SCIENCE

世界を震撼させる事業[回顧録]

ロバート・オッペンハイマー

『読売新聞』外報部訳

Published in December 23rd, 1953|Archived in April 3rd, 2024

Image: Jean Delville, “Prometheus”, 1907.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿については、『中央公論』編集部による「はしがき」に詳しい。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕内に入れた。
WEB上での可読性に鑑み、旧字・旧仮名遣い・旧語的な表記・表現は、現代的な表記・表現に改め、誤植・脱字(ex. 「ソヴィエト科学者のため原子情報を得る」→「ソヴィエト科学者のために原子情報を得る」、「マンハッタン研究」→「マンハッタン研究所」、「一九四六年十二月六日重ねて」→「一九四六年十二月六日に重ねて」)は直し、一部漢字にルビを振り、用語統一を施した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ロバート・オッペンハイマー(1904 - 1967)訳者:『読売新聞』外報部
題名:世界を震撼させる事業[回顧録]原題:私は水爆完成をおくらせたか
初出:1954年6月原本初出:1953年12月23日
出典:『中央公論 六月號(第69巻。第789号)』(中央公論社。1954年6月。162-182ページ)

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はしがき
〔『中央公論』編集部による〕

 
ビキニ水爆実験〔一九五四年三月一日〕の波がまだ消えぬ四月十四日、原爆の生みの親であるオッペンハイマー博士が「保安上の危険人物」として、調査委員会によってあかしが立つまではその原子力関係の公職を停止されたことが明らかにされた事件は、アメリカ国内にも全世界にも大きな衝動を与えた。水爆実験に関連して例の〔「赤狩り」を主導したジョセフ・〕マッカーシー上院議員が、政府部内の共産主義者のため水爆完成が十八ヵ月遅らされたと言ったのは明らかに博士のことを指したものだが、アメリカにとって偉大な功績を立てた人物に対して、いまさらこのような措置をとったことは、世界のあらゆる良識ある人々を呆れさせ、怒らせた。今回の措置の理由としては、博士の過去における共産主義者との関係から無意識的にせよ原爆計画を漏らした疑いがあること、水爆製造に反対し、これを妨害した点とが挙げられているが、結局のところ博士が合理主義者、ヒューマニストとして、たとえばローゼンバーグ事件〔原爆製造の機密をソ連に提供したとして死刑に処された夫妻。当時としては事件の捏造・冤罪が疑われていたが、のちに実際にスパイだったことが判明〕に関連して「原子力の秘密というものはない」と言明したように、政府の原・水爆政策に対して、ともすれば批判的だったことに根本の原因があるように思われる。一九五三年十二月二十三日付の原子力委員会事務長K・D・ニコルズ少将のオッペンハイマー博士宛ての手紙は、博士に対する容疑を詳細に述べているが、博士は本年三月四日付でこの手紙への返書を書き、その非難が不当であることを徹底的に反駁している。以下はその全訳であるが、これによって事件の全貌がよく分かるとともに、博士の人となり、原爆完成までの苦心、さらに科学者と政治、今日のアメリカにおける転向共産主義者の役割などについても、考えさせられる点が多いように思う。
 
〔以下、オッペンハイマーによる手記〕

〔序〕

私が原子力委員会の仕事の顧問としてひきつづき在職することが、「共同の防衛と安全保障を危うくする恐れあり、また私のひきつづきの在職が、国家保安上の利益にはっきり合致するかどうか」という問題を提起している一九五三年十二月二十三日付の貴信にお答えする。
 
もちろん私としては、私の助言が必要でないというのであれば、顧問の地位に留任していたい気持ちは毛頭ないが、貴下が提起した問題を無視するわけにはゆかないし、また私が公職には不適任だという提言を受け入れるわけにはゆかない。
 
貴信に列挙されているいわゆる「不利な情報」に関する事項を完全に理解するためには、私の生活や私の仕事の脈絡において、これを理解する必要がある。
 
この返書において私は、私の生活中でこれに関連のある面を、多少とも、年代順に要約し、その間において貴信にある個々の事項について私見を述べたいと思う。この返書を通じて、また職員保安調査委員会での証言(私はここにそれを要求するものであるが)を通じて、私は貴信によって提起された問題を解決する公正な基礎を提示したいと思う。

生いたち

私は一九〇四年にニューヨークで生まれた。父は十七歳のときドイツからこの国に来て、実業家として成功し、公共の問題でかなり積極的だった。母はボルチモアの生まれで、結婚前は画家であり、絵の教師であった。
 
私はエシカル・カルチャー・スクールおよび一九二二年に入学したハーヴァード・カレッジで勉強した。一九二五年春、課業を完了して学士号を得た。ハーヴァード卒業後はケンブリッジ大学、ゲッティンゲン大学に学び、ゲッティンゲンで一九二七年博士号を取った。
 
その翌年、特別研究員として、ハーヴァード大学、カリフォルニア工科大学に在籍し、次の年は国際教育委員会の特別研究員として、ライデン大学とチューリヒの高等工業学校に在籍した。
 
一九二九年の春、私はアメリカに帰った。ホームシックになったのであり、事実その後十九年以上も、二度と国外に出たことはなかった。学生生活中は、主として新物理学を研究した。私は卒業後も独学で研究をつづけ、それを解明し、その発展をはかりたいと思った。
 
大学から私に招聘がたくさんあった。ヨーロッパで一つか二つ、アメリカでは十くらいあったろう。私はパサデナにあるカリフォルニア工科大学と、バークレーにあるカリフォルニア大学の助教授をかけ持ちで引き受けた。それから十二年間、私は主としてこの二つの大学で暮らすことになったのである。
 
バークレーにおける最初の年の卒業生一人からはじまり、我々は徐々に、やがて理論物理学の高等研究においてはわが国最大の研究機関となるものを築きはじめ、時とともに量子論、核物理学、相対性理論、そのほかの現代物理学を学び、これに寄与する研究員十二名ないし二十名をもつようになった。
 
研究員の数が増大するにつれて、一般にその質も向上した。当時、私とともに研究した人たちは、いまわが国の重要な物理学研究所の多くに奉職している。彼らは科学に重要な貢献を果たし、多くの場合、原子力計画にも貢献している。私の研究員の多くは、バークレーでの私の任期が終わった年の春、一緒に研究をつづけるため、私についてパサデナへやってきた。パサデナでもバークレーでも、私の友人は主として教授会のメンバー、科学者、古典学者、芸術家だった。私はアーリー・ライダーとともにサンスクリットを勉強し、サンスクリットの本を読んだ。読書は非常に広範囲にわたったが、大部分は古典・小説・戯曲・詩で、ほかの部門の科学も若干カジった。経済や政治については興味もなかったし、読書もしなかった。わが国の時事問題には、ほとんどまったく無縁であった。
 
新聞も読まなかったし、『タイム』とか『ハーバーズ』といった時事問題を扱った雑誌は一冊も読まず、ラジオも電話もなかった。一九二九年秋〔十月二十四日〕のあの株式取引所の崩壊〔世界大恐慌〕を知ったのは、ずいぶん後になってからのことである。はじめて投票というものをしたのは、一九三六年の大統領選のときであった。
 
多くの友人からみると、私が時事問題に無関心なのはおかしく思われたらしく、よくお高くとまっていると叱られた。私は人間とその経験に関心をもち、専攻とする科学に深い興味をもっていたが、人間とその社会との関係については、全然理解がなかった。
 
毎年夏には何週間かを、弟のフランクとともにニューメキシコ州にある私たちの牧場で過ごした。私たち兄弟は強い愛情の絆で結ばれていた。母の死後、父はよく、主としてバークレー時代だったが、私のもとを訪れ、父とは死ぬまで密接なつながりがあった。
 
一九三六年の終わり頃から、私の興味が変わりはじめた。変わったからといって、以前の交友関係、物理学との関係は変わることなく、むしろいくらかの新しさを加えた。どうしてこういう変化が起こったのか、考えてみるとその理由は一つにはとどまらない。
 
かねてから私は、ドイツにおけるユダヤ人の取り扱いに対する憤激を心中にくすぶ らせていた。ドイツには親戚がいた。そして、後には私はこれらユダヤ人の親戚を救い出して、この国へ連れてくるのに助力するようになった。
 
私は学生たちが不況のためどんな目にあっているかを見た。彼らはしばしば職につけず、全然お門違いの方面にしか就職できなかった。彼らを通じて私は、この大不況の悲哀を味わうようになった。政治経済上の出来事が、人々の生活にどんなに深い影響を及ぼすものであるかを理解するようになった。公共社会の生活にもっと全面的に関与する必要を痛感するようになった。しかし、私としては政治上の信念をもつ素養もなければ、これらの問題を正しくつかむだけの経験もなかった。
 
