MUSIC

ヨーロッパ演奏旅行記[全12回]

ピョートル・チャイコフスキー

柿沼太郎訳

Published in December 15th, 1887 - March 1888|Archived in May 17th, 2024

Image: Leon Bakst, “Terror Antiquus”, 1908.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、ローザ・ニューマーチ著『チャイコフスキー 生涯と芸術』所収の、ピョートル・チャイコフスキーによる「一八八八年のわが漫遊日誌」を、)題名を改めたうえで収録したものである。
1887年12月から1888年3月まで、演奏目的のヨーロッパ旅行をしていたチャイコフスキーは、『ルスキー・ウェストニック』紙に旅行記(全12回)を寄稿していた。本稿は、その全文である(ニューマーチによる訳者注〈冒頭〉も参照のこと)。
原則として原文ママだが、旧字は新字に変え、誤字・脱字・旧字を直し、用語統一を施した。
ARCHIVE編集部による補足は〔 〕に入れた。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:ピョートル・チャイコフスキー(1840 - 1893)訳者:柿沼太郎
題名:ヨーロッパ演奏旅行記[全12回]原題:「第三部 一八八八年のわが漫遊日誌」
初出:1887年12月〜1888年3月
出典:『チャイコフスキー 生涯と芸術』(音楽之友社。1956年。164-213ページ)

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ローザ・ニューマーチより
チャイコフスキーは一八八七年の十二月に都を出発して西へ三ヶ月間の旅をした。ここに訳載したのは、チャイコフスキー自身が当時の印象をつづった日誌で、ルスキー・ウェストニック紙に十二回にわたって連載されたものである。

第一章 はしがき

一八八六年に私の歌劇「チェルヴィチェック」(小さい靴)をモスクワの「大劇場」で上演しようという話が出た。K・ファルツが念入りにデザインした背景はすっかりできあがり、昨年中I・A・ヴシェヴォロフスキーがかなり費用をかけることに決したすばらしい装置は完成され、音楽もまたできあがった。とかくするうちに私は——当時クリンに近い田舎に滞在していた——モスクワ試演に出席するようにという呼び出し状が来はしないかと、毎日待っていた。ところが音楽季節も終わりに近づき、復活祭も数週間後にせまったが、まだ待ちうけていた呼び出し状はなかった。
 
その冬の間は指揮者アルターニの病気が長びいたため、歌劇場の仕事はほとんど中止されていた。一八八五年の十二月はじめ、徐々に快方にむかっていたこの尊敬すべき芸術家は、間もなく合唱指導者アフラネク——この人も二重の仕事の緊張にほとんど圧倒されていた——が代わっていた机に、再び倚ることができると堅く信じられていた。だがアルターニの病気には変化がなく、快復期はいつまでも延ばされた。で私は「チェルヴィチェック」は一八八五〜六年の音楽季節にはモスクワの大衆に批判してもらえそうもないと悟りはじめ、上演はまたの音楽季節に延期しなければならぬと覚悟しだした。
 
ちょうどその時モスクワのある若い音楽家から管理人のもとに意外な申し出があって、その音楽家はアルターニに代わって、早速数日のうちに私のこみ入ったスコアを演奏することができるとふれこんだ。この申し出はすぐさま私のもとに通知され、当時劇場管理の主席であったチェルニコフから、この代人を充分に信用して「チェルヴィチェック」の下稽古と指揮とをまかすかどうか知らせてくれといってきた。私はアルターニが作曲家としての私に寄せた友誼を非常に尊敬していたし、また彼の卓越した才能と経験とを尊重していたから、この若い音楽家が私の尊敬する友人に代わって、指揮者の位置につくのを早速ことわってやった。同時に管理人の方の邪魔もしたくなかったので、私の歌劇を私自身指揮することが利益に思われるようだったら、私が指揮者としてお役に立とうと思いきって申し出た。管理人は丁重に感謝して私の提案を快諾した。ところが他にもいろいろ事情があって、結局一八八五〜六年の音楽季節には上演不可能になった。
 
つぎの音楽季節に「チェルヴィチェック」の上演がもう一度問題になった時、アルターニはすっかり健康をとりもどしていたから、私が指揮者として働く必要はまったくなさそうに思われた。ところが、主だった劇場管理人、アルターニ自身ならびにモスクワにいる沢山の友人たちはやはり稽古と最初の公開上演とを私に指揮させたがった。私が指揮にはてんで才能をもたなかったことは永い間の有力な意見であったし、また私自身も全然できないという信念にしがみついていた——同様に私の病的な神経を征服して、大衆の前にあらわれようとする臆病な努力は、二度の別々の機会に、不幸にも全然失敗に終わったと堅く信じていた。にもかかわらず、アルターニを含む私に好意を寄せる人たちが、私に疑惑に打ち勝つことを望み、もう一度指揮者になろうと努めさせたいと思ったとすれば、疑いもなくこの人たちは指揮者としての天分の不足が、私の作品を伝える上に非常な障害物だとの堅い確信と真摯な愛情とに導かれていたのであったし、また私が自己を征服し、作品の二、三の指揮に成功——ただし我慢のできる程度に——しさえすれば、その結果は、私の音楽を一般化する一大刺激になり、作曲家としての名声を迅速に増進させるものと信じていたわけである。
 
私は友人たちの暖かい同情と、アルターニの非常に貴重な忠告および指導、ならびに作曲家としての最初の努力を励まし、その後もたえず心からな同情を示してくれたモスクワの人々の恩恵に対する全的信頼に力づけられて、一八八七年の一月十九日午後八時、「大劇場」のオーケストラ指揮者の位置につき、「チェルヴィチェック」の最初の演奏を首尾よく指揮した。その時私は四十七才であった。このくらいの年齢になると、本当の生まれついた指揮者なら、自己の自然な才能と経験の程度によって、豊富な手腕を発揮するのだが、私の場合はそれとはちがっていたから、私の初演は非常な成功と見てよかろうと思う。私はいまでも指揮の才能をもたないと思っている。平凡な音楽者を一流の指揮者にするあの精神的性質と生理的性質との連結をもっていないことに気づいている。
 
けれどもこの試みは——したがってその後の試みも——私に自作の演奏を多少上手に指揮することのできる証明になった。そうしてこれは私の将来の成功にとってもっとも必要なものであった。私ははじめて指揮を試みた時の話を詳しく述べることを必要と思ったのは、その多くのよい結果の一つとして、私を三ヶ月間西欧へ演奏旅行させたことであった。私はこの旅行にともなった成功をいつも得意にしているし、後にはこの成功について詳細をロシアの大衆に述べようと決心した。というのは、パリでただ一回音楽会を開催したグリンカと、名手としての天稟のおかげで世界の舞台で月桂冠をかち得たルービンステインとを除くと、外国で自己の作品を、自己自身紹介したロシア人は私が最初だったからである。私にはこの記事に興味をもたれるロシア人がかなりあるように思われる。

第二章 旅に出るようになった事情

上に述べた出来事があってから、私が歌劇を指揮する力を充分にもっていることを、経験が証明してくれたから、六週間後に、私は音楽会の指揮台上で同様な試みをした。私はフィルハーモニー協会が、ペテルブルグのサル・ド・ラ・ノブレスで催した演奏会を指揮したが、曲目は全部私の作品からなっていた。この実験は成功に報いられた。私はその人たちの批判に充分信頼していた人々から、私の指揮について私の胸をよろこびにふるわせるほどほめちぎった意見を聞かされ、非常にびっくりした。そうして私は自分自身に打ち勝ち、一生を通して闘ったあの無暴な、残酷な暴君のような精神的な不快——すなわち神経過敏——に打ち勝った誇りを感じざるをえなかった。
 
有名な批評家の一人だけが、私への批評に穏当でなかった。この人は私の作曲家としての初舞台をつぎの言葉、「チャイコフスキー氏はすこぶる貧弱で、才能の閃きをもたない」という言葉で迎えた人だ。これは非常に苛酷である。だがその人が、私を「見事な」指揮者だといった時も同様に事実を曲解している。だが、私は私が天分を全然欠いているというこの人の最初の意見を信じなかったと同様に、今度もその所説を信じなかった。四十七才にもなってはじめて指揮棒を手にした人間がなんとしても「見事な」指揮者であるはずはない。よし必要な天賦の才をもっているとしても、そうしたものになりたいと思うのは、まったく無益であるし、また生まれつきの神経過敏、性格の欠点および自信の不足は、私はワーグナーやビューローやナブラフニックのような指揮者と競争させるのをいつも妨げていたことは、百も承知である。繰り返すが、ただ一つ私にとって大切なものがある。それは私には他の平凡な指揮者よりはましに、私自身の作品を指揮できるということである。私はこうして無能を克服したおかげで、今では私の音楽を国内および国外に知らせることができるようになった。そして間もなく、私の予感は実際の事実になった。
 
私はその七月に、ハンブルクのフィルハーモニー協会から、翌年の一月に私の作品数曲を指揮してくれとの招待をうけた。その後同様な招待をウィーン、ドレスデン、コペンハーゲン、ブラーグ、ライプツィヒ、ベルリンおよびロンドンからも受けた。パリはといえば、フェリックス・マカール——私の音楽の一大心酔家——は、すでに氏が冬の音楽季節に開きたいと思っている音楽会に、私が指揮者としてあらわれるとの約束をした。
 
作曲家としての私の名声の周囲をできるだけ広げようとする至極当然な野心は、私もまたロシア芸術のために尽くし、旅行中他のロシア作曲家の作品をも普及化するに成功したいとの希望を抱くことを妨げはしなかった。私はパリでグリンカ、ダルゴムイシスキー、ルービンステイン、バラキレフ、リムスキー・コルサコフ、グラズノフ、リャードフおよびアレンスキーの名をあげる音楽会を催すに充分な資金をうるとすれば、フェリックス・マカールが私の音楽だけを演奏するために準備した音楽につづいて、これらの楽星の作品よりなる他の音楽会をも催そうと堅く決心した。ロシアのことならなんなりと同情を寄せるフランスの大衆に、ロシア音楽のこれらの珠玉を演奏する人間になるのだと考えると、非常に得意でもありよい気持ちでもあった。
 
