があるのは、サモトラケの神々についてのシェリングの右の解釈が文献学的に見て正しいかどうかでなく、その哲学的内容である。まずシェリングが古代の神話の説明にとって「流出」の観念は適合しないと述べていることが指摘されねばならぬ。流出の観念と創造の観念とは相容れない。流出論はひとつの雄大な形而上学的形像ではあるが、結局は内在論である。次に「第一の自然」、創造の最初の根拠憧憬もしくは渇望と見る宇宙開闢論 Kosmogonie は、極めてシェリング的な、興味深い思想であると云わねばならぬ。創造の根には大いなるパトスがある。しかもこのパトスは光を待つ夜、存在もしくは本質への飢餓 der Hunger nach Wesenである。言い換えると、それはパトスとして自身は無限定でありながら限定に対する堪え難い要求を自己のうちに含んでいる。このような形のないパトスは魔術として形をとる。魔術の力によってすべてのものは現実と形成とに持ち来されるのであるが、単なるパトスは魔術でなく、パトスが魔術となるにはロゴスが、イデアが加わらなければならないであろう。魔術は技術のごときものである。かくしてヘルメスは来るべき神を宣(ルビ:の)べ伝える。この神は最高の神ゼウスであり、超世界的な神として世界を造る者である。彼に先立つ神々は全体としてヘパイストス即ちゼウスの子にほかならない。もしそうであるとすれば、世界の形成はロゴス的・パトス的であり、ロゴス自体は超世界的であるにしても、世界的なものとしてはロゴスはパトスと結び附き魔術として形成的に働くというように考え得るであろう。それのみでなく、かの第一の自然、創造の根拠であるところの憧憬は、或る意味では造物者と一つであり、かくしてまた或る超越的意味を有するのでなければならぬ。それはシェリングが人間的自由の本質についての論文の中で述べたような「神における自然」die Naturin Gott でなければならぬであろう。このものはシェリングに依れば神から分離されないでしかも神とは区別されたもの、彼の存在の根拠である。神は彼の存在の内的根拠を自己のうちに有し、根拠は存在する限りにおける神に先行する、しかしまた根拠は神が現実的に存在しないならば存し得ない故に、神は根拠よりも先なるものである。ここでもまず内在の概念は推し退けられる。生成の概念は物の本性に適合した唯一のものであるが、物は神とは無限に異なる故に、物は絶対的に見られた神のうちに生成することができない。神から分かたれているためには、物は神とは異なる根拠のうちに生成しなければならない。しかも何物も神の外にあり得ないとすれば、この矛盾はただ、物はその根拠を神自身において彼自身でないところのもの即ち彼の存在の根拠であるところのもののうちに有するということによってのみ解決される。この根拠をシェリングはここでもまさに憧憬と称している。神の存在と彼の存在の根拠とは区別されながら一つであるように、超越は同時に内在でなければならぬ。絶対的なロゴスと絶対的なパトスとは直ちに一つでなければならぬ。形のないパトスは魔術として形をとることによって世界形成的となる。もし魔術にも何らかの論理があるとすれば、それは構想力の論理のごときものでなければならぬであろう。もとより世界は単なる魔術によって形成されるのではない。世界は技術的に形成されてゆくのである。魔術と技術とが区別されねばならぬところに、世界の形成に関する神話的形像の限界が認められる。しかしやがて究明されるごとく技術そのもののうちには構想力の論理がある。

すでに述べたごとく歴史は創造としても伝承としても神話を含んでいる。創造と伝承あるいは伝統とは結び附いたものである。伝承そのものがひとつの創造であり、創造そのものも伝統なしには不可能である。文化と神話との深いつながりは、創造の根柢にはシェリング的な自然がなければならぬところに考えられるであろう。「神話なしにはあらゆる文化はその健康な創造的な自然力を失う。神話をもって囲まれた地平が初めてひとつの全体の文化の運動を統一に纏め上げる」、とニーチェは『悲劇の誕生』の中で書いている。文化の創造の根柢にはパトス的なものがある。もとより単なるパトスからは文化は生じない。創造のパトスは憧憬、本質への飢餓、即ちイデアに対するエロスでなければならず、かようなものとして神話的なものでなければならぬ。神話は単にパトス的なものでなくてイデア的なものに関係附けられたものである。イデアを含むものとして初めて神話はひとつの全体の文化の運動を統一に纏め上げることができる。