PHILOSOPHY

風景の発見

柄谷行人

 

First Published on July 1st, 1978. Revised in 2004|Archived in January 11th, 2025

Image: Unknown, “The Plains of Musashi”, 17th century.

CONTENTS

12345

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

底本の行頭の字下げは上げた。
掲載を許諾いただいた柄谷行人氏に厚く感謝申し上げる。

BIBLIOGRAPHY

著者:柄谷行人(1941-)
題名:風景の発見
初出:1978年7月1日(「風景の発見ー序説」『季刊芸術 夏号』)
改稿:2004年(『定本 柄谷行人集〈1〉日本近代文学の起源 増補改訂版』)
出典:『定本 日本近代文学の起源』(岩波書店。2008年。8-40ページ。注は321-329ページ)

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夏目漱石が講義ノートを「文学論』として刊行したのは、彼が一九〇三年ロンドンから帰国してわずか四年後にすぎない。しかも、そのとき、彼はすでに小説家として注目されており、彼自身もそれに没頭していた。もし「文学論」の構想が「十年計画」であるならば、彼はその時点ではそれを放棄していたのである。つまり、『文学論』は彼が構想した壮大なプランからみれば、ほんの一部でしかないといってよい。漱石が付した序文には、すでに創作活動に没頭しはじめていた彼にはそれが「空想的閑文字」でしかないという疎遠感と、本当はそれを放棄することなどできないという思いが交錯している。それらはいずれも疑いのないところであって、漱石の創作活動はまさにその上に存在している。
 
漱石の序文は、『文学論』が当時の読者にとって唐突で奇妙なものにうつらざるをえないことを意識している。事実、漱石にとって個人的な必然性はあったとしても、このような書物が書かれるべき必然性は日本には(西洋においても)なかったといわねばならない。それは突然に咲いた花であり、したがって、種を残すこともなかったのである。彼は本来の「文学論」の構想が、日本においてであれ西洋においてであれ孤立した唐突なものであることに、ある戸惑いをおぼえていたはずだ(1)。彼の序文は、ちょうど『こゝろ』の先生の遺書のように、なぜこんな奇妙な本が書かれねばならなかったかを説明している。序文が、その本文とは正反対にきわめて私的に書かれているのはそのためであろう。彼は自分の情熱が何であり、何によるかを解説せねばならなかったのである。
 

余はこに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。同時に余る一年をあげ て此問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり。

 

余は下宿に立てこも りたり。一切の文学書を 行李 こうり の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あって、此世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。

 
漱石は、「文学とは如何なるものぞと云へる問題」を問題にした。実は、このことこそ、彼の企てと情熱を私的なものに、つまり他者と共有しがたいものにした理由である。漱石が疑ったのは、一九世紀のイギリスあるいはフランスにおいて形成された文学の「趣味判断」であり、文学史の通念である。それは漱石がロンドンに留学した明治三三年には日本でもすでに通念となっていた。それが同時代の文学を形成しただけではない。近代以前の文学をそこから解釈し意味づけた文学史の観念もまた形成されていたのである。漱石が疑ったのはそのような近代文学の前提であった。
 
しかし、以上の言葉から、漱石が文学を心理学的あるいは社会史的に解明しようとしたと思うなら誤解である。実際に彼がやったのは、文学をその基礎である言語的な形式において見ることであった(2)。たとえば、『文学論』で、漱石は次のような規定から始めている。《凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的(f)との結合を示しうるものと云ひ得べし》。このような見方は、ロマン派や自然主義といった文学史的概念の自明性をくつがえす。漱石は、ロマン主義と自然主義の違いを、たんにFとfの結合度の違いとして見るのである。
 

両種の文学の特性は以上の如くであります。以上の如くでありますから、双方共大切なものであります。決して一方ばかりあれば他方は文壇から駆逐してもよいなど と云はれる様な根の浅いものでは決してありません。又名前こそ両種でありますから自然派と浪漫派と対立させて、塁を堅ふし濠を深かうして睨み合つてる様に考へられますが、其実敵対させる事の出来るのは名前だけ で、内容は双方共に往つたり来たり大分入り乱れて居ります。のみならず、あるものは見方読方ではどつちへでも編入の出来るものも生ずる筈であります。だから詳しい区別を云ふと、純客観態度と純主観態度の間に無数の変化を生ずるのみならず、此変化のおのおの のものと他と結び付けて雑種を作れば又無数の第二変化が成立する訳でありますから、誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、さう一概に云へたものではないでせう。それよりも誰の作のこゝの所はこんな意味の浪漫的趣味で、こゝの所は、こんな意味の自然派趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、其指摘した場所の趣味迄も、単に浪漫、自然の二字を以て単簡に律し去らないで、どの位の異分子が、どの位の割合で交つたものかを説明する様にしたら今日の弊が救はれるかも知れないと思ひます。(「創作家の態度」)

 
これがフォルマリスト的な見方であることはいうまでもない。漱石は言語表現の根底にメタフォアとシミリーを見出しているが、その二要素がロマン主義と自然主義としてあらわれている。ロマン・ヤコブソンは、メタフォアとメトニミーを対比的な二要素として、その要素の度合によって、文学作品の傾向性をみる視点を提起したが、漱石はそれをはるかに先がけている。彼らが共通してくるのは、いずれも西欧のなかの異邦人として西洋の「文学」をみようとしたからである。ロシア・フォルマリズムが評価されるためには、西欧そのもののなかで「西欧中心主義」への疑いが生じてこなければならなかった。そうだとすれば、この当時の漱石の試みがどんなに孤立したものであるかはいうまでもあるまい。しかも、漱石の疑いはもっと根本的なものであった。漱石は一九世紀西洋の歴史主義にひそむ西欧中心主義を批判するのみならず、歴史を連続的必然的とみる観念に異議をとなえたのである。
 