出発前夜、私はもっとも貴重な友人の三人、リムスキー・コルサコフ、リャードフおよびグラズノフといっしょに数時間を送り、私が実行しようと考えた計画のプログラムを詳細に作成した。こうしてペテルブルグを去るにあたって、三つの目的を立てた——ライプツィヒおよび他の外国の都会で私自身の作を指揮し、パリでは二回の音楽会を指揮し、一回をもっぱら私自身の作品にあて、第二回は私自身の出費で開催することにした。
 
私はまた出発に先だつ二ヵ月間、外国での音楽会の代理人エヌという人と文通をつづけたが、この人は私の作品をロシア以外の国に宣伝することにすこぶる熱心で、私にはドイツおよびオーストリアの第二流の都会をも巡演できるとさえ考えていた。というのは、エヌ氏は私の音楽がこれらの隣国に目ざませた興味に、すこぶる誇大な値打ちをつけていたからであった。だがエヌ氏が熱心のあまりいきすぎをしているのを悟って、私はドイツですることになっていた会見についての氏の提案の承諾をあわててことわった。
 
その後の会見が実際に行われた時、私はきわめて特殊なまた風変わりな人にかかり合っているように思われ、その時からこの人がまったく理解できなくなった。無経験からか、誤解からか、それとも実際上の能力と手腕をみずから欠いているためか、ただしはまたただ少しばかり常軌を逸した病的な気持ちからか、とにかく、エヌ氏はひどく頼みにならず、明らかに忠実な友人でありながら、時とすると氏の行動は敵のそれであった。氏は私に貴重な貢献を沢山してくれた。それには感謝を忘れないが、氏はまた旅行中私の身にふりかかった数々の不愉快と迷惑との原因でもあった。こうしたわけで、今日でさえ、私はこの不思議な人について正しい意見をもつことができず、依然として私には謎である。同様この人の国籍——自分ではロシア人といっているが、ロシア語はひどく間違だらけである——この人の身分、ことに私に対する振る舞い、時には敵意のある仕方で私を悩ませ、時にはもっとも価値ある尽力をしてくれるその振る舞いの動機についても合点がいかない。とにかく、私がライプツィヒ、プラハおよびコペンハーゲンに招待されたのはまったく氏の手引きのおかげであったことを認めなければならない。
 
この最後の都会は時間がなかったので訪問できなかった。ところが、ドレスデンでの音楽会はエヌ氏の奇怪なまた非実際的な斡旋のため成立しなかった。なおまた運悪く、ウィーン人に私の音楽を知らせることもできなかった。というのは、ウィーンで音楽会を催すことにきまった日はパリに着かなければならない日とおなじだったからである。最後に私をドイツの小都会をさすらい歩かせ、私のこみいったスコアを全然演奏できない小規模なオーケストラを、私に指揮させようと強いたエヌ氏の不可解な、常軌を逸した空想が実現されなかったのはいうまでもない。私がパリにて催そうと考えていたロシア音楽会も、子供らしい不可能な夢であったことが判明した。このことについては、どこか他のところでもっと充分に話すとしよう。こうして私はただライプツィヒ、ハンブルク、ベルリン、プラハ、パリおよびロンドンを訪問しただけであった。今度は私の話に転じよう。

第三章 ライプツィヒへ、ベルリンを通って

私は十二月十五日(二十七日)にサンクト・ペテルブルグを出発して、十七日(同二十九日)にベルリンに着いた。ここで私はベルリン・フィルハーモニー協会の統率者シュナイダー氏に会いたいと思った。氏とは、全部私の作品よりなり私が指揮者として働くことになっていた二月の音楽会のことで、これまでも文通していた。曲目の詳細を相談するためには親しく面会する必要があった。それに問題がややむずかしくなっていた。というのは私自身の利益のためにベルリンの大衆をよろこばせようとしていたシュナイダー氏は、作品の選択で私とまったく一致していなかったからであった。氏は私の望まぬ作品を含ませ、同時に私がもっとも得意とするものを省き、こうしてこのすばらしいベルリンのオーケストラは私に最善を発揮させようというのであった。
 
とはいえこの時は、つぎのような理由でシュナイダー氏に会えなかった。私は給仕がお茶といっしょにもってきた新聞に、私の到着についてこんな記事を読んでびっくりした。『今日、一月二十九日、ロシアの作曲家チャイコフスキー氏はベルリンに到着する。氏の無数の友人とファンは、氏の到着を祝うために、何時、何々街の何々料理店にて「朝餐」を共にする』と。ここで説明しなければならないのは、エヌ氏がペテルブルグからよこした手紙の中で、すでにこの「朝餐」のことを話し、ベルリンでまきちらした引札の写しを送ってよこした。それには私が非常に謙譲でまったく隔意のない親しい性質の歓迎を望んでいるとエヌ氏が報告したので、あらゆる好楽家、芸術家およびこの都会にいた私と同国人たちは、定期の時間に、あるすこぶる有名な料理屋に集まるように案内されていた。私はこの手紙を受け取るや否やすぐさまエヌ氏にあてて、私はこんなお祭り騒ぎに加わるのをきっぱり断って、どんなことがあっても、この親しい「朝餐」には出席しないからと電報でいってやった。したがって氏がこのことを沙汰止みにしないで、かえって到着の日に発表したのを新聞で見た時、私は無性に腹立たしかった。幸いエヌ氏は私の居所を知らないので、翌日までは着いたことを知らすまいと決心した。
 
エヌ氏——氏は衷心から私のために尽そうとしたのだが、それをする方法にすこぶる風変りな考えをもっていた——の方のこの仕方が私をすっかり狼狽させ、驚かせ、怖がらせた理由は、たいていの読者には明白だろうと思う。けれどもロシアの作曲家に対する外国の大衆の態度についてあまり知らない、あるいは全然知らない読者には、ただベルリンでは私を讃美する人はきわめて少なかったばかりでなく、私の音楽はそれより以前にはほとんど知られていなかったということだけをお話しておこう。私の管弦楽曲の二、三が時々演奏されたのは事実である。ビルツェは国民音楽会で度々私の四重奏曲中の「アンダンテ」を演奏したが、私の音楽でベルリン人がよく知っているのは、これらの数小節にかぎられていた。なお私の「無数な友人およびファン」はといえば、私はベルリンではまったくの外国人で、ボーテ・ウント・ボック商会の主人フーゴー・ボック氏以外にはただ一人の知己さえなかった。おまけにファンなんて問題はありようはずがなかった。というのは、これまでベルリンで演奏された私のわずかな作品は、特別な成功を得なかったし、新聞も筆を揃えて賞讃してはくれなかったからである。
 
エヌ氏のこのちょうちんもち、ベルリンで「朝餐」をもって私に敬意を表するというこの考えは、私のために働いてくれた同氏の風変りな、ふしだらな、軽薄な仕方のもっともよい例証である。けれども氏はどう見ても本当に志だけはありがたい人で、信じることのできないくらいの熱心と精力と偏屈とをもって、私の名をドイツの大衆に知らせるため、時間と、思考の全部を捧げた。その結果は私自身がほとんど赤面させられることであった。私にはベルリンの音楽界全体が私をわらっているように思われ、私がエヌ氏の仲介を通して、身分不相応なお祭り騒ぎの歓迎会を催してもらいたがっているのだと思われているような気がした。私はドイツの首都で、このうえ誰にも会いたくなくなって、翌日エヌ氏に会って説明を試み、ダヴィドーフ——その時ベルリンを通りかかった氏に再度顔をあわせたことは非常に愉快だった——を訪問してから、ライプツィヒへ出発した。ここから西ヨーロッパを巡る私の漫遊がはじまった。

第四章 ライプツィヒで友人たちに会う

ライプツィヒでは、三人の同国人とドイツの一批評家に会った。同国人というのはブロドスキー・シロッティそれにアルトゥール・フリードハイムであった。前の二人はロシアの大衆、ことにモスクワではすこぶるよく知られている。ブロドスキーとは永い間親密な交際をしていたが、氏は私がハーモニーを教えていたモスクワ音楽院でしばらく教授をしていた。一八七七年に氏はモスクワを去って、キエフで音楽協会の指揮者として一楽季を送り、その後かなり永い間旅行をしてから、ついにライプツィヒ音楽院のヴァイオリン教授という名誉ある地位に任命され、ここで人としても芸術家としても一般的な愛情と尊敬とをかち得た。このすばらしい大家のことを話すにあたって、私はこの機会を選んで、私が死ぬ日まで感じるだろうと思われる、心からの感謝を公表しなければならない。それにはつぎのような理由がある。
 
私は一八七七年にヴァイオリン協奏曲を書いてアウアーに捧げた。この献曲がアウアー氏の気に入ったかどうかはわからないが、氏が純粋な友誼を抱いていたにもかかわらず、この協奏曲の困難な演奏を征服しようとしなかった。氏はこの作を演奏不可能と断言したが、ペテルベルグの名手として非常な権威をもつ人から出たこの断定は、私の想像の不仕合せな子供を、永年望みなく忘れられたものの獄舎に投げ込む力をもっていた。だがそれから五年後に、私がローマに滞在中あるカフェにはいって、偶然手に取った「ノイエ・フライエ・プレッセ」紙に、ウィーン・フィルハーモニー協会が催した音楽会についての有名なハンスリックの批評が載っていて、その曲目中に、アウアーの断定が滅亡を宣告された私の不幸な協奏曲が含まれていた。ハンスリック氏は、不運な撰択をした点で演奏者(ブロドスキーその人にほかならなかった)を非難して、私のあわれな協奏曲を情け容赦なく酷評し、それに氏の皮肉な諧謔や諷刺の毒矢を惜しげもなく浴びせた。『近頃現代音楽の中にある種の作があらわれたが、その作者はたとえば胸を悪くする臭気のような、忌むべき心理現象を再現してよろこんでいる。こうした音楽は悪臭を発する音楽と呼んで差し支えない。チャイコフスキーの協奏曲は「悪臭を放つ音楽」の範疇に属するように思われる』とハンスリックは書いている。
 
