SCIENCE

豊田自動織機の誕生

豊田喜一郎

 

Published in March 11th, 1952|Archived in June 12th, 2024

Image: “Non-stop Shuttle Change Toyoda Automatic Loom, Type G”, 1924.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

本稿は、発明図書刊行会編『日本発明家五十傑選』所収の豊田喜一郎著「自動織機生い立ちの記——自動織機の思い出話——」を、「自動織機の誕生」に題名を改めたうえで収録したものである。
旧字・旧仮名遣い・旧語は現代的な表現に改め、誤植・誤記・用語の不統一を可能な範囲で直した。
底本に掲載の写真は割愛した。
底本の行頭の字下げは上げた。

BIBLIOGRAPHY

著者:豊田喜一郎(1894 - 1952)
題名:豊田自動織機の誕生原題:「自動織機生い立ちの記——自動織機の思い出話——」
初出:1952年3月11日
出典:『日本発明家五十傑選』(発明図書刊行会。1952年。153-157ページ)
画像:トヨタ自動車企業アーカイブズ

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まず経系止め装置を
「発明などというものはなかなか出来るものではない。そんなものに没頭するより紡績事業を一生懸命やれ」というのが、私の父から常平生いわれていた事である。
 
父が発明のため随分苦労したが結局その為に直接得た利益はごく少なく、紡績事業をやったお蔭で経済も楽になったというのが父のいい分である。
 
紡績の方は父も知らなかったので外部からこれならばという技術者を雇って来てやらして見てはいるが、父の目から見ると何となく不安であった。その当時の紡績の技術者はなかなか見識が高くて工場主の父でさえも手こずった。私などが学校を卒業して工場に入ってもなかなか教えてくれぬ。
 
工場主の息子であるという意味もあって敬遠主義をとられ、機械に触ることさえも許されなかった。そこで父はますます躍起になって紡績をやれといっていた。幸いにして西洋人が来て一年間みっしり教えてくれた。段々教わって見ると今迄の技術者が秘伝のようにしていたことが大したことで無い事が判った。
 
その当時工場長をしていた鈴木利蔵さんも紡績の事は知らなかったので紡績技術者に文句もいえなくて困って居たが、西洋人のお蔭で紡績の糸も良くなった。もともと紡績をはじめたのは自動機械に良い糸を供給したかったからである。糸が良くなったので鈴木さんが今度は自動織機の研究をしようではないかといい出した。鈴木さんは父とともに多年自動織機の研究をして来られたし、私自身は子供の時から織機の間で隠れん坊をして育って来たので、知らず知らずの間に織機に関する智識はあったから、自動織機の研究には大賛成をした。
 
それでまず経糸止め装置(経糸が切れると自動的に織機が停止する装置)からはじめる事にして、鈴木さんの指導のもとに設計は私が、製造は大島理三郎さん(その当時修理工場を受け持っていた)が担当して三人でやることにした。
 
父はその当時ほとんど上海へ行き切りで留守だったので、父には黙ってはじめた。父が上海から帰って来て私が設計をしていたので大変怒られた。私にはそれよりも紡績をやれというのである。父が上海へ行って留守になると鈴木さんがなにかまうものかまたはじめようではないかといい出す。それでまたはじめる。帰るという電報がくると中止する。経糸止め装置は簡単なものだから判らないように研究をつづけられた。いろいろのものを設計して見てこれでまず良さそうだと思うものを作って、織布工場主任にそれをつけさして実験して見た。糸が切れても織機が止まる事もあれば止まらぬ事もあるという報告である。そんな筈は無いと思って調べて見たら、機械の調子の出し方が間違っているように思われたので、それを詰じると主任は、鐘紡で多年研究した結果調整標準方式を決定し、それを教わって来てその通りやっているから間違いではないと頑張っている。「織機は豊田が本家か、鐘紡が本家か良く考えてくれ。豊田にいるものがそんな事をいっていてどうする」
 
