欧州旅行の帰途、モスクワで非常な歓迎を受けた近衛秀麿氏が、一月二十五日の第一回演奏会プログラムを送ってきた。
そのプログラムには、
「昨夜大盛況でした、今夜もう一度放送をして、レニングラードに立ちます。ショスタコーヴィチに会うつもりです。ベッケルにベルリンで紹介状をもらいました。
幼な友達だった由。(後略)……」
と大きな字で走り書きしてあった。
私はベッケルとショスタコーヴィチが幼な友達ということを、この近衛氏の通信によってはじめて知った。
ベッケルとは、先年日露交歓大演奏会のとき、レニングラードから来たあの人気者の若いセロ弾きのことである。(読者諸賢もいまだ記憶しておられることと思う)
彼はその後、ドイツに渡ってクレンゲル教授の下で研究を続け、非常に師に愛されその代稽古をつとめていると聞いていた。
もちろん、私はライプツィヒの彼からは一度手紙をもらったきりで、そのまま音信不通となっていた。
あのベッケルが今ベルリンにいて近衛氏とも会い、しかもソヴィエトにおける最も注目すべき作曲家ショスタコーヴィチと幼な友達であったとは愉快である。
近衛氏は、レニングラードでとうとうショスタコーヴィチには会えなかった、と日本に帰ってから語っていた。
だが、彼の作品中の有名な『鼻』の組曲その他を仕入れて来たから、日本でも近くショスタコーヴィチの作品の一部に接することができるわけである。
数日前、見慣れない大きな水色の封筒が私の家に投げこまれた。外国郵便の書留ではあるが、封筒が散々に破れて中味がはみ出している。
差出人はと見ると、珍らしやレニングラードのドミトリー・ショスタコーヴィチである。
私が彼に関する短い紹介をのせた「音楽世界」の新年号を送ったことに対して、非常に丁重な手紙と写真と彼の作品目録と作品の一部のスケッチとがその中に封じ込まれてあった。
この作品目録と作品の肉筆は私の希望に応じて送ってくれたものである。
手紙には大体次のような意味のことが書いてある。……
「前略。ーー
一月十日付の貴下の手紙に対して、返事が非常におくれたことをまず第一にお詫びしなければなりません。小生は当時しばらくの間レニングラードにいなかったものですから、本日はじめて御手紙を拝見してただちに返事を書くような次第です。(彼の手紙は二月十三日付である)
私は私の写真と私の作品目録をお送りすることに非常なよろこびを感じます。
ただし、あなたのソヴェート音楽に対する真面目な研究のなかに、私の小さい仕事をその材料としてお加えになろうとするあなたの希望に対しては、まことにお気の毒ながらあなたをご満足させるようなことは何もしていないとお答えするよりほか仕方がありません。なぜならば私はまだ若く、現在のソヴィエトの楽壇において大いに注目されるほどの重要な存在ではないからです。
あなたの知っておられるアレクサンダー・モジューヒンはいま外国に行っていてレニングラードにはおりません。
あなたの執筆された音楽雑誌をお送り下すって非常にありがとうございます」(後略)云々
この手紙によって見ると、ショスタコーヴィチが、ともすれば若い天才にありがちな不遜な人でなく、きわめて謙譲な非常に真面目な尊敬すべき芸術家であることがわかる。
それに手紙の字体なども非常に若々しくて、どこかまだ学生気分の抜けきらぬたどたどしさを示している。
そしてまだ人ずれのしない若いこの手紙の書主が、現在ソヴィエト第一の作曲家として世界中の楽壇の注目を集めている有名な作曲家であると思うと、まるで嘘のような気がする。
ショスタコーヴィチが送ってくれた作品目録によって見ると、彼の作品はいまやシンフォニー、室内楽、カンタータ、オペラ、バレエの各領域にわたって五十曲以上におよび、ことに昨秋初演された組曲「黄金時代」のごとき、また彼の傑作オペラ「鼻」から編曲された組曲「鼻」のごとき、実にすばらしい好評を博している。
また最近の彼は、単に楽壇のみならず、トーキーの領域にまで進出してその天才的な手腕をふるっている。
名監督エイゼンシュインやプドフキンやヴェルトフを生み出したことによって過去の映画界(すなわち無音映画)に対する最高の境地を獲得したソヴィエト映画は、さらにターゲルとショーリンの二つのシステムによる音画撮影法の創案と、エイゼンシュタイン、プドフキン、アレクサンドロフ等の音声映画芸術に対する新しい美学と理論の建設とによって、世界の音声映画芸術完成への終局的な境地を展開しようとしている。
このソヴィエト音画界における最初の芸術的長篇として、ソユーズキノ・レニングラード音画製作所では昨年音画『一人』の製作に着手した。この最初の芸術音画の作曲は、ドミトリー・ショスタコーヴィチに依嘱された。
ショスタコーヴィチはすでにこの『一人』のための音楽を完成し、「音画『一人』のための音楽」として、今度送ってきた作品目録のなかに加えられてある。
音画『一人』の監督はグリゴーリ・コージンツェフ、エル・トラウベルグ、録音監督エル・アルンシュタム、主演のクウズミナ嬢(女教師の後)で、この音画の最も著しい特徴とするところは、アメリカ流のシンクロニゼーションを最高の目標としたものとまったく異なり、音声と画面とは常に相衝突する最も新しい映像と普象のモンタージュ理論が、見事に実践されている点である。
最後に、ショスタコーヴィチの作品目録であるが、これは紙片に細字で丹念にショスタコーヴィチ自ら書いたものであるが、いまこの原稿を書きながら訳そうとして探してみるとどうしても見当たらない。これは私があまり大切にしまい込みすぎたためであろうと思うが、失っては大変だから、これから探し出すつもりである。今度の締切りには間に合わないから、どうか次号までお待ちを願いたい。
もし作品目録の紹介ができないとすると、この一文は私一個の「私事」を中心としたようなまことにつまらないものになってしまうが、実は新年号に書いたショスタコーヴィチの紹介に対して、熱心な研究家や読者の方から色々と問い合わせの手紙をいただいている。その大部分は「正確な作品目録を」という注文であった。
それらの諸君に対する報告のつもりで書いたこの一文に、また作品目録を間に合わせることのできなかったことをここでお詫びしておく。
本号では、写真と作品のスケッチだけを発表する。スケッチは有名なオペラ「鼻」の第四幕と第五幕の間で奏される間奏楽部の一部であると、ショスタコーヴィチ自ら楽譜の下部に付記している。ーー(三月八日)ーー