有名また有力な批評家のこの短評を読むやいなや、私はブロドスキーが私の「悪臭を放つ」協奏曲の演奏を実行するに費したにちがいない精力と苦痛とをまざまざと心に描き、友人で同国人である人に加えたこの不親切な批評を見て、さぞかしにがにがしく不愉快に感じたことだろうと思いやった。そこで、私はいそいでブロドスキーに対し私のもっとも熱烈な感謝を述べたが、氏からよこした返事の手紙から、氏が目的——私の協奏曲を忘却の淵から復活させるという——をはたすために通過した困難と試練とがわかった。その後もブロドスキーはいたるところで、この「悪臭を放つ」協奏曲を演奏し、批評家はいたるところで、ハンスリックと同様な仕方で罵倒した。だがその功績はあがった。私の協奏曲は救われ、いまでは西ヨーロッパでしばしば演奏されことにブロドスキーの補助にもう一人優れたヴァイオリニスト、若いハリール氏——同氏とは話す機会が度々あった——があらわれてからは、一層演奏されるようになった。友人のない一外国人としてきたライプツィヒで、ブロドスキー氏に会い、私を悩ました恐怖と興奮の最中に、同氏の積年の親しい友誼という、精神的な援助を期待することが、どんなに嬉しかったかはいうまでもない。
 
同様に、若いがすでに有名なピアニストのシロティ氏にいま一度会ったこともうれしかった。私が氏を知ったのは、氏がまだほんの子供の時で、モスクワ音楽院の学生だった。氏は私の指導の下に、作曲上の数課目を卒えた。その後ニコラス・ルービンステインについてピアノを研究し、彼の死後はリストに学び、ロシアとドイツ、ことにライプツィヒで大名をかち得た。ライプツィヒには幾年も住んでいて、時々ドイツやロシアの都会を訪問した。この若い芸術家もブロドスキー氏同様、尽力してくれ、私の作品をドイツに知らせるために大いに努めてくれた。氏のおかげで、私はライプツィヒで私の音楽に非常な興味を示してくれた一団の音楽家を見出した。このことは私にとってすこぶる重要であった。というのは、私は敵陣へ乗り込むように、そのあらゆる傲慢と嘲笑とを一身に引きつけるといった気持ちで、ライプツィヒ——一般に猛烈な保守主義ととくに狂的な反ロシア感情とに有名な都会——へ来たからであった。もちろん、この感情には幾分の誇張があった。というのはやがて諸君にもわかるように、ドイツ人は概して多くの人が考えているほど無法に、われわれロシア人を憎んではいないからである。だがライプツィヒのこの空想の敵なる意識から大いに悩まされたことは事実で、またその市民の中に私の音楽を知り——またその作曲家に純粋な同情をよせる好楽家を見出したのが、非常な慰めであったことも事実である。
 
私がライプツィヒで会った第三番目の同国人は、有能なピアニストで、リストの弟子だったアルトゥール・フリードハイム氏で、氏はペテルブルグに生れ、しばらくライプツィヒに住んでいた。私を迎えた停車場に来たドイツ人はといえば、シロティ氏の親友でライプツィヒの「ターゲブラット」紙の有力な批評家マルティン・クラウゼ氏で、私の音楽が非常に好きな人であった。
 
私がライプツィヒに着いた時は、ロシアと同様まったくひどい寒い日だった。雪が街路を深く埋めていたから停車場からほとんどまっすぐにブロドスキー家のクリスマス・ツリーへかけつけた——非常に上手に工夫された小さい橇に乗って。氏の家はまったくロシア風の環境の中に立っていた。それにすこぶる思いやりのあるロシアの婦人が二人、つまり主人の妻君と義妹とがいたのでいっそう引き立っていた。私はこの数年間めったに家を出なかったし、永い間故国を離れて外国に滞在することにまったく不慣れだったので、不安とホームシックとを感じていた。だからその夜およびその後三度ライプツィヒを訪問して、ブロドスキー氏の家庭で数時間を過ごす必要のあったたびごとに、私が受けた慰安は筆紙に尽くしがたいものであった。私はまたシロティ氏を訪問することが非常にうれしかった。氏は近頃私がモスクワでほとんど子供として知っていた、また永い間親しく交際していた若い婦人と結婚した。

第五章 ブロドスキー家でブラームスに会う

翌日、私は二人の非常に興味ある人物と近づきになった。一時の昼餐にブロドスキー家に出かけると、ピアノとヴァイオリンとチェロの音が耳についた。その翌日、ブラームスの新しいビアノ三重奏曲(作品百)の演奏があるので、その下稽古をしていたのであった。作曲家自身がピアノを弾いていた。こうして私は偶然このドイツの作曲家とはじめて顔を合わせた。ブラームスはどちらかというと、背の低い、肥満といった感じを与える人で、すこぶる同情の深そうな顔つきをしている。ほとんど老人のようなその見事な頭はロシアの美しい、温和な老僧を思わせる。容貌はたしかにロシア風の美貌の特色を示してはいない。だがある人類学者が著書の第一頁に、ドイツ風の容貌の特色を発揮したものとして、ブラームスの頭を選んで、復写した理由は、私にはわからない。(後に私が氏の容貌から受けた印象を話した時、ブラームス自身もそういっていた。)輪郭のやわらかな、気持ちのよい曲線、どちらかといえば長い、多少白髪まじりの頭髪、親切な灰色の眼、それに惜しげもなく白毛を撒いた深い髭——こうしたものはすべて、われわれがロシアの僧侶に見かける生粋の大ロシア人のタイプをただちに連想させた。
 
ブラームスの動作は非常に卒直で、虚飾がない。その諧謔は陽気で、氏の仲間とともに送った数時間は私にすこぶる気持ちのよい思い出を残した。不幸にして私は白状せざるを得ないが、私はライプツィヒでこの人たちとかなり永い間いっしょにいたにもかかわらず、この近代ドイツ音楽のもっとも卓抜な代表者に対して親しくなれなかった。その理由はつぎの通りである。
 
ロシア人のあらゆる友人たち——一人としてそうでないものはない——同様、私も例にもれずただ強固な確信をもつ尊敬すべき、精力旺盛な音楽家としてブラームスを称賛するが、どんなにやってみても、彼の音楽を嘆美することはできなかったし、また今もできないでいる。ブラームス主義はドイツ全土にひろがっていて、若干の権威ある人々や一つの音楽団体全体がブラームス宗に帰依し、ブラームスはベートーヴェンとほとんど同等な偉大な人と見なされている。だがドイツおよびドイツの国境を越えたいたるところに、反ブラームス派がいる。ただしロンドンは例外で、ここではイギリスでもっとも人気あるヨアヒムの根強い宣伝のおかげで、ブラームスの大はある程度まで認められている。その他のところでは、ブラームスはまったく知られていないし、また無視されている。だがおそらくロシアほどブラームスを認めないところはあるまい。
 
この大家の音楽にはロシア人にとってきらいな、無味乾燥な冷たい漠とした、また曖昧なものがある。われわれロシア人の見地からすると、ブラームスはメロディー発明の才をもたない。氏の楽想は、要点にふれていない。われわれの耳にはある明確なメロディー的楽句の暗示さえも聞かない。それはあたかも理解できずに不明瞭にしておくことが、作曲家の特別な目的ででもあったように、ほとんど無意味な和声的進行と転調の渦巻の中に消えている。こうして彼は、われわれの音楽的知覚力を興奮させ、いらだたせる。いわば知覚力の要求を満足させるのをきらってでもいるように。彼はそれをあからさまに示し、はっきりとものをいい、人を感動させるのを恥じているように思われる。われわれは彼の音楽を聞きながら、こう自問する。ブラームスは実際深いのか、それとも彼の想像力の貧弱を隠すために深いように見せかけたいと、そればかり望んでいるのかしらと。この疑問は満足のゆくようにはけっして解決されない。
 
ブラームスの音楽を聴いていると、それが貧弱だとも非凡でないともいうことができない。彼の様式はいつも高調している。あらゆる現代の音楽家とちがって、けっして純然たる外的効果にうったえないし、われわれを驚かせようとしたり、何か新しいまたはなばなしい管弦楽上の組合わせで感激させようともしていない。なおまたわれわれは彼の音楽の中で無価値なもの、もしくは見るから模倣と思われるものに出会わさない。すべてがすこぶる真面目で、優れていて、一見独創的でさえある。にもかかわらずかんじんなもの——美——が欠けている!
 
これが私のブラームス観であって、私の知っている範囲では、ロシアの作曲家および音楽大衆は皆こうした見方をしている。数年前、ブラームスについての意見を、ハンス・フォン・ビューローに正直に打ちあけた時、ビューローはいった。「しばらく待ちたまえ。君がブラームスの深さと美とに同感する時が来るだろうから。僕も君のように永い間彼が理解できなかったが、次第に彼の天才の黙示に祝福された。君の場合もおなじことだ」と。私はいまもなお待っているが、その黙示はやってこない。私はブラームスの芸術的個性を深く尊敬する。その音楽的傾向の真の純粋性の前に頭を垂れ、ワーグナー宗を荘厳にしたあらゆる術策を認めないその堅実な、また誇るにたる態度、ましてやリストを崇拝しなかった態度を歎賞するが、彼の音楽はありがたく思っていない。
 
読者には、この事実が、ブラームスなるすこぶる魅力ある個性と親しくなりたいと思う私の希望を妨げたことがわかるだろう。私はブラームスの忠実な味方(ブロドスキーもその一人)の集まった席で彼に会ったのだが、この音楽教義を熱心に奉じる信者たちの完全なハーモニーの中に、不協和な要素をもたらすのは私には不適当に思われた——私は門外漢で、彼らの偶像を崇拝していないからである。ブラームス自身は、私が彼の信者に属しないことをはっきり承知していたかさもなければ実際にそう気づいたかのように、私と親しくなろうとは努めはしなかった。彼はまったく素朴で、誰にでもするように丁寧だったが、それだけだった。
 
とかくするうちに、私が人としてのブラームスについて聞き知ったことは、ビューローの予言した「黙示」を私にも与えられなかったことを二重に遺憾にした。彼は非常に気持ちのよい魅力のある人で、近づきになった人はだれも、その暖かい情愛と友情とに動かされた。有名なチェコの作曲家、ドヴォルザークは、彼の作品が出版者もなく演奏者もない時に、ブラームスが示した暖かい興味を話してはいつも涙を浮かべるのだった。ブラームスが彼に与えた援助はどんなに力強いものだったろう! 彼がこのスラヴ生まれの芸術の友の未知な天才の低音を響かせるのに、どんなに骨折ったことか!
 
