イギリス人の目に映じたる鮮人問題
マンチェスター・ガーディアン紙(10月9日号)
(前略)地震中に虐殺、掠奪、強姦等が行われたというような怖ろしい話もある。なかでも最も甚だしいのは東京にいる日本の過激主義者等が今秋の摂政の宮の御成婚式の当日に備えるために爆弾を集めていたのが、こんどの震災で火を発したのであるという噂である。そうした噂が当局官憲を驚かしたことは論勿である。それは、つとめて、すべての不祥事は皆不逞鮮人と逃亡した鮮人の囚人との所為であるといいふらしたことをもっても分明である。東京を焼き払ったのも鮮人である。虐殺をしたり掠奪をやったのも鮮人である。そして鮮人は見つけ次第殺すべしと命令が出た。こうした流言蜚語がいたるところに広がった。けれども官憲は直ちにかかる観念を盛行させつつあることの誤りを知った。実にこうした噂は地方にも行われた。鮮人が井戸のなかへ毒薬を投じたといわれた。それは神戸にまでも伝わってきた。のちに、当局はかかる噂は禁止したけれども。かえってあべこべの結果であった。
かかる流言の当然の影響として朝鮮人、支那人、あやしい服装をしている日本人までが虐殺された。虐殺者はあたかも獣群のような低級な本能にしたがって乱暴をはたらいた。「自警団」は東京、横浜地方に所在に蜂起した。そして鮮人を出くわすごとに殺した。鮮人労働者は数千人も日本にきていた。それはかれらは日本人よりも賃金が安いから連れてこられたのであった。しかしこの多数鮮人労働者のいたことはあまりに一般的には知れていなかった。いまでは東京横浜にはかれらの影もみえないというのはウソでもなさそうだ。当時日本人の鮮人を憎むの情は実に激しかった。そして戦争や惨忍の嫌うべきことを知っている人達さえもかれらを憎んだ。その狼藉、まことに四ヶ年の戦争を一日に縮めたようなものであった。以上のような方面のことは、今次の震災記録にはほとんど削除せられるかもしれない。しかしそれは朝鮮にては決して忘れられないであろう。朝鮮にはようやく新政治採用の曙光も見え、「もとの苦痛」も忘れられようとしていたのに。(後略)
イギリス
朝鮮人と日本震災
徳川家正
マンチェスター・ガーディアン紙(10月11日号)
右〔本稿上は上記〕のガーディアン紙の記事に対して、ロンドン、日本大使館の一等書記官徳川氏〔徳川家正〕が、同紙に宛てていわゆる鮮人虐殺事件に関する一文を送った。つぎに訳出する手紙がそれである。(訳者)
謹啓、九日発行貴紙御掲載の神戸通信に目が止まりましたが、同記事は、東京およびそのほかの地方における、朝鮮人に対する日本人の態度ということに関して、多大の印象を、一般に与えたことと信じます。それゆえに、私は震災の犠牲者ーーそれらに対して英国の上下は絶大の同情を表されたことでしたーーに対する正義において、事の真相をここに表明しておきたいと思います。
当大使館の入手しました公報によりますと、不逞鮮人が地震の機会を利用して爆弾、石油その他放火材料をもって広く火災を惹き起こそうとしたということです。そのうえにかれらはまたあたかも騒乱や強姦の悪業までも犯したらしいのです。火災を大きくしようとする企画があらかじめなされてたことも暗号電信で、官憲の手に証拠が握られたし、船橋の無線電信局を破壊せんとしたり、救済の仕事を防害せんとする明白な目的をもって橋梁を打壊せんとする徴候も発見されたのです。これらの事実の報道は、シベリアや上海の各国体と連絡ある不逞鮮人や日本の過激主義者等が起こそうとしたのではないかという一般的な疑惑と結びついて、民衆の感情はいやがうえにも興奮せしめられたものと思われます。ことに、すでに、地震によって神経的におびえていたうえに、さらにこうした恐るべきことに面接してますますいらだったらしいのです。その結果、日本人のいくらかの群衆が、かれらがもって防衛なりとする手段をとり、そして暴行をはたらいた多くの鮮人を捕えたのです、またおそらくは一部分の鮮人は罪なくして殺されたり、傷つけられたりしたらしくあります。それは震災の翌日のことであります。しかし官憲はいちはやく、戒厳令の下に、武器を携帯することを禁じたり、鮮人に対して乱暴することを禁じたりして、こうした 椿事 を防止せんとする手段を講じました。かれらの保護の一方法として政府は、約五千人の朝鮮人をーーそれは多くは労働者と学生でしたがーー集めて警官保護の下に習志野へ千五百、目黒へ六百、東京近郊へ二千五百というように、各所へ分置しました。これらの鮮人に食料供給の道を講じたことはもちろんであります。やがて民衆の興奮も消え失せて、いまでは多くの鮮人が活々として復興の仕事にしたがっています。
こういうわけでありますから、東京および横浜付近には鮮人の影も見えなくなったという貴紙の御想像はまったく肯ぜられないことであります。いやかえって事実は御想像の反対であります。不逞鮮人というのは日本におる鮮人のうちでも、その割合はごく少ないので、多くは平和的な従法的な市民であることを御忘れなきよう願います。しかも法に服従しない分子は大震害の機会を利用して、あるいは掠奪暴行を行なうようなことがあるかもしれないことは申すまでもないことであります。
大震火災の試練と日本
カレント・ヒストリー誌(10月号)
