PAINTING

ミュレールらへの手紙[20通]

オーギュスト・ルノワール

式場隆三郎訳

Published in Unknown - April 11th, 1878|Archived in February 18th, 2024

Image: Auguste Renoir, “Bal du moulin de la Galette”, 1876.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ルイス・ガシェが編んだ『印象派画家の手紙』から、オーギュスト・ルノワールがポール・ガシェ(父)およびウジェーヌ・ミュレールらに宛てた手紙を、訳注も含めて収録したものである。
ARCHIVE編集部による(とくに人名に関する)補足は〔 〕内に入れた。
旧字・旧仮名遣い・地名や人名、年号、一部漢字・表現は、最小限度の範囲で現代的な表記に改めたり開いたりし、一部漢字にルビを振り、誤字・脱字かと思われる箇所(五通目の「良心」→「両親」。十三の訳注(2)の脱落)を直した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:オーギュスト・ルノワール(1841 - 1919)訳者:式場隆三郎
題名:ミュレールらへの手紙[20通]原題:「ルノアールの手紙」
初出:1878年4月11日まで
出典:『印象派画家の手紙』(耕進社。1935年。79-122ページ)

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親愛なるミュレール君
 
この間君にお逢いしたとき、少なくとも三月前から今度の水曜に呼ばれていたことをお伝えするのを忘れてしまった。それをすっかり失念していたのでもう一度招待を受けなければならなくなった。こんなことがなければお伺いできたのだったが。
 
今度のお付き合いが音楽家たちなだけ余計に遺憾だ、彼らは音楽を談じ、そのうえ夜明けの二時まで喋ることだろう。
 
ああ残念至極!

君の     
ルノワール

親愛なるミュレール君
 
4月1日に私のと、あるいは君の(1)もかねて展覧会をするから、シスレーの肖像をお貸し願いたい。
 
何時でも木曜(ただし明日は差し支えがある)にパリへ来られたらご来訪を乞う。
 
木曜日ごとにルーヴシエンヌ(2)へ行っている。
 
二時ごろでなければ帰らない。
 
駄目ならどうか一言お知らせありたし。
 
いまだ参上を約束するわけにはいかない、実に多忙だ、それに一年以来母が病気をしている。 寸暇 すんか があるとルーヴシエンヌへ出かける。
 
君の妹さんによろしく。

ルノワール

 
(1)ミュレールの蒐集品のなかで感嘆すべきものは数々あるが、わけてもルノワールの「シスレーの肖像」(挿畫参照〔本稿では割愛〕)は、きわめて初期(1874年)の作で素晴らしいものである。ミュレールはあまり資力の豊かなアマチュアではないが、画家の友人達を励ますために彼らに肖像画を注文しようと思った。そして彼および妹の肖像をルノワールやピサロに描かせ、ルノワールには息子ポールの肖像を描かせた。アマチュアが皆その画家や同僚に五枚づつ絵を注文したら、彼らもこれほど不幸ではなかったであろう。
(2)セーヌ・エ・オアズ県の一地方、ピサロがポントワーズへ行く前に住んだマルリーの近くにある。ルノワールの母はそこに住んでいた。

親愛なる友よ(1)

 

私の牛乳屋のところでトルソー(2)が君を待っている。

 

妹さんによろしく。

 

ドクトルとグリューら(3)をお忘れなく……

ルノワール
 

(1)ミュレール。
(2)ミュレールに逢えなかったので、ルノワールは女商人のいる牛乳屋へ絵をあずけたのである。
(3)奇人で、「変死人」という小説を書いた人。小蒐集家、水曜会に出入りする人々の友人。

親愛なる友よ(1)
 
君の結構な記事を読んだ、心から感謝を述べたいと思わぬ日とてはない。私に悪意を持たぬそのご親切に対し、 寸暇 すんか を得次第ご令妹にご挨拶し、遠慮なく呼ばれたいと思っている。
 
とにかく毎木曜日午後、サン・ジョルジュ通りにいる。
 
もしパリにお越しなら少し雑談においでを待つ。
 
まもなくお目にかかる。
 
(1)ミュレール。

親愛なるミュレール
 
子供の具合が悪くなければ、数日間すなわち土曜から翌週の月曜の夕方にかお訪ねしたく思う。
 
もっといられるかどうかは申し上げられない、パリに用事があるので。金曜にもっとはっきりお知らせする。
 
トリュブロー(1)にお逢いになったら、立派な青年だと言ってくれたまえ。だが私については何も言わずにいてくだすったほうがありがたい。私の絵のことは勝手であるが、どんな風に私がカツレツを食べるかを、また私は貧しいが正直な両親から生まれたことなど世間が知るかと思うといやになる。
 