ブロドスキーはまたブラームスの性格の同情的な方面、ことにその珍しいまた快い謙遜をあらわす例証を話してくれた。ワーグナーが非常な憎悪をもって同時代人を取り扱い、ブラームスの作品にはいつも特別に苛酷であったことはよく知られている。ある時ワーグナーがブラームスにあてつけた生々しい毒舌を、ある人がブラームスに知らせたところ、ブラームスはいった。「やれやれ! ワーグナーは人からは尊敬され、戦いには勝ち、天下の公道をだいたいわがものにしている。私は、私自身の地味な道を歩いているのだから、どうして彼を妨害したり、こまらせたりすることができよう? 私たちはけっして衝突しそうもないのに、なぜ安心して私をうっちゃっておけないのだろう?」と。

第六章 ゲワントハウスでグリーグに会う

おなじくブロドスキー家の晩餐会の席で、知人がもう一人できたが、この人との交際はブラームスとのそれと同様に興味のある、だがもっと深い永つづきのするもので、われわれはお互いに相手この作品をよく知らなかったが、間もなく二人の音楽的性質の疑いのない類似にもとずいた、純な友誼に変形される運命をもっていた。
 
ブラームスの新作三重奏の下稽古の際、関係テンポの手腕と効果について批評をしたところ、作曲者はすこぶる心よくこの評を受け入れた。そこへ非常に背の低い、見たところいかにも弱々しい肩の不釣合いに高い、綺麗な頭髪を額から後へかいた、少々ばかり、ほとんど子供じみた髯と髭を生やした中年の男がはいってきた。この人の容貌にはとくに目だった点は少しもないのだが、その外観がすぐさま私の同情を引いた。というのは、その容貌は美しいとも整っているともいえないが、異常な魅力があってあまり大きくはないが、不可抗に人を惹きつけるその碧い眼は人を魅する素直な子供の眼差しを思い出させるからである。
 
私はわれわれが互いに紹介されて、私がこんなに説明できない同情を感じたこの人が、音楽家で、この人の暖かい情緒的な音楽が久しい以前に、既に私の心を征服していたことを知った時、心中深く喜んだ。この人は十二年前に、ロシアおよびスカンディナヴィア半島で非常な人気を博しスヴェンゼンとともに最高の尊敬と一大名声とをかち得たノルウェーの作曲家、エドワルド・グリーグだった。私はブラームスがロシアの音楽家および一般大衆から不当に好まれなかったとは反対に、グリーグはただ一度でロシア人の心を征服してしまう方法を知っていた、といっても間違いないと思う。グリーグの音楽には心をとろかすような憂愁が行きわたり、これが時に膨大に広がって、壮大また崇高になり、時に灰色にどんよりと曇るが、いつも北方人の心に美を充たし、われわれロシア人に似たなにかをもち、われわれの心にすばやくしみ入り、暖かい共鳴の感応を呼び起こすノルウェーの風景のあらゆる美を、音楽そのもの中に反映しているように思われる。
 
グリーグはおそらくどんな意味でも、ブラームスほどの大作曲家ではないだろう。その範囲はさほど広がっていないし、その目的および傾向はさほど大きくはないが、グリーグにはあきらかに朦朧への傾向がない。だが彼はブラームスよりもわれわれに接近し、人間性の深いところから一層近づきやすい、分りやすい人に思われる。われわれは音響によって、詩的情緒の洪水に流露を与える、不可抗な衝動に強いられた人が書いたものだということが、本能的に認められる。このいかなる理論にも原則にもしたがわない詩的情緒は、力強い真摯な芸術的な感情のそれ以外にはなんの印象も与えない。形式の完成、主題展開の厳格な近づきがたい論理、そうしたものはこの有名なノルウェー人が辛抱強く求めたものではない。しかもなんという魅力、なんという無類な、また豊富な音楽的想像であろう! そのメロディーの楽句には、なんという温情と情熱が、ハーモニーにはなんという豊かな活力が、そして彼のきびきびした巧妙な転調とリズムにはなんという独創と美とが、なおまたその他にもなんという興味、斬新、および独立があることか! もしわれわれがこうしたものに、朦朧性や強附会や新奇やの、気取りを見せびらかしから離れたもっともめずらしい性質つまり完全な単純性をつけ加えると(ロシアを含む現代の作曲家の多くは、天職なり自然な才能なりを少しももたずに、新しい道に入りこもうとつとめている)、だれしもグリーグをよろこび、彼がいたるところで——パリ、ロンドン、モスクワなどで人気を獲得し、彼の名があらゆる音楽会のプログラムに載り、ベルゲンを訪問する人々が皆グリーグが仕事のために隠退して、そこで生活の大部分を送るあの海岸の岩の中に立つ、美しいだが辺鄙な隠家へ巡礼するのを、愉快な義務と心得たからとて驚くことはない。
 
私のグリーグを称揚する熱烈な讃美はわれわれの性質がよく似ていることを書く以前からあったもので、自己讃美のようには思われないと信じている。グリーグの高貴な性質については、私にもそうした性質が同等に授けられているとの観念を読者に与えたくない。グリーグがあのように豊富にもっているものが、私にはどれだけ書けているか、それを決定するのは他の人たちにゆだねておく。だがグリーグがいつも私をこの天才のノルウェー人に引きつけたあの牽引力を多少とも発揮し、また発揮してきた事実を述べないわけにはゆかない。後でこれを証明する機会があるだろうが、今は私がグリーグの共鳴を非常に高く評価していることと、彼に面会して親しく知る機会を得たのは幸運の星のおかげであったということだけをいっておこう。
 
われわれが集まった部屋へ、グリーグといっしょにすこし白髪になった、グリーグに非常によく似て、小さい、弱々しい、思いやりの深そうな婦人がはいってきた。この人は彼の妻君で、また姪にあたるから、夫婦がよく似ているのも道理である。その後私は、グリーグ夫人がもつ多くの貴重な美質を認めることができた。第一に夫人は優れた、だがあまり完成されていない歌手である。第二に、私は夫人ほど博識な、また教養の高い婦人に出会ったことがなかった。ことに夫人はわがロシア文学——グリーグ自身も深い興味をもっている——と優れた鑑識をもっている。第三に、彼女の有名な夫と同様に愛嬌があり、温厚で、子供らしいほど卒直で、邪気がない。
 
この仲間にもう一人婦人がいたが、この人についても数言費したいと思う。クリスマスのお祝いがすんでから、われわれがブロドスキー家の食卓を囲んでお茶を飲んでいると、セッター種の綺麗な犬がとびこんで、主人や小さい甥にじゃれつきはじめた。「すぐにスミス嬢が見えるということなのだ」と一同がいった。すると数秒たって、美しくはないが、人々が「表情的」あるいは「知的」と呼ぶ顔つきの、背の高い英国婦人がはいってきた。私はすぐにおなじ作曲家として彼女に紹介された。スミス嬢は音楽のこの世界の働き手に真面目にかぞえられる、比較的少い閏秀作曲家の一人であった。彼女は数年前にライプツィヒに来て、徹底的に理論と作曲とを学び、幾多興味ある作品を作曲し(もっともよい作はヴァイオリン奏鳴曲で、私はこの作品を作曲家自身ブロドスキー氏とが立派に演奏したのを聞いた)、将来真摯また有能な経歴を送るだろうと嘱望されていた。
 
イギリスの婦人はみな独創的なところと偏屈なところをもたないでもないが、スミス嬢もそれをもっていた。この独身者の婦人から少しも離れず、この時ばかりでなく二度目に会った時にもかならず彼女の到着を知らせる美しい犬と、狩猟が無性に好きなこと——それがためスミス嬢は度々イギリスへ帰って行く——と、最後にブラームスの漠たる音楽天才に対する理解のできない、ほとんど狂的な崇拝とがそれであった。彼女の見解によるとブラームスはあらゆる音楽の最高頂点に立っていて、ブラームス以前に行われたものは、ことごくこのハンブルク生まれの大作曲家の創造にある絶対音楽美の典型に対する準備としてのみ役に立つのであった。そしてこの時にも、猛烈なブラームス派に出会った時にいつもするように、私がこうした質問に私自身を苦しめた。彼らは皆まちがっていて、ありもしないものを想像しているのではなかろうか。それとも私が神と自然とを怒らせたので、私にはビューローの予言した「黙示」を与えて下さらないのであろうかと。
 
さまざまな印象に充たされたこの時期に、一八八八年の第一日(新暦)が来た。その日、私はブラームスの新作——ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲——を、はじめて演奏するゲワントハウスの特別音楽会に出席した。ヨアヒムがヴァイオリンを奏き、チェロは有名なベルリンの名手ハウスマンが奏き、ブラームス自身がオーケストラを指揮した。この協奏曲はすばらしい演奏であった。にもかかわらず、私にはなんの印象をも与えなかった。私はトーマス寺院の有名な合唱隊——男声と子供の声よりなる——が数番の無伴奏の合唱——その中にはセバスチャン・バッハのモテットがあった——を唄ったその完全無欠さに驚いた。私はロシアでこれに似たものを聞いたことがなかった。なお白状するが、私は不愉快なくらい驚いた。というのはこれまでロシアの第一流の合唱隊のいくつかは、世界でもっとも立派なものだと信じていたからである。
 
このすばらしいゲワントハウスの管弦楽団が演奏したベートーヴェンの第五交響曲は、私が考えていたように、尊敬する指揮者ライネッケ氏がテンポを遅らせすぎなかったら、私をまったく恍惚境に運んだことだろう。たぶん本当の伝統からいうと正当なのだろうが、もしそうだとすると伝統もあまり厳格に守るのはよくない。なぜかとなら、私はこの神来の交響曲がわれわれのするようにテンポを速く取る時、一層よくなり一層魅力あるものになると堅く信じているからである。新ゲワントハウスの楽堂は非常に立派で、沢山の聴衆をいれることができる。電気に照らされ、居心持がよく、綺麗で雅致があり、ことに模範的な音響の装置をもっている。私が腰かけた指揮者に属する広い場席には、ライプツィヒの音楽界で有名な人たちが沢山いたが、みな私の知っている人たちで、その中には私に対して非常に丁寧なライネッケ氏もまじっていた。ゲワントハウスの音楽協会の会頭リンブルガー氏は私の音楽の下稽古を翌朝の十時に行うと知らせた。