ほとんど記憶しえないほどの昔から、日本人はまったくの火山脈のうえに、生まれたり死んだり、働いたり、楽しんだり、あるいは高楼を築き、あるいは自らが住居を営んだりしたのであった。この日本人のすべての活動の土台になった火山脈は、科学的にいえば地球の漸次冷却していくにつれてできる土地の皺みと、 したがってできる地球上の突起とから生じた隆起線である。こうして地球の変化は、程度こそよほどすくないけれども、いまなお現につづいているものである。いまや日本人が回復せんと焦慮している大惨害を与えたこのたびの大地震も、非常に大きな海中の地すべりによって惹起されたのは明らかな事実で、この地すべりも、おそらく地球の皺縮運動の合成からであろう。日本の地震学者のいうところによれば、日本は古くから毎六十年毎に一つずつの大地震に見舞われているという。小さな地震にいたっては、専門家の発表をほとんど信ずることのできないほど多数にある。ワシントンにおける日本大使館に到着したその筋の報告によれば、九月一日の大地震の後、同月八日の夜までに無慮千三百十九回以上の震動があったそうである。日本における平均一年の地震数はまた専門家のいうところによれば、微妙な地震計だけに感ずる小さいものをのぞいても、千四百六十回以上であるという。日本人はちょうど画があればそのあとには夜の来るように、毎十年または二十年目毎には、どこかで大きな震災のあるべきを覚悟している。このたびの大震災があってからあと一時ある者は咀われ〔原文ママ〕から首府をほかに移さんことを提議した。しかしどこへ持っていけばよいか? しかし一千五百九十六年の大地震は同市を全滅せしめなお当時の大都市であった伏見をも覆して終わったことがある。日本人はこのような不安定な国土に勇気と慰安との最善をつくして依然居止まっているよう運命づけられているかの観がある。しかして実にかれらは今回の一災害に驚くべき堅忍と英雄的決心とをもって対峙した。 全東京市が熱狂混乱の渦中にあるとき、早くも総理大臣山本伯〔山本権兵衛〕および内務大臣後藤子爵〔後藤新平〕は全国民に向かって充分平成にかつ勇気を失わないよう勧告を発した。その勧告にいわく、「我々は互いに協力一致して復旧を計らなければならない。……勇気ある国民はいかなる場合に当たっても勇敢でなければならない。困難な場合に当たっては平素よりはなお一層勇敢でなければならない。全国民は一斉に協力して最善を尽くし、 復活のために猛進しなければならない。」と。
この前古未曾有の大地震は、九月一日の正午数分前なんらの予告的徴候もなく突然に襲来した。 その震動は実に驚くばかりで、その破壊作用は 僅々 数分間で完全に行われ、東京、 横浜、横須賀の三市のみならずその付近の諸市を壊滅せしめてしまった。この災害に 搗 てて加えてこれらの破壊された都市にはいずれも火災が起こって、その猛威は石油タンクの爆発、破壊ガスパイプ等のためにますます甚だしくなった。東京市にては同日の午後四時までには十二ヶ所以上に火災が起こっていて、これらの火災はついに三日の夕刻までつづいた。そうしてついに三十五万戸の家屋すなわち全市戸数の七割五分はまったくの煙と灰に化してしまったのであった。海軍省および司法省の建物をのぞくほかの官省建築物はこの猛火に 甞 められてしまった。外国大公使館もすべて同様な運命に陥ったのであったが、大公使およびその随員家族等は幸いにして安全に逃れたのであった。いまや百四十万の市民すなわち全東京市人口のほとんど八割に当たる人々は、住むに家もなく、その妻子兄弟から互いに離ればなれになって永久に別れてしまったものも無数にある。 震災後の混乱状態をいまだ脱しない目下では、正確な死者の数を明らかにすることもほとんど不可能である。いわゆるその筋の調査の結果なるものも、単純な普通の目撃者の話くらいしかの信用しか置けない程度のものである。九月七日において、内務省は東京における死者の数を四万七千人と計算した。 その翌日この数字は六万人に増加された。それが同月十日には同じような調査の基礎から出ているにもかかわらず八万四千百十四人に変更された〔東京都によると、最終的な死者数は、105,385人〕。さらに十二日には死者および傷者の合計、百三十五万六千七百四十九人と発表されたのであった。したがってこの稿をしたためる現在(九月十三日)までは死傷者の数を正確に突きとめることは不可能である。一層綿密な調査の行われるようになった暁には、東京市中の死者の数はまず十万人には達するであろうし、その割合で負傷者の数も一層増加していることであろうと思われる。
東京市は二十九平方マイルの面積を占め、人口二百十七万四千人、戸数四十五万七千戸である。この数字は千九百二十年十月の国勢調査の結果によるもので、 大東京市接続の近郊地帯のものを含んでいない。おそらく郊外の人口だけでも百五十万人はあるであろう。 これらの東京市、その近郊等を含んでいるところの東京府というものの面積は、百〇三平方マイルあり、人口は四百万人を算している。 東京市は十五の区に分かれ、そのなかの六区すなわち、本所、深川、日本橋、京橋、神田、および赤坂の各区は今回の震災により全滅したと伝えられるるところである。これら六区の合計面積は十六・七平方マイルに当たり、人口は百十万であったのである。総計面積一四六平方マイル、人口四十七万四千人を算したる、 下谷、本郷、芝および四ツ谷の四区はなかば壊滅の由伝えられている。 総面積一一・二平方マイル、人口二十一万五千人あった小石川、 麹町および赤坂の一部は、一部分破壊された由である。ただ最後の二区すなわち、麻布区および牛込区は破壊されなかった由であるが、やはり損害は莫大であるという。この両者の面積七・六平方マイル、人口十九万人である。