一九三六年の春、私は友人からジーン・タトロック(註)に紹介された。大学の有名な英語の教授の令嬢で、その秋には彼女に求愛するようになり、お互いに親密になった。二人もう婚約したものと考え、結婚寸前に行ったことが少なくも二度はあった。一九三九年から四四年に彼女がこの世を去るまでは、ごくまれにしか会わなかった。彼女は、共産党員であることを話してくれた。といっても、党についたり離れたりする程度の開係で、党員になっても、彼女が求めていたものは得られなかったらしい。私は彼女の関心が真に政治的なものだったとは思わない。彼女は宗教的感情の強い人で、わが国と国民とその生活を愛していた。次第にわかってきたことだが、彼女には共産党員や同調者の友人がたくさんおり、そのなかで私が後に知り合いになった人もかなりいる。
 
(註)ニコルズのオッペンハイマー宛の手紙では、ジーン・タトロックとの交友が、オッペンハイマーの共産主義者との関係を示す一根拠とされている。
 
こういったからとて、私が左翼の人に友だちをつくったり、あるいはそれまで私にはかけはなれたものと思われていたスペイン人民戦線政府派の闘争や、移民労働者の組織に同情を感じたりしたのが、ひとえにジーン・タトロックのせいだと思われては困る。すでに述べたように、それにはほかの原因があったのである。私は新たに生じた同志意識が好きだったし、同時にまた、現代と自国の生活に参画しようとしていることを感じたのである。
 
一九三七年に父が死に、その後まもなく財産を相続したとき、私はこの遺産をカリフォニア大学に委ねて、大学院学生の資金に充てるという遺言状をつくった。

「統一戦線」の時代

当時は共産党のいわゆる「統一戦線」の時代であり、彼らはほかの多くの非共産主義グループと協力して、人道的な目的を支持していた。これらの目的のうち、私の関心をそそったものもたくさんあった。
 
私はブリッジスの組合(訳注=ハリー・ブリッジシスを組合長とする国際沖伸仕組合)がやった大ストライキのうちの一つにスト資金を寄付した。また『ザ・ピープルス・ワールド』紙(アメリカ西部で出ている左翼新聞)の予約読者となり、スペインの人民戦線政府派の闘争への援助を目的とした各種の委員会や団体にも寄付した。私は大学教授や助手、イースト・ベイの学校教員をふくむ教員組合の創立に助力を求められ、書記に選ばれた。私と教員組合との関係は、一九四一年に組合支部を解散するときまでつづいた。
 
おなじ時代に私は、物理学部の運営、学科課程の選定、奨学金の供与、大学の大学院全般の問題にも、主として大学院評議会(何年間かこの評議員だった)を通じて参画した。
 
私はまたほかの国体とも関係した。一年間ぐらいだったろうが、消費組合西部評議会の評議員をやった。この仕事は太平洋岸に関係のある生産物についての情報を評価することであった。消費組合の全国委員長だったアーサー・カレット(註)という人は記憶にない。もし彼が太平洋岸に来たことがあるなら、会っていたかもしれない。
 
(註)ニコルズの手紙では、その消費組合は一九四四年非米活動委員会により共産党外郭団体とされた旨が指摘されている。
 
私は一九三七年に「民主主義と個人の自由を守るアメリカ委員会」に加入した。当時この委員会は、ドイツにおける知識人や自由職業家への迫害に抗議する立場をとっていた。
 
私は、一九四二年「マンハッタン・ディストリクト(〔レズリー・〕グローヴス将軍を長とする原爆製造のための研究機関)に採用されるに当たり職員保安調査表に記入したが、そのなかで、それまで加入していた二、三の政治結社を列挙した。この調査表について言っておくが、後援した団体は含めなかった。「中国人民友の会」のことは記憶にないし、この団体となんらかの関係があったとすれば、それがどんな関係だったかはおぼえていない。
 
私はつぎのような言明をしたとされている。すなわち、自分は共産党員ではなかったが、「おそらく太平洋のあらゆる共産党外郭団体に所属していたようだし、共産党員が関心をもった多くの嘆願書に署名した」と。
 
私はそんな言明は覚えがないし、だれに向かって言ったか、どんな事情の下で言ったか、全然記憶にない。ここに引用された言葉は真実ではない。もし引用されたことに類することを何かしゃべったとすれば、きっと冗談半分の誇張だったことは明らかと思われる。

スペイン内乱への関心

私が最も深く同情し、関心をもった事柄はスペイン内乱だった。これは理解を必要とする事柄でもなければ、よくのみ込んだ上での信念を必要とするといった事柄でもなかった。私はスペインに行ったことはなかったし、その文学についてもわずかしか知らなかったし、その歴史とか政治とか当面の問題については、全然知らなかった。しかし、大多数のほかのアメリカ人とおなじく、私は感情的に人民政府派の闘争を支持したのである。
 
私はスペイン救援のさまざまな団体に寄付した。スペイン救援のための多くのパーティやバザーに行き、助力をした。スペインの内乱が明らかに人民戦線政府派の敗けになったときでさえ、これらの活動をつづけた。内乱の終結と人民戦線政府派の敗北は、私を大いに悲しませた。
 
トーマス・アディス博士とルーディ・ランパート(註)に会ったのは、たぶんこのスペイン救援運動を通じてであったろう。後者については、密接な交際にいたらなかった。前者は優れた医学者で、友人になった。
 
(註)トーマス・アディス(一九四九年没)は元スタンフォード大学医学部教授で、カリフォルニア州調査委員会により、各種の共産党外郭団体のオルグとされている。ルーディ・ランパートはカリフォルニアの共産党指導者で、転向共産党員クルーチの密告では、原子力情報を得るために放射能実験所にもぐりこもうとした共犯とされている。
 
アディスは、一九三七年から三八年にかけての冬のことだったと思うが、彼を通じてスペインの闘争への寄付を求めてきた。彼が明らかにしたところによると、この金は、救援団体に投じた金とは違って、戦争努力そのものに直接充てられるもので、共産党の経路を通じて届けられるとのことであった。そこで私は寄付した。通常彼からこういう目的のために必要だと説明する連絡があったときには、私は現金で寄付した。大体百ドルぐらいのもので、時にはやや多いこともあり、そんなことが冬中に数回あった。その春パサデナにいたときと、夏にニュー・メキシコにいたときは、一度も寄付しなかった。
 
その後になってーー日付はおぼえていないーーアディスはアイザック・フォルコフ(註)を私に紹介した。アディスによると、共産といくらか関係があるとのことで、それ以後は金が必要なときにはフォルコフが私に連絡するという話だった。彼は前にアディスがやったのと大体おなじ方法で連絡してきた。以前と同様これらの寄付は特定の目的に、主としてスペイン内乱とスペイン救援のために充てられた。
 
(註)下院非米活動委員会では、サンフランシスコ地区の共産党サークル責任者とされている。
 
時にはほかの目的のために、たとえばカリファルニア溪谷地方の移民労働者に寄付を求められた。この寄付が私の意図とは別の目的に充てられたかもしれないとか、そうしたほかの目的が悪いものだったかもしれないという気が、私に起こったかどうかは疑問である。当時私は、共産主義者が危険とは思わなかったし、彼らの表向きの目的の若干は、私にとって望ましいものと思われたのである。
 
やがて、こうした寄付は打ち切りになった。私はパール・ハーバー奇襲〔一九四一年十二月七日〕の前夜、あるスペイン救済の大パーティに出かけた。その翌日戦争勃発のニュースを聞いたとき、私はこう決心した。スペインの闘争にはもう尽くせるだけは尽くしてきたし、世界には、これ以外に、もっと差し迫った危機があるのだと。私の寄付はそれ以上つづけようにも、つづけられなかったであろう。
 
弟のフランクは一九三六年に結婚した。是非もないことだが、その後二人の間柄は以前ほど親密ではなくなった。その頃、たぶん一九三七年だったと思うが、彼の話したところによると、彼とその妻ジャッキーは共産党に入党したとのことだった。それから数年間、機会あるごとに、お互いに会った。当時はまだ、夏休みには一緒に暮していた。一九三七年か四〇年かに、フランクとジャッキーはスタンフォードに移り、四一年の秋にバークレーへやってきた。フランクは放射能実験所に勤務した。そのとき彼は私に、もう共産党員でないと断言した。
 
一九四四年、四五年、四六年におけるフランクとジャッキーの伝えられる(註)(活動についてーー私は一九四四年と四五年には、バークレーにいなかった。四六年の前半もほとんどいなかった。これらの活動が実際にあったか否かは知らないし、かりに当時何か知っていたとしても、ごく大ざっぱなものでしかなかったろう。
 
(註)ニコルズの手紙では、一九四四年八月ジャッキーがカリフォルニア労働学校のイースト・ベイ支部の組織を助力し、四五年にはフランクとジャッキーがサンフランシスコのソヴィエト領事館で、アメリカの科学者をソヴィエトの科学者に紹介し、また一九四六年にはフランクはカリフォルニア労働学校で「現代科学の発展の社会的意味」という講演をしたとされており、それらはすでに共産党関係の活動とみなされている。
 
