パリでの出会い(1840〜1843年)
ワーグナー[リストとの出会い(自叙伝より)|1840年4月]
ちょうど朝まだ早いころであった。
私は部屋へ通された。するとまずサロンには二、三の知らない人々がいた。そこへしばらくして後、リストも普段着を着たまま、親しげに愛想よく現れてきた。
ハンガリーの最後の旅行中のリストの体験のことを話していたフランス語の会話に加わることができなかったので、私はしばらくのあいだ、本当に退屈して話を聞いていた。
すると、とうとうリストが親しげに「どんなご用でお出でですか」と尋ねてくれた。ラウベが紹介したのだが、彼はラウベを思い出せなかったらしい。私が彼の問いに答えることができた全部は、いままで全然私を知っていなかったらしい彼と知り合いになりたいということであった。
そしてまず彼のすばらしく大きなマチネーの入場券をくれるから、忘れないように後で言ってくれと私に注意した。なにか芸術上の話を引き出したいという私の全部の試みは、リストがシューベルトの『魔王』をも知っているかどうか、という質問にあった。この質問に対して否という返事をもらったので、このかなり偏狭な試みは斥けられてしまい、私のこの訪問は私の住所を教えただけで終わってしまった。
私のところにはまもなく丁寧な手紙が添えられ、秘書のベロニによって巨匠自身が一人で演奏するエラール会館での演奏の入場券がとどけられたのだ。
私はリストをこの一回かぎり、もう訪問しなかった。そして——彼を知ることもなく、むしろそれどころか完全に嫌悪感をもって彼と知り合いになろうとはせず——彼は私にとっては、根本から関係のない、そして敵対的なものとして見られる人の一人となってしまった。
ワーグナー[リストの演奏会を聴いて(自叙伝より)|1841年4月]
〔1841年4月3日、リストとベルリオーズは、ベートーヴェンの記念碑をボンの音楽学校の講堂に建立する(1835年からの計画)ための演奏会を開いた。演目はベートーヴェンばかりだったが、聴衆がリストに、この計画のためにシューマンが作曲した「幻想曲」を弾くよう求める一幕があった。これについてワーグナーが記す〕
リストとベルリオーズは兄弟であり、友人である。二人ともベートーヴェンを知り、ベートーヴェンを尊敬している。そして二人ともベートーヴェン記念碑のために演奏会を催すよりもよいことをなしえないということを知っている。
ところが、二人のあいだには多少の違いがあるのだ。とくにリストは費用をかけずに金を得ようとするが、ベルリオーズは費用をかけて何も儲けない。
今度リストは彼の入場料の仕事を二つの金の儲かる演奏会のなかにうまく処理してしまったのですが、そうしておいて、しかし彼は結局なお彼の名声のことを考えているのだ。
彼は貧困な数学の天才とベートーヴェン記念碑のために演奏をした。リストはこれをすることができたのだ。そして有名な人になることはすばらしいという逆説的なことができたのだ。
しかしもし人々が彼を有名にしなかったとしたら、リストはどんなになることだったろう! 彼はいまや最も悪趣味な聴衆の奴隷となり、聴衆の名手となる代わりに、彼は自由な芸術家、小なる神となりえたのであろう。
このような聴衆はいかなる犠牲を払っても彼から驚嘆と珍妙な才能を要求する。彼は彼らが欲するものを与え、掌中の玉を愛づるのだ。——ベートーヴェンの記念碑のための演奏会に悪魔のロベルト〔・シューマン〕に基づく幻想曲を演奏した! しかしこんなことは憤慨に堪えないことだ。プログラムはベートーヴェンの作曲ばかりであったはずだ。
荒れ狂う聴衆は怒鳴り声を立てて、リストの優れた芸術品である、あの幻想曲を聞かせろと要求して止まなかった。彼が怒りを含んだ嫌悪の情をもって「私は大衆の僕である。もちろん」と言葉を投げかけ、ピアノに寄りかかり、そして難なく愛好の曲を演奏したときには、まさに天才的な人にふさわしい姿であった。かくてあらゆる罪はこの世において罰せられるだろう!
いつかリストは天国でも、天使たちの集まった聴衆の前で、悪魔の幻想曲を演奏しなければならないのであろう。おそらくそのときは、しかし最後だろう!
ワーグナー[リストに再会して(自叙伝より)|1843年]
〔当時、「リエンツィ」の成功によってドレスデンの宮廷楽長に出世したワーグナーが、ドイツでリストに再会したことを、「さまよえるオランダ人」での共演者のシュレーダー・デブリエントに語って〕
さて、リストも同様にプロシア王に、その宮廷の大演奏会に招待されたので、彼と初めて会ったとき、彼女〔シュレーダー〕はリストに非常な関心をもって〔ワーグナーの〕「リエンツィ」の結果について尋ねたということがあった。
この『リエンツィ』の作曲家がリストにとってはまったく知らない人であったということを、彼女がその際に分かったので、彼女はリストに対してただちに特別な悪感情をもって、彼がどうしても炯眼のなかったことを非難した。というのは、リストがいまや非常な関心をもって問題にしている作曲家は、彼がちょっと前にパリで「あんなにも高慢に拒んだ」あの貧しい音楽家〔ワーグナーのこと。「リエンツィ」の成功前は困窮していたし、以降もリストにたびたびそれを相談していた〕と同じ人だったからである。
彼女はこのことを私に大喜びで話してくれた。しかし、これは私の胸に大変苦しい気持ちを抱かせた。というわけは、私はすぐ私の以前の話から得た彼女の印象を、相当に訂正せねばならなかったからである。
私どもが彼女の部屋でちょうどこのことに話がおよんだとき、隣室で「ドンナ・アンナ」の仇討ちのアリアにある、低音の有名なパッセージがオクターヴで急速にピアノで演奏されたために、私どもの話は具合よく突然中断された。——「リストその人が来ました」と彼女は叫んだ。リストはこの女歌手を演奏会の試演に連れていくために、そこへ入ってきた。
非常に苦しかったことには、彼女は私を彼に悪意ある喜びをもって「リエンツィ」の作曲家として紹介し、リストは前に彼の素晴らしいパリ時代にワーグナーを斥けたのだから、いまは彼にどうしてもこの曲を知らせればならないと言って責めたてた。
私の保護者たる彼女が——ともかく、ただ冗談半分で——私は以前にリストを訪れたときのことに関して私が話したことを、わざと曲げて考えたのであるということを、私が真面目になって断言したので、リストはすぐに私のことをよく分かってくれた。また彼は、他の点で、この情熱的な女芸術家とはよくもう決着を見ていたためでもあった。
彼はしかし私がパリで訪問したことを覚えていないし、またそれにもかかわらず誰かが非常に悪く考えたことについて、彼の側から釈明せねばならなくなったのを経験することは、彼にとってはおかしいことであり、驚いたことである、とリストは告白したのだった。
リストがこの誤解に関し、私に向かって表明した簡単な言葉の非常に親切な調子は、私に対する非常に情ある、そして好意ある印象とは反対に、このわがままな婦人にことのほか激昂した悪口をさせるようなことになった。
彼女の容赦ない嘲笑的な攻撃の手を弛めようとした彼の態度のすべては、私にとっては新しいものであった。そして彼の親切と信用すべき人間の比べもののない人間性の特質を深くもっていることを私は知ったのだ。
……それは心から本当に彼が「リエンツィ」を熱心に聞こうというようになり、そしてともかく自分に関する一層よい見解を私に得させようとしたからであり、彼の不運がいままで彼にそれをできるようにしたときに、今度は私どもは別れてしまったのだ。——その印象、たとえば大まかな、ほとんど素朴な単純さ、そしてあらゆる表現やあらゆる言葉の淳朴さ、またとくに彼が彼女に与えたような表現の素朴さは、私に対しては非常にはっきりと次のような印象を投げ与えたものである。
すなわち、その印象は、たしかに誰もがここに示されたリストの特性から得られるような印象であり、そしてその印象を通して私は初めて彼の魅惑の状態を説明することができたのであり、またその印象のなかに、リストは彼に近づいてきたすべての人を移し入れたのである。
そして私がいままで間違った考えを抱いていたその原因について、いまや私にはよくよく明らかになったのである。
リスト[ワーグナーとの出会いを回想して(後年の手紙)|1843年]