東京市の目抜きの商業街は皆この全滅区域中、なかんずく日本橋および京橋区にあったものである。これらの区域には、最新の設備を備えた大百貨店が多数に存在していた。このなかには東京市における第五街(アメリカの 5th avenue を指す)ともいうべき外国人にもよく知られていた銀座通りも含まれているし、ブロードウェー(Broadway)ともいうべき日本橋通り、日本銀行、三井銀行のごとき大建築物もこの区域に存していたのであった。かの有名な実業家にして、慈善家として知られている澁澤子爵〔当時、兜町に事務所を構えていた渋沢栄一〕も、その事務所をこの方面に持っていられたのであるが同氏に関する消息はいまだに達していない。なかば全滅として伝えられている方面には、無数の貴重品の蒐集せられた帝国博物館、日本の古い名画家 の手になった得難い傑作を多数に蔵している徳川将軍の墓所増上寺、 そのほか帝国大学等が位していたのである。一部分全滅と伝えられた区域には宮城も含まれているのであるが、幸いにしてその難を免れた。この方面には、宮城と中央停車場との間約二平方マイルの面積を占めて極めて近代的の一大実業街が存在している。この区域中には鉄筋コンクリートの各数百万円を投じたとみえる堂々たる大高楼が六階ないし十二階の高さをもって、そびえ立っている。日本人の誇りとしている帝国ホテル、銀行集会所〔東京銀行集会所〕、工業倶楽部〔日本工業倶楽部〕、東京會館等の建物が併立している。これらの最新式の建築物は大部分は、多数の手痛い損害を被りながらも、ソックリそのままに残っているといわれる。外国の大使館も、諸官庁ともにこの方面に位置していたのである。
東京市から十八マイル離れて同市の外港をなしている横浜市においては、その人口および戸数の比例からいうと、災害は東京市のそれ以上であった。千九百二十年の国勢調査の結果の示すところによれば、同市は四十二万三千人の人口を有し、そのなかには三千人の欧州人およびアメリカ人が含まれていた。 東京市と同市とのあいだの交通通信機関が全然杜絶しているために、かつては繁栄を極めたこの大商業都市が被った損害に関する詳細な報道をいまだ得ることができない。 外国人の死者は九月八日の概算では百五十人と発表されている。ちょうど夏季であったから多くの外人は避暑地へ去っていたとしても、北の数字は多少内輪に見積られすぎたように思われる。横浜地方の人々の恰好の遊業地として知られている箱根の温泉地方では、いまだ確実に知れているというではないが、約一万人の死者を出したと伝えられている。したがってこの数字のなかには多数の外人も入っているのは、想像に難くない。メキシコおよびイタリアの両領事館をのぞいては、ほかの領事館はすべて破壊せられてしまった。横浜にいあわせた領事は、ドイツ、イタリア、メキシコ領事をのぞいて震災のために生命を奪われてしまった。九月七日までの調査によれば、横浜における死者二万三千人、負傷者四万人と算せられている。その翌日の発表は死負傷者合わせて十一万人と註される。横浜市の全戸数九万五千戸のなか、すくなくも七万五千戸までは地震および火災のために破壊し尽くされてしまった。
大震の翌日、東京はいまなお盛んに震動しているし、混乱もその極みに達している最中に、赤坂東宮御所に隣れる野天において、山本新内閣が組織せられた。絶大なる勇気と決心とをもって新内閣はこの困難なる場合に重大な位置を引き受けたのであった。そうして同内閣は山本総理および後藤内相を頭に、新たに救済局を設置し、なほ、東京府および神奈川、千葉、埼玉の一府三県にわたって戒厳令を敷いた。その面積一万八百三十九平方マイルにおよぶ。徴発令および暴利取締令がつづいて発布せられ、この非常の場合の食物不足を利用して利を占めんとするものに厳罰を科した。訓練の届いた兵士および工兵隊は続々近県の各連隊から馳せ付けた。そうしてこれらの軍隊の美事な働きによって、東京、横浜両市の秩序が完全に維持され、同月八日までには、東京市における電気、水道の一部分が回復せらるるにいたった。
東京およびそのほかの付近の小都市に約一万の朝鮮人がいあわせたことはまたすくなからざる困難を軍隊の活動に与えた。外国人の目撃者は市外において鮮人が、防御力のない日本人のうえに加えた血惨い暴行を語っている。東京市においては、この惨事の最中に朝鮮人で放火、掠奪等の罪に問われた者もあった。神経の興奮している日本人は、この非人道的な行為に対して非常な激怒を感じて、自らこれらの不逞鮮人を処分せんとしたが、軍隊はこれを抑制してそうして鮮人達を安全なところへ避難せしめた。
大震後ただちに政府は九百五十万円(四百七十五万ドル)を救済費に支出し、天皇陛下より一千万円(五百万ドル)の御下賜金が下された。九月八日には政府の救済支出金は五億二千万円(二億六千万ドル)に増加された。三井、岩崎(三菱)両家よりは各二百五十万ドルずつの資金が提供され、住友よりは百二十五万ドルの寄付がなされた。九月八日までには、日本銀行、三菱銀行、三井銀行、横浜正金銀行、興業銀行、安田銀行、豪灣銀行、勸業銀行、第一銀行および第三十一銀行等の諸銀行は業務を開始した。これらの諸銀行の金庫地下室は無事で、そのなかの一部分はその建物も損害を被らなかった。日本銀行は二十三億二千万円の資金を有している。横浜正金銀行はこの災害のあったにもかかわらず、六分の半期配当金を現金にて支払うべき旨を九月六日に発表した。同日、二十七個の生命保険会社は震災による死亡による保険金支払い要求に応ずることに決定した。同時にほかの保険会社も、その保険証券中に記載せられた地震約款のあるのも顧みず、損害の金額を支払うべきことに決した。九月七日には、政府は九月一日以前に契約せられた債務に対し、災害を被りたる区域を限って、三十日間の支払い延期を命令した。この支払い延期は、政府および市の債務、賃金の支払い要求、または百円を超過せざる預金の引出には適用さるることがない。九月八日までには、最も損害の甚だしかった東海道線をのぞいては、ほかの東京市に入る鉄道線は、工兵隊の活動の結果再び通ずるようになった。東京および横浜間の電話および交通機もまた復旧した。