一九四五年のクリスマスがすんで、私の一家は休暇中二、三月ほど泊りがけで弟の家を訪ねた。大晦日の夜と四六年の元日はそこにいたと記憶している。元は入れ代り立ち代り人が来た。私とは顔見知り程度のピンスキーとアデルソン(註)も、そのなかにいたかもしれないが、果たしていたかどうかは記憶にないし、その日ほかにどんな人が訪ねてきたか、またどんな話をしたか全然おぼえていない。
 
(註)ポール・ピンスキーとデーヴィド・アデルソンはともに共産党員とされており、ニコルズの手紙では、オッペンハイマーが当時共産党員だったが、党内活動ができないから党の郵便名簿から除いてくれと頼み、また一九四五年前に共産党幹部スティーヴ・ネルソンに、軍が原爆をつくっているとの情報を漏らしたと言明したといわれている。
 
一九三九年の夏パサデナにいたとき、私ははじめていまの妻に会った。彼女はトルーマン、ローリティーンその他カリフォルニア工科大学の教授たちの友人であり、同僚であるハリソン博士の未亡人だった。私はまた、彼女がそのまえにジョー・ダレットと結婚していたこと、彼がスペインで戦死したことを知った。ダレットは共産党の役員で、その短い結婚生活中に、一、二年ほど彼女も共産党員であった。私が会ったときは、彼女は前夫(ハリソン博士)に深く忠実を守っており、一切の政治活動と完全に手を切り、共産党というものが、実際には彼女のかつて考えていたものと隔たりがあるといういくらかの失望と軽蔑を感じていた。

ソヴィエト観

私自身の見解もまた変化しつつあった。一九三六年に読んだシドニー・ウェッブ夫妻のソヴィエトに関する著書や、当時聞いた話からして、ソヴィエトにおける経済的進歩や福祉の一般的水準の方を重くみて、政治的圧制の方を軽視する傾きがあったけれども、この点に関する私の見解はやがて変わってきた。
 
私は粛清裁判についてーー完全な細目にわたってではないがーー読み、ソヴィエト体制を呪っていない見解を発見することができなかった。一九三八年、私は三人の物理学者に会った。彼らは一九三〇年代にソヴィエトで実際に生活した人々で、プラチェック、ワイスコップ、シャインといういずれも優れた科学者であった。そしてはじめの二人とは親友になった。彼らが話してくれたことは、非常に堅実であり、狂信的でなく、ウソではないように思われたので、深い感銘を受けた。彼らの限られた経験から見たかぎりでは、ソヴィエトは粛清と恐怖の国、お話にならぬほど悪政の国、国民が長い間苦しんできた国だとのことであった。
 
ここではっきりさせておく必要があるが、このソヴィエト観の変化は、独ソ条約、ポーランドやフィンランドにおけるソヴィエトの行為によって、いっそう強められたとはいえ、私は自分と違った見解をもつ人たちと急に交わりを絶ったわけではない。当時私は、アメリカ共産党がいかに完全にソヴィエトの支配下にあるかを、十分には理解しておらず、後になってやっと分かるようになったのである。しかしフランスの戦いの最中やその後、また一九四〇年秋のイギリスの戦いの間に、私は共産党機関紙が主唱した戦争反対と中立の政策には、ますます共鳴できなくなっていた。
 
一九四〇年に結婚してからも、二年ほどは妻も私も、以前と大体おなじ仲間と付き合っていた。大部分は物理学者や大学の連中であった。なかでも、とりわけシュヴァリエ夫妻(註)はいろいろ親切にしてくれた。私たちは時折、多少とも明らかに左翼系の会合、当時まだつづけられていたスペイン救済パーティなどに招かれた。また、サンフランシスコで一回、バークレーで一回、都合二回、一見富裕そうな人たちの社交の集会に出席した。その席上、カリフォルニア共産党の役員だったシュナイダーマンが、共産党の方針なるものを説明しようと試みたが、私たちに関するかぎりでは成功しなかった。
 
(註)ハーコン・シュヴァリエは元カリフォルニア大学言語学教授。下院調査委員会で、ソヴィエト科学者のために原子情報を得る目的でオッペンハイマーに接近したという密告につき質問され、証言を拒んだ。
 
一九四六年、私はFBI(連邦検察局)係員との会見で、このバークレーの会合のことを質問された。そのとき私はこの会合のことを思い出せず、特に係員から質問されたシュヴァリエとこの会合との結びつきは、どうしても思い出せなかった。だから話し合っている問題とはまったく無関係のように思われたのである。後になって、妻の話で思い出したのだが、バークレーの会合はシュヴァリエの家で開かれたのだった。そこで一九五〇年にFBIから質問されたときは、そのように答えておいた。
 
ケネス・メイ(註)とは少ししか顔を合わせていない。私たちは二人とも彼が好きだった。メイと彼の妻の新居祝いに行ったとて不自然ではなかっただろうが、妻も私もそのようなパーティのことはおぼえていない。
 
(註)転向共産党員クルーチの密告によれば、放射能実験所にもぐりこもうとした共産党員とされている。
 
ワインバーグ(註)は大学院学生として知っている。ヒスキー(註)というのは知らない。スティーヴ・ネルソン(註)は家族連れで二、三度訪れてきたことがある。彼は私の妻とパリ時代に、つまり一九三七年に彼女の夫がスペインで戦死した頃の友人であった。一九四一年あるいは四二年以来、妻も私も彼にはずっと会っていない。
 
(註)原子力情報を共産党幹部スティーヴ・ネルソンに渡した「X」は彼であるとされている。クラレンス・ヒスキーはソヴィエトのためにスパイ活動をやったと密告されており、オッペンハイマーはその二人とともにメイ夫妻の新居祝いに行ったとされている。スティーヴ・ネルソンはモスクワ帰りの共産党幹部。カリフォルニア、ペンシルべニアの共産党オルグ。

「党員だったことはない」

右に挙げた交友関係からして、また前に言及した寄付のことからして、当時私は共産党に非常に近かったように見えたかもしれないーーおそらく一部の人々には党員であるように見えたかもしれない。さきに言ったように共産党の表向きの目的の若干は私には望ましいものと思われたのであった。だが、私は断じて共産党員ではなかった。共産党の教義なり理論なりを受け入れたことは一度もなかった。実際、それは私には納得できなかったのである。
 
私ははっきりと定式化された政治的見解をもっていなかった。専制や抑圧やあらゆる形の独裁的思想統制には反対だった。大抵の場合、当時だれが共産党員で、だれがそうでないのかは知らなかった。私に入党をすすめた人は一人もいなかった。
 
貴信によると、一九四二年から四五年の間に、共産党の役員と称する人物が、私は共産党の秘密党員だったという趣旨の言明をしたとされている。これらの人が言ったかもしれないことに関しては、私は何も知らない。私が確実に知っているのは、自分が秘密党員であれ、公然たる党員であれ、決して共産党員ではなかったということである。
 
言及された人たち(註)のうち、その名前すら知らないものがある。ジャックマン・リーやカターナ・サンドウのごときである。ベルナドッテ・ドイルという名前は知っているが、会ったことはないように思う。ピンスキーとアデルソンは前述のように、大抵は偶然に会う程度だった。
 
(註)ニコルズの手紙では、これらの人々がオッペンハイマーを党員だと述べたことになっている。
 
一九四三年のはじめ、ロス・アラモス(ニューメキシコ州の原子兵器実験所)へ移るときまでに、私の見解が変わったせいもあり、また戦時の仕事がいそがしいためもあって、左翼団体への参加や左翼の仲間との交友はなくなり、二度とよりが戻ることはなかった。
 
一九四一年八月、私はバークレーのイーグル・ヒルを妻のために買った。私たちが自分のものとしてもったはじめての家である。私たちは生まれたばかりの赤ん坊とここに住みついた。友人はたくさんいたがほとんど暇がなかった。妻は大学で生物の研究をしていた。
 
私の知っていた人たちの多くは、レーダーその他軍事研究部門の仕事に就くため去っていった。羨ましいと思わぬでもなかった。だがその後初歩的な原子力の事業にはじめてたずさわるようになるまでは、自分が直接役に立ち得る道があるとは知らなかったのである。

戦時中の活動

核分裂の発見以来、それを基礎とする強力な爆弾の可能性が、ほかの物理学者たちと同様、私の心を大きく占めていた。私たちはこれが戦争でどんな役に立つか、またどれほど歴史の方向を変えるかについて、若干の理解をもっていた。
 
一九四一年の秋、全国科学アカデミーによって特別委員会が設置され、アーサー・コンプトン(シカゴ大学教授、一九二七年のノーベル賞を得たアメリカ物理学界の権威)を議長とし、原子力の軍事目的へのさまざまな利用の見通しと実行可能性を検討することになった。私はこの委員会に出席した。これが、原子力計画に正式にたずさわる最初であった。
 
