エクトル・ベルリオーズによるリスト評
論考『リスト』(1836年)より
ふたたび現れたリストの姿はすっかり変わっていた。
当時も彼の技術は優れていたけれども、今日のリストは我々がよく知っていた過ぎし年のリストを完全に凌駕してしまった。そして彼が非常な飛躍をなし、かくも迅速にいままで知られていた最高点を超えて以来、我々は最近の彼を聞いたことのない人々に向かって、大胆に「お前たちにはリストは分かっていない」と呼びかけることができるほどである。
……私が技術に関して、大いに新しいものとしていままでのものと違う点だけをいうならば、節奏と色調とであり、人々はこれ等をピアノで表現することは不可能だと思っており、かつ今までは実際到達し得ないものであった。
このために当然必要となってくるのは次のようなことである。すなわち広々とした、しかも簡単な歌の旋律、長く響きつづけ、そしてガッシリと結ばれた音、そのうえある箇所では非常に激しく、しかも堅さや和音的な輝きを損なうことなしに、非常に投げやりに書かれたすべての音符、さらに短三度で動く旋律、楽器の底音部における全音進行に驚くばかりの速さでスタッカットが行われるということ。しかもかくして各々の音符はただ直ちに消され、そして前の音とも後の音とも完全に分かたれるような、短く和らげられた音を出すにすぎない。……
非常な驚嘆の的となり、そして人々は彼の少年時代、とくに彼の神経過敏な気質に鑑みてほとんど期待してなかった進歩は、彼の演奏ぶりの抒情的な部分の著しい改革であった。……これこそピアノ演奏の新しき偉大なる流派である! いまより、作曲家としてのリストからすべてが期待されてよいのだ!
しかし人々は、彼のピアノ演奏家としての意味がどこにあるかを、もほとんど知っていない。なぜなら、急速な、完全な方向転換ということは、どこまで突き進んでいくか分からないような強力な内面的な衝動にしたがっていくところの、いまだなお発展段階にある人の場合についていわれることだからである。
私の意見が正しいことを説明するために、私は今日までほとんどすべてのピアノ演奏家にとってスフィンクスの謎であった優れた詩、ベートーヴェンの作品一〇六番の大きなソナタを彼が演奏するのを聴いたことのある人々の判断を引き合いに出してみる。
新しきエディプスであるリストはその謎を解いたのだ。それは演奏不可能と思われていた作品の演奏の理想である。リストはかくのごとく今まで理解されていなかった作品を人々に理解せしめながら、彼こそ未来のピアニストであるということを示したのであった。
『ジュルナール・デ・デパ』紙への寄稿(1840年4月)
ピアノの王者が現れた! こんどは残念にももしパリが彼に敬意を表することができないとしても、世界の芸術の都パリが音楽祭をもって歓迎する栄誉が、将来は彼に与えられるであろう。そのときは王者のような待遇を受けるだろう。そして誰も入場無料で彼の音楽が聞けるだろう。