まえがき
これは二千年も昔の素朴な自然科学を伝えている作品である。原作は叙事詩詩形で綴られた六巻行数七四〇〇行にのぼる詩であるが、散文に訳した。この種の論説的内容を、きゅうくつな韻文に綴った作者の 企 それ自体が、時代のちがう我々の目には、無理なこととしか思えない。 作詩上の規則にしばられて、無理な言葉づかいを強いられた跡が多く、読むにも、ことに訳すには、困難はひとしおである。例えば、 原子 の概念を表わすのに、十種にあまる文字(primordia 源始、materies 素材、genitalia corpora 産体、semina 種子、corpora prima 原体、corpora materiai 素材体、elementa 要素、principia 原素、corpora 物質、corpuscula 小物質figura 形体、など)が混用されている。また論旨を徹底させるために、同じことがうるさく反復される。 かかる表現を丹念に訳出すると、訳文も当然冗漫におちいるのは、やむをえない。それに、詩として持つ、荘重、雄大な 調 はまったく写しようがないのは遺憾である。読者には、この点を了承してほしい。
訳文中〔 〕内は訳者の註釈的補足、( )内は原典の欠落を後世の学者が 補綴 した部分である。青木巖、呉茂一両先生からは常に温いご鞭撻をたまわった。ここに心からなる謝意を表する。
なおこの訳業には、昭和二四年度文部省科学研究助成金の交附をうけた。
原典について 手写本で現存する最古のものには、二種あって、ともにライデン大学にある。一つは九世紀の「二つ折本」で Codex Leidensis Oblongus と呼ばれ、Oと略称される。(マンロウはAと記号する)。も一つは、九ないし十世紀の「四つ折本」で Codex Leidensis Quadratusと呼ばれ、Qと略称される。(マンロウはBと呼ぶ)。
ラッハマンの推定によれば、四ないし五世紀頃の或る 原典 があって、Oは直接それより転写されたものであり、Qはその原典からOとは別に転写された写本から、更に転写された「孫写本」だろうという。このOとQの写真の翻刻本が De Vries によって出版されている。
このほかに、亡失した「ポッジオ発見の原典」と称されるものーーOの系統と推測されるーーからの写本がフィレンツェに八編、ヴァチカンに六編、英国に七編ある。そのうち最良のものは、十五世紀にポッジオの友人ニッコリが「ポッジオの写本」から転写した写本で Codex Niccolianus または Laurentianus と呼ばれ、フィレンツェにあり、Lと略称される。次のは Cantabrigiensis で、Cと略称される。
なおQの系統に属する断片が二種あり、一つはコペンハーゲンにあり Schedae Haunienses または Gottorpianae(Gと略称)と呼ばれ八葉を数える。も一つはウィエンナにあり Schedae Vindobonenses(V)と呼ばれ二二葉からなる。
初版刊本 editio princeps はイタリアの Brescia で Fernandus によって一四七三年頃に出版された。
物の本質について
第一巻
一 - 四九
アェネーアース(1)の子孫〔ローマ人〕の母、人間の、また神々の喜び、ものを生みふやす
愛の神 (2)よ、あなたは天空の滑らかに流れる星の下に、舟の通り海にも、ゆたかに実る大地にも、生命をみなぎらして下さるし、ありとあらゆる生物の 類 が 懐胎 され、生れいで、太陽の光をあおぎ見るのは、これみなあなたのおかげであるから、あなたから、女神よ、あなたから、もろもろの風は逃げ去るし、空の雲も、あなたから、またあなたの入来〔する春〕から逃げ去る。また巧みな大地が、うるわしい花を送り出すのも、あなたのためであり、あなたのために海の波は笑い、また空も和らぎ、光をまきちらして光りかがやく。即ち、春の季節が姿をあらわし、ものを生む 春風 の息吹が、解放されて、勢いづいて来ると同時に、まず第一に空飛ぶ鳥どもは、あなたのことを、女神よ、あなたの力に心の底からかきたてられて、あなたの入来を告げ知らせる。ついで、牧畜どもは狂い、悦しいゆたかな餌〔牧草〕の中をおどりまわり、流れの急な川を泳ぎわたる。それ程までに、あなたの魅力にとらえられて、あなたが先に立って、みちびく先は、何処へでも、あなたのあとを追う。
さらにまた、海でも、山々でも、ものさらい行く川でも、木の葉のしげる小鳥のすみ家でも、緑の草原でも〔いたる所で〕、ありとあらゆるものの胸に、やさしい愛を注ぎこみ、あなたはあらゆるものに、各々その種属にしたがって、自分の子孫を生みたいものと切望させる。万物の本性を支配するのは、あなた独りであるから、且つはまた、あなたがなかったならば、このうるわしい光明の世界の中には、何一つとして生れ出て来るものはなく、一切の喜びも、一切の愛すべきものも、生じないのだから、これなる詩をつづるに際して、こい願わくは、私に御助力をたれ給わらんことを。これなる詩は、私の親しいメンミウス(3)のために、女神よ、あなたがあらゆるめぐみを、たれたまいて、如何なる時にも卓越させたいと思召すそのメンミウスのために、万物の本質(4)を説きつづりたいと、私は試みるのだから。
であるから、なおのこと、女神よ、永遠の魅力を、私の詩に与えたまえ。その間中、戦争の野蛮な行いを、海といわず、あらゆる陸といわず、ことごとく眠らせ、休止させたまえ。死すべき人類を、安らかな平和を以て、助けることのできるのは、あなた独りだけなのだから。というのは、戦争という蛮行を支配するのは、戦に強き 武神 (5)であり、しかもこの 武神 は、あなたに対する恋の永遠の深傷にうちひしがれて、屡々あなたの膝の上に、身を投げ出すのだから。それのみかなお、滑らかな首を横たえて、見上げつつ、口を開いて、女神よ、あなたを見つめつつ、飢えた眼に恋の思いをむさぼらしてやり、そのあお向きになった彼の息は、あなたの口の左右するままにまかされているのだから。女神よ、あなたの神聖な体の上に横たわる 武神 に、上から抱いて、あなたの口から甘い言葉を注ぎかけ、世にあまねく知れわたる女神よ、ローマ人のために、安らかな平和の来るよう乞いたまえ。祖国(6)がこのように不安であっては、心を平らかにして、充分に務めをはたすことは、私にはできないし、且つはまた、メンミウス家の立派な子孫にとっても、このような時局に際しては、国家の福祉のために、政務から遠ざかってはいられないのだから。……〔欠行〕(7)……
註1 アェネーアースはアンキーセースとウェヌスとの間に生れた神話上の人物。アェネーアースがローマ人の祖先だとする伝説的信仰から、ウェヌスをこう呼ぶ。
註2 ルクレーティウスの唯物論的見解では、宗教を否定しているにもかかわらず、ウェヌスに呼びかけているのは、矛盾だと指摘されるが、これはたんに、叙事詩の形式をふんだにすぎず、ウェヌスを生殖作用の擬人的表現とみなす。
註3 この作を献呈している相手の名。原文を直訳すれば、「メンミウス家の者」とすべきであるが、作者が詩形をととのえる為に用いた字形にすぎないから、こう訳しておいた。メンミウスなる人物は、前五八年に法務官プラェトルに就任した相当名門の者。カトゥルスが、この人物の悪口を云っているが、はたしてこれと同一人物だとすれば、あまりすぐれた人物ではなかったらしい。キケローの書簡「友人宛」一五、一、によれば、元エピクーロスの家のあった屋敷を入手し、家をたてようと計画したことがあったらしい。
註4 この作はエピクロスの περί φύσεως の思想を伝えようとしたものである。
註5 マルス(軍神)の別称。ウェヌスとマーウォルスとは密通関係にある。
註6 第一期三頭政治直前の、不安な社会状勢をさす。
註7 次の行に移る前に、多少の欠行があると推測されている。次からは、メンミウスに呼びかけている。
五〇 - 六一
さらに、君は耳を空にして、うれいを離れた鋭い精神を、真の理論に向けてくれたまえ。誠を尽した熱意をこめて、君に献ずるわたくしの贈物を、君は理解しないうちから、さげすんで、打ちすてることのないようにしてほしい。即ち、君のために天体に関し、また神々に関する最高の理論を、わたくしは始めようとし、万物を形成する原子(1)を説きあかそうとしているのだから。この原子でもって、自然は万物を作り、増加させ、成育させるのだということを、ーーまた死亡したものは、同じく自然が、これを再びこの原子に還元分解してしまうのだ、ということを説きあかそうとしているのだから。この原子とは、われわれが物の理を説く時に、通常 素材 (2)とか、諸物を生む 原体 とか、物の 種子 とも称し、またこれを基として万物が生ずるところから、同じく 原始的物質 とも称しているところのものである。
註1 いわゆるアトモスである。デーモクリトスのτὰ ἄτομα σώματαをキケローは直訳して、individua(Ac. II, 17. N. D. III, 12, 29.)としている。不可分割素とでも訳すべきかも知れない。ルクレーティウスは、多く primordia の文字を用いているが、作詩上の方便から用いているので、意味はアトモスである。
註2 以下数種の語で、 primordia の意味に使われる。訳者はこれらの文字の出る場合、なるべく「原子」の文字を使うか、或いは、それを補って訳すことにする。文意の混乱をさけるためである。
六二 - 七九
恐ろしい形相を示して、上方から人類を 威 しつつ、天空の所々に首を見せていた重苦しい宗教の下に圧迫されて、人間の生活が、誰の目にも明らかに、見苦しくも地上を腹ばっていた時に、初めてギリシア人の、死すべき一介の人間(エピクーロス)が、不敵にもこれに反抗して、目を上げた。彼こそは、これに反抗してたった最初の人である。神々のことを語る神話も、電光も、脅迫の雷鳴を以てする天空も、彼をおさえつけるわけにはゆかず、むしろ、かえって彼の精神の烈々たる気魄をますます、かきたてることとなり、その結果、人間として初めて自然の門のかたい「かんぬき」を破りのぞこうと望ませるようになった。従って、彼の精神の活潑な力は、何ものといえども征服せざるものなく、世界の 果 、火ともえる壁をうちこえて遠く前進し、想像と思索とによって、あらゆる無限の世界をふみ歩いた。その結果、彼が勝利者として我々のために、もたらしてくれたものは、次の点を明らかにしてくれたことである。即ち、何が出生しうるものであるか、何が出生しえざるものであるか、要するに、おのおのの物には、如何にしてその能力に一定の限度がもうけられているか、また深く根ざした限界があるか、の点を明らかにしてくれたことである。このために、宗教の方がおさえつけられ、足の下にふみにじられてしまい、勝利は我々を天と対等なものにしてくれるに至った。
八〇 - 一〇一
この問題を論ずるにあたって、私にはこういう点が、心配になる。即ち、君が純理の初歩にふみこむことは、不敬神にわたりはしないか、とか、または此の道をたどるのは罪悪となりはしまいか、という危惧の念に万が一にも君がとらわれるようなことはないか、という点である。とんでもない、正にその反対だ。かの宗教なるものの方こそ、これまではるかに多くの罪深い、不敬神の行いを犯して来ているではないか。ダナイー〔ギリシア〕人の選ばれたる将軍たち、兵どもの先に立つ者たちが、アウリス(1)〔の港〕において、三叉路の 処女神 の祭壇を、イーピアナッサ〔イーピゲネイア〕の血を流して、みにくく汚がしたのも、このためにほかならなかった。彼女の乙女の髪に巻きつけられた 髪飾 (2)が、ほほの両側に、同じようにたれさがり、父〔アガメムノーン〕が悲痛にとざされて、祭壇の前に立つのを見、この父親のそばには、従者の司祭たちが〔犠牲を切る〕刃物をかくし持つのを見、また市民たちが、自分の姿をながめて涙を流してくれるのを見てとるやいなや、イーピアナッサは恐ろしさにかられて、沈黙し、膝をくずして地上にべたりと、すわってしまった。彼女がこの王〔アガメムノーン〕の長女に生れた者だからとて、このような時にさいしては、かわいそうに、彼女にとって何の役にもたちえなかった。というのは、彼女は男たちの手に引きたてられて、おののきちぢむままに、祭壇へつれて行かれたが、これが厳粛な〔結婚の〕儀式をとり行った後で、はなやかな婚姻歌にともなわれて行くためではなくして、清らかな身をけがらわしくも、ーーしかも、ほかならぬ、嫁ぐべきその時に、悲しい 犠牲 として、父の一撃にかかって、たおれるためであったのだから。それが、艦隊のめでたい、順調な出帆を実現させようとの目的から行われたことなのだ。宗教とは、実に、かくも甚だしい悪事を行わせる力を持っていたのだ。