風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらはれたものだけ が風俗と習慣と情操であつて、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。又西洋人が自己の歴史で幾多の変遷を経て今日に至つた最後の到着点が必ずしも標準にはならない(彼等には標準であらうが)。ことに文学に在つてはさうは参りません。多くの人は日本の文学を幼稚だと云ひます。情けない事に私もさう思つてゐます。然しながら、自国の文学が幼稚だと自白するのは、今日の西洋文学が標準だと云ふ意味とは違ひます。幼稚なる今日の日本文学が発達すれば必ず現代の露西亜文学にならねばならぬものだとは断言出来ないと信じます。又は必ずユーゴーからバルザック、バルザックからゾラと云ふ順序を経て今日の仏蘭西文学と一様な性質のものに発展しなければならないと云ふ理由も認められないのであります。幼稚な文学が発達するのは必ず一本道で、さうして落ち付く先は必ず一点であると云ふ事を理論的に証明しない以上は現代の西洋文学の傾向が、幼稚なる日本文学の傾向とならねばならんとは速断であります。又此傾向が絶体に正しいとも論結は出来にく いと思ひます。一本道の科学では新即ち正と云ふ事が、ある程度に於て言はれるかも知れませんが、発達の道が入り組んで色々分れる以上は又分れ得る以上は西洋人の新が必ずしも日本人に正しいとは申し様がない。而して其文学が一本道に発達しないものであると云ふ事は、理屈はさて 置いて、現に当代各国の文学——尤も進歩してゐる文学——を比較して見たら一番よく分るだらうと思ひます。(中略)

 

して見ると西洋の絵画史が今日の有様になつてゐるのは、まことに危うい、綱渡りと同じ様な芸当をして来た結果と云はなければならないのでせう。少しでも 金合 かねあい が狂へばすぐほか の歴史になって仕舞。議論としてはまだ不充分かも知れませんが実際的には、前に云つた様な意味から帰納して絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史は其一筋である、日本の風俗画の歴史も単に其一筋に過ぎないと云ふ事が云はれる様に思ひます。是は単に絵画丈を例に引いて御話をしたのでありますが、必ずしも絵画には限りますまい。文学でも同じ事でありませう。同じ事であるとすると、与へられた西洋の文学史を唯一の真と認めて、万事之に訴へて決し様とするのは少し狭くなり過ぎるかも知れません。歴史だから真実には相違ない。然し与へられない歴史はいく通りも頭の中で組み立てる事が出来て、条件さへ具足すれば、いつでも之を実現する事は可能だと迄主張しても差支ない位だと私は信じて居ります。(中略)

 

今迄述べた三ヶ条はみな文学史に連続した発展があるものと認めて、旧を棄てゝみだ りに新を追ふへい とか、偶然に出て来た人間の作の為めに何主義と云ふ名を冠して、作其物を是非此主義を代表する様に取り扱つた結果、妥当を欠くにも拘らず之を く迄も取り崩し難き whole と見做す弊や、或は漸移の勢につれて此主義の意義が変化を受けて混雑を来す弊を述べたのであります。こゝに申す事は歴史に関係はありますが、歴史の発展とは左程交渉はない様に思はれます。即ち作物を区別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本として成り立つた某々主義を以てする代りに、古今東西に渉つてあてはまる様に、作家も時代も離れて、作物の上にのみあらはれた特性を以てする事であります。既に時代を離れ、作家を離れ、作物の上にのみあらはれた特性を以てすると云ふ以上は、作物の形式と題目とに因つて分つより外に致し方がありません。(「創作家の態度」)

 
漱石が拒絶したのは、西欧の 自己同一性 アイデンティティ であった。彼の考えでは、そこには「とりかえ」可能な、組みかえ可能な構造がある。たまたま選びとられた一つの構造が「普遍的なもの」とみなされたとき、歴史は必然的で線的なものにならざるをえない。漱石は西洋文学に対して日本文学を立て、その差異や相対性を主張しているのではない。彼にとっては、日本の文学の自己同一性もまた疑わしい。それは別のものになりえた可能性をもっている。しかし、このように組みかえ可能な構造を見出すことは、漱石の場合、なぜ歴史はこうであってああではないのか、私はなぜここにいてあそこにはいないのか(パスカル)という疑いをよびおこす。フォルマリズム・構造主義の理論家にはそのような問いがぬけているのである。
 
漱石は「文学論」の企てを放棄して小説を書き始めた。だが、彼は「文学論」において出会った問題から解放されたのではない。その逆である。彼の創作は、「文学論」で彼のやろうとしたことがたんなる理論の問題ではなく、彼自身のアイデンティティにかかわるものだったことを示している。たとえば、『道草』に書かれているように、漱石は幼時に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育った。彼はたまたま「組みかえ」られたことの結果としてあった。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、組みかえ可能な構造にほかならなかった。ひとがもし自らの血統(アイデンティティ)に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでに組みかえ不可能なものとして存在するからだ。
 
おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。理論に厭きたから創作に移行したのではなく、創作そのものが彼の理論から派生するのだ。それは、漱石が真に理論的だったからであり、いいかえれば「文学の理論」などというものをめざしていたのではなかったからである。彼は理論的であるほかに、すなわち「文学」に対して距離をもつほかに存立するすべがなかったのである。

『文学論』に付された序文には、漱石が文学に対して理論的であろうとした経緯が語られている。彼はなぜ「文学とは如何なるものぞと云へる問題」をもつにいたったか。
 

少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短かきにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と 冥々 めいめい 裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし、斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。(中略)春秋は十を連ねて吾前にあり。学ぶに余暇なしとは云はず。学んで徹せざるを恨みとするのみ。卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(「文学論」序)

 
しかし、以上の言葉から、漱石が英文学に不満で漢文学を好んだというような結論を引き出してはならない。漱石が「欺かれた」と感じたのは英文学一般ではなく、近代文学としての英文学なのである。つまり、彼が反撥したのは、「ユーゴーからバルザック、バルザックからゾラと云ふ順序を経て」発展した「今日の仏蘭西文学と一様な性質のもの」である。それに対して、彼はシェークスピア、スウィフト、そして、とりわけスターンに対する好みをはっきり表明している。一言でいえば、それらはバフチンがいうルネサンス文学あるいは「カーニバル的な世界感覚」を保持するような文学なのである。そして、漱石はそれに類似したものを日本の俳諧あるいは「写生文」の系譜の中に見出している(3)。
 
