POETRY

人間論

アレクサンダー・ポープ

上田勤訳

Published in 1732 - 1734|Archived in March 26th, 2024

Image: Joseph Mallord William Turner, “Landscape with Water”, circa 1840.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

旧字・旧仮名遣いは新字・新仮名遣いに改め、一部漢字(ex.「拘らず」「於て」、「〜して置きたい」etc.)を開き、ルビを振り、一部表記(ex. 「ベイコン卿」→「ベーコン卿」、「ド・モワヴル」→「ド・モアブル」、「シセロ」→「キケロ」、「ケーザル」→「カエサル」)を現代的に直し、語の不統一(ex. 「今一つ」・「いま一つ」→「いま一つ」、「あゝ」・「ああ」→「ああ」、「廣い」・「ひろい」→「広い」、「あるひは」・「或ひは」・「或は」→「あるいは」、「暖め」・「あたため」→「暖め」、「分かち合い」・「分かちあい」→「分かち合い」、「即く」・「つく」→「即く」、「空飛ぶ」・「空とぶ」→「空飛ぶ」、「突き進む」・「突きすすむ」→「突き進む」、「秤」・「秤り」→「秤」、「見出し」・「見いだし」・「みいだし」→「見出し」、「隠れる」・「かくれる」→「隠れる」etc.)を整え、誤字(ex. 「始めて呼吸した」→「初めて呼吸した」、「受ける」・「うける」→「受ける」)を直した。
底本で脱落していた「書簡 二」の「(六)」は、ARCHIVE編集部が補った。
付録にまとめられた40ページ分の訳注はさしあたり割愛した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れた。
詩文を除く散文部分(「読者へ」、「構想」、各書簡冒頭の「要旨」)の字下げは上げた。
本稿の収録は、現代美術家・石毛健太氏の「intermodal garden」(2023年)より着想を得た。

BIBLIOGRAPHY

著者:アレクサンダー・ポープ(1688 - 1744)訳者:上田勤
題名:人間論
初出:1732〜1734年
出典:『人間論』(岩波書店。1950年。6-109ページ)

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人間論
  ボーリングブルク卿ヘンリ・セント・ジョン宛の四書簡詩

 
読者へ
 
近来書簡体の著作が流行しているので、我らもこの一篇を刊行することにした。これはかなり以前に書かれたもので、その主題が高尚かつ厳粛であるにもかかわらず著者がこの形式を選んだ所以は、それがその本来の性質上散文に属する議論を交えているためである。我らが最初に読者に披露するこの一篇は、人間の性質や状態と宇宙の体系との関係を取り扱ったものである。後につづく諸篇は個人として、社会の一員としての人間自身の体系と人間との関係を取り扱い、そこに一切の倫理の問題が包含されることになるであろう。
 
著者は何人をも模倣するものではない、と同時に、これらの書簡体の詩において何人とも、特に最近公刊された二篇の有名な著者と競おうとするものでないことを知ってほしい。しかしてこれらの内容は万人にとって重要であり、特に何人をも傷つけんとするものでないことを、著者は明言しておきたいと思う。
 
〔訳注によれば、上記の序文は第一書簡の初版(1732年)にのみ付され、それ以降割愛されたものだという。〕
 
著者は二つの理由でこれらの書簡を別個に発表することにした。その一つは著者が不正確と考えるものを、一時にあまりにも多く読者に押しつけないためと、いま一つにはこの方法によれば部分に関する読者の判断を知りえて、全体を読者により価値あらしめることができると考えたからである。
 
〔訳注によれば、上記の短文は第二書簡に付されたものだという。〕

構想

人間の生活や風習について、例えば(わがベーコン卿の言葉を借りるならば)人々の関心や胸底に深く訴えるような文章をものそうと思いたって、私はまず人間を抽象的に、彼の性質、状態について考察することから始めるのを最も適当だと考えた。けだし道徳的な義務を明らかにし、道徳的な教訓を説き、なににもせよ一個の被造物の完全、不完全を検討するためには、それがいかなる状態と関係の中に置かれ、それが存在する本来の目的は何であるかを知ることが、第一に必要であるからである。

 

人間性に関する学問は、他のすべての学問がそうであるように、明白な少数の点に帰着する。確実な真理はこの世界にそれほど数多いものではない。従って精神を分析する場合には、肉体を分析する場合と同じように、大きな、開かれた、知覚しえる部分に注意をあつめるほうが、あまりにも繊細な神経や管を研究するよりも、人間にとって利するところが多いようである。けだし神経や管の構造、用途は常に我々の観察を逃れやすいからである。しかるに世上の論議はもっぱらこの最後の問題に集中されているために、大胆な言い方かもしれないが、せっかくの論議も人間の才能を磨くよりは、人間同士を感情的に対立させ、道徳に関する理論の進歩を促すよりも、むしろその実践を鈍らせているようである。私自身の口から言うのも妙なものであるが、もし私の論文になにがしかの長所があるとすれば、それは一見対立する極端な学説の中間に棹さし、意味の捕捉に苦しむ言葉を避け、穏健にして矛盾のない、簡にして要を得た倫理系をつくりあげる点にあると思う。

 

本来ならば散文で書いてもよかったのであるが、詩文を、それも格調の正しい韻文を選んだのには二つの理由がある。その一つは自明のことと言ってよいだろうが、原理、格言、教訓などは韻文の形をとるほうが、読者の感銘も深く、記憶も容易であるからである。いま一つの理由はおかしいと思われるかもしれないが、真実である。つまり私は散文で書くよりもこのようにして書いたほうが、短い言葉で表現することができるのを知ったからである。言うまでもなく議論や解説の美しさや力は、大半それが簡潔であることによるものである。この点をもっと詳しく論ずるとなると、無味乾燥に陥る懸念もあり、もっと詩的に論ずることにすると、文飾のために明晰を損じ、正確を失い、論理の糸を絶つ恐れがあって、私としては手を下しかねるのである。もしこれらのすべてを網羅して、いささかも損ずることがないほどの力量を持つ人士があるならば、私はその人こそ私の能力のおよばぬことを成しとげる人であると認めるのにやぶさかではない。

 

ここにおおやけ にするものは人間についての一般論であると承知していただきたい。単に人間の大きな問題についてその範囲、限度、関係などを取り扱い、細目については後の機会にもっと詳しく辿ることにした。従ってこれらの書簡は(もし私に書きつづけるだけの健康と時間とが許されるならば)あとになるほど味も出てき、詩的な装飾も添うことになるであろう。当面の私の仕事は泉をひらき、水路の障害を除くことである。河をあとづけ、流れを辿り、その末の成り行きをみとどけることは、もっと愉快な仕事となるであろうと思う。

書簡 一

要旨
人間の性質、状態と宇宙との関係について
 
抽象的に人間について。ーー(一)我々は組織や事物の関係について無智であるから、我々の判断は我々自身の組織についてのみ可能であること。ーー(二)人間は不完全なものと見なされるべきではなく、被造物中の彼の地位、身分にふさわしく、事物の秩序一般に適合し、彼には未知の目的、関係に合致する存在であること。ーー(三)彼の現在の幸福はなかばは未来の事件について無智であり、なかばは未来の状態について希望を持つことによるものであること。ーー(四)より多くの知識を求め、より大きな完全を装う 自恃 じじ 心、人間の過失と不幸の原因。彼自身を神の地位に置き、その処置の適不適、完全不完全、正邪を判断することの 涜神 とくしん 性。ーー(五)彼自身を創造の究極の目的であると自負し、あるいは自然界にない完全さを精神界に期待する不合理。ーー(六)摂理に対する彼の不満はいわれなきものであること。彼は一方に天使の完全さを、他方に獣類の肉体的能力を求めるが、現在以上に発達した感覚力を持つことは、彼を不幸に陥すものであること。ーー(七)可見の世界全体にわたって感覚力精神力の普遍的な秩序と段階が守られ、一つの生物が他の生物に、すべての生物が人間に従属せしめられていること。感覚、本能、思考、反省、理性の位置づけ。理性のみが他の能力のすべてに匹敵するものであること。ーー(八)この生物の秩序と従属関係とがさらにどの程度まで我々の上、あるいは下に延ばしえるか。もしその一部が崩れるならば、単にその部分ばかりでなく、相関連する創造の全体が破壊されること。ーー(九)かくのごとき欲望は道に外れ、狂気沙汰であり、思いあがりであること。ーー(十)結論として我々の現在および未来の状態に関して、摂理に対し絶対的に従順でなければならぬこと。

書簡 一

 

