MUSIC

音楽をめぐる断章

クロード・ドビュッシー

小松耕輔訳|柿沼太郎訳|ARCHIVE編集部編

Published in From the Life of Debussy|Archived in May 13th, 2024

Image: Claude Monet, “Water Lilies”, 1906.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ポール・ランドルミー『音楽史』(『西洋音楽史』)および小松耕輔著『現代音楽の奔流』、『ドビュッシー』に収められたクロード・ドビュッシー自身による全断章を、ARCHIVE編集部が採集・編集し、収録したものである。
旧字・旧仮名遣い・旧語は現代的な表記・表現に改め、脱字を直した。
「抒情的散文」に付された詩の全文および訳文は、たとえば「詩と音楽」(URL)を参照のこと。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
傍点による強調は、太字に変えた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:クロード・ドビュッシー(1862 - 1918)訳者:柿沼太郎訳者:小松耕輔編者:ARCHIVE編集部
題名:音楽をめぐる断章
出典:『西洋音楽史』(十字屋樂器店。1926年。631、635、646ページ。なお、採集は原文のみ:『音楽史 下』(音楽之友社。1926年。179、180、182、189ページ)出典:『現代音楽の奔流』(春秋社。1930年。219-227ページ)出典:『ドビュッシー』(共益商社書店。1938年。64、75-76、77、78、83、100、106-107、112-113、116、118-119、119-120、122、142、152、195ページ)

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自己について
 
ドビュッシー派などというものはない。私には弟子なんかいない。私は私だ……。人間のすることなんか当てにならないものだ。ある人々は私の陰鬱な北国人的性質を誉めるが、ほかの人々は私の南部のプロヴァンスの代表者だと考えている! ところが私は単に、パリから半時間で行けるサン・ジェルマン生まれでしかないのだ……。〔1910年。ウィーンを旅行中に新聞記者に向かって〕
 

 
もちろんこの病気は、十分仕事をした後にやってきます。ああ! 友よ、私はそのために泣かされました! それだけでさえ恐ろしいのに、四ヶ月もの間のモルヒネ注射です。それは人間をまるで歩き回る死骸のようにし、あらゆる意志を喪失させてしまいます。右へ行こうとすれば左へ行ってしまいます。そんな風な馬鹿げたことはいくらでもあるのです。もし私の苦しさを詳しくお話ししたら、あなたはきっと泣き出すでしょうし、ハルトマン夫人は狂人みたいになるでしょう……。あなたの待ち兼ねていられるヴァイオリンとピアノのための奏鳴曲を、私はどうしても書くつもりでいます……。しかしいまでは私は、いつ自分が元気を回復することができるか、てんで分からないのです。自分がいままで音楽なんか全然知らなかったように思えるときがよくあります。〔1915年半ば、ヴァイオリニスト、アルチュール・ハルトマン宛の手紙。年末に手術を控えた時期〕
 

 
もはや作曲をしないクロード・ドビュッシーは、なんらの存在理由も持っていない。私には道楽というものはない。私が教わったのはただ音楽だけである……。たくさん作曲するということでもない限り、それは堪えられないことだ。だが空虚な音を出す頭を叩くことは、とても不親切なことだ!〔1916年6月8日、悪化する体調について〕
 

 
十分仕事ができるといえるほど良くなってはいませんが、しかし私はどこかよそへ行って仕事に取り掛かり、もうあまり横暴すぎる病気の命令にはしたがうまいと決心しました! まあ見ていてください。もし私が近いうちに死ななければならないとしても、少なくとも私は自分が自分の義務を果たすべく努力することを望むのです。〔1916年7月3日〕
 

 
朝の身ずまいが、ヘルキュールの十二倍もの仕事のように思える……。そして私はなぜということもなしに、私にそうする苦労をはぶいてくれるような、革命か地震を待っている。くだらない厭世主義でいうのではないが、病気と自分自身に対して戦わねばならない私の生活は、実に苦しい生活である……。〔1917年7月〕

(小松耕輔訳)

自作について
 
牧神の午後の前奏曲(1892〜1894年)
この「前奏曲」の音楽は、ステファヌ・マラルメの立派な詩のきわめて自由な解釈である。それは詩の総合であることを毫も主張しない。むしろそれは連続的な舞台装置であって、それらを通して牧神のさまざまの欲望と夢は、午後の暑さのなかで動きひしめくのである。やがて恐れ慄いて逃げ迷う水の精たちの追跡に疲れた彼は、昏々たる深い眠りに落ちて、ついに実現されたさまざまの夢を夢み、大自然をまったく自分のものにしたと思うのである。
 