画家は彼らの悲しい物語には食傷している、そして世人はそんなことには一向無関心だ。

友情を捧げて   
ルノワール

 
(1)ポール・アレクシスの筆名。新聞記者、作家、ゾラの弟子。彼は「民衆の叫び」誌上にオーヴェルやその美術団体について一文を書いた。

親愛なるミュレール
 
息子に逢いにシャンパーニュから帰り、描きかけのものを仕上げるためにアルジャントゥイユに戻る。
 
あいにく今はオーヴェルのささやかな集いに行くことができない、君のところでは皆大変親切で自由なので、君の妹は君をすっかり気楽にさせているので、暇になったらできるだけ伺うことにする。が私はある人から肖像を頼まれている、それをやっている、いややろうと努力している、最後の仕上げに到達するにはいつもずいぶん骨が折れるのだ。
 
つまり君のお申し越しには大変感謝し、お礼を言いたい。もっとも今は差し支えるが。
 
貴著を読んだ(1)、もっと余裕のあるときにその話をしよう。
 
実に個性の出ているものだ、それを特に感じた次第だ。
 
ご希望のごとくあの本は、カチュール・マンデス(2)に手渡した。

君の     
ルノワール
(郵便日付1887年9月1日 シャンホヴィリエ)

 
(1)ミュレール作の詩、「私生兒」。
(2)詩人、批評家、劇作家(1841 - 1909)。

親愛なるミュレール
 
君の妹さんを訪ねたが、あんな恐ろしい手術のあとにしては思ったよりよくなっていた。すっかり心配して出かけたものだから。
 
ほどなく全快されんことを祈っている。
 
私はなかなか病気から抜けられない、ブルジョア女(1)は重い気管支炎、小僧(2)は粘液熱だ。
 
君はひきつづいて例外であってもらいたい。そしてみんなのように八日間も寝るようなことにならないでほしい。私も同様風邪をひいてしまった。
 

友情を捧げて、ドクトルによろしく。
ルノワール
1890年1月9日

 
(1)彼の妻。
(2)彼の子供。

親愛なる友よ(1)
 
ル・ベキュー(2)が据えられて、うんと働いている、君が食事に来られたらそいつが我々を楽しませてくれることが分かると思う。
 
家ではみんなが風邪をひいている、それがつづくと冬中変になるだろう、しかし私は例外、さしあたりすっかり元気だ。
 
人の知らぬ都会の不快をできるだけ避けられるよう君に話したいことについて色々考えてみるもりだ。
 
いつか額に入れないで君のところに残してきた習作を持ってきてくれるとありがたいが。ドクトルにいつかご来訪を乞うと伝えてくれたまえ。その絵のうち一枚を選んで、ドクトルにあげたいが、その前に参考のため絵を見ておきたいと思う。アトリエの四方の壁に囲まれてしまうと万事を忘れる。そして自然の最も微細な想い出さえ役に立つ。
 
間違われないように私のいどころを次に記しておく。
 
アトリエは「 芸術荘 ヴィラ・デ・ザール 」(エレヌ小路、クリシー街)
 
そして住宅は、ジラルドン通り13号。
 
いずれ近いうちに、ご令妹と友人たちによろしく。

ルノワール
1890年10月30日木曜日

私のアトリエに手紙をくれるならただの次のように書けばよい。
芸術荘(エレヌ小路)
 
(1)ミュレール。
(2)台所用ストーブ。

お嬢さん(1)
 
お返事するのに大変困っています、私はムーラン〔アリエ県〕へ行くはずだったのですが行かなかったものですから。
 
好晴を待つために疲れてしまって、制作をするのになんの計画を立てることもできず、ただアトリエに帰るばかりです。
 
あなた方が親切な友人で、その家では自分の家同様であるだけに、決断力のなかったことを残念に思います。が私はアトリエのなかでバレットを取り上げないと、 身代 しんだい 限りをせねばなりません。
 
これで一月以上なにもしていません、そして田舎で利子で暮らす人間といううまいやり方をつづけるおそれが多分にあります。
 
妻は昨朝帰りました、よろしくと申しています。あなたのお兄さんの傷が軽いようにと念じます、いつかちょっとでもお目にかかりたいと努めています。私は外へ出たくありません、あまりにも高いものにつくからです。
 