眼をさませ、親愛なセント・ジョン! すべて卑しいものは、
陋劣 ろうれつ な野心と、諸王の 驕慢 きょうまん に委ねて、
我らは自由にこの人間の世界を廻り歩こうではないか。
人生は貯え乏しく、我らが周囲を見て死ぬほどの暇がようやくである。
まことに巨大な迷路ではある! しかし地図がないわけではない。
例えるならば雑草と草花とが雑然と茂る荒野とも、
また、禁断の果実が誘いがおなる庭苑とでも言おうか。
我ら相携えてこの広大な原野を狩りたて、
豁然 かつぜん たるところ、隠微なところに潜むものを試そうではないか。
低く隠れた土地や、高く眠くらむ山を探って、
盲目的に地を這い、空に舞いあがるものを調べようではないか。
「自然」の通路に眼をくばって、「愚昧」の飛びたつのをしとめ、
「風習」の逃げ出すのを生けどりにしよう。
笑ふ必要があれば笑い、寛大に許せるものは許して、
人間に対する神の摂理の正しさを立証しよう。
(一)まず最初に、天なる神と地上の人間とについて、
我らの知っているものから判断する以外に、我らは何を判断しえるだろうか。
人間について我らが判断し参照するよすがは、
この地上の彼の状態を除いて何があるだろうか。
たとえ神が無数の世界に知られているとしても、
我らは我らの世界に神をあとづける以外にないではないか。
茫漠たる空間を貫いて眺め、
数多の世界が重なり合って、一個の宇宙を形づくるのを見、
組織が組織の中に連なり、
いかなる惑星がいかなる太陽をめぐり、
いかに様々な存在が恒星の一つ一つに住むかを観察しえる者は、
神がなぜ我らをこのように造ったかを語りえるかもしれない。
しかしこの世界を支え、結ぶものを始め、
強固な連絡、微妙な依存、正しい位置の関係などを、
広く行き渡る汝の魂は、果たして見ぬいたことがあるだろうか。
部分が全体を包むことがありえるだろうか。
すべてのものを一つに引き寄せ、引かれて支える偉大な鎖は、
神と汝とのいづれが、支えているのだろうか。
(二)思いあがりもまた甚だしいことだ! 汝は人間がなぜ
かくも弱く、小さく、盲目に造られたかを知ろうというのか。
むしろそれよりも先に、人間がなぜ、
これほど弱くも、盲目でも、小さくもなく造られたか、
その難しい理由を、できるものなら当ててみるがよい。
母なる大地に向かって、なぜ樫の木は、
その蔭なる雑草よりも高く、強く造られたかを訊ねるがよい。
あるいはまた、白銀をちりばめた 天空 そら に向かって、
木星の衛星はなぜ木星よりも小さいかを訊ねるがよい。
もしかの無限なる「叡智」が、
およそ可能なる組織の中で、必ずや最善なるものを形づくり、
一つに集まる力が失われぬかぎり、すべては充実し、
高きにのぼるものは、正しい段階を踏んでのぼることを認めるならば、
理性をもって思考する生命の階段のどこかに、
「人間」のごとき階級が、必ずあることは明白なのだ。
そして一切の疑問は(たとえいかに論議の花を咲かせても、)
神が人間の位置を、誤ったか否かに帰着する。
人間について我らが「悪」と呼ぶものは、
全体との関連では「善」であるかも知れないのだ。
人間の仕事は、いかに苦しんで骨を折っても、
千の働きが一つの目的を達しないこともある。
神にあっては、その一挙手がその目的を生み、
さらに他の目的の支援となるのだ。
人間はこの世界では主役にみえるが、
案外に未知の世界の脇役をつとめ、
ある歯車を廻し、ある目的に近づくのかもしれない。
我らが見るものは部分にすぎず、全体は我らの眼に入らないのだ。
勢いにはやる馬が、なぜ人間が手綱をひきしめて、
火のような 疾躯 しっく を抑え、なぜ平原を走らせるかを知り、
魯鈍な牛があるいは土塊を砕き、あるいは犠牲となり、
さてはまた、エジプトの神となるかを悟るとき、
驕慢、愚鈍な人間も、同じように、
彼の行動と欲望と、存在の用途と目的とを知るのだ。
なぜ行動し、苦悶し、制止され、強制され、
ある時は奴隷で、ある時は神であるかを悟るのだ。
人間は不完全で、神は誤っていると言うのはやめるがよい。
むしろ人間は人間なりに完全だと言うがよい。
彼の知識は彼の状態と位置とにふさわしく、
彼の「時」は一瞬で、彼の空間は一点なのだ。
もしある領域で完全であるならば、
早かろうと遅かろうと、現世来世は問題でない。
今日幸福なものは、千年以前の者と同じく、完全に幸福なのだ。
(三)神はすべての被造物から運命の書をかくす。
彼らの見るものは限られた頁、彼らの現在のありようのみだ。
獣(ルビ:けだもの)は人間の、人間は天使の知るところを知らない。
さもなければ、誰が地上のこの世界にあることを忍べようか。
今日の酒宴にほふ るはずの羊が、もし汝の理性を持つならば、
跳躍し、嬉戯するであろうか。
最後まで嬉々として花をつけた草を食み、
彼の血を流すために振りあげた拳を舐める。
ああ、未来についての無智は、
神の定めた領域を埋めるための有難い賜物なのだ!
神は一切のものの神として、
英雄が死に、雀が落ち、
原子や組織が崩壊し、
水滴が破れ、世界が裂けるのを、
すべて一様の眼で眺めるのだ。
されば望みはつつ ましく、天翔ける翼は 戦慄 おののき を持たねばならない。
偉大な教師たる死を待ち、神を崇めるがよい。
未来の幸福は、知るために汝に与えられるのではない。
それを憧憬し、現在の希望とすること、これが神の意志なのだ。
希望は人間の胸中の尽きぬ泉だ。
人間は幸福ではない、しかし常に将来に幸福を期待する存在なのだ。
魂はふるさとを離れて不安にふるえ、
未来の生活に思いを馳せて憩うのだ。
見るがよい、アメリカの土人を。彼の未開の心は、
雲の中に神を見、風の中に神を聴く。
科学の成果にあずからぬ彼の魂は、
黄道や銀河を空想することすら知らない。
しかし単純な「自然」は彼の希望に、
雲を頂く山の彼方に素朴な「天国」を教えた。
深い森の奥の安らかな世界と、
広い海の中の幸福な島と。
奴隷はそこに再びふるさとを見る、
責めさいなむ悪鬼も、黄金を貪るキリスト教徒もいない故国を。
生きることは彼の自然の欲望を満足させ、
天使の翼も、セラフの火も彼の欲するところではない。
ただ、許されて平等の浄土に入るとき、
忠実な犬を伴うことを考えるばかりだ。
(四)賢さを誇る人よ、汝の感覚の秤にかけて、
汝の意見と神の摂理を較べてみるがよい。
汝が不完全だと思うものを不完全だと言い、
神の恵みがここは不足だ、あそこは多いと言うがよい。
汝の慰みや好みのために、生きものを殺しながら、
人間の不幸は神の不正だと、大声に叫ぶがよい。
人間のみが神の高い配慮を独占し、
人間のみがこの世界では完全に、あの世界では不死に造られているかのように。
いっそ神の手から秤とむち とを奪って、
神の裁きを裁き直して、神の「神」となるがよい。
理窟で物を考える自惚れの中に、我らの誤りがあるのだ。
すべてのものがその世界をすてて、空へかけあがる。
驕慢は常に至福の地を望み、
人間は天使に、天使は神になろうとする。
神になろうとした天使は落ちたが、
天使になろうとする人間は謀叛を起こす。
「秩序」の法則を覆そうとする者は、
「永遠の掟」に弓をひくものだ。
(五)天体は何のために輝き、
地球は誰のためにあるのだろうか。
驕慢は答えて「俺のためだ」と言う。
「俺のために親切な自然が生みの力を発揮し、
羊を育て、花をひらく。
俺のために葡萄や ばら 、、
甘美な 汁液 しる かぐわ しい露を、年ごとに新たにする。
俺のために鉱山はおびたた しい財宝をもたらし、
俺のために健康は千の泉からほとばしる。
海は俺を運ぶためにうねり、太陽は俺を照らすために上る。
大地は俺の足台で、空は俺の天蓋だ。」
しかし、燃える太陽から鉛色の死が降り、
地震が都市を廃墟に、嵐が住民をことごとく海底にさらって行くとすると、
「自然」はこの慈愛の目的から逸れるのではないのか。
「そうではない」と答える、「全能なる第一原理は
部分的な法則で行動しない。その行動は一般的な法則による。
例外は皆無に近い。太初以来あるものは変化した。
完全に造られたものが果たしてあるのだろうか。」ーーとすれば、人間だけがなぜ特にーー。
人間の幸福が大目的だとするならば、
「自然」は本来の道から外れているのだ。人間も同じことではないのか。
その目的は人間の欲望について、一定の規則正しさを必要とするように、
雨や日光についても、一定の順序を必要とする。
人間が常に節度を守り、平静で賢明なことが必要であるように、
永遠の春と、雲のない空が必要なのだ。
悪疫や地震が神の計画を破壊するのでないならば、
ボルジアやカティリーナも同じことではないのか。
電光を放ち、太古ながらの大洋に波瀾を巻き起こし、嵐に翼を与える神が、
シーザーの心に烈しい野心を注ぎ、
アモンの子を放って人類を鞭打たないと誰が言えよう。
驕慢から我らの判断は生まれるのだ。
精神の事物も、自然の事物と同じように考えるがよい。
一方で神に罪なしと言いながら、
他方で神を告発するのはおかしいではないか。
いずれの場合も、正しい判断は謙虚に従うことなのだ。
自然に調和があり、心に美徳があって、
空も海も風和やかに、欲望が心を乱すことがなければ、
おそらく我らはよいと思うだろう。
しかし、万物が存在するのは四大の闘争により、
欲望は生命の四大とも言うべきものだ。
太初以来、全体の秩序は
自然の中にも人間の中にも、保たれているのだ。
(六)人間は何を望むのだろうか。ある時は高く舞い上って、
天使と大差はないのに、さらに高望みをする。
ある時は下を見て、やはり悲しげな顔で、
牡牛の力や、熊の毛皮のないのを嘆くしまつだ。
一切の被造物がただ彼のために造られたと言うのなら、
かりに一切の力を持ったとして、その用途を言ってみるがよい。
「自然」は万物に適度に親切で、
しかるべき力をしかるべき器官に与える。
一見足りないようだが、もちろん補いはついている、
あるものには早さで、あるものには力で。
すべてその状態に正確に釣り合って、
多くもなければ、少なくもない。
けだもの 、、、、 も、虫けらも、それぞれの状態で幸福なのだ。
神は人間にーーただ人間だけに不親切だろうか。
ひとり人間のみが理性的だと言われるのに、
すべてを享受しなければ、喜ばないのだろうか。
人間の幸福はーー思いあがった心には解らないだらうがーー
人間不相応の行動や思考をやめることなのだ。
彼の性質や状態が堪ええる限度を超えて、
肉体の力や精神の力を持たないことだ。
なぜ人間に顕微鏡のような眼がないのか。
理由は明瞭、人間は蝿でないからだ。
かりにもっと眼がよくて、
天を観ずにだに を観察して何の役にたつのだ。
触覚が全体にびりびりするほど鋭くて、
どの毛孔もうづいて痛んだらどうするのだ。
脳天から敏感な微粒子が発散して、
ばら 、、 の芳香で悶死するのが、どうしてよいのだ。
もし「自然」が開いた耳に雷鳴を響かせ、
天体の音響が耳をろう するとしたら、
昔のように西風の囁きや小川のせせらぎを、
神はなぜ残さなかったかと恨むに相違いない。
神は与える場合も、与えない場合も、
常にやさしく賢明であると思わない者があるのだろうか。
(七)創造の広大な範囲にわたって、
感覚力と精神力の階段が通じている。
青草に群れる数知れぬ虫けらから、
万物の霊長たる人間にいたる段階を見るがよい。
遠く離れた両極端の間には、あらゆる段階の視力がある。
幕をかけた 土籠 もぐら の眼と、爛々たる山猫の眼と。
嗅覚も同じこと、向こうみずな牝獅子の鼻と、
獣のにおいのする叢を機敏にさがす猟犬の鼻。
聴覚では、水に住む 生物 もの と、
春の森にさえず る生物との間に。
蜘蛛の触覚のみごとさはどうだ!
あの糸の一本、一本を足に感じて、糸の上を走り廻る。
鋭敏な蜜蜂のどんな微妙な感覚が、
毒草から医薬の露を汲んでくるのか。
這いずり廻る豚と、少しは頭のきく象と、
その本能はいかに違うことか!
そしてまた本能と理性との間には、
なんと微妙な障壁があることだろう!
常に独立していながら、しかも常に近いのだ。
記憶と回想はぴったりと結びつき、
感覚と思考を隔てる壁はいかにも薄い。
そして、中間の性質を持つものは、
相互に結びつこうとしながらも、仕切りの線が跳びこせないのだ。
もしこの正しい段階がなければ、
これをあれに、すべてを汝に従わせることができるだろうか。
ただ汝だけがすべての力を従えている。
汝の理性はこれら一切の力を一つにしたものではないのか。
(八)見るがよい、この空、この海、この大地を埋めて、
あらゆるものが生々躍動し、誕生している。
上には生命がなんと高くまで進出し、
周囲はなんと広く、下はなんと深く延びていることか。
存在の巨大な鎖! それは神に始まり、
天のもの、地のもの、天使、人間、
けだもの 、、、、 、鳥、魚、虫、
眼に見えぬもの、望遠鏡のとどかぬもの、
無限から汝へ、汝から無へーー
上なる力に我らがつづくとすれば、
下なる力は我らにつづいている。
さもないと、完全な創造に間隙ができて、
踏段の一つが折れても、大階段の全体が崩れるのだ。
自然の鎖のどの環を破壊しても、ーー十番目でも、一万番目でもーー
鎖は同じように壊れるのだ。
もし、どの組織も順位を守って回転していて、
驚異すべき全体にとって等しく重要であるならば、
その一つに眼に見えないほどの混乱があっても、
その組織のみならず、全体の構成が崩れるのだ。
地球が平均を失って軌道から外れるならば、
すべての惑星や太陽の群の運動は脈を極め、
支配する天使がその領域からほう りだされるならば、
存在は存在と、世界は世界と衝突する。
天の土台全体がその中心に傾いて、
「自然」は神の王座に向かって倒れていく。
この恐ろしい秩序の崩壊はーー誰のためだ。汝のためだと言うのか。
言語道断な虫けらだーー狂気の沙汰だ、自惚れだ、冒涜だ!
(九)考えてもみるがよい。土を踏むはずの足と、仕事をするはずの手が、
頭になると言いだしたならば。
もし、頭や、眼や、耳が支配する心の道具になって
働くのはいやだと言いだしたならばーー。
この全体の世界で、一つの部分が他の部分であると主張するのも、
万物を支配する偉大な精神が規定した仕事や努力を嘆くのも、
その馬鹿さ加減は、みな同じことだ。
一切は堂々たる一個の全体の部分なのだ。
自然はその肉体で、神はその魂だ。
それはすべてを通じて変わって現れるが、すべてにおいて同一なのだ。
天体におけると同じように、地球においては偉大に、
太陽においては暖め、微風においては爽やかに、
星においては輝き、木においては花をつける。
あらゆる生命の中に住み、あらゆる空間の中に広がり、
広がって全体を失わず、働いて衰えを知らない。
我らの魂の中に呼吸し、我々の肉体に活気を与え、
心臓にも毛髪にも完全に満ち溢れる。
嘆き悲しむくだらない男の中にも、
讃美し燃える歓喜のセラフの中にも、等しく満ち、完全である。
彼にとっては高下、大小はない、
満たし、境を設け、連絡し、平等にするのが彼の仕事なのだ。
(十)やめるがよい、秩序を不完全呼ばわりすることを。
我らにふさわしい幸福は、我らが非難するものに依存しているのだ。
汝ら自身の立場を知るがよい。この種類この程度の盲目や弱さは、
神が汝に与えたものなのだ。
服従するがよい、この世界でも、また、他のいかなる世界でも、
汝は身分相応に恵まれていると信じてよいのだ。
生まれる時も、死ぬ時も、安全に、
唯一の摂理の神の手の中にあるのだ。
自然全体は汝の知らぬ技術で、
すべての偶然は汝には見えない掟なのだ。
一切の不調和は汝の理解を超えた調和で、
部分的な悪はことごとく全体的な善なのだ。
思いあがりや、誤りやすい判断にもかかわらず、
一つの真理は明白だ。ーーすべてあるものは正しいのだ。

