POETRY

双賽一擲

ステファヌ・マラルメ

田邊元訳

Published in 1897|Archived in May 17th, 2024

Image: Tanabe Hajime, “Manuscript of Mallarmé Memorandum”, circa 1960.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

原文ママ。
本稿は、田邊元「マラルメ覚書」所収のステファヌ・マラルメ「Un coup de dès jamais n’abolira le hasard」(「賽の一振り」、「骰子一擲」などとも)の訳出の全文を、訳者補注も含めて収録したものである。
なお①旧字・旧仮名遣いは新字・新仮名遣いに直し②「(訳者)あとがき」は田邊元の文章(口述筆記)のみ記して唐木順三の文章は割愛した。
用語の不統一(ex. あいだ・間)は原文ママ。

BIBLIOGRAPHY

著者:ステファヌ・マラルメ(1842 - 1898)訳者:田邊元
題名:双賽一擲原邦題:「十二 『双賽一擲』試譯附註」原題:Un coup de dès jamais n’abolira le hasard
初出:1897年
出典:『田邊元全集 第十三巻』(筑摩書房。1964年。297-304ページ)

FOLLOW US|REFERENCE / INTERACTION

XINSTAGRAMLINKTREE

1 「双賽一擲」(表題)
 
2 「双賽一擲」決して偶然を廃棄することがない。たとえその一擲、難破の水底から上方へ、また天上から下方へ、水天髣髴相混融し時空を超えるところの永遠の環境へと、投ぜられるにしても。
 
3 すなわち、天日によって白く光る深淵が、逆巻く波に揺られながら静かに湛える所、天上の黒雲に圧せられて絶望的に平らとなった帆の傾きの下に、飛行を整備せんとするも、あらかじめ失敗に終わるものと定められ、水しぶきをかぶり、水面すれすれに浪がしらを切るその帆に、深淵は全く心の内部において、自然と交代する想像の帆を置き換え、よって以て、深海へ逃れ去りたる船影を呼び戻す。遂に想像の帆は全面的に実物の大きさとなり、左また右の舷側に傾く船の船体に、口を開く深海をそっくり対当せしめるのである。
 
4 この空無に近き環境の内に現れ出でたる主人公(いわばイジチュールの青春からすでに老年に達したる)船長は、船の操縦を年と共に忘れ昔の計測を棄てて、かつては自ら舵機を握り、火焔にも似たかかる海波の動乱を足下に見ろせるにもかかわらず、今は水と天とを一つにつなぐ一様の全水平線にわたり、あたかも(即自的直接必然の) 運命 デスタン と、(その方向を示す)吹く風とを威圧して、唯一のぬききしならぬ(対自的に自覚されたる運命としての) 命運 ノンブル が、自ら運命を握りしめる拳に、調整せられ競い合わされ混和せらるることを推測する。(訳者注、運命の必然は、かくて絶対化せられたる自覚的運命によって否定せられ、自己の命運に由来する自性と、祖先伝来の運命的必然なる素性とが、互いに相均衡するごとくになる。)
 
(訳者補注、右に私が、運命と命運という相反的訳語によって区別し対立せしめた、直接必然なる祖先伝来の宿命 destin あるいは運命と、それを自覚することにより否定転換せられて自性の偶然ないし自由と媒介せられたる命数 nombre あるいは命運との、絶対否定的統一均衡は、まさに『イジチュール』の分裂と『双賽一擲』の統一との、弁証法的関係に相当する、マラルメ詩想の核心をなすものである。アウグスティヌスの時間論批判以来スピノジスムの解説にいたるまで、私の全解釈を貫通する中心思想もこれにほかならない。)
 
 船長は環境の物的身的制約を脱して永遠の霊的精神に化せるものとしては、命運を 暴風 あらし にまかせ、自ら醸した分裂を復原統一して(自己を祖先に協同化し)、誇らしげに死に往くべきはずであるのに、なおも彼は躊躇し、本来ならば、白髪の祖先の狂気に従って「時」の流れに押し流されるという役割を演ずるよりも、むしろ自己の保つ(転換救済の)秘義に身をまかすことこそしかるべきであるのに、その秘密から自己を遠ざけて死に留まらんとする。その結果、大波の一つは船長を襲いその鬚を水にひた して流れ去るのである。これぞまさに、いずこにおいてであれ船を失ったうつろな人間の、難破にほかならない。(船とはそれと同語異義なる教会本堂の原意からして、宗教的信仰を象徴するわけである、訳者補注。)
 