女中(2)については隣の婦人を安心させてください、もっとあとに天気がよくなったら、私たちは参りますから。
 
現在、島のなかでは裸体画をあまり描けません、もしできればモデルを連れてきたかもしれなかったのですが(3)
 
私たちの感謝をお受けください、そして今年はさらに多くのご計画が立ちますように祈っています。私たちはモンマントル(4)を離れませんから、もしパリへおいでになったらおのぼり(5)ください。
 
あの哀れなジャック(6)と皆さんによろしく。

ルノワール
1891年8月12日水曜日

追白 ついはく 。私たちは15日間あなた方をお訪ねするつもりでしたが、母が病気で私はルーヴシエンヌへゆかねばなりません、私たちがパリに滞らなければならぬとしてもお許しを願います。私は日中仕事をし、夕方は母の許へ出かけます。
 
(1)マリー嬢。
(2)マリーは隣の女の世話でルノワールに一人の女中を世話することを引き受けた。
(3)オーヴェルのミュレールの宅で、ルノワールは戸外でモデルにポーズをとらせる計画を立てたが、それはオワーズ河上のヴォの島のことで、そこには当時人がいないで妨げられることがなかったからであろう。
(4)ルノワールは、モンマントルのジェラルドン通り13号のムーラン・ド・ラ・ギャレットのそばの「霧の屋敷」と呼ばれる家の一室を借りていた。
(5)小高いモンマントルを登ってゆくこと。
(6)ミュレールの飼っていた猿の名。

1891年9月28日 月曜日
 
愛する友よ
 
アルジャントゥイユへ明日再び出発する。
 
アルジャントゥイユと私がいうのは、プティ・ジャンヌヴィリエのことである。
 
我々は土曜日までいる、多分それが最後の行程になるだろう、だから君が何か用があったらセーヌのプティ・ジャンヌヴィリエのカイユボット宛にお知らせを乞う。
 
その小娘(1)に差し支えがなければ、その父親にその女を二日間すなわち日曜の朝まで君のところへ引き取るように頼んでもらえまいか。
 
いつお目にかかれるかはわからんので、よろしく申し上げるよりほかはない。
 
君の妹さんに我々の接吻をおくる。

君の     
ルノワール

 
(1)ミュレールの妹がルノアールに世話した少女。

十一

親愛なる友よ
 
お手紙拝見、だがいつまでアルジェリア(1)にご滞在かは書いてなかったね。
 
今一番美しいときが始まろうとしている墓地や平野は、あらゆる種類の花でやがては見事に満たされてしまう。君がフレイの谷の岩を登ってブルガリアに行かれるなら、素晴らしいものを見るだろう!
 
私の旅程は次の通りーー20日までタマリに滞在、そこから多分カッシ(マルセイユから1時間に行き今月まで滞在)。
 
それからマルティーグ〔ブーシュ=デュ=ローヌ県〕(ルージェ・ホテル)へ。
 
カッシには宿が1軒しかないと思う。
 
マルティーグに妻をおいてミラマ〔同県〕を見物に行く。そこからニーム〔ガール県〕へ、さらにローヌ〔県〕の谷へ。
 
場所の変わるたびごとにマルセイユ留置郵便を残してゆく、それが日付と私の泊まる場所とを君に知らせるはず。以上。
 
ご令妹に手紙を書かれるときには、私がよろしくいっていたと伝えてくれたまえ。一同からも君によろしくといっている。

ルノワール

 
我々は都合がつけば3月20日から4月5日まで下記にいる、タマリ・シュール・メール(ヴァール)。

1891年3月6日

追白 ついはく 。マルティーグへゆくにはバー・デ・ランシュへ鉄道で。
 
(1)ミュレールはアルジェリアにいたので、1882年旅行したことのあるルノワールは、彼にいろいろ注意を与えた。

十二

親愛なる友よ(1)
 