書簡 二

要旨
人間の性質、状態と個人としての人間との関係について
 
(一)人間は神を詮索すべきでなく、彼自身を研究すべきこと。彼の中間的な性質。彼の長所、短所。彼の能力の限界。ーー(二)人間の二つの原理、自愛と理性。二つながら必要であること。中で自愛が強いこと。その理由。両者の目的は同一であること。ーー(三)欲望とその効用。支配的な欲望とその力。それは必然的に人間をそれぞれ異なった目的に導くこと。その神意による効用は我々の原理を定め、我々の美徳を確実にするにあること。ーー(四)我々の不純な性質の中にあって美徳と悪徳とが結びついていること。境は接近しているが、それぞれ別個の独立したものであること。理性の役目。ーー(五)悪徳はそれ自身においていかに忌わしく、また我々はいかに自らを欺いて悪徳に陥るかについて。ーー(六)しかしながら摂理と全体の幸編の目的は我らの欲望と不完全さとの中において達成されていること。それらがいかに有益にすべての段階の人間に分与されているかについて。また、それらがいかに社会にとっても個人にとっても、生命のあらゆる状態とあらゆる時代とにおいて有益であるかについて。

書簡 二

(一)従って汝自身を知るがよい。神の謎を解くなどと思いあがるな。
人間の正しい研究題目は人間である。
この中間状態という狭い地域に置かれた、
先は見えないながら賢く、荒削りながらも偉大な存在。
懐疑家の側に立つには知識がありすぎ、
禁欲家の誇りを持つには弱すぎ、
中間に逡巡して、 挙措進退 きょそしんたい に自信が持てない。
神にもなれず、獣とも思えず、
精神と肉体の選択もつきかね、
生まれては死に、判断は誤謬ばかり。
乏しい彼の理性では、考えの多少を間わず、
無智であることに変わりはない。
思想と感情とが混沌として乱雑を極め、
いつも自ら欺いたり、悟ったり、
なかばは上を目指し、なかばは下を見、
万物の霊長でありながら、万物の餌食となり、
真理を裁く唯一の存在でありながら、絶えず誤謬に投げこまれる。
まことに世界の壮観で、お笑い草で、おまけに謎でもある!
不思議な生物! ひとつ科学の導くところに上ってみるがよい。
地球をはかり、空をはかり、汐の状態を述べ、
惑星にどの軌道を走るかを教え、
昔の暦を改めて、太陽を規定してみるがよい。
ひとつ、プラトンとともに最高の浄界に翔けあがり、
真、善、美の世界をつきとめ、
あるいは彼の弟子達が歩んだ迷路を辿って、
思惟をすてることが、神を模倣することだと言ってみるがよい、
太陽を模倣するためにぐるぐる走り廻って、
気が変になる東洋の僧侶たちのように。
ひとつ「永遠の叡智」に支配の方法を教えてみたらよいだろうーー
それから急に我にかえって、馬鹿になるがよい。
人間よりもすぐれた存在は、つい近ごろ、
一人の人間が自然の法則を解いたのをみて、
地上の者にしては偉い智慧を持っていると感心して、
ニュートンを担ぎあげた、我らが猿を見世物にするみたいに。
矢のような彗星を規則で律する者が、
心の動きをただの一つでも捉えて、述べえるだろうか。
彗星の光がここに起こり、あそこに落ちるのを見た者が、
彼自身の始め、終わりを説明しえるだろうか。
ああ、なんという不思議なことだ! 人間のすぐれた部分は、
自由に起ちあがって、学芸の峰から峰を踏破するだろうが、
彼の偉大な仕事がようやく緒についたばかりの時に、
理性の織ったものを、感情が破壊してしまうとは!
科学のあとに従う時は、謙虚こそよき案内者だ。
まずその豪奢な装飾を剥ぎとり、
虚栄や衣装、学問の贅沢や安逸、
あるいは頭脳の離れ業をてら からくり 、、、、 や、
単に物好きな快楽や、手のこんだ苦痛を引き去り、
我らの悪徳が学芸にしたてた一切のものから、
全体を抹殺するか、不要な部分を切りとって、
さてその上で、過去に役だち、将来にも役だつものが、
いかに残り少ないかを見るがよい。
(二)人間性の中には、二つの原理が支配する。
自愛は促し、理性は抑える。
一は善で、他は悪だとは我らは言わない。
それぞれにあるいは動かし、あるいは治める目的がある。
むしろその正しい働きにすべての善を、正しくない働きにすべての悪を帰そう。
運動の 発条 ばね である自愛は魂を動かし、
理性の調節器はすべてを律する。
自愛がなければ人間に行動が伴わず、
理性がなければ動いても目的を達しない。
草木みたいに一定の場所に釘づけになって、
養分を吸ひ、繁殖し、腐ってしまうか、
流星みたいに空間をでたらめに燃えて、
他のものを滅ぼすばかりか、自分までも滅ぼしてしまう。
動く原理は最も力を必要とする。
その仕事は活発で、促し、かりたて、勢いづける。
比較の原理は静かに、落ち着いて、
抑制し、熟慮し、忠告するのが役目だ。
自愛はその対象が身近にあるからさらに強く、
理性の対象は遠く離れて、見透かせるだけだ。
自愛は現在の意識で当面の利益を見、
理性は未来と結果とを考える。
誘惑は論証よりも隙間なく殺到するから、
理性が警戒の眼を光らせても、自愛の強さにおよばない。
その強いものの働きを抑えるために、
常に理性を用い、常に理性をかえりみるがよい。
常にかえりみれば習慣となり、経験となって、
ともに理性を強め、自愛を抑える。
これらの友達同士をいが み合わせたいなら、
難しい理屈の好きなスコラ哲学者がよい先生だ。
結びつけるよりも、引き離すのに大骨を折り、
恩寵と美徳、感覚と理性の仲をひきさいて、
恐いもの知らずの才智の妙を尽くしている。
智者たちは馬鹿みたいに名目論をやるが、
まるで意味がないか、同じことを争っている場合が多いのだ。
自愛も理性も目指す目的は同じことで、
苦痛を嫌い、快楽を望む。
自愛は貪欲で、目的の骨までしゃぶるが、
理性は蜜を吸って、花を傷つけない。
快楽は正しくも悪くもその解釈次第で、
我らの最大の悪とも、最大の善ともなる。
(三)自愛の様々な型を欲望と呼んでよいだろう。
本当の、あるいはみかけの善が欲望を刺激する。
善いものなら何でも分けられると限らないし、
自分の用にも少しはとっておけと理性が教える。
欲望は自己本位だが、その手段が正しければ、
理性の下に馳せ参じて、当然その保護を受けてよいのだ。
他人に善を分つ欲望は、高貴な目的を目指すもので、
欲望一般の価値を高め、美徳の名を帯びる。
無気力な不感症の中で禁欲家が慢心して、
我らの美徳は不動だと誇るのは勝手だが、
霜に凍てついて不動なのでは、話にならない。
なにもかも縮みこんで、胸にひっこんでいるではないか。
精神の力は働くことだ、休むことではない。
巻き起こる嵐は魂を活動させ、
一部分は荒らされるだろうが、全体は無事に保たれる。
人生の大海を渡る姿はさまざまだが、
理性は羅針盤で、欲望は嵐だ。
神は静かな凪にいるとは限らない、
嵐に乗じ、風にまたが って走るからだ。
欲望は四大のように生来戦を好むが、
適当に混ぜられ和らげられて、神の仕事に結合する。
四大は鍛えて使えば事足りるが、
人間の構成要素を、人間が破壊しえるだろうか。
理性は「自然」の道に則って、
欲望を従え、混合して、「自然」と神とに従えばよいのだ。
愛と希望と歓喜は、美しい快楽の一族で、
憎悪と恐怖と悲哀は、苦痛の家族だ。
これらを巧みに混合して適当な埒内に抑え、
精神の平衡を崩さぬようにするがよい。
光と影がよく調和して戦えば、
我らの人生に力と色彩を与える。
快楽は常に我らの手と眼の中にある。
我らが動けば隠れるが、止まって眺めれば姿を現す。
現在の快楽を捉え、未来のそれを発見するのは、
肉体と精神を完全に必要とする仕事だ。
すべてはその魅力を発揮するが、影響力は一様ではない。
異なった感覚を、異なったものが捕える。
従って、欲望の強弱に応じて、
身体の器官を燃焼する程度も異なる。
従って、胸中に一つの圧倒的な欲望があれば、
アロンの蛇のように、他の一切を みこむ。
おそらく、人間は初めて呼吸した瞬間に、
死ぬべき素質を受けとるのだ。
いずれは人間を征服する病気の萌芽が、
人間の成長とともに成長し、人間の力とともに力を増す。
精神の病気である支配的な欲望が、
人間の身体に宿るのも、それと同じことだ。
全体を養うはずの生命の液体は、
やがて心身ともに、ただこの欲望に注ぐ。
精神が開き、その機能を広げるにつれて、
心を暖め、頭を満たす一切のものを、
想像力はその危険な技術をふる って、
ひたすらこの罪悪の源に注ぎこむ。
自然がその母なら、習慣はその乳母で、
智慧も、勇気も、才能も、それを悪くするばかり。
理性さえもそれに鋭利な刃と力を与える結果となる、
有難い神の光が酢をいよいよ酸っぱくするように。
我らは理性の正しい支配に対して、よい家来ではないが、
特に恵まれた者は常にこのか弱い女王に従う。
しかし、もし彼女が規則のみを与えて武器を与えないならば、
我らを愚者呼ばわりする以外に何ができよう。
せいぜい我らの天性を改めないで、嘆くすべを教えたがよい、
いたずらに口ばかりやかましくて、味方としては心細い奴だ!
あるいは裁判官から弁護士に変わって、
我らの選択を推奨したり理由づけたり。
いたるところ安易な勝利に馴れてまね るが、
実は弱い欲望を追って、強い欲望と取り換えるにすぎない。
病的な体液が少しづつ集まって痛風になっても、
病気は治癒したと自惚れる医者のように。
そうだ、自然の道を、まず選ばなければならないのだ。
そこでは、理性は案内者でなく、護衛者だ。
支配的な欲望を打倒せず、 匡正 きょうせい し、
敵とせず、友とするのがその役目だ。
巨大な力が強い命令を発し、
人々をそれぞれの目的に騙りたてる。
気まぐれな風のように様々な欲望に翻弄されるが、
この一つの欲望が人々を定めの岸に選ぶ。
たとえ権力や知識、富や名誉、
さては より 、、 強力な安逸を願う心がいかに強くても、
生涯を通じ、生命の危険を冒してさえも、その欲望に従う。
商人の骨折り、賢者の悟り、
僧侶の虔しみ、英雄の誇り、
どれも一様に自分は正しいと考えるではないか。
悪から善をひきだす永遠のたくみは、
欲望の上に我らの最善の原理を接木する。
かくて人間の動きやすい心も定まり、
美徳は天性と混和してたくま しく成長する。
不純なかす が純粋すぎるものを固くし、
肉体は精神に協力して一つの利害に働く。
栽培者の労苦に報いることを知らなかった果実が、
野生の台木に接がれて実を結ぶことを学ぶように、
野生の自然の力が根に働いて、
最も確実な美徳が欲望から芽生えるのだ。
癇癪や 依怙地 いこじ 、憎悪や恐怖から、
機智と誠實がいかにみの ることか!
見るがよい、怒りが熱意と忍耐を生み、
貪欲ですら慎重を、怠惰が哲学を生むではないか。
肉欲は濾過器を通って浄められ、
やさしい愛となり、すべての女性を魅惑する。
卑しい心がその奴隷となって苦しむ嫉妬は、
学問もあり気性のすぐれた者にあっては競争心となる。
男女ともにその美徳が、
自負と羞恥から芽生えないものがあるだろうか。
自然が我らに与える美徳は、悪徳と密接に結びついているのだ。
(そこに鑑みて自惚れはすてるがよい。)
理性が偏見を悪から善に変え、
ネロもその気になればティトスのような政治をするのだ。
同じ烈しい心が、カティリーナの場合は憎悪の的だが、
デキウスでは魅力となり、クルティウスでは神に近づく。
同じ野心が人を滅ぼしもし、救いもし、
悪人をつくるが、また愛国者もつくる。
(四)我らの混沌とした世界のこの光と闇とを、
分けるものは何か。それは心の中の神だ。
自然の両極端は同じような結果を生み、
人間の場合は結合して神秘的な働きをする。
みごとな絵の光と影とが
それぞれに他の領域を侵し、しばしば互いに入り混じるように、
どこで美徳が終わり、悪徳が始まるかを
区別するそのけじめは、あまりにも微妙だ。
だからといって善も悪も、そんなものはないのだと、
言いきってしまうのは愚かなことだ。
黒白互いに混じり合い、淡くなり、一つになっても、
黒もなく、白もないと言えるだろうか。
胸に訊ねてみるがよい、これほど容易なことはない。
それを間違えるから、時間と苦痛がかかるのだ。
(五)悪徳は物凄い形相の怪物だから、
憎むにはその顔を見ればよいわけだが、
あまり見なれて親しみが湧き、
最初の我慢が憐れみに、やがて抱擁するようになる。
悪徳の極端はどこにあるのか、まだ一致した意見はない。
北はどこだと訊ねるのと同じことだ。
ヨークだ、トウィード河だ、スコットランドだ、
オーケージだ、グリーンランドだ、ゼンブラだ、神に訊くがよいなどと。
誰も第一級の悪を自認する者はなく、
隣の男がもっとひどいと考える。
極端なところにいる者でさえ、
その凄さを感じないし、認めもしない。
幸福な者ならおそれて尻ごみするものを、
頑なな住民は、これで正しいのだと頑張るだろう。
(六)人間はすべて善でもあり、悪でもある。
極端はほとんどなく、すべて中途半端だ。
悪人や愚者も発作的に正しく賢く、
最善の者も発作的に日ごろ軽蔑するものになる。
我らは部分的に善悪に従うのみで、
悪にしろ善にしろ、それを導くものはいつも自己だ。
人はそれぞれ違った目的を求めるが、
神の偉大な目的は一つで、しかも全体だ。
あらゆる愚昧や移り気と戦い、
あらゆる悪の働きを挫き、
すべての階級に都合のよい弱点を与える。
魔女には羞恥を、主婦には誇りを、
政治家には不安を、首領には性急を、
王には驕慢を、群衆には信仰を。
それはまた虚栄から善の目的を育てあげ、
利益を求めず、賞讃以外の報酬を求めず、
欠乏と精神の欠陥との上に、
人類の歓喜と平和と栄光とを築くのだ。
神は人間相互が依存するようにつくり、
主人も、召使も、友達も、
それぞれ援助を相手に求め、
一人の人間の弱さが全体の力となる。
欠乏と脆弱と欲望とが密接に、
共通の利害を結びつけ、結合を貴重なものにする。
すべてこれらの欠乏から、我らの真の友情と、
まことの愛と生命が地上で受ける心からの歓喜とが生まれるのだ。
しかしまたその同じものから我らは、生命の凋落に当たって、
これらの歓喜、愛情、利害のすべてを諦めることを学ぶ。
なかばは理性に、なかばは老衰そのものに教えられて、
静かに死を迎へ、争わず身まかるのだ。
欲望が知識、名誉、富、その他なんであろうと、
誰も隣人と立場を変えようと思わない。
学者は「自然」の探究を喜び、
愚者は余計なことを知らぬのを喜ぶ。
富者は豊かに与えられたのを喜び、
貧者は神の配慮に安んずる。
見るがよい、盲目の乞食は踊り、 跛者 はしゃ は唱え、
酔漢は英雄を、狂人は王を気どる。
飢えた錬金術師は黄金の学説に至福を感じ、
詩人は詩神に最上の喜びを見出す。
見るがよい、あらゆる状態に固有の慰安が伴い、
自惚れが万人の友として与えられるのを。
見るがよい、年齢ごとに適当な欲望があり、
希望がすべてを貫き、死ぬときも我らをみすてないのを
見るがよい、自然の心やさしい法則によって、
幼児は がらがら 、、、、 太鼓を喜び、藁人形に 相好 そうごう をくずし、
長じては活発に動き、同じく無意味ながら音高く鳴る玩具を好む。
青年は僧衣、勲章、黄金を喜び、
老年におよんで念珠や祈禱書を弄ぶ。
彼此 ひし ともに他愛のないことは同じことで、
やがて疲れて眠り、人生の悲しい遊び終わるのだ。
我らの日々を飾る五彩の雲は
さまざまな夢想の織りなすところ、
幸福の不足は、希望が補い、
思慮の空しさは、自惚れが埋める。
理性の壊すさきから、新たに営み、
痴愚の杯には常に、歓喜の泡沫が踊る。
一つの期待を失えば、新たな期待に望みをつなぎ、
一つとして空な自惚れはない。
卑しい自愛すら、神慮によって、
他人の望みを量るはかり となる。
見て、素直に認めるがよい、常に一つの慰めのあることを。
人間は愚かだが神は賢い、と慰めるではないか。