そこで鈴木さんと立会いの上で標準方式を変えさせた。子供の時知らず知らずに覚えた技術がこんな時に役立った。紡績の技術者が秘密にしていた標準方式がこの秘伝であった。理窟を考えずに先輩から受けついだ標準方式を、金料玉条の如くに考えて虎の子の様に秘密にして頑張っている技術者が往々にしてある。いつの間にか豊田にもそういう技術者がいたのには驚いた。
 
こういう人に試験を委託するととんでもない失敗を演ずる。父が三年以上の実地の経験を経ずして設計するものでは無いといっていたが成程だと思った。
 
父に公認されて
何時だったか、夏の暑い頃であった。私が一生懸命に設計していたら、耳のそばで「ウーン」という声がした。何にか知らんと思って振り向いたら父がいつの間にか上海から帰って、私の後から設計を見ていた。しまったと思ったがもうおそかった。
 
「その設計もなかなか面白そうだ。お前もこういうことが好きだな。鈴木もああいうから自動織機の研究をやりたかったらやってもよい。しかし紡績の方をおろそかにしてはいかんぞ」
 
これでやっと肩の荷が降りたような気がした。公に研究することを許された。そこで昔父が作った自動織機を引っ張り出してその通りのものを三台作り、つづいて三〇台まで動かし得るようにするのに二ヶ年かかった。その間従来のものは大分変更され改良されて来た。
 
そして三〇台がまず完全に動き得るようになった。上海から帰って来た父はこれを見て大変喜んだ。
 
特許権の問題
早速ある人を介して豊田式織機株式会社でこれを二百台作らせて、本式の試験をして見たいと申し込んだ。豊田式織機株式会社は以前に豊田佐吉の発明をもととして創立された会社で、そこで自動織機を研究していたが、業積が上がらないという理由のもとに退職する事となった。その後数年間絶縁していた会社である。二百台の試作費を豊田式織機株式会社と半々に持とうという申し込みをして見たが、その当時自動織機などというものは誰もむきもしない時代であったので、剣もほろろの挨拶であった。
 
あまつさえその特許権は豊田佐吉から数年前豊田式織機株式会社に移されたもので当社の所有権であると主張して来た。根本特許はそうであるとしても附加特許が相当にある事と、研究費もこちらで持ったから、そこを折り合って部下三人すなわち鈴木、大島と、喜一郎との顔の立つように折り合ってくれと話を進めたが、先方ではこんなものは売れぬという先入観があるから折り合わない。
 
その上にその特許権をこちらには絶対に渡さないという態度をとったので、父が中間に入って非常に苦しい立場になった。
 
特許というものにはこういう問題は有り勝ちの事で、発明者が往々にして自己の発明にしばられ苦しむ場合がある。
 
しかしこの場合にわれわれは別にあわてもしなかった。それというのは三〇台の試作研究中にいろいろな案があっていろいろやって見た結果、旧特許の二段作用による杼替装置より新考案による一段作用の杼替方法の方が優秀であるという結果をつかんでいたからである。
 
豊田自動織機製作所の設立
しかし父の今迄の関係もあり一応の挨拶もすべきであり、先方が喜んで受け入れてくれるならこちらでも機械の製造などという面倒な事をしなくてもすむからという考えから話を持ちこんだ事が、むしろ逆に出られたので父も大変怒って、お前達で自動織機製作所を作れという事になって、株式会社豊田自動織機製作所を設立することになった。
 
最初の失敗
新設計の二百台の自動織機を作るのに大変骨が折れたが、やっとそれを作って本格的の実験に移った。この第一回の大げさな試験は大体において失敗であった。一〇台や二〇台の試験の時にはほとんど故障が無いと思ったものが二百台運転して見るといろいろな故障が方々に出て来た。二〇台試運転して一ヶ月に二三回の故障が、二百台となるとその一〇倍以上の故障が出てくる。
 