リーベルトは、歴史的なものは超歴史的なもの、形而上学的なものに関係することによって真に歴史的なものになると云い、神話の根源を超越的意味への生の転向のうちに求め、そこから文化に対する神話の一般的意義を理解しようとしている。神話の本質は、彼の云うように、絶対者を神話化することにあるのでなく、むしろ逆に絶対者が神話の前提を与えると云うべきであろう。しかしながらもしこの絶対者が彼の考えるように超越的意味、イデア的なものに過ぎないとしたならば、如何にして神話は考えられるであろうか。神話はイデからでなくイマージュから考えられるのであり、イマージュはロゴスとパトスとの統一から考えられるのである。イマージュはイデの影であるのでなく、かえってイデよりもより高きものから生まれるのである。プラトンにおいても神話は彼がそのイデア説を超えねばならなかったところに起原を有している。
 
「プラトンの神話は霊魂の神話である、すなわち内的な、もはや外的でないあるいは分割されない世界の神話である。それはそのために形像に乏しいが、しかも如何なる霊魂の教説ないし理論も透明な衣で包まれていない、霊魂そのものとその自己運動とがそれの根源であり、内的世界におけるその自己形成、かくして内的世界によって無霊魂になった外的世界を再び貫徹することがそれの目的である」、とカール・ラインハルトは書いている。プラトンの描いた神話の内容はもとより霊魂にのみ限られることなく、社会、更に世界の全体を含んでいるが、それらの神話も彼においては究極は霊魂の神話につながり、このものにおいていわば頂点に達するのである。
 
プラトンにおける神話を独立の主題として残りなく取り扱うことは我々の目的でない。ここでは我々の論述の聯関においてただ次の諸点を簡単に指摘するにとどめよう。一。神話はプラトンにおいてまず生成の問題に関係している。生成 γένεσις を有するものは理性的思惟の対象となることができぬ。純粋な思惟によって捉えられるのはつね に同一にとどまるもの、永遠なるイデアのみである。造物者 δημιουργός はこのイデアを範型として宇宙あるいは世界を形作り、世界は永遠なるものの模写もしくは形像 εικών である。かような世界はそれ自身ひとつの εικών であるところのμυθος(神話)と内的な親縁性を含んでいる。世界は生成を有するものとしてその錯動原因である空間 χώρα あるいは根本物質を前提する。即ちイデアを原因とするのみでなくまた空間を原因とする世界の生成は必然的に神話的でなければならぬ。単にイデア的でなく同時に空間的あるいは物質的であるところの世界は単なる理性の論理に従って生成するのでないと云われるであろう。しかるに生成は運動であり、運動は時間的である。時間とは何であろうか。プラトンに依れば、時間は永遠の εικών であり、統一においてとどまる永遠の、数に従って進行する模像が時間である。かくて εικών であるところの時間はまたロゴス的なものでなくてミュトス的なものであると云って好いであろう。ーー二。世界の生成は善に向かっており、また善に向かわねばならぬ、とプラトンは考えた。善は内在的性質を具えている、その点において善とイデアとは区別される。イデアは超越的であり、有機体を作りそして育てる生命力とは直接に関係を有しないに反し、善は内在的であり、すべての経験的なものはいわば自己に生具する善、その増進によってそのものが維持されるものを有している。生成したものはプラトンに従えば混合されたものであるが、それが破壊されることなしに存在するのは善の力によってである。善とは対象の側においても主観の側においても真実のあるべき存在を意味し、かくして主観と客観との間の必然的な親和を作り出すものが善である。イデアが主観に対して超越的であるに反し、主観に初めて真実の存在を与えるのは善である。しかし善は単に主観的なものでなく、主観と客観との親和を媒介するもの、例えば認識とただそれに対応する存在とを互いに関係させる媒介者が善である。かくのごとき綜合作用の意味において善の本性は生産的であり、善のみが創造的である。もとより善が単に内在的なものでないことは、かの善のイデアの思想が示している。善は種々の形態において経験の世界に住むと同じくイデアの世界に棲み得るのみでなく、元来そこに自己の故郷をもっている。経験の世界に内在する善を超えて善の純粋な、自体における存在がイデアの世界において存する。