書簡 三

要旨
人間の性質、状態と社会との関係
 
(一)全宇宙は一つの社会。ーー何ものも自己のためにつくられず、また他のためにつくられず。ーー動物相互の幸福。ーー(二)理性と本能とは等しく個体の幸福のために働く。ーー理性と本能とはまた一切の動物において社会のために働く。ーー(三)社会はどの程度まで本能によって支えられるか。ーーどの程度まで理性によって支えられるか。ーー(四)自然の状態と呼ばれるものについて。ーー理性は本能に教えられて学芸を発明し、ーー社会を形成する。ーー(五)政治社会の起源。ーー君主政治の起源。ーー長老政治。(六)真の宗教と政治は同一の愛の原理に起源すること。ーー迷信と圧制は同一の恐怖の原理に起源すること。ーー社会公共のために働く自愛の影響。ーー真の宗教と政治をその根本の原理に回復すること。ーー混合政治。ーーその各々の様々な形式と、一切を通ずる大目的。

書簡 三

(一)「宇宙の原理は一つの目的に向かって働くが、働き方に様々な法則がある。」
我らの落ち着くところは、ここにあるのだ。
過度の健康と、とり澄ました驕慢と、
厚顔な富裕の狂乱のさなか に、
この偉大な真理を日夜現前せしめたいものだ。
しかしもし我らが説法し祈願するならば、その大半は現前するだろう。
我らの世界を見ますがよい、愛の鎖が
上下を一つに結ぶさまを見るがよい。
形成的な自然がこの目的に向かって働き、
個々の原子が相互に近づき、
引き寄せ、引き寄せられて、隣接するものが
抱き合うようにつくられ、しむけられているのを見るがよい。
次に物質を見るがよい、様々な生命を持ちながら、
全体の幸福という一つの中心を求めるのを。
植物が死んで生命を支え、
生命が解体して再び成育するのを見るがよい。
すべて死に行くものは、他のものを補充する。
(我らは交互に生の息吹きを捉え、死ぬのだ。)
物質の海に生まれる泡沫のように、
つくられ、壊れて、その海に帰るのだ。
一つとして無縁なものはない。部分は全体につながり、
すべてにわたり、すべてを保つ魂は、
存在の一つ一つを結びつける、最大のものも、最小のものも。
獣は人間のために、人間は獣のためにあるのだ。
すべては使い使われて、孤立するものは皆無だ。
鎖はどこまでもつづき、その末は誰も知らない。
愚かな奴だ、汝の幸福、歓喜、娯楽、服装、さては汝の食物のために、
神はひたすら働くというのか。
汝の食卓のために、嬉戯する仔鹿を養う神は、
仔鹿のために、花咲く草原を与えたではないか。
雲雀が舞い上がり唱うのは、汝のためだと言うのか。
歓喜が彼の声を 調 ととの え、歓喜が彼の翼を昂揚するのだ。
紅雀が のど 、、 をふりしぼるのは、汝のためだと言うのか。
彼自身の愛と歓びが、その声をふくらますのだ。
汝が誇らかに跨る駿馬も、汝と同じように、
その喜びと誇りを持っているのだ。
広野に撒かれる種子はすべて汝のものだと言うのか。
空飛ぶ鳥はこれは我々のものだと立証するだろう。
黄金の秋の稔りはことごとく汝のものだろうか。
一部は働くこうし に支払われるが、それは当然のことだ。
耕作もせず、命令にも従わない豚は、
万物の長たるものの労働の成果を食って生きているではないか。
心にとめて知るがよい、自然の子らはその恵みを分かち合うことを。
君主を暖める毛皮は、また熊を暖めたものなのだ。
「一切は俺のためにある」と人間が叫ぶと、
増長した 鵞鳥 がちょう は「人間は私のためにある」と答える。
全体は個のためにあつて、個は全体のためにあるのではないと考える者も、
認識の不足は同じことだ。
たとえ強者が弱者を支配し、
人間が生物全体の智者であり、暴君であるとしても、
自然はその暴君を抑制する。ただ人間のみが
他の生物の欠乏や悲しみを知って、助けるではないか。
空から舞下りる隼は、色とりどりの羽に感じて、
鳩を容赦することがあるだろうか。
かけす 、、、 は昆虫の黄金に輝く翅に眼をみはるだろうか。
鷹は夜鶯の歌に耳を傾けるだろうか。
ひとり人間のみがすべてのものの世話をする。鳥には森を与え、
獣には牧場を、魚には水を与える。
あるいは利害の心に動かされ、
あるいは楽しみ、あるいは誇りから世話をやくのだ。
一人の保護者の虚栄に頼って、
その贅沢の恵みにあずか るものが多いのだ。
食物と知って咽喉から手が出そうになっても、
人間はその生物を飢餓から救い、野蛮人から救ってやる。
そればかりではない。殺されるはずの動物が食物を与えられて、
その生命の終わる日まで幸福な日々を送る。
雷に打たれて死んだ幸福な人間と同じように、
打撃を見ず、苦痛を感じないのだ。
その生物は生の饗宴を味わい尽くして死んだが、
汝もまた汝の饗宴の終わるとき、死なねばならないのだ。
物を思わぬ生物にやさしい神は、
死についての無益な知識を与えはしない。
ひとり人間のみはその知識に与り、来世の展望も与えられて、
死を恐れながらも、また待望することにもなるのだ。
最後の時は秘められ、恐怖は遠い先のことだが、
死は近づくとも見えず、常に近づいているのだ。
常に変わらぬ偉大な奇蹟だ! 神が物を思う唯一の存在に、
このような性格を与えたことは。
(二)あるいは理性、あるいは本能を恵まれるにせよ、
すべてのものはおのれ に最も適する力を享受し、
その導きによって等しく至福に向かい、
それぞれ目的に釣り合った手段を見出すのだ。
完全な本能が確実な導きである場合に、
教皇や宗教会議の必要があるだろうか。
いかに有能であるにせよ、本来が冷たい理性は、
奉仕を好まず、強いられて奉仕するのみで、
我らが呼ぶまでは動かず、近くにおらぬこともしばしばである。
誠実な本能は進んで自ら事に当たり、
的を外すことは絶対になく、射てば必ず金的を射つ。
あるいは遠く、あるいは近く、未だに的を落せない
人間の智慧とは大きな違いだ。
敏捷な本能は幸福を掴むに早く、
鈍重な理性はいたずらに苦労して幸福に達しない。
本能はまた常に奉仕し、理性は長くは奉仕しない。
前者は必ず正しく、後者は誤ることもないではない。
次に行動し、比較する力を見るがよい。
動物においては一つであるものが、我らにおいては二つになっている。
理性を本能の上に置くのは勝手だが、
本能の導きは神で、理性の導きは人間なのだ。
野や水に住むものたちに、
毒を避け、食物を選び、
潮や嵐を予知して、凌ぐために、
波の上に築き、砂の下に 迫持 せりもち を設けるのを教えたものは誰か。
規矩 きく 準縄 じゅんじょう を持たぬ蜘蛛が平行線をいくつも引いて、
ド・モアブルの塁を すのは、誰の仕込みか。
誰が こうのとり 、、、、、 に命じて、コロンブスのように、
彼のものではない天空と未知の世界を探検させたのか。
誰が会議を召集し、日を定め、
密集陣を組織し、道を指示するのか。
(三)神はすべての存在の天性の中に、
適当な幸福を据え、適度の制限を置く。
彼が全体を形づくった時、それを祝福するために、
相互の欠乏の上に、相互の幸福を置いた。
かくて太初から永遠の秩序が支配し、
生物は生物に、人間は人間に結びつけられたのだ。
空に住み、海に突き進み、地に溢れる生命のすべてを、
生気溌剌たる霊気が養い、
一つの自然が生命の焔を育て、生命の種子をふくらませる。
ひとり人間のみならず、森をさ迷うものも、
空を飛び、流れにうねるものも、
すべて自己を愛し、また他をも愛する。
性は等しく他を欲し、二つのものは一つとなる。
快楽は烈しい抱擁に終わるものではない。
彼等はその子において、三度自己を愛する。
かくて獣も鳥も彼等の子孫に心を配り、
母は育くみ、父は守る。
やがて若きものは放たれて、空と地をさまようとき、
本能は働きをやめ、配慮も終わりを告げる。
結合は解消して、各自は新たな抱擁を求め、
新たな愛がつづいて、新たな子が生まれる。
無力な人類は長い配慮を必要とし、
長い配慮は永続的な結合を作る。
反省と理性はさらにその絆を強め、
関心と愛とを拡大する。
我らは進んで操を守り、同情して燃え、
美徳が欲望の中に芽生えてくる。
新しい必要は常に新しい援助と習慣を生じ、
善意が自然の愛情の上に生じてくる。
子どもが相次いで生まれるにおよんで、
後の子は自然の愛情が、先の子は習慣的な愛情が養う。
末子がようやく成人に達するころ、
彼等を生んだ親は老境に入る。
記憶と予想は子に正しい孝養を促し、
一は過去の幼時を語り、他は未来の老衰を教える。
楽しさと感謝と希望とが相合して、