漱石が違和を感じたのは、まさにそのような文学を脇に追いやるかたちで成立したところの「近代文学」なのである。そして、彼が考えたのは、近代文学がたどったような道をたどる必然はないのではないか、すなわち、別の文学が可能なのではないか、ということであった。したがって、それは英文学と漢文学、西洋文学と日本文学というような対比とは関係がない。実際に創作を始めたとき、彼は『吾輩は猫である』や『草枕』が示すように、スウィフトやスターンと似たスタイルで書いた。同時に、彼はそれが俳句に始まる「写生文」だと考えていたのである(彼の創作に関しては第七章で論じる)。
 
漱石は、当時主流であった自然主義やそれに反撥して登場したネオ・ロマン派と同時代に仕事をした。新帰朝者として畏敬の的ではあったが、彼の作品は当時の自然主義的な文壇にとって古めかしい、あるいは子供っぽいものとしか見えなかった。自然主義者が漱石を認めたのは、最後から二つ目の作品、『道草』においてである。他方、ネオ・ロマン派や白樺派は漱石を好んでいたが、それはむしろ自然主義的でないということだからにすぎない。だが、彼らは漱石がロマン主義と自然主義のいずれもが共有する基盤、つまり「近代文学」そのものを疑っていたことに気づかなかったのである。
 
漱石の態度は近代文学に対して中世あるいは古代の文学を対置することから程遠かった。近代に対して中世、古代、あるいは東洋を対置する人たちは少なくない。しかし、すでに中世とは近代に対して中世を賛美するロマン主義によって想像的に見出されたものであり、東洋(オリエント)もまた同様に、近代西洋への批判として創造された表象である。だから、もし人が英文学に対して漢文学を称揚するとするならば、そのようなスタンスは近代文学を出るどころか、近代文学のたぶん最もありふれた一典型にしかならないのである。漱石がここで「漢文学」と呼ぶのは、そのようなものではない。瀬石にとって、「漢文学」はもはや実体ではなく、近代文学の彼岸に想定されるべき不確かな何かだったのだ。
 
くりかえせば、中世や古代の文学あるいは漢文学はすでに近代文学の視点によって再構成されたものである。否定するにせよ賞賛するにせよ、それらはすでに近代文学に属しているのだ。そのことを知らないならば、どうしてそこから出ることができようか。このことを理解するために、私は、漱石自身がそうしたように絵画を例にとって考えたい。たとえば、漢文学は絵画において山水画になぞらえられる。そのとき、次の点に注意しなければならない。
 
宇佐見圭司は、われわれが「山水画」と呼んでいるものがすでに近代西洋の風景画を通して見いだされたものであることを指摘している。《山水画という名称はここに展示されている絵画が実際に描かれた時代にはなく、四季絵とか月並と呼ばれていた。山水画は、明治の、日本の近代化を指導したフェノロサによって、命名され、絵画表現のカテゴリーの中に位置づけられるようになった。とすれば、山水画という規定自体は、西洋近代的な意識と、日本文化とのズレによって出現したということになる》(宇佐見圭司「「山水画」に絶望を見る」『現代思想』昭和五二年五月号)。
 
つまり、山水画という名は、まるでそれが西洋の風景画と同様に風景を描いたかのように思わせる。西洋において風景画は幾何学的遠近法とともに生まれたといってよい。それまでの絵画において、風景は宗教的な物語や歴史的な物語を描いた絵の背景としてあったにすぎない。ところが、幾何学的遠近法は一点から見た透視図法であるため、物語的な時間をふくむ対象を処理することが難しかった。そこに、物語をもたない、たんなる風景としての風景が描かれる必然があったのである。
 
ところが、そのような風景画から見ると、山水画ではまさに風景としての風景が描かれているようにみえる。ゆえにそれらは山水画と名づけられた。しかし、山水画における風景は、むしろ西洋における宗教的な絵画に近いというべきなのだ。中国において山水は宗教的対象であったがゆえに、執拗に描かれたのである(4)。宇佐見圭司は「山水画」を、西洋の幾何学的遠近法と比較してつぎのようにいっている。
 

山水画の空間を語るために、山水画の 時間 、、 を検討してみよう。山水画における〝場〟のイメージは西欧の遠近法における位置へと還元されるものではない。

 

遠近法における位置とは、固定的な視点を持つ一人の人間から、統一的に把握される。ある瞬間にその視点に対応する総てのものは、座標の網の目にのってその相互関係が客観的に決定される。我々の現在の視覚も又、この遠近法的な対象把握を無言のうちにおこなっている。

 

これに対して山水画の場は、個人が もの 、、 に対して持つ関係ではなく、先験的な、形而上的な、 モデル 、、、 として存在している。

 

それは、中世ヨーロッパの のあり方と、先験的であるという共通性を持つ。先験的なのは、山水画の にあっては、中国の哲人が悟りをひらく理想像であり、ヨーロッパ中世では、聖書、及び神であった。

 
中世ヨーロッパの宗教画と中国の山水画は、対象をまったく異にするにもかかわらず、対象を見る形態において共通していたのである。山水画家が松を描くとき、いわば松という概念を描くのであり、それは一定の視点と時空間で見られた松林ではない(5)。「風景」とは「固定的な視点を持つ一人の人間から、統一的に把握される」対象にほかならない(6)。山水画の遠近法は幾何学的ではない。ゆえに、風景しかないように見える山水画に「風景」は存在しなかったのである。
 
