ポール・ガシェとウジェーヌ・ミュレール
ここに翻訳されるフランス印象派画家の手紙は、一部はドクトル・ガシェに、一部はこれもまた誠実な美術通であり、画家にとってきわめて大切な友であるミュレールに宛てられたものである。
ウジェーヌ・ミュレールは1846年ムーラン(フランス・アリエ県)に生まれ、〔アルマン・〕ギヨマンの学友で後年彼を通じて〔カミーユ・〕ピサロ、モネ、ルノアール、〔アルフレッド・〕シスレーらと知り、とくに親交を結ぶにいたった。
パリ・ヴォルテール大通り95番地に菓子店を開いていた彼は、1872年ごろ蒐集をはじめ、まもなくピサロ、ギヨマン、モネ、シスレーのすばらしい絵や、ルノアールの感嘆すべき絵が豊富になっていった。
その後オーヴェルに隠退して住宅と 画室 とを建て、絵画を全部そこへ移した。
ほとんど絵の売れない不遇な時代にあって、彼は画家にとって偉大な救済者であった。しかも眞その傑作を所蔵していたにもかかわらず、彼の名は今日ほとんど知られていない。彼は短篇小説をすこし書いたし、水彩画、パステル、油画も描いた。
そして1906年、オーヴェルで死んだ。
ドクトル・ガシェについては、セザンヌおよびファン・ゴッホの友として美術界ではとくに知られているが、マネ、ギヨマン、ピサロ、ルノアールをはじめ多くの画家たちにも厚意を寄せていた。
ドクトル・ガシェ(ポール・フェルディナン)は、1828年7月30日リール(フランス・ノール県)に生まれた。
この 市 はフランス・フランドル地方における古の首都で、フランドル語では「リッセル」とよばれていた。同市にはオランダ派とフランドル派の傑作の豊富な、立派な博物館がある。
その生まれた 市 で正規の課程を終え20才のとき(1848年)ポール・ガシェは 大学入学資格 試験を受け、医科学生名簿に登録してもらうためにパリへ出た。
1952年のはじめ、友人で同郷人である画家のアマン・ゴーティエが来て同居し、リール市から少額な年金と、まもなくそれに追加された県の年金とによって、レオン・コニエの画室にある画塾に入ることができた。
二人とも当時は学士院の裏、 セーヌ ・ サンジェルマン 街に住んでいた。そこは〔ギュスターヴ・〕 クールベ のいたオートフィユ街にちかく、しばしばビヤホールのアンドレーで、〔アンリ・〕ミュルジェール、シャンヌ、シャンフルーリ〔ジュール・フランソワ・フェリックス・フルーリ・ハッソンの筆名〕、〔フランソワ・〕ボンヴァン、〔アントワーヌ・〕シャントルイユ、〔ロドルフ・〕ブレスダンなどの「ボエーム」連にかこまれたクールベを見たものである。そのころ、未来の医師はまた〔ピエール・ジョゼフ〕プルードンを知り、その戦闘的な性格と人道主義的理論に感嘆した。そのあと彼はこうした芸術的環境において、多数の友人を得たし、医学界においてはヴィグラ、ヴォワザン、メゾンヌーヴ、トゥルソー、トレラ、リュイス、カブロル、シモンなどの諸氏の知遇を得た。
コレラの伝染についてジュラ県に派遣されんことを求め(1854年)これによって銀製賞牌を授与されたあと、かつて〔フランソワ・〕ラブレーも同様学位論文を提出した有名なモンペリエ大学で学位を得た。
この都で、ドラクロアとクールベとの友人 アルフレッド ・ ブリュイヤス と知った。これはクールベの紹介によったものである。
ついでパリに帰り、同年(1858年)10月、はじめてモントロン通り九号に診療所を設け、1863年そこを離れてフォーブール・サン・ドニに移り、以後そこで診療に従事した。
最初の脳病発作のために、シャラントンへ入院したシャルル・メリヨンを知ったのもおよそこのころ(1858年)である。
若き医家、 ガシェ博士 は医学一般を研究した。パリ病院通勤医員として長期の医学的準備の結果、のちに種々な専門をわがものにした。美術におけると同様に、医学においても該博で折衷的な彼は、多くの科目のうち特に
精神病ならびに神経病 (精神錯乱、神経官能症)(ルイス、〔J・P・〕ファルレ等の諸博土の門人。)
婦人病および小兒病 。
泌尿器病 (彼はある病症に電気療法を適用した先駆者の一人である。)
心臓病 (フィンセント・ファン・ゴッホは手にジギタリスの小枝を持つ彼を描いた。)
を修めたのである。
常に新しい科学的方法を求め、早くから〔サミュエル・〕 ハーネマン の学説に通暁していた、それに対する公的な排斥が彼の興味を惹いたからである。
彼は北仏鉄道のシャベルにおける椿事(1879年1月19日)の結果、肝臓部に強度の打撲傷をうけ、オーヴェルの補助医師に任ぜられた。
彼は公的にはパリでのみ勤務し、私的にはオーヴェルで診察していた。しかし美術家のため、その友人たちのためにはいたるところで親切に診療していた。
医師兼国民軍軍医の彼は、1870年の戦争勃発の際には、野戦病院の医師となり、ついでサン・マルタン 衛戍 病院医官として1871年5月カブロール博士の招聘をうけた。
それで彼とその家族はパリの包囲の中に、日を送った。