絶えず関心を増し、種族を保つのだ。
(四)彼等が盲目的に自然の状態にとどまったと考えてはならない、
自然の状態は神の治めるところだったのだ。
自愛と社会愛とは自然の誕生とともに始まり、
すべてのものを結び、人間を結ぶ絆であった。
当時は思いあがりもなく、思いあがりを助長する文化もなかった。
人間は獣とともに歩き、樹蔭を分かち合い、
同じく食べ、同じところに眠り、
生命を断って衣服とし、生命を断って養いとすることもなかった。
木魂する森を同じ聖所として、
等しく声を合わせて、平等の神を讃えた。
社殿は流血に汚れず、黄金に装われず、
僧侶は貪らず、殺さず、きよ げに行いすましていた。
神の属性は一切の衆生の 済度 さいど にあり、
人間の特権は治めて仁を旨としたのだ。
ああ、末の世の人間のいかに様変われることか!
生きとし生けるもののなかばを屠って死に至らしめ、
自然に叛いて、なべての呻き声を聞き、
彼等の種を殺し、自己の仲間を裏切る。
しかし応報の病は豪奢な傲りにつづき、
殺されたものはすべて復讐者を育む。
流された血から復讐の激情が起ちあがり、
人間に対して、さらに残忍野蛮なもの、人間を刃向かわせたのだ。
人間が自然からおもむろに文化に移るさまを見るがよい。
当時は本能の模倣が理性のつとめであった。
自然の声はかく人間に語った。
「行って、万物から汝の教訓を学ぶがよい。
叢林の食物は鳥に学び、
野の薬草は獣に学ぶがよい。
建築の技術は蜜蜂に、
耕作は もぐら 、、、 に、糸織るすべは虫けらより受けよ。
小さい帆立貝から帆走を学んで、
薄い橈を広げて吹く風を捕えるがよい。
ここに、また、社会的結合のあらゆる形式を見出し、
そしてやがて理性を人類の教師とするがよい。
伏して地下の構築と都市とを見、
仰いで風に揺れる梢に空の町を見るがよい。
小さい国民の天才的な政治を、
蟻の共和国と蜜蜂の王国に学ぶがよい。
蟻は富のすべてを共同に分け、
政府はなくても混乱を知らない。
蜜蜂は君主の支配はあっても、
常に個々のあな と財産を保持する。
不変の法則がすべての状態を維持し、
自然のごとく賢明に、運命のごとく不動なのを見るがよい。
汝の理性が細かい網をつくるのは空しいことだ。
「正義」はその網にからんで進退を失い、
正しさは厳しすぎて、よこしま となる。
強者には常に弱すぎ、弱者には常に強すぎるではないか。
しかし行くがよい、被造物のすべてを支配するがよい。
賢い者に他の者を服従させるがよい。
そして本能のみでも事足りる技術のゆえに
王冠を受け、神の座に くがよい。」
(五)偉大な自然はかく語り、従順な人間は服従して、
都市が建設され、社会が作られた。
ここに一つの小国家が起こり、それに接して他の国家が
類似の方法で成長し、愛と恐怖によって結合した。
この地の樹々はくれない の実をたわわにつけ、
かの地の河はせせらぎの音高く流れたのだろうか。
戦争で奪ったほどのものは、交易が贈与したので、
敵として来た者は味方となって帰った。
愛が自由であり、自然が法則であった時代には、
交際と愛が人類を強く引き寄せたのであろう。
かくて諸々の国家が形成され、王の名が行われたのは、
共通の利害が支配権を一人に委ねるにいたってからだ。
平時も戦時もあまねく幸編を分かち、危害を去り、
息子たちが父親に服するゆえんの美徳が、
国民の父を君主たらしめたのだ。
(六)その時までは自然によって王冠を与えられた長老が、
成長していく国家の王、司祭、そして父たるの位に即いた。
彼等は第二の神たる彼に頼り、
彼の眼は法、彼の言葉は神託であった。
彼は驚異の眼をみはる 畝溝 あぜみぞ から食物を喚び出し、
火を支配し、水を治め、
底知れぬ深淵から怪物を引き出し、
空飛ぶ鷲を地に落とす術を教えた。
やがて気力衰え、病み、死に瀕するのを見て彼等は、
かつては神と崇めた者を、人間として悼み始めた。
かくて父と仰ぐ者の幾代かを溯って、彼等は
一人の大いなる「父」を見出し、讃仰した。
万物に起源のあることを教えた素朴な伝統が、
不断の信仰を父から子に伝えた。
行為者は行為から明瞭に区別され、
単純な理性はただ一つの神をのみ求めた。
邪な智慧がその揺るがぬ光を乱すまでは、
人間は造物とともに、すべてをよしと見、
快楽の道を通って善に至り、
一つの神を認めた時に、また一つの父をも認めた。
当時は愛が信仰と忠誠のすべてであり、
自然は人間の神権を知らず、
神の不興を恐れることもなく、
最高の存在はすなわち最高の善であると考えていた。
真の信仰と真の政治とが並んで行われ、
前者は神への、後者は人間への愛であったのだ。
奴隷になった魂と堕落した王国とに、
多は一のためにつくられたという非常識な信仰を
誰が最初に教えたのであろう?
世界を覆し、その意図を妨げ、
自然の法則のすべてに叛くその思いあがりを。
力がまず征服し、征服は法律を作った。
迷信が暴君に恐怖を教え
圧制に参与し、援助を与え、
征服者を神とし、人民を奴隷とした。
電光は燃え、雷鳴は轟き、
山嶽は動き、大地は呻く、そのさなかに、
迷信は弱者と驕者に、
見えざる力、比倫を絶して強力なるものに、
平伏し、祈祷することを教えた。
地の裂け、空の破れるところから、
神々が降り、魔神が立ちあがるのを見、
地上は恐ろしきところ、天上は幸なるところと定めたものは、迷信であった。
恐怖は彼女を悪魔に、はかなき希望は神にしたてた。
神とはいえ 偏頗 へんぱ な神、移り気の神、烈しき神、不正の神、
その属性は怒り、復讐、肉欲。
すべて 怯懦 きょうだ の心の生みだしたもの、
暴君になぞらえられて、暴君の信ずるところとなった。
慈悲は姿を隠して、激情のみが支配し、
憎悪の上に地獄が、 倨傲 きょごう の上に天国がつくられた。
かくて天の宮居は神聖を失い、
祭壇は大理石となって、凄惨な血にけむ った。
祭司はここに初めて生臭きものを試み、
恐ろしき偶像は次いで人血を啜った。
天のものなる雪を駆使して、地を震撼させ、
ほしいままに神を弄んで、敵を脅す道具とした。
自愛はかくのごとく正、不正を通じて、
一個人の権力、野心、 貪婪 どんらん 、肉欲に突き進むが、
同じ自愛がすべてにおいて彼を抑制して、
政治と法律をつくる原因ともなるのだ。
一人の好むところを、他の者もまた好むとすれば、
多くの者の望まぬところを、一人が望んで何になろうか。
弱き者はひそかに、強き者は公然と奪うものを
夜も昼も彼はいかにして守りえようか。
保身を計って恣意を虔しみ、
各人の欲望を団結して守る。
自己を守るために美徳を必要とし、
王ですら正義と慈愛を学ぶにいたった。
かくて自愛は最初の道をすて、
公益の中に私益を発見したのだ。
その時、学者、仁者、神のしもべ 、人間の友、
詩人、愛国者がこぞって起ちあがって、
自然が与えた信仰と道徳を回復した。
「自然」の古き光を再び明るく灯して、
神の姿ではないまでも、神の影を描いた。
そのか細い糸に弛み、歪みのできぬように、
権力の正しい使用を、国民と王に教えた。
大なるものも、小なるものも、正しく、真実に置かれて、
一に触れることは、また他をも打つ結果となり、
相互の利害の摩擦はよく混和して、
調和のとれた音楽となる。
世界の偉大なる調和とは正にかくのごときもの、
事物の秩序と結合と、完全な一致とから生まれるのだ。
そこでは大小、強弱を問わず、
傷つけることなく助け合い、侵すことなく強め合う。
個々が強力となることが、全体にとって必要であり、
個々が幸福であるに応じて、全体もまた幸福である。
獣、人間、天使、家来、主人、王、
すべてを一点に引き寄せ、一つの中心に集めるのだ。
政治形態の論は愚人に委せるがよい。
最もよく施行されるものが最善の政治なのだ。
信仰形式の論議は恩寵を失った狂信者に委せるがよい。
その生活の正しい者に、誤りはありえない。
信仰と希望について、世界は一致しないだろうが、
人類の関心事は、あげて慈悲にある。
この偉大な目的を妨げるものは、すべて虚偽で、
人類を祝福し改めるものは、すべて神のものだ。
人間は実もたわわな葡萄樹に似て、
支えられて生き、すが りつくことから力を得るのだ。
惑星がその軸を中心に回転し、
しかも同時に太陽を回るように、
二つの同時的な運動が魂を動かす。
一は自己に関し、他は全体に関する。
かくのごとく神と自然は全体の構造を関連させ、
自愛と社会愛の同一はその意志なのだ。