この世界においても善の機能は前の場合におけると同様であって、純粋な理性とその対象即ちイデアとの間の親和を表現するものが善自体、善のイデアにほかならない。あたかも知覚の世界において太陽が見る眼と見られる対象とに対して、両者は共に太陽によって太陽的 sonnenhaft に作られ、生産的に働くごとく、純粋な理性と純粋なイデアとは、第三の一層高きものの力に依って、理性は純粋に思惟する能力を、イデアは純粋に思惟される能力を有するような相互の関係に置かれる。この親和に対して、あらゆる二元的な乖離を克服する綜合的な、生産的な力を与えるものが善である。理念的な領域における善は眼に見ゆる世界における太陽のごときものとして表象される。かくて善は可視的な経験の世界と叡智的なイデアの世界とを包括する意味を有し、内在的にして超越的であると考え得るであろう。善のイデアはイデアを超えたものである、善の概念によってイデアの単なる超越は破られるように見える。ーー三。ところでプラトンはまた霊魂をもって生成の原因と見做している。霊魂は自己運動をなすものとして運動の始元であり、一切の生成するものはこの始元から生成する。霊魂の本質はイデアと現象との間の媒介者たるところにある。生成するものはイデアへの分与によって永遠なるものの模像であるのであるが、この分与は生成における運動の原因をなす霊魂の有するイデアへの相似 ὁμοίωσις あるいは模倣 μίμησις の活動を意味している。自己運動をなすものとして物体から区別される霊魂はまたイデアに親縁的なものである。そしてかような相似あるいは模倣への傾向性がエロスにほかならない。霊魂が生成の原因であるとすれば、生成は希求するもの、愛するものであり、これに対して存在(イデア)は希求されるもの、愛されるものである。しかるに生成が美しき秩序を有する世界の生成即ち善への生成である限り、その運動の原因である霊魂は善の性質を具えたものでなければならぬ。プラトンの世界の創造と人間の生成との神話におけるデミウルゴスは最善の霊魂と考えられることができるであろう。
 
かくしてプラトンにおける神話の所在が限界される。それは一般に生成が問題になるところに認められる。従ってそれはイデアの単なる独在と超越とが破られねばならぬと見えるところに現れる。生成はイデアのみでなくまた空間を原因とし、生成における運動の原因は霊魂であり、かかる生成はもと善への生成であって、善は単に超越的でなくまた内在的である、善なる霊魂はエロス的であり、生成は希求もしくは愛を意味している。神話はプラトンにおいて生成の、特に霊魂の、そしてエロスの神話である。もっともプラトンはイデアの先在と超越とを抱棄しようとはしなかった。従って彼は世界をイデアの εικών(Gleichnis)ーーこの語はまず修辞学的及び文法的意味を有し、次に新プラトン学派において形而上学的意味を有するに至ったーーと考えたが、それは彼においてなお真の象徴の意味(我々はこれを象徴されるものなくして象徴するものという意味に解する)を有せず、イデアの模倣の意味を有するに過ぎなかった。イデアの先在が信じられている場合、構想力はもちろん重要な問題となることができぬ。プラトンはイデアの認識に関して想起 ἀνάμνησις の説を述べた。想起は構想力の一種として取り扱われるのがつねである。認識想起説もプラトンにおいてはイデアの先在説に重心を有するが、それ自身神話の性質を帯びている。もとよりイデアの先在が信じられている限り想起の作用には何らの創造性も認められないであろう。しかしながらもしアナムネシスとイデアとの関係が一層内面的に考えられねばならぬとするならば、また生成はエロスであるという思想がいわば実証的に確かめられねばならぬとするならば、そこに必然的に構想力とその論理の問題が生じて来なければならないであろう。構想力の論理の問題は、プラトン哲学について云えば、まず存在論的には、生成の問題に関して、混合の論理ーー生成したものは『ティマイオス』に依れば形相と空間とから成るものであり、『フィレボス』に依れば無限定と限定とから成るものであって、混合されたもの τό μικτός であるーーの問題である、次にそれは認識論的には、想起の論理の問題である、と云い得るであろう。混合の論理や想起の論理はただ構想力の論理として発展させられ得るように思われる。
 