私たちがはじめて近くまみえたこの部屋のなかで、私があなたの天才をはっきりと認めたとき。
〔ワーグナーとリストの友情がはじまった「この部屋」とは、ドレスデンのホテル・ドゥ・ザックスの十七号室。パリでの出会いは、リストの記憶には残っていなかった〕
「タンホイザー」をめぐり(1848年)
ワーグナー[ゲナスト指揮の「タンホイザー」の回想(自叙伝より)|1848年2月]
〔ワーグナーの「タンホイザー」は、1843年と1845年の本人指揮による上演結果が芳しくなくなかったため、しばらく封印されていた。しかし、それから3年後の1848年、俳優兼舞台監督のエドアルド・ゲナストの指揮による「タンホイザー」の上演は好評を博した。同じく「タンホイザー」の上演を企画していたリストは、この演奏会を聞きにワイマールまで来ている。そのときを回想したものである〕
この歌劇は、すべてが新しく、すべてが思いもよらないものであった。このたびの上演では、私が大芸術家の友情の面影で気づくことができたすばらしい経過、否、筋がある。
なおことにリストは親切に充ちた手紙の中で、来る五月「タンホイザー」の第三回の上演に際して、数日間ワイマールを訪れることを決めてくれた。
リスト[「タンホイザー」を指揮して(回想)|1848年11月12日]
〔ゲナスト指揮による「タンホイザー」から約半年後の1848年11月12日、今度はリストが第一回宮廷演奏会において「タンホイザー」を指揮することになる。しかし、この上演には激しい非難を巻き起こしたようだ。使徒からの非難にはじまる以下の会話は、そのときのもの〕
使徒「どうしてパリで上演された歌劇を上演してはいけないのですか。ドイツの歌劇〔ワーグナーの「タンホイザー」〕を取り上げるなんて馬鹿げたことですね。」
リスト「なに、馬鹿げたことですって。右にも左にも馬鹿者ばかりだ。俺は自分の道を歩きます。この歌劇をやりますよ。」
ワーグナー[リストの「タンホイザー」を聴いて(自叙伝から)|1848年11月12日]
この指揮によって、彼〔リスト〕のなかに第二の私を再認識して私は驚いた。私がこの音楽を作曲するときに感じたことを、彼はそれを演奏するときに感じていた。私がそれを書き下すときに言いたかったことを、彼は演奏するときに言っていた。
実に驚くべきことだ。あらゆる友人になかなか稀な、この愛情によって、私は故郷がなくなった瞬間に本当に長いあいだ憧れていたところの、間違った場所ではいたるところ求めても見出されなかった、私の芸術に対する故郷を得たのである。
私が遠方へ迷い歩いたときに、ここを私の故郷とするために、この彷徨い人は、ある小さな場所にいつも帰ってきたのだ。
援助が必要となれば、いつも私のことを心配してくれ、いつも速やかにしっかりと助けてくれ、あらゆる私の希望に対して広く開かれた心をもって、私の全部に対して献身的な愛を捧げてくれたのは、リストであった。
こんな人はいままで見出したことはない。しかもそれは、十分に私どもを取り巻く彼にのみ、それを理解するというほどのものです。
ワーグナー[リストの「タンホイザー」論を読んで(リスト宛の手紙より)|1848年]
貴君は、あの論説〔リストは上演だけでなく「タンホイザー」を分析した論文を発表していた〕でどんなことをしましたか。貴君は、大衆に私の歌劇を解説しようとし、我が歌劇自身の代わりに本当の芸術作品を作り上げました。
ちょうど貴君がこの歌劇を指揮するように、今度はあの歌劇に貴君独特の新しい、まったく新しい解説をしてくれました。私はその論説を読み終えるや否や、まず次のように考えました。
このすばらしい男は、真心から自分自身を表すことなくしては何事もなしえない。彼はいつも単に再現するだけですまされなく、純粋な再現以外のことはなにもできないのだ。
すべてのことは、彼のなかから絶対的な、純粋な製品となって迸りでる。それであるのに、彼は彼の意力を一大作品なる新製品に紡ごうとしないのであろうか。
彼は完成せる個人として利己主義なところがあまりにないではないか。ああ! 愛する友よ! 貴君を思う私の心はなおも熱狂している。いまなお、私は貴君の友情を非常に利用している。それゆえ私の心は、まったく無意に感嘆にふけりえるのみである。
「ローエングリン」をめぐり(1850年)
リスト[ワーグナーの「ローエングリン」の総譜を読んで(ワーグナーに総譜を送り返す際に記した書き込み)|1850年]
作品のなかに確固に保たれている非常に高い理想の色彩が理解されがたいことを恐れた。……私はあなたの「ローエングリン」を聞いて涙を流すことは困難です。
私がこの作品の根本理念とその巧みな表現に深く浸れば浸るほど、この異常な作品に対する感激も昂ります。それになお、私がこの作品をこのままの姿で上演することに、二の足をふむとしましたら、どうか私の偏狭な疑い深さをお許しください。
ワーグナー[リストの「ローエングリン」の総譜の書き込みを読んで(リスト宛の手紙)|1850年]
いま私は「ローエングリン」の総譜の一部を読みました。——私は自分の作ったものを読むようなことはほとんどありませんのに。
この作品を上演したいという驚くべき希望が、私のなかで燃え上がりました。お願いですから、これに力を貸していただけませんか。私の「ローエングリン」を上演してください!!
あなたは私がこのお願いを申すことのできるただ一人です。あなた以外の人には、誰にもこの歌劇の初演を願いません。しかしあなたにでしたら安心して、喜んでお願いします。あなたの好きなところでそれを上演してください。ワイマールでだけでも一向構いません。
あなたが、その上演のためにできえるかぎりの、すべての大切な手段をとってくださることも、あなたのなさることなら、世の中の人がなんの非難もないことをよく知っています。
どうか「ローエングリン」を上演し、そのなかにある生の歩みをあなた自身の作曲としてください。
リスト[「ローエングリン」の上演について(宛先不明の手紙)|1850年]
この上演に際して、監督は人類発生以来ワイマールでは初めての二千ターレルに近い大金を支出した。
ワーグナー[リストの「ローエングリン」を聴いて(リスト宛の手紙)|1850年9月2日]
あなたの「ローエングリン」は初めから終わりまで崇高な作品です。あちらこちらたくさんのところで、私は心から涙を流しました。
この歌劇は徹頭徹尾驚くべきものです。私はどこの場面がよかったとか、組み合わせがよかったとか、効果がよかったとか、取り立ててあなたにお褒めすることはできません。
ワーグナー[リストの「ローエングリン」論を読んで(
リスト宛の手紙)|1850年]
私がこの文章を何度も非常に熱心に通読した際に、どういう風に感じたかということを、あなたに申し上げなければならないとしても、私はほとんどなにも言い表すことはできないでしょう。
どうか、こんな言葉で充分だとしてください。
私は自分の努力や歌劇や芸術上での闘争に対し、完全に報いられたと思い、私がそれらによってあなたにどんな印象を与えたか知ることができます。
完全に理解されたいということは私の唯一の欲望ですし、完全に理解されているということが私の希望の最も幸福な満足です。
ワーグナー[リストについて(自叙伝より)|1850年ごろ]
実際、新しい芸術活動に対する反対が起こったときに、私のなかにそれに対抗する非常に力強い決心を目覚めさせたのは、このリストの励ましであり、この忠告でありました。私は非常な速さで詩を一つ書き始め完成させましたが、その詩の作曲はもうすでにできあがろうとしています。
ただちに実行されるはずの上演に対しては、私はただリストと私がごく最近の経験によって、ワイマールという地方的な概念の下にひっくるめてしまったような私の友達を思い浮かべました。
「ニーベルングの指環」をめぐる往復書簡(1850年)
ワーグナー[カロリーネ夫人宛の手紙(「ジークフリードの死」)]
〔「リストが作曲を思いついたら知らせてほしい」との言伝とともに、夫人に「ジークフリードの死」の台本を送って〕いまはこう申します。私たちにすっかり完成してみせてください。つまりお書きください。そしたらまもなく歌劇ができあがるでしょう!