書簡 四

要旨
人間の性質、状態と幸福との関係
 
(一)幸福に関する謬見、哲学的と通俗的。ーー(二)幸福は万人の達しえる目的なることーー神の意志は幸福の平等にあること、従って幸福は社会的なものであること、何故ならば個々の幸福は全体の幸福に依存し、神は部分的な法則によらず、全体的な法則によって支配するゆえに。ーー外面的な善が不平等であることは秩序と社会の平和安寧のために必要であるがゆえに、幸福はそれら外面的な善に存しないこと。ーーしかしかかる不平等にもかかわらず、神は人間の幸福の秤を希望と不安の二つの感情によって平衡に保っていること。ーー(三)この世界の構造と一致する限りにおいて個人の幸福は何であるか。またこの世界において善人は有利な地位にあること。ーー自然と運命の災禍に他ならぬものを美徳の所為にすることの誤謬。ーー(四)神が個のために全体の法則を変えることを期待する愚かさ。ーー(五)我らは誰が善人であるかを判断しえぬこと。しかしたとえそれが誰であるにせよ、善人は必ずや最も幸福であること。ーー(六)外面的な善は美徳の正しい報酬ではなく、しばしば美徳と一致せず、破壊するものであること。ーー外面的な善は美徳を伴わなければ、人間を幸福になしえないこと。ーー栄誉。ーー高貴。ーー偉大。ーー名声。ーーすぐれた才能。ーーこれらすべてを併せ有する人間が不幸である実例。ーー(七)美徳のみが普遍的な目的と、永遠の展望とを持つ幸福を形成すること。ーー美徳と幸福の完成は地上において神の秩序に従い、現在も将来も神の秩序に身を委ねることに存すること。