第七章 ゲワントハウスの音楽会

ドイツにおける一流の音楽都市の一つであるライプツィヒという、小さな都会を相手に開催されるとの有名なゲワントハウス音楽会は、管弦楽団が卓越しているので有名であり、またその保守的な古典的な曲目に目だち、その曲目には古典の三大作曲家——ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン及び同時代人——以外には、メンデルスゾーンとシューマンだけが、認められている。ワーグナー、ベルリオーズおよびリストの作品は滅多に演奏されない。この音楽協会の管理者たちが時代精神へとおずおずしながら進みはじめたのはごく近頃のことで、その動向の一つとして、思いがけず私自身の作品の一つを指揮するために、私がライプツィヒへ招かれたという次第であった。
 
ドイツでもロシアでも、こうした招待はかなり驚きを起こさせる。とくにドイツでは、多くの人たちはなんら事実上の根拠もないのに、私を音楽における超革命派の代表者と見なした。ちょうど私がロシアで同様になんの理由もなく、しばしば逆行の位置におかれるように。おそらくライプツィヒで大勢力をもっていたブロドスキー氏の親切な斡旋がなかったら、こうした事件はけっして起こらなかったことだろうが、この場合発案をしたのはすでに話しておいたエヌ氏である。とにかく私は、ゲワントハウス音楽会の曲目に私自身の作品が選ばれたことは、作曲家としての私の虚栄心を非常によろこばせ、私の旅行をライプツィヒからはじめるのを、非常に愉快に感じた事実を心から認めている。というのは、この出来事はたしかに私の名をドイツ中に知らせるに大きな力を貸してくれたからである。だが、ゲワントハウスの当事者から受けたこうした注目を、得意に感ずればそれだけ、自分を外国におけるロシア音楽の価値ある代表者として立証することが心配となり、生まれつきの恥ずかしがりと、「赤面するような真似をしでかしはしまいか」との恐怖とに、いいようもなく胸騒ぎがした。ありとあらゆる不安、ことに神経質のために指揮者として相応な手腕を発揮できないかもしれないとの恐怖に悩まされた。
 
みじめな一夜を送ってから、私はシロティにつれられて、下稽古にと向かった。われわれがゲワントハウスに近づいた時、入口で尊敬すべき楽長ライネッケに会ったが、氏は私をオーケストラ部員に紹介するため稽古場へと急いできたのだった。ライネッケ氏はドイツ、ヨーロッパ全体を通じての優れた音楽家、メンデルスゾーン流の天稟ある作曲家として名声を得ていた。氏はゲワントハウス音楽会の練達の指揮者である。つまり氏は立派な態度で指揮をするが、世界中に知れわたるほど特別なめざましさはもっていない。私は「特別なめざましさをもたない」といったのは、多くのドイツ人はライネッケ氏の指揮者としての才能を認めることを否定して、もっと人を感激させる気質、もっと力強い、もっときびきびした性質をもつ音楽家が、代わって彼の位置について、欲しいと思っているからである。とにかく、氏はドイツ音楽界のもっとも卓抜なまた有力な人たちの一人で、もしワーグナー派、リスト派、ブラームス派およびその他ライネッケを好まないあらゆる程度の進歩派がいなかったら、有能堅実な音楽家として氏を尊敬するのをこばむ者はあるまい。私もまたライネッケ氏に対し久しい以前からこうした尊敬を感じていたし、またゲワントハウスでの特別演奏会、およびライプツィヒ滞在中に示された氏の異常な注意と親切とは、私にとってすこぶる価値あるものであった。
 
給仕が楽手が全部集まったと知らせてきた時、われわれは芸術家の部屋を出て、台上に登った。ライネッケ氏は私を指揮者の椅子に坐らせ、指揮棒で譜面台をたたいて紹介の辞を述べた。これに対し楽手たちは拍手をしたり弓で机をたたいたりして応酬した。そして私に指揮棒を渡した。で、私は指揮者の位置につき、二、三挨拶の辞を、たぶんすこぶるまずいドイツ語で述べた。それから下稽古がはじまった。するとライネッケ氏は室を出ていった。
 
私は五つの楽章からなる私の第一組曲——その第一楽章(序奏部と遁走曲)は私のもっとも成功した努力と見なされている——を指揮した。この下稽古の最初の十五分間、私がオーケストラの未知な人たちと打ち解ける前の十五分間は、少なくとも私のような神経質な無経験な指揮者にとっては、非常な試練であり興奮であった。最初の切れ目の後で二、三勘ちがいを訂正しなければならなかったが、その後はずっと細やかにオーケストラ部員を見ることができた——やがて神経質は消えて、そこにはできるだけ上手に用事を果たそうという心配だけが残った。この組曲の第一楽章が終わると、私は楽手の顔つきや微笑から、楽手の多くがすでに私に好意をもっていることを見てとった。これで羞恥の念は残りなく消え去り、下稽古全体は非常に愉快に滞りなくすんだ。私は驚くべき能力をもつオーケストラを扱わなければならないという確信を抱いて指揮台を降りた。
 
ライネッケも、ブラームスも下稽古に出席していた。ブラームスに会ったが、一向たのもしい批評はしてくれなかった。私は氏が第一楽章を大いによろこんだが、その他の楽章、ことに「小行進曲」を褒めなかったと、人から聞いた。つぎの下稽古は普通のものであった。ライプツィヒではこの最後の下稽古を大衆に聞かせるのが習慣で、この時の聴衆は主に若い学生からなっていて、感情の表現もすこぶる暖くまた寛大であった。ところが音楽会当日の聴衆はおそろしく冷淡で、口やかましく、称讃を惜しんだ。下稽古の際、組曲と作曲者は嵐のような拍手を受け、幾度も呼びかえされた。だが、これはたぶん言語学を学ぶロシアの学生が多数いて、彼らの同国人に対する感情を大声で惜しみなくあらわしたためであったろう。とにかく私は自分の成功を大いによろこんで、家へもどるやいなや、さらに大きな愉快を経験した。それはグリーグ氏が下稽古からの帰りに残しておいた名刺で、それには組曲が与えた印象を数行の文字であらわしてあった。私が読者の前で繰り返すのを憚るくらい、懇篤また熱心にあらわしてあった。グリーグ氏のような天才の「仲間」から寄せられた心からの祝辞は、芸術家にさずけられる最高のまたもっとも貴重なよろこびである。
 
翌日音楽会が行われた。聴衆からは冷やかに受けいれられるだけだということは、ブロドスキー氏からあらかじめ聞かされていたから、指揮台に登った時、柏手一つ起こらなくても、また私の礼に答えたのはただ墓場のような沈黙にすぎなくても、私は驚きもしなければ苦しみもしなかった。だが第一楽章がすむと、元気のよい拍手が起こり、この拍手はつづく各楽章毎に多少とも繰り返され、最後には二度呼び出されたが、これはゲワントハウスでは、大成功の証拠と解釈してよいだろう。音楽会が終わってから、ライネッケ氏と晩餐を共にした。氏および氏の家族は最善を尽くして親切にもてなしてくれた。とくに優れたフランス語学者であるライネッケ氏は、会話にかけてもすこぶる爽やかで魅力的であることを証明した。氏は若い頃シューマンと親しかったから、この大作曲家の一生に起こった多くの出来事を話した。
 
シューマンはまったく憂欝性で、この生まれつきの憂愁の結果が、ヒポコンドリアか発狂かになることは、最初から予言されていたらしい。事実そうなったのだが。驚くべきほど無口で、彼には言ってみれば一語一語が非常な努力を要するかのようにみえた。シューマンの音楽的組織の中でとくに著しいところは、指揮者としての力を全然欠いていたことで、ライネッケ氏はシューマンがオーケストラの音楽のさまざまな音色をはっきり区別できなかったし、また指揮者に必要かくべからざるリズムに対する自然な感じを、まったく欠いていたのをあきらかにする実例を話した。作品の上から批判すると、リズムについてはとくに発明の才をもっていた音楽家に、こうした変則を認めるのはどんなに困難であろう!
 
私はライネッケ氏の家でフランスの作曲家グラヴィー氏と知り合いになったが、この人はいつも冬をライプツィヒで送っていた。グラヴィー氏はまったくチュートン人になり切っていて、ドイツ語を完全に話し、母国(つまり音楽上)に対してむしろ敵意を抱いていた。だいたい自己に幻滅を感じた傷つける人間といった不愉快な印象を私に与えた。母国人に認められないのでその結果外国人の美徳や価値を誇張する傾きがある。グラヴィー氏がフランス音楽界を嘲弄するのは立派な理由がありそうだが、フランスを だし 、、 につかって、ドイツ的であればなにもかも褒めそやすのを聞いて、いたましい気がした。私は今までこんな型のフランス人に出会ったことがなかった。

第八章 もう一つの音楽会

またの日(ロシア暦ではクリスマス当日)、私は旧ゲワントハウスの楽堂で、リスト連盟が催した音楽会に出席した。新しい方が綺麗で、善美を尽くし、室も広く、優美なのに比例して、古い方のは小さく、居心持も悪く、じめじめしてさえいる。だがこの室、ことにそれに属する小さい芸術家の部屋は、ドイツ芸術の神聖な記念物をもっている。ここへ腰を下して、メンデルスゾーンやシューマンをはじめ多くの時代を通じて、ゲワントハウスの舞台に立った沢山な大音楽家がみな、この壁を眺めたのだと思った時、ぞっと身ぶるいがした。
 