いつもながらドクトル・ガシェは我々に対して実に親切だ、彼によろしくお伝えを乞う、それに健康も段々よくなってゆく。
 
長いこと我々はご令妹のお便りをいただかない、挨拶をしたいが年をとるほど物を書くのが億劫になる、ことに居場所を変えることが面倒だ。
 
しかしいつか食事においでを願いたい、できるだけのことはする。
 
今はそれができない、妻は終日閉居している、私が帰ると妻の代わりを勤めねばならない。
 
ピエールが少し外へ出られるようになったら、その機会を利用して君のところへ挨拶にゆく。彼が治ったらすぐブルターニュへ場所を探しにゆくつもりだ。
 
ご令妹によろしく。

君の     
ルノワール
7月14日水曜日

 
(1)ミュレール。

十三

親愛なるミュレール
 
君の手紙をもらうのはいつも嬉しい、私のが先にゆかなくても悪く思わないだろうね。
 
私はいつも明日を待つ癖がある。家族とともにポン・タヴァン(1)にいる。キノコの国ノルマンディへ行っているが、どうしてもいたたまらない、この湿った国で死ぬほどの退屈さに襲われるのだ。
 
ブルターニュもまた雨は降るが、これほどではない、膝まで入るような地面はなくて、砂と岩とだ。
 
つまり旅行好きの妻をつれて歩くためにやってきただけのこと……そしてここに滞在しているというわけだ。
 
私はぶつぶついいながら出かけた、それほどいどころを変えるのがいやなのだ。
 
君のご招待を感謝する、だが今年はそれに応じられまいと思う、というのはサン・クルーよりはさらに遠いパリへ急いで帰って、もう二度と動かぬ、しかし気を悪くしないでくれたまえ、もうご招待を受けたも同様だから。大変ご親切なお招きで、今年は君にオーヴェルへゆかないと断るのは心苦しい。
 
私はひどく時間を潰したので、帰ることができて、再び戻ることのないときがくることを希望した。
 
しかし9月ごろルーアン(2)に滞在することを約束する。仕事に全力を注いでいられるところを見たいものだ。
 
ご令妹や君の息子さんによろしく。
 
彼のコック姿を見にゆけるだろう、兜のあとが頭巾(3)とは。
 
穴倉の酒を平らげて、その良否を見にゆきたいものだ。

友情を捧げつつ   
ルノワール

息子や母からもよろしく。
 
追白 ついはく 。私はちょっと手を傷つけたので、うまく書けない、しかしそれは15分間私を悩ましただけだった。

ポン・タヴァン(フィニステール〔県〕)火曜日

 
(1)ブルターニュの街、〔ポール・〕ゴーギャン、〔エミール・〕ベルナール、〔ポール・〕セリュジエなどの画家およびルノワールが書作に赴いた地。
(2)ミュレールはルーアンにある「ドーファンとエスパーニュ」と呼ぶホテルの持ち主で、支配人であった。彼はそこで所蔵品の展覧会をやった。
(3)ミュレールの息子は、龍騎兵で軍務に服し兜をかぶっていたが、今は父のホテルでルノワールのいわゆるコックのような縁無し帽子あるいは頭巾をかぶっていた。

十四

親愛なる友よ
 
カンペルレ〔フィニステール県〕(宿泊)を通って、ポン・タヴァンへ行かねばならぬ。
 
宿は申し分なし、「 旅人館 デ・ヴォワイヤジュール 」その他。
 
例のごとくカンペルレを経て、ル・ブルジェ〔セーヌ=サン=ドニ県〕。ポン・タヴァンには教会のような衣装と内部を有するブルターニュがある、それから素晴らしいドゥアルヌネ〔フィニステール県〕がある。

友情を捧げて   
ルノワール

 
ポン・タヴァンは画家たちの中心地ブルターニュに関するすべての報告をそこで書く

十五

1894年
 
親愛なる友よ
 
哀れな〔ノルベール・〕グヌットを彼の最後の住まい(1)まで送ってゆこうと思いながら、果たし得なかった。
 
いまいましいリウマチその他の苦痛が、夜中に私を襲って動くことができなかった。ヴェルサイユで習作を始めた私はまたしても断念しなければならない!
 
グヌットの弟(2)に逢ったら、埋葬に私が行かなかったのは忘れたわけではないと伝えてくださらば幸甚。

友情を捧げて   
ルノワール

 
(1)墓。ノルベール・グヌットは画家および版画家、1894年オーヴェルにて死す。
(2)シャルル。

十六

1897年2月4日
 
親愛なるミュレール
 
ご令妹は親切にも我々に手紙を寄せて、近く結婚する旨をお知らせくだすった、妻は大変な喜びで、私はそれにただ一言タレーラン式(1)につけ加えよう、「 万歳 ブラボー !!!」
 
我々はこの冬は病気から抜けられない、いまもジャンはまたまた気管支炎だ。
 
我々はずいぶん心配した、熱はもう上がらない。今度もうまく切り抜けたいものだ。
 
永遠の青年なる君はどうしている?