一方、全世界の人々は日本の救済に力を尽くした。そのなかでもとくにアメリカ合衆国は最もよく好意を表し、日本との親交の根強くかつ真実であるのを事実に証明した。その日本を救助するに当たっては、合衆国政府もその国民もともに、ちょうど災厄が自分達自身に降り掛かってきたかのように真剣になってその努力の有りたけを尽くしてくれた。合衆国の軍艦は他国のいずれにも先んじて、食料品および医薬材を満載して災害の現状に馳せ付けた。ちょうどこの稿をしたためるときまでに、アメリカ赤十字の救済金だけでもすでにほとんど五百万ドルに達してしまった。かくのごとき自発的の美しい同情の発露は、日本とアメリカとのあいだの関係に、深い感銘を残さずにはおかない。摂政殿下〔裕仁親王・のちの昭和天皇〕および山本総理大臣よりは、アメリカがその虐げられた国民に対して尽くしてくれた好意にして感謝の電信を発せられた。
日本の被った物質的損害の真正の程度は、目下のところ計算することが不可能である。ある専門家達は東京市および横浜市だけで十億ドルとしている。この両市の外に、災害区域は五六県を含む広大な面積にわたっている。公報は非常に簡單で詳細は分明せぬけれど、つぎの諸地方はいずれも全部もしくは一部分破壊されたものと思われる。
府県名 面積(平方マイル) 人口
東京府 六一三・二 三、七〇〇、〇〇〇
神奈川 六九〇・六 一、三二四、〇〇〇
千 葉 一、九四〇・九 一、三三六、〇〇〇
静 岡 二、九九四・七 一、五五〇、〇〇〇
埼 玉 一、五八三・六 一、三二〇、〇〇〇
山 梨 二、三一五・七 五八四、〇〇〇
合 計 一〇、一三八・七 九、八一四、〇〇〇
東京、神奈川および千葉の府県は、東京湾に沿うて半円形をなしている。これらの地方が最も損害が甚だしい。これらのなかには、東京市、横浜市のほかに軍港のある横須賀市、海岸避暑地として聞こえた鎌倉、山の遊楽地として名高い箱根等が含まれている。また千葉県の首都である同名の千葉市および五六千ないし六万位の人口を有するそのほかの数多の都市もこの区域内にあるものである。すくなくも半部分は襲われたはずの静岡県は、箱根山の彼方、聖山として知られた富士山の麓に位しかつ太平洋に面している。そのところは茶の生産をもって知られているところである。震動は海岸に沿うた部分に最も激甚であったが、その破壊力は遠く内地へもおよんだ。したがって海岸に沿うていない埼玉、山梨の地方も同様に災害を免るることができなかった。
日本はこの危急の場合に、内務大臣として後藤子爵を有していたことは実に幸いであった。復興の重任は子の双肩にかかっている。子は大なる才量と鋭い観察力の人である。子は偉大な理想を蔵し、もし自身に国家のために尽くすべきものと信ずるときは、財力も努力をも惜しまざる人である。子のその優れた指揮の下に、東京と横浜は、震災前よりもさらに立派な近世的都市となって灰燼のなかより再現するであろう。さらに幸いなるは、この災害を被った地方が日本の工業的中心地方でなかったことである。東京市は二三の最新式の紡績工場、電気工業工場、化学工場等をもっていたが、むしろ東京は生産的都会というよりは消費地たるの位置にあるものであった。日本はこの危難を甘受しながらも、打ち克ち難き勇猛心と、過去をいさぎよく諦めた歓喜の情とをもって将来に突進するであろう。
ドイツ
地震の政治的影響
ーー飢饉前の日本。東京の騒擾ーー
フォルウォルト紙(9月6日号)
九月四日 ロンドン通信員発
今般の日本の大地震の災禍は、メッシーナにおける、あるいはサンフランシスコにおける地震が、イタリアあるいはアメリカの経済的政治的状態に大なる影響をおよぼさなかったとは、まったくその類を異にする。これに反し、日本はこの地震により非常に多くのものを失い、ために日本の国際的地位はこの悲惨事により影響せられずにいられなかったのである。大戦中日本はいちじるしい産業上の進歩を遂げた。したがって日本の金融状態は盛況を呈せんとしつつあった。しかし平和克復は日本に対して大なる衝撃を与え、再び戦争によって獲得したるものの一部を失わさせた。ゆえに日本にはいまや貧弱なる金融の準備しかなくなっていた。大震災は日本の産業的金融的中心を滅茶々々に破壊してしまった。ほとんど大部分の中央機関と、技術的に科学的に進歩した設備を有する東京を失った。しかしとくに痛ましいのは指導的人物と経済生活の組織者とが受けた損失である。今度の大震災に際して、日本がいかなる打撃を被ったかは、マンチェスターガーディアン紙の本日の社説がよく表現している。該紙は論じて曰く、「日本は短時間のうちに、大戦により損害を被り、貧乏になった欧州人の状態と同じ状態になった。日本における惨害区域は、破壊されたフランスの諸州とほとんどその面積を等しくし、その人命における損害は、ベルギー、アメリカのそれとほとんど同数である。日本は東京とともにその神経中枢たる行政諸官庁を失った。ために大平洋上における勢力関係がまったく突然一変したかのような有様になった。この点において、ある程度まで政治的状態に影響をおよぼしたのである。日本はその力を削がるること甚大であって、実に自己を主張し自己を防衛する能力を失ったわけである。」ここにおいてマンチェスターガーディアン紙は、まったくその卓見を称賛するに足るべき要求をもって結んでいる。曰く、「この不幸より決して外交上の利益を引き出してはならない。また日本を以後数年間以前の力を所有しているものと同様に取り扱わねばならない。」と。ベルメル紙は、日本の震災を目して、世界戦争以来の重大事件だといっている。さらに論じて曰く「この大震災は日本の歴史の全過程をまったく一変させるかもしれない。しかしそうでないにしても、とにかく日本がその瘡痍を癒し損害を回復するには数年を要するであろう。日本の震災は世界史上における悲劇的経験というべきである。ゆえに我々はまず第一に人間的な暖かき同情を示さねばならない。」と。すべての当地の新聞は同じ論調である。日本の工業全滅の結果、日本は近々のうちは、欧州の購買者となり、以前よりは世界の舞台上におけるその役割の重大さを減ずるかもしれない。