しかるにプラトンの想起の説においてすでに構想力の論理の問題の端緒を見出し得るとする者は、後のプラトン主義者アウグスティヌスにおける記憶 memoria の説がこの問題に対して一層重要な関係を有することを認めるであろう。記憶は古くから構想力として取り扱われてきたところのものである。アウグスティヌスに依れば、記憶はまず感覚的事物からもたらされた無数の形像 imagines の宝庫である。そこにはまた感官に与えられたものをあるいは増加しあるいは減少しあるいは他の何らかの仕方で変化することによって我々が思惟をもって加工したものも保存されている。記憶に入るのは物そのものでなくて物の形像であり、それは想起されることによって思惟用に供せられる。また記憶において私は私自身に出会う。私は私が何を、何処で、何時なしたか、そしてその際如何なる感情をもったかを想起する。自分の経験によって得たにせよ他人を信じることによって得たにせよ、私が想起するすべてのものは記憶のうちに存する。そこにおいて私は今日のものを過去のものと結合し、それに基づいて私の未来の行為並びにその希望する結果がまた現在するかのように考える。これら一切は記憶において現在 praesentia である。記憶に入るのは物の形像のみでなく、物そのものもまた記憶に入っている。例えば、私が間の三つの種類、即ち、それは存在するか、何であるか、如何なる性質のものであるか(an sit, quid sit, quale sit)ということを区別せねばならぬと聴くとき、私はこれらの言葉を構成する音声の形像を、その音響は風に消えてもはや存在しないに拘らず、保持する。しかしその音声によって表されたものは、私はこれを何らかの感官を通じて捉えたのではない、従ってこの場合形像でなく物そのものが私の記憶のうちに蔵せられる。しかも私がそれを学んだとき、私は単に他人を信じたのでなく、私はそれを私の心において認め、その真理を承認したのである。従ってそれは私がそれを学ぶ前にも私の心のうちに存在したのでなければならぬ。かくてアウグスティヌスは、我々がそれを想起するのでなければ我々はそれを認識しないというプラトン的思想を述べている。それは我々の眼から消えていたにしても、我々の記憶のうちに保持されていたのである。プラトンのイデア説はここに主体的な基礎附けを与えられたように見える。私の記憶は右のごとき事物のほか数の諸関係や諸法則のごときものを含むのみでなく、また特に、私は私の想起を想起する meminisse me memini のである。私が今それを想起することができたということを後に想起するならば、この想起も私はこれを私の記憶に負うている。記憶は更に私の感情 affectiones をも包む。しかも、私は私のかつての喜びを喜ぶことなしに想い起こし、私の過去の悲しみを悲しみなしに想い起こし、昔の恐怖を恐怖なしに想い起こし、また以前の欲望を欲望なしに想い起こす。この場合記憶に入っているのは物そのものでなく、物の形像でもなく、物の観念もしくは記号 notiones vel notationesである。更に神ですら私は私の記憶の外の何処において見出し得るであろうか。「私が汝を記憶しているのでなければ、如何にして私は汝を見出すであろうか」et quomodo iam inveniam te, si memor non sum tui? とアウグスティヌスは書いている。
 
かように記憶はあらゆるものを包むとアウグスティヌスは考えた。私が記憶と云い、そして私の云うところのものを理解するとき、私はそれを記憶のほか何処において理解するであろうか。また私が忘却について語り、そして私の語るところのものを知るとき、私はそれを想起しているのでなければ、如何にしてその事柄を知るであろうか。私が記憶を想起する場合、記憶そのものは自己自身によって自己に現在的である。私が忘却を想う場合、記憶と忘却との両者が現在的である、即ちそれによって私が想起する記憶とそれについて私が想起する忘却とが共に現在的である。忘却とは記憶の欠乏以外のものでない。かくしてアウグスティヌスに従えば、記憶とは現在である。記憶そのものは自己自身によって自己に現在的であり、忘却も記憶によって現在的になる。過去も未来も記憶において現在的である。記憶の現在は、過去現在未来と継起すると考えられる現在のことでなく、かえってこの現在がそれにおいて過去及び未来と同時存在的であるような現在でなければならぬ。構想力の概念と時間の概念とは密接な関係を有するのであるが、その場合時間の問題は単に直線的に経過する時間の問題であることができない。アウグスティヌスのいう記憶はかくのごとき時間を超えた現在である。