註1 エウリービデースの「アウリス港のイーピゲネイア」1100 - 結末。アイスキュロス「アガメムノーン」198 - 248参照。
註2 羊毛の房。犠牲に供される者の頭につける飾り。
一〇二 - 一二六
君のような人でさえ、やがていつか、 占卜 師どもの すご 文句におびやかされて、私から逃げ去ろうとつとめるようにならないとも限らない。実に、彼ら占卜師たちは、幾らでも多くの夢を、たちどころに捏造する術を心得ているからだーー生活の道をくつがえしうるような、また君の運命を、恐怖で動揺させるような夢を。しかも、それは無理もない。なぜならば、人々がもし、心労にも或る一定の限界があるものだということをさとったとしたならば、宗教に対しても、また占卜師どもの脅迫に対しても、何とかして反抗することが、できるであろうからだ。しかし、現実のところ、死後の永遠の罰を心配しなければならないので、反抗する道も、力も、全くないのだから。 精神 の本質とは如何なるものであるか、たましいは〔肉体の生れる時に、肉体と一所に〕生れ出るのか、それともその反対に、生れ出るものの中に〔外部から来て〕潜入するのかどうか、死に際して我々とともに、同時にたましいも分解して死滅するのか、それとも 下界 の暗黒界を、また巨大な深淵とかを、おとずれ歩くものであるのか、それともわれらの詩人エンニウス(1)が歌っているように、たましいは神意によって、他の動物の中にみずから潜入(2)するものであるのか、などの点に関して無知だからである。
〔詩神の住む〕楽しいヘリコーン山から、不朽の葉で編んだ花冠を始めてもたらし、その花冠はイタリア民族全般の人々の間に、高い名声をはせるに至ったかのエンニウスは、しかしながら、さらにまた 冥府 の世界は存在すると、彼の不朽の詩の中で述べていうーーその世界まで、われわれのたましいも、肉体も、到達することはとても出来ないが、ある青白い亡霊たちが、不思議な工合に、その世界にとどまっているのだ、と。その世界から、かの 永久 に栄えるホメーロスの亡霊が、エンニウスの胸に現われて、塩からい涙を流しつつ、ものの本質に就いて言葉を発して説明し始めた、と彼は語っている。
註1 前約二三九 - 一六九年ホメーロスの再来と云われた詩人。作品は題名と断片しか伝わらない。
註2 ピュータゴラースの輪廻説 metempsychosis を指す。
一二七 - 一三五
であるから、われわれは一方に、天空の現象に就いて、また太陽や月の運行は如何にして起るか、また地上に生ずるあらゆる現象は如何なる力に由来して起るのか、の点に関して正しい理論をたてる必要があるが、他面特に、明敏なる理性を用いて、たましいは何から構成されているか、精神の本質は何から構成されるか、を検討してみなければならない。また、病気(1)にかかっている時に、目ざめているわれわれに、あるいはまた、われわれが眠りにうずもれている時に、目の前に見えて、心をオビえさせ、さては死去してその骨が大地に 抱 かれている故人を目に見、面前にその声を聞くの思いを抱かせるのは、一体如何なる現象であるかを検討しなくてはならない。
註1 われわれが、病中目ざめている時に見る幻影とか、或いは健康体でも睡眠中に見る夢とかを指しているが、これに関しては「映像」simulaculum, imago なる存在を基礎とする特殊な解釈があって、第四巻に詳述している。
一三六 - 一四五
また、ギリシア人のわかりにくい発見を、ラテン語の詩に綴って説明するのは、至難であることは、私とても心に気づかないわけではない。ことに〔ラテン語の〕言葉の貧困さと説く内容の新しさとのために、新しい単語を用いて多くの事がらを論じなければならないが故に、なおさら困難である。とはいえ、しかし君の人格と、うれしい友情をつなぎたいという楽しい期待とは、私に如何なる困苦をも忍べ、と教えてくれるし、そればかりか、私に静かな夜を幾夜も徹夜させ、どんな表現を用いたら、どんな詩を書いたら、君の心に明らかな光明をくりひろげて上げることができるであろうか、またそれによって、君がわかりにくい真理を深く洞察できるようにして上げられるかと、苦心させる。
一四六 - 一五八
だから、このような精神の恐怖と暗黒とは、太陽の光明や、ま昼の光線では、一掃できないことは必定であり、自然の姿〔を究明すること〕こそ、また自然の法則こそ、これを取り除いてくれるに違いない。自然の先ず第一の原理は、次の点からわれわれは始めることとしよう。即ち、何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない、という点である。死すべき人間は、地上に、また天空に、幾多の現象の生ずるのを見て、その原因が、如何なる方法を以てしても、うかがい知ることができず、これひとえに神意によって生ずるのだ、と考えてしまうが故に、実はかくの如く、誰しも皆恐怖にとらわれてしまうのである。従って、無(1)よりは何ものも生じ得ず、ということを一とたび知るに至れば、ひいて 忽 ちわれわれの追及する問題、即ち、物はそれぞれ如何なる元から造られ得るのかということも、またあらゆる物は神々の働きによることなしに、如何にして生ずるか、という点もいっそう正しく認識するに至るであろう。
註1 デーモクリトスの μηδὲν ἐκ τοῦ μὴ ὄντος γίνεσθαι. Dio. Laert. IX, 44. これはギリシアの自然科学思想の公理である。〈ARCHIVE編集部註:「μηδέν τε ἐκ τοῦ μὴ ὄντος γίνεσθαι, μηδὲ εἰς τὸ μὴ ὄν φθείρεσται.(意味:何ものもあらぬものから生じてくることはないし、またあらぬものへと消滅して行くこともない)。「公理」と定めている論者にシンプリキオスなど。〉
一五九 - 二一四
そのわけは、よし仮りに無から物が生ずるとしたならば、あらゆる物からあらゆる種類が生じ得るであろうし、種子を必要とするものは、全く何もないであろうからである。まず、海から人類が、大地からウロコを持つ魚族が生じ得るかも知れないし、天空からは鳥類が忽然として出現し得るかも知れないし、牧畜その他の家畜や、野獣のあらゆる種類は、何処から生れたともわからず、耕地と荒野とを問わず、一面に充満するであろう。一定の木に、同一の果実がなる習性もなくなり、変化を来たし、あらゆるものがあらゆる実を結ぶことも可能となるであろう。まったく、各々のものに、それぞれの種族を生む物質がなかったとしたならば、如何にして物の一定の母体が不易に存在し得ようか? ところが現実では、一定の種子からはそれぞれの物が生ずるが故に、それぞれの物が由って生じ来たり、由って光明世界へ出て来るその元の中に、その物の素材が、即ち最初の物質が内在しているからである。従って、一定の物の内には、それぞれ別な力が内在しているが故に、あらゆるものからあらゆるものが生ずることは、不可能なわけである。
さらになお(1)、春にはバラが、夏には穀物が、〔秋が来て〕秋にうながされて葡萄が生ずるのは、われわれの見るところであるが、これは一体何故であろうか? 物の一定の種子〔原子〕が、おのおの時を得て集合した時に、はじめてあらゆる生物が、現われて来るのであって、その上適当な季節がめぐり合わせ、生命に充ちている大地が〔生れたての〕うら若い生物を〔地下から〕光明世界へ安全に出してやるからに外ならない。ところが、もし仮りにこれらのものが、無から生ずるとしたならば、これらは不定の期間に、一年の他の違った季節に、忽然として生れ出るかも知れない。そのわけは、不適切な時機には生殖作用の結合ができない〔という性質を持っているかも知れない〕原子が全然ないということになってしまうかも知れないからだ。さらに、もしこれらの生物が無より成長し得ると仮定すれば、物が成長するためにも、また原子が結合するためにも、期間というものが、不必要となるであろう。即ち、小さい幼児から突如として青年が生じ、また大地から木が、にわかに飛び出して、のびてしまうであろう。このようなことは、いずれも現に起らないのは、明らかなことであるが、そのわけは、すべてのものは((2)一定の時に)当然のことながら、徐々に成長して行き、(すべてのものは)一定の種子から(成長し)成長しながらその種族を保存して行く(が故である)。であるから、それぞれのものは、各自個有の素材〔原子〕から成長し、かつ成育させられるのだ、ということが君にも理解できるであろう。
なおまた、一年間に一定の雨季がなければ、大地も豊かな収穫をあげることはできないし、さらに、動物の類にしても食料を失えば、その種族を繁殖することも、生命を保持することもできない。従って、多くのものには幾多共通なる物質があることは、丁度われわれの言葉に〔幾多共通な〕「 あるはべっと 」(3)があるのをわれわれが見るのと同様であり、この点は君には、何ものも原子なくしては存在し得ないということよりも、容易に考えられるであろう。
次にまた(4)、自然が人間を生み出すのに、海を 徒歩 で、あたかも渡渉路を横断するように、横断することもできれば、巨大なる山岳を手で引きむしることもでき、生きて行くにも、多くの世代を生きながらえることのできる程、巨大なものを生み出し得なかったのは何故であろうか? 物を生ぜしめるのには、生ずる物を不易ならしめるところの、一定した素材〔原子〕が、物を生む母体に定まっているが故に外ならない。最後に、耕された土地は、未耕の土地よりもすぐれていて、手を加えればより良い収穫をあげるところを見れば、大地の中には、物の原子が存在しているということが明らかであって、これをわれわれはスキを用いて豊かな土塊を返えして、また大地の土を耕すことによって、これを出て来るようにさせているのである。ところが、もしこれが全くないとしたならば、われわれの労苦を待たずして、それぞれの物は自ら、はるかにより良い物となって生ずるのが見られるかも知れない。であるから、何ものも無からは生じ得ず、ということは認めなければならない。物には、それを元として、それぞれのものが生み出され、空中のやわらかい空気の中へ出現しうべきその種子〔原子〕がなければならない。
註1 ここは文意のアイマイになるのを避けて、かなり意訳してある。
註2 マンロウの推測では、この行(一八九)は二行を誤って一行に転写されて伝わったらしい、という。訳者はマンロウの試みた補綴 tempore certo/res quoniam crescunt omnes de に従って訳した。訳文のカッコ内は補綴の部分である。
註3 ローマ人はアルハべットを elementa と称したが、この語には「要素」の意味も併有している。
註4 ここも(註1)の部分と同じ構文で、直訳ではアイマイになるから意訳した。
二一五 - 二六四
のみならず、自然はあらゆるものを分解して、各々の原子に帰せしめるのであって、物を無に帰せしめるのではない。即ち、物が仮りにもし、そのすべての部分において、ことごとく死滅すべきものであるとしたならば、それぞれの物はわれわれの眼前から、忽然として奪い去られて、死滅して行くことであろう。というのは、物の部分を分解せしめ、物の結合〔組織〕を分離させるのに、何ら力を必要としないであろうからである。ところが現実には、それぞれの物は恒久的な原子によって構成されているが故に、打撃を加えて物を破砕する力か、ないしは〔物の中に含有されている〕空虚の中に深く滲透して、その物を分解する力かが働かない限り、自然は何物の死滅も現出して見せてくれはしない。それに、時があらゆるものを時の経過によってうばい去り、原子をことごとく消耗せしめて、徹底的に絶滅してしまうのだとしたならば、 愛の神 は一体何処から、生命を持つ種族をそれぞれの種族に応じて、生命という光明の中へ再生せしめるのであろうか? 〔海底の〕内に湧き出る泉や、また外部から遠く流れ込む河川は、一体何を基として海〔に水〕を補給しているのだろうか? 上空 は、何を以て星のむれを養なっているのであろうか?