さらに吾々の心配した事は二〇台の時には相当注意が行き届いていたので、人的欠陥はほとんど無かったものが、二百台となると思いもよらない人的欠陥が現われて来た。しかしこの思い切った実験によって、急速に欠陥をつかむことが出来て改良が手っ取り早く出来、完全な自動織機が早く出来る結果となった。
 
発明品というものはそれだけの長所はあるが、同時に実用品となる迄にはいろいろな欠陥もあらわれる。その欠陥をいち早くつかんで其処を改良し、発明の長所を充分に発揮させなくてはならぬが、その欠陥が何処にあるかをいち早くつかむという事が、むしろ発明そのものよりも時間もかかり、研究費もかかるものである事をつくづく考えさせられた。思い切って二百台の試験をした事が豊田自動織機を短時日間に完成しめ得た最大の効果であって、少数の台数で実験していたら改良すべき真の要所をつかむ事が出来ず、多数の織機を作って売り出した場合非常な苦境に陥った事であろう。
 
発明者が一つの発明をするとただちに鬼の首でも取ったように自己の発明を過信して、すでに実用価値ありと信ずる場合があるが、これは大いに慎しむべき事だと思う。思いつきそのものはどうかした拍子にポッと考えつく事があり、しかも非常に良い思いつきのものもあるが、それを実用化するまでには幾多の研究と努力が必要で、かつ経済的にも相当な難関にぶつかり勝ちのものである事を覚悟しなければならない。その難関を突破してはじめて人類に貢献し得るようなものが出来上がるのである。
 
人の問題
二百台の実験において機械的方面の欠陥は間もなく克服する事が出来たが、人的方面の欠陥には相当の期間を要した。それは女工がこの機械の取扱い方を充分のみこんで熟練するまでの間に、いろいろな故障をおこさせるもので、熟練してしまえばなんでも無いようなものであるが、今後方面でこの機械を使ってもらう為には最初は全部素人であるから、その間に折角の機械を破損されては困るので、これの解決に相当な努力を要した。
 
ごく卑近な一例を挙げて見ると、自動織機の杼箱の中に一〇個程入れておくのであるが、そのを箱に入れる時、正常の状態で入れてくれれば問題はないが、急いでいる時どうかすると間違えて横に入れたり、さかさまに入れる事がある。女工の一寸した注意であるが、何百と云う杼を入れる時一つでも間違えると織機に故障を生ずる。馴れてしまった女工には全然ない事であるが、馴れない女工には往々ある。その度毎に織機が破損する。それでは折角の自動織機の値打ちが零になる。この場合は横には絶対に入らないような杼箱を工夫して解決し得たが、機械的に解決し得ない場合もある。そういう場合には教育ということによって解決しなくてはならない。
 
結局機械というものは人間と一体となってはじめて完全になりうるもので、機械はいつまでたっても機械であり、人間の力によって本当の実力を発揮しうるものである。如何によい機械でもそれを動かしうるまでの訓練が積まなかったら、銘刀も鈍刀と同じである。否、むしろ銘刀の方が危険性が多い。自動織機を研究しこれを作るということはわれわれ技術者にとっては左程苦心ではなかった。むしろ楽しみであったが、これをわれわれの思うように使いこなさせるまでの苦心は並大抵ではなかった。自分の会社の者を訓練するのにも相当努力を要したが、これは多年の実験中に順次訓練が出来たが、新しく自動織機を買い入れた会社の人を訓練する事が果たして出来るかどうかという事に一抹の不安があった。会社の経営者が根気良く努力してくれればよいが、自動織機は自動であるから捨てておいても動く筈だと考えておられたのでは到底充分に使いこなされる筈のものでなく折角の機械が台無しになる。そこで先ず見本工場を作る必要を感じ、五百台の見本工場を作って経営者達にこれを見せて、ある程度訓練すればこの通りやりうるものであるという事を実施して見せたものである。
 