書簡 四

おお、幸福よ、我らの存在の究極の目的よ!
善、快楽、安穏、満足、その他汝の名は何であるにせよ、
汝は常に永遠の憧れを刺激し、
我らは汝のために生に堪え、死に就く。
常に我らの近くにあり、また遠くにあって、
愚人も賢者も、あるいは見のがし、あるいは大きく見すぎる。
汝、天の種子より成れる植物よ! 汝は地上に落ちて、
いかなる人間の土壌に成長しようとするのだ?
幸多き宮廷の絢爛に通ずる美しい門か、
それとも金剛石の燦然たる宝庫の奥深くにか。
花環に編まれて詩神の月桂冠となり、
刀剣の刈るところとなって武勲をもたらすのか。
いずこに生え、いずこに生えないのか。我らの努力が空しいのは、
耕作が悪いためで、土壌に罪はないのだ。
まことの幸福は土地を選ぶものではない。
いずこを探して得られず、またいずこにもある。
黄金を積んでも購えないが、また、自由に手に入り、
帝王の傍を逃れて、セント・ジョンよ、おんみ のところにも来る。
学者にその道を訊ねても、彼は知らない。
あるいは人類への奉仕を説き、あるいは人間を避けよと言う。
ある者は行動に至福を見、ある者は平穏の中に見る。
これは快楽を幸福と呼び、かれは満足を幸福と称す。
あるいは獣に転落して、快楽は苦痛に終わるのを見出し、
あるいは神を気どって、美徳もまた空しいことを悟る。
さては怠惰、極端に堕ちて、
すべてを信じ、また、すべてを疑う。
定義はかく様々だが、それはすべて、
幸福とは幸福なりと言うにとどまるのではないのか。
(二)自然の道に従って妄想を去るがよい。
幸福に達し幸福を考えるのに、地位や頭脳を必要としない。
その恵みは明白で、極端なところにはない。
正しく考え、善意を持つのみで足りるのだ。
天与の多寡を嘆くのは勝手だが、
尋常の判断力と生活は何人も平等に享けている。
思いだすがよい、「宇宙の原理の働きは、
部分的な法則によらず、一般的な法則による」ことを。
我らが正しく幸福と呼ぶものは、
一人の利益ではなく、全体の利益の中にあるのだ。
個人の見出す幸福で、多かれ少かれ、
人類全体の方向を持たないものはない。
凶悪な盗賊、驕慢に狂ふ暴君、
洞窟に隠れる者で、自得の者はないのだ。
人間を避け、人間を憎むと称する者も、
弟子を求め、友を定めようとするではないか。
他人が感じ考えるものをとり去るならば、
快楽はすべて色あせ、名誉の光も消えるであろう。
人には分がある。分を越えて望む者は
快楽が苦痛のなかばも償わないのを悟るであろう。
秩序は神の第一法則だ。それを明らかに悟るならば、
人間に大小、貧富、賢愚のあるのは当然である。
この事実を捉えて人間の禍福を論ずるならば、
健全な常識が泣くであらう。
一切のものがその幸福において平等ならば、
天は人類に公平だと言わなければならない。
相互の欠乏は、かえってこの幸福を増大し、
自然の相違は、自然の平和の根本なのだ。
身分、境遇は言うに足りず、
家来も王も、護衛する者もされる者も、
友たる者も、友を得て喜ぶ者も、
幸福はすべてにわたって同一なのだ。
天は全体の各個にわたって、
共通に一つの魂を与え一つの幸福を贈る。
運命の恵みを各人が一様に受け、
各人がすべて平等ならば、争いは慎むべきではないか。
幸福がすべての人間に意図されたものならば、
神が外物に満足を置いたとは考えられない。
運命の恵みは多様で、
ある者は幸福と呼ばれ、ある者は不幸と言う。
しかし前者が不安の中に、後者が希望の中にあるならば、
天の正しき秤は均衡を得ていると言わなければならない。
現在の幸、不幸が喜びであり、呪いであるのではない、
将来よくなり、悪くなる、その見透しが重大なのだ。
ああ、地上の子らよ、汝らは依然として、
山の上に山を積み重ねて、空に昇ろうとするのか。
天は常に哄笑して、その空しい努力を見、
狂人をその積み重ねた山の下に葬り去るのだ。
(三)悟るがよい、個人が利益だと思う一切のもの、
神や自然が人間に与えるすべてのもの、
理性の楽しみ、感覚の喜びのことごとくは、
三つの言葉ーー健康、平和、安穏の生活にあることを。
しかし、健康は節制とともにあり、
平和は、おあ、美徳よ、平和はすべて汝のものだ。
善人も悪人も運命の贈りものを受けるが、
悪人は邪に受けるがゆえに、味わいもまた拙い。
利益、歓楽を求めるに当たって、危険はいずれが大きいだろうか、
悪い方法をとる人か、正しい方法をとる人か。
善悪いずれが恵まれ、いずれが呪われ、
まず軽蔑に会い、同情に会うのはいずれであろうか。
悪が栄えてどのような利益があるか、数えてみるがよい。
いずれも善が避けて軽蔑するものばかりではないか。
たとえ悪人が望み通りの幸福を得るとしても、
最後の望みは遂げられない、彼等は善人として通用しないのだ。
悪は栄、善は衰えると考える者は、
真理と、神の地上における意識とが解らないのだ。
この偉大なる意図を最もよく察して従う者こそ、
真に幸を知り、最も恵まれた者なのだ。
すべての者に起こりえる不測の災禍が、
たまたま善人の身に起こるのを見て、愚者はただ善人のみが不幸だと言う。
高潔正義のフォークランドは死に、
神のごときチュレンヌは土にまみれて倒れ、
シドニは戦いたけなわにして傷つく。
彼等が善人なるゆえか、生命を惜しまぬゆえか。
語れ、惜しむべきディグビーよ、汝を死にいたらしめたのは、
天が汝に最も恵みし美徳のゆえか。
語れ、もし美徳が子の息の根をとめたとならば、
汝の父が長寿と名誉に満ちて生き永らえるのは何故であるのか。
自然は病み衰え、吹く風はすべて死を孕むとき、
マルセーユの心やさしき司教が清らかな呼吸を保ちえたのは何故か。
またこの貧しい我に、天がかくも長く、
(もし人の世に長寿というものがあるならば、)
かくも長く親を恵んだのは何故であろうか。
何が肉体と精神の病をつくるのか。
肉体の病は自然の、精神の病は意志の逸脱から生ずる。
正しく悟るならば、禍を送るものは神ではない。
一人の禍が全体の幸福になる場合もあり、
変化が禍を許し、自然が禍をもたらす場合もある。
もっともこれは短く稀で、ただ人間の無益な干渉が事態を悪くするのだ。
正しいアベルがカインに殺されたことを天に訴えるのは、
淫蕩な父親が業病を息子に与えて、
行い正しい息子が苦しむのを訴えるのと同じことだ。
我らは永遠の原理が女々しい君主のように、
愛する者のために法則を逆にすると考えてよいものだろうか。
(四)燃ゆるエトナの山は賢者の要求に従って、
とどろ くことを忘れ、その火を治めるだろうか。
正しいビーセルよ、汝の胸の苦痛を救うために、
大気も海も、新しい動きを示すだろうか。
大地がゆるんで、山が高みから崩れかかるとき、
卿が下を通るゆえに、重力の法則は働きを控えるだろうか。
あるいはまた傾きかかった古寺が、
チャーターズの頭のために、壁の崩れを後日に延ばすだろうか。
(五)しかし、この世界は依然として悪人には好適だが、
我らには不満である。よりよい世界がないものだろうか。
では、かりにそれを正しい者の王国だとしよう。
考えてみるがよい、その正しい者の意見が果たして一致するかを。
善人は神の特別な配慮に値するというのか。
しかし神以外の誰が、善人とはいかなるものかを知ろうか。
ある者はカルヴィンに神の精神が宿ると考え、
ある者は彼を地獄の傀儡だとみなす。
カルヴィンが神の祝福や笞を感ずるに応じて、
あるいは神ありと言い、あるいは神なしと叫ぶ。
一部分を戦慄せしめるものが、他の部分を崇高にする。
全体をことごとく恩沢に浴せしめるような体系はないのだ。
最善のものすらその傾向は様々で、
汝らの善に報いるものが、我らの善を罰することもある。
すべてあるものは正しいのだーーこの世界はまことに、
ケーザルのためにつくられ、またティトスのためにもつくられているのだ。
祖国を鎖に繋いだ者と、善行なくて日の傾くのを嘆じた有徳の人と、
そのいずれが より 、、 幸いを受けているのだろうか。
「しかし時として善人は飢え、悪人は飽食するではないか。」
これは異なことを。善の報いはパンだと言うのか。
パンは悪人も受けてしかるべきもの。骨折りの代償だ。
悪人もあるいは大地を耕し、海に挑み、
愚かにも王のために戦い、利得のために水を潜るとき、パンは当然彼のものだ。
善人とても心弱く怠惰な場合もある。
彼が多くを望むのは正しくない。心の満足をこそ求むべきだ。
彼に富を与えるならば、汝の要求は終わるというのか。
「そんなことはないーー善人は健康に欠けてはいないか。能力に欠けてはいないか。」
それならば健康と、能力と、すべて地上のものを併せて与えよう。
「しかし、なぜ能力に限りがあるのだ。なぜ官途に即けないのだ。なぜ王ではないのだ。
いや、内に持つ美点に対して、外なる報酬が与えられるのではないのか。
なぜ人間は神ではないのだ。地上は天国ではないのだ。」
このような論法を用いる者は、神々に余裕のある限り、
満足を覚えることはないだろう。
力が大きければ要求もまた大きいわけだ。
彼等は自然のどのような部分に立とうと思うのだ。
(六)地上のものが与ええぬもの、破壊しえぬもの、
魂の和やかな日光、衷心の喜びこそ
美徳の報酬なのだ。それ以上のものを汝は定めたいというのか。
それならば謙譲な者に六頭立ての馬車を、
正しい者に征服者の剣を、真実なる者に法服を、
公ごとの好きな者に彼のかつ えてやまぬもの、王冠を与えたらよい。
心弱く愚かな者よ、人間が狂わしくも地上において望んでやまぬこの虚飾が、
神の天国における褒賞だというのか。
三つ子の魂は百までもと言うが、
汝は今でも林檎や菓子が欲しいのか。
いっそアメリカの土人のように、
あの世で汝の犬、酒瓶、妻との再会を待望したらよい。
玩具や帝国のようなくだらないものは、
神のような心の者には、夢もまた同然なのだ。
これらの褒美は美徳に喜びをもたらさないし、
下手をすると美徳そのものを破壊する。
これらの褒美のために、二十一歳の聖者の美徳が、
六十歳ですっかり駄目になる例がいかに多いことだろう。
富が名誉と信用、満足と快楽とを与ええるとしても、
善良で行い正しい者以外の誰に与ええるだろうか。
裁判官と元老院議員は金で買われたこともあったが、
尊敬と愛とが売られた例はない。
人を愛し、人からも愛され、
健康な生活と清浄な良心を持つ有徳の人が、
年に千ポンドの収入がないからといって、
神は有徳の人を憎むと考えるのは愚かなことだ。
栄辱は身分にあるのではない。