 
夜想曲(1897〜1899年)
「夜想曲」という標題は、ここではより一般的な、わけてもより装飾的な意味を持っている。夜想曲の普通の形式が問題なのではなく、この言葉に含まれている特殊な印象や光が問題なのである。「雲」は不動の空を行く雲の緩い憂鬱な流れである。それは柔らかな白にぼかされた灰色の苦悶に終わる。「祭り」は運動であり、光閃々たる雰囲気の踊るリズムである。またそれは祭りのなかを通って、そのなかに溶け込んでしまう行列(目も眩い不思議な眺め)のエピソードである……。「人魚」は海とその数限りないリズムであり、やがて月の銀色の波のなかに、人魚たちの不思議な歌が聞こえ、笑いさざめき、消えていく。
 

 
ペレアスとメリザンド(1902年)
その夢見るような雰囲気にもかかわらず、いわゆる人生記録なるものよりも、はるかに多く人間的なものを持っている「ペレアス」劇こそは、私の希望するところと美事に合致するもののように思われた。そこには余韻の多い言葉がある。敏感な人々はその余韻を、音楽およびオーケストラ的装飾のなかに発見することができる。私はまた、劇音楽に関する場合、人々が奇妙にも忘れているように思う一つの美の法則にしたがうことを努めた。すなわちこの劇の登場人物は、自然人のように歌うべく努力して、多年の伝統から生まれた勝手な言葉は使わないのである。
 

 
ペレアスとメリザンドの原作者メーテルリンクについて
僕はガン〔ベルギーのヘントのフランス読み〕でメーテルリンクに会って、一日を彼と一緒に送った。最初彼は未来の夫を紹介される若い娘のような態度だったが、やがて打ち解けて、大変シャルマンになった。劇については、真実優れた人のように語ってくれた。「ペレアス」については、構成についての全部の自由を僕に許してくれ、大変重要な、そして大変有益である注意をさえしてくれた! ところで音楽の問題になると、彼は何一つ分からぬそうで、ベートーヴェンの交響曲を聞いても、盲人が博物館へ行ったと同様だと語った。しかし本当は彼は大変立派な人で、自分の美しい単純な魂で発見したさまざまの異常な事柄を話してくれた。「ペレアス」を任せてくれたことを僕がお礼をいうと、彼は自分こそこれを作曲のために選んでくれたことに対して、厚く礼をいわなければならないといった。ところが僕の意見は全然反対だったので、僕は柄にもない外交辞令をできるだけ使用せねばならなかった……〔エルネスト・ショーソン宛の手紙〕
 

 
映像:第一部(1905年)
別に空威張りをするわけではなく、私はこの三つの曲がピアノの文字……(シュヴィヤールのいうような)のなかでは、シェーマンの左、もしくはショパンの右……どちらでもご都合のいいように……に立ち、座席を占めるであろうことを信じています。〔1905年9月の出版社宛の手紙〕
 

 
映像:第二部「イベリア」(1907年)
この作品について色々の挿話を私に尋ねることは無駄である。これには物語はなく、私はただ音楽に対してのみ、一般の想像を維持することを期待するだけである。
 

 
白と黒(1915年)
すでに行われた諸々の残虐〔第一次世界大戦〕のことを考えるだけで、自分の力に応じて、敵がそれの破壊に熱中している美の幾分を構成することによって、それらに反抗しようと努力しないのは、要するに卑怯なことであり、跋者の数を増すだけにすぎないことだということが、私には分かりました。〔ロベール・ゴデ宛の手紙〕
 
一年この方私の覚えなかった〔大戦中ドビュッシーは作曲を止めていた〕、音楽的に考えるという可能性およびいわば権利を、ついに、ついに私は再び見出しました。私が作曲するというのは、確かに不可欠なことではありません。しかし良かれ悪しかれ、私はそうせずにはいられないのです……。そこで私は書きました。まるで狂人のようになって。あるいは次の朝死なねばならない人のように。〔ロベール・ゴデ宛の手紙〕
 

 
十二の練習曲(1915年)
ピアニストたる資格を持つ人の取り扱うべき、種々様々な方法を含んでいます……。つねに大変興味ある者ではありませんが、しかしところどころは大変巧みだということができます。
〔1916年7月、アンドレ・カプレ宛の文面〕

(小松耕輔訳)

音楽について

 

〔自分の音楽的理想について〕全然動機を持たないか、ないしは何物によっても中断されず、また決して反復されることのない、唯一の連続的動機をもって形成されている音楽……。展開というものは、もはやそのような物質的拡大でも、色々の立派な教訓で鍛え上げられた専門家の修辞学でもなくなるだろう。そしてより普遍的な、つまり精神的な意味で理解されるようになるだろう。