この見本工場を見て最初は何かトリックがあるのではないかと疑惑をもった人も相当あって、二日も三日も滞在して見ていたりいろいろな方面から女工や男工にさぐりを入れて調べて見た人もあった。この五百台の見本工場である程度の安心を得て実際に自動織機を使って見ようという人も段々出て来たが、これを満足に使ってもらいたい一心に私も各工場を巡って歩いて見て油差しまでした事が時々あった。
 
自動織機可愛さに
その当時私は時々考えさせられた。自分としては別に食うに困る人間ではないが、他人様が自動織機で儲けてもらう為に此方が何もかも段取りしてあげて、女工まで仕込んでやって、そして有難うございますとこちらから頭を下げて歩かなくてはならぬ商売は余り良い商売ではないと思った。しかし自動織機可愛さにこまでやらなくてはならなかった。
 
父は時々私にいった。「機械の製造などというものは貧乏人がやる仕事だ。紡績の方が余程良いからこういう仕事に余り深入りするな。早く本業の紡績に移れ」しかし技術者には一つの意地がある。やりかかったらそれを完成して見たいという意地である。この意地は良い場合もあるが悪い場合もある。
 
英国と自動織機
深入りするなといわれたのについに深入りして紡績機械の製造までやる事になった。これにも一つの大きな動機がある。私が陣頭に立って自動織機を販売していた時には相当注文があった。英国から自動織機の特許権を買いたいと申し込んで来た。一ヶ年分の注文を引き受けたからもう大丈夫だと思って英国へ自動織機の特許権譲渡の契約に行った。
 
英国のような労働問題のやかましいところで自動織機を使いますかと尋ねると、数十年前手織織機が動力織機に変更になる時も血の雨を降らした、しかし世界の大勢には抗し得ないでついに全部動力織機になったと同様、血の雨を降らすような問題が起きても、ついには大勢には抗し得ずに自動織機になるであろうから、今の中に自動織機が何時でも出来る様に特許権を確保しておきたいのだという。P社の応接間に島津藩から紡績機械を買いに英国P社へ行った時の写真が掛けてある。チョン髷姿で英国人と一緒に写っているもので珍しい写真である。今度われわれと英国人とを写した写真と見比べて、P社の人は面白い対照だといっていた。いい気持になって一〇ヶ月目で日本へ帰って来た内地では、一年分の注文を取っておいたから一〇ヶ月間に少し位は注文が取ってあると思ったのが一台も取ってなかった。もうあと二ヶ月分しかない。その当時不景気であったが、不景気であればある程こういう機械が必要な筈なのに、一台の注文も取り得なかったということは、如何に発明品を売ることが困難であるかということを感じさせられた。
 
紡績機械をはじめる
注文が一時的に途切れたため会社の経営が非常な苦境に陥って、ついに労働問題がおきた。思うにこういう種類の註文は非常に波打って来るものである事を知り、その空隙を補う為どうしても紡績機械の製造をしなくてはならぬと感じ、ついに深入りしてはならないと注意されていながら紡績機械の製造をやり出した。折角作るなら今迄ありふれた紡機を、ことに外国のものを模造したのでは申し訳もないし、われわれ技術者としてのディグニティーが保てぬと、いらぬところに意地を張ってハイドラフト紡機を作ることにした。紡績機械を作るようになってから会社の経済も非常に楽になり、また時節もだんだん自動織機を必要とする時代となって、父が一ヶ月五百台迄は作るようにせよというのに対して、ある人が三百台以上作ってはいかぬと忠告されていたのが、月産千台迄作ってもまだ注文に追われるような時代になった。紡機と織機とが助け合って製造の方が順調に行くようになったのである。
 
そこで二〇倍三〇倍程度のハイドラフトでは紡績界の革命にもならないと思い、百倍ドラフトの紡機の研究にかかり、二万錘の紡機の試作を終えた頃に戦争のため中止の止むなきに至った。
 