5 しかし船長はなお伝統の支配を受けて、海に溺らされ無用に帰せる頭脳を超えそれを無観して、痙攣する手を開くことなく賽を握ったままで浪に漂うことに、みずからためらい躊躇もする。手とは老人が死に際し父祖の伝統に従うか従わぬかの二義ん間に動揺する子の誰でもへ、みずから残すところの遺産の謂である。かくて個人の身心的制約を脱せしめ遠き未来の運命としてはたらく魔力が、どこからともなく老人を誘って「偶然」の見込みにのっぴきならず出会わせ、追懐即予想の混融において彼に子の面影を暗示する。(これはあたかも、過去対未来、老父対幼兒の、同種と異別と相即する四元的二重の二律背反的弁証論というべきものであろう、訳者註。)その子の面影たるや、老人の心に愛撫せられ研磨せられ回復せられ洗い清められつつ、浪に和げられて、難破船の板のあいだに見失われたる堅き骨から引き離され、勝手にはね回る跳躍の中より産まれ出でたるものである。大海は父祖を介して、あるいは父祖は大海に抗して、あだ なる機会を試みる。そのわけは、子というものは、ただ賽の目のいたずらなる偶発的機会に過ぎないからである。またそれにかかずらう船長のためらいは、約婚の間柄にも比せられるであろう。けだし、いいなづけの 面紗 ヴォアル (帆と同音)は真実を蔽う幻影であって、その動きは父祖と大海との互いのつきまといをはね飛ばすこと、将来的動作身振りのまぼろしが、よろめき倒れ狂うにも似ている。しかし双賽一擲、決して偶然を廃棄することはないのである。
 
6 その様はあたかも、面紗はおとされかいな はおろされて命運のあら わにせらるること、船長の波浪に身をまかす自己否定の反語に捲き込まれたる、沈黙へのほのめかしにも似ている。けだし必然即偶然の相入統一たる決断は、複雑なる現実の単純化なるに由る。あるいはまた、秘義を積極的に(詩として)投下し、わめきたてて、なんらか歓喜と恐怖の渦巻きの近きにあるのに跳び込み、淵のまわりを水を散らさず逃げもせでとびまわるにも比せられるであろう。そのとき淵には無垢の白羽が揺れ動く。これが命運の現出にほかならない。
 
7 これを譬うれば、孤独の物狂おしき羽毛は、ただ夜半の 縁無 ふちな し帽に出会われ、触れられ(それにとりつけられ)、暗鬱な哄笑を蔽うためにしわ くちゃになったビロードでもって、その硬直した高慢な白さを固定せらるるがごとくである。その高慢さは、滑稽にも天に反抗すること甚だしきが故に、僅かにといえどもそれを身に着ける誰でもを、人目に立たせずには措かない。人生の暗礁の危険を悲しむハムレット王子が、それを身に着けて英雄の姿をよそお えば、理想の自覚は抵抗しがたくとも、しかしこれは彼の成人に宿る小さき人間的理性の爆発に抑えられ、相対縁起の運命必然に対立して、自己の罪滅ぼしを願う青春の沈黙せる笑を含むところの、偶然性起の、交互相関的なる平衡が指向せられるのみであろう。(それが詩人の非個人的個性の所期にほかならぬ、訳者補注。)
 
8 近代の詩人はかかる人間的理性を解放して理想へまでもそれを推し広げ、これによって偶然を支配し世界を必然化せんとするのである。静明にして王者のごとくにまばゆき羽飾りは、今や帽子に隠れて見えぬひたい に個性を没し、きらめきまたかげりつつ、人魚の年若き姿体を黒く現わし暗示する。水から出て直立し、また身を隠さんと体をねじ る人魚は、 きが割れた尾のいらだつ鱗もて、その瞬間岩を 平手打 ひらてう ちして立つ。岩とは人を欺く虚偽の遺産(荘園邸宅)を謂う。それは個人的自由の「無限」に対し限界を課しそれを束縛するも、直ちに霧の中へと消散するものである。
 