さらにアジア市場におけるめざましき日本の競争ぶりは以前よりもその活気を失うかもしれない。最近の報道によれば、死者の総数五十万に達し〔実際には、死者の総数は約10万5,000人である〕、破壊家屋は三十万戸におよぶとのことである。死者のうちには、二人の閣員があり、政治的権力絶大な松方侯がいると伝えられる〔実際に松方正義が没したのは、翌1924年7月で、関東大震災とは無関係である〕。スター紙によると、復興はすくなくとも十億ポンドを要するであろうと。カーゾン卿〔イギリスのジョージ・カーゾン。当時、ボールドウィン内閣で外務大臣を務めていた〕は日本大使に同情を述べ、政府のなしえる範囲においていかなる援助にても提供することを約した。ドイツ留守大使〔当時の駐日ドイツ大使はヴィルヘルム・ゾルフ。留守とは、日本に不在だったのだろう〕の代理として、大使秘書官ドゥフールは日本大使を訪問して同情の意を表した。
九月四日 サンスランシスコ通信員発
当地に達した無線電信によれば、東京においては、生活必要品の欠乏により騒擾が勃発したと。憲兵は発砲し、両国橋は一瞬のうちに墜落した、山手方面からの、非常に多数な避難者がその上に乗りかかったからである。
九月四日 ロンドン発
長崎発の汽船「シンボー丸」の船長の報告によれば帝都全市は灰燼の山であると、傷がない建物は一つも残っていない。東京における大火は全市何物も残らないようになって、日曜の午後五時に鎮火した。汽船コレア丸の乗客の話によると、横浜にはわずか四万の住民しか残っていない。ほかのすべての住民は死んだか、あるいは避難してしまった。サンフランシスコに到着したる報道によれば、宮城も軍隊をもって警戒されている。
九月四日 パリ通信員発
本日の夕刊は大阪よりの来電を登載し報じて曰く、地震による死者三百万に達し、とくに東京のみにて三十万におよぶと、北京よりの急報によれば死者総数二百万を越えると〔前述の通り、実際の死者の総数は約10万5,000人である〕。
九月四日 パリ通信員発
日本よりの報道は、いまや多く到着したが、しかしその内容は矛盾してい、どれを真とも判じ難い。ハルピンからの通信は、死者の総数は三百万と見積っている。北京よりの急電によれば二十万ないし三十万の犠牲者である。地震、火災、水害の災禍につづいて、いまや飢餓が襲ってきた。支那政府は大量の米を東京に送った。つぎに掲げる目撃者の話は大阪毎日新聞の報道によるものである。しかしその敘述はきわめて簡単で、電報体でこの災厄の最初の印象のみを語っている。正午頃東京はおそるべき地震に見舞われた。種々の強さの地震が十度ないし十二度つづいて襲った。人家は次々に倒れた。建築物はすべて倒壊、すくなくとも半壊した。人々は狂気のごとく街上を馳けまわっている。日没にいたるまで絶えず新しき震動が襲う。数丁の個所から火を発した。嵐は全市に火焰を吹きまくった。水道は破裂し消火の能力がない、恐ろしき世界の破滅である。
九月四日 ロンドン発
ロイター北京通信、一般客の談話により、新任首相山本伯〔山本権兵衛〕の暗殺を行わんとした者のあることを確かめた。しかし山本伯殺害の風評は確実ではない。山本首相が水交倶楽部の会議に列席したとき、暗殺を行わんとしたものらしい。伯の友人の勇敢なる庇護により、刺客はその計画を遂行しえなかった。富岡の無線電信によれば、警察当局の見積りは、東京における死者五十万、倒壊家屋三十万戸であると。伝うるところによれば、ホテルの倒壊のため欧州人の死者十人を出した。その他数人は、横浜において海嘯のために溺死した、東京のある鉄道停車場において、おそるべき悲劇が起こった。もはや停車場において安全な避難所を見出すことのできなくなった千を超える避難民が、その停車場前の上野公園に集まっていた。そのとき火焰が襲ってきた。避難民は恐怖に襲われ逃げまわった。幾多の婦人や子供は踏み躙られて死んだ。
ロイター神戸通信。横浜より身をもって逃れた外国人の罹災者の談によれば、千以上の外国人の住民が、横浜に帰ってきていた。イギリスならびにアメリカの領事が犠牲者のなかに見出されはしないかとおそれていると。聞くところによれば東京駐在のイギリス大使は無事であったと。
日本の無産階級を救え!
ーー一万五千円 救恤 についてーー
インプレコール紙(10月4日号)
日本の労働者の状態は、つねに悲惨きわまるものであった。かれらのある者は雇主により、またかれらのある者は資本家により容赦なく搾取され、○○○○〔原文ママ〕のもとに圧迫され、ふみつけられていた。かれらは飢餓に瀕し有産階級の不断の圧制に堪えなければならなかった。
日本の労働者の状態は震災後の今日では、さらに一層困難なものとなっている。未曾有の大震害は日本の産業を破壊してしまった。それはとりも直さず労働者の賃金を構成していたわずかな生存手段破壊し終わったことである。
多数の日本の労働者は、あるいは死し、あるいは傷つき、不具者となり、職を失い、身を覆う屋根なく、また飢餓のために、死に瀕している。しかも日本の有産階級は組織をととのえ、力を合せて、破壊された日本産業復興の重荷を全部日本無産階級に転嫁するために、あらゆる反動勢力を糾合しつつある。
万国の労働者諸君、世界の労働者諸君、日本において苦しみつつある諸君の兄弟を忘れるな、かれらを救え、かれらのために資金を集めよーーいまただちに、一刻の有余なく、日本においては、幾万の労働者が、労苦者の国際的大家族に属する幾万の兄弟が、死に瀕せんとしつつある。
R・I・L・Uは、所属各国体に、ただちに困苦せる日本無産階級のために、資金募集の運動を開始せんことを求める。R・I・L・U執行局は第一回義捐金として、一五、〇〇〇金ルーブルを送る。
万国の労働者諸君、日本における諸君の兄弟を助けよ!