リスト[ワーグナー宛の手紙(「ジークフリードの死」)]
あなたのウィーランドを訂正するようにと、私にどんなにご依頼になりましても、私はどんな場合にも決してドイツ歌劇は作曲しないという決心を固守せざるをえません。
私の最初の歌劇をイタリア劇場で上演し、それが失敗でない場合でも、外国語のままであるということは私にも好都合なのです。
ドイツ語はあなた一人のものであり、あなたのような人があるということはドイツ語によって名誉なことです。
リスト[ワーグナー宛の手紙(「若いジークフリート」)]
〔ワーグナーから「ジークフリードの死」を上演しやすくした「若いジークフリート」の作曲を提案されて〕
それじゃ「若いジークフリート」は私どもが待ち受けていものなのだ。君は本当にまったくすばらしい男だ。君の前ではみんなは帽子を三度とるんだ。この事件がうまく終わったので、私は心から喜んで君の作品のことをいつでも考えている!
ワーグナー[リスト宛の手紙]
〔ワーグナーはわずか三週間で「若いジークフリート」のための詩を書きあげたものの、リストに送る決心がつかなかった〕
私は自分の詩をこんな遠慮なしであなたにお目にかけるということに、ある恥ずかしさを、あなたにお見せすることに対してでなく、そんなに無遠慮な自分自身に対する恥ずかしさを感じます。
それで私は近々のなかに、あなたにお会いできますかどうかということを、お聞き合わせするような気持ちになりました。……もしお会いできましたら、私は非常に平静な気持ちになることができるでしょう。——原稿はここにあります。——私は恐ろしい——私のもくろみに用いるためには非常にまずいんですが——しかし私はあなたにその詩を大きな声で——しかし私のつもりでは暗示的に——朗読してあなたに私の詩を私が予期しているような印象をもって、すっかり飲み込ませることができます。
〔ワーグナーはその後、それまでの構想を総合させた「ニーベルングの指環」の計画についてリストに手紙で打ち明ける。以下は、それに対するリストの手紙〕
リスト[ワーグナー宛の手紙]
貴君は貴君独特の常軌を逸したやり方で、人々の思いもよらない目的に到達した。
「ニーベルング」の叙事詩を三部作の戯曲に作り、それを作曲しようというような問題は、貴君にふさわしいものであり、私は貴君の作品が記念碑的な価値をもって完成するということには全然疑いを抱かない。
ワーグナー[リスト宛の手紙]
私の近くにいた誰にも彼にも、私は貴君の書簡を見せて、こんな風に申したい、ご覧、私はこんな友達をもっているんだぞ!!
チューリッヒでの再会(1853年)
リスト[ワーグナーと再会して|1853年7月2日]
〔チューリッヒでワーグナーに再会したリストが、カロリーネ夫人に宛てた翌日付の手紙〕
ワーグナーは話し声のなかでなにか若鷲のような叫び声を出します。彼は私と再会したとき、すくなくとも十五分間くらいは喜びのあまり泣いたり笑ったり大騒ぎしたりしました。
健康そうには見えますが、四年前に比べるとはるかに痩せています。彼の顔つき、ときに鼻や口は精細な線と非常に目立つ鋭い表現をもってきました。衣服は本当に粋なものです。彼は淡い薔薇色の帽子をかぶり、決して平民的な態度は見せません。
そして二十回以上も私に断言しました。彼が当地に滞在して以来、彼は逃亡者の党派とは完全に交際を断ってしまい、実にそのうえ、市民やカントン貴族の上流社会で喜んで訪問を受け、いつも歓迎をしてきました。
音楽家たちに対する彼の関係は、大将軍を思わせるものです。芸術家に対する要求は残酷なる峻厳さをもっています。彼は私に対しては全心的な愛をもっています。そしていつもいつも「まあ僕がどんなものだと思うかね」と言います。——彼の名声や人気に関する事柄が話題に上るときには——彼は一日に二十回も私の首に抱きつきます。——彼はそこらじゅうを転げ回り、口をパクパクさせて、いつも馬鹿げたことを言います。——そしてそのときさらに、彼にあっては広い意味の一般概念であるユダヤ人を罵るのです。
そして彼が火花を散らすときには、なにかヴェスヴィアス火山のような偉大な圧倒的な性格の言葉をわめきながら、炎の束と同時に、バラやニハトコの花束を撒き散らすのです。
〔上記の手紙の翌日に、リストがカロリーネ夫人に宛てた手紙〕
もし彼のこうした態度を誰かに言って聞かせれば、もう魔術にかけられたような気がするでしょうし、そしてとてもはっきりその姿を思い浮かべることはできないと言っています。
彼に熱心に服従する人々に対してさえも、上のほうから見下ろすのが彼の癖です。彼はどこまでも主催者の態度挙動をもっています。そして誰のことも顧慮しませんし、あるいは少なくとも隠しごとなどすこしもしません。
だが私に対しては完全に例外です。昨日も彼は私に「私にとって全ドイツが君の人格のなかに一致しています」と言いました。そして彼はいかなる機会にも友人知己にこのことを感じさせるようにしています。
ワーグナー[リストと再会して|1853年7月2日]
〔チューリッヒで再会したことを記したオットー・ウェーゼンドンク宛の手紙〕
荒々しい、興奮した——しかもすばらしい週間をわたしはリストと一緒にすごしました。いろいろのことを報告し合うという激情は、私たちのあいだにはなくなりました。すなわち、名状すべからざるほどのこの人間に対する私の喜びは、彼の非常に力強い忍耐力のある様子や、この前の会見に照らして、私が想像し得たよりも一層優れた彼の健康を見出したということよりもはるかに大きかったのです。
私たちは信じられないほど多くのことを語り合わねばなりませんでした。なぜならば、私は以前はいつもほんの数日をたくましく彼と過ごしたのに、ここでは私たちは根本的にはじめて人となりをよく知り合ったからです。
そこで彼が今度もっぱら私のために与えてくれた一週間は、実に力強い内容に満ち満ちていましたので、私はそのためにいまもほとんど麻酔にかかっているようです。
第一日目に私は歌って聞かせました。そのために次に彼は一人で音楽を引き受けねばなりませんでした。彼は信じることができないほど見事に演奏しました! 私は彼とフィアヴァルトシュテッテ湖へすばらしい小旅行をしました。そして最後に彼は自分から、また来年にはすくなくとも四週間は来訪するという約束をして別れました。
〔リストへの別れの挨拶(カップによる)〕
我ら、君を見送りしあとジョージとなにも語らざりき。静かに帰路につきたるに、いたるところ沈黙支配す! かくて君の別れ祝われぬ——君よ愛する人間よ、なべての輝き我らによりて消え失せぬ! おお来れすぐふたたび! 我らとともに長く滞れ! 神のごとき足跡を君ここに残し、なべてのもの高貴と温和になれば、我らの心に偉大さ蘇る——悲しみなべてのものをつつみかくさん!
