PAINTING

ガシェとミュレールへの手紙[7通]

カミーユ・ピサロ

式場隆三郎訳

Published in 1872 - 1889|Archived in February 15th, 2024

Image: Camille Pissarro, “Marketplace in Pontoise”, 1886.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ルイス・ガシェが編んだ『印象派画家の手紙』から、カミーユ・ピサロがポール・ガシェ(父)およびウジェーヌ・ミュレールに宛てた手紙を、訳注も含めて収録したものである。
ARCHIVE編集部による(とくに人名に関する)補足は〔 〕内に入れた。五通目の日付の「(?)」は、おそらく編者のガシェが補ったもの。
旧字・旧仮名遣い・地名や人名、年号、一部漢字・表現は、最小限度の範囲で現代的な表記に改め、一部漢字にルビを振った。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:カミーユ・ピサロ(1830 - 1903)訳者:式場隆三郎
題名:ガシェとミュレールへの手紙[7通]原題:「ピサロの手紙」
初出:1872 - 1889年
出典:『印象派画家の手紙』(耕進社。1935年。49-64ページ)

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1872年4月 パリにて

親愛なるドクトル〔医師だったポール・ガシェのこと〕
君の絵を二枚、日の出と雪の印象、それに〔アマン・〕ゴーティエ(1)の絵を持って来た。 今夕 こんゆう それを君の所へ持ってゆきたい、ほとんど家族全部が恐ろしい流行性感冒にやられて、もっと早く来るわけにゆかなかった。
 
妻は大分よくなった、赤ん坊(2)もよく眠る。少しはよい方に向いて来たように思う。前よりは元気そうで絶えず笑っている、これはいい徴候だとルーヴシエンヌの親切な女達がいっている。
 
ガシェ夫人によろしく。

ピサロ

 
君の「太陽」は額縁に入るだろうと思う、一センチメートルだけ違っているが。
 
(1)ピサロはこれをパリで書いているが、当時はマルリー(セーヌ・エ・オアズ〔県〕)の付近のルーヴシエンヌにいた。彼はパリヘドクトル・ガシェの買った二枚の絵を携えて来たのである。アマン・ゴーティエは画家、リールに生れ、ピサロの友人。
(2)ジョルジュ・ピサロ(マザンナ)〔ジョルジュ・マンザナ=ピサロ。ピサロの第三子で、のちに画家に〕。病気の時はガシェが診療した、その折ピサロと一緒になって二枚の絵を選んだのである。

1873年10月11日

ポントワーズにて

親愛なるガシェ
 
四五日来、我々は人心地もない、それほど心配し切っている。
 
セザンヌが君にそう伝えたはずだがJ…(1)が病気だ、当地の医者は気管支炎と診断した、今日もさっぱりよくない、粘液熱を気使っている、赤ん坊もまた病気だ。
 
だからこんなごたごたのために、家を持とうという我々の心使いも果たせなかった。
 
君がそのことをお世話くだすったのはありがたい、だがどうも賛成できない、例の家は往来に背を向けているし低い、その不便さをどうも変えるわけにはゆかない、ともかくそれは決めなかった。
 
我々はよくなるのを待つ一方、エルミタージュ(2)の小さな家に決めた。三ヶ月払いにする。明るくはないが綺麗だし、それに空地が広い。
 
月曜に我々は引っ越す、こんな病人達を抱えてどうしたものだろう。ことに重くでもなれば。しばらく当地へおいでを願えまいか。そうしてもらえれば我々は実に嬉しい。君には患者があるだろうし、我々は何かよい助言をするだろうから。
 
妻と私からガシェ夫人によろしく。

ピサロ

 
(1)ドクトル・ガシェの診察したピサロの子供、ピサロは当時オーヴェルから四キロのポントワーズに住んでいた、1873年にセザンヌはオーヴェルに住み、しばしばポントワーズの友を訪ねた。
(2)ポントワーズの町名。

1874年1月16日

ポントワーズにて

親愛なるガシェ
 
どうか拝借のものの勘定書を送っていただきたい、近々金が手に入るはずだから差引勘定をしたいと思うから。
 
せっかくのこの機会をご利用ありたし。デュラン(1)が第二回目の支払いをするかもしれないのだから。
 
ドルオー館(2)の我々の絵の売立は最初としては相当いい具合にいった。ホールはいっぱいの人だった、この成功の光によって運命が我々に微笑みかけてくれるといいのだが。
 
私と私の妻の分を合わせてガシェ夫人によろしく。

ピサロ

 
(1)デュラン・リュエル。一流の画商、当時ラフィット通りに住み、その後マネ、ピサロ、モネ、シスレー、ルノアールなど印象派の重なる人々の展覧会を開き、その作品を最も多く売った人。
(2)「パリにおける公売をする場所」、ピサロ、ルノアール、シスレー、マネ等の印象派画家によって組織された即売会。