友情を捧げて   
ルノワール

我々は4ヶ月の約束期間なのでモンマルトルを去る。

ラ・ロシュフコー通り64号にて

 
(1)第一帝政および王政復古時代(1754 - 1838)のフランスの外交官、無遠慮な言葉で有名。

十七

親愛なるドクトル(1)
 
来週木曜に必ず小生と食事をともにせんためにご光来ありたし。なにかと逃げ口上は無用のことなり。理由はいずれ申し述ぶべし。

御身の    
ルノワール
サン・ジョルジュ通り35号にて
火曜日 正11時(1879年)

 
(1)ガシェ。

十八

1879年1月
 
親愛なるドクトル
 
今朝ベリオー(1)が私の女(2)の病気見舞いに行った、彼は私の家で何度か女を見たことがあった、それに彼の家に彼女の顔の絵があると思う。
 
要するに医者としてではなかったが、この女くらい哀れなものはないということを確かめたいというのだった。
 
親切にも薬剤を女のところへ持っていってやると女に話していた。
 
君がベリオー氏を知っていることと、春になれば治るだろう等々と……彼女に言えるようあらかじめお知らせしておく。

君の友    
ルノワール

 
追白 ついはく 。ベリオーが持ってゆくものを、服用させておきたまえ、8日間は望みがある、確かリコボード(3)の薬に属すると思う。なお信じてはならないが8日間は望みがある。
 
私を訪ねたいなら4時ごろは在宅。
 
(1)医師。ガシェと同じくホメオパシー療法の採用者、ルーマニア人で、印象派画家の作品の愛好者。
(2)若いルノワールのモデル女。ドクトル・ガシェに診察されつつ肺結核にて死す。「マルゴ」の複製は彼女の像。
(3)リコポディウム。ホメオパシーの薬剤。

十九

親愛なるドクトル・ガシェ
 
クリシー大通り11号へお立ち寄りくだすってありがとう。
 
気管支炎はわずか数日間だけの事件となってしまって、今ではみな達者である。ただ一つの心残りはそちらに私がいなかったこと、私は喜んで握手しただろうに、だが近日中我々はきっとミュレールに逢えると思う、我々は連れ立って挨拶に参上するだろう。
 
しかし近頃君は健康がすぐれなかった由、ミュレールが手紙をくれるとき君の消息を我々に知らせることを忘れぬようご伝言を乞う。
 
この週末に数日間、ヴィルヌーブの弟のところへゆく。
 
我々の計画に支障が起きなければ、そのうちなるべくオーヴェルへ寄っていく。
 
我々の友人によろしく、君へ健康の祈りと心からの友情を捧げる。

ルノワール
1889年4月24日

 
追白 ついはく 。私は少しずつよくなる、だがこのよくなり方は確実だ。

二十

親愛なるドクトル
 
君の親切が役に立たなかったことを、どんなに悲しく思っているか告げねばならぬ、この山(1)に登ったのが無駄に終わって、私は大いに困った。これほど親切な君に対し、それにつけあがる人間にはなりたくない。
 
メズイに向けて出発する前に、私は女たちに安静をすすめたが、女たちに対してはなんでも一切期待してはならぬ、彼女たちの健康については、適当に自愛させることはできない、で彼らを変えてやることを私はやるまい。しかし私の受け取った手紙によると、少なくとも表面は万事好都合とのこと、私はいつも君のご来訪には感謝している。
 
好晴のため私は行く先で、腰を据えているが、できるだけ早く君に挨拶に行く。
 
もしマリー嬢に逢ったら私に代わってよろしく、私は彼女を忘れておらぬこと、そのお宅へちょっと挨拶に行きたいことを伝えてくれたまえ。しかし愚かしい仕事(2)のおかげで君は望むことがすべて妨げられるのだ。
 
重ねて君に感謝し、まもなくお逢いすることを伝えてペンを く。

ルノワール
1890年9月17日

 
(1)パリ・モンマントルの丘。ルノワールはジラルダン通り13号にいた、ドクトル・ガシェは彼を訪ねて行ったが、逢えなかった。
(2)美術家の仕事。ルノワールはこの時代においてもなおその仕事に満足していなかった。