科学アカデミーの会合のあと、私はしばらくの間、原子爆弾の製造と実現に関する予備的な計算に没頭し、有望なのを知ってますます熱心になった。
 
これと同時に、私にはまだ大学の講座とか大学院学生の研究を指導するというかなりの重荷があったし、また、大体定期的にであったが、バークレーの放射能実験所の所員とともに、ウラニウム・アイソトープの電磁式分離計画について調査をはじめていた。私はこの実験所の所員でも職員でもなかったが、そこの所員会議や政策会議の多くに出席した。
 
大学院学生二名の助力を得て、私はオークリッジ(原爆工場)の生産工場で具体化された新発明をつくりあげた。私はシカゴの会議に出席した。ここで(プルトニウムを作るための)冶金実験所が設置され、その第一期計画が作成されたのである。
 
一九四二年の春、コンプトンは私をシカゴに呼んで、原爆そのものに関する研究状況を話し合った。その際コンプトンから、当時はいくつかのバラバラの実験計画から成っていたこの研究の責任を、引き受けるように依頼された。私はそれまで行政的な経験はなかったし、また実験物理学者ではなかったけれども、この問題には精通していたし、何とかして解決したいと思っていたので、喜んで引き受けた。このとき冶金実験所の職員になった。
 
この会談のあと、私はバークレーで理論研究グループを結成し、これにビース、コノビンスキー、サーバー、テラー、ヴァン・ヴレック、それに私が加わった。我々は野心的なときを送った。バークレーで一九四二年の夏の大半を費して共同研究をやり、この研究ではじめて原子爆弾、原子爆発、それに熱核反応を起こすための核分裂を利用する可能性、これらの問題に関する物理学上の問題と本格的に取り組んだのである。
 
夏の終わり頃、この可能性についてブッシュ博士の注意を促した。この問題に関する技術的な見解は 爾来 じらい 、今日にいたるまで発展し、変化することになった。
 
この研究が終わったのちは、世界を震えあがらせ得る事業が前途にあることは、ほとんど疑いないことになった。我々は、アラモゴード(原爆第一号の実験が行われたところ)の大爆発、さらに大きなエウニェトクの爆発を、従来以上に確かな予見をもって見るようになったのである。それと同時に、この仕事が、いかに険しく、困難で、挑戦的で、何が起こるか予知できないものであるかも分かりはじめた。
 
私は治験所に奉職したときに、はじめて職員保安調査表に記入した。そのあと夏になってから、私が左翼グループに属していたとの理由で、調査が通るかどうかに問題があるという話をコンプトンから聞いたが、この計画に関する仕事をつづけてゆく上での障害にはならぬだろうとのことであった。
 
夏の終わり頃、実験研究を再検討した結果、ほかの人々と同様に、爆弾そのものをつくる仕事では、やり方を大幅に変える必要があると確信するにいたった。我々が必要としたのは、何から何までこの目的のための中央大実験所であった。この実験所では人々が互いに自由に話ができ、理論上の着想と実験上分かったことを相互に採用し合うことができ、多くの部門別の実験研究による無駄と失敗と誤謬を取り除くことができ、またそれまでは無視されていた化学・冶金・工学・兵器上の諸問題と取り組みはじめることができるはずであった。したがって、我々としては、できるだけ速やかに原爆を発展させ生産する上に内在するあらゆる問題を直接考究するために、こうした実験所の設置を求めたのである。
 
一九四二年の秋、グローヴス将軍がマンハッタン技術研究所の所長に就任した。私は原子爆弾実験所をつくる必要を彼と論じ合った。この実験所をオーク・リッジの一部にしようという考えもあった。一時はこれを軍の施設とし、その幹部職員を将校に任官する意見が支持された。この準備に当たっているとき、私は将校任官のための第一段階の措置をとるため、 衛戍地 えいじゅち へ行ったことがある。
 
ロス・アラモスで必要とされる職員や、グローヴス将軍やその顧問たちと多くの討議を重ねたのち、この実験所を少くも当座の間、軍事施設の文官施設とすることに決まった。この検討が進められている間、私はグローヴス将軍をロス・アラモスに案内した。彼はほとんど即時にその敷地を獲得する手を打った。
 
一九四三年のはじめ、グローヴス将軍とコナント博士の署名で、私を実験所の所長に任命するとともに、その組織運営に関する彼らの所見を記した手紙を受け取った。必要な施設に要する建設と組み立てがはじまった。我々は全員、マンハッタン研究所の技師たちと密接に協力して働いた。
 
ロス・アラモスの敷地が選定された少くも一半の理由は、ここならば責任ある人々が、明白な機密保持上の必要と、この仕事に従事している人々の間の自由な連絡という、これまた主要な必要とを、均衡させることができたからであった。機密保持という見地からは、実験所を遠隔な地へ移し、垣をめぐらして、巡視し、外部との連絡を極度に制限することが望ましかった。
 
電話は傍受され、郵便物は検閲され、この地域を離れる人(はっきりした理由があってはじめて許可される)は、尾行されているかもしれないことを知っていた。他方、このコミュニティ内部にいる人々に対しては、情報を利用し得る人たち相互間の十分な説明や討議が奨励された。
 
一九四二年の最後の数ヵ月と一九四三年のはじめの数ヵ月で、どうやらロス・アラモスを設立することができた。

ロス・アラモスでの諸問題

要員の徴集計画は大がかりなものであった。我々は当時、実験所の最終的な規模を過小評価していた(一九四五年の春までに約四千名にするつもりだった)とはいえ、また、この仕事を狂わせ、脅やかすような困難を、当時ははっきりと知らなかったとはいえ、ともかく大きくて複雑で、多様な仕事であることは分かっていた。
 
実験所の第一期計画でさえ、まず着手するのには、非常に優秀で訓練を積んだ科学者が百名以上も必要だった。このほか、彼らの助手として必要な技手、職員、機械工や、イロハからつくる時間的余裕がなかったので、頭を下げて借りてこなければならない施設については、いうまでもない。我々が要員を徴集しなければならなかったときは、あたかもわが国が戦争に総力を挙げており、ほとんどあらゆる有能な科学者が、すでに軍事努力にたずさわっていた時代であった。
 
この仕事の主要な重荷が私に負わされたのである。要員徴集のため私は全国を歩き回って、原子力の仕事に何らかの面でたずさわっている人たち、たとえばレーダーや海深測量の仕事をやっている人たちと話し合い、我々がやろうとしている仕事や場所を説明し、彼らの熱意を求めた。
 
責任ある科学者をロス・アラモスに連れてくるためには、ロス・アラモスの使命がわが国にとってどんなに利益であり、緊急であり、かつ実行可能であるかについて、彼らがどう判断するかに待たねばならなかった。私としては、この仕事がどんなものであるかを十分に話して聞かせ、首尾よく間に合って成功すれば、戦争の結果を左右するかもしれないという強い保証を与え、ほかの仕事からこの仕事に移ってくる正当な理由があることを納得させねばならなかった。(註)
 
(註)これらのことが、オッペンハイマーは原爆計画を共産主義者に話したという非難の原因になっているのである。
 
ロス・アラモスへ来たらどうなるかという見通しは大きな不安を引き起こした。そこは軍の施設であり多かれ少かれ滞在期間を契約するよう求められる。旅行や家族の異動の自由の制限は厳しい。実験所が必要な技術的行動の自由を実際にどの程度まで確保してくれるのか、その点はだれも安心ができなかった。
 
いつまでか分からぬ期間、しかも準軍隊的な監視の下で、ニュー・メキシコの沙漠に埋もれるという考えは、多くの科学者たち、さらに多くの家族たちを不安がらせた。だがほかの面もあった。
 
ほとんどすべての人々は、これが大事業であることを認識した。ほとんどすべての人々は、首尾よく速やかに完成すれば、それが戦争の結果を決定するかもしれないことを認識した。ほとんどすべての人々は、科学の基本的な知識と技術を、祖国の利益のために役立てる絶好の機会であることを知った。ほとんどすべての人々は、この仕事が完成した暁には、歴史の一部になることを知った。
 
こうした興奮、愛国心の気持ちが、最後にはついに勝った。私が話し合った大部分の人々はロス・アラモスへやってきた。一たび来ると、仕事の技術的な地位を知るようになるにつれて、この事業への信頼の念が高まっていった。そして実験所の規模は、最終までに幾回も倍々と拡張されたけれども、いったんはじまったときすでに、成功への道を歩んでいたのである。

ドイツは何をやっていたか

我々はその頃、核分裂の分野におけるドイツの活動に関する情報をもっていた。もし彼らが原爆の発展で先を越すようなことがあれば、どういう結果になるかを意識していた。我々全員の一致した意見、私が受けたあらゆる指令は、我々の仕事が極度に緊急なものであること、その知識が一切敵に漏れぬよう万全の警戒措置をとる必要を強調するものであった。過去に共産党員とつながりがあったとか、その同調者だったとかいうことは、その人の人間としての誠実さと信頼性とに確信がもてれば、必ずしもその人を雇用する資格を失わせるものではなかった。
 