1872年、オーヴェルに別荘を 購 め、以後多くの美術家がそこで過ごすこととなった、「印象派」の巨匠中その最初はギヨマンとセザンヌで、またそこから一里離れたポントワーズに住むピサロももちろんそれに属する。この三人ともドクトルのもとで創作をしたが、セザンヌが最も精勤であった、彼が近所に小さい家を借りていたからである(1873年)。
この地方に来たドクトル・ガシェは、1861年以来住んでいた〔シャルル=フランソワ・〕ドービニーに逢った、そして彼を通じて他にジュール・デュプレ、ヴィレー・ル・デュックおよびドービニーの讃美者あるいは弟子である美術家アロンジェ、ポーヴリー、ペレー、ブールジェ嬢を知った。ときどきは熱烈な賞讃をよせているドーミエにも逢った。
パリではカフェの「ラ・ヌーヴェル・アテーヌ」へ通った、そこではモネ、ルノアール、〔マルスラン・〕デブータン、〔ノルベール・〕グヌットのような友人、あるいは〔エドガー・〕ドガ、〔ルイ・エドモン・〕デュランティ等の知人にも出逢った。ピサロを通じてクロード・モネを知ったのであるが、その不運に際してドクトルはまたある援助を惜しまなかった、ほとんど家族全部の世話をして、できるかぎり激励した。1890年フィンセント・ファン・ゴッホが南仏から帰りオーヴェルに着いたとき、ドクトルはすでに以前から、たとえば新流派の名品のみをあげれば、ギヨマン、セザンス、ルノアール、シスレー、ピサロの作品を所蔵していた。フィンセントも往時のセザンヌのごとく、彼の思うままにしばしばその家に来て制作した。
彼はそこで種々の絵を描いたが、そのなかには友人ドクトル・ガシェの肖像がある。これはまたエッチングに掘られて、彼の唯一のエッチングとなった。こうして彼は自分の性格とほとんどおなじ独自の、そして認められることのない個性、すなわちその特殊の研究によって病気を貫く感情の絶妙さを発揮している博愛家の性格を世に示した。
ドクトル・ガッシュは、美術と美術家を愛したが、ことに好きだったのは「 独立派 」であり、騎人たちであった。そして彼はそこに特別に構成された頭脳を感じた。 官立展 などはおよそ彼を退屈がらせ、その審査員の不公平はつとにドラクロアやセザンヌのごとき「 気質 」に、あるいはクールベやマネのごとくサロンの追放を意とせぬ連中に対する彼の熱情をよび起こした。
彼自身多くの素描、水彩画、油絵、版画をよくし、いつも’P. Van Ryssel’の雅号で署名をした。
彼はときどき地方のサロンに、いやもっとしばしばアンデパンダン展へ、あらゆる巨匠の絵を出品した。その展覧会で、彼の旧知であり尊敬する〔ジョルジュ・〕スーラ、セザンヌ、〔アンリ・ド・トゥールーズ=〕ロートレック、〔アンリ・〕マチス、ファン・ゴッホの作品を人々が鑑賞することができたのはまったく彼のおかげである。
かれはその生命を終えるまで忠実に医療に従事しことにハーネマンの学説を実行し、彼の信念の全力をホメオパシー療法に捧げた感があった。
彼は1909年1月9日、オーヴェルで死んだ。
式場隆三郎への手紙
式場隆三郎博士 日本 静岡
拝啓 「印象派の手紙」を飾るための挿絵を8月25日中央公論社宛書留印刷物として発送しました。
お約束のーーーそしてガシェ蒐集品の未発表の絵を代表する六枚の写真にルノアール筆のシスレーの肖像を一枚加えました。ルノアールがミュレールに宛てた手紙のなかでこの絵のことを話しているからです。
その二 ガシェ博士の写真一枚
その三 ガシェ博士の自筆(外国人には読み難いためにフランス語の自筆の転写を添えて)この自筆だけはガシェ博士の肖像と共にステロ版に附してあります。
その四 ドラットル画小生の石版刷によるミュレールの肖像一枚(エル・ヴァン・リッセル)
この二枚の肖像は二つの伝記、すなわちミュレールとガシェ博士の伝記の挿絵に用いるためです。
明日(9月4日)左記の 本文 を書留印刷物としてお送りします。
その一 書簡(ギヨマン七通ではなく八通、ピサロ、モネ、ルノアール、シスレーのもの)。
その二 拙筆日本語の標題一つ。
その三 伝記二つ、ミュレールとガシェのもの。
その四 読者のたの註と訳者のための説明。
全部到着の節はお手数ながらご一報ください。
でき得るならこの発表された仕事をあなたに親しく見ていただきたいものです、それはあなたがこういう種類の仕事によく精通しているからです。東京へお出でになり、社長にお会いでしたら、この仕事に関するあなたのお考えをお聞かせください。
我々欧州人にとってはこうした手紙は、「ドラクロアの手紙」や「フィンセント・ファン・ゴッホの手紙」同様の興味があることを憚るところなく申し上げます。これは印象派美術史の一部分なのですから。
挿絵にいたってはいまだ断じて複製されなかったものです。
以上のことについてはでき得るかぎり速やかに貴簡をいただきたくまた「テオからフィセント・ファン・ゴッホの手紙」への翻訳をしておいでかどうかをお忘れなきようお伝え願います。
こよなき思い出と満腔の友情をささげて。