9 これが自覚的命運であった。それは自己の自由に属すると同時に、星宿交会の結果にほかならぬ。
(訳者補注、この矛盾の難関を脱するは、ただ自ら進んで自己を否定する決死の覚悟ばかりである。昔プラトンは『国家篇』の末尾に有名なエルの神話を引き、人間存在(魂)の正不正が決して単に運命の必然にのみ由来するものでなく、必然なると同時に却って自己の自由選択に属するものであるから、それに対する応報の免るべからざることを説いたが、この運命と自由との統一問題こそ、まさにマラルメ半生の難問であったのである。彼がこの問題を解くに当たり「時」の構造に訴えたことに対しても、プラトンはすでに先蹤を与えている。ただ輪生転生を信じたギリシャ人としてのプラトンにおける、時間様態と存在様態との対応は、私がアウグスティヌスに従って解釈したごとき現在の自覚を中心とするものではなくして、永遠の代表たる過去本位のものであった。しかしとにかく、マラルメの偶然思想の核心は、プラトン以来の運命と自由との統一の問題に存したこと明白であって、彼は苦心の末、進んで偶然の媒介を積極的に決死の自覚において認めることにより、神話的なる『国家篇』時代のプラトンを凌駕する解決を弁証法的に与え得たこと、全く嘆称に値するといわればならぬ。)
 
 そもそも命運とは、次の仮定を除いて果たして実在するものであろうか。それは苦悩の散らばった幻覚、始まりは終わり、出現に際し迸出しつつ同時に排去せられ、隠蔽せられるもの、ではないか。最後には、いくばくか豊富に注がれるごとく見ゆるものも、算うれば希薄に帰するもの(多も少も区別なき平等)なのではないか。しかしこれぞ総計のいかに小なりとも、なお命運のそこに耀き出ずる証しにほかなるまい。(スピノザの「限りの神」を思え、訳者注。)従って、命運は、劣りて劣らず、優っても無差別で平等に、偶然たることを失わないのである。かくて命運がいかように現わるるとも、それを出現せしむる投賽の決断行為には、偶然が含まれ存続するではないか。(たとい主人公の宿命を制約する祖先の行為にまで遡るとも、依然として偶然はそれに含まれるのであるから、所詮歴史の始源は偶然にあり、偶然は無限にして絶対であるというべきであろう、訳者注。)羽毛の象徴する主人公のためらいは、(初めに、双賽を握りしめる拳に、次に約婚の 間柄 あいだがら に、そして最後に深淵のまわりを飛びまわる羽毛によりて喩示され)、暴風の激動する未決定のままに続いて、遂に羽毛が波間に墜ちると共に、主人公も海中に陥り原始の泡沫に沈み去る。さきがた羽毛の逆上がそこから飛び揚がって達したる頂上には、渦巻きの揺動が一様の中和に力衰えて、虚無に落つるあるのみである。
 