ここで、私についての不利な情報に関する二項目について、私見を述べておく必要がある。第一は、私がこの期間(一九四二年から四五年)に原爆への問題を共産党員と話し合ったと報告されている点である。第二は、共産党か、あるいは共産党の活動に密接につながっていた人を、原爆計画に雇い入れた責任があるという点である。
 
第一点に関しては、私が原爆に関連した問題を話し合ったのは、公務のためか、要員徽集のためだけである。私が知っているかぎり、なにか秘密の仕事について、あるいは原爆について、スティーヴ・ネルソンと話し合ったことは絶対にない。
 
私が疑わしい人物をこの計画に雇い入れるに努力したという言明についてーー。
 
挙げられている人物のうち、ロマニッツ、フリードマン、ワインバーグは、ロス・アラモスに雇われたことはない。フリードマンとワインバーグが放射能実験所で雇われたことは、私にはなんの関係もなかったと思う。そこでは、だれを雇おうと私の責任ではなかったのである。私が調査員としてひきつづき放射能実験所に在籍し、また一部の大学院学生の研究を指導していたとき、デーヴィッド・ボームとチャイム・リッチマンを、のちに高速中性子に関連のある実験分析に役立つことが分かって基礎科学の問題に当たらせた。その研究はすでに、公(ルビ:おおやけ)になっていたものである。
 
もう一人の大学院学生がロッシ・ロマニッツである。ぼんやりとしかおぼえていないが彼と話していたとき、彼が国防上の研究に従事するのを渋っている様子だったので、ほかの科学者たちが祖国のためにやっていることを彼もやるように励ましたこともあったように思う。その後、彼は放射能実験所で働いた。
 
話の詳しい内容は覚えていないが、原爆計画の仕事をもし彼に求めたとすれば、彼は当然保安官の調査を受けていたと想定してよいであろう。その後一九四三年にロマニッツが軍に徴集されたとき、私に手紙を寄せ、原爆計画に復帰できるよう助力を求めてきた。私はこの手紙の写しをマンハッタン研究所の保安官の許に提出し、その処置にゆだねた。さらに後になって、ロマニッツの求めに応じて、私は彼の指揮官に、彼は軍関係の高等技術研究に適任の人物だという手紙を書いた。
 
私はデーヴィド・ボームのロス・アラモスへの転勤を要請した。しかしこの要請は、ほかのすべての要請と同様、例によって保安上の必要事項が満たされるという前提に従属するものであった。そして、この転勤に保安上の理由からの反対があると聞いたとき、私は非常に意外に思ったが、それに同意したことはいうまでもない。
 
デーヴィド・ホーキンスは実験所の人事部長に知られていた。私は彼に会ったことがあり、好きだったし、知能ある人物だと思った。彼をロス・アラモスへ来させようという人事部長の案に、私は賛成した。彼がかつて左翼と交際があったことは、私も承知していた。しかし、一九五一年三月、彼が証言するまでは、私は彼が共産党員だったことを知らなかったのである。
 
一九四三年に、私は「当時ロス・アラモスには共産党員だったことのあるものが数名いることを知っていた」と言ったことにされているが、その一九四三年に、私が知っていた元共産党員は、ただ一人だけである。それは私の妻で、彼女が党とは手を切っていたこと、彼女の誠実さと合衆国への忠誠について、私はいささかの疑念もなかった。その後一九四四年か四五年に、さきに資格調査をパスしてバークレーとオークリッジで仕事をしていた弟のフランクが、正式の承認を得てオークリッジからロス・アラモスへ来た。
 
ロス・アラモスで秘密情報を手に入れようとした試みがあったことは全然知らない。(註)
 
(註)フランク・オッペンハイマーは、ロス・アラモスの秘密情報を入手するために、実験所に来たとされている。
 
私がそこへ赴任するまえ、友人のハーコン・シュヴァリエ夫妻は、おそらく一九四三年のはじめだと思うが、イーグル・ヒルの自宅に訪ねてきた。このとき彼は台所へ入ってきて、私に話したところまでは、ジョージ・エルテント(註)が技術情報をソヴィエトの科学者に回す可能性について彼に話しかけたとのことだった。そこで私は強い言葉で、それははなはだ怪しからんという意味のことを言った。話はそれだけだった。長年の友情からして、シュヴァリエが実際に情報をもっているとは到底信じられなかったし、私のたずさわっている仕事がなんであるかは全然知っていなかったのは確かである。
 
(註)カリフォルニアの非米活動委員会によれば、エルテントはイギリスの科学者で、レニングラードで核物理学を学んだとされている。
 
ずっと前からはっきり分かっていたことだが、私はただちにこの出来事を報告しておくべきであった。私がこれを報告するきっかけになった出来事(私の報告がなかったら、分かっていたかどうかはいまでも疑問に思っている)は、それと関連のないことであった。
 
一九四三年の夏、マンハッタン研究所の諜報将校ランズディル大佐がロス・アラモスに来て話したところでは、彼はバークレーでは「建築家・技師・化学者・技手連合」(FAECT)の活動のため、保安状況が心配だとのことであった。その話を聞いて、私はエルテントンがFAECTの会員であり、たぶん発起人だったことを思い出した。
 
その後まもなく、私はバークレーへゆき、保安官に、エルテントンを監視する必要があると告げた。その理由を聞かれたとき、エルテソトンが第三者を通じて、原爆計画にたずさわっている人たちに接近しようと試みているからだと答えた。ただし自分のことや、シュヴァリエのことには触れなかった。その後グローヴス将軍が、詳しい内容を知らせよとせっついてきたとき、私はシュヴァリエとの会話のことを報告した。いまでもシュヴァリエは友人だと思っている。
 
ロス・アラモスのことを話せば、長くもあり、複雑でもある。その一部は公の記録になっている。私にとっては、決定を下したり、働いたり、相談したりせねばならぬことがいっぱいあった時代だったので、ほかのことに手を出す余裕などほとんどなかった。
 
私は家族とともにロス・アラモスのコミュニティに住んでいた、そこは特異な社会で、崇高な使命感、義務感、運命感、献身的で首尾一貫した無私の精神で 鼓吹 こすい されていた。
 
ロス・アラモスの生活ではイライラすることがたくさんあった。機密保持上のさまざま制限(多くは私自身の発案であった)、従来とは全然別な軍施設であることからくる不便さ、勝手の分からなさ、物の不足、不公平、それに実験所そのもののなかでは、計画が進むにつれて、技術研究の違った面に重点が移ることなど。しかし私は、これほどまでに共同の目的をよく理解し、献身し、これほどまで個人的な利便や名声をよろこんで無視し、これほどまでに祖国の歴史で演じている自分たちの役割をよく理解していたグループというものを、ほかに知らない。
 
時々は、我々は技術上の仕事で、ほとんど動きのとれぬような危険に当面した。時には実験所の全員が集まって、新しい問題に直面し、研究を続けていった。我々は夜も昼も働いた。そしてついに多くの仕事が成しとげられたのである。科学者たちのこの数年にわたる困難な忠実な研究が、一九四五年七月十六日の実験となって、実を結んだのである。それは大成功だった。
 
陸軍省やそのほかこの道に通じている人たちからみると、成功の時期としては、あらゆる状況を考慮に入れて、これ以上早くは不可能だと考えられたし、威力はむしろ想像以上だったものと思う。陸軍長官やグローヴス少将、そのほか多くの人たちの口ぶりからすると、政府の見解としては、この成果に満足していることが分かった。
 
当時ロス・アラモスにいた我々としても、満足をともにせざるを得なかったし、私個人としては、どうにかこの仕事をうまくやりとげ、その成功に主要な役割を果たしたと結論せざるを得なかった。しかし、ここで言っておく必要があるのは、ほかの多くの人々が、この成功を導いた決定的な着想に寄与し、この仕事を遂行したということであり、私の役割は、理解し、激励し、提言し、決定することだったという点である。一人芝居とはまるっきり正反対のものであった。
 
七月十六日の実験や日本への原爆使用のまえですら、実験所の所員たちは、新しい事態がもち得る意義について、新しい考え方をもちはじめた。
 
はじめの頃、成功の見込もさほど確実でなく、時期も不確かであり、ドイツと日本との戦争が苛烈な局面にあった当時では、我々としては、やるべき仕事があると考えるだけで十分であった。ところがドイツが敗れ、太平洋の戦争が破局に近づきつつあり、また我々の仕事の成功の見通しが、ほぼ確定的になるにおよんで、このめざましい発展が、将来にとってどのような意義をもつかについて、希望を感ずるとともに、不安も感じた。我々は一般大衆よりも少し早くこう考えるようになったが、それは、すぐ眼の前に、秘密のうちに、との技術的発展を見ていたからである。しかし本質的には、広島と長崎における大衆の反応と大体おなじであった。
 