文学に関しても同じことがいえる。たとえば、松尾芭蕉は「風景」を見たのではない。彼らにとって、風景は言葉であり過去の文学にほかならなかった。たとえば、芭蕉の「枯枝に鳥のとまりけり秋の暮」という句は、杜甫の漢詩からの引用である。柳田国男がいったように、『奥の細道』には「描写」は一行もない。「描写」とみえるものも「描写」ではない。同じことが井原西鶴についてもいえる。リアリスト井原西鶴なるものは、明治二十年代以後に近代西洋文学の視点から見出されたものにすぎない。そして、そのような解釈は皮相且つ的外れである。俳諧師であった西鶴の作品に見出されるリアリズムとは、いわば「グロテスク・リアリズム」(バフチン)なのだ(7)。
 
文学と絵画をこのように類推的に見ることには一定の根拠がある。たとえば、パノフスキーは遠近法を、新カント派哲学者カッシーラーにもとづいて「象徴形式」として考察した。象徴形式はもともと、対象(現象)は主観的な形式とカテゴリーによって構成されたものだというカントの考えに由来している。哲学的諸問題を言語から考える「言語論的転回」以後、カントの哲学は主観的なものとして批判されてきたが、本来、カントがいう感性形式や悟性のカテゴリーは言語的なものである。カッシーラーはつとにそれを「象徴形式」と呼んだのである。それゆえ、遠近法も広い意味で言語の問題であり、逆にいえば、文学の問題においても遠近法が別のかたちであらわれたのである。後にのべるように、それは近代小説を特徴づける三人称客観描写である。
 
絵画から文学を見ると、近代文学を特徴づける主観性や自己表現という考えが、世界が「固定的な視点をもつ一人の人間」によって見られたものであるという事態に対応していることがわかる。幾何学的遠近法は、客観のみならず主観をも作り出す装置なのである。しかるに、山水画家が描く対象は一つの主観によって統一的に把握されたものではない。そこには一つの(超越論的)自己がない。文学におきかえていえば、そのことは、透視図法のような話法が成立しないならば、近代的な「自己表現」という見方が成立しないということを意味する。
 
明治以後のロマン派は、たとえば万葉集の歌に古代人の率直な「自己表現」を見た。しかし、古代人が自己を表現したというのは近代から見た想像にすぎない。そこでは、むしろ、人に代わって歌う「代詠」、適当な所与の題にもとづいて作る「題詠」が普通であった。しかるに、近代文学に慣れた者は、その見方を前代あるいは古代に投射してしまう。のみならず、そのようにして「文学史」を捏造するのである。明治二十年代に確立された日本の「国文学」とその歴史はそのようなものである。われわれにとって自明とみえる「国文学史」そのものが、「風景」の発見のなかで形成されたのだ。漱石が疑ったのはそのような風景である。

近代文学の起源に関して、一方では、内面性や自我という観点から、他方では、対象の写実という観点から論じられている。しかし、これらは別々のものではない。重要なのは、このような主観や客観が歴史的に出現したということ、いいかえれば、それらの基底に新たな「象徴形式」(カッシーラー)が存在するということである。そして、それは確立されるやいなやその起源が忘却されてしまうような装置である。
 
私はまず近代文学の起源を風景(客観)の側から考えたい。それはたんに外的な客観の問題ではない。たとえば、国木田独歩の『武蔵野』や『忘れえぬ人々』(明治三一年)においてはありふれた風景が描かれている。ところが、日本の小説で風景としての風景が自覚的に描かれたのは、これらの作品が始めてであった(8)。しかも、『忘れえぬ人々』は、そのような「風景」がある内的な転倒によってしかありえなかったということを如実に示している。
 
この作品では、無名の文学者である大津という人物が、多摩川沿いの宿でたまたま知り合った秋山という人物に、「忘れえぬ人々」について語るという仕掛けになっている。大津は「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶ふまじき人にあらず」という書き出しの自作の原稿を示して、それについて説明する。「忘れて叶ふまじき人」とは、「朋友知己其ほか自分の世話になった教師先輩の如き」人々のことであり、「忘れえぬ人」とは、ふつうなら忘れてしまっても構わないが忘れられない人々のことである。
 
彼は、その例として、大阪から汽船で瀬戸内海を渡ったときの出来事をあげている。
 

たゞ其時は健康が思はしくないから余り浮き〱くしないで物思に沈むで居たに違ひない。絶えず甲板の上に出て 将来 ゆくすえ の夢を描ては此世に於ける人の身の上のことなどを思ひつゞけてゐたことだけは記憶してゐる。勿論若いものゝ癖で其れも不思議はないが、其処で僕は、春の日の閑かな光が油のやうな海面に融け殆んどさざなみ も立たぬ中を 船首 へさき が心地よい音をさせて水を切て進行するにつれて、霞たなびく島々を迎へては送り、右舷左舷の景色を眺めてみた。菜の花と麦の青葉とで綿を敷たやうな島々が丸で霞の奥に浮いてゐるやうに見える。そのうち船が或る小さな島を右舷に見て其磯から十町とは離れない処を通るので僕は欄に寄り何心なく其島を眺めてゐた。山の根がたの彼処此処に背の低い松が 小杜 こもり を作つてゐるばかりで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。しん として淋びしい磯の潮の退潮の痕が日に輝つて、小さな波が水際を弄んでゐるらしく長い線が白刃のやうに光つては消えて居る。無人島でない事はその山よりも高い空で 雲雀 ひばり が啼てゐるのが微かに聞えるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父の句であるが、山の 彼方 むこう には人家があるに相違ないと僕は思ふた。と見るうち退潮の痕の日に輝つてゐる処に一人の人がゐるのが目についた。たしかに男である。又た小供でもない。何かしき りに拾つては籠か桶かに入れてゐるらしい。 二三歩 ふたあしみあし あるいてはしやがみ、そして何か拾ろつてゐる。自分は此淋しい島かげの小さな磯を漁つてゐる此人をぢつと眺めてゐた。船が進むにつれて人影が黒い点のやうになつて了った。そのうち磯も山も島全体が霞の彼方に消えて了つた。その後今日が日まで殆ど十年の間、僕は何度此島かげの顔も知らない此人を億ひ起したらう。これが僕の『忘れ得ぬ人々』の一人である。

