素描
デッサンは芸術の誠実なるものである。
デッサンは色彩のほかすべてを了解する。それは表現であり、内在的形式であり、面であり、肉づけである。
線は同時にデッサンであり、またすべてである。
煙すら線によって表されなければならぬ。デッサンは全部である。それは芸術全部である。油絵の材料的手段は非常に容易なもので、ただ数日によっても学ぶことができる。しかも線によってのデッサンの研究によって人は作品の 権衡 をも、特性をも、すべての人間性の、すべての時代の智識をも、彼らの形式と彼らの外形をも、また作品の美を形づくる肉づけをも学ぶのである。
表現は芸術の本質である。そして親密に形式に結びつけられている。
正確なデッサン、不正確なデッサンというものはない。ただ美しいデッサン、醜いデッサンがあるばかりである。これよりほかにいうことはない。
美しい外形を得るには、一つの面の内面の細部を棄てて、ただ丸く肉づけしなければならない。
美しい形、それは丸みをもった正しい 面 である。
なぜに人が偉大な特性を得ることができないのかといえば、それは一つの大きな形の代わりに三つの小さな形を作るからである。
眼下に、心中に、汝が表さんとする人体を そっくり ありのままに、お入れなさい。筆技は己に得たる、また予想されたるその影像の 積み上げ にすぎないものである。
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健康な形を得なければならない。
よく素描されたものは、常によく作画せられる。
いまだかつて偉大なる素描家にして、自己のデッサンの特質に対し確然と結び合う色彩を見出すことのできなかった例はない。
色の多くの本質は主としてタブローのマッスすなわち影の全部のうちにある。
色すなわち芸術の獣的部分…………。
着色は作画の一つの装飾であり、その姉妹の化粧役である。アマチュアや鑑賞家をして芸術の完成の要件として受け入れさしめるのはすなわちこの着色であるから。
リュバン〔・ボージャン〕の前に立ったら馬のように 目かくし をつけてご覧なさい。
輪郭の影部においては、線に接して色をおいてはならない。線の上におかなければならない。影部の内の狭い反映、輪郭を長くする反映は歴史画の尊厳を汚すものである。
作画において、物体を浮き出させる性質すなわち多くの人々が作品の第一要件として見る性質は古今の最大色彩家たるティツィアーノが最も多くその注意を投じた目的の一つではなかった。卑しいアマチュアの群れが画面の一つの人体を見るときに、その人体の周囲がさながらに回転することができるようだということによって、最も満足を表すのと、ちょうど同じように、多くの低能な画家は作画の主要な技能をそこにおいている。
いま、人は斯く転ずることのできるのを望んでいる。しかし私はそうしたことをかなり軽蔑している。
人は仕上げを求めすぎる。
模写に時を空費してはいけない。名画によって単純な略画をお描きなさい。
熟練ということは、内心にはそれを軽んじつつ、しかもそれを得なければならない。しかしそれにもかかわらず、たとえ人がそれを十万円で買ったとしても一銭すら出すことはできない。
画室
かつて人は私のアトリエがちょうど一つの寺院であると言ったことがある。ほんとにそうだ。一つの寺院、善と美との信仰に捧げられた一つの聖堂でありたい。そこに入りまたそこから出るあらゆる人々、互いに結ばれ、また散ずる人々、いわば私のすべての追随者は、いずこにも、なんのときにもこの真理の伝道者であってほしい。
教義
〔ニコラ・〕プッサンすら、もし彼が一つの教義をも持っていなかったら、彼は決して斯くまで偉大ではなかった。
古大家たちはエチュードを残さなかった。
芸術
もし私が一人の子供をもっていたなら、私はその子がタブローを作るという以外にはむしろ画を描くことを知らないことを望んだはずだ。
芸術はただ美しいもののみを取らねばらなぬ。もし汝が醜い足を見ようとしたなら、そこには醜い材料のあることは私も知っている。しかし私は汝に言おう。私の見方をお取りなさい。汝はきっとそれを美しいと思うだろうと。
もし私が汝らを音楽家とすることができたら汝らはそこに画家としての価値を増すことができたろうに。今日多数の芸術家は構図を口にしている。しかももはやタブローの整正については望むものもない。偶然の自然、ただその自然のほかには、なにものも望むべきではない。そしてそれによって、色をお合わせなさい。マッスとしてお塗りなさい。私らの根本は、このほかにはない。