したがって、一九四五年の春にスティムソン陸軍長官から、コンプトンやローレンスや〔エンリコ・〕フェルミとともに、原子力中間委員会の諮問委員になるよう頼まれたとき、この機会を歓迎したのは当然のことであった。

原子力の将来の計画

我々は一九四五年六月一日、この委員会と会合し、また広島と長崎に原爆が投下された週にも、ロス・アラモスで会合して、原子力が技術的に将来どのようなものになるか、原爆弾頭を誘導弾として使うこと、原爆設計上の改善、熱核(水爆)計画やその力、推進力、原子技術から科学・医学・工学技術の研究のために得られる新しい道具について、大体の見通しをつくりあげた。
 
この仕事で、私は九月と十月中の時間の大部分をとられた。また、これと関連して、原子力立法について、さらに予備的にではあるが、原子力の国際管理について、陸軍国務両省の諮問に応ずることを求められた。
 
一九四五年十月十六日、私は事前にブラッドベリー海軍中佐の同意を得て、彼が私の後任になることにつきグローヴス将軍の了解を得て、ロス・アラモスの所長を辞任した。
 
当時実験所では、覚書や報告書の形で、また私がグローヴス将軍宛に要約した手紙の形で、原子兵器における発展は書式となっていた。この発展は実現までには数年を要するもので、事実その後におけるロス・アラモスの仕事のテーマのーー全部ではないにせよーー若干をなしたものである。わが国における原子兵器の仕事が将来もつづけられるのか、それともロス・アラモスだけにかぎられるのか、あるいはほかのもっと便利で実際的な場所でもはじめられるのか、さらにまた国際協定がどんな作用を計画におよぼすか、これらについては必ずしもはっきりしてはいなかった。しかし、いずれにせよロス・アラモスは、その問題を決定する権限の機関がつくられるまでは、仕事をつづけてゆかねばならなかった。この状態が約一年つづくことになったのである。

戦後の時期

一九四五年十一月、私はカリフォルニア工科大学での教授をふたたびはじめた。これが私の本職になるだろうというつもりで、かつそうなることを望んだが、この意図や希望は実現しなかった。すでにはじまっていた戦後の諸問題に関する諮問という仕事がつづき、私は何度も何度も、原子力についての助言を政府からも議会からも求められた。
 
私は原子力の発展によってわが国が当面させられた諸問題の多くに、深い責任と興味と関心を感じた。
 
この発展は自由世界とソヴィエトとの間の増大する闘争の歴史において、重大な要因となりかかっていた。私やほかの科学者が助言を求められたとき、我々の第一の義務はその技術上の経験や判断を用立てることであった。我々は、わが国の軍事情勢や政治情勢に関する政府の公式見解を背景として、またその脈絡において、そうすることを求められたのである。戦争が終わった直後、私は、原子兵器の国際管理のための有効な措置を考案する仕事に深入りした。この措置は、当時の言葉でいえば、戦争そのものをなくす方向に向かうものであった。
 
成功の見通しが薄らぐにつれ、またソヴィエトの敵意や増大する軍事力の証拠が重なるにつれて、我々はますます、ソヴィエトの脅威を相殺するため、わが国の原子力の可能性をこれに適応させる道を見出す仕事に没頭せねばならなかった。
 
ソヴィエトの最初の原子爆発、朝鮮戦争、中共の朝鮮介入という大きな事件のあった時期に、我々は長期の問題を忘れたわけではないにせよ主として直接的な措置、迫りくる全面戦争の脅威の下で、アメリカの力を急速に増強し得る面の措置にたずさわっていた。
 
アメリカの原子力の可能性が増大し発展するにつれて、我々は敵が行う同様な発展に内在する危険を意識し、予防的な防衛的な措置が、すくなからず我々の頭を占めることになった。この時期を通じて、原子兵器の役割は中心的なものになりかかっていた。
 
戦争が終わって私が西部に帰ってから、一九四七年春「高等学術研究所長」としてプリンストンに行くまでの間、私は自宅やカリフォニア工科大学の教授に、ほんのわずかの時問しか割けなかった。
 
一九四五年十月には、パターソン陸軍長官の求めにより、私は下院軍事委員会に出頭し、メイ=ジョンソン法案支持を証言した。この法案は、「マンハッタン・ディストリクト」の戦時管理から原子力企業の戦後管理への移行(それは切望されていた)を遅滞なく実現するための中間的措置で、私はこれを支持したのである。
 
一九四五年十二月およびその後、私はマクマホン上院議員の求めで、彼が委員長をやっている特別原子力委員会に出頭した。この委員会は原子力立法を審議していたのである。
 
またリチャード・トルーマン博士の委員長の下で、私は原子力に関する機密保持政策を審議する委員会の一員となった。これはグローヴス将軍が設置した委員会である。一九四六年初頭の二ヵ月の間、私は国務長官直属の原子力委員会の諸問会議評議員として、いそがしい仕事をやった。この諮問会議は国務長官直属委員会に協力して、いわゆるアチソン=リリエンソール報告書〔世界初の核の国際管理案〕を作成したのである。この報告書が発表されたのち、私は公然とこれを支持する発言をした。
 
その後まもなく、バルーク氏が国連原子力委員会のアメリカ代表に任命されたとき、私はバルーク氏および、アメリカ案への支持を得るための工作を準備遂行する彼のスタッフの、技術顧問団の一員となった。オズボーン将軍がこの仕事を引き継いだとき、私はひきつづき顧問としての地位に残った。
 
一九四六年末、私は大統領によって原子力委員会の一般諮問委員会の一員に任命された。その初会議で私は議長に選出され、のち再選されて、一九五二年に任期が切れるまで、その地位にあった。これは原子力計画に関するかぎり、ここ数年間の私の主要な地位であり、学術上の仕事を別とすれば、私の主要な関心であった。
 
その後まもなく、私は技術院(Research and Development Board)の原子力委員会に任命された。この委員会は原子力計画の技術面について軍当局に助言を与えることになっていた。私はこの委員として七年務め、委員会によって設置された特別評議員会の議長に二度指名された。

共産党秘密集会事件

そうしているうちに、私は原爆の発明者と広く見なされるようになった。(それが事実を誇張したものであることは、当人の私がよく承知している。)ひかえめにみても、私は一種の公的な人物になってしまった。
 
当時もそれ以後も、私のところには講演の申し込みや、数多くの科学活動や公共の事務に参加を求める申し込みが、洪水のようにおしかけてきた。その大部分は断ったが、科学や学問の促進、あるいは私の信念と合致する公的政策の促進に、主要と思われるものは引き受けた。たとえば、全国科学アカデミー評議会、「現在の危機」に関する委員会、ハーヴァード大学監査役、そのほか多数。
 
これらとはまったく別な、私見によればただ一つだけの事柄が、私に不利な情報の一項目に挙げられている。すなわち、一九四六年に私は「芸術・科学・自由職業独立市民委員会のレター・ヘッドに、副委員長と記載されている……この団体は下院非米活動委員会によって共産主義外郭団体とされたものである。」
 
事実はつぎの通りである。私が原子力の国際管理の問題で仕事をしているとき、この団体の副議長に指名され、ついで選出されたという通告を受けた。
 
その後、この団体の文献には「中国からのアメリカ軍撤退」といったスローガンがあり、またアメリカの原子力政策に対する当時の商務長官ウォーレス氏の批判を支持していることが分かったので、私は一九四六年十月十一日付の手紙で、自分がこの団体の政策に同意しないこと、ウォーレス氏の勧告が原子力国際管理の満足すべき解決を見出す事業をするとは思わないこと、したがって自分は辞任したいことを通告した。私の辞任を思いとどまらせる努力がなされたが、私は一九四六年十二月六日に重ねて手紙を書き、あくまでも辞任すると主張した。
 
戦後かなり経ってから、私に不利な情報の一項目の基礎となっているらしい一事件が起こった。一九五〇年五月、元共産党役員ポール・クルーチとクルーチ夫人は、カリフォルニア州の非米活動委員会で証言し、一九四一年七月、彼らは、当時バークレーに私が借りていた家で、共産党の集会に出席したと言ったのである。
 
彼らは約八年後に見た私の写真と映画に基づいて、私がその集会に出席していたのを知ったと言った。このありもしない事件についてFBIがはじめて私に問い合わせてきたとき、クルーチの言うような集会はなかったと私は断言した。妻に聞き合わせたところ、妻も同様だった。後になって、例の証言を読んで、私の確信はいっそう強くなった。
 
クルーチはその集会が共産党の秘密集会だと言っている。私は共産党員だったことは一度もない。クルーチはその会合で出席者の紹介はなかったと言っている。私は自分の家に紹介もされぬ人々を迎えたおぼえはない。一九五二年五月、私はこのありもしない集会について、ワインバーグ事件に関連して、連邦検事ともう一度話し合った。(註)
 