音楽会は朝のうちに行われ、私の作品ばかりからなっていた。新ゲワントハウスとは反対にリストの名を負うているとの協会は、近代音楽の演奏に全力を捧げていた。創立以来二年を経たにすぎないが、すでに特有の聴衆、かなり多数の聴衆をもっている。この時も会場はいっぱいで最後の席までふさがっていた。この協会の監理人たちの中にはリスト崇拝者が沢山いて、概して精力もあり才能もある若い人々で、この協会はやがてはゲワントハウスの容易ならぬ競争者となるかのように思われる。この協会の成功をとくによろこぶ人たちの中で、私は有能な音楽批評家マルティン・クラウゼ、ライプツィヒ歌劇場の天分のある指揮者フリッシェ(ウィーン生まれ)とわが同胞のシロティ氏などをあげなければならない。
 
ワイマールの大公オーケストラの統卒者も、この音楽会を聞きにワイマールから来た。讃美者のシロティからその名を度々聞かされていたし、またこの数年間私のヴァイオリン協奏曲——ブロドスキーのことと関連してすでにほのめかしておいた協奏曲——の特殊な研究をしてくれたので、いよいよ近づきになるのをうれしく思っていた若いヴァイオリニスト、ハリール氏も、この音楽会に出演した。氏は私の協奏曲をいたるところで演奏し、もっとも有力な批評家が氏の風変わりな趣味に加えた冷笑と非難とを忍び、さんざんに悪くいわれた私の創作を、ドイツの交響楽演奏会の見世物の一つにしようと努めていた。この時は、ハリール氏はシロティおよびあの優れたチェリストのシュレーダー(かつてモスクワで一大成功を博した)といっしよに、私がニコラス・ルービンステインの思い出に捧げた三重奏曲を演奏した。この演奏はまったく模範的であった。ペトリ氏(ゲワントハウス管弦楽団の統卒者)の四重奏団は、私の第一四重奏曲を非常に見事に演奏し、なお私の小曲を一、二曲演奏した。
 
リスト連盟の聴衆は熱心で、すこぶる寛大に拍手喝采してくれた。私は温情がかけていたなんて苦情をいうことはできない。協会からは花環を贈られた。演奏中、私は聴衆からよく見える壇上に、グリーグと妻君のそばに坐っていた。後に親しい一批評家——フリッシュ——は、ある夫人が娘に、グリーグと私とを指して「ごらん、チャイコフスキーさんがいらっしゃいますよ、そのそばのはお子供さんですよ」と、いっているのを見たと私に話した。これは至極真面目な話なのだが、さほど驚くにはおよばない。というのは、私は髪がすっかり灰色になっているし、また年長であるのに、四十五才のグリーグと妻君とは、遠くから見ると驚くべきほど若くまた小さく見えるからである。
 
音楽会を終わってから、シロティおよび氏の友人でリスト連盟の幹部の人たち数人といっしょにすこぶる愉快な数時間を送った。私たちはロシア音楽について大いに語った。そして私はこうした才能のある若い音楽家たちが、わが国の音楽によく通じていて、グリンカ、バラキレフ、リムスキー・コルサコフ、ボロディンおよびグラズノフに非常な好感を寄せていることを知って、大いに感謝した。この人たちはバラキレフの「イスラメエ」(回教徒)を好み、その独創の故にこの作をこの種のもののまったく無類な作と見なしていた。この記念すべき日に、私ははじめてハリールが私の協奏曲を奏くのを聞いた。私にはその驚くべき音の美と、不思議な技巧と、情熱と華麗と力を授けられたこの芸術家が、まもなく現代のヴァイオリニスト中第一流の位置を占めるにちがいないと思われた。

第九章 ライプツィヒの一週間

私の生涯における重大な二日を経てから、私はライプツィヒにまる一週間いた。またその後も再度ここに来て数日間滞在した。ライプツィヒのことを二度と書かないために、ライプツィヒで知り合った懐かしい人たちやその他の興味深い事実を、ここにあげよう。
 
ライプツィヒの歌劇場は才能のある若き指揮者、ニキシュ氏を有することを誇りとしている。この人はワーグナーの後期の劇にかけての専門家である。私はここで「ラインの黄金」——有名な四部作の最初のもの——と「名歌手」とを聞いた。この歌劇場のオーケストラは、ゲワントハウスのそれとおなじで、したがって第一流である。このオーケストラがライネッケの下に演奏会を開く時は非難の余地があるが、ニキシュのようなその道にかけての驚くべき大家の指揮の下にワーグナーの入念なスコアの演出を聞くと、このオーケストラが有能な指揮者に統率された場合に達しうる完成を、幾分想像できるのは明らかである。彼の指揮法はハンス・フォン・ビューローの効果的な、またその点で無類な指揮法と共通するところは全然ない。
 
ビューローの指揮の仕方は変化があり、たえず動き、華麗で、眼に訴えるに反して、ニキンのは優美で静で無駄な動きが省かれている。しかも同時に驚くべきほど力強く、また落ちついている。ニキシュは指揮しているようには見えない。むしろなにか不思議なまじないをしているようである。ほとんど合図をしないし、また自己に注意をひきよせようともしない。だがこのオーケストラは、驚くべき名人の手にかかった楽器のように、ただもう楽長の支配のままに働いている。そしてこの楽長はやや背の低い、青白い顔をした、美しい輝かしい眼をした三十才ばかりの青年で、この人にはオーケストラをジェリコーの一千の喇叭のように響かせたり、鳩のようにクウクウ啼かせたり、神秘な囁きの中に消えさせたりする魔法の力が授けられている——たしかに授けられているにちがいない。しかも、こうしたことはみな、聴衆がこの従順な奴隷——オーケストラ——をもの静かに御してゆく小指揮者のいることに気づかないといった風に行われる。
 
ニキシュはドイツ人化したハンガリー人だが、これは無類な例ではないと思う。だが私は少なくとも音楽家ではこうした人にもう一人しか出会っていない。私がいくぶん親しくしていた天才フェルッチョ・ブゾーニがそれで、この人はフローレンスに生まれ、そこで年少時代をすごしたが、故国の南方的特長(私は音楽の見地からいっている)を全然失い、言語、習慣、なかんずく音楽上の様式をまったくドイツ人から借りた。ブゾーニがドイツに住むようになったのは、まだ若かった。彼はドイツのよい音楽学校にはいり、稀代な技巧をもつピアニストになった。私はブゾーニが近頃作曲した四重奏曲が、ペトリ氏の四重奏団によって美事に演奏されたのを聞いた。この作はブゾーニが作曲にかけての確かな才能と、真摯な傾向とをもつことを証明した。私には個人的知識から、この若い作曲家が性格の力と、めざましい知力と崇高な向上心とをもっていると信ずる理由があるから、まもなく大いに評判になることと信じている。私としてはこの四重奏曲を聞いて、その非常に独創的なリズムとハーモニーの組み合わせとを楽しみながら、ブゾーニがあらゆる方面で自己の性質をまげ、どんな代価を払ってもドイツ風になろうと努めているのを残念に思わざるを得ない。
 
おなじようなことが新時代のもう一人のイタリア人、ズガンバーティにも観察されるかもしれない。両者ともイタリア人であることを恥じている。両者とも作品にメロディーらしいものがあらわれはしまいかとおそれ、ドイツ流にメロディーを漠然たらしめようとしたがっているらしく思われる。まったく悲しむべき現象である! あの霊感を受けた老人、ヴェルディはすこしもドイツ様式(ヴェルディはワーグナーの足跡を追ったと想像する者があるが、まったくまちがっている)を模倣しないで、「アイーダ」と「オテルロ」で、イタリア作曲家のために新しい道をひらいた。ところがドイツ的傾向をもつ若い同国人は、自己の本性をまげてまで、ベートーヴェンやシューマンの国で月桂冠をかち得ようと努めている。彼らはブラームスのように深く、朦朧と退屈にさえなろうとしている。ただ今日もなおあらゆる様式で、ベルリーニやドニゼッティの古い陳腐な歌劇を皿に盛っている多数のイタリア作曲家と混同されたくないばかりに。けれども彼らは獅子の皮を着ても、羊は羊だということを忘れている。そして獅子が生まれつき美と力とを授けられているとすれば、羊もまた温和で、驚くべきほど温い毛皮、ならびに獅子の性質および長所と同様に養成され、完成され、尊重されなければならない他の特色をもっている。
 
イタリア音楽は彼らの国民的傾向と争い、ワーグナー派、リスト派、ブラームス派その他の列に加わろうとする代わりに、国民的天才の胸から新鮮な音楽的要素を引き出し、三十年代のつまらぬものを棄て去り、国民性の精神によって新しい形式を創造し、環境と絢爛な南方の風景と一致する時、はじめて新しい繁栄の時代に入るものと私は堅く信じている。というのは、イタリア人の華麗な自然な特色、豊富なメロディー、イタリア音楽の天才に属する親しみやすい外的な美はある深さ——ドイツ人のそれとはまったく種類を異にしているが——とおそらく両立したいものではないからである。ブゾーニは優れたピアニストだから、ぜひ最近にロシアを訪問してもらいたいものである。とにかく彼はめざましい興味ある個性である。
 
ライプツィヒの印象および経験を完全なものにするため、政治が音楽に影響をおよぼさず、マース神(軍神)とアポロ(芸術神)とは神様なので、お互いに嫉妬深くないことを証明しようとする面白い話を一つ述べよう。ビスマルクが二月に有名な煽動的演説をしてから、ドイツ全土は恐露病の炎につつまれた。ところがある朝早く、私はホテルの廊下で人声や足音がするので目をさました。するとまもなく、私の室の戸をたたくものがある。私は少々びっくりしながら、床を跳び出して戸を開けた。見ると給仕で、朝の音楽が私の窓下ではじまりかけたから、霜がめずらしくひどいけれど、窓から顔を出してくれと丁寧にたのむのだった。給仕はそういって、すてきな意匠をほどこした曲目表——非常に変わった八曲からなるプログラムを渡した。この時、下からわがロシアの国歌が響いてきた。私は着物をきるやいなや、窓を開けて、ホテルの小さい中庭を見下ろした。
 