 
長い引用をしたのは、ここでは、島かげにいた男は、「人」というよりは「風景」としてみられていることを示したかったからである。《其時油然として僕の心に浮むで来るのは則ち此等の人々である。さうでない、此等の人々を見た時の周囲の光景の裡に立つ此等の人々である》。語り手の大津は、ほかにも「忘れえぬ人々」を沢山例にあげるが、それらはすべて右のように風景としての人間である。むろんそのこと自体は大して奇異でないようにみえる。しかし、独歩は風景としての人間を忘れえぬという主人公の奇怪さを、最後の数行においてあざやかに示している。
 
結末は、大津が秋山と宿で語りあってから二年後のことである。
 

其後二年 経過 たつ た。

 

大津は故あつて東北の或地方に住つてゐた。溝口の旅宿で初めて遇つた秋山との交際は全く絶えた。

 

恰度、大津が溝口に泊つた時の時候であつたが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向つて瞑想に沈むでゐた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあつて、其最後に書き加へてあったのは「亀屋の 主人 あるじ 」であつた。

 

「秋山」では無かった。

 
つまり、『忘れえぬ人々』という作品から感じられるのは、たんなる風景ではなく、なにか根本的な倒錯なのである。さらにいえば、「風景」はこのような倒錯においてこそ見出されるのだということである。すでにいったように、風景はたんに外にあるのではない。風景が出現するためには、いわば知覚の様態が変わらなければならないのであり、そのためには、ある逆転が必要なのだ。『忘れえぬ人々』の主人公はつぎのように語っている。
 

「要するにぼくは絶えず人生の問題に苦しむでゐながら又た自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでゐる不幸な男である。

 

「そこで僕は今夜のやうな晩に独り夜更て灯に向つてゐると此生の孤立を感じて堪へ難いほどの哀情を催ほして来る。その時僕の主我の角がぼきり折れて了つて、何んだか人懐かしくなって来る。色々の古い事や友の上を考へだす。其時油然として僕の心に浮むで来るのは則ち此等の人々である。さうでない、此等の人々を見た時の周囲の光景の裡に立つ此等の人々である。我れとひと と何の相違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に けて悠々たる行路を辿り、相携へて無窮の天に帰る者ではないか、といふやうな感が心の底から起つて来て我知らず涙が頬をつたふことがある。其時は実に我もなければ他もない、たゞ誰れも被れも懐かしくつて忍ばれて来る。

 
ここには、「風景」が孤独で内面的な状態と緊密に結びついていることがよく示されている。この人物は、どうでもよいような他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、逆にいえば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。いいかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」inner man において、はじめて風景が見出される。風景は、むしろ「外」をみない人間によって見出されたのである。

ポール・ヴァレリーは、西洋の絵画史を風景画が浸透し支配する過程としてとらえている。
 

風景が画家に提供する興味は、かくのごとく、だんだんに変遷してきたのである。すなわち、初めは画の主題の補助物として、主題に従属せしめられていたものが、次に、妖精でも住んでいそうな、幻想的な新天地を表現することとなり、——最後に来たのが印象の勝利であって、 素材 、、 或は 光が 、、 、すべてを支配するようになった。

 

そして数年のうちに、絵画は人間のいない世界の諸像で 氾濫 、、 するに至った。それは海とか、森とか、野原とかが、ただそれだけで、大多数の人々の眼を満足せしめるという傾向を意味している。そしてそれは、種々の重要な変化の原因となった。第一に、我々の眼は樹とか野原とかに対して、生物に対するほど敏感ではないために、画家は専らそれらを描くのによって比較的勝手な真似が出来るようになり、その結果として絵画においてそういう妄りな独断をすることが当り前なことになった。例えば画家が、一本の木の枝を描くのと同じ乱暴さでもって人間の手や足を描いたならば、我々は驚くのに違いないのである。それは我々の眼に、植物界や鉱物界に属する事物の実際の形が容易く見分けられないからである。その意味で、風景描写には多くの 便宜 、、 が与えられている。それで、誰でもが画をかくようになった。(『ドガ・ダンス・デッサン』吉田健一訳、「ポール・ヴァレリー全集」第一〇巻、筑摩書房)

 
むろん彼は風景画に対して否定的であり、風景画に支配された結果、「芸術の理智的内容の減少」をまねき、芸術が「人間的に完全な者の行為であること」がみうしなわれたという。それと同時に、彼はこういっている。《私が絵画について述べたことは、全く驚くべき的確さを以て文学にも当嵌まるのである。すなわち文学の、描写というものによる侵略は、絵の風景画による侵略とほとんど同時に行われ、同じ方向を取り、同じ結果をもたらした》(『ドガ・ダンス・デッサン』同前)。
 
しかし、風景画の侵略あるいは描写の侵略は、たんに対象の側にだけ生じた出来事ではない。それは主観の側に生じたことと切り離すことはできないのである。たとえば、ヴァレリーが「人間的に完全な者」として理想化するレオナルド・ダ・ヴィンチの作品においてこそ、「風景画」が浸透する萌芽が見られるのだ。オランダの精神病理学者ファン・デン・ベルクは、西欧で最初に風景が風景として描かれたのは「モナリザ」においてだといっている。それについてのべる前に、彼はルッターの『キリスト者の自由』(一五二〇年)を例にあげ、そこに、一切の外的なものへの拒絶ただ神の言葉によってのみ生きる「内的人間」をみとめている。ダ・ヴィンチはルッターがそう書いた前年に死んだ。リルケが示唆したように、モナリザの謎めいた微笑は、内的な自己を封じこめているわけだが、それはいわゆるプロテスタンティズムからくるのではなく、逆にプロテスタンティズムこそそのことの顕在化にほかならない。ファン・デン・ベルクは、ルッターの草稿とモナリザは本質的に同じものだといい、さらにこうのべている。
 