送金の方法については執行局が発表するであろう。
日本労働者より万国の無産階級に訴える
鈴木文治
インプレコール紙(10月18日号)
諸君も定めし御存じの通り、今次の大震災のために、東京、横浜その他日本東部の各地が破滅に帰してしまいました。しかも、その罹災者に対する救済事業が、全世界の同情にもかかわらず、思わしくいっていないこともすでに御承知かと存じます。
この国民的災害のときにあたって、我らは世界の労働者団体に向かって、とくにつぎの件に関して御注意を喚起すべくお訴えしたいと思います。すなわち、東京横浜は、大阪神戸地方とともに、日本の二大産業の中心地であります。一体日本には、大ざっぱな計算をしてみても、約二百万の労働者(日稼労働者をのぞく)がおりますが、そのなかで四十万は東京横浜付近に、五十万は大阪神戸付近に集まっておるのです、統一ある無産者の核心もまた、これら二つの産業中心地に存在します、鉱山労働者をのぞいて。労働組合の全会員は約十二万を算します。上記の地方の破滅によって、労働者の大多数がいまや失業の状態に陥っております。で労働組合の多数の会員は復興の仕事に目下従事しておる次第です。
けれども、現今、日本で行われているような雇用組織では全然不完全です。それに、労働組合の会員は、就職が困難であるという傾向さえみえるのです。我らが黙すればそれをいいことにして日本の当局者は何をしでかすかは容易に想像できるでしょう。それは御存じの通り、日本の当局は労働階級や労働組合を、まるで百年も前にあったような組合禁止法のむしかえしのような官憲の圧迫をもって、制抑しているのです。ごく最近にすら、日本当局は労働組合の存在を否認し、また我らの国際的連合を無視しております。
多年の辛惨を経て発達してきた日本の労働組合運動の真の基礎は、いまや日本当局のために破壊されんとしています。我らは全力を挙げて、労働組合主義の根底を擁護せんとしています。これがために、まず我らは、破滅した地方の仲間を救済することからはじめようと思います、そしてそれには衣も住居も失った兄弟の差し当たっての必要品を供給することが第一着の仕事であるのです。
さらに、我らは失業した兄弟のために仕事を見つけてやることに尽力しています。罹災者は多くしかも基金はすくないのです。我らの苦しい財政状態では日本の労働組合員の救済は短時日間きり与えることはできません。また十分な復興資金を集めることをさまたげる官憲の圧迫に備えることもできません。
いまや官憲はあらゆる手段を講じて、我らの仲間が必要なる救済基金を集めることを妨げようとしています。我らは日本の労働組合運動を現在の危機から救うために最善の戦いをなすことを決心しております。
それと同時に、我らは諸君ヨーロッパおよびアメリカの労働団体に向かってこの重なる時期に当たって財的援助を与えられんことをお願いしたく思います。どんな些細の御援助でも、諸君によってなされたものならば、我が日本とヨーロッパおよびアメリカの労働運動のうちに最もよき連盟の実をあげることであり、またこれら団体間の最もよき刺激ともなることと思います。
同時にまた、日本労働団体の代表者として、我らは、将来において、同様事件の起こったさいに諸君今次の御同情に報いるところあるであろうことを付記しておきます、
横浜震災実見記
ロスタ〔タスの前身〕特派員アントーノフ
イズウエスチャ紙
学者の過察
九月一日の大地震は、当地において伝えられた情報に反し、日本にとってまったく予期せざるところであった。最近数ヶ月間日本における最も著名なる地震学者(大森〔大森房吉〕、藤原〔藤原咲平か〕およびそのほか)は、六七両月中しばしば地下の震動があったにもかかわらず、近き将来において大破壊力を有する地震は予期せられないとの結論に達していた。
ところが、九月一日正午十二時にいたり突如大地震がはじまった、これは一四九八年ならびに一七〇七年に日本に起こった大地震に譲らぬほど強大なものであった。
私は自身一年半も日本に滞在していたが、家屋を破壊し、人命を奪うような地震には、一度も出くわさなかった。しかも強い地震があっても、それにはつねに(もっとも数秒間ではあるが)微動の先行するが例であった。しかるに今回は、最初から大地が非常な力で振り動かされた。私は妻とともに一階建木造家屋の一室におった。室の扉は、外方へ開いていた。そのおかげで私たちは、数秒間にかねて考えていた場所まで駆け出すことができた。もし何事かで周囲の家屋が倒されても、そこならば決して危険はないと、かねてから考えていたのである。
しかしこの間二三十歩の距離を走るのがきわめて困難であった。大地はとうてい立っていられないほど動搖した。誰かが地上に建てられているすべてのものを残らず振り落してしまおうとして、大地を振り動かしてでもいるかのようであった。かといって、地上に坐って、両手で支えていても、やはり身体が一方が他方へ振り動かされて、手の筋肉もこれを支えることができぬほどであった。私たちのそばにおった一日本人は、桜の木にしがみついたが、その手は絶えず幹から振り放された。