美しく汝を形づくるためには、ただ崇高をのみご覧なさい。泥土のなかをあさっている豚のように頭を地表に下げて歩く代わりに大空に挙げてお歩きなさい。
なんでもフランス風のタブローを描かなければならない。
古代
古代芸術の傑作は我々が今日パリにおいて眼下に見るようにモデルによってつくられたものである。ただ『真』によって『美』の隠密を見出さなければならない。
古人はすべてを見、すべてを解し、すべてを感じ、すべてを取り入れた。
古代の彫刻はただそれが美しい自然にちかづいているから美しいのである。そして自然はまた常に、それが美しい古代の彫像に近づいたときに美しいということができるだろう。
ギリシャ美術は、たとえば陶工のような、単純な工芸家の技術にすら、その優越を証している。美しい古瓶のただ一つのコンポジションにも、なお近代の画家を輝かすことができるであろう。
私は本当にギリシャ人だ。
古瓶の研究をなさい。私はただそれによってのみギリシャを知りはじめた。
これらの人たちを模写するなら、すくなくとも跪かねばならぬ。
私もまたそれが(ジョット風の人物を指して)あまりに尖った鼻と魚のような目とを持っていることを知っている。しかしラファエロすら決して斯くまでの表現に達することはできなかった。
ラファエロ、彼こそは一つの神、模することのできない、絶対の、犯しがたい実在、そしてプッサンは人間の最も完全なるもの。
汝みずからを生い育てなさい。汝が取りたいと思うすべてをお取りなさい。それは天来の糧である。それこそ汝を育み汝を強健にするでしょう。
この人たちはフィレンツェにいる。しかし私、私はローマにいる。お分かりでしょう。私はローマにいるのです。あの人たちはゴシックを学んでいる……しかしギリシャのほかにはありません。
自然
優れた自然は情人である。彼女は面と向かって求める人々には、何人にも全然融和する。しかも恥ずべき貧者によると、ただただ貪欲である。
ただ忠実に、ただ無知に、その眼下にあるものを服従的に模写することが必要だ。
芸術が最高の完成に達するのは、観者が自然そのものの 様 にまどうほど強く自然に近づくときをほかにしては決してはない。
つねにその多幸なる素朴、心を惹きつけるような無知を失わないようになさい。
『美』であるから『真』をお愛しなさい。
現代には非常に誤られているが理想的美という名は、ただ可見の美、自然の美を指すものにすぎない。
私があなたらにルーヴルに行く行くことを勧めるのは、そこに自然のうちにあるもの以外の理想美を発見するためであることをお信じなさい。多くの低級な時代に芸術の衰退を導いたのは、いずれもおなじ暗愚の仕業であった。私があなたらをルーヴルに送ろうとするのはただ古代芸術は自然そのままであるから、自然を見るために古代芸術を学ぶためである。かれらによって生きなければならぬ。それを食わねばならぬ。足は円柱のようにありたい。
モデルを棄ててお描きなさい。汝のモデルは決して汝が絵具に表そうとするところのものではない。またデッサンの特質をもったものでもなければ色でもない。しかし同時にそれなくしては何事もすることができないくらい大切なものである。これらのことをまずよく頭に染み込ませなければならない。汝がたとえ天才をもっているとしても、もし汝が自然からでなく、どこまでも汝のモデルにしたがって描くなら、汝はつねに奴隷にすぎないだろう。そしてその作品は服従を感じるだろう。これに反した例証はラファエロにおいて見ることができる。彼は自然によって支配される代わりに、彼はあくまで自然を制御し、彼の脳裏にあくまでよく自然を保有していた。実に自然そのものが彼に服従したのであるというべきだ。
プッサンは口癖のようにいった。画家が熟練を得るということは、むしろ、外の物象を観察するという点に成り立つので、決して自分で疲れ切るくらい筆を動かしたところで得られるものではないと。
線をお引きなさい。たくさんの線を、自然の記憶から、または自然を見ながら。汝がよき画家たらんとする道はここにある。
彼は『自然』と自分の芸術の尊厳とを、なんの故障もなく保有するように、絶えず貴重な努力を費やした。たとえば肖像画においてすら、形に 同質 を付与しつつ自己の思想を凝固しようとする欲求、すなわちともすれば逃れ去ろうとする顔面の細部を、主要な線の統一に導かしめるこの本能………が非常に著しく目につく。
解剖
解剖、なんという恐ろしい科学だろう。もし私が解剖を学ばなければならなかったなら、私は決して画家にはなれなかったろうに。