同時にモナリザは、不可避的なことだが、風景から疎外された最初の人物(絵画における)である。彼女の背景にある風景が有名なのは当然だ。それは、まさにそれが風景であるがゆえに風景として描かれた、最初の風景なのである。それは純粋な風景であって、人間の行為のたんなる背景ではない。それは、中世の人間たちが知らなかったような自然、それ自身のなかに自足してある外的自然であって、そこからは人間的な要素は原則的にとりのぞかれてしまっている。それは人間の眼によって見られた最も奇妙な風景である。(Jan Hendrick Van Den Berg, Changing Nature of Man: Introduction to a Historical Psychology, W. W. Norton & Co. Inc, 1983)

 
この意味では、ダ・ヴィンチこそ「風景」を発見した最初の人である。しかし、ヴァレリーがダ・ヴィンチについて述べたことはまちがっていない。すなわち、彼は風景を描いた一方で風景の浸透を拒否したのである。別の観点からいえば、それは、彼が透視図法を受け入れると同時にそれを決定的なものとみなさなかったということを意味する。岡崎乾二郎によれば、ルネサンスの画家たちが取り組んだのは、透視図法そのものではなく、透視図法という仮説を設定したとき産出される、さまざまなパラドックスをいかに解決するかという問題であった。そこから、ダ・ヴィンチは空気遠近法や蛇状曲線やスフマートなどのさまざまな技法を編み出したのである(9)。
 
風景画が浸透するのは、むしろその起源が忘れられるときである。たとえば、ヨーロッパにおいて、「風景の発見」が全面的な規模で生じたのはロマン派においてである。『告白録』のなかで、ルソーは、一七二八年アルプスにおける自然との合一の体験を書いている。それまでアルプスはたんに邪悪な障害物でしかなかったのに、人々はルソーが見たものを見るためにスイスに殺到しはじめた。アルピニスト(登山家)は、まさに「文学」から生まれたのである。志賀重昴は『日本風景論』において「日本アルプス」を賛美しているが、日本の〝アルプス〟がルソーに由来するのみならず、実際に日本にいた外国人らによって認知されたということを無視している。志賀はまた「登山の気風」を興そうと努めたが、柳田国男がいうように、登山は、それまでタブーや価値によって区分されていた質的空間を変形し等質化することなくしてありえないのである。
 
総じて、ロマン派あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原始林——などが崇高な風景として見出された。明らかに、ここには転倒がある。
 
このことに関して、エドマンド・バークの考察を批判的に受け継いだカントは、つぎのように考えた。美が感覚にもとづきまた事物の「合目的性」の発見によるのに対して、崇高は人を圧倒し畏怖させ無力に感じさせるような対象に対して生じる。しかし、カントは、崇高において、われわれの内なる理性の無限性が確認されるのだという。だからこそ、感覚的な不快にもかかわらず、それとは別種の大きな快が得られる。
 

それだから我々が、自分のうちにある自然に優越し、それによってまた我々のそとにある自然(それが我々に影響を与えるかぎりにおいて)にも優越するものであることを自覚し得る限り、崇高性は自然の事物のうちにあるのではなくて、我々の心意識のうちにのみ宿るのである。そこで我々の心にかかる感情を喚びおこすところの一切のものは(本来の意味においてではないにせよ)崇高と呼ばれる、そして我々の心力に挑む自然の威力は、実にこのようなものに属するのである。我々のうちにはかかる理念が存するという前提のもとでのみ、またかかる理念に関してのみ、我々は存在者そのものの崇高性の理念に到達し得るのである。そしてかかる存在者こそ、彼が自然において証示するところの彼の威力によるばかりでなく、それにも増して我々のうちに宿る能力、即ち恐怖の念を懐くことなくこの威力を判定し、また我々の本分をいささかも恐怖に煩わされぬものと思いなすところの能力によって、我々のうちに甚深な尊敬の念を喚起するのである。(『判断力批判』上、篠田英雄訳、岩波文庫)

 
しかし、カントの指摘において重要なのは、崇高は主観(理性)の無限性に根ざしているのに、それが対象物の側に見出されてしまうという転倒である。私は、風景が実際の対象(美的な)を斥ける、またはそれに対してまったく無関心な「内的人間」によって見出されたと述べた。国木田独歩が示すのはそのような転倒である。だが、本当に重要な転倒は、崇高が対象の側にあると考えるときに生じる。いいかえれば、人々はそれが不快な対象であったことを忘れて、それ自体が美であると思いはじめるのである。そして、人々はそのような風景を描く。それがリアリズムと呼ばれる。しかし、それはもともとロマン派的な転倒のなかで生じたのである。

ロシア・フォルマリズムの理論家シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるといっている。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは、親和的なものをつねに非親和化しつづけるたえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在 させる 、、、 のだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。明治二六年に、北村透谷はつぎのように書いている。
 

…… 写実 リアリズム は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たりや、自から其の注目するところに異同あり、或は 特更 ことさら に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実にかたよ りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因って立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。(『情熱』)

 
透谷が写実の根底にみる「情熱」が何を意味するかは、すでに明瞭である。それは彼のいう「想世界」、つまり内的なセルフの優位のなかではじめて写実が写実として可能だということである。それこそ逍遥が欠いていたものにほかならない。そうだとすれば、ロマン派とリアリズムを機能的に対立させることは無意味である。その対立にとらわれているかぎり、われわれはその対立自体を派生させた事態をみることができない。漱石はそれらを二つの要素として「割合」においてみようとした。むろんこのようなフォルマリスト的視点は、この対立それ自体が歴史的なものであることをみない。しかし、すくなくとも漱石は、それらを通時的な文学史によって考えようとしなかった。
 