ワーグナー[カロリーネ夫人について(自叙伝より)|1853年10月3日]
我々の心を惹きつけるすべてのことに対する侯爵夫人〔カロリーネ夫人〕の、稀にみる旺盛さと活発なる傾倒には逆らうことができなかった。
我々を動かした非常に大きな問題にもまた、我々が世の中と個人的に交わっている最も偶然的な一つ一つのことにも、同じ興味をもって、彼女は誰でもある程度まで有頂天に喜ばした。
そこで誰でも自分ができるようなものだったらなんでも、全部さらけ出してしまわねばならないと思ったのである。
これに反してやっと十五になるかならぬかの侯爵夫人の娘は、幾分空想的な表現をしていた。そして彼女は服装や態度において、ちょうどはじめて乙女になったばかりの娘のように見え、私は「子ども」という尊称で呼んだ。
議論やあるいは純粋に嬉しそうな感情の現れがときおり沸き立つときには、彼女の空想的な黒い目は、美しい聡明な静けさを保ってきた。
そしてそのとき我々は知らず知らずに、我々を興奮させた事柄についての無邪気な智力を彼女が表しているということを感じたのである。
再び「タンホイザー」をめぐり(1855年)
ワーグナー[芸術監督ヒュルゼンへの要求(リストに「タンホイザー」を指揮させること)|1855年12月ごろ]
私には幸運が一人の友を贈ってくれたが、彼のような人があれば、もう友人は必要でない。この人は、私の第二の心であり、私が感じたりできたりすることを、彼は感じたりできもする。彼が私のためにすることは、いかにも私がそれをするかのように私に固有のものである。
私がそう言っているのは、我々の時代の最も天才的な芸術家のことであり、ベルリンでも、かつて熱狂的に祝福した人であり、まさにまがいもなきフランツ・リストのことである。
私の芸術家としての名声がいま存しているということ、そして私の芸術的な作品に対して、なおもその希望を満たしてくれるということ、そしてまたとくにこの「タンホイザー」の存在を貴下に紹介することができるのも、みな彼のおかげです。
私は貴下にいま私の最も痛切なお願いをするのですが、貴下は作者に対してその作品の上演に関し承認する全部の歌劇を、私の友人リストにお任せくださるなら、——貴下はこの希望を講じてくださることによってどんなことになるかお考えください。
私の作品が一人の人によって完全に上演され、いかにも私がそれを自分でだけ達し得るような具合に上演されることは充分確実です。私の作品の承認を得させようとする彼の献身的な努力に対して、私の友人に立派な満足を与えてやってください。
あんなにも圧迫された困難な事情の下にあってはじめた、そして休むことのない精力で押し通した友人の作品についに栄冠を与えるように彼にさせていただきたいものです。
私があまりに弱くて、彼の好ましい名誉心を満足させることができなかったのですが、その報いを、どうぞ彼に与えてやってください。
リスト[最終的に指揮が任されなかった件について|1855年]
ベルリンの「タンホイザー」事件で、我々はなにも気に病んで白髪一本でも増やす必要はないだろう。
小生は小生の役割に対してなにもすることはできなかったけれども、こうなるだろうとは前々から思っていたことだし、またなんとかできるかもしれない。
小生は貴君のベルリンの友人たちがこの事件を終結させた満足をかれらに喜んで許してやろう。そして小生が貴君に、どうしてもなんとか気持ちよくやってあげるような機会は、またべつにいくらでもあるだろうと思っている。
「ローエングリン」を退席したベルリーズについて(1856年)
ワーグナー[リストの指揮する「ローエングリン」を途中退席したベルリオーズについて|1856年2月ごろ]
彼は全然私を理解しないであろう。ドイツ語を知らないことが、彼にこのことを妨げている。彼はいつもただ、虚偽の輪郭で私を見ることができるだけであろう。
スイスでの再会(1856年)
ワーグナー[リストと再会して(自叙伝より)|1856年]
〔ある晩、リストから結婚に関する悩みを打ち明けられたことを回想して〕
多くの人がよしんば私に対する印象を忘れてしまったにせよ、貴君が小生に対してあの晩どんなであったということ、あれから家に帰って貴君が書いて寄越した驚くべき共感、貴君の性質にあるあのような高貴なものは、私にとっては素晴らしい記憶としてどこまでも残っていくだろう。
〔再会を回想して〕
ここで我々は「ツーム・ヘヒト」という宿屋に一緒に泊まったが、侯爵夫人〔カロリーネ夫人〕はそのあいだいかにも自分の家にあるように我々を接待した。こうして彼女は私と私の妻に彼女自身のものと決められた部屋の隣を与えてくれたが、我々は残念なことにあまりよく眠れなかった。
カロリーネ夫人はひどい神経興奮の発作を起こし、彼女が悩まされていた苦しい幻覚を遠ざけるために、彼女の娘マリーは一晩中、わざと声高々と本を読まされていた。私はもうこれで非常に興奮し、こういうときに示された隣人の休養に対してなにもかまわない態度に対して、とくに私は憤慨した。
夜中の二時ごろに私はベッドから跳ね起きて、つづけざまに呼び鈴を鳴らしてボーイを起こし、この宿から最も離れたところにこの夜更けに連れて行ってもらうようにした。
我々はこのときうまく引っ越しをした。このことはおなじように注目されたはずであるが、別段の印象を引き起こさなかったらしい。非常に驚いたことには、次の朝マリーはまったく平気で何事もなかったような風をして、普通のように出てきた。そして侯爵夫人の周りでは、こんな暴行には完全に慣れていることがいまとなってわかった。——ここでも色々の招待者で家が満員であった。そして「ヘヒト」の生活も「ホテル・ボール」の生活にすくなくも劣らなかった。
リスト[ワーグナーと再会して(シュテルン宛の手紙)|1856年]
私は不快であることなどには頓着せず、私はここでワーグナーとすばらしい日々を贈っている。そして彼の「ニーベルング」の世界で、私は満たされているのだ。こんなことは我々の手細工音楽家やがらんどうの藁を打っているような批評家には、全然想像もつかないことだ。
ワーグナー[リストの指揮を聞いて(オットー・ウェーゼンドンク宛の手紙)|1856年11月23日]
リストの「オルフォイス」は私を深く捉えました。これは最も美しい、最も完全な、否、ほかに比類のない音詩の一つです。
作品から享受したものは、私にとって大きなものでした。聴衆にとってはプレリュードの方が受けがよかった。それはアンコールされねばなりませんでした。リストは彼の作品に私が驚嘆したので、非常に満足そうでした。
ワーグナー[リストとの友情について(ワーグナーのオットー・ウェーゼンドンク宛の手紙)|1856年]
このたびのリスト訪問の結果として私は、私の彼に対する友情が減少するどころか、かえって本質的に強められたと言いたいのです。
私の作品の本当の深さに徹するためには、私のことをいまだ非常に必要であると、私のなかにあった心苦しさをすっかり解決してくれました。
そのほか二人の姉妹、とくに侯爵夫人との私の交際は、結局のところ私に対して好感を与えるようになりました。私は侯爵夫人の心の寛大さに対して非常に気持ちのよい感じを抱くようにさえなり、そこでいまは私の孤独さのなかに、ちょうど学校から帰ってきたときのように、なにかを学んだような気持ちをもつようになりました。
リスト[大公への手紙|1856年]
ワーグナーの「ニーベルング」をワイマールで初演するということは単に適当だと思うばかりではなしに、必ずそうすべきだと思います。
この上演は疑いなく決して簡単なことではなく、また容易なことでもございません。それには特別な準備を必要といたします。たとえば劇場の建設やワーグナーの考えに正しく応ずる人物を雇い入れる等のことがございます。