(註)ワインバーグは共産党幹部スティーヴ・ネルソンに科学上の秘密の情報を殺した「科学者X」と同人物だと、下院非米活動委員会から認定された人物。一九四一年七月バークレーのオッペンハイマー家で開かれた秘密集会にも出席したと、クルーチ夫妻から告発された。当人はむろんこれを否定し、偽証罪で起訴されたが、オッペンハイマー家の集会が事実無根で、博士もワインバーグも集合があったという日には、別の所にいたことが争う余地なく立証されたので、この件に関しては無罪となった。
 
私はそのとき重ねて言った、自分は党員でないから共産党の秘密集会に出席しているはずがない。いろいろ記憶をたどってみたあげく、ただ一つ心当たりらしく思われるのは、いつか大学のだれかが若い連中の会合に使うため、私の家を貸してくれと頼んだような、ぼんやりした記憶であるが、その会合があったことは記憶しておらぬし、クルーチの言うような会合に、ほんの少しでも似たような集会も記憶にない。また私と妻はおそらく、クルーチが七月二十三日ごろと言っている集会があったときは、バークレーにはいなかったように思う、と。その後まもなく、弁護士の助力によって、私は妻と私が一九四一年七月四日後数日のうちにバークレーを出発し、八月の第一週の末までは帰らなかった事実を立証することができた。

一般睹問委員会議長としての活動

さてつぎに、一般諮問委員会議長として、およびそのほかの資格で、私が職後の数年に、侵略に抵抗しこれを打ち負かすため、アメリカとその同盟の力を増大さすために進言した措置の若干に移る必要がある。
 
一般諮問委員会の創立当初のメンバーは、当時のハーヴァード大学総長コナント、カリフォルニア工科大学総長デュブリッジ、シカゴ大学のフェルミ、コロンビア大学のラービ、「ユナイテッド・フルーツ会社」副社長のロウ、カリフォルニア大学のシーボルグ、シカゴ大学のシリル・スミス、デュポン会社のワシントンであった。一九四八年にベル電話会社実験所のバックリーがワシントンに代わり、一九五〇年夏にはフェルミ・ロウ・シーボルグが、それぞれシカゴ大学のリビィ、スタンダード石油開会社社長のマーフリー、マサチューセッツ工科大学総長のホイットマンと交代した。その後スミスは辞任し、高等学術研究所のフォン・ノイマンが後任になった。一九四七年はじめから一九五二年なかばにいたる数年間に、委員会は約三十回の会合を開き、ほぼ同数の報告書を原子力委員に提出したように思う。
 
巨大な原子力施設の方針や管理を作成することが、原子力委員会そのものに課せられた責任で、一般諮問委員会は規約によって、この委員会に助言をする任務をもっていた。
 
こういう資格において我々は、原子力委員会から諮問された諸問題について我々の見解を述べ、我々の創意で重要な技術事項について委員会の注意を喚起し、委員会直属の若干の主要諸施設の仕事を励まし、これを支援した。
 
一九四七年の初期、我々は何を優先させるかの問題について、委員会としての見解をまとめる仕事にとりかかった。そして、原子力の発展や、これに関連する分野の基礎的な強力な科学活動の支持や維持が、重要である点について意見の一致をみる一方、第一の優先性を原子兵器の問題に置いた。
 
当時我々は原子力委員会に、その第一番の仕事の一つがロス・アラモスを、原子兵器の発展と改善のための活動センターに転化することにあると進言した。
 
戦争直後の一九四五ー四六年の期間では、ロス・アラモスの目的は二重であった。それは原子兵器の研究をしているアメリカ唯一の実験所であるとともに、兵器計画とは間接の関連しかない科学上の諸事項についても、大きな関心をもっていた。
 
我々の提案したのは、原子力委員会が原子兵器を改善し多様化することを、実験所の中心的な第一の計画として認め、この仕事に第一の優先性を与えることであった。さらに我々は、委員会がロス・アラモスの仕事を魅力あるものとする行政的措置を講じ、実験所の所員募集を支持し、原子兵器設計を指導する強力な理論部門の増強を助け、戦争中実験所員だった才能ある優秀な調査員の能力を利用することを提案した。

アメリカの原子貯蔵

ロス・アラモス実験所長と緊密に協議した上で、我々は、アメリカの兵器の破壊力という点で、その貯蔵の価値をいちじるしく増し、現有のおよび予想される貯蔵を最もよく活用し、現代の戦闘条件や各種各様な形での使用に適した兵器を生みだし、これらが重なり合った結果として、アメリカに現在もっている大兵器庫を与えるような発展コースを要望し、これを支持した。
 
我々はサンディナ(ニューメキシコ州)に、原子誘導弾の研究を主要目的とした実験所を設置するのを要望し、これを支持した。
 
ロス・アラモスの職員との同意の下に、我々はそもそもの最初から、原子兵器の実験計画なしには、兵器発展上の根本的な改善は不可能であるという見解をとった。我々はそのような計画を強く支持し、ロス・アラモスがその希望する実験を行う許可を得るのに助力し、常設兵器実験所の設置と、その仕事をやりやすくするため大陸実験所の採用を要望した。
 
時が経ち、原子兵器の発展が進むにつれて、我々は原子誘導弾の研究および、原子兵器の性能を最大限に発揮させる搭載機(航空機・誘導弾など)の発展の重要性を強調した。
 
我々は、生産工場の拡大により、また原料資源を拡大する野心的な計画により、アメリカの兵器庫を量においても質においてもいちじるしく増強するため、探求を要するいくつかの機会のあることに着目した。
 
軍事的必要を定めるのは、我々の機能ではなかった。我々がその機能とみなしたのは、現存の工場の規模も、原子力委員会が引き継いだ現存工場の運営様式も、さらに比較的よく知られ高度の原料を含む鉱山の数が制限されていることも、原子兵器計画を制限する理由にはならぬ点を指摘することであった。
 
一九四六年から一九五二年にいたる六年間に許可された四つの大拡充計画は、一九四六年に引き継がれた生産計画をはるかに上回らせるという原子力委員会、国防省、両院合同原子力委員会、そのほかの政府機関の決定を反映したものであった。そして、原子兵器の力強い兵器庫や、各種各様の軍事目的に適したその形態の多様性(これが今日アメリカの軍事力の主要な源泉となっている)は、これら決定の結果を反映するものである。
 
一般諮問委員会の速記録、報告書、そのほかの活動の記録が示すように、この機関は諮問グループとしての役割の範囲内において、これらの結果をもたらした諸措置を要望し、支持し、時としては提唱する上で、注目すべき一貫した全会一致の役目を果たしたのである。
 
委員会としても個人的にも、我々はほかの事項についても助言を求められた。一九四五年十月、早くも、私は全国科学財団を設置する最初の措置たるキルゴア=マグナソン法案について上院の委員会で証言した。大部分の科学者と同様、私もアメリカに戦時中の中断の後、健全な科学コミュニティを再建する措置がとられることに関心をもっていた。
 
一般諮問委員会において、我々は原子力委員ができるだけのことをして、その直属の実験所や大学センターで、原子科学を支持することを要望した。これらの実験所や大学センターに対して、我々は基礎的性質の進歩のため科学者の養成を求めればならぬと感じていたのである。
 
戦後の時期全体を通じて、私は同僚とともに、基礎科学に継続的な支持を与えてこれを促進し、軍事的研究や応用科学のための努力と、純粋に科学的な訓練やほかの一切にとって不可欠な研究のための努力との間に、健全なバランスが生まれるようにすることの重要性を強調した。我々は原子力委員会が、適切な形で適切な安全措置をもって、トレーサー物質(放射能物質で、ほかの物体に入れたとき、ガイガー計数管によりその動きを追跡できるもの)、アイソトープ、放射能物質を一般に入手し得るように決定したことを支持した。これらのものは医学・生物学研究・工学技術・純粋科学・農業において非常な建設的役割を演じたのである。
 
我々は潜水艦、軍艦発進力のための原子炉の発展について肯定的見解をとったが、それは直接の軍事的価値のためばかりでなく、これが重要な原子炉発展計画における有利な前進的な措置と思われたためでもある。

水爆計画に反対

我々は大体において、航空機の発進に原子力を利用するという最初はきわめて野心的な計画には、懐疑的であった。もっとも、我々はその研究を主張し、研究の結果、やがてこの計画が以前よりは実現可能なコースにもたらされはしたが。我々はしばしば、カナダおよびイギリスの原子力施設との密接な協力から得られるアメリカにとっての技術的利便を、原子力委員会に指摘した。
 
しかし、私が一般諮問委員会に務めていた数年の間、その主要な関心は原子兵器の生産と完全化であった。以上述べたさまざまな勧告については、私の記憶するかぎり、委員会のメンバーの間にいちじるしい意見の差があったことは一度もない。以上あげた勧告は、いうまでもなく、委員会の活動のきわめて一少部分の見本にほかならないが、いわば典型的なものである。
 
その後に起こったいざこざにかんが み、私は「超」熱核兵器(水爆)の問題を別に論じようと残しておいたーー我々の委員会はこれを全兵器計画の一段階とみていたのではあるが。
 