中村光夫は、「我国の自然主義文学はロマンティックな性格を持ち、外国文学ではロマン派の果した役割が自然主義者によって成就された」(「明治文学史』筑摩書房)といっている。だが、たとえば、国木田独歩のような作家がロマン主義か自然主義かを論議することは馬鹿げている。彼の両義性は、ロマン派とリアリズムの内的な連関を端的に示すのみである。西洋の「文学史」を規範とするかぎり、それは短期間に西洋文学をとりいれた明治日本における混乱の姿でしかないが、むしろここに、西洋においては長期にわたったために、線的な順序のなかに隠蔽されてしまっている転倒の性質、むしろ西洋に固有の転倒の性質を明るみに出す鍵がある。
 
すでにのべたように、近代文学は、対象の側に焦点をあてればリアリズム的であり、主観の側に焦点をあてればロマン主義的である。だから、近代文学はある時はリアリズムの観点から見られ、ある時はロマン主義の観点から見られる。たとえば、ハロルド・ブルームは、われわれはロマン派のなかにあり、それを否定することそのものがロマン派的なものだといっている。T・S・エリオットも、サルトルも、レヴィ=ストロースもまたロマン派に属するのである。反ロマン派的なものもロマン派の一部にほかならない。そのことをみるには、ワーズワースの『プレリュード』や、哲学においてそれに相当するヘーゲルの『精神現象学』をみればよい。そこには、すでにロマン派的な主観的精神から客観的精神への「意識の経験」、あるいは「成熟」が書かれている。この意味では、われわれは、反ロマン派的であること自体がロマン派的であるような「ロマン派のディレンマ」に依然として属している。しかし、それを「リアリズムのディレンマ」といいかえてもさしつかえない。なぜなら、リアリズムはたえまない非親和化の運動であり、反リアリズムこそリアリズムの一環にほかならないからだ。こうしたディレンマをこえようとするならば、狭義のロマン主義・リアリズムといった概念から離れ、それらをともに派生させた根源に遡行しなければならないのである。
 
たとえば、『忘れえぬ人々』では、それまで重要なものとみえた人々が忘れられ、どうでもよいような人々が「忘れえぬ」ものとなっている。これは、風景画において、それまで背景でしかなかったものが宗教的・歴史的な主題にとってかわるのと同じである。注目すべきなのは、このときそれまで平凡でとるに足らないと思われた人々や事象が意味深いものとしてみえてきたことだ。ロマン派の詩人であり民俗学の創始者でもある柳田国男が昭和になってから「常民」と名づけたものは、右のような価値転倒によってみえてきた風景にほかならない。また、そうだからこそ、柳田は最初用いた平民や農民という具体的な対象を指示する言葉を斥けねばならなかったのである。
 
柳田のこうした変化には、中村光夫が指摘するように、国木田独歩における転倒と類似したものがある。《彼(柳田)の民俗学に志した動機には、「凡人の伝」に詩を感じ、「此川岸に立つ茅屋の一家族の歴史は如何。其老夫が伝記は如何。彼一個の石、これ人情の記念にあらざるか……こゝに自然と人情と神の書かれたる記録存す」と叫んだ独歩に共通するものがあったと思われます》(『明治文学史』同前)。民俗学が誕生するためには、その対象が存在しなければならない。そして、その対象としての常民はまさにこのようにして発見されたのである。柳田国男において、風景論と民俗学がいつも結びついているのはそのためだ。柳田の風景論にかんしてはのちに論ずるが、ここで注意したいのは、彼にとって「民」は、「風景」としての「民」であると同時に、儒教的な「経世済民」の「民」であったということである。この二重性が柳田の思想を両義的たらしめている。柳田は森鷗外と同様に、文学者であると同時に明治国家の官僚であったのだ。
 
むしろ大衆・平凡な生活者が純粋な「風景」として見出されたのは、昭和期の小林秀雄においてである。マルクス主義にとってのプロレタリアートもまた一種の「風景」であった。それは現実の労働者とは異なる、あるいは、それを斥けるところに見出される観念なのである。一方、それに対して、小林秀雄は、観念やイデオロギーにたぶらかされない、したたかな生活者を考えた。このようなイメージは反ロマンティックであるとしても、やはりロマン派的な風景にすぎない。プロレタリアートが実在しないならば、そのような大衆もまた実在しないのである。この点では、吉本隆明のいう「大衆の原像」も同様であって、それはまさに「像」として存在するだけである。
 
小林秀雄の批評は「ロマン派のディレンマ」を全面的に示している。彼にとっては、「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さ過ぎもしない」(「様々なる意匠」)。いいかえれば、われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。小林秀雄がたえずくりかえしてきたのは、「客観的なもの」ではなく「客観」にいたろうとすること、「自意識の球体を破砕する」ことだったといえる。だが、そのことの不可能性を小林秀雄ほど知っていた者はいない。たとえば、彼の『近代絵画』は風景画論であり、さらにそこにある「遠近法」から脱しようとするはてしない認識的格闘の叙述である。だが、小林秀雄だけでなく、『近代絵画』の画家たちもまた「風景」から出られなかったのであり、日本の浮世絵やアフリカのプリミティヴな芸術に彼らが注目したことすら「風景」のなかでの出来事なのである。だれもそこから出たかのように語ることはできない。私がここでなそうとするのは、しかし風景という球体から出ることではない。この「球体」そのものの起源を明らかにすることである。

(1) 私は漱石の『文学論』がその時代において、世界的に特異な、したがって孤立した企てだと述べた。しかし、実は、規模において違っていたとしても、彼の親友、正岡子規の批評のなかにすでに同じ志向が見いだされるのである。子規が『俳諧大要』(明治二八年)において掲げるのは、つぎのような原理である。《俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし》(『俳諧大要』第一)。むろん「美の標準は各個の感情に存す」がゆえに、「先天的に存在する美の標準」はないし、あったところで知りようがない。しかし、「概括的美の標準」はある、と子規はいう。ここで彼がいうのは、二つのことだ。俳句は、芸術(美)の一部であり、東洋であろうと西洋であろうと、芸術であるかぎり、同一の原理の中にあるということと、そして、それは、個々の感情に根ざすとはいえ、知的に分析可能なものであり、したがって、批評が可能であるということである。
 