1883年5月26日 パリにて

親愛なるガシェ
 
シスレーは サン 、、 マルタン運河 、、、、、、 を描いた絵を欲しがっているらしい、私がそのことを君に話そうといっておいたが、君のところですごすいとま がないので、できることならその絵を貸してやっていただきたい、これ当時の作品を代表する一つとなるだろう。私としてもそうしてくださればかたじけない。
 
差し支えがなければ、デュラン・リュエル第一号氏(1)に一言お返事を願う。絵をいただきにあがるはずだから。

ピサロ

 
お留守のときはデュラン氏へお便りを乞う。
 
(1)デュラン・リュエルの父(ラフィット通り)

1878年(?) 水曜日 パリにて

親愛なるミュレール
 
一体どうしたんだね?
 
君が約束したように昨日は朝の10時まで待っていた。
 
今夜お宅にゆけるかどうか分からない、なるべく伺うようにしたい、とにかく明日は私が持って来た絵を見に来たまえ。
 
それは素晴しいものだと思う、それで人々はめづらしくも満足している。
 
マリー嬢によろしく。

1887年1月3日

エラニー・バール・ジゾール(ウール)(1)にて
 
親愛なるミュレール
 
君がちょっとほのめかした例の訪問や、火のそばで長いおしゃべりをするということは、一体どうなったか。病気でなければいいが、何か悪い心配事がこの楽しい計画を妨げたのでなければいいがと思っている。
 
そしてまたあらためてできればいいがと思っている、それまではこの機会を利用して吉例(2)のご挨拶を申し上げておく。それに私と妻と家内一同とがマリー嬢が今月末にお訪ねくださるとの手紙をもらった、妻はこの嬉しい約束に故障の起こらないようにと念じている。
 
親愛なるミューレルよ、私の心からの敬意をうけてくれたまえ。

ピサロ


(1)ピサロはポントワーズを去って、そのアトリエと住居をフランス島とノルマンディの教会であるエラニーに移した。
(2)一月中は新年の挨拶を述べることができる。

1889年2月3日 パリにて

親愛なるガシェ
 
我らの版画展覧会(1)の開催について入場券を一枚お送りする、そしてまた君がお宅で(2)みつけたという金属版をデュラン・リュエルのところへ届けてほしい。
 
閉会に近い展覧会に君のお越しがないので、宛所書が違ったのではないかと案じている。
 
この手につけ始めたエッチングをつづけたいものだ、これは素敵な準備になるだろう。
 
やがてパリを去る前にその絵を私にお返し願いたいものだと思っている。

ピサロ

 
(1)ラフィット通り、デュラン・リュエルの家で開かれた版画展。
(2)1872、73、74年ギヨマン、ピサロ、セザンヌはオーヴェルのドクトル・ガシェの許(ルビ:もと)にしばしば集まって、ドクトルと版画をつくった。セザンヌがエッチングを数枚すなわち、「ギヨマンによるセーヌの舟」、「少女の顔」、「地上に立てるギヨマン」(「首吊りのギヨマン」とよばれる)、「ビセートル通り」および「風景」をつくる気になつたのは、ピサロやヴァン・リッセル(ガシェ)のすすめによるものである。
ピサロはドクトルのところに銅の彫刻版三枚を残していった。私(ポール・〔ルイス・〕ガシェ)は50年経てそれを見した、私がその家族に返却したときは、ピサロの死んだあとであつたが、版は完成されてあり、彼が残した版画はその後展観の栄誉の得た。それはロアーズとポントワーズの風景二枚と、オーヴェルの原野の風景が一枚である。

1892年10月22日

親愛なるミュレール
 
ボルチェ(1)と私は次の木曜、君に食事に来るように伝えにゆきたい、そして君の収集品を非常に見たがっているあるアマチュアとが午後に落ち合うはずだ。
 
こうした連中が気に入らぬならご一報を乞う。
 
今年はずいぶん仕事をした、私の絵の大部分は目下モンマルトル大通りのグーピル商会(2)にある。
 
君の健康を祈り、マリー嬢に対しても同様お逢いする楽しみを待ちつつ握手する。

ギヨマン
セルヴァンドーニ通り25号

 
(1)パリの画商
(2)テオドル・ファン・ゴッホ(画家フィンセントの弟)が支配人となり、彼の友ピサロ、ギヨマンその他多数の印象派の作品の展覧会をしばしば開いた画廊。