すでに未開人の神話において歴史的存在としての祖先から区別される神話的存在としての祖先はかくのごとき記憶においてあると云われ得るであろう。記憶の現在は永遠にほかならないにしても、それが特に記憶と結び附けられるところに、それはまた時間との内的な関係を含まねばならぬ。ヘーゲル的なイデーによっては何らかの永遠は考え得るにしても時間は考えられず、あるいは外面的なものとなってしまうのほかない。時間の問題は何よりも構想力の問題であり、構想力の問題は根本において時間の問題であると云うことができる。しかも構想力の論理は時間を単に時間として考えるのでなく、時間を同時に永遠との関係において考えることを要求している。プラトンの云ったように、時間は永遠の形像 εικών もしくは象徴である。象徴の真の意味は象徴されるものなくして象徴することであり、時間はそのまま永遠の象徴であるのであって、時間を離れて別にそこに象徴されるものとしての永遠があるのではない。永遠は自らは無にして時間において現れる、あるいは逆に、時間は自らは無にして永遠を象徴する。かような時間とそして永遠とに関係附けられる構想力は単に記憶ーーアウグスティヌスの記憶の説はプラトン主義的前提と結び附いているーーとしては規定され得ず、むしろ記憶は根源的な構想力の有限なものにおける象徴と見られねばならぬ。
 
すでにプラトンにおいて認められるように、時間は或る神話的なものである。ヴァレリイの云ったごとく、「時間はーー神話中の神話、神話の無限定なもの」である。そして歴史的なものは時間的なものであるというところに、神話と歴史との根本的な関係が考えられるであろう。神話的時間は物理的時間とは異なっている。神話の出来事は時間の外において、言い換えると、時間の全体の拡がりにおいて、あるいはむしそこではすべての時間が共に同時存在的に結び附けられるところの全体の時間を包むもののうちにおいて行われる。しかしあらゆる神話はこのような永遠を年代的系列に位置附ける努力をしている。この理由によって、どのような神話も起原の神話 mythes d'origine であるか終末論的神話 mythes eschatologiques である。「それが事物の起原もしくは終末を説明するのは、かようなことが本質的に神話の機能であるのに依るのでなく、かえって神話が時間のうちにあるのに依るのである」。普通に時間は継起的な同質的な持続として表象され、点と間隔の観念が暦を構成している。しかるに神話的時間にとっては暦は時間を測るものでなく、むしろ時間をリズム化するものである。呪術や宗教にとって、時間の継起的な諸部分は同質的でなく、大いさにおいて同等に見える諸部分も必ずしも同等でなく、同価値でもない、同じと見做される諸部分が同等で同価値であるのは、暦におけるその位置に依るのである、とユベールとモースは云っている。神話の出来事の起こる時間はかようにして非連続的である、その進行のうちには突変がある。時間の連続は危機的時期 dates critiques によって中断される。すべての神話は危機意識の産物であると云い得るであろう。危機的時期を構成する時間はそれに先立つあるいはそれに継続する如何なる時間とも異なり、且つ危機的時期によって分かたれた持続は相互に異なっている。他方、二つの連結された危機的時期の間に含まれる諸中間時は、各々、連続的で分割されない。言い換えると、具体的な持続の長さはそれに相応する時代 période のそれに完全に同化される。むしろペリオードの概念そのものが危機的時期とその中間時との完全な同化によって、従って中間時と瞬間とが相互に帰することによって、それ故にまた時間的即空間的であることによって生まれるのである。神話的時間は量的なものでなく、それぞれ性質的に区別されるペリオードにおいてある。かようにして神話的時間は物理的時間とは異なる歴史的時間を現し、そこに歴史と神話との根本的な聯関が考えられるであろう。

神話が想像もしくは構想力の産物であるということは多数の学者によって一致して認められている。例えばリボーのごときは、神話は想像力の歴史における黄金時代、その発展の絶頂を現し、神話の創造において想像力の花は満開すると云っている。かるにひとはまたかかる構想力をしばしば夢に比している。夢そのものも構想力の産物と考えられるのである。それ故に夢の成立を明らかにすることは一般に構想力の、特に神話における構想力の本質を理解する上に必要な鍵を提供し得ると思われる。人間の意識生活にとって夢は例外であるとすれば、例外はここでも法則を証明するであろう。
 