たとえば、ひとは、特に俳句のようなものにかんしては、それを特殊なものとして見捨てるか、閉鎖的な内部で論じるだけである。もちろん、それはのちに子規がもっと激烈に批判した「和歌」にかんしてもあてはまる。彼らは、理論的に分析しえないような微妙な神秘的な何かがあると抗弁するだろう。しかし、俳句や和歌だけでなく、もっと広くいって、ひとが日本文学を、西洋文学とは異質なものとして、つまり分析不能あるいは分析を拒否するものとして表象してしまうとき、同じことをやっているのである。子規がいうのは、とりあえず、こうした差異を廃棄するところからはじめなければならないということである。《俳句の標準を知りて小説の標準を知らずといふ者は俳句の標準をも知らざる者なり。標準は文学全般に通じて同一なるを要するは論を俟たず》(同前)。
 
しかし、こうした同一性の主張は、さまざまに異なるジャンルを捨象してしまうことを意味するのではない。その逆に、子規は、ジャンルの意味を確保するためにこそ、あたかも自律的に存在しているかのように見なされているジャンルから、その例外性や特権を剥奪するのだ。その上でのみ、諸ジャンル genre は、その生成 genesis における「差異」として見いだされるのである。
 

俳句との文学との音を比較して優劣あるなし。唯ゝ諷詠する事物に因りて音調の適否あるのみ。例へば複雑せる事物は小説又は長篇の韻文に適し、単純なる事物は俳句又は短篇の韻文に適す。簡樸なるは漢土の詩の長所なり、精緻なるは欧米の詩の長所なり、優柔なるは和歌の長所なり、軽妙なるは俳句の長所なり。然れども俳句全く簡樸、精緻、優柔を欠くに非ず、他の文字亦然り。(『俳諧大要』第二)。

 
ここで、俳句ははじめて一個のジャンルとして見いだされる。しかし、こうした手続きには、それとは逆のプロセス、マルクスなら、下向に対して上向と呼んだであろう過程が同時にふくまれている。つまり、子規は一般的な詩学や美学からはじめて特殊を説明したのでもなく、特殊を一般化したのでもない。俳句という特定の歴史的に存する形式への精密な考察なしに、「古今東西の文学の標準」に至ることはできないのであり、しかも、それは、後者をすでに念頭に置くことなしにできないのである。このことは、文字どおり「古今東西」の文学を形式的に考察しようとした『文学論』の漱石の意志とつながっている。
 
(2) 漱石の『文学論』は、もともとロンドン(一九〇二年)では、「趣味の差違」という題目のもとに、「自分の立場を正当化するために」構想されたのである。彼の考えでは、趣味の普遍性は全体に及ぶものではない。ある素材に対するわれわれの反応は、文化的・歴史的差異によって違っている。《趣味と云う者は一部分は普遍であるにせよ、全体から云ふと 地方的 ローカル なものである》。だが、普遍的なものがあるとすれば、それは、材料ではなく、「材料と材料の関係の具合」にある。《——此材料の相互的関係から生ずる趣味は比較的土地人情風俗の束縛を受けぬだけ 夫丈 それだけ 普遍的なものであつて、人によつて高下の差別はあるが種類の差別は殆どなからうと思はれるから、如何に外国に生れた日本人でも適当に発達した趣味さへ持つてゐれば、夫が唯一の趣味なので、之を標準にして外国人にも之を呑み込まして成程と合点させる事の出来るものである》(『文学評論』の「序言」)。このような考え方が構造主義的あるいはフォルマリスト的であるということは明白である。
 
(3) 漱石がイギリスのスウィフトやスターンに日本の写生文と類似するものを見出したことがはらむ問題について、私は本書の第七章で詳述している。
 
(4) 諏訪春雄は、中国の山水画は道教の山岳信仰にもとづくこと、そして、山水画で発達した遠近法も山に視点を固定して他のものと遠近大小を決めるものであったことを指摘している。《中国美術は唐代の山水画になって固有の遠近法をもつようになった。遠景を上に近景を下にえがく上下法、山を大きく、樹木、馬、人としだいに小さく描く「丈山・尺樹・寸馬・分人」の法、さらに高遠・深遠・平遠からなる三遠の法などである。これらはいずれも山水画の世界で発達し、しかもその根本の基準にはつねに山があった。ことばをかえれば、画家たちは山に視点を固定して、山との関係から山以外の対象の大小がきめられてゆく。このように山を基準としてきめられた遠近法の典型が、中国美術史が最後に獲得した遠近法の三遠であった》(諏訪春雄『日本人と遠近法』ちくま新書、一九九八年)
 
(5) 山水画家が絵を描くとき、まさに松という概念を描くのであり、それは一定の視点と時空間で見られた松林ではない。そして、これは山水画だけの特徴ではない。たとえば、岡倉天心は「東アジアの絵画」について、つぎのように述べている。《東洋のもう一つの方法の違いも、また我々の自然に近づく態度に由来する。我々はモデルによるのではなく、記憶で描く。ある芸術家の習練はまず芸術作品そのものを記憶し、次いで自然を記憶する。彼はその見るすべてのものを注意深く研究し、備忘録に収める。日本画の狩野派は、その弟子がスケッチをかき終るまでは朝食をとることを許さなかった。そしてこれらはすべて放棄されるもので、彼にとってただ記憶するための備忘録にすぎない。彼は創作にかかる時、この知識の助けによるので、実際に使うことはしないのである。東洋の芸術家たちが自然に接する態度の違いはすべてこうして作られる》(「東アジアの絵画における「自然」橋川文三訳、「岡倉天心全集」第二巻、平凡社)。彼らは隈なく対象を観察しスケッチするが、実際に描くときにはそれを放棄して記憶で描く。その結果、描かれたものには、一定の視点・一定の時空間による限定が無くなる。ある物の「概念」を描くとはそういうことである。だが、対家は違っても、