最初の震動が一分間つづいたか、それとも二分間つづいたか、私は判然と思い浮かべることはできないが、地震がはじまってから瞬間にしてすべての建物は倒壊しだした。まず第一に私たちは、私たちの住んでいた家から瓦が残らず振り落されるのを認めた。その結果重い荷物を卸した家は、ついに傾斜したがまだ倒れはしなかった。つぎに旅館の本館が坂を転落する音響を聞いた。旅館のすぐ近くにあった円錐形の英国会堂は、広い土台のうえに建っていたにもかかわらず、 骨牌 の家のようにびしゃりと潰れた。それから一方にあった木造の家屋は、骨破微塵に壊れて、その破片が周囲の広場に飛び散った。平地にある市街の中心からは、家屋の倒壊する音響が響いてきた。しかし倒壊した家屋から立ちのぼる砂塵の柱のために何物も十分に見分けることができなかった。かくして数秒間のあとには、五十万の人口を有する一大都市は、まったく廃墟となった。
地震の真最中における感想
もちろん、人々は同様の現象を種々様々に感ずるものである。がしかしあの場合唯一すべての人に共通の感じであったろうと言いえるものがある。それは地震中すべての人が、自身の無力を強く意識したことである。私の周囲におったすべての人の蒼白な顔には、恐怖の色が反映していた。大地が陥没しやしまいか、海嘯が襲ってきはしまいか、脚下に噴火口が現れはしまいか、地中から毒ガスが渦を巻いて吹き出しはしまいか、この恐ろしい震動に引きつづいて、何が起こってくるだろうと、堪えきれぬ不安に襲われつつも、すべての人はこれを予防すべくどうすることもできなかった。無力の意識と危機における不可抗の意識とが、あの場合最も恐ろしいものであつた。現に私も第二回と第三回との震動の合間に、暗号と金とを取り出すために丘の断面を固めている石垣の上に傾斜して倒れかからんとしている家のなかへ這い込んだときよりも、倒壊する家屋の下敷となる心配のない安全な場所に佇んでたときのほうがはるかに強い恐怖を感じた。
私たちは横浜とその郊外で四日間を過ごした。それは神戸行列車の発車するところへ辿り着きたいと思ったからである。この四日間大小の地震が不断に揺り返された。もちろん、震動の性質は変わっていたが、震動の感覚は依然として変わらなかった。振動は、波形になった、地上におりつt、軽い小舟で波の上に浮んでいるような動揺を感じた。周囲を見回すと、眼に映ずるものは、林に覆われた丘と高くそそりたった岩石の断崖絶壁のみであった。平常はすべてが岩石の地盤の上に安全に立っているようであったが、こうなってみると、道路はちょうど過ぎ去った汽船が海上に残していった筋のやうに、うねうねくと曲がっている。脚下の大地は、岩石の地盤ではなくして、ようやく固まりかけた寒天のように思われた。
ようやく第三回目の震動が終わって、周囲一面に立てこめた砂塵が散ってしまうと、速くも火事がはじまって煙が柱のように立ちのぼっている。日本の家屋は、都市でさえも、ごくわずかの例外をのぞき、ことごとく木造である。しかも地震がはじまったときは、正午であったので、どこの家でも日本独特の小さいカマドを炊いていた。だから当日朝から吹きまくってい強風は、ただちに数ヶ所に火事を呼び起こした。丘からの下り路を倒壊家屋で遮られ、それに近所で火事が起こったために私たちのいた場所を逃れでるには、ただ一筋の路が残っているだけであったが、その脱出口さえも各所に新たなる火の手がのぼっていまにも通れなくなりそうである。それで私たちはまず市の公園に、つぎに市外へと向かった。路は丘の間に通じているものだけが横浜全市において完全に残っていた。この路ももちろん家屋の倒壊でところどころ遮断されてはいたが、しかしここには火事がほとんどなかった。私たちがようやくここへ辿り着いたのは、地震がはじまって十五分か二十分を経過したときであったが、このとき私が最も驚いたのは、日本人がこの一大異変にさいして泰然と落ち着き払っていることであった。横浜市民は、幾筋かの帯のように市外へ流れ出た。やはり同様の帯が前者に逆行して流れた。しかし何にも今来は認められなかった。叫喚も号泣も聞こえなかった………ただある人々の眼に涙が認められたのみであった。私はパリのオペラ劇場に起こった有名な火事〔1873年10月28日に起きたサル・ル・ペルティエの焼失のことか〕のことを思い出した。そのとき、『文化をもって誇る』パリ人らは、ただちに野獣のごとき天性を発揮した、ところが、横浜ではそういうことはすこしもなかった。日本人は、風呂敷包を抱えた男女に対し、普通のときと同様に路を譲った。小商人たちは倒壊した家屋のなかから満足に残っている品物を引き出し、一銭の値上げもせずにそれを売った。労働者や一般無産市民や農民等は、避難者に握り飯やお菓子や水などを薦めた。こうした同情は、ただ私一人だけが認めたのではない。そのあと私が汽船中で会った外国人もやはりこれと同様のことを語っていた。
不思議な鮮人沙汰
地震が起こってほどなく日本人の囚人と一緒に脱獄した朝鮮人らが、不逞団を組織して、日本人を掠奪し、殺害しているとの噂が広まりはじめた。早速在郷軍人から自警団が組織された。
竹槍や金棒やあるいは拳銃やそのほか手当たり次第の武器を持った在郷軍人らが、夜中の警戒に当たった。そして『朝鮮人』と見ると、ただちにこれを射殺した。しかし私は誰一人として朝鮮人を実際に目撃した者がなかったことを信ずる。なんとなれば私は捕縛されたり射殺されたりした朝鮮人が、実際に日本人を襲撃したという情報を一度も聞かなかったのみならず、朝鮮人が掠奪をし、殺人を行った場所を具体的に判然と指示されたことがなかったからである。で、朝鮮人の襲撃に関する流言蜚語は、一つは神経の興奮によるものであろうし、また一つは日本人の良心によるものと思う。日本の官憲は実際朝鮮人を虐待しているので、日本に何か不幸が起こったときには、朝鮮人はこの機会を利用して幾分でも復讐せんとするに相違ないと予期していたのである。あるいは日本の官憲は、間接に日本の労働者や 鮮人の叛乱説を流布することに援助したかもしれない。それは朝鮮人や日本人の革命家を射殺したことを弁明するためである。