困難なことや妨害なども必ずあることでございましょうが、陛下はただ真面目にそれをなさろうと思し召しになりさえすれば、すべてはご自分でおやりになれるでしょう。物質的な結果も、道徳的な結果に関しても、陛下にあらゆる方面からご満足をお与えするだろうということは、私が誓って保証申し上げてもよろしいのでございます。
友情の決裂と和解(1859〜1864年)
ワーグナー[リストへの思い(妻ミンナ宛の手紙)|1858年]
〔このころ、ワーグナーの「リエンツィ」をワイマールで上演しようというリストの希望が果たされなかったことに起因して、性格上の不一致や感情的な誤解が前景化し、徐々に二人の関係を曇らせた〕
「リエンツィ」は私のものだ。どれだけ前から、そこですでにこの歌劇が上演されねばならなかったかを、お前さんは知っているはずだ。リストは宮廷で、とくにディンゲルシュテットによって、放っておかれたらしい。それに対して、特別に承認された謝礼金を欲しいなどとは思っていないと、リストに言ってやった。
というのは、彼は一般にただこの歌劇を上演することだけでも困難であるのに、私がこれをなにも無理無理するはずはないと、彼はすでにそう思っていたからである。
もうそのことが私を激昂させたのだ。ついにちょっと前に、ディンゲルシュテットは「リエンツィ」に関する公式の問い合わせを私によこし、いくらかの謝礼を私が要求するかと尋ねてきた。
そこですぐ私は彼に、私はワイマールでは別に謝礼を請求していないので、適当に考えてもらいたいと返事を書いた。その返事には、初演のあと、彼は二十五ルイスドルを支払うと言ってよこした。この手紙を私はリストに送り、そのために私はいくらか愉快になれた。そしてどこの劇場でも報酬は総譜と引き換えにもらうことになっていることを、ついでに言ってやった。
リストはしばらくしてから、ディンゲルシュテットは、大いに力瘤を入れているのだから、彼はすぐ返事を書かせるように、私から願ったらよいだろうと言ってくれた。とうとうこのことは、私にはたまらないほど嫌になった。
私はリストにその手紙を公開してもよいと言って、一本の手紙を書き、「リエンツィ」をワイマールで上演することはやめてほしいということ、そしてもしもすぐに、私に相当な謝礼を送るなら、とにもかくにももう一度考えてみてもよいというようなことを書いてやった。そんなことは——正直に言うと——私は本当は、問題にしたくなかったのだ。
ワーグナー[リストへの手紙(ワーグナー)|1859年]
〔上記の手紙に対し、リストからは、ワイマールでの上演不決定に関する真面目な説明、「トリスタン」の賞賛、自身の音楽的成功について書かれた慇懃無礼な手紙が返ってきた。困窮していたワーグナーは、ますます落ち込むことになる〕
親愛なるフランツよ!
貴君は、小生にあまりにも悲痛に答えて寄越した。小生のこのあいだの手紙は、まったくユーモアたっぷりの現実的なものだと思ってもらいたかったのです。——ディンゲルシュテットがなんだ。「リエンツィ」がなんだ。——すべてバカげたことです。
——小生は金が欲しいのです。不幸な夜番人でもなんでもいいからとにかく、わずか二十五ルーデンをすぐ送ってくれたとしても、小生にとっては、なにも同じことなのです。
ところが「初演のあと」だなんて言ってよこしたのは——(バカなやつ)貴君は、小生のことをみなと一緒にあまり親切に考えてくれすぎたのです。ワーグナーは貴君のことや、貴君たちの劇場のこと、または自分の歌劇のことさえも、どうでもいいのだと言ってください。そしてワーグナーは金が欲しいので、これだけなのだと言ってください。
貴君は小生のことを理解してくれないのですか。小生は幾らでよいから、ただ金を集めようとしていることを、一体貴君にはっきりと言わなかったね。コーブルグやその他のところで、小生の歌劇(「ローエングリン」か、「さまよえるオランダ人」)を演る世話をしてくれと頼まなかったね。無報酬で小生はディアナ・ドゥ・ソランジュを一体いかがしたらよいのですか。こうした目に見えるような、嘲笑を貴君から受けねばならないのですか。——何も言わないのですか。金のことは何も考えてくれないのですか。——
そんならよろしい。小生はいま十グルデンもないのです。部屋代も払えない。妻が、あとすこししかもたないと、十四日に言ってよこしたのに、何にも送ることができないのです。——しかし、みな過ぎ去ってしまった。次の復活祭には、そして「トリスタン」が完成すれば、小生は使う以上のものがあることになるのです。もういまは、なにもかも見捨ててしまおう。なにもかも、どこからも定まった収入などは、来ようはずがない。——そしていま、小生はディアナ・ドゥ・ソランジュを抱えている。狂いそうな気持ちです。貴君は貧乏というものを、全然知らないようです。——幸いなことに。——
あるいは、小生がひどい生活をしたくないのだという非難を、人々がしようとするのですか。我がフランツよ、もし貴君が「トリスタン」の第二幕を見るならば、小生がたくさんの金を使うということが分かるでしょう。小生は大の消費者です。ところが本当になんとかなるでしょう。——ご存じのように。
しかし次のことを考えてください。小生がディンゲルシュテットや大公や、そのほかの誰にも、本当になって苦情を言っているとは思ってくださるな。小生は、ただ金が要るのです。そのほかのものは皆あるのです。——貴君が、「トリスタン」の第一幕を見て喜んだなら、貴君は激情の昂揚を理解するはずです。もし君が、第二幕を知ったら、小生が今日すべてのこと以外になにも書かないとしても、きっと小生を許してくださるでしょう。どういう風になってもよいのです。「トリスタン」は、すべて報いてくれるでしょう。——どうにもならなかった小生は、貴君に最後のナポレオン金で電報を打ちます。——さようなら、よき新年を迎えるように。
ダンテとミサ曲を送ってください。しかしまず——金を、お礼金を——確かに。
ディンゲルシュテットに、お前はバカものだと言ってやってください。そして大公には、貴殿の金箱が塞がっているのだと言ってください。——本当にですよ。大公はこれを、私のために、空けたほうがよいと言ってください。——
しかし、もしそうでなければ、小生にただ深刻なことや悲痛なことを、書き送らないでください。貴兄らが面白くないのだと、小生はもう最後に言ったのです。一体それが全然役に立たなかったのですか。
新しき年に幸あれ。お休み
リヒャルト・ワーグナー
リスト[ワーグナーへの返事|1859年1月4日]
〔上記の手紙に利己主義を感じたリストは、次のように返事をした〕
「悲痛な深刻な」書き方によって、貴君を面白からぬ潮におとしいれるような危険に、これ以上そうさせないために、「トリスタン」の第一幕をヘルテルに送り返します。そしてほかのものは、これが出版されてからみたいものだと、小生に願ってくるでしょう。——
ダンテ交響楽とミサ曲は、銀行の株券にならないから、これをヴェニスへ送るのは余計なことでしょう。また今後電報で困窮を訴えられたり、怒りの手紙をそこから受け取ってみても、小生には余計なことだと思うほかありません。——
一八五九年一月四日
フランツ・リスト
ワーグナー[ビューロー宛の手紙|1859年]
リストは、私に悲しい年の初めを与えたのです。
彼の誇りが問題にならないとすれば、彼は友人に対する重大な点において、ひどく誤解を招くということを、すぐここに告白せればならないのは残念なことです。
彼がこのことをわかるだろうということは、すこしも私は思いません。私はそう望みたいのだが、彼と友情を持続して行けば、私どもの友情が明らかに損なわれつつあるこの災いが、かえって個人的な親交の度の本来すくなかったことを、改善していくものと確かに思わせたのでした。
私はすなわち、いまでも前のようにリストに対してどうでもいいと言って構わないでおくわけにいかないし、私の態度に対するある気遣いを、かえって彼に向けなければならないことを認めるのです。私のユーモアなんか、ときどきは全然分からないのです。
