美の省察
絵画について
一
造形の本質 ーー 純粋 、 統一 、 真実 は、自然を服従させる。
虹は折れ曲がり、季節は震え上がり、群衆は死へ押し進み、科学はすでにあるものを分け離し、またふたたび築き上げる。全世界は、我々の理解から永久に消え失せる。我々の流れ動くイメージはそのイメージ自体を繰り返し、あるいはその 無意識 を取り戻す。我々の体験する色彩、臭気、物音は、我々自身を驚かせ、そうして自然から消え去っていくーーすべてがなんの目的もなく。
こうした怪物的な美は、永遠にはつづかない。
呼吸に始点も終点もないことはわかっている。それでも、世界の誕生と終焉は、我々の抱く最初の概念だ。
とはいえ、あまりに多くの画家たちが、いまだに植物と石と海と人を崇め立てている。
神秘の奴隷であることにすぐに慣れてしまう。そして、隷属はついには甘い安逸を生み出す。
職人には宇宙の支配が許されている。庭師でさえ、芸術家ほど自然に敬意を払わない。
我々が支配者になる時がきた。善意は勝利を保証しない。
死すべき愛のかたちが、永遠のかなたで踊っている。呪われしその秩序の名は「 自然 」の一語に約される。
炎は絵画の象徴だ。三つの造形の本質が、輝きながら燃え上がる。
炎には異物を許さぬ純粋がある。その手が触れる一切は、炎のなかで無慈悲に変えられる。
炎には魔術のごとき統一がある。それぞれ炎が分かれても、一つの炎のようである。
そして最後に炎には、おのれの光に宿される、気高く不動の真理がある。
現代の優れた西洋画家たちは、自然の力とは無関係に、その純粋を保っている。
純粋は、研究のあとの忘却だ。純粋な画家がたった一人死ぬためには、これまでの時代にいたすべての純粋な画家の存在をなかったことにしなければならない。
古き画家が新しき画家にまるで生命を授けるかのごとく引き継いでいった理想論によって、西欧の絵画は純粋になっている。
そう、それがすべてなのだ。
喜びを見出す画家もいれば、苦しみを見出す画家もいる。遺産を食い潰す画家もいれば、富を積み増す画家もいる。ただただ生命しかもたない画家もいる。
そう、それがすべてなのだ。
父の死体はどこでも持ち運べるものではない。ほかの死者とともに捨てていくのだ。ひとは父を思い出し、懐かしみ、褒め称える。あなたが父になったとき、こどもの一人が、自分の死体分の生活を繰り返してくれることを期待してはならない。
とはいえ、死者のいる大地から足を離そうとしても無駄である。
純粋の重視とは、本能を洗礼し、芸術を人間化し、個性を神格化することだ。
百合 の根と茎と花は、純粋がその象徴的な開花にいたる展開を示している。
物体はすべて等しく光のまえに立つ。物体の変化は光のまばゆい力によって定められ、その形成は光の意志によって決まりゆく。
我々は色彩すべてを知るわけではない。我々一人ひとりが新たな色彩をつくりだす。
さて、なによりも画家は、おのれの神性を熟視しなければならない。かれが人々の賞賛のために差し出す絵画は、かれ自身とおなじように、人々にも、その神性を駆動させる栄光をあたえるだろうーーそれがたとえ束の間であっても。
それを達成するためには、過去、現在、未来を 一瞥 でまとめあげなければならない。
キャンバスは、それしか 恍惚 を引き出せないような本質的な統一を表現すべきなのである。
そうしたら、束の間のものが、我々を捉えることはない。我々が急に 踵 を返すこともない。自由な観光客の我々は、好奇心のために命を犠牲にしようとはしない。外観なるものを持ち込もうとする塩の密輸業者たちは、われらが理性の税関に立つ塩の像を通り抜けることはできない。
未知なる未来には迷うまい。永遠から切断されたこの未来は、人を誘惑するよう定められた言葉にすぎないのだから。
あまりに儚き現在に、体力を浪費させてはならない。流行とは、芸術家にとって、死の仮面にすぎないのだから。
絵画は必然に存在する。ビジョンは完全無欠であり、その無限性は、なんらかの不完全ではなく、新たな被造物と新たな創造者の関係を端的に単純にあらわす。さもなくば、統一などは存在しない。統一がなければ、キャンバスの様々な点と多様な配置・物体・光とのむすびつきが、一切の調和を欠いた断片の寄せ集めにすぎないことが暴かれてしまう。
それぞれがおのれの創造者を証だて、お互いの空間を侵犯せずに共存できるような、無数にある創造物があるとしても、そうした創造物すべてを一挙に想像することはできない。創造物の併置と統一と愛から、死はもたらされる。
それぞれの神々は、おのれのイメージのなかで創造する。画家もおなじなのだ。ただ写真家だけが、自然の複製をつくりだす。
純粋も統一も、真実なしには価値がない。真実を現実と比較するのは不可能だ。真実はいつでも現実と同一で、自然界を超えて存在するのだから。自然界、それは、人間を単なる動物に落とし込もうとする宿命的な秩序に、我々を閉じ込めようとする。
芸術家とは 畢竟 、 非人間 にならんとする人間なのだ。
芸術家はもがきながらも非人間の痕跡を探し求めるが、自然のどこにもそんな痕跡は見つからない。
その痕跡は真実への手がかりだ。我々が知りえる現実は、それ以外にはありえない。
とはいえ、現実というものは、一度に一挙に発見されはしない。真実はいつだって新しい。
さもなければ、真実は、自然よりはるかに悲惨なシステムでしかない。
しかし、日ごとに遠ざかり、薄ぼけていき、現実味を失っていくような、あわれな真実は、絵画というものを、造形的な言語表現の 類 まで切り下げる。そんなものは、おなじような人々のコミュニケーションを円滑にするためだけにあるのだ。
いまの時代、そんな記号の複製機など、すぐにでも発見されるだろう。