即ち、死滅すべき物質で出来ているのならば、万物は無限の過去の時代が経過した過去の時が、既にことごとく消耗しつくしてしまった筈だから。しかしながら、此れなる世界が再生されては存在を続けて来たその元が、その期間、即ち、過ぎ去った過去の時代に、かつて存在していたとすれば、その元の物は確かに不滅なる性質をそなえていたわけであり、従って、如何なるものも無に帰することは、絶対にあり得ない。要するに、恒久的なる原子が、あるいは緊密に、あるいは粗雑に結合し、結びついて保持して来たのでないとすれば、万物は同じ力と原因〔時の力〕とによって、一様に破壊されてしまったことであろう。ほんの接触ですら、死滅をひき起させるに十分な原因となり得たかも知れないからだ。何故ならば、恒久的なる物質によって出来ているものが全然ないような場合には、その組織はどんな力にも分解させられるのは必定だったからである。ところが現実では、原子相互間の結合は多様であるが、その恒久的な素質は不易であるが故に、それぞれの結合状態に影響をおよぼすに十分な力が現われて出会うまでは、物は形体をそこなわれずにいるのである。であるから、如何なるものも無に帰することはなく、ただ万物は分解によって、原子に還元するにすぎない。つまり、雨は父なる天空が、母なる大地の膝の上に投げこむ時に消滅する。とはいえ、つやつやしい穀物が伸び出て、木には枝が緑色を呈し、木そのものは成長し、果実をつけて重くなる。これによって、ひいてはわれわれ人間や、野獣のタグイは養われ、この故に喜びにあふれる都市は子供に充ちて栄え、木の葉の繁る森は若い小鳥たちで、いたる所に歌っているのは、われわれの現に見るところである。脂肪ぶとりにモノウげな牧畜どもは、豊かな牧草のあたりに体を横たえ、はり切った乳房からは、白く光る乳の流れが、あふれ出ているのも、この故である。うら若い幼獣が乳に、まるで酒のように幼い心を酔わされて、おぼつかない脚で、やわらかい芝の上をふざけたわむれるのも、この故である。
であるから、物は一見死滅するかのように見えても、実は完全には死滅することがない。自然が一つの物を作るのには、他の物から作り直すのであって、如何なる物でも、他のものの死(1)によって補われることのない限り、生れ出ることは許されない。
註1 アリストテレース「或るものの死は、他のものの生誕である」ἡ θατέρου φθορὰ θατέρου ἐστὶ γένεσις. Metaph. II, 2, 994 b5.〈ARCHIVE編集部註:「ἡ γὰρ θατέρου φθορὰ θατέρου ἐστὶ γένεσις.」としている文献もある。〉
二六五 - 三〇四
ではさて、注意してくれたまえ。物は無からは生じ得ない、ということ、また同じく、一旦生れいでた物は無に帰することはあり得ない、ということを私は説いたが、しかし、物の原子が目に識別できないからという理由で、万が一にも私の言葉に不信の念を起さないようにしてほしい。なお、存在はしているものの、目では見ることができないと君も認めざるを得ない物が、物質の中にあるということを、考えてみてくれたまえ。まず第一に、力強い風がおこると(1)、港をおそい、巨船をくつがえし、雲を吹きはらい、時には急速な旋風をともなって平原を疾走しまわり、野原に巨木を撒きちらし、森をイタめる疾風を以て、最も高い山々をも振動させる。それほどに、はげしい響をたてて風は荒れくるい、威嚇のうなりを発しては猛威をふるう。であるから、風はたしかに目に見えない物体であって、海を、陸を、さては天空の雲を吹きまくり、急旋風を起し、物をうち振るっては、うばい去り行くものである。そして、風の流れる流れかたと、災害を拡める拡めかたとは、水というやわらかい物質が、河のハンラン(2)で突然あふれ出る時と、何ら異なるところがない。高い山々から発して、流れ下る水の大きな奔流は、多量の雨を加えてその力を増し、森の残骸も、あらゆる樹木も、はねとばし、堅固な橋も、おし寄せて来る水の早い力には、たえきれない。それほど強大な力を以て、河は多量の雨に勢いを得て狂乱し、堅橋脚に激突する。大きなうなり声をたてて惨害をはたらき、彼の下には巨岩をころがし、流れの行く手をはばむものは(3)、ことごとく押したおしてしまう。従って、これと同様、風もまた流れるものであるに違いない。丁度水の流れと同様で、いずれの方向を問わず流れ向う時には、行手のものを押したおし、力のこもった打撃をくりかえし加えては吹きとばし、時には渦巻く旋風を起して物をとらえ、急速に転回する旋風に巻きこんで運び去る。であるから、私はくりかえし、くりかえし云うが、風は目に見えない物体である。その行動の点においても、その習性の点においても、好敵手たる大河にーー目に明らかな形体をそなえた大河にーー似ているからである。さてさらに、われわれは物の色々な 匂 を感受するが、それでも何がわれわれの鼻に向って近よる様が、見えたということは、かつてないことである。また、熱いと感じさせる熱も、われわれの目には見えないし、寒気も目を用いて知ることはできず、またわれわれには音を目で見わける習慣はない。にもかかわらず、これらのものが感覚を刺戦することができる以上、ことごとく物体的性格から成りたっているに違いない。物体にあらざれば、触れることも(4)、触れられることも、不可能だからである。
註1 マンロウの採用している読み portum を取る。
註2 ここの描写はホメーロスの「イーリアス」V, 87-92 の模倣である。
註3 二八九行はポストゲイトの修正……ruitque ut……を取る。
註4 視覚にしても、聴覚にしても、すべて感覚はアトモスの「接触」tactus によって知覚すると解釈しているからである。
三〇五 - 三二八
なおまた、衣類を、波を砕く岸にかけておけば湿ってくるが、その同じ衣類を日にさらせば乾いてくる。にもかかわらず、水の湿気が如何にして滲みこんで来たのか、或いは、如何にして再びそれが熱のために消え去ったのか、これは目に見えたためしはない。これは水分が小さな微細片となって飛び散るからであるが、その微細片は、如何ようにしても決して目には見ることのできないものである。なおまた、太陽の年が数多くめぐってくると、指にはめた指環が、はめていたために、内側が〔へって〕うすくなってくる。水滴の落下は、石に穴をうがつ。まがった鉄のスキも、畑でいつのまにかへって行く。道路の敷石も人々の足にふまれて、既にすりへっているのは、われわれの見うけるところである。また〔都市の〕城門の脇にたてられている青銅(1)の〔神〕像は、その右手が〔接吻して〕礼拝する人々や、そばを通りすぎる人々に頻繁に触わられるために、すりへって行くのを示している。であるから、これは擦り取られて行くが故に、へって行くのだ、とわれわれは解釈する。しかし、その都度、一体どれほどの物質が離れて行くのかは、われわれの貧弱な視力では、とうてい見ることが許されない。最後に、時と自然とが少しずつ加えて、物を一定限度に増大させて行くのであるが、如何にするどく目を見はって見ても、とうていこれを識別することは、できるものではない。また他方、時と消耗とのために、物は老衰して行くがーー例えば、海の上にたれ下った岩が、腐蝕性の塩に食いとられて行くが、どの程度に、その都度へって行くのかは、見きわめることができないであろう。してみれば、自然は目に見えない物質で以て、作用しているのに外ならない。
註1 都市の城門のそばには、よく神像があって、通行人はその像に接吻したり、なでたりして礼拝する風習があった。キケローによれば、アグリゲンツムにあるヘルクレースの像が「祈願や感謝のために、人々がこれを礼拝するばかりでなく、接吻までもするので、像の口やアゴがややすりへっているくらいだ」ut rictum ac mentum paulo sit attritius, quod in precibus ac gratulationibus non solum venerari, sedetiam osculari solent. Verr.IV, 94.