私の窓下には軍楽隊の一隊がならんでいて、その真中に元帥の服のような燦然たる制服をつけた楽長が立っていた。すべての人の視線がいっせいに私の方に向けられた。私はおじぎをして、二月の朝まだき、厳寒の霜に頭をさらしながら立っていた。この軍楽隊は当時ライプツィヒに配属されていた連隊の一つであった。優秀な軍楽隊で、曲目を非常に上手に演奏したが、これにはすっかり驚かされてしまった。というのは、気の毒な音楽家たち——一時間以上も残酷な冬の霜の中でじっとたえていた——の指が麻痺してしまうほど、寒さがひどかったから。指揮者のヤーロフ氏が私の音楽をとくに好いていたので、私に敬意を表したのであった。おかげで、軍服をまとった一団のドイツ人は、よぎなく私の耳をよろこばせたのだった。朝のセレナーデがすむと、楽長は私に会いに登ってきて、丁重な挨拶を述べてから、急いで軍務に帰っていった。いうまでもなく、私はこの情緒の表現にすっかり感心させられた。ホテルの他の客人はこんなに朝早く、トラムペットやトロムボーンの音に驚かされて床を出たことを、私同様に感謝したかどうかはわからない。しかし少なくとも、人々の好奇心を起こさせたにちがいない。何事が起こったのかと、窓という窓から、さまざまな着物をきた人たちがのぞいていた。

第十章 ハンブルクの音楽会

ハンブルクには二つのちがった交響楽協会がある。一つは昔からあったもので、多額の資本とすこぶる有名なオーケストラをもっている。もう一つは、有名なハンブルクの音楽代理人ボリーがごく近頃創立したもので、専属の管弦楽団はないが、第二流の音楽家からなる歌劇場の楽団——おまけに劇場の仕事でさんざんにこき使われている——を使用している。この二つの協会は幾回も交響楽演奏会を催し、フィルハーモニーの方は久しい以前から、卓抜また経験のある指揮者ベルヌート博士が指揮している。この人は音楽学者として、またすこぶる温厚な魅力ある人物としてハンブルクでは一般に尊敬されている。もう一つの協会のオーケストラは、ハンス・フォン・ビューロー氏に指揮されている。こうした時にはかならず起こるように、この二つの音楽的企業の間には深い敵意があって、たがいに反抗し合い、収入額に、成功に、名声にたがいに他を出しぬこうとしている。
 
私はフィルハーモニー協会の音楽会の一つで、私の作品を三曲指揮するように招かれた。こうしてハンス・フォン・ビューロー氏——氏もフィルハーモニー協会に対してはあまり好感を抱いていなかったようである——に対立する陣営に投ぜられた。私は自分がやっかいな立場におかれているのを感じた。ハンス・フォン・ビューロー氏は過去において私にすこぶる貴重な助力をしてくれたので、私はいつまでも負債があるように思っていた。で、ハンブルクにおける音楽事情を知った時、私は氏に迷惑をかけることになりはしまいかと考えて遺憾に思った。だが私の心配はまったく不必要であった。ハンス・フォン・ビューロウ氏は生まれつきの紳士で、私が反対の協会音楽会にあらわれたことを、きわめて紳士的に考えてくれた。ハンブルクからブレーメンへ、ブレーメンからベルリンへ、ベルリンから再びハンブルクへと、たえず旅行をしていたため(氏は予約演奏会を指揮しながら、まる三年間との旅行をつづけた)、健康を害し、非常に疲労していたにもかかわらず、私をすこぶる懇篤に歓迎してくれた。氏は私を訪ねてくれた。そしてとくにハンブルク人の目をひいたのは、氏が私の参加した音楽会を、最初から終わりまで聞いたことであった。
 
私は一月の十七日にハンブルク・フィルハーモニー協会の音楽会が催される会場、コヴェントガルテンの下稽古に出席した時、ゲワントハウスの最初の下稽古に出た時のように、ひどくびくびくものだった。オーケストラの進行方法はライプツィヒの時とおなじであった。私は私の第三組曲の最終楽章(主題と変奏曲)を最初にした。私が最初の拍子を打った時、楽手たちの顔にはむしろ冷やかな好奇心以上のものはなにもあらわれなかった。けれどもまもなく中の数人が微笑しはじめ、「このロシアの熊はまんざら悪くはない」といわぬばかりに、互いにうなずきあった。われわれの間には共鳴の帯ができあがって、私の心の動揺と臆病はことごとく消えた。さながら魔法の杖に触れたかのように。その後の下稽古および音楽会そのものが私にもたらしたものは愉快だけであった。
 
芸術家が自己の仕事を充分に知らないで、全然新たな世界の一外国人だと感じる時、こうした心配にはたえきれないものである。大衆の前にあらわれる以前に、あらゆる人が出くわすこうした恐怖と興奮も——とくに神経質な人には——同僚や周囲の者の同情に信頼できれば、その人をわずらわさなくなる。二回目の下稽古の時、私は若い同国人のリベルニコフが受けた成功に、めったにないうれしさを経験した。この若い芸術家はゾフィー・メンテル夫人(サベルニコフ氏はペテルブルグの音楽院で夫人について修業した)の推薦で、私の指揮の下に私のむずかしい第一ピアノ協奏曲を弾くように招かれたのであった。
 
私はペテルブルグを出発する前夜、サベルニコフ氏の演奏を聞く機会を得た。そしてその美質についてかすかに真価を知ることできたのだが、まだ——たぶん永い旅行に出る前のせわしさとあわただしさのために——この感じやすい若いピアニストのもっている稀有な美質を観察する余裕がなかった。ところがこの下稽古で、サベルニコフ氏は私の協奏曲の想像もできないような困難をそれからそれと征服し、徐々に氏の巨大な天分のあらゆる力と特色とをあらわしたから、私の心酔はいよいよ増加した。なおひとしお愉快に感じたのは、オーケストラ部員全体がこの心酔を感じ、切れ目切れ目に、ことに終わりにあたって暖かい拍手喝采を送ったことであった。
 
音の珍しい力、美および華麗、演出の霊感的な熱烈さ、自制の驚くべき力、細部の仕上げ、音
楽的敏感および完全な自信——こうしたものが、サベルニコフ氏の演奏のいちじるしい特色である。「抜群な、信ずることのできない、絶大な演奏だ!」とは、楽手たちが大喝采をした後でもらした言葉であった。わが未来の大ピアニストが、ドイツの芸術家たちに呼び起こしたこの心酔の純なまた心からの発露を、私が非常にうれしく感じたのは申すまでもない。ここには凡庸なピアニストが沢山いて、なんとかして有名になろうと骨折っているが、こうして突然この音楽家たちの一団を驚かせ、夢中にさせることができたのは誇っていいことである!
 
翌朝の下稽古はゲワントハウスの時と同様公開で、音楽会は同夜に催された。私の三つの作品の中で「弦楽と管弦楽のためのセレナーデ」が、ハンブルクの聴衆をもっともよろこばせ、喝采の嵐を起こした。ピアノ協奏曲は作そのものはあまりよろこばれなかったが、サベルニコフ氏の演奏はその独特の美質の故に評価され、この非常に天分のあるピアニストは、きわめて熾烈な歓迎を受けた。第三組曲の最終楽章は、大衆の趣味に適しないようであった。オーケストラ的効果が騒々しく落ちつかないので、この楽章は近代的な交響楽様式に慣れないハンブルク・フィルハーモニー協会の聴衆を当惑させた。その後、私はこの聴衆がおそろしく保守的で、現在の作曲家の中で心よく認めているのは、ブラームスだけだと説明された。
 
音楽会がすんでから、ベルヌート博士の家で大晩餐会が催された。一般ロシア音楽、とくにこの日誌の筆者(注——チャイコフスキー自身)をほめたてるような話があった。私はドイツ語で来会者一同が親切に大目で見てくれた多くの思いちがいに答えた。散歩してから新しい友人数名がサベルニコフと私とをビーヤ・クナイベにつれていって、朝の二時まで話し、ビールを飲んだ。
 
だがこれではすまなかった。われわれはさらに夜通し店を開けているウィーン人経営のあるカフェにつれこまれて、そこで長い間バッカス神へお神酒をあげた。ハンブルクの人たちは他のドイツの都市にいる人たちのように、静かに行儀よく暮らしていないように、私には思われる。ここにいる私の友人はことごとく、真面目な社会上堅実な位置を占めている人たちでさえ、「気晴らし」が好きである。で私はこの愛すべき愉快な魅力のある市にいた時ほど「気晴らし」をしたところはどこにもなかった。
 
またの日、音楽家連盟は私のために夜会を催してくれた。私の音楽だけが演奏された。若い合——ナターン嬢という——が私の歌曲を数番唄い、サベルニコフがピアノの曲を三曲弾いた。
 
ライプツィヒでブロドスキーやシロティの家庭内で、親しみを味わったように、ハンブルクでは、ブリュトナー——音楽界では唯一人知らぬもののない——商会、および永らくこの市に住んでいた温厚なラテール氏の家ですっかりくつろいだ。ラテール氏はぺテルブルグで最愛の息子を失って以来、後に残った子供たちの健康が心配になって、家族をライプツィヒに移し、時々ロシアから出てきて、三ヶ月間ずつ家族といっしょにいることにしていた。私はラテール氏、妻君および愛らしい子供たちといっしょに、多くの愉快な時を送ったが、子供たちはみなロシアで生まれたにもかかわらず、ロシア語をいくぶん知っているのは長男だけであった。私はこの機会を利用して氏の変わらぬ親切と、私のために尽してくれた好意とに対し、氏に深く感謝の意を表したい。というのは私がハンブルクに呼ばれたのもハンブルクに来てから、それからそれとドイツの各方面からうれしい招待状が私のもとに届いたのも、氏の手引きのおかげであったから。

第十一章 ハンブルクの友人たちに会う

ハンブルクでは、ライプツィヒ同様、二、三のきわめて興味ある人たちと知りあいになった。まっさきにフィルハーモニー協会のアヴェ・ラレメント氏をあげなければならない。八十の坂を越しているこの尊敬すべき老人は私に非常な注意を払い、同国人の一人として愉快な歓迎をしてくれた。老年で病身で、遠いところに住んでいたにもかかわらず、ラレメント氏は二回の下稽古にも音楽会にも、ベルヌート博士家の晩餐会にも出席した。氏は親切にも私の写真をハンブルク第一の写真師に撮らせたがって、それをたのみに自分自身私に会いに来て、写す時刻や写真の大きさや型をきめていった。
 