10 今や、いかなる人間的価値も無い結果ばかりを目懸けて、成就せられたかのような試みをほかにしては、記憶すべき動乱から何も生起したものはないのである。生起した現実といえば、ただ虚無あるのみ。(訳者注、天と地、自然と人間は、交互に否定し合って、残す所は虚無不在のみである。これが詩の帰趣にほかならぬ。)眼に見える普通の高さから注がれて眼に入るものはただ虚無不在、すなわち死のほかにはなく、 下手 しもて にはなんらか波音のざわめきが、空虚の行為を突如追い散らさんとするばかりである。その行為とは、一切の実在が溶け去る波浪のこの海域に、偽り誤って破滅(すなわち死)を立証せんとするのにほかならぬ。(イジチュールの自殺はこれに欺かれたものであろう。虚無の契機として偶然がどこまでも絶対的に存続する以上は、虚無の尖端たる死といえども、「偶然」に制約せられるのであるから、これを立証し必然化することはできないはずなのである。詩のニュアンスもまたかくて、局所的即非局所的、必然即偶然として、矛盾の統一に位相化せられる。すなわち、実在生起の場所そのものが時間的に動いて、生起を偶然化するのである。空時の切り結ぶ所、現実に偶然を含まぬものは無い。従って詩の立言にも、常に除外的条件を伴わなければならぬ。虚無も今や弁証法的に「否定の否定」として絶対無化せられ、随所に偶然を含みて条件的となり、それにより自らの自己否定に滲透せられる。これが現実即詩観というべき、現実自覚の詩である。このほかに、宇宙のオルフィック式展開としての詩というものはあり得ない。その試みは常に「偶然」によって挫折せしめられる。ただその挫折難破の自覚こそが、すなわち同時に挫折の自己突破として、「偶然」を詩により本質的に現実へ還帰せしめるのである。命運の星宿はかくて「偶然」を媒介として、現実に指方を与える。『双賽一擲』の詩の末節はこれを象徴するわけである、訳者補注。)
 
11 虚無というも、恐らく高き天上には、星宿の除外例があるであろう。そもそも場所というものは、それの超越と融合してみずから同様に遠ざかり去る。従って星群の光のそれぞれの傾斜勾配に従い、ふつうに航海者が懐くところの、場所に対する関心とは別に、無窮遠の彼方に動かざる北極星と共に、動く北斗七星に向かって静動相即する星宿が、「無限」に対する関心として存するはずである。星宿は忘却と廃用とのために冷却せりとするも、さりとて空虚なる上層の表面において星の相継ぐ閃きを算えられぬというほどに、死物となっているのでもない。その閃きは積集せられて(光の)総計を形造るのである。徹夜に創造し疑惑し回転し発光し瞑想して、終に総計を神聖にするなんらかの終極点に停止するに先だち、却ってかかる終点を突破し、(完即不完の統一において)飽くまで「偶然」を動機としつつ進行する。これ、いかなる思想といえども、現実界へ双賽一擲の行為を発出せしめるゆえんである。
(訳者補注、全く完成静化せられたるオルフィック式世界詩の宇宙展開は、人間にとって不可能なるも、それに対し障害となるところの「偶然」は、却って「現実」の動力であり、命運と相即して自覚的人間を生甲斐あらしめるものなのである。それは完結即進行、円環即直線として渦流を成立せしめる。北斗北極の統一的星宿は、すなわち動静一如に永遠を象徴するのである。詩はまさにこの弁証法的虚無即永遠の象徴にほかならない。)

あとがき
 
昔、鈴木信太郎博士の『近代佛蘭西象徴詩抄』を読んだ折、マラルメに対して深い興味を感じ、他日、その詩のうちで最も哲学的といわれる『双賽一擲』を自分なりに解釈してみたいと思っていた。
 
たまたま筑摩書房の井上達三君にそのことを話したところ、同君は佐藤正彰教授に諮ってくれ、佐藤教授から読むべき参考書の指示にあずかったのみか、入手しがたい研究書が送りとどけられた。
 
それらの書物をたよりに、哲学の立場からマラルメを解釈してみたいという年来の望みの実行にかかった。『双賽一擲』、またそれに先立つ『イジチュール』の主題が、プラトン以来の運命と自由との交渉の問題に関わっているばかりでなく、『イジチュール』は現在の社会変革時代に共通する問題を扱っているので、勢い自分のそれらの問題に対する考えを、マラルメを通して書き述べるという形になった。
 
自分はプラトンの跡をついで、哲学詩といってよい業績を残したマラルメに、深い敬愛の念を抱いている。この敬愛の念のあらわれが、このような仕事になったわけである。
 
文中、思わぬ誤読、誤訳もあるかと恐れるが、それらの点については専門の識者の叱正をえたいと思う。
 
この書の出版にあたって、鈴木信太郎博士、佐藤正彰教授、井上達三君に深い感謝の意を表したい。