三二九 - 三四五
ところでさて、万物は何処もかも物質のみが凝結して保たれているのではない。即ち、物の内部には空虚が含まれている(1)のである。この点を知っておくことは、君にとって、多くの問題の場合便利となるであろうし、また宇宙現象に関して思い迷い、懐疑的になることもなく、絶えず当惑に終始することもなくなるであろうし、また私のいうことに、不信を抱くこともなくなるであろう。ところで、触れることの不可能な場処、即ち、空隙をなしている空虚が存在する。もしこれがなかったとしたならば、物は動かされることが絶対に不可能となるであろう。何故ならば、物質の特性となっているところの、妨げること、邪魔すること、この作用があらゆる場合に、あらゆる物に発生するに違いないからである。即ち、何ものも、まず場処をゆずり始めるものが全くない以上、何ものといえども、動くことが不可能な筈だからである。ところが現実においては、海を通じ、陸を通じ、高い天空を通じて、幾多のものが、幾多の方向に、幾多の方法で、動いているのは、われわれの現に、眼前に見るとおりである。仮りにもし空虚がなかったとしたならば、これらの物はその間断なき運動をうしない、運動を欠いていたであろうーーというよりはむしろ全然出現さえしなかったであろう。何故ならば、物質は四方八方凝結されて、不動のままでいたであろうから。
註1 万物はアトモスと空虚とから成るとする仮説は、レウキッポスの創始になり、アブデーラのデーモクリトスがこれを発展せしめ、エピクロスによってうけつがれたものである。
三四六 - 三六九
さらに、如何に緊密だと思われる物でも、それを構成している物質は、粗なるものであることは、以下の例によって、認めることができるであろう。岩とか、洞窟の内部に、水の湿気がしみこんで来て、一面におびただしい水滴が、したたっていることがある。食物は生物の体内全般に散って行く。樹木が成長し、時期が来れば果実をむすぶのは、これ 営養 が最下部の根元から幹を経て、枝を通じて、くまなく全体に行きわたるからである。音声は壁をつき通って滲透するし、閉めきった家の中へも通って来るし、はげしい寒気は骨にまで滲みこむ。ところが(1)、このそれぞれの場合の原子が通過し得る空虚が、もしないと仮定したならば、かような現象は決して起ることはない、と知るであろう。さらに、或るものが、他のものよりも、大きな形をそなえていないにもかかわらず、重量では他よりまさっているのを、見受けることがあるが、これは一体何故であろうか? 例えば、羊毛の球の中にある物質の量が、鉛の中にある物質と同量であるとすれば、重量の点においても、正に同等であるべき筈である。というのは、物質の特性は、すべてのものを下方へ押しつけることであり、これに反して、空虚なる性質は、重量を欠くということだからである。従って、大きさが相い等しくありながら、より軽いと思われるものは、明らかに空虚をより多く含有していることを示すのであるが、これに反して、より重いものは、それ自体の内により多くの物質を含有し、内に空虚を有すること、はるかに僅少なることを現わしているのである。であるからーーこれはわれわれが理性を鋭くして考究している点であるがーーわれわれが称する空虚なるものが、物に混入して、存在していることは、疑問の余地がない。
註1 356-7, ブリーゲルの切り方に従う。
三七〇 - 三九七
これらの問題に関して、或る人々が捏造する妄説のために、君が真理から遠ざけられてしまうことのあり得ないように、私は彼らの機先を制する必要にせまられる。彼らのいうところでは、水は有鱗生物〔魚類〕が押し進む場合、これに対して場処をゆずり、液体中の道をひらいてやるのだ、と。なんとなれば、魚どもは道をゆずってくれる水に対して、水が再び集り得るような場処を、〔自分の〕後に残して行くからだ、と。これと同様に、他の諸物体も相互に動くことが可能であり、場処を、たとえ充満していても、交換することが可能なのだ、と。明らかにこれは、すべて虚構の理論を以てする解釈である。では、訊くが、水が場処を与えないとすれば、有鱗生物は一体何処へ前進できるであろうか? 次に、魚が進むことができなければ、その場合、一体何処へ水は退いて、道をゆずることができようか? かくては、如何なる物体も、運動をうしなわなければならない。でなければ、物体には空虚が混入していて、それによってすべてのものは、運動の最初の開始をすることが可能となる、といわざるを得ない。
最後に、二つの幅広い物が、あい接着していて、急速に離れた場合、この二つの物体間に生ずる空虚は、もちろんすべて空気が占めてしまうのは必定である。ところで、空気がたとえ如何に急速な風をたてて四方から流れ集ったとしても、この空虚全体は、一時には充填できるものではない。即ち、空気は必ずや、次から次へとその空虚な場処を占め、しかる後に、空虚全体が充填されてしまうのに違いない。ところが、この二個の物体が離れた際、空気が収縮するが故に、こうなるのだと考える者が、万一あるとすれば、誤っている。何故ならば、その時に、以前になかった空虚が生ずるが、以前から、既にあった空虚もまた〔同時に〕充填されるのだからである。また空気は、かかる工合に圧縮され得るものではないが、よしんばりに圧縮され得るとしても、空気がおのれ自身に縮みこみ、幾部分かを一つに収縮するには、思うに、空虚を欠いては不可能だろうから。
三九八 - 四一七
であるから、たとえ如何に多くの反対をとなえて、君が信するのを躊躇してみたところで、それでも空虚の存在するということは、認めざるを得ないに違いない。このほかにも多くの例証をあげて、君にわれわれの説を、どうでも信じこませようとすることはできるであろう。がしかし、此のささやかな道〔説明〕だけでも、明敏な頭脳にとっては十分で、これによって他のことも、君自身で知ることができるようにして上げよう。例えば、猟犬が一とたび道に、獲物の確かな足跡をさがし当てれば、山をさ迷うけだものの、木の葉でかくれた巣を、往々鼻でかきだすように、君もまた君自身独力で、これらの問題について、それからそれへと、理解することができ、かくれた秘密をことごとく洞察し、其処から真理を、つかみ出すことができるようになるだろう。ところが、君にしてもし怠惰におちいり、この問題から尻ごみをするようなことでもあれば、私は、メンミウスよ、君に次のようなことを、容易に断言しよう。即ち、調べ美しい詩の言葉が、つきない泉のように私の豊かな心から、沢山いくらでも、そそぎ出してくれるであろうから、何か一つの問題に関する多くの例証だけでも、ことごとくこれを詩に歌って、君の耳に注ぎこむとしたら、それこそあゆみの遅い老齢の方が先に来て、われわれの手足にはいひろがり、われわれの寿命のカンヌキを破りはしまいかと思われるくらいだ、と。
四一八 - 四四八
さて、始めた計画を再び言葉につづって行くこととしよう。ところで、万物の本質は、事実、それ自体において、二つのものから成りたっているのである。即ち、物質〔原子〕と空虚とであって、この空虚の中に物質が存在し、この空虚を通って物質はいずれの方向へも運動する。物質が独立して存在しているということは、人間に共通な感覚(1)が明示するところである。われわれが先ず第一に、この感覚に信頼をおいて、堅い基礎をきずかなければ、〔目に見えない〕かくれた問題に関しては、理性を以て何らかの解釈を打ちたつべき根拠は、全く得られないであろう。ではさらに、われわれが空虚と称する場処、ないし空隙が、存在しなかったとしたならば、私がしばらく前に述べたように、物質は何処にも位置を占めることが不可能であろうし、また何処においても、いずれの方向に向っても、動くことは全く不可能であろう。このほかに、物質とは全く区別され、空虚とも別個なりとも称し得る、いわば第三質として知られているようなものは、全くない。それが如何なるものであろうと、それ自体独立した何ものかで、あらねばならない。それがもし(2)、接触をうけるとすれば、如何に軽い接触であろうと、または小さな接触であろと、それが存在する限り、大なり小なりの増大によって、物質の総量を増すであろうし、かつ総和に加えられるであろう。
もし触れることができないものだとすれば、何か他のものが運動して、どの方向からでも、自体を通過するとも、これを妨げることができない故に、これは明らかに、われわれが空虚と称す空間にほかならないであろう。また、自身独立して存在するところのものは、何らかの作用を起すか、ないしは他のものが作用しかけて来て、自身はその作用の影響を受けるものであらねばならない。でなければ、自身の内にものが存在し、且つ持続し得るものであろう。しかし、何ものといえども、形体なくしては、作用を起すことも、作用を受けることも不可能であり、空間、即ち、空虚にあらずんば、場処を与えることは、不可能である。であるから、空虚と物質以外に、第三質ーー如何なる時にも決してわれわれの感覚内に入って来ることもなく、また理性を以てしでも、誰も把握することのできないような第三質が、物の総和〔宇宙〕の中に、独立して存在することは不可能である。
註1 万人が共通に所有している感覚。エピクーロスは αὐτὴ ἡ αἴσθησις ἐπὶ πάντων μαρτυρεί. Dio. La. ertX, 39「感覚こそあらゆる場合の証人となる」と云っている。
註2 ここは種々異論のあるアイマイな個処であるが、要するに「いかに軽小なものでも触れることのできるものは、物質であって、宇宙の総和の一部分にすぎない」と云っているらしい。
四四九 - 四八二
即ち、如何なる物体も、名称を持っているものは、すべて以上の二つのもの〔物質と空虚〕の特性(1)に属するものであることは、君にもわかるであろうが、そうでないものは、この二者から生ずる結果たる「 事件 」である、ということがわかるであろう。特性とは、死滅的な破壊を以てしないかぎり、引きはなすことも、分離させることも、全く不可能なもので、例えば、石の場合における重量、火の場合における熱、水の場合における流動性、あらゆる物質の場合における接触、空虚の場合における不接触のようなものである。これに反して、奴隷たる身分、貧困、富裕、自由、戦争、和合、その他、生じて来ても、過ぎ去っても、物の本質には何ら影響をこうむることのないものは、これを、当然のことながら、われわれは通常事件と称する。時もまた同様で、それ自体独立せる存在ではなくして、事件そのものから感覚が派生して、過去に何が起ったか、次に現在の状況は如何、さらに、将来は何うなるであろうか、を感得することである。またものの運動と安らかな静止とから、全く切りはなして、独立せる時そのものを感得することは、誰にもできないことだと、認めなければならない。なおまた、チュンダレウスの娘〔ヘレネ〕が強姦されたことが ある とか、戦争のためにトローイア民族が征服されたことが ある 、と人々はいうが、そういう時にわれわれはウカツに、これらがそれ自体独立して存在するものだ、とは認めないように注意する必要がある。
これらの事件をひき起した人々は、今では呼び戻しがたい遠い過去のために、既にうばい去られてしまっているからである。即ち、トローイア人に関しようが、単に場処のみに関しようが、何ごとに限らず、ひき起されたるものは事件と呼ぶことができるであろう。要するに、仮りにもし物の素材〔原子〕と、またそれぞれの事件が行われた場処、即ち空間とがなかったとしたならば、チュンダレウスの娘の美貌のために、恋の焰があおられる筈も決してなかったであろうし、プリュギア〔トローイア〕のアレクサンデル〔パリス〕の胸に燃え上って、野蛮な戦争の火と燃えるかの名高い闘争に点火することもなかったであろう。またトローイア人たちの解し兼ねた木馬が、夜のうちに現われ出たギリシア人たちを放って、ペルガマを火焔につつんでしまうことも、起らなかったであろう。従って、起ったすべての事件は、物質の場合のように、全くそれ自体として存立することも、存在することもなく、また空虚の存在するような工合にも、存在しないのだ、ということが理解できるであろう。むしろ、これらは物質とそれぞれが起った場処〔空間〕とより生じる結果の事件と称し得るもので、そう呼ぶのが至当である。