ワーグナー[リスト宛の手紙|1859年]
我が友よ、いまや貴君は、小生が悩み、慰めを求めているようにみえるものである。というのは、いま小生に対して貴君ができたような聞き届けられない手紙の文句は、おそろしい内的な立腹から飛び出されなければならないからです。
〔一方で、誤解が晴れてこう記す〕
貴君の挨拶は、小生に再び我々がいつも触れたくなかったようなもの全部を、不思議にも忘れさせる。これに感謝しよう。——そしてお互いにもっと我慢強くなろう。
ワーグナー[リスト宛の手紙|1859年2月23日]
しかし愛するリストよ、小生にもう一度詳しく書いて寄越してください。貴君のご苦労については、小生はただいつもほかの人を通して、最後にはまったく新聞を通して知るほかありません。
貴君がこれを簡単に知らせるというのは、正しいことではありません。これは小生をあまり信用しないことなのです。貴君が非常に喜んで親しく触れたい小生の手を、どこへ置いたらよいかを知るためには、小生はよく考えてみなければなりません。
貴君が、我が愛する田舎のドイツにとって、あまりに偉大であり、あまりに高貴であり、あまりに美しいということ、貴君が人々のあいだにあって、その光輝を受けることに慣れていない、そして受けようとしていない神のように現れているということは、これが貴君の場合、はじめて明らかになることができたとしても当然なことなのです。
というのは、いままでにドイツでは、こんなに輝かしい、温かいものは現れたことがないと言っていいからです。しかしこうした憐れむべき態度が、貴君の心に触れ、貴君を怒らせたり、貴君に悪感情を抱かせたりするかぎり、同様の関係に対して非常に感じが鈍くなった小生は、この関係が一体どこから起こったものかという汚点を探るのは、小生にとってはときとして、なかなか困難であるということをよく知りたいのです。
貴君のような幸福な人は、生活と永遠の光栄が貴君に落ちてくるようなすべてのものをもっていると、小生は考えます。小生は、貴君の居心地の良い、いつも貴君に高貴に機嫌をとる家、そしてしかも真剣に、普通の生活の心配がない家のことを見渡します。
またいかに貴君は、貴君の個性により、永遠に貴君に捧げられた芸術により、貴君をめぐるすべてを幸福にし、感動させているかを小生は確かめています。そこで貴君が一体全体、苦労がどこにあるのか小生に分かり難いのです。
それにもかかわらず、貴君は悩んでいるし、深く心を痛めている。小生はこれを感じます。——昂ることをやめて、小生にすぐもう一度手紙をください。残念なことに、貴君を立腹させてしまう結果になることがよくあるようだが、ともかく、あのようによく、なんでもかんでも書いて寄越してください。
ワーグナー[カロリーネ夫人について(ビューロー宛の手紙)|1859年ごろか]
我々が、我々の仲間のあいだで好んで白状したいたくさんのことがあります。
たとえば、小生はリストの作曲を知るようになってから、和声の点でいままでとはまるで違った人々になったということなどです。ところが、友人ポールが「トリスタン」の前奏曲のことをちょっと話したすぐあとで、この秘密を漏らして公言したとしたら、このことは、単にすくなくとも軽率なことです。
そして小生は、それでも彼がかかる軽率なことをやった人間だと言われる資格があるということを考えてはいけないでしょうか。……したがって、我々二人はポール氏になにかもっと秘密を漏らすように頼みたいのです。
というのは、ポールは侯爵夫人の要求に応ずるはずはなくとも、彼はリストに迷惑をかけていると思うからです。——だが、小生が貴君に心から訴えねばならぬことは、小生はいまリストに、どう書いたらよいか、適当な仕方を全然見出さないのです。
小生は数週間以来、彼に宛てて書いた手紙をもって苦しんでいるのです。なるほど小生は、それをもっと容易にしてもよいかもしれないのです。
というのは、小生はなにもかも、もともとリストから手紙をもらったというのではなく、むしろたかだか小生の手紙に対する返事をもらっただけで、この手紙には小生の手紙の半分しか書いていないのですから。
小生はなにも彼に、書いてよこせとせまったわけでもありません。小生が彼に話しかければ、彼は我々が考え得る最も立派な友人なのです。ところが、——彼は、小生に話しかけてはくれません。いつも彼に話しかけるようにさせるには、一体どうしたらよいのでしょうか。
……小生は知っているが、リストの寛大な性質は最近の衝突に際しても、いつも勝利を占めたし、彼のダンテ交響楽に書き込まれた文句は、立派な感激と、彼の先立っていく弱さに関する高貴な恥ずかしさの感情を、小生は感得したのだが、その弱さにおいて彼は、とくに小生を待ち伏せするような態度にしたがうことを和らげたのです。
こうしてリストは、小生にとってはいつも気高い、深い同情をもった、非常に驚嘆すべき、愛すべき人に変わりがありません。ところが、——我々の友情の慈しみ深い思いやりについては、なにもこれ以上のことが考えられないでしょう。
彼は小生にこの思いやりを施さずに、はっきりと通り過ぎているのです。小生はいま彼についていく以外のことしかもうできません。小生は彼にずっと何も言わずにいました。それで友情的な思いやりなどはあるはずがありません。
小生はいま彼に対して、語る言葉がなにもありません。彼が喜びそうなことを、小生は書いてやりたくありません。——なにが彼の不利になるか、ということと、彼はなにをその代わりに必ず与えるかということがはっきりしたときにわかるかもしれません。
リスト[カロリーネ夫人について(ビューロー宛の手紙)|1859年ごろか]
ハンスは、私にワーグナーの手紙を知らせてくれたが、その手紙の意味は、かなりあなたの想像に合致するものです。
打ち明けて言うことなく、またそれのみならず、彼がいつもならば、注意しないある配慮がそのなかに確かに表現されているのだが、この手紙からすると、彼は神が会わせたもうた二人の者、すなわちあなたと私とを話そうとしていることがはっきりとわかるのです。
彼は、私の控えめなことを嘆いています。……彼は、あなたが私に対して悪い影響を及ぼし、また私の真実の性質に反するような感化をおよぼすことを、ハンスに説明しようとしているように思われます。
このバカバカしい考えを発見したのが、もしワーグナーでないとしたら、こんな愚劣なことなどは気にしないでしょう。ともかく、もし人が私に、こんな気合いを起こさせようとしたら、私はこうした虚偽を三回も、私に加えた無礼千万なことだと思って、すぐ結末をつけたはずです。
ワーグナーはいまニュートン街十六番地に住んでいます。たぶんあなたは彼に会うことでしょう。私はあなたにちゃんと忠告しておきますが、彼を非常に柔らかにとりなしてください。というのは、彼は病気でとうてい治らないのですから。したがって私どもは、彼を単に愛し、そして彼にできるだけためになるようにしなければなりません。
ワーグナー[リストについて(ウェーゼントンク宛の手紙)|1859年ごろか]
私はリストのことをも考えてやったのです。ところが、彼からはどうも、なんにも別段なことが分かりません。彼は私にもともと親しい風な態度を示したことはありません。
彼の知性にあるのです。彼は、この側面からすると、人に左右されやすいし、その弱さのなかに迷うのです。長い間私はもう彼に手紙を書きません。私はこのような愛すべき人間になら、ただ親しい気持ちでしか手紙を書けません。
私は彼と商売をしているのではありません。さて、しかし確かに私どもの親密さが、いつも二人の人の前に公開されるようになるのは決まっています。だがこれは、とても耐えられないことです。そうなれば、どうせみな、たちまち手品や企てになってしまうでしょう。
