SCIENCE

よき友を得よ

豊田喜一郎

 

Published in 1951|Archived in June 12th, 2024

Image: “Kiichiro Toyota”, circa 1941-1950.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、豊沢豊雄編『発明は誰にも出来る』所収の豊田喜一郎著「よき友を得よ」を収録したものである。
旧字・旧仮名遣い・旧語は現代的な表現に改め、誤植・誤記・用語の不統一を直した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:豊田喜一郎(1894 - 1952)
題名:よき友を得よ
初出:1951年
出典:『発明は誰にも出来る』(実業之日本社。1951年。169-174ページ)
画像:トヨタ自動車企業アーカイブズ

FOLLOW US|REFERENCE / INTERACTION

XINSTAGRAMLINKTREE

日本の発明家の素質は決して外国の発明家におとるとは思わない。
一人一人を比較すれば、むしろ長所をもった所も多いと思われる。
 
それがどうして事業化の面では、たちうちできないのだろうか。
いろいろ事情もあるが、その一つは、発明家が個立しているということではなかろうか。
 
長い歴史の血をうけてか、名人とか技術家といえば、えてしてかたくなである。
有名な史上の発明家になると、陶工柿右衛門の物語りを見ても、資本家を仇にし、商人をにくみ、親類とえんを切り、発明家同志血の出るようなヒミツ主義の競争をして、ついに完成という、それは血と涙の苦斗物語りである。
 
しかし現在の発明家は、それでは大をなすことはできないのではなかろうか。
楽しんで工夫する大ぜいの人の智恵をかり、お互いに助けあうというようにしなければならないと思う。
つまり発明家自身が善良な社会人になって、社会の恩恵に浴しながら工夫するようにならなければならない。
 
特に事業化で大切なことは、よき友を得るということである。
 
本書の最初にもあるように、鉛筆の一端に消ゴムをつけることを工夫したハイマンは、ウィリアムという友を得て、はじめてこの考案は世界にひろまった。
 
私の父、佐吉なども最初カセクリ器の発明の頃は、ずいぶん困っていたらしいが、その時にも或るよい友達がいて、営業とか販売の方面はその男が引き受け、父はもっぱら製作と工夫に全力をあげていたようである。
 
発明家はこのような友達をもつことが一番大切である。
 
今まで産業をおこし、世人を益した発明には、必ず経営手腕のある人がついているものである。私はかつて「キャンドラー」の「金の茶釜」という記事を読んだことがある。
それは、ある田舎の医者が、よき飲料水の製造法を発明して特許をとった。
ある日、その医者は、サンプルをつくって、その権利を売るために町に出かけた。
古い茶釜に、その発明飲料水を入れて、ふくさづつみにしている姿は、多少みすぼらしく見えた。
二三軒たずねて相談したがまとまらないで、夕方ちかく、ある楽屋の門をくぐった。
するとそこに若い薬剤士がいた。
医者はこの青年に熱心に説明して、その権利を、とうとう五〇〇ドル(現在の価格にすれば約五〇万円)で売って意気ようようと引き上げた。
この医者はまた次の発明にかかったのであろう。
ところが一方これを買った青年は、自分が五六年間、懸命に働いてためた五〇〇ドルの大金をぼんとなげ出したのである。
軽卒であるといえば軽卒—無鉄砲といえば無鉄砲のように見える。
しかし、彼は自信をもって、友人をといて金をあつめ、その事業化にのり出した。
こうして誕生したのが、彼の有名な、コカコーラ飲料であり、これを買った青年こそ、後年世界飲料界に君臨したアーサー・キャンドラーその人である。
はじめ一農村にすぎなかった、ジョルジャーは、その後、数年にして製糖業がおこり鉄道がしかれ大学が立ち、米国有数の工業都市となった。これみなコカコーラ飲料のおかげである。
これが米国で名高い「金の茶釜」という物語りで、発明家と事業家のたんたんたる一面を物語っている。
 
これ等は発明家または事業家共に、非常に考えさせられる美しい物語りである。恐らく日本であったら売った時は、
「このインチキ医者の奴、善良な青年の血と汗の大金をだましとって………」
と非難し、また青年に向かっては、
「あまり気前がよさすぎる、軽率にも程がある」
とあざ笑うであろう。
しかしまた、キャンドラーが大成功をしたのを見れば、
「キャンドラーは実にひどい、それほどの発明を、わずか五〇〇ドルで買いとってしまって」
と非難するであろう。
ところが米国では、当の二人とも感謝し満足しているのである。
 
もう一つの例はカーネギーの場合がよくあてはまる。
カーネギーも若い頃は、ピッツバークの鉄工場の一事務員としての安月給取にすぎなかった。ある年商用で英国にわたった。ところが友人から、
「新しい鋼鉄製造法の実験をしている所を見学しないか」
とさそわれた。発明ずきの彼は早速、承諾して見学に行った。
そこでは高価な鋼鉄が普通の鉄と同じくらいの価でつくられる実験が行われていた。
じっと眺めていたカーネギーは友の手をとって、
「大変、結構なものを見せて頂いた。私はあなたに沢山のお礼をしなければならないでしょう」
といった。即ち、カーネギーは彼の有名なベッセマーの製鋼法の実験を見たのである。
彼はアメリカに帰ると、友人知人をといて金をあつめて、とうとう鋼鉄製造会社をつくった。
世界の大富豪、カーネギーはこうして誕生し、あわせて、ベッセマーが中等学校の教科書にものる不朽の名声を博した。
結局、ベッセマーあってのカーネギーであり、また、カーネギーあってのベッセマーで、この二人の名コンビが協力したから二人とも世界に浮びあがったのである。
 
もう一つの型は、これもアメリカの例であるが、今から二十年ばかり前、ニューヨークにサムエルという刑事がいた。例によって工夫ずきであった。
職業柄、たくさんのどろぼうをとりしらべているうちに、錠前については専門的な知識をもつようになった。
サムエルはこれを土台にして、その時代のどろぼうでは、あけられない錠前を発明した。
しかし八方に資本家をたずねて事業化を依頼したが、どうしてもだめだった。
そこでいよいよ意を決して、恥をしのんでニューヨークの繁華街に机を持ち出して出資者をつのっていた。
この決意に神が組したのか、そこへ一人の肥えた男がやってきた。その名前はマイヤーといった。
彼は自分の本を中心にしてサムエルの発明を事業化した。
今日セガール錠前株式会社というのが、さかえているが、そこの社長はサムエルであり副社長はセガールである。
これ等も、発明家がよい友を得た、好例である。
 
このように、米国等では発明家と経営者がお互いに足らざるを補いあっているので、比較的、事業化ができやすいと思う。
 
日本でも発明家は早く孤立から抜け出して、よい友を見つけなければならない。
よい友を得ることは、その発明を生かす何よりの近道である。