「超」兵器という考えそのものは、長い前から考慮されており、さきにも述べたように、ロス・アラモスが開設される以前の一九四二年、我々の最初の発端であった。それは戦争中ひきつづき、ロス・アラモスでの研究の題目になっていた。
 
戦後ロス・アラモスの活動そのものが、原子力施設に関する必要な立法の制定にいたるまで、ハンディキャップを受けたのは避けがたいことであった。マクマホン法の制定、原子力委員会と一般諮問委員会の任命により、我々諮問委員会のものは、一九四七年および一九四八年の初期の会合で、この題目を討識する機会があった。
 
この期間に一般諮問委員会は、問題が技術的見地からまだ極度に不明確な状態にあることを指摘し、当時「超」熱核システムの地味な矛盾的研究に向かっていたロス・アラモスの努力を励ますよう勧告した。一九四九年秋ソヴィエトの原子爆発〔八月二九日にセミパラチンスク〈カザフスタン〉核実験場で実施〕があるまでは、「超」兵器について大きな論争は起こらなかった。
 
ソヴィエトの原子爆発の直後、一九四九年十月、原子力委員会は一般諮問委員会の特別会議を召集し、二つの関連問題について審議し答申することを我々に求めた。
 
第一の問題、ソヴィエトの成功に照らし合わせて、原子力委員会の計画は果たして適切であるか、もし適切でないとすれば、どのように変更ないし増強すべきか? 第二の問題、「超」兵器発展の「強行」Crash 計画を、新しい計画の一部となすべきか?
 
諮問委員会は二つの問題を審議し、関係ある政府文武官のさまざまな人々と協議し、一九四九年十月に原子力委員会に提出した報告書で述べられたような結論に達した。
 
この報告書は第一の問題に答えて、原子力委員会が我々の兵器の全面的潜有力をさまざまな仕方で増強するためにとるべき諸置を、いくつか勧告した。
 
「超」兵器自体については、一般諮問委員会は、我々が意見を求められた「 強行 クラッシュ 」計画をアメリカが開始することに、全会一致で、反対すると述べた。この会合の報告書や書記のノートは、我々がこういう結論に達した理由を示している。
 
付属文書はとくに政治上の考慮と政策上の考慮を扱ったものだが(報告書そのものは主として技術的な性質のものである)、それは委員会のメンバー間に意見の相違があったことを示している。二つの付属文書があり、一つはラービとフェルミが署名しており、ほかはコナント、デュブリッジ、スミス、ロウ、バックリー、それに私が署名している。(委員会の第九人目のシーボルグは当時外国にいた。)
 
極度の難問を審議した八名の委員が全部、寸分違わぬ理由からおなじ結論に達したとすれば、それこそおどろくべきことであろう。
 
しかし、私は「 強行 クラッシュ 」計画に対して我々の表明した全会一致の反対が、技術的考慮その他のなかに、当時のわが国の全面的情勢からして、このような計画がアメリカの地位を強めるよりはむしろ弱める恐れありという信念に基づいていた、とそう主張しても正しいと思う。
 
報告書を原子力委員会に提出した後は、いくつかの機会に(一つは両院合同原子力委員会の会合の席上で)我々の立場を説明するのは、諮問委員議長としての私の責務であった。しかしこれはすべて、大統領が熱核計の実施を決定する以前のことであった。

私は水爆計画を妨害したか

以上が私の「水爆反対」の真相である。
 
これは一般諮問委員会の諸記録や、両院原子力委員会における私の証言の速記録を読めば明白である。そして、この話は一九五〇年一月、大統領が計画実施の決定を発表したとき、完全に終わりとなったのである。
 
私はだれに向かっても、水爆計画のために仕事するなとすすめたことはない。私は一般諮問委員会の報告書を、原子力委員会を除けば、だれにも配布したこともなければ、配布させたこともない。通例のことであるが、報告書のそれ以上の配布を決定するのは、原子力委員会の責任であった。
 
要するに、私と一般諮問委員倍のほかのメンバーは、一九四九年十月、原子力委員会から諮問を受け、それに対して答申する義務が我々にあり、当時我々の入手し得た証拠に照らして、我々は最良と信ずる判断をもって答申したのである。
 
一九五〇年一月、大統領の決定が発表されたとき、我々の委員会はまたも会議を開き、我々は即時、大統領の指令を遂行する上で原子力委員会の当面する技術的諸問題に立ち向かった。
 
我々はこのとき、これら諸問題を解決する最も有望な措置について、助言を与えようと努めた。我々はいまや確定された政策の是非をふたたび問題にしたことはなく、むしろこの政策の実施を助けることに関心をもったのである。
 
この期間に、我々が生産施設を増強するために行った勧告のなかには、二重の目的をもつ工場の設置を求めたものがあった。これ核分裂爆弾(原爆)のための原料の生産にも、どちらにも使えるものであった。その後原子力委員会の採用した「サヴァンナ河計画」は、その実行面の性格としては、主としてこの勧告の主旨をとりいれたものであった。
 
一般諮問委員会が「超」兵器の「強行」計画に反対したという話は、大統領の決定発表をもって終わりになったのであるが、計画の評価やそれについての助言の必要はその後もつづいた。大統領の決定以前も以後も、とほうもなく大きな技術的難問題があった。いうまでもなく、諮問委員会および私の務めたほかの委員会の第一の義務として、我々が有望と判断した新しい発展を報告せねばならず、また当該兵器または同種兵器が実際的でなく、実現不能ないし不可能と思われたときは、その旨報告をせねばならなかった。
 
かりに私の見解を支持するのが自分ひとりだけだったとしても、そのように報告するのは私の義務だったであろう。しかし、当然のことながら、このような事項についての我々の見解は、ほとんどいつも全会一致であつた。さらにまた、この仕事に責任をもってたずさわっている人々との討論において、私が最良と信ずる判断を発言するのは、私の当然の職責であった。
 
熱核兵器(水爆)の発展の全期間を通じて、我々としてその実現性について判断を下し、それを表明するのが必要とされた機会が、すくなからず起こった。大統領の決定以前もそうだったし、決定以後もそうであった。
 
一九四九年十月の報告書で、我々は貴信が述べているごとく、「想像力をもって協力して問題に取り組めば、五年以内に兵器を生産するチャンスは五分五分よりも多い」という見解を表明した。その後ロス・アラモスで行った計算や測定から、我々はもっと悲観的な見解をもつようになった。さらに後になっては、すばらしい発明によって、非常に有望な発展をみる可能性が生まれてきた。
 
それぞれの段階において、一般諮問委員会とその議長たる私は(ほかの機関のメンバーとしても)、うまくゆきそうもないことと、うまくゆきそうなことについて、我々の評価をできるだけ忠実に報告した。
 
一九五一年春、原子力委員会の熱核計画全体に関して徹底的な決定が要求される段階にまで、仕事は進捗した。原子力委員会と協議して、私は同年の晩春プリンストンに会議を召集し、この会議には原子力委員会の全員、その職員の一部、一般諮問委員会のメンバー、ブラッドベリー博士とロス・アラモス実験所の所員、ビース、テラー、バッチャー、フェルミ、フォン・ノイマン、ホイーラー、その他計画に関係ある責任者が出席した。会議は二、三日つづいたが、その結果として、意見の一致した一計画が生まれ、優先性が確定され、ロス・アラモスのためにも、原子力委員会の仕事のほかの面のためにも、努力されることになった。この計画は大きな成功であった。
 
一般諮問委員会についての仕事がつづいたほかに、私はほかの任務を引き受けるように求められた。
 
一九五〇年末か一九五一年はじめ、私は大統領から、国防動員本部および大統領に助言する科学諮問委員会に任命された。一九五二年には、国務長官から軍備およびその規則について助言する評議会に任命された。また私は、大陸防衛、民間防衛、地上戦闘を用語する原子兵器の使用に関する諮問員も務めた。
 
これらの職務の多くは報告書の作成を必要としたが、私はその作成にあたり、あるいはその作成に責任を負った。これらは私が過去八年間に政府に与えた助言の点で、一般諮問委員会の報告書を補充するものである。
 
この手紙で私が書いたのは、私の経歴のうち、一般訪問委員会で現在問題となっていることと関連あると思われた限られた部分だけである。経歴の全体のパースペクティブをできるだけ保持しようとして、私はほかの事項についてきわめて簡単に触れた。私の行動あるいは見解が、ソヴィエトないし共産主義の利益に、相反した事例については、簡単に触れるだけか、あるいは全然触れないようにするほかなかった。これらの行動は私の自由への忠実さを証明するものであり、あるいはアメリカの活力、影響力、支配力に寄与したものである。
 
この手紙を草しながら、私は二十年にわたる私の生涯を回顧した。私は行動が賢明でなかった事例も想起した。私の望んだのは、自分が完全に誤りを犯さないことではなくて、自分が誤りから学ぶことであった。私が学んだことは、私を祖国に仕えるに従来以上に適当にしたものと思う。