良い糸が出来て良い織物が出来ると同様、良い紡績機械が出来て、自動織機が真の能力を発揮しうる。紡機を作った事が自動織機の援助になった事は確かで、必ずしも父の意見に逆った事を後悔はしていないが、自分自身としては必ずしも幸福を勝ち得たとは感じない。むしろ父のいった通り紡績事業のみをやっていた方が良かったかも知れない。少なくとも自己本位の経済的立場から見ると父の方が先見の明があったと思う。
 
実施化への道
発明とか研究に志す者は経済的に恵まれるということは頭から去らなくてはならぬが、経済を無視してはいかぬ。自分の発明研究によって、他人が如何に利益を得、自分が如何に苦境に立っても満足しているという覚悟をもって努力すべきである。これからの発明というものはあるいはその時の思いつきで出来るとしても、これを物にするまでの研究は相当な日子と相当な努力以外に相当な経費のかかるものである。故に何かにヒントを得て発明特許を得たらば、自分の経済力でこれをものになし得るや否やを充分に検討し、もし出来得ないと判ればこれを完成してくれる能力のありそうな人にまかせるべきで、その際うぬ惚れや過大評価をしないことである。発明家の失敗や悩みはこの辺から生ずる。発明を拾い上げてくれる人も慎しまねばならぬ事は、これにより妄想的利得を勝ちうると信じないことである。
 
努力の問題、実行の問題
千百の発明の中、実際に利得を勝ちうるのはほんの二三に過ぎないであろう。しかしその一つで千百の犠牲よりも尊いであろう。それよりもっと尊い事はある目的に向かって努力するその努力心である。私の父は必ずしも天才とは思っていない。議論をすれば学問した私の方が勝った。思いつきといえども必ずしも突飛なものをヒョイヒョイと思いついてもいない。私が学校を出る数年前から発明は思いきってやめていたから、その真実は知らないが時たま私と議論した時から想像しうる。
 
しかし私の非常に感心した事がある。二百台の自動織機の試験中にいろいろな案を出して見た時に、それを片っ端しからやった。人間というものは案外つまらぬ考えをもっていてそれを実際やって見ると、自分が考えて良いと思った事が案外つまらなかったり、悪いと思った事が案外よい事もある。実地第一主義である。私は最初議論を先にして実地をあとにしたが、父とあることについて議論して私の方が勝った。すなわち実行して見る価値なしと判断した。その時とにかくやって見よといわれたので止むを得ずやって見た。それが私の予想を裏切って良い成績を示したことがあり、これからもう議論を先にすることをやめた。
 
つぎに父は頭の人でなく努力の人であると感じた。この点ではわれわれは遠くおよばない。発明は結局努力の賜であると感ぜられた。
 
われわれが自動織機の研究を許された時、それではおれも一つ道楽をやらしてもらおうかといって上海で道楽をはじめた。ある日のこと、おれも縦糸止め装置を作ったから上海へ見に来いといわれたので見に行った。それは大した立派なものでもなかったが目的はそれではなかった。ある何物かの発明に没頭していたらしい。夜中でも時々起きて何か作っていた。
 
それについて学問的の見解を知りたいらしかった。何物であったかは想像はついたがついに物にはならなかったようである。その時私は感じた。母が時々もらした父の若かりし頃の努力ぶりの一片が老後においてうかがわれたのである。発明は努力の賜であるという事がしみじみ感ぜられた。今の学校出は智識はありあまるくらい詰め込まれる。しかしそれが消化されていない。消化される暇がない中につぎつぎと詰め込まれる。それを蓄音機的に出しうる人が成績優秀であり社会から認められる。
 
むすび
発明は智識そのものよりも、それを如何に消化して自分のものにしているかにかかわる。学校を出ない人が往々にして相当な発明をすることはそれ故である。しかしこれを世の人のために活用し得る迄にはいろいろな研究がそれに附随しなくてはならない。そこに大きな努力がいる。その努力の中に発明が生まれて来るものだと私は思っている。
  昭和二七年三月一一日

——終——