普通に夢は覚醒時の意識とは全く性質を異にするもののように見られている。しかるにベルグソンはかくのごとき見解に反対し、夢の成立は何ら神秘的なものを有することなく、我々の夢は我々の現実の世界の視覚とほぼ同じ仕方で作られ、意識の機構は二つの場合において同一であると論じている。そこにおいて最も重要な役割を演ずるのは記憶である。まず夢の材料はつねに現実の感覚である。この材料なしに夢は何物をも作ることができぬ。夢みている者にもし何らの音の感覚も与えられていないとしたならば、彼の夢の中に音が現れるということは不可能である。ただ夢にとって材料となる感覚は決定されておらぬ規定されておらぬ漠然とした感覚である。それの決定の形式は記憶である。その意味において夢はほとんど全く過去の再生であって、ただこの過去が我々に再認し難いような過去であるに過ぎない。覚醒時においても我々は、現れては消えつつ代わる代わる我々の注意を請求する多数の記憶をもっている。これらの記憶は我々の境遇並びに我々の行動と密接に結び附いている。人間においては、記憶は動物におけるほど多く行動の虜でないにしても、なお行動に密着したものである。我々の記憶は、与えられた瞬間において、いわばその絶えず動く頂点が我々の現在と合致しこれと一緒に未来へ突き入るところのピラミッドを形作っている。しかるにかように我々の現在の関心の上に身を置く記憶の背後に、その底に、意識によって照らし出された場面の下部に、他の無数の記憶が存在する。そこに我々の過去の生活が、そのあらゆる細部に至るまで、保存されている。それらの無数の記憶は、我々が行動している限り表面に現れ出ることは不可能であるが、我々が現在の境遇と緊迫した行動とに無関心になる場合、言い換えると我々が眠っている場合、起き出て躍り出し、かような記憶の幽霊のうち、その時我々に与えられている漠然とした感覚と同化し得るもの、また特に我々の身体の諸器官の状態に従って醸し出されている我々の一般的な情緒的状態と調和し得るものは、色や音や更に物質性を身につけることに成功する。かようにして記憶と感覚との間に連結が行われるとき夢が生まれる。それは覚醒時における場合と同一の機構である。例えばひとが本を読むとき、彼は印刷された文字を一々完全に見ているのではない、誤植や脱落に気附かないことも度々である、その場合実際に見られた文字が記憶を喚び起こし、この記憶がひとつの幻覚 hallucination の形式において外部に投射されるのであって、読者が見るのは文字そのものと同じ程度にあるいはそれ以上にこの記憶なのである。「我々が物を見る場合我々が我々に与えるのは、現実のわく の中へ挿入された一種の幻覚である」、とベルグソンは云っている。記憶は意識の底において外部に出る機会を待っているのであり、その条件が与えられるや否や、感覚と結び附いて自己を実現する。夢と覚醒時との差異は、覚醒時における我々の生活は行動、努力、集中であるに反し、夢においては我々はかかる生活から脱して無関心な状態にあるというに過ぎない。
 
かくてベルグソンに依れば、記憶は、夢においても覚醒時においても、一種の幻覚として、感覚のうちに挿入され、感覚と結び附いている。感覚に形式を与えるものは記憶である。そのことから我々は、我々自身の意味において、感覚もまたすでに構想力の論理的形式に入っている、と考え得るであろう。かかる形式は、我々に依れば、例えば、特殊的即一般的ということ、主観的即客観的ということ、実在的即観念的ということ、等々である。記憶のいわば幻覚的な働きによって特殊的な感覚は同時に一般性を有するのであり、また感覚のうちに記憶が挿入されていることによって主観的な感覚は同時に客観的になると共に、逆に、感覚の客観性は同時に主観性を得るのであり、更にそのことによって物質的な感覚は観念性を担って形像として存在し得るのである。ベルグソンは、感覚と記憶との結合において過去は現在と合致し、これと一緒に未来へ突き入ると述べているが、記憶は単に過去であるのでなく、むしろアウグスティヌスが考えたごとく、記憶はそれにおいて過去も未来も現在的である現在でなければならぬであろう。現実の意識は、ベルグソンの云うごとく、過去を含み未来を孕んで無限に流動するというのみでなく、過去も未来も現在に同時存在的であると考えられなければならぬ。またベルグソンは夢は一般に創造的でないと論じているが、そのことは彼が記憶を単に過去と見ることに関係するのであって、もし記憶が真の現在であるとするならば、かかる真の現在である記憶ーーそれはもはや記憶とはいい得ず、まさに構想力と云わねばならぬものであるーーの作用は創造的であると考え得るであろう。ベルグソン哲学の制限はその内在論にある。彼は創造的進化について語っているが、その内在論の立場においては進化は語ることができるとしても、創造は語ることができぬ。もとより我々は夢が真に創造的であると云うのではない。真に創造的であるのはかえって現実であり、現実そのもののうちに構想力が認められるのである。
 