汝の本分をよく果たすこと、そこに名誉があるのだ。
人間の運はさまざまで、
ある者は 襤褸 ぼろ をまとい、ある者は錦をひるがえ し、
靴工は前垂れ、牧師は法衣、
托鉢僧は頭巾、君主は王冠をつける。
「王冠と頭巾、それ以上の相違があるだろうか」と汝は叫ぶが、
ひとつ教えてやろうか、友よ、賢者と愚人の相違がそれだ。
かりに君主が托鉢僧を ね、
牧師が靴工のように酒に食い酔うさまを見るならば、
かけねのない人の価値が人間をつくり、
それがなければ犬にも劣ることは、見やすい道理だ。
その他はすべて単なる皮革、布地にすぎない。
王や王の愛妾から貰った肩書や勲章を、身の回りにぶら下げて、
代々操正しいルクレーシアを妻とした
純潔な名家の血筋を誇るというのか。
先祖の功績で汝の価値をはかるつもりなら、
善良で偉大だった先祖の名だけを挙げてみたまえ。
ノアの洪水以来の旧家だが、
不名誉な悪党どもの血管を流れた血筋であるならば、
ひとつ、私の家は新しいとごまかすのもよいだろうし、
私の先祖は大して長く馬鹿ではなかったと言うのもよいだろう。
阿呆や奴隷や卑怯者を立派にする何があると言うのだ。
ハワーズ家の血筋の全部を挙げても駄目なことだ。
次は偉大を見てみよう。偉大はどこにあるのだろう。
「もちろん、英雄と賢者の中にあるではないか。」
マケドニアの狂人からスウェーデンの王様まで、
英雄は似たりよったり。その点に異論はないだろう。
彼等の生涯の目的は、妙なことだが、
人類を敵だと思ったり、事実、敵にしたりすることだ。
静かにふりかへって見る者は一人もなく、やみくもに前を望むが、
鼻の先より前の見える者は一人もない。
利口者や賢者も同じことで、
四辺 あたり を見まわす狡猾な鈍物だ。
油断している隙に襲いかかるのが得意で、
彼等が賢いのでなく、周囲の連中が馬鹿なのだ。
なるほど征服したり 瞞着 まんちゃく したりはできようが、
さりとて悪党を偉大と呼ぶのは言葉が違う。
悪く賢く、無鉄砲に大胆なのは、
それだけ馬鹿で悪党だと言わなければなるまい。
立派な手段で立派な目的を遂げ、
事成らずとも 莞爾 かんじ として配所や獄舎に月を眺める、
このような人こそアウレリアスの政治を偲ばせ、
ソクラテスのように死んで偉名を残すのだ。
名声とはなにものだ。世間のさがない口に上る偽りの生命、
在世中でも我らのままにはならぬものだ。
御身が耳に手にする得体の知れぬもの、
キケロの場合も御身の場合も、卿よ、同じことだ。
名声について我らが感ずるすべては、
敵と味方の狭い範囲に終始する。
それ以外の者には今の世のオイゲンも
先の世のカエサルと同様、空しい影にすぎないのだ。
いつ、どこで世間を騒がしてみても、
ルビコン河でも、ライン河でも、同じことだ。
才人のほま れは 鵞筆 がひつ 、指揮者の誉れは杖、
誠実な者の誉れは神から生まれる。
法の裁きが彼の肉体を墓から呼び出すように、
悪人が死んでも、悪名のみは永く残る。
早く忘れられたほうがよいものが、
高く宙にぶら下って人類を毒する。
真に値するもの以外は名声はすべて空しく、
頭の 周囲 まわり を戯れるが、心情に深く徹することはない。
自己に悔なき一時間は、愚昧な輩が眼をみはり、
大声を叫ぶ数年よりも、価値がある。
国を追われたマルケルスの感ずる喜びは、
元老院を背後に従えたカエサルのそれよりも大きいのだ。
人にすぐれた才能にどんな利益があるだろう。
賢いとはどんなことか、卿にはできるから教えたまえ。
それは知りえることのいかに少ないかを知ること、
他人の短を知って己がいたらなさを思うことにほかならぬ。
政治に学芸に刻苦する運命を背負い、
支持者もなく、正しく見る者もない。
卿は真理を教え、国の傾くのを救おうとするのか。
世を挙げて恐れ、何人も援助の手を伸べず、理解する者は皆無に近い。
痛ましいかな、世にすぐれたる者!
人の世の愚かさを超えてはいるが、その慰安にも与からないとは!
さらばこれらの恩沢を厳密に精算して、
引くべきものは引き去って、何が残るかを見てみよう。
各自どの程度に他人を犠牲にし、
どの程度に完全に自己を犠牲にするかを。
これらの犠牲は より 、、 大きな幸福と一致せず、
時には生命をも危うくする。安楽の犠牲は常のことだ。
考えてみるがよい、もし依然としてそれが羨ましいなら、
それを受ける人間になりたいかどうか言ってみるがよい。
まさかそれほど馬鹿だとは思わないが、もし勲章が欲しいとならば、
ウムブラ卿やビリ卿の運命を見るがよい。
黄金 こがね 色の代物が汝らの生涯の的だと言うのか、
グライパス卿やグライパス夫人を見るがよい。
もし才能が魅力だとならば、ベーコンの光りかげんを考えるがよい。
賢明、利発衆にぬき んで、陋劣また無類の人物ではないか。
名声の口笛に聴き惚れるなら、
不朽の悪名を轟かしたクロムウェルを見るがよい。
もしこれらすべてが一緒になって汝らの野心を挑発するなら、
それを軽蔑するすべを昔物語から学びたまえ。
富、尊敬、名声、偉大のすべてにわたって、
偽りの幸福の秤は揃いすぎている。
王の心や女王の腕に抱かれた者が、
王を滅ぼし、女王を裏切って楽しんだことか。
彼等の栄誉がいかに卑劣な手段によって増大したかを見るがよい、
ヴェニスが泥と海草から成りあがったように。
誰も彼も偉大の影には後ろめたさがあり、
英雄として高くなると、人間は奈落へ沈むのだ。
彼等の額を飾るヨーロッパの月桂樹は
血に汚れ、黄金交換しがいのないものだ。
しかも彼等は労苦に疲れ、安逸に流れ、
領地を 劫掠 ごうりゃく して悪名を残す。
富は呪われたるかな、いかなる功業も
それを輝かさず、恥辱から救いえなかったとは、
どのような幸福が彼等の最後を飾るだろうか。
貪欲な寵姫と、偉大な妻とが
戦利品を飾った門と、戦勝を物語る館を侵して、
堂々たる 墳墓 おくつき に眠る彼等を悩ます。
悲しいかな! 彼等の真昼の光に惑わされず、
朝と夕の暗さを併せて思うがよい。
あの巨大な名声も全体としてみれば、
光輝の物語に恥辱の影がさしているのだ。
(七)されば人間としてこの真理を悟らなければならぬ。
「美徳のみが地上の幸福である。」
そこに人間の幸福は宿り、
悪に堕ちることなく善を味わう。
そこに善行は常に報いを受け、
受ける者も、与える者も祝福を受ける。
目的を達して喜び極まりなく、
目的を失って悲しみを覚えず。
常に恵まれて飽満を知らず、
困苦に会って味わいますます豊か。
心なき愚昧は屈もなく浮かれ騒ぐが、
その喜びは美徳の流す涙に遠くおよばぬ。
幸福はすべてのもの、すべてのところから得られ、
常に試みられて、倦むことを知らない。
一人でも不幸に沈めば、心の昂揚を感ぜず、
一人でも幸福にあれば、心の沈滞を覚えぬ。
欠乏を知らず、望みの残るはずもなく、
さらに善を望んで、必ず得られる。
天がすべてに与ええる唯一の祝福を見るがよい。
感じさえすれば味わい、考えさえすれば知ることができる。
しかし運に恵まれず、学問に目がくらんで、
悪人はそれを見のがすが、善人は教えられずに悟る。
党派にとらわれず、私の道を歩まず、
「自然」を通じて「自然」の神を仰ぐ。
大いなる構想をつなぐ鎖を究め、
天地を結び、人間と神を結合する。
一切の存在の知りえる幸福はすべて
天上のもの、地上のものに結びつくことを知る。
この育ち行く全体の結合から、
人間の魂の最初にして最後の目的を悟る。
信仰と法律と道徳とが、神を愛し
人間を愛するところに、始終することを知る。
かかる人間を希望は導いて目的を遂げさせ、
彼の魂に常に明るく姿を映す。
希望は成長して信仰となり、一切の繋縛を絶って、
心をくまなく満たす至福を感ずる。
かかる人は自然がひとり人間にのみ、
既知の幸を望み、未知の至福を信ずる心を植えつけた理由を知るのだ。
(「自然」の掟は人間以外のものにもいたずらに与えられてはいない。
彼等は彼等の求めるものを見出すのだ。)
自然の贈りものは賢明で、その贈りものの中で、
人間最高の美徳を最大の幸福と結びつける。
人間が幸福になりえる最も明るい希望はまた、
他人を助ける最も強い動機と結びついている。
自愛はかくて社会愛に、神の愛に推し進められ、
隣人の幸福を自己の幸福とするようになる。
広大無辺の心情には、これでは物足りぬというのか。
さらに心を広くして、汝の敵を抱くがよい。
理性と、生命と、感覚の全世界を、
善意の緻密な世界の中に包むがよい。
多少によらず親切であればそれだけ幸福で、
幸福の絶頂は最大の慈悲に通ずるのだ。
神はまず全体を愛して、部分におよぶが、
人間の心はまず個を愛して、全体に高まらなければならない。
自愛は有徳の心を覚醒するに役立つのだ。
例えるならば小さな石が静かな池に落ちて、
まず中心が動き、一つの狭い輪がそれにつづき、
幾つもの輪が次第に広がるのに似ている。
友人、両親、隣人をまず抱擁し、
ついで祖国を、つづいて全人類を。
心の溢れ流れるところは、さらに広く、また広く、
あらゆる種類の、あらゆる生物をとり入れる。
大地は限りない恵みに祝福されて、周囲にほほ笑み、
神は人間の胸の中に己が姿を映す。
さらば、起て、我が友よ、我らが守り主よ、起て。
詩歌に通じ、詩人を保護する人よ。
詩神が人間の低い欲望や、光輝ある目的に、
あるいは降り、あるいは昇る間に、
我に教えよ、あらゆる点に賢明な卿のように、
堂々と倒れ、平静に立ちあがるすべを。
卿との交わりによって、厳粛なものから華麗なもの、
溌剌たるものから厳しきものへ、巧みに棹さし、
活気あって正しく、悠容として雄弁に、
理を説いて倦まず、人を喜ばして節を失はぬ道を。
ああ、時の流れを卿の名が高く大きく、
その名声を集めて進むとき、
我が小舟はその後に従って走り、
勝利を追い、順風に与ることができるだろうか。
政治家も、英雄も、王も等しく塵埃に帰し、
その子孫が卵を敵視した祖先の所行を恥じるとき、
この時は後世永く我らが卿を指導者、
哲人、さらに友として仰いだことを、
卿の 誘掖 ゆうえき に応えて我らが、
音より物へ、空想より心情に向かって調べ高き歌を奏で、
智慧の偽りの鏡に対して、「自然」の光を高く揚げ、
あやまり易き驕慢にして、
世にあるものはすべて正しいことを、
理性も感情も等しく偉大な目的に応えることを、
真の自愛と真の社会愛とは同一であることを、
美徳のみが地上の我らの幸福をつくることを、
そして我らの知るべきことは、挙げて自己を知るにあることを示したと
後世永く伝えて欲しいものだ。