しかし事実いまはこうなんです。リストはまったく不思議な人間になってしまったのです。そして彼の緊密に統一した人格ではなくて、彼の明らかに間違って用いられた弱点が、彼を美しくない関係にもってきてしまったのです。
私は彼に、あるいは残念なことには、むしろ二人の人に手紙が書けません——とうとう悲しいことに。だがきっぱりと言いますが、私は彼に(あるいは彼らに)、もうあとは手紙が書けません。憐れな者はいまとなっては黙ってすべてを捧げ、すべてを耐え忍びます。
彼は別な考えをもっているとは思いません。彼はどこまでも私を愛しています。彼は、私にとっていつまでも高貴な、非常に真実な人間であることに変わりがないように、ときどきいかに感動的に、私どもに挨拶の柄が差し伸ばされるかを想像してください。
ちょうど世を隔てて離れた恋人同士のように、信頼していれば、ときには握手する手段が私どもには見つかるでしょう。
リスト[遺書|1860年ごろ]
〔カロリーネ夫人との結婚が叶わなかった時期に認めていた遺書〕
私が二年以来、善いことをしたり考えたりしたのは、私が非常に立派な、理想的な妻と呼びたい人々のおかげです。——どんな人間的に賤しむべきことや、嘆かわしい酷評が、今までしつこく妨害をしたとしても、すなわち、それはジャンヌ——エリザベート——カロリーネです。
私の喜びのすべては、かれらが基なのです。そして私の苦悩は、いつもかれらのなかに慰安を求めるのです。かれらはただ安全にして遠慮なく、私の存在、私の配慮、私の経歴と結合し、一致しています。
そしてかれらは、忠告によって私を助け、激励によって私を支持し、熱狂によって私に新しい生命を与えてくれました。……これ以上のことは、かれらはしばしば自分たちを放棄し、かれらの富と無比の奢侈に適う私の重荷を、もっとよく背負うことができるように、私らの性質が無条件的に要求するようなものまでも、諦めてしまいました。——私はかれらのことを考えると、かれらを祝福するために、ひざまづいて私の守護の天使、私の神への仲介者として、かれらに感謝するのです。
かれらは、私の名声、私の栄誉、私の寛恕と更生です。そして私の心の姉妹であり、花嫁です。——かれらの忠誠の驚嘆、かれらの犠牲の心、偉大さ、英雄的な心、そしてかれらの愛の無限の優しさはどう名状してよいでしょうか。この気高い心を荘厳な調子で歌うのには、非常な天才を必要とするでしょう。
……私のなかにあるものが、なにもカロリーネから借りているようには思わないし、また私がもっている外部的なものの、ほんのすこしでも私は彼女から借りているように思っていません。簡単に言うと、私が、現在あるもののすこしでも、私が所有しているものなどはすこしも、彼女から借りているように思っていません。
私は、母のような尊敬と優しい愛をもって、かれらの変わらざる親切と愛情を示してくれたことに対して感謝します。私の幼少のとき、人々は私を善良な息子と呼んでくれました。そのとき、私はなにも私のほうから特別な奉仕をした覚えはありません。というのは、それはそのはず、こんなに忠実に犠牲的な母と一緒にいた息子はありませんから。——もし私がかれらより先に死ぬようなことがあったら、かれらは墓場のなかまで私を祝福してくれるでしょう。……どうげんぼう
私どもと同時代の芸術界にあって、今すでに有名になっており、これからますます名声を上げるだろう一人の人がおります。——それはリヒャルト・ワーグナーです。彼の天才は、私にとって一つの光明でした。私はそれについていったのです。——そしてワーグナーに対する私の友情は、いつも高貴な熱情の性質をもっていました。
ある時代まで(約十年前)、私はワイマールのために、ちょうどカール・アウグストの時代のような芸術の時代を夢見たものです。そしてワーグナーと私が、ちょうど以前ゲーテとシラーのような泰斗になろうと夢見たことがあります。——ところが事情がうまくいかず、この夢は実現されずにしまいました。
ビューロー[ワーグナーへの手紙|1861年3月]
〔ワーグナーとリストの反目を憂慮したビューローが、ワーグナーに送った手紙〕
貴君に対して非常なものでありえたはずの人、そして貴君も彼に対して、非常なものでありえた一人の人がおります。そしてそれはワイマールの切り売りの結合とは違った結合となってしまいました。——それは貴君たち二人にとって、困ったことではありません。
ご承知のとおり、自分たちによって、仲介の役をしたりあるいはむしろ、一致させようとすることをあまり喜ばない仲間の人々が、これを妨げています。
それから多くの死せる画の幽霊たちが、残念なことだが、私の尊敬する舅の非常なやっかいの種となっています。これは私の最も深い悲しみです。昨日リストは、パリに向けて旅立ちました。願わくば両方から貴君たちが一緒になって、私が私の最も神聖なる精神的事件の興味から長い間——いままでは効果がなかったが——憧れていたことが起こってくれればよいと思っています。
貴君たちが再開する時間が、私にとってすばらしい精霊降臨のようなものです。
ワーグナー[リストについて]
音楽を理解しない人は、その書き振りを理解することもできないのだ。まさにただ、音楽が我々のなかに引き起こす感情を、汝が正確に、しかも鋭く言葉で表現することを知っているように、このことはまたまさにかの感情を感得した人を有頂天にしてしまい、音楽に対してはなんともいう言葉を見出さなくしてしまうものだ。
貴君は小生に、はじめて、ただ一度、完全に理解してくれた喜びを与えたのだ。もう小生はまったく胸のすく感じがするのだ。貴君が小生とともに感じてくれないものはすこしだってない。すこしの心の痛みだって残っていないのだ。
リスト[ワーグナーについて(カロリーネ夫人宛の手紙)|1864年]
ワーグナーのことといったら、もう彼はほとんど狂気の沙汰ではありません! サロモンは当てにならなくなりました。太陽の下に新しいものがあるのです。私は昨晩より、このことをまったく確信しています。——というのは、ワーグナーは自分に送られた王様の手紙の二、三を私に示してくれたからです。
結局そのために、私どものあいだには別段変わったところがあるはずはないのです。私が「栄誉ある男」という別名を与えた彼に、とうとう押し付けられた偉大なる幸福は、できるだけ彼の性格の頑固なところを和らげることになるでしょう。
ワーグナーは、彼の「名歌手」で私を教育してくれました。そして私は、返礼として「祝福」を彼に見せました。彼はそれに非常に満足の様子です。「名歌手」は、フモールとガイストと優雅な活気をもった大作です。それはシェークスピアのごとく、明るく、美しいものです。
バイロイト祝典劇場(1872〜1873年)
リスト[バイロイト祝典劇場の後援証書への署名|1872年]
私のわずかな収入では、残念なことに莫大な寄付は許されませんでした。それにもかかわらず、私は四年この方全ドイツ音楽協会の一員としてライプツィヒのワーグナー協会に加わってきます。
そしてあなたは私を友好的な態度で、あなたのマンハイム慈母協会に誘ってくれますので、失礼ですが一八七一年から七三年までの寄付金総額十五グルデンを同封しておきます。
ワーグナー[リスト宛の手紙(バイロイト祝典劇場の基礎工事の記念式を前に)|1872年5月18日]
偉大な最愛の友よ。
コジマはご招待してもお出でがないと主張しますが、私は招待状をお送りして「お出かけください」と付け加えずにはいられません。
あなたは、私の人生に私の知るかぎり最も偉大な人物として、友情の親しい信頼をもって語り得る人として入ってこられました。しかし、おそらくあなたの私への信頼よりも、私のあなたへのそれが薄かったために、次第にあなたは私の人生から遠のかれたのでありました。
あなたの代わりに、あなたの子が私のもとに来たので、あなたは私の人生の最も美しい一部となられました。あなたは愛をもって最初に私を高めた方であり、彼女はその次により高貴な人生と、私の独力ではおよびがたい能力を私に運命づけた人なのであります。