ところで夢を想像の、しかも或る創造的な構想力の産物と見た人にフォルケルトのごときがある。夢は眠りにおいて見られるのが普通であるが、いまもし精神の本質にして絶えず意識的にとどまるということに存し、眠りはこのような精神に対する単に身体的な妨害としてのみ生ずる意識の中断であるとしたならば、眠りはそれが我々にとって実際にあるものとは全く違ったものでなければならぬ筈である、とフォルケルトは云っている。即ちその場合、眠りは精神の最も内的な本質に対し身体によって企てられた敵意ある干渉、外的な力の暴行を意味し、従って眠りは、自由を奪われたり病気に襲われたりした場合のように、何か敵対的なもの、圧迫的なもの、不安なもの、あるいは更に苦痛に充ちたものとしてすら感ぜられねばならぬ筈である。しかるに最も強い、最高度に自覚的な精神に対してすら眠りのもたらす甘さは、周期的に無意識的になるということが、それ故に自己を絶えず意識的にしておく力を有しないということが精神の本質そのものに属することを証明している。覚醒時においては精神は自己を母なる自然の地盤から引き離し、全世界に鋭く対立し、自己の無自然の、反省された内面性を自己の中心とする。眠りにおいて精神は再び、単純な、静かに創造する自然のうちに、差し当たり自己の身体の自然のうちに下りて親密に解け入り、かくして精神の本質は自然の充実し飽満せる生命に近づく。意識的な精神において論理的に分離され、抽象のこまかなふるい によって稀薄にされたものはそこにおいて融合し、いわば濃厚な液に固まり、直観の 凝聚 ぎょうしゅう に流れ込む。覚醒した意識におけるあの主観と客観との間の鋭い緊張に対立するところの具体的な自然の創造に接近した精神状態を考えることなしには、およそ精神が眠りにおいて、この眠りから覚めたとき感じるあのあらゆる機能の力強い爽快さを如何にして得て来ることができるかは理解されない。まった き眠りの後に与えられるものが一種の飽満の、充実あるいは成熟の感情であるということは極めて特徴的なことである。かくてフォルケルトに依れば、夢は眠れる精神の積極的な面、その無意識的な、具体的な、自然的な存在の或る物を有するのでなければならない。言い換えると、夢の生ずる場合の根本的な且つ主要な力は実に無意識的に創造する構想力である。
 
夢は単なる聯想作用の産物でなく、構想力の創造に属している。夢に見られるのは幽霊のごとき幻影でなく、手にとることのできる体現的な現実であり、そしてそこでは多くのものが象徴的である。眠りにおいては主観と客観との間の鋭い緊張がなると云われるが、しかし夢の最も著しい特色は、主観と考えられるような自己自身も夢の世界のうちへ入って働き、且つこの世界が見られているということである。私は主観として何処か世界の外にあってこれに対しているのでなく、行動する私自身が世界のうちに入っているのである。従って構想力は創造的自然のごときものであるとしても、かような自然は単に主観と客観との融合、主観と客観との同一などというものでなく、かえって主観的・客観的なものを超えたものでなければならぬ。夢の世界においては、行動する私自身がこの世界のうちに入り、且つこの世界が見られている。そこに構想力の超越性の真面目を窺うことができる。眠りにおいて我々は無意識的に創造する自然に近づくとフォルケルトが考えたごとく、構想力はかような自然、シェリングのいうがごとき自然を除いては理解され得ないであろう。もとよりフォルケルトも云ったごとく、夢において我々が世界の内奥に近づくというのは我々が夢の像を通して経験するものによってでなく、我々が夢を生産する過程において無意識的に為し且つ在るところのものによってである。世界が夢であるというのでなく、世界の創造の根柢に構想力が考えられねばならぬというのである。外界の実在性という有名な問題に対する解決も、夢においては働く自己がこの世界のうちに入り、且つこの世界が見られているというところに、重要な示唆が与えられている。
 