 
 

我々によって朗らかな無頓着さをもって受け入れられていた我々の思想や我々の形式に対する重苦しい差し押さえ……それこそはなかなかに贖い難い、許すべからざる重大な過失である。なぜならそれはあたかも毒血のように我々の裡に流れているのだから。……フランス音楽は一体どこにあるか? おびただしい真の音楽をその裡に持っていた、我らの老クラブシニストたちはどこにいるか? 我々がまるで恩知らずな子供のように否定するところの、深い雅美と落ち着いた感動との秘密を、その人々は知っていたのだ……。我々の自由、我々の形式を再び見出そう。それらは大多数のために発明されたものであるから、我々がそれを保持するのは正しいのだ。それらより以上に美しいものはない……。〔第一次世界大戦中の言葉〕

 
 

私はずっと以前から劇音楽を書きたいと思っていたが、しかし私がその場合に使用したいと思った形式を断念してしまった。それまで純粋音楽で色々研究した結果、私は古典的展開というものを嫌悪するようになっていた。その美は全然技巧的なものであって、独り我々の階級の 大官 マンダリン に興味を覚えしめるにすぎないものだったからである。私は音楽に、ほかのどんな芸術よりも以上の自由を求めた。音楽は自然の多少とも正確な再現だけに満足すべきではなく、「自然」と「空想」とのあいだの神秘なる照応を実現するものでなければならなかった。

 
 

私は音楽を忘れようと努める。そのわけは、私の知らない、あるいは明日知るであろう言葉を聴くに当たって、それが私の邪魔をするからである……自分が知りすぎるくらい知っているもののために、なぜ囚われる必要があろうか?

 
 

私はあまりに深く音楽を愛しているために、熱情をこめてでなければそれについて語ることができない。最も激烈な議論家をも振り向かせるほど、公平であるための最上の理由に香気を放たしめるところの、あのほんのすこしばかりの決心を避けることさえ私にはできるだろうか? 私はあえてできると信ずることはできない。芸術の熱愛者はどうにもならない恋人であるからだ。また一方において、音楽がどれほど女性であるかということは、我々は決して知り得ないであろう。そしてそのことは、天才者にしばしば見るところの貞潔さをおそらく説明するものである。

(小松耕輔訳)

ワーグナーについて

 

ワーグナーは音楽を荒れた危険な道のなかへ迷い込ませる……。彼はベートーヴェンの後継者だがベートーヴェンの展開法たるや、結局同一動機の繰り返しであり、絶え間ない反復であるにすぎない……。ワーグナーはこうした動機を、馬鹿馬鹿しいほど誇張したのだ。僕はライト・モティーフが大嫌いだ。

 
 

幾年間かバイロイトを熱心に巡礼したあと、やがて私は、ワーグナー的公式に疑惑を持つにいたった。あるいはむしろ、それはワーグナーという天才の特殊な場合にのみ役立ちうるにすぎないように考えられた。ワーグナーは多くの公式の偉大なる蒐集者であって、それらの公式をもってただ一つの公式をつくりあげたのである。人々が音楽をよく知らなかったために、それは独自なものと見えたのである。けれどももちろん彼の天才は否定しえず、我々は、彼をもって、当時の音楽に一つの終点を画した者ということができる。ちょうどヴィクトル・ユーゴーが彼以前のあらゆる詩の総合者であったように。したがって我々は「 ワーグナーによって ダブレ・ワーグナー 」ではなくして、「 ワーグナーの後から アプレ・ワーグナー 」探求しなければならないのだ。

(小松耕輔訳)

自然と田舎について
 
私は秋の風物で満ちている田舎でグズグズと時を過ごした。古い森の妖術にかけられて、どうしても去るに忍びなかったのである。樹々の光栄ある苦悶を頌讃する金色の落葉から、眠るように田野に命じている殷々たるアンジェラスから、まったくの忘却を勧める優しい、強いるような声が聞こえてきた。太陽は一人ぼっちで沈んでいったが、石版画の前景によく描き出されているような姿勢をとろうなんかと考えた百姓は一人もいなかった。動物も人間も、人の知らない仕事をし終えて、平和に帰っていった。その仕事の美は、それが鼓舞することもなければ反対することもないという、特殊な点に存在しているのだった……。
 

 
大家連の名前がしばしば「 大きな言葉 グロ・モオ 」の姿で現れる芸術上の論争も遠かった。「 第一人者 プルミエール 」の技巧的な、邪悪な熱も忘られていた。私はたった一人で、心ゆくまで虚心坦懐であった。おそらく私は、誰もそれについて語るもののなかったこの時ほど音楽を愛したことは一度もなかったと思う。過度に熱され、窮屈にされた音響的、または抒情的小断片によってではなしに、まったき美をもってそれは私の前に現れた。
 