地震のために日本はどれほどの損害を被ったかといえば、 マニラ、グアムおよびそのほかの無線電信局からアメリカ人が伝播した情報は、全然誇張されたものであった。新噴火口など一つも現れなかった。富士山もラヴァを噴出しなかった。私は地震後しばしば富士山の頂上を眺めたが、その形態は地震前とすこしも変わっていない。また新しい島も現れなければ、古い島が海中に陥没したものもない。しかしもっぱら日本が今回の震災の結果莫大の損害を被ったことは争われない。日本は人口の最も稠密した地点に一大打撃を被ったからである。
鮮人事件、大杉事件のロシアにおける世論
山内封介
日本における主義者〔無政府主義者、共産主義者、社会主義者〕圧迫に開する情報は、九月中旬頃からモスクワの新聞紙上に現われはじめた。最初は日本の主義者が朝鮮人と共謀し、震火災の混乱に乗じて日本を革命せんとするもののごとくに報ぜられ、いたるところで軍隊と鮮人との衝突が起こり、すでに地方の小都市のあるものは鮮人の占領するところとなったとも伝えられた。
そのあとほどなく堺利彦氏が大阪において殺害されたという報道が新聞に現れた〔実際には殺害されていない。堺利彦の没年は、震災よりあとの1933年である〕。日本は無政府主義者、共産主義者、社会主義者らと朝鮮人とのために全国的に大混乱に陥っているかのごとくに想像された。
大杉栄氏殺害〔9月16日〕の報は十月三四日頃にモスクワの新聞紙を賑わした。しかも大杉一人ではなく、野枝〔伊藤野枝〕と子供までも殺されたと伝えられたので(子供というのは大杉氏の実子のことと思われた。〔実際に殺害されたのは、実子ではなく、当時6才の甥・橘宗一〕)日本はいかにも一大混乱に陥り、軍隊と警官とが狂暴の限りを尽くしているかのようにロシア人には思われたのも無理はない。
片山潜氏の批評
ちょうどそのころ私は第三インターナショナルの寄宿舎リュックス旅館に片山潜氏を訪問した。日本の新聞などで伝えられる片山氏は、いかにも若々しは、生気溌剌たる革命家のようであるが、実際に会ってみると、もう六十に近い好々爺である。でぶでぶと太った黒の眼鏡をかけ、薄くなった頭髪を綺麗に後方へ撫でつけている格好など、ちょっと高利貸の老爺のような感じがする。
片山氏も堺氏と大杉氏一家が殺害されたことについて、「あんな場合に日本にいる主義者らが朝鮮人とともに実行運動を起こそうとは想像されない。朝鮮人と主義者とのあいだには何の関係もあるまい。また朝鮮人にしてもいかに日本が震災により混乱に陥ったからといって、日本の地方都市を占領するほどの勢力をもちえるはずがない。朝鮮人と主義者との行動に関するロシア側の情報は、よほど誇張されているものとみてよかろう。ことに大杉氏が妻子とともに殺害されたなどは、 宛然 日本の封建時代に見られたような事件で、今日戶主の犯罪が一家全体におよぶとは、いかに日本だからといって考えられないことである。で大杉一家殺害の情報は、何かの誤解であろうと思うが、もし不幸にして事実であったとしたら、それはたしかに軍閥の私怨によるものであろう。大杉氏が先頃フランスへ逃れたことなどから思い合わせると、大杉一家殺害は、どうしても軍閥の私怨に基因するものとしか思われない。」ときわめて穏やかな口調で静かに語った。
ロシア紙の痛烈な批評
片山氏がきわめて穏やかに大杉一家殺害事件に関する批評を試みたに反し、ロシア紙は痛烈に反響した。
『日本はまだ相変わらず暴力をもって思想を圧迫せんとしている。暴力をもって思想を圧迫することは、思想をして反抗的実行に変わらしむるものである。このことはロシアの悲惨な長い歴史が明らかに示している。
ことに今回の日本における社会主義者圧迫は、軍隊によって行われた。思想の圧迫もここまでくるともはやその極に達したものと見ねばならぬ。自由と幸福とを求めたロシアの人民は、しばしば軍隊の銃剣に圧迫せられたが、そのかわりこの惨劇により軍隊を真の自覚に向かわしめた。日本の軍隊も人民を圧迫することにより早晩人間としての自覚に到達するであろう。
しかのみならず、日本の陸軍は、今日の震災により従来の積極的な対外侵略政策を放棄せねばならぬようになった。しかして社会主義者殺戮もまた、日本の軍国主義凋落にさいしての 掉尾 の勇であったとみることができる。日本における社会主義的革命運動は、今回の画時代的〔画期的〕な事件を境にますます猛烈な実行に向かって 驀進 することであろう。』
たいだいこんな見解からソヴィエト政府は、日本の労働者罹災民を救援することの最も時機に適した方法であることを認めた。人道的見地から外国罹災民を救援するということは、きわめて立派に聞こえるが、その実この救護はやはり一種の宣伝の一方法である。外国の罹災民を救済するより、国内の労働者および農民中に多数の餓民があることに注意を向けるほうが順序であろうと思われるにかかわらず、ソヴィエト政府が日本の震災を利用し、日本の罹災労働者を救済することを声明したのは、明らかに世界の労働者の同情を集めるためであったことがわかる。