私どもの時代の音楽は決定的に無調的なものに 嚮動 する。しかしながら調的原則が無調的原則の絶対的反対として把握されるのは、正しくないようにみえる。後者はむしろ調的なものから漸次的に成立した発展の結果であって、全然徐々に起こり、そうしてなんらの間隙をまたは暴力的な跳躍を証示しない。
シェーンベルクは彼の『和声学』において、ソナタ・形式の『展開部』がある意味において無調的なものの核心として把握されるべきことをいっている。これはこう理解されるべきである。『展開部』は二つの調の(『呈示部』におけるように)または一つの(『再現部』における)排他的優越を除去して、それの代わりにそれは種々な調のある程度まで自由に選ばれた相互連続を置く。その中の各々の個々のものは——たとえそれがなお非常に経過的であるにしても——常に正しくなお調として感得される。換言すれば、『展開部』において十二の調の一種の同格化は支配するのである。……
……ベートーヴェン後の時代(ワーグナー、リスト)における変化和弦の集積、それから普通にとにかくなお調的に効果する和弦の上の変換音と経過音とのますます自由な使用(シュトラウス、ドビュッシー)は、調的なものから無調的なものへの二つの重要な過渡・階梯である。すでにシュトラウスにあって、なおより多くしかしシュトラウス後の音楽にあって、人は調的特性の作品において、調力がすでに決定的に廃棄されている個々の声部(たとえば、『英雄の生涯』からの『反抗者』)を見出す。無調的なものへの最後の前の進行を示すのは、それの調的出発点とそれのまさにそこに終末(それをもってその作品は——古い規範によれば——一性的効果を志し、確固な枠を創作しようと欲する)を除いて、無調的に効果する作品である。
しかし無調的なものへの決定的な転向が始まったのはまず——ここに示された準備相の後に——人が、私どもの十二音体系の個々の十二音の同格化の必要性を感得し始めた時に、すなわち人が十二の音を一定な音階・体系に従って個々の音により大きいまたは小さい重さを付与するのでなくして、個々の音を各々の任意な、音階・体系に帰導されない、水平的なならびに垂直的な合成において使用することを試用した時にである。この処理にあって確かにある音は合成においてまさに相対的過重を得る。しかし重さにおけるこの差異性はもはやこのまたはあの音階・型式に基づかなくて、その時々の合成の結果である。同様にそれの個々の肢分は合成の群において相対的に相互に異なる価値と異なる強度とを有する。表出可能性は個々の十二の音の自由にして同等な取り扱いによってかつて見られなかったほどに大きい程度に増大される。