構想力は或る自然、主体的な意味における自然、従ってパトスと結び附いている。かかる自然が何であり、かかるパトスはロゴスと如何に関係するかが問題でなければならぬ。この自然は差し当たり単に我々の身体をいうのでなく、また社会的身体を意味している。社会的身体と構想力との聯関は神話において特に明瞭である。リボーは、古代の神話的活動は文明人においてもなお存在するかと問い、文明の変化した条件に対して変化し適合した神話と見做され得る文学のごときものを別にしても、その純粋な形態における、個人的でなくて集団的な、無名の、無意識的に行われる神話的活動は、今なお伝説 légende の生産において残存すると肯定的に答えている。神話が自然の現象に関わるに反し伝説は人物及び歴史的事件に関わると見ることができるが、その場合生産的な想像力の位置について考えるならば、神話の伝説に対する関係は幻覚 hallucination に対する錯覚 illusion の関係に似ている、とリボーは述べている。即ち錯覚と伝説とは部分的想像であり、幻覚と神話とは全体的想像であるというのである。かかる説はともかくとして、客観的知識の進歩によって自然に関する神話が消滅した場合においても人間や歴史についての伝説が絶えず生産されているということは、人間とか歴史とかが決して単に客観的に捉えられ得るものでなくかえってどこまでも主体的なものであるということに基づいている。プラトンの神話が根本において霊魂の神話であったということもそこに深い意味が認められるであろう。リボーは、神話の創造において想像力は完全な自発性において現れ、あらゆる模倣と伝統とから自由に、何らの制定された形式にも束縛されることなく創造し得ると述べているが、しかしレヴィ・ブリュールの云うごとく、未開人の心理はかえって完全に集合表象に支配され、彼らの生活も慣習や制度や伝統に囚われており、神話そのものが実にかような慣習、制度、伝統を維持しようとする集合表象の産物である。構想力の、そしてその論理の完全な発現は神話においてでなく、他の高次の文化において認められねばならぬ。
 
ところで神話はもと芸術的な表現あるいは理論的な説明を目的とするものでなく、むしろ実践的な意味を有するものである。神話の本質はその物語のテキストからのみ理解され得るものでない、我々はその社会学的関係に注目しなければならぬ。テキストはもちろん甚だ重要ではあるが、そのコンテキストを離れては生命のないものである。物語の興味はそれが物語られる仕方によって著しく強められ、その固有の性格を与えられるのである。マリノウスキーは云っている、「執行の全性質、音声や擬態、聴衆の刺戟と反応は土人にとってテキストと同様の重要性を有している。社会学者は土人から彼の方針を取って来なければならぬ。執行は、また、その固有の時の定めーー一日の時間、将来の仕事を待つそしてお伽噺の呪術によって微かに影響された新芽の園を背景にもった、季節ーーのうちにおかれねばならぬ。我々はまた個人的所有の社会学的脈絡、面白いフィクションの社交的機能と文化的役割を心に留めて忘れてはならぬ。これらすべての要素は等しく関係がある、すべてはテキストと同様に研究されねばならぬ。物語は紙の上にでなく土人の生活のうちに生きているのである、物語がそのうちに栄える雰囲気を喚び起こし得ることなしに学者がそれを書きとめる場合、彼は我々に実在の切断された一片を与えたに過ぎない」。かようにして神話は単に観念であるのでなく、むしろ一つの制度の意味を有している。神話を芸術的ないし理論的生産物のごとく見る者は神話の制度的性質を理解することができぬ。もっとも神話が制度的なものと考えられるのはそのコンテキストの関係においてであって、そのテキスト自身はどこまでも観念的なものであると云われるであろう。この観念的なものは合理的なものでなく、客観性を欠き、主観的なものに過ぎない、従って歴史を神話と見ることは歴史を主観的なものにしてしまう危険を有している。構想力の論理が単にイメージュの論理であり、かかるイメージュは神話や夢におけるごとく単にイマジナリィなものであるならば、それは歴史の論理であり得ないであろう。歴史は観念的なもの、主観的なものでなくて、最も現実的なもの、最も客観的なものである。構想力の論理は単なるイメージュの論理でなく、むしろフォームの論理でなければならぬ。かくのごとき客観的歴史的なフォームとしてまず考えられるのは制度である。 そこで我々は進んで制度と構想力との関係を研究しなければならぬ。