註1 アリストテレースの論理学の「属性」συμβεβηκότα καθ' αὗτα の訳 coniuncta. これに対する συμβεβηκότα μὴ καθ' αύτα を eventa としている。
四八三 - 五〇二
さて、物質とは一部は原子であり、また一部は原子の結合によって形成されているものである。この原子なるものは、如何なる力でも、消滅せしめることのできないものである。即ち原子は、結局その強固性を以て、勝ち残ってしまうからである。一体、強固な物質によって出来ているというものが、諸物の中にあり得ると信ずることは、なかなか困難なように思われる。例えば、家屋の壁も、天空の雷電はこれを通過する、丁度音や声と同じように。鉄は火の中で白熱する。岩石も高度の熱に会えば、必ず割れる。次に、固い黄金も熱によってやわらかくなり、熔解される。氷のようになめらかな青銅も、火焔には征服されて、流れる。銀も熱はこれを滲透するし、滲透性の寒気もこれを滲透することは、われわれが〔儀式の際〕しかるべく酒杯(1)をにぎっていて、液体を上から流しこんで、ついでもらえば、両方〔熱と寒気〕とも手に感ずるのが常である。それほどに、万物の中には強固なるものは一見全然ないかのように、見える。しかし、それにもかかわらず、物の本質に関する真の理論は、否応なしにーーも少し詩行を加えて、私が説明するまで、注意していてくれたまえーーこう信ぜしめる、即ち、強固にして恒久的なる構造に成るものがあるということ、そしてこれがわれわれの説く物の種子、即ち原子なるものであって、現存する物の総和〔宇宙〕は、すべてこれを元として構成されているのだ、と。
註1 銀製の酒杯を手にしていて、これに液体を入れると、手に感ずるのは、「熱」と「寒気」なる「物質」が銀をしみ通るのだと説く。
五〇三 - 五二七
まず第一に、全くあい異なる二つの本質、ーー即ち、物質なる本質と、物がその中に位置を占めるところの場処〔空虚〕なる本質ーーが存在するという点が、明らかとなった以上、その各々は、いずれはそれ自体独立して、純粋に存在しているのは必定である。即ち、われわれが空虚と称する空間になっている場処には、物質は存在せず、また物質が占めている所には、絶対に空虚なる空間は存在しない。従って、原子とは強固にして、空虚を持たないものである。さらに、被造物の体内には、空虚が含有されているが故に、その空虚の周囲を原子が、とりまいているに違いない。空虚を〔内に〕保持しているものを、強固なりとは認めないとすれば、真の理性を以て見れば、[およそ強固なるものは如何なるものも、自己の体内に空虚を含有するとは、証し得ない。なお、空虚を内に保持し得るほどのものは、原子の結合せるもの以外にはあり得ない。原子は、従って、強固な構造に成っていて、他の〔原子の集合物なる〕ものは分解するとも、これの方は恒久的なものであり得る。ところで、空間たる空虚が、仮りにもしなかったとしたならば、宇宙は強固なるものとなっていたであろう。他面、これに反して、場処〔空間〕を充たし、占めているところの一定の原子が、もしなかったとしたならば、現在の宇宙は空虚なる場処、即ち、空間のみとなっていたであろう。ところが、宇宙は完全に充実してもいなければ、そうかといって、完全に空虚にもなっていない以上、原子と空虚とは交互に分界し合っているのだ、ということは疑いの余地がない。従って、一定の原子があると、これが〔自己の占めている〕充実せる場処と、空虚なる場処〔空間〕とを分界し得ることになる。
五二八 - 五五〇
この原子は、外部から打たれて、打撃を加えられても、分解することが不可能であり、かつ内部から滲透されて、くずれることも不可能であり、その他如何なる方法を以てしても、打撃によって動揺することもあり得ない。これは、私がしばらく前に、既に示したところである。何故ならば、空虚を含有しないものは砕き得ないし、破壊することも、切断することによって二つに分割することも不可能であり、その上、万物を破壊しつくす水も、滲透性の寒気も、侵蝕性の熱も、受けつけることがあり得ないのは、明らかである。そして、すべて自体の内に、空虚を含有すること多ければ多いものほど、打撃を受けた時、受けた打撃は、それだけ一層大となるものである。であるから、原子は、私が既に説いたように、強固にしてかつ空虚を含有しないものである以上、これは恒久的なものであらねばならない。もし原子にして、恒久的でないとしたならば、万物は今までにことごとく、完全に無に帰してしまったであろうし、現にわれわれが眼前に見るところのものは、ことごとく無から再生して来た、ということになるであろう。ところが、私が先に説いたように、何ものも無からは生じ得ず、かつ一旦生じたものは、無に帰し得ないが故に、万物がそれぞれ最後の瞬間において、還元し得るところの、しかして新しいものを再生せしめる素材となり得るところの、不滅性をそなえた原子がなくてはならない。従って、原子は単一性をそなえて、強固なるものである。もしそうでなかったとしたならば、無限の過去から今まで、永代をへて保存されて来て、物を新たに再生させる力を持ち得る筈がない。
五五一 - 五七六
また、物を破壊するのに、自然がもし全然限界を定めなかったとしたならば、今までに原子は、過去の時の破壊によって、はなはだしく減少させられ、そのために物が或る一期間内に、とうてい懐胎されて生命の十分な寿命にまで達し得ないほどになっていたかも知れない。というのは、われわれの知るように、何物にしても、分解されて行く方が、再造されて来るよりも、急速だからである。従って、過去の無限に長い時代全部を通じて、時が破壊してしまったところのものはーーまた現になお破壊し、分解しつつあるところのものはーーあとの将来の時では、再生し切れない程になってしまったかも知れない。ところが現実では、破壊作用には、明らかに一定の限度が与えられているのである。その理由は、万物は現にそれぞれ再造されていること、また物にはその種族に応じて、生命の成長をとぐべき一定期間の時もまた、あてがわれていることは、われわれの知るところだから。さらに、原子は完全に強固なものであるのに、それにもかかわらず、すべて柔軟なる物ーー例えば、空気(1)、水、土、火ーーは如何にして柔軟になるか、まそれぞれは如何なる力によって生ずるか、という疑問は、かような物には空虚が混入されているが故だ、とさえすれば、説明できるであろう。しかしながら、この反対に、原子が柔軟だとしたならば、固いヒウチ石とか、鉄とかは、如何なるものから造り出され得るか、を説明することが不可能となるであろう。というのは、これらのものの固いという性質が、発生する最初の基礎を欠くことになるからである。であるから、原子は強固なる単一性の故に力強く、その結合が緊密であればあるほど、物はいよいよ一層緊密に凝結され、固い力を発揮し得るのである。
註1 これらを万物の生成原素とみなす学派があったから、ここにあげているのである。
五七五 - 五九二
さらに、仮りにもし物を破壊するのに、限度がなかったとしても、それにしても、永遠の昔から現在まで、如何なる危険にあっても、未だにそこなわれていない物質が、依然として存続している、としなければならない。ところが、破壊されうる脆弱性をそなえているとしたら、永い時代を無数の打撃にあいながら、なお永遠の時を、残存し得たとするのは矛盾である。ところで、物にはその種族に応じて成長し、生命を維持する一定の限度があてがわれている以上、ーーまた物にはそれぞれ自然の理法によって、可能なることと、不可能なることとに、限度が定められている以上、ーーまた物は少しも変化することなく、いや、例えば、色とりどりの鳥が、すべて己れの種族を区別する斑点を体に示すような程度に、すべての物が一定している以上、物は不易なる素材〔原子〕よりなる物質を持ってるに違いないことは、疑う余地がない。
五九三 - 五九八
何故ならば、もしかりに原子が如何なる工合にか制圧されて、変化をうける可能性があるとしたならば、如何なるものが生じうるか、如何なるものは生じえないかの、要するにそれぞれのものの能力が、また深く根ざしている限度が、一体如何にして制限されて来ているかの点が曖昧になってしまうであろうし、種々の生物の代々の子孫がその種族に応じて親の性質を、習性を、生活を、活動を、かくも頻繁にくり返えすはずはありえないであろうからである。
五九九 - 六三四
さて次に、((1)物質には)夫々(われわれにとっては、もはやこれが極小と思われるところの)究極の頂点(2)というものがある以上、われわれの感覚ではとうてい識別不可能なこの原子にも(また同様に極小の頂点があるに違いない)。それは勿論、部分を持つことなく、極小のものであり、これまでかつて自身独立して存在したこともなければ、今後もその能力を持たないであろうところのものである。というのは、それ自身は他のものの先ず最初にして、且つ単なる一部にすぎず、次に他の部分、次に他の部分と、同様な部分がつづいて、緊密な塊りとなって、原子な性格を構成しているのであるが、これは自身独立して存在しえないが故に、剥ぎとることは全く不可能なように密着しているに違いないからである。したがって、原子は単一性を以て強固なものであり、これら極小部分が凝結し、固くかたまり、これら極小部分の集合によって成立しているのではなくして、むしろ恒久的な単一性によって力強く、少しでも剥ぎとることも、減少することも、その本質がゆるさないところのものであるが、これは諸物に与える種子を残さなければならないが故である。
なおまた、極小があるとしなければ、如何に微小な物質といえども、すべて無限に部分から構成されていることになってしまうであろう。すなわち、物の半分には当然常にその半分があり、かくして分割には全く際限がなくなるであろうからである。そうなれば、物の総和なる極大の字宙と、物の極小との間には、いったい何の差異があろうか? 全然差異を失ってしまうであろう(3)。何故ならば、宇宙が全く無限であるとすれば、物質の構成されている微小の極なる部分も、また同様に無限だからである。しかしながら、真の理性はこれに異議をとなえ、精神の信じえないことだと主張するからには、君は承服して、次のことを認むべきであるーーつまり、構成している部分というものが全くなく、しかも極小性をそなえたものが存在する、ということを。そして、これが存在する以上は、これなるものは強固にして、かつ恒久的なるものであるということを、君は認めてくれなければならない。最後に、万物を生む自然が、かりにもし万物を還元するのに原子の極小部分に帰せしめるのが常であるとしたならば、自然はこの極小部分を基としては、何ものも造り出すことはできないであろう。何故かといえば、極小部分は部分の集合によって成りたっていない以上、物を生みだす素材〔原子〕が具備していなければならないところのもの、すなわち、種々の結合(4)、重量、打撃、集合、運動ーーこれらによって万物が生まれるのであるがーーを具備することは不可能だからである。
註1 五九九行の次に、少なくとも二行の欠落があるものと推定されている。マンロウは次のように、これを補綴している。
corporibus, quod iam nobis minimum esse videtur,
debet item ratione pari minimum esse cacumen.