ですから、私はあなたにとって何者でもありませんが、あなたは私にとって一切なのです。
いまあなたに「お出かけください」と申し上げるのは、あなたはここでご自身を発見されるでしょうから、実際はご自身のところにお帰りくださいということになります。
いずれの道を選ばれるにしろ、私の祝福と愛をお納めください。
リスト[ワーグナーへの返事|1872年5月20日]
高潔なる愛する友よ、貴君の手紙に深く動かされて、小生は言葉では貴君に感謝することができません、だが、いろいろと小生を拘束しているあらゆる陰影とか、気兼ねとかは消滅するであろうということ、そして我々はまもなく相まみえるであろうということを心から切望いたします。
そのときになれば、貴君には我々二人から小生の心がどうしても離れることができないものであることが、はっきりとわかるに違いありません。
貴君が一人ではできないようなことでもできる場合には、貴君の「第二の」もっと高い生命のなかに小生の心が親しく蘇ってくるという風に。
我がすべての愛のごとく、神の祝福我らとともにあれという、天の恵みはここにあるのです。
この一文を郵便で送るのは小生は嫌いです。貴君は五月二十二日に、数年来小生の考えと感情をよく知っているある夫人からこれを受け取るでしょう。
ワーグナー[リストの返事を受けて|1872年8月]
〔上記の手紙を「ある夫人」つまりカロリーネ夫人に送達させたリストの手法は、ワーグナーの機嫌を損ねた。それから三ヶ月後、ワーグナーはリストに宛ててこう書いた。この手紙以降、二人の関係は修復した。リストはバイロイトに八日間滞在することになる〕
我々はちょうど貴兄をお訪ねしたいのですが、喜んで迎えてくださいますか。
もしもあの返事の送達によって、ワイマール中を誤解させたこの気分について、我々を窮境に陥れた困った状態がもたらされなかったならば、我々がどんなに疲れ切っていても、貴兄の美しい、高潔な返事を受け取った直後、すでに貴兄を訪問するために出発したことでしょう。
いまでもなお、我々の貴兄を訪問することが、誰かある人とのなんらかの協定を思わせるに違いないということは、我々の感情に反することです。これに反して、小生がこの前の五月に、バイロイトで貴兄との再会を待ち焦がれていたような、高尚な意味でふたたび貴兄に挨拶することができるということは、唯一の望ましいことです。
貴兄の一言は、この我々の心からの願いを成就する可能性を判然とするに充分なものです。小生はこのことをお願いします。貴兄の返事の来次第、我々は貴兄のところへ旅立ちます。
リスト[カロリーネ夫人宛の手紙|1873年]
〔ワーグナーを非難しつづけたことで、結果的に二人の関係を毀損していたカロリーネ夫人に〕
ローマ、ワイマール、バイロイトの三つの汚点以来、私たちのあいだは分裂しています。私はもはやあなたには慎重なる熟慮なしに書き送ることはできません。
最後(1882〜1886年)
ワーグナー[「パルシファル」をめぐり|1882年5月]
〔ワーグナーがリストに送った「パルシファル」のピアノスコアに書いたメモ〕
おお友よ。我がフランツよ、汝、第一のしかも唯一の友よ、汝のリヒャルト・ワーグナーの謝意を受けよ。
〔ワーグナーが「パルシファル」のための祝宴でのべた挨拶〕
私がドイツ語で述べることを全然断念しようとしたときに、リストがやってきました。
そして心から私を深く理解し、私の創作を指差しました。彼はこの創作を勧めました。彼は私を支持してくれました。私を向上させてくれました。誰もこんな人はほかにおりません。
彼は私が住んでいた世界と外の世界とのあいだにあった結合帯です。
それで私はもう一度フランツ・リスト万歳と呼びます。
リスト[「パルシファル」をめぐり|1882年5月]
〔リストの感想〕
その振り子は荘厳なるものから、最も荘厳なるものへと揺れている。
〔リストによるカロリーネ夫人宛の手紙〕
私の考えそのままです。条件なしに、恐ろしい驚嘆だと言ってもいいでしょう。「パルシファル」は名作どころでありません。——それは音楽劇における天啓です。
ワーグナーは地上の恋の歌を唄って「トリスタンとイゾルテ」を書いたが、彼がそれを狭い劇場のなかでできる限りのものを尽くし、「パルシファル」では、神の愛の最高の歌を最も称揚すべく唄ったものだ、と人に言うのは本当です。
これは現世紀の驚嘆すべき作品です。
リスト[ワーグナーの死|1883年2月13日]
〔『フランツ・リスト伝』のユリウス・カップは、ワーグナーの死を知らされたリストをこう描写する〕
〔1883年1月〕ヴェニスでリストは、またスタニスラウスの仕事にふたたび取り掛かった。そして彼は〔カロリーネ〕侯爵夫人に「歌とピアノのための作品をほとんど半分」完成したと報ずることができた。
その他大運河のゴンドラの 悲歌 に刺激されて、一つのエレジーを作るにいたったが、それに彼は「悲しきゴンドラ(Traucrgondel)」という名をつけた。人々はこの気分がワーグナーの死に関係があるのだというが、リスト自身はこれを後に、その「予感」だと言った。
一月のなかばにリストはワーグナーと心からの別れをし、ペストに帰ってきた。彼はワーグナーともう会うことはなくなってしまった。その後、数週間にして彼の偉大なる友ワーグナーは死んでしまった。
二月十四日にリストの最も古い友人のコルネル・アブラニーがブタペストのリストの仕事部屋に入ってきて、「先生、ワーグナーは死にましたよ」と苦しそうに言った。リストは机から頭を上げずに静かに仕事をつづけ、そして簡単に「なぜ! そんなことはない」と言った。アブラニーは当惑して見ていた。そしてなにも言わなかった。「人は何遍も死んだとか、重病だとか言っていたが——みなつまらないことだ」と。
そこへタボルスキーが号外をもって入ってきた。そして先生の机の上に何も言わずにおいていった。彼は当惑してそれを読んだが、いまだ疑っていた。「もし本当だったら、私はもうとうに聞いていたに違いなかったのだ」と。彼はすぐにコジマに「ワーグナーはどうか」という電報を出した。そうしているなかに多くの弔電がローマ、ワイマール、ウィーンなどから彼のところに到着した。
リストはいまとなっては、もう疑うことができなくなっていた。
とうとう数時間後にヴェニスから返電があり、「ママは、こちらに来ないでペストに静かにしていてくださいと頼んでいます。私どもはミュンヘンにちょっと留まり、死体をバイロイトへもっていきます。ダニエラ」、と。
彼はそれを下に置いて「今日彼は——明日私は」と言った。
リスト[ワーグナーに捧げた序文|1883年5月22日]
〔「ワーグナーの誕生日には、劇場でワーグナー大演奏会が催されたが、そこでリストは「パルシファル」の前奏曲と受難日の悪魔を指揮した。当日は彼の管弦四重奏曲「リヒャルト・ワーグナーの墓場にて」ができあがった。リストはその草稿に、「パルシファル」の動機と彼の「ストラスブルグ」の鐘とを融け合わしたという次のような序文を書き添えた。」(以上、『フランツ・リスト伝』のユリウス・カップによる)〕
リヒャルト・ワーグナーは、かつて彼の「パルシファル」の動機と私が以前書いた「エクセルシオール」とが似ているのを、私に思い起こさせたことがある。この思い出をそのまま変わらないで、残しておきたいものだ。彼は現代の芸術における偉大さと高さとをもたらした人である。一八八三年五月二十二日。
リスト[最後の言葉(死の45分前)|1886年7月31日10時ごろ]
「トリスタン」。
〔意識混濁状態にあったリストがワーグナーの曲名を口にしたのは、一週間前の7月24日に、「トリスタン」の上演を鑑賞したことが影響していると思われる。体調を慮った弟子たちから反対されてまで行ったこのときの外出以降、彼の体調は急激に悪化した。〕