 
私はこの静けき歓喜を振り捨てて、市外へ戻らねばならなかった。無数の人々を、彼らもまたその悲しむべき無意識の機関である「運動」の一部とならないでいるよりも、むしろそのなかで搗き砕かれることを好んでいるところの、都市への深い愛情に駆られたためである。

(小松耕輔訳)

音楽批評家について
 
〔批評家ーー〕音楽については全然無知であるところのはなはだ尊敬すべき人々。
 

 
子供の頃、からくり人形の腹を立ち割ることを禁ぜられたことを、大人はほとんど忘れてしまっている。……(訳注:それはすでに神秘を冒涜する罪なのである。)彼らは相も変わらず、その美学の鼻を、なんの役に立たないところへ突っ込もうとしているのである。もうからくり人形の腹を割くようなことはしないとしても、彼らは神秘を説明し、分解し、平気で殺してしまう。そのほうがずっと便利であり、そうすればおしゃべりをすることができるからである。ある者はその周知の難解な文章の放に許されている。また別なもっと恐るべき人々は、そうした文章を書くことをあらかじめ考えておく。大切な凡庸さを十分守らねばならないからだ……この後者は、忠実な顧客を持っている。
 

 
あの有名な中毒患者のトーマス・ド・クインシーがいっているように、〔批評家は〕芸術の一つの謀殺犯だといってもいいであろう
 

 
神々と音楽よ、幸にして我を許せ。されど私の意見は少しも変わってはいないのである。『ジル・ブラ』が光栄にも私に委ねてくれたこの欄において、私がこれから書いていこうと思うのは、美学のために制されることのない、完全に近いところの印象批評である。
 

 
印象 インプレッション 」という言葉を甘受せられんことを私は人々に希望したい。この言葉を私は、あらゆる冗長な美学から、自己の感動を護る自由を私に与えるものと見做している。
 

 
ある芸術作品の美は、いつまでも神秘的なものであるということ、換言すれば、どうしてそれが造り出されたかということを正確に検証することは永久に不可能であるということ、を私は主張したい。音楽に特殊なこの魔術をば、何物に代えても維持しようではないか。その本質上、音楽は他のどんな芸術にも増して、それを容れるに鋭敏である。パンの神がシリンクスの七つの管を集めた時、彼はまず、月光を仰いで嘆いている蛍のメランコリックな長い音符を模倣したのであった。その後彼は小鳥の歌と争った。小鳥たちがその 目録 レペルトアル を豊富にしたのは、おそらくこの時からなのである。これこそ十分に神聖なる根源なのであって、そのために音楽は誇りを持つことができ、神秘の一部を保持することができるのである……あらゆる神々の名にかけて、その神秘を説明することも、それを払いのけることも、ともに慎もうではないか。
 

 
批評家たちがどんな調子で音楽のことを話すか、まあ聞いてみるがいい! 彼らが音楽に対して愛情をもっていないということは、すぐに分かってしまうのである! 彼らはいつでもこの不幸な女に対して、漠とした遺恨を、根強い古い憎悪を満足させているようにみえる。こうした感情は我々の時代にばかり特別なのではない。いつの時代にも、美はある種の人々によって、秘密の侮辱として感ぜられた。その人々は、自分たちを陵辱するところの理想を引き下げることによって、それに復讐したいという要求を、本能的に感ずるのである。彼の文学を愛していたサント・ブーヴのあるいはまた非凡な芸術家であったと同時にユニークな理解力を持っていた批評家ボードレールの正当なる峻厳さは、かかる憎悪にあふれた魂の状態からははるかに遠いのである。

(小松耕輔訳)

抒情的散文(1894年)[抜粋]
 
La nuit a des douceurs de femme, Et les vieux arbres, sous la lune d'or, Songent.
 
夜は婦人のしとやかさをもち、老樹は金色の月下に夢む

(柿沼太郎訳)

第一次世界大戦の戦士を思って
 
人々よ、私を許していただきたい。勝利を得るにもさまざまな道のあることを認めていただきたい。音楽もその一つの道です。感嘆すべきまた多産な道です。

(柿沼太郎訳)

マラルメ邸での集会「火曜会」で残した言葉
 
Rien de plus cher que là chanson grise, Où I’indecis au précis se joint.
灰色の唄より懐かしきはなし、
朦ろと明確とはそこに融和すればなり。
 
Le rêveaurêre, et la flute au cor!
夢に夢を、またホルンにオーボーを!

(柿沼太郎訳)