括弧内はこの補綴によって訳した部分である。
註2 原子アトモスの構造を述べているのであるが、物に頂点、すなわち末端があるように、原子にもそれがあり、ἐλάχιστον という。ルクレーティウスは、これを minimae partes「極小部分」とラテン訳している。これはあくまで原子の一部分であって、分離することは不可能だ、とする。
註3 「すべて無限なるものは相い等しい」という論法に基く。
註4 この点は後に詳述している。
六三五 - 六四四
であるから、万物の素材は火であるとし、宇宙はただ火のみから成ると断じた人々は、真の理論からは、およそ遠いもののようにみえる。かかる人々の指導者として、まず第一にこの論争の口火をきったのは、ヘーラクレイトス(1)である。彼は 晦渋 な表現のために、ギリシア人の間では、真理を探究する真面目な人々よりは、むしろ心なきヤカラの間で著明な人である。というのは、愚かなものは、何でもゆがめられた言葉のかげにかくれているものを見ては感嘆し、これを好み、耳にこころよくひびくものとか、なめらかな言辞にいろどられたものとかを、真理だと思いこむものだからである。
註1 エペソスのヘーラクレイトス(前、約五〇〇年頃)は火主説をとなえ、「上下道」ὁδὸς ἄγω κάτω なる変化経路をたどって「万物は変化する」πάντα ῥεῖ とした。すなわち火(気体)は水(液体)に、水は土(固体)になり、土は火に還元して、これを反覆すると説く。彼には「晦渋家」ὁ σκοτεινός なるアダ名がある。
六四五 - 六八九
では聞くが、もしただ純粋な火のみから万物が生じているのだとすれば、万物は一体、何故かくも変化に富みうるであろうか? もしかりに火の分子にして、火全体が持っているのと同一な性質を持っているとしたならば、熱い火が濃厚になろうとも、稀薄になろうとも、一向問題にならない。すなわち、火の分子が圧縮されれば熱がそれだけ強くなるか、もしくは、分散し、飛散すれば、それだけ弱くなるに違いないからである。かかる条件のもとに、君が考えて可能なりと思われることは、これ以上に出ない。まして、万物のかくのごとき〔複雑な〕変化が、火の濃厚稀薄から生じうるとは、とうてい考えられないことであろう。さらにまた、こういうこともある。すなわち、彼ら〔火主説論者たち〕が、もし物の中に空虚が混入されているということを認めるとすれば、火が濃厚になることも、稀薄になることも、可能となるであろう。ところが、彼らは自身に幾多の矛盾が生ずることを知って、物に純粋なる空虚の混入していることを認めるのをためらうが故に、彼らは 険阻 な道を恐れて、かえって真理の道をふみはずしている。のみならず、万物から空虚を除去したとすれば、万物はことごとく凝縮し、打って一塊の物質と化し、その物質たるや、自体からは何ものもーー例えば、燃える火が光や熱を発散するようにーー活発に放散することが不可能だ、ということもまた彼らには解せない。
燃える火が、光と熱を発散して、火は、火の分子が固く凝結して成立しているのでないということを、君に理解せしめるであろうように。がしかし、万一彼らの信するところにして、何か〔濃厚稀薄とは〕別途の工合によって火が結合して、消滅することも、自身の物質を変化させることも、可能であるとしたならば、この考え方を徹底的におしすすめると、火はすべて全く無に帰し、生まれでる万物はすべて無から生ずる、ということになってしまう。何故ならば、何ものに限らず(1)、変化して、自己の限度をこえて出れば、ただちにこれは以前の自身の死滅を意味するからである。したがって、火の分子のうちの幾らかは、変化をうけることなく、存続しなくてはならないはずである。でなければ、万物は全く無に帰し、無から万物が再び生まれでて、栄えるということになるではないか。
ところで、さて、ある物質があって、その物質は常に性質を不易に保ち、その物質の〔幾分かが離れ〕去ることにより、〔また幾分かが〕来たる〔加わる〕ことにより、またその物質の〔配列の〕順序を変えることによって、万物がそれぞれ性質を変えたり、物体が変化したりする、という或る物質があるとはいえ、この物質が火では決してない、と思ってさしつかえない。火の分子の幾らかが離れようが、去ろうが、幾らかが加えられようが、幾らかの〔配列の〕順序が変ろうが、すべて依然として火の性質を保持しているとすれば、一向問題にならない。それら火の分子が生みだすところのものは、ことごとく全く火であろうからである。しかし、私の思うには、真理はこうである。すなわち、或る物質で、その結合、運動、順序、位置、形態如何によって火を造る物質はある。が、その物質の順序が変化をうければ〔その物質が構成する物の〕性質を変えるものであって、それは火に似たものでもなく、また分子を発散してわれわれの感覚にうったえ、接触によってわれわれの触感に感ずるもの〔われわれの感覚で識別しうるもの、の意〕とも異なるものである。
註1 エピクーロス派では「物の限界」を重視する。「要するに、各々のものには如何にして、その能力に一定の限度が決められているか、また深く根ざした限界があるか云々」と先にいっているのが、それである。そこで、例えば、火が火たる存在の限界をこえて、他のものに変化すれば、火たる存在は消滅する、という意味である。
六九〇 - 七〇四
そこで、万物は火であり、火以外に宇宙に真なるものが存在しない、とはこの人〔へーラクレイトス〕のいうところであるが、これ愚のきわみとしか思われない。何故といえば、彼は感覚に立脚していながら、感覚に反抗してたたかっているものであり、われわれが「信じる」ということが、一切これに依りかかっているところの感覚への信をーー彼自身火と称するものを認識するのに、その媒介となっているところの、その感覚への信をーーくつがえすものだからである。すなわち、彼は感覚が真に火を認識すると信じながら、火におとらず明白なる他のものは認めない、というのだから。これこそ私には、無意味で、愚かなこととしか思われない。われわれは、では、何によればいいのか? われわれが真なるものと、虚なるものとを弁別するのに、感覚よりたしかなものが、他にあるだろうか? 火の存在を否定し、それ以外のあらゆるものの存在を認めるのならば、まだしも、他をことごとく取り去って、火のみを残して認めようとするのは、一体何故であろうか? いずれを主張するにしても、同様に狂気沙汰としか思えない。
七〇五 - 七三三
であるから、火こそ万物の素材であり、火を基として宇宙が構成しうると考えた人々、また空気(1)こそ物を生ぜしめる第一元素なりとした人々、また誰れに限らず、水(2)が独自で物を造り出すと考えた人々、或いは、地(3)が万物を生み、万物に化してゆくと考えた人々、これらの人々は、およそ真理より遠く迷い離れたものとしか思われない。さらになお、空気と火(4)と、地と水(5)とを結び合わせて、万物の元素を二重なりとなすもの、また万物は四種のもの、すなわち、火(6)、地、空気、及び水より生ずる、とみなすものもある。これらの人々の先頭に立って、アクラガンティーヌス人エンペドクレースがいる。彼は、陸が三角形をなす岸にとざされた〔スィキリア〕島の産んだ人である。この島をめぐって、イオーニアの海は広大なウネリを立てて流れ、その緑色の波から辛い塩水をふりまき、流れの急な海はせまい海峡において、波をたててイータリアの岸と、この島の境界とを分けている。こちらには危険なカリュプディスの渦まきがあり、かなたには〔火山〕アットナの鳴動が、怒りの火焔がふたたび溜ったぞと威嚇し、恐ろしい力が咽からまたも火を爆発させて吐き出すぞ、またも焰の電光を天高くふき上げるぞ、といわんばかりである。この偉大な土地は、多くの点で、人類の諸民族には驚嘆すべき土地と思われていて、よい産物に富み、おびただしい多数の住民に守られ、ぜひ見物すべき所だと人にいわれているが、それにしても、かかる土地にも、これなる人〔エンペドクレース〕ほど名声の高い人はなく、この人ほど神聖にして、敬服すべき、かつとうとぶべき人はないように思われる。のみならず、彼の胸中から神聖な詩は、かがやかしい諸発見を宣言し、公表し、ために人間の 種子 から生まれた人とは、信じられないほどである。
註1 アナクシメネース Anaximenes.
註2 タレース Thales.
註3 ペレキュデース Pherecydes.
註4 オィノピデース Oenopides.
註5 クセノパネース Xenophanes.
註6 エンペドクレース Empedocles.
七三四 - 七六二
ところが、この彼にしてさえも、またその他私が先に述べた人々ーー数段と彼よりは著しく劣り、遠く及ばない人々ではあるがーーも多々すぐれた入神の発見をとげ、心のいわば神殿の奥壇から出たかのような答えを与え、ポェブスの三脚祭壇と 橄欖 〈ARCHIVE編集部註:オリーブのこと〉から、〔アポㇽローの巫女〕ピューティアが述べる言葉〔アポㇽローの神託〕よりは、むしろ神々しく、かつはるかに確実な真理を以て答えたとはいえ、それにもかかわらず、彼らは万物の原素に関する点において頓挫するにいたり、偉大な人々であっただけに、ここでたおれた転びかたは大きかった。その理由は、まず第一に、万物に空虚〔の混入すること〕を否定しておきながら、万物の運動をとりあげて認め、諸物、すなわち、空気、水、火、地、動物、穀物のたぐいが柔軟にして、粗なることを認めておきながら、しかもこれらを構成する物質に、空虚の混入するのを認めようとはしないことである。
第二には、彼らは物質を分割するのに、全然限度をもうけず、物質の分割に終止を打とうとはせず、物質に極小が存在することを否定していることであるーー万物にはすべて、われわれの感覚にとって、極小と思われる究極の頂点のあることは、われわれの知るところである以上、これより演繹して、誰しも識別不可能な物質〔原子〕にもまた、それが究極の頂点としているところ極小〔部分〕があるということは、明らかであるにもかかわらず、さらに、彼らは万物の原素をして、柔軟なりとしているが故に、柔軟なるものは生まれ出るべきものであり、かつ全く死滅すべき性質を持っているものであることは、われわれの見るところである以上、その結果宇宙はすでに無に帰し、しかも無から幾多のものが再生し、栄えるとみなさなければならなくなる。このいずれも、如何に真理より遠いものであるかは、君にすぐわかることであろう。つぎに、彼らのいう元素は、多くの点において、互いに敵対し合い、互いに相手を毒し合うものである。そのために、彼らの元素は、合致すると死滅するか、でなければ逃げ離れてしまうことは、例えば、これらが集まって嵐となる時、電光〔火〕と雨〔水〕と風〔空気〕とは夫々互いに逃げはなれてしまうのは、われわれが見うけるとおりである。
七六三 - 七八一
なおまた、これら四種の物から万物が生じ、また万物は分解して、再びこれらの物に還元して行くとすれば、これらが万物の元素だ、とは如何にしていい得ようか? むしろ万物の方こそ、これら四種の物の元素なり、というに 如 かないではないか。何故ならば、万物とこの四種の物とは、交互に生まれいで、悠久の昔から相互に色をかえ合い、全性質をかえ合うことになるからである。ところで、万一君の考えるところにして、火と、地なる物質と、気体の空気と、液体の水とが結合するに際し、夫々の性質を全然変えることのないような結合の仕方をするのだとしたならば、これらは動物も、樹木のような生命を持たない物も、何物も、生み出しうるはずがない。すなわち、夫々はあい調和しない塊りの集合となって、各自が固有の性質を発揮し、空気が地と混じ、火が水と同居する、ということになるように思われるからである。ところが、原子は物を生むに際し、生まれ出る物が夫々独自の存在を得るのに、何ら支障をきたしたり、妨害となるようなことの全く現われないように、性質を消し隠して与えるものでなければならない。
七八二 - 八〇二
さらに、彼ら(1)は天空に、また天空の火にまでさかのぼって、まず〔天空の〕火が空中の空気に変じ、これより雨が生じ、地が雨から生まれ、今度は逆に、万物は地から、まず水に、次いで空気に、最後に火に還元して行き、天空から大地へ、大地から天空の星へと移り変り、こわらが絶え間なく相互に変化し合って、尽きるところがないとする。かようなことは、決して原子は行なうはずがないに違いない。すなわち、万物が全く無に帰することがないためには、或る不易なるものが存続しなければならないからである。というのは、何物にかぎらず、変化を受けて自己の限度をこえるものは、これただちに、その前身であった物の死滅を意味するからである。したがって、私がすこし前に述べたところのもの〔四元素〕は変化するものである以上、万物が全く無に帰することのないために自身決して変化することのあり得ないもの〔原子〕とは、異なった性質の存在であらねばならない。むしろ、次のような性質をそなえた或る物質を考うべきではなかろうか。すなわち、この物質が火を生み出すとしても、その物質の少量をとりのぞいたり、少量を加えたりすることにより、また順序を変え、運動を変えることによって、空中の空気を造り出すこともまた可能であり、このようにして、万物が 彼此 相互に変り合うことが可能となるような物質を。
註1 ストアー派の論者を指す。
八〇三 - 八二九