私はこの懇篤な老人を訪問したが、氏は読者にも推察できるとおり、何事にも近代的なものに反対する老人にありがちな偏見を全然もたないので、私は永い間すこぶる愉快にお喋りをした。氏はハンブルクで演奏された私の作品の多くが少しも気に入らず、私の騒々しい器楽編成に辛抱できず、私が用いたオーケストラの効果、ことに打楽器の効果をきらう、と正直に白状した。にもかかわらず、氏は私にはまったく立派なドイツ作曲家の資格があると考えていた。氏はロシアを棄て、永久ドイツに住んでくれ、ここにおれば古典的な習慣と、高い文化の伝統とがかならず君の短所を訂正するにちがいないからと、涙を流さんばかりにしてたのんだが、この短所というのは、私がいたって未開な、また進歩の点でドイツよりはるかにおくれている国に生まれ、また教育されたという事実で、造作なく説明できるものであった。氏がロシアに対して嬉しい偏見を抱いていることは明らかであった。で、私は氏が無知であったためか、さもなくば恐露病に罹った少数の人たちの演説を通して知ったにすぎない、わが国民的情緒に対する敵意を、圧服しようと全力を尽くした。私たちは仲の良い友人として別れた。
 
私はまたハンブルクの主だった、批評家シュタルツ氏からも、おなじような特別待遇を受け、親切な腹臓のない意見を聞いた。氏は下稽古に全部出席して、演奏された私の楽譜を綿密に研究し長い詳細な論文を書いて、私がとった傾向を断固として非難し、私の交響楽的様式の欠陥を指摘し、粗笨な、つぎはぎな、蛮的な、虚無主義を暗示するかのように述べた。シュタルツ氏みずから、あからさまに私に対する非難を繰り返した。だが同時に氏の言葉は私が氏との短い交際のきわめて愉快な思い出を忘れなかったほど、純な感情を反響していたし、それほど注意深い研究と友誼とを証明していた。
 
他の数人の音楽家、および専門に音楽にたずさわってはいないが、音楽に深い興味をもつ人達も私にありがたい注意を払い、心からの同情をあらわす仕方を心得ていたから、私の記憶に消すことのできない印象を残した。音楽理論の研究に没頭し、ロシアでも知られていなくもないリーマン博士、有名なピアノの幻想曲や編曲をものしたあの機智に富んだ作曲家グルリット、才能あるヴァイオニストのウィリー・ブルメスター、一八八八年の夏に開かれたハヴァロフスク音楽会指揮者に任命されたラウベ、ヴァイオリニストのモルフェーとベール、オルガン家のアルムブルシュトおよびその他多くの人たちが、上に述べた人々であった。
 
こうした人たちとの会話から、ハンブルク以上に、ブラームス宗がひろまっているところはどこにもないと、私は推断した。いつも私を苦しめるこの作曲家の位置という問題には、ここでも他と同様な返事を聞かされた、ただハンブルクでは、一芸術家の作品は時とすると、その固有価値からではなく、作そのものだけからでもなく、ある偶然な理由から尊重されるということを、ようやく悟った。わがロシアの格言が立派にいいあらわしているように、「魚のいない時は川蝦が魚と見なされる」。
 
多くの人が信じているように、ワーグナーとワーグナー主義がドイツの大衆全体を満足させていないことは事実である。充分確信のある、精力的な、力強いワーグナーの擁護者が、ワーグナーの信条をドイツに樹立し、ひいては彼の音楽の発展を促進しようと百方努力していることに疑いはない。だがドイツの大衆の大多数はすこぶる保守的で、音楽上の改革には何事によらず反抗しようとしている。彼らは歌劇の領土におけるワーグナーの勝利にある程度まで和解しているにしても、音楽会では堅く古典的な伝統を保っている。音楽会場を独占したがっているリスト派は、信じられないほどの障害にぶつかり、すこしも成功していない。ワーグナー主義にかぶれず、ワーグナーの独占をさけるドイツ人たちは、ある謙譲とよい耳とをもっているが、それが彼をしてあらゆる強烈な効果、果敢な風変わりな、卓抜な、はなばなしい、異常なもの、一口にいえば、あらゆるヨーロッパの楽派の新しい交響楽的音楽の中にひらめいているものを、ことごとくいとわしいものにした。ドイツ人——少なくともその大多数——はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマンおよびその同僚によって指示された大道へドイツ楽派を導くことのできる新たな天才を欠いているために、ベートーヴェンになることはできないでも、少なくともベートーヴェンの足跡についていくだけの崇高な野心に霊感されているブラームスに、彼らの希望を集中した。それほどドイツ人は、古典的様式の交響楽に耽り、偉大な作曲家たちの穏健な、また一般に認められた伝統に没頭する音楽家を、切に求めているのである。

第十二章 ベルリンにて

ベルリン・フィルハーモニー協会——私はむしろ「フィルハーモニア」として知られている音会場を借りている器楽家の協会といいたい——から、全部私自身の作品からなる特別な音楽会に出席するようにと招待された。曲目の編成にはなにか困難がともなうものだということはすでに述べておいた。というのは、この協会の会頭シュナイダー氏は、ベルリンの大衆に私を気に入らせるようなものを演奏したがっていたからである。
 
私は私の「一八一二年」序曲をまったくの凡作で、ロシアの音楽会以外には不適当にする愛国的なまた地方的な意義しかもたないものと考えていたし、今もそう思っている。ところがシュナイダー氏が曲目に入れたいと思ったのは、まさにこの序曲で、氏はこの作が何回も演奏されて成功を博したといった。ところが、私は私の幻想曲「ロミオとジュリエット」を曲目の根幹にしなければならないと思ったので、このすこぶる魅力ある温厚な紳士シュナイダー氏はやっとのことでしぶしぶ私の説に賛成した。氏の考えでは、こうした好かれそうもない難曲を演奏するのは一大冒険だったろう。私は私の音楽ならびにベルリンの大衆の趣味によく通じているハンス・フォン・ビューロー氏に相談しようと決心したが、氏もまたシュナイダー氏の味方だったから、びっくりしてしまった。私はシュナイダー氏の説に服した。
 
ベルリン・フィルハーモニー協会のオーケストラはすこぶる見事なもので、伸縮自在性といわなければならないところのもの、ベルリオーズやリストのオーケストラの大きさにまで延びる力、ベルリオーズの気まぐれな効果、もしくはリストのオーケストラの重厚な、堂々たる音を完全に演出する力をもっている。また一方ではハイドンの要求通りに縮まることもできる。この点ベルリンのオーケストラはわがロシアの主要都市にある多くのオーケストラを連想させる。これはたぶんロシアの主要都市と同様、ベルリンでははっきりした折衷主義が音楽会の曲目を支配しているからであろう。ここではペテルブルグやモスクワ同様、一つの音楽会でハイドンとグラズノフ、ベートーヴェンとビゼー、グリンカとブラームスとが聞かれる。こうしてなにもかもおなじ親愛な注意とはなばなしさと統一とをもって演奏される。
 
フィルハーモニー協会の会員たる音楽家たちは、歌劇場には雇われていない。したがって疲れていない。なおまた会員たちは組合を組織していて、会員一同は同等な資格を有し、彼ら自身の利益のためには演奏するが、わずかばかりの月給しか払わない音楽代理人のためには演奏しない。これが彼らの演奏を力強くまた表情に充ちたものにしている理由である。
 
最初の下稽古の時から、私はオーケストラの紳士諸君に、また諸君の注意と懇篤とに励まされなにもかもうまく行った。下稽古には音楽界の著名な人々が多数列席し、ありとあらゆる方法で各自の興味をあらわした。中で私の音楽会に出席するためわざわざライプツィヒから来たグリーグ、モーリッツ・モシコフスキー、エールリッシュ教授およびハンス・フォン・ビューローなどをあげなければならない。ビューローは非常に疲れていたにかかわらず、最初の下稽古にあらわれて、親切にしてくれた。天気具合はすこぶる悪かったが、音楽会は沢山の聴衆を集め、すこぶるはなばなしく終わった。シロティは私の協奏曲を非常にうまく弾いて一大成功を得た。サベルニコフもまことに親切懇篤に、私の歌を数曲唄った声楽家フリーデの伴奏を弾いてくれた。交響楽的作品の中では序曲「一八一二年」と第一組曲中の序曲と終曲とがもっともよろこばれた。私は盛んな拍手喝采に迎えられた。
 
ドイツの首府としてのその重要性から見て、私のベルリン訪問については諸君が期待されるほど愉快な話もないし、またくわしい記事も書かないと思われるかも知れないが、それには理由がある。説明しよう。実はベルリンの話をするのは困難でもありいたましくもあるからである。八年間ベルリンに住み、高い地位を占めていた人で、もと私の弟子で後に私のもっとも親しい友人になったJ・I・コテカ君が死んだため、私の受けた償いがたい損失が、いまもなおまざまざと記憶によみがえってくる。私は毎日故人が交際していた人たちと接触している。その人たちの多くは私自身のように、友情の帯で故人に結びつけられていた人たちである。そしていつも逝ける友を痛切に思い出し、癒えるか癒えらぬうちに、またも傷口を開かせるようなことばかり話しているのである。ただ時だけがこうした痛手をやわらげることができるが、われわれが力と精力とに充たされていたこの才能のある青年の死と、和解するには永い永い時間が必要である……。
 
ベルリンでとくに親しかった人たちの中で、有名な音楽会代理人ヴォルフ、立派なヴァイオリニストのエミール・サウレット、著名なモーリッツ・モシコフスキー——この人の個性はその創造的天同様興味あるものに思われた。出版業で愛想のよいフーゴー・ボック、最後にアルトー夫人——モスクワの大衆がよくおぼえている——をあげよう。この有能な歌手はしばらくベルリンに住んでいて宮中や一般大衆から尊敬され愛されている。彼女はここで非常な成功を得、また教授もしている。私はグリーグといっしょに招待されて、夫人の家で一夕をすごしたが、その時の思い出はいつまでも忘れないだろう。この歌手の人格と芸術とは相変わらず抵抗のできない魅力をもっている。