『しかし、眼前の明白な事実が、示しているではないか』君はいうかも知れない『万物は地から出て、空中の空気の中へのびて成長し、やしなわれて行くのだということを。そして、天候が適当な時期に雨をめぐんでやり、そのために樹木が雲の溶解物〔雨〕を浴びて揺れるようなことがないとしたならば、また太陽が自身の役目をはたして 撫育 し、熱を与えてくれることがないとしたならば、穀物も、樹木も、動物も、成長することはできないであろうに』と。いかにも、もっともだ。われわれにしても、固い食物と軟かい水との助けをかりなければ、ただちに肉体を失い、全生命はわれわれの筋肉や骨からことごとく離れて、抜け去ってしまう。すなわち、われわれも或る一定の物に、他の物もまた他の物で、夫々一定の物に助けられ、やしなわれていることは、疑問の余地がない。多くの物に共通な多くの原子が、多種多様な工合に、物の中に混合されているが故に、その結果、種々なる物が種々なる物によって養われている、ということが明らかである。
ところで、間々重要となる点は、同じ原子が如何なる原子と、また如何なる状態で一所に保持されているか、如何なる運動を相互に与え合うか、また受け合うか、ということである。すなわち、同じ原子が天空を、海を、地を、河川を、太陽を、形成していることもあり、同じ原子が穀物を、樹木を、動物を造ることもあるが、ただし、他の原子との混合の仕方が異なっていて、異なった活動の仕方をしているからである。なお、私のこの詩の中でさえ、多くの言葉に共通な、多くの「 あるはべっと 」を、あちらこちらに見うけるであろう。しかしながら、詩の行も、言葉も、意味の上においても、発音の音声上においても、互いに異なっていることは、君にも認めざるを得まい。「 あるはべっと 」は順序のみを変えただけでも、これほどの働きをなし得る。まして、諸物の原子なる「 あるはべっと 」(1)は、これを基としてあらゆる多種多様なる物を生ぜしむるためには、これ以上複雑な着き方が可能である。
註1 elementa には「要素」の意味と、「アルハベット」「いろは」の意味と両義がある。これを利用した洒落。
八三〇 - 八七四
さて、われわれはアナクサゴラースのとなえている、ギリシア人のいうところの「 同質素 (1)」をも、検討してみることとしよう。これは、わが母国語の貧困なために、われわれの国語では表わすことができないが、しかし、その内容そのものは、言葉で説明することが容易である。まず第一に、彼が物の「同質素」という時には、すなわち、骨はきわめて微小にして微細なる骨から、肉はきわめて微小にして微細なる肉から成り、血液は多くの血滴があい集合して造られ、金は金粉から構成しうると考え、地は微小なる地を基としてかたまり、火は微小なる火から、水は微小なる水から成り、その他のものも同様にして成る、と彼は空想して考えている。ところが、彼は物に空虚の存することを決して認めようとはせず、また物質の分割に限度のあることを認めようともしない。であるから、この二つの点において、彼も、先に述べた他の人々と同様に、誤まっていると私には思われる。
さらに、諸物がそなえているのと同様な性質をそなえ、諸物と同様にそこなわれもし、かつ死滅して行き、如何ようにしようとも破滅するのを食いとめる 術 のないものでも原素だとすれば、彼の捏造する元素なるものは、余りにも脆弱にすぎるものである。というわけは、かくの如き元素の内に、強烈な圧迫をうけてもなお耐久力を有し、破滅という歯にかみくだかれてもなお死滅をまぬがれる程のものが、はたして何かあるだろうか? 火か? 水か? それとも空気か? これらのいずれに、その耐久力があるだろうか? 血液か? それとも骨(2)か? 思うに、どれも有してはいまい。何らかの力を加えられれば屈服して、われわれの眼前から死滅し去って行くのが、明らかにわれわれの眼で見うけられるところの諸物と、全く同様に死滅すべき性質を、〔諸物の〕基となるべき元素がことごとく一杯に持っている、ということになるからである。万物が無に帰することもあり得ないし、無から生ずることもあり得ない、とは私がすでに証明したところではあるが、ここにまたも、これを強調する。
そこで、食物は肉体を増大させ、これを養ってくれるところを見れば、血管とか、血液とか、骨とか、((3)筋肉とかは、それと異なった「 異質素 」から成り立っている)と見てさしつかえないであろう。それとも、彼らの説くところにして、もし食物がすべて混合したものから成り立っていて、それ自身のうちに、筋肉や、骨や、血管の微小な小片を含有しているのだとするならば、こういうことになるであろう、すなわち、固形物も液体もともに食物はすべて「異質素」なるもの、骨、筋肉、膿、血液、などの混合から成り立っているものと考えられる、と。さらに、大地から生ずるものは、すべて地中にありとするならば、地は当然地から生ずるものとは異なった「異質素」から成り立っていなければならない。同様の論法を、他の例にうつしてみたまえ。このいい方は、幾らでも使えるであろう。もし焰が、煙が、灰が、薪の中にひそんでいるとするならば、薪はこれらのものとは異なった「異質素」から構成されていなければならない。すると、大地が養うところのものはすべて、地がこれを成長せしめるのに((4)地から生まれ出るものとは違った「異質素」を以てする、ということになる。同様にして、薪が発散するものは)薪から発生するものとは違った「異質素」によって(造られるということになる)。
註1 τὰ ὁμοιομερῆ στοιχεία「同質要素」。但し、アサクサゴラースの現存断片には ὁμοιομερεία の文字はさがし出せないという。
註2 八五八行、ラウスの読み ossa をとる。
註3 八六〇行の次に一行の欠落があると推定される。ランピヌスの考案した補綴 et neruos alienigenis ex partibus esse に依る。
註4 八七二行の次に二行の欠落があるとマンロウは推測し、次のように補綴している。括弧内はその訳。
ex alienigenis quae tellure exoriuntur/sic itidem quae ligna emittant corpora, aluntur.
八七五 - 八九六
ここに、わずかにいいのがれの出来るこういう抜け道が残っている。これはアナクサゴラースも用いているところであるが、すなわち、あらゆる要素が万物の中に混然とひそんでいて、ただ、その混合されているものの中でも、最も大部分を占めている要素のみが表われ、これが最も表面にあって、 より 著しく眼に見えて来るのだ、と。しかし、かようなことは真の理論からは、およそ遠いものだと排撃されている。というのは、穀物もまた〔臼の〕固い石を上にのせられて挽かれる時には、血液を証する証拠とか、ないしはわれわれの体内で造り出される何か〔例えば、骨、筋肉など〕を、屡々示してしかるべきであり、石と石とをすり合わせ〔て臼を挽い〕た場合、血の滴がにじみ出るのが当然であろう。同様にして、草にしても、水にしても、毛深い羊が乳房から出す乳と、同じ風味のある甘い滴を屡々出してしかるべきはずであろう。また、たしかに、土のかたまりをすりつぶした場合、種々の草のたぐいや、穀物や、草木の葉が、微小な形で土の中にひそんでいるのがわかるべきであり、最後に、薪を千々にくだけば、煙や、灰や、火が、微小なるものとなって見えてしかるべきであろう。ところが、以上のようなことは、いずれも全くだらないことは、明白な事実が示すところである以上、要素とは、かくの如き混入の仕方で、万物の中に混入しているものではなくして、実は多くの物に共通な種子〔原子〕が、色々な工合に混合して、万物の中にひそんでいるのだ、と思ってよかろう。
八九七 - 九二〇
『しかし、往々高い山の中で起ることであるが』君はいうかも知れない『高い木の最も上の先端が、強い南風にふかれて起ることであるが、互いに密接し合っている先端同志がすれ合って、ついに火花が発し、燃えてしまうことがあるではないか』と。いかにも、がしかし、火が木の中にふくまれているのではなくして、ただ火の多くの原子(1)があって、摩擦のために一個所に集合して来た場合、森林に火事をひきおこすのである。ところが、かりにもし、火が出来あがっていて、森林の木の中にひそんでいるのだとしたならば、火は一刻たりともかくれていることは不可能で、いたるところで森林を灰に帰せしめ、樹木を焼きつくしてしまうことであろう。
私が既に、前にいったように、間々重要になるのは、同じ原子が如何なる原子と、如何なる状態で結合されるか、相互に如何なる運動を与え合い、かつ受け合うか、という点であり、また同じ原子の間でも、相互にちょっと変えただけで、 火 (2)が生じたり、また 木 が生じたりするということは、もはや君にもわかることであろう。言葉でさえも同様で、われわれが 火 と 木 とを、異なった語として区別するようになるのは、「 あるはべっと 」を相互に少し変えただけのことである。要するに、明白に見える諸物の中に認められるすべてのものが、それを構成する素材の物質〔その物品と〕相似の性質をそなえていると空想しないでは、生ずることはあり得ないと君がもし考えるならば、このような考え方を以てしては、物の原素は君にとって死滅してしまうであろ〔ーー無いも同然であろう〕。原素(3)は、〔人間の原素は、微小きわまる人間だということになり〕おかしさに 慄 えて笑いくずれ、顔やほほを塩からい涙でぬらすことになるかも知れない。
註1 火を構成しうる原子。
註2 ignis 火と lignum 木と綴りが少し違っただけで別の文字になるように……と洒落れている。
註3 人間を構成する元素は微小な人間だなどという愚論は、その微小な人間に笑われるぞ、と茶化している。
九二一 - 九五〇
さて、注意して、まだ残っている点を学んでくれたまえ、そして更にはっきり聞きとってくれたまえ。如何にわかりにくいことであるかは、私にも気付かないわけではない。とはいえ、称讃を博そうという大きな希望が、〔酒神ディオニューソスの持つ〕鋭い 神杖 を以て、私の心を深く刺戟し、それと同時に、私の胸中には 詩神 〔すなわち、詩〕に対する甘い愛をふきこんでくれた。そのために興奮を感じ、心は活気づき、私はかつて誰れも足をふみ入れたことのない境地へ、ピーエリスの娘たち〔= 詩神 〕の道なき道をふみ分けて行く。けがれたことのない泉に近寄り、これを飲むのは喜びだ。これまで詩神が離れの額にも花冠をかぶせてやったことのない方面から、新鮮な花をつみ集め、私の頭に冠すべき、ほまれ高い花冠を求めることは楽しみだ。
その理由は、まず第一に、私は広大な問題を説き、ひいては人の心を宗教という固い結びから解き放とうと努めんとするからであり、第二には、この難解な問題を、すべて詩という魅力を用いて、私はいとも明快な詩に歌わんとするからである。これが道理にはずれた仕方だとは思えない。例えば、医者が子供たちにいやな「にがよもぎ」を服用させるのに、前もって杯のまわりの縁に甘い黄色な蜜をつけ、思慮のない年ごろの子供が口びると同じにだまされて、「にがよもぎ」のにがい汁を飲みほすように仕向けるが、そうかといって、これはあざむかれたといっても裏切られたということにはならず、むしろこのようにして本復し、健康を恢復できることになるのだが、私が今、していることは丁度これと同じで、これなる理論は、なれない一般の人々にとっては、むずかしすぎるかも知れないし、また世人はこれに尻ごみするところから、私はこのわれわれの説を述べるのに、言葉甘き 詩神 の詩によって、君に説きあかしたいと思い、君が物の本質はすべて如何なる姿をとっているかを了解してくれるまで、かような説きかたを用いて、いわば詩という甘味なる蜜をきかし、君の心を私の詩につなぎとめておくことが出来たらば、と思ったからである。
九五一 - 九五七
ところで、素材の物質〔原子〕は、完全に強固なるものであって、永遠にわたって毀損されることがなく、間断なく飛びまわっている、ということを私は既に説いたが、さて、では素材の総和には、はたして限度があるか否かを説明することとしよう。同様にまた、空虚、すなわち、その中で万物が夫々活動しているところの場所、ないし空間に関しても明らかにしたが、全空間にははたして確かな限界があるか、それとも、横にも縦にも無限にひろがっているものかどうか、を十分検討してみることにしよう。
九五八 - 九八八
さて、宇宙にはいずれの方向にも限界はない。というわけは、もし限界があるとすれば、極限があらねばならない。これ以上先きは感覚が追及できないと思われるように区切るものが、何か向うにないとすれば、極限というものは、あり得ないと考えられる。ところで、総和〔宇宙〕の外廓には、区切るものは何もないと認めざるをえない以上、宇宙には極限がなく、したがって終極も限界もない。今、君が如何なる位置に立とうが、何ら問題とはならない。誰れが、如何なる場所を占めていようとも、その場所からいずれの方向にも、すべて同様の無限を残すことになるからである。なお、現に存する限りの空間を、かりに今もし有限なりとし、誰れかをその究極の縁まで進ませ、極地に立って、投げ槍を投げさせる(1)、としてみたまえ。槍は強い力に投げ押されて進み、打ちはなたれた方向へ飛んで行くと思うか、それとも、何ものかこれをさえぎり、阻止しうるものがあると思うか、いずれであろうか?
君が是が非でも、このうちのいずれか一方を認め、一方を取らねばならない。このいずれも、君に逃げ口上は許されない。そして宇宙は際限なくひろがっているということを、君に認めさせずにはおかない。何故ならば、何かこの投げ槍をさえぎるものが、また投げられた方向に行き着くのをさまたげ、 標的 (2)に止まるのをさまたげるものがあるか、もしくは、それを越えて先へ投げ槍が進むか、いずれにしても、投げ槍の投げられた地点は限界とはならない。このような工合に、私は何処までもあとを追って、何処へ君が限界を置こうが、私は聞くであろう『投げ槍は、結局どうなったのか?』と。すると、何処にも限界はあり得ないし、投げ槍の飛ぶ先はたえず延長して行く、ということになる。最後に、われわれの眼前に明白なことで、物が他の物の限界をなしている場合がある。空が山を、山が空を区切り、陸が海の、またその反対に、海が陸の限界となっていることである。しかしながら、宇宙には外郭に限界をなすものがない。
註1 宣戦の意を表明するために、敵の領土へ投げ槍を打ちこむ風習(Livius, I, xxxii, 12)を例に引いた比喩。
註2 finis には「標的」scopus の意味と「限界」の意味とがある。ルクレーティウスは好んで曖昧な表現をもてあそぶが、これもその一例。
九八九 - 一〇〇七
さらに、全宇宙の全空間が、かりにもし、あらゆる方向で、一定の限界に封じてこまれて存在し、限界が付されているとしたならば、今までには多量の原子が自身の充実した重量のために、あらゆる方向から、底へ流れこんで溜ってしまったであろうし、天空なる天蓋の下には如何なるものも生じ得なかったであろうし、天空も、かがやく太陽も、全く存在しなかったであろう。何故ならば、原子は無限の過去から今までには、ことごとく沈下することによって、堆積してしまったかも知れないからである。ところが、実は、原子には全然静止することが許されていないということは、疑いのないところであって、その理由は、原子がいわば流れこんで落ちつくべき底なるものが、全くないからである。万物は夫々、あらゆる方向に、間断なき運動を常に起していて、その素材たる原子は下方(1)より、無限の空間から運動を起して、補給されているのである。したがって、空間の横及び縦のひろがりの大きさの性格なるものは、かがやくあの電光が、悠久なる時を走って進んでも、あの電光の速力を以てしてさえ、また進行することによって速力を減ずることが全くなく進行してさえ、とうてい通過することは不可能なくらいである。それほどまでも、宇宙の広大な空間は、四方八方へ無限にひろがっている。
註1 ポストゲイトの読み inferne をとる。
一〇〇七 - 一〇五一
なお、自然は宇宙を維持するのに、宇宙に宇宙自身の限界をもうけ得ないようにしている。すなわち、自然は原子を空虚によって限らしめ、しかして一方空虚を原子によって限らしめ、かくの如く交互の錯列によって、宇宙を無限ならしめているからである。もしそうでなく、一方が他方を限らないとしたら、この両者のうちの一方が、依然単独で、無限にひろがって行くであろう。((1)ところが、私が先に説いたところであるが、空間〔=空虚〕は無限にひろがっている。したがって、もし原子の総和〔宇宙の物質部分〕の方が有限であるとしたならば)海も、陸も、かがやく天界も、人類も、神々の神聖なる体も、わずか一瞬時たりとも、存在は不可能となるであろう。何故ならば、莫大なる原子は自身の結合から遊離して、広大なる空間の中へ溶解して行くであろうからである。ないしは、遊離した原子が集合することが不可能となるからには、原子が結合して、何ものかを構成することにならないからである。
何故ならば、原子は鋭敏な智を以て、夫々が各自の順序に、意識的に自己の位置を占めるようなこともないのは明らかであるし、また夫々が如何((2)なる運動を起こそうかと、約束し合っているわけでも)ないことは(明らかである)からである。ただ、原子は数が多く、かつあらゆる工合に変化をうけ、無限のかなたから、打撃をうけて運動を起し、宇宙中を駆りたてられて飛んでいるが故に、あらゆる種類の運動と結合の仕方を試みることによって、ついに現在、物のこのような総和が生まれ成立するに至ったこの配置に、はいるのである。宇宙はまた、多数「 劫年 (3)」を経て保存された後、ひとたび適合した運動に投じこまれるやいなや、次のような現象を呈するにいたる。すなわち、河川は流れゆたかな水を以て、貪欲な海をみたし、大地は太陽の熱に温められて、大地の産物を更新し、生物のたぐいが生まれ出て栄え、天空を流れるもろもろの火〔星〕は生命を得る、という現象を。夫々の物が失った分を、適当な時機におぎなうその原子の莫大な量が、無限のかなたから発生して来ない限り、このような現象は起らないであろう。
何故ならば、例えば、生物のたぐいが食物を失えば、肉体は消耗してやせて行くように、万物も原子がどうかして進路をそれ、補給に不足をきたした場合には、ただちに分解して行くに違いないからである。〔遊離した原子が〕四方八方の外部から来て起す衝突だけでは、結合して出来た物の総和〔宇宙〕を維持することは出来ない。というのは、原子が打撃をひんぱんに打つことはできるが、また一部を、他の部分が来てそのために総和が充たされるまで、とどめおくことも可能であるが、往々強制されて跳ねかえったり、それと同時に、原子が集合から分離して自由に飛ぶことが可能になるほどの、十分な逸脱する空間と時間とを与えるべく余儀なくされることもあるからである。であるから、繰りかえし、繰りかえし、私はいうが、原子は多量に出現して来る必要がある。また、他面、打撃そのものもまた十分に生ずるためには、原子の量は無限であらねばならない。
註1 一〇一三行の次に、欠落があると推定される。マンロウの補綴 sed spatium supra docui sine fine patere./si finita igitur summa esset materiai による。
註2 一〇二三行は第二詩脚目の最後の一と綴り以下へ、前行の一と綴りと三詩脚が誤まって転写されている。マルルスが五巻、四二一から抜いて来て補綴を試みた。括弧内はそれに依る。
註3 劫年 magnus annus(大きな年の意)ストアー派では、天体をはじめ万物が移行して、この宇宙の生誕した当時と全く同じ位置に復帰する「劫年」なる期間を考えていた。太陽年の幾年に当るか、その数は 2489, 3000, 7777, 12954, 15000, 18000 など区々である。
一〇五二 - 一〇八二
これらの問題に関して、メンミウスよ、次のようなことを信ずるのは、さけてくれたまえ。すなわち、或る人々(1)の説くところであるが、万物はすべて総和〔宇宙〕の中心に向って押しているのだ、という。この理由から、宇宙は外部からの打撃をうけることがなくとも、安定を保っているのであり、万物がことごとく中心に向っているが故に、最上部分も、最下部分も、任意の方向に分離して行くことがあり得ない、という。ーー〔何らささえてくれるものがなくとも〕単独でこれ自身を〔空間中に〕ささえていることの可能なるものがありと信ずれば、であるーーまた、大地の下側にある重量のあるものは、すべて上方に向っており、さかしまに大地に着いていること、あたかも水に写る物の影を見るかのようである、と。
それから、彼らの主張するところでは、同様に動物もさかさになって歩きまわり、地から離れて、下方の空中へ転落して行くことのあり得ないのは、ちょうどわれわれの体が、おのずから天空の領域へ飛びこんで行くことのあり得ないのと同様であり、彼らが太陽を見ている時には、われわれは夜の星を見ており、彼らは天空の時(2)をわれわれと交互にわかち合っていて、われわれの過ごす昼と、等分なる夜をすごしているのだ、と。
しかしかかる((3)虚説を)愚かな人々に(説きあかしてみせるのは)空疎な迷妄にすぎない。何故ならば、彼らは(理論を曲)げて、かかる(妄想を)抱いているからである。何故かといえば、(宇宙が)無限で(ある以上)中心なるものは、あり得ないからである。今、かりに中心があるとしてみても、(そのために)安定を得るということは、あり得ない。のみか、むしろ全く異なった工合に、ばらばらに離れる可能性がある。というのは、((4)われわれが)空(虚と称している)ところの場所ないし空間はすべて、重量のあるものに対しては、それが如何なる方向へ運動を起こそうとも、その方向へーーよしんば〔宇宙の〕中心を通ろうが、中心をはずれようがーーこれに対して、等しく道をあけてやるに違いないからである。また空虚の中には、原子が集合して来て、その重量を失い、とどまり得る所というものは全然なく、空虚なるものは何ものをも支え得べきものではなく、それのみか、空虚本来の性質が要求するところとして、むしろ、あくまで道をゆずるものだからである。したがって、万物がかような工合に、中心を求める力に支配されて、集合するということは、とうていあり得ない。
註1 ストアー派の論者。
註2 ラウスの解釈にしたがう。
註3 一〇六八 - 七五まで毀損が多い。写本Qにはこの部分が欠けている。写本Oは甚だ不完全で、その欠落部分をマンロウは次のように補綴を試みた。(一〇六八)……error falsa probat.(一〇六九)……versa rem ratione.(一〇七〇)……quando omnia constant.(一〇七二)……eam magis ob rem.(一〇七三)……repelli. 括弧内は、その補綴の部分である。
註4 マルルスの補綴……ane vocamus による。
一〇八三 - 一一一三
さらになお、彼らの空想するところでは、中心に向って押しているのは、すべての物質だというのではなく、ただ地とか水とか((1)または、雨のように上方から地上に落下するもの)及び、いわば大地の体内に保たれているもの、海の水とか、山から出て来る多量の水とかである、という。これに反して、稀薄な空中の空気とか、熱を持つ火などは同時に、中心より遠ざかるものだ、と彼らは説いている。また、全天空が星を以て一面にきらめくのも、太陽の焔が青空の中で養われるのも、これ熱が中心から離れて、すべて天空へ集合して行くが故である、と。さらに、樹木のこずえも、もし営養が((2)万物を生み出すところの自然によって供給され)大地から各へ分配されることがないとしたならば、葉を出すことが不可能であろう、という。(実に、彼らは根拠のない妄想に迷わされて、全くあい矛盾する証左を捏造しているものである。かような説は、ことごとく誤まれる理論から得たものである。何故ならば、空間には究極もなければ、限界もなく、四方八方あらゆる方向に無限にひろがっているとは、私の既に説いたところであるが、それと同様に、原子の量もまた無限に四囲から、補給されるに違いないからである)。でなかったとしたならば、天空の壁は火の飛ぶように、たちまちにして分解し、広大なる空間の中へ飛び散ってしまうであろうし、その他のものも、これと同様な結果におちいるであろう。雷電の生ずる天空の領域は、天上より落下し、大地はわれわれの足の下から急速に沈下し、万物と天空との渾沌たる廃墟の中に原子を放散しつつ、深い空間の中へ消え去り、その結果、一瞬にして荒涼たる空間と、目に見えない原子とのほかには、何ものも一切残らなくなってしまうであろう。どの部分から先に原子が不足するにせよ、その部分が物の死滅へ通ずる門となり、この門を経て、原子の集合は一切外へ飛散してしまうであろうからである。
註1 一〇八四行の次に一行欠落があると推定してマンロウは次のように補殺を試みた。et quae de supero in terram mittuntur ut imber. 括弧内はその訳である。
註2 一〇九三行の次に数行の欠落を推定して、マンロウは八行補綴した。括弧内はその部分である。
一一一三 - 一一一七
君にこれが理解できれば、ほんのわずかな努力で((1)その他のことは、君独力で、やがてわかって来るであろう)。すなわち、一つのことがわかれば、ひいて他のことも明るくなるもので、何も見えない夜とても、君の道をうばいとって、自然の奥を見きわめさせないようにすることはないであろう。しかく、この論は万象を明らかにして見せるであろうから。
註1 マンロウの補綴 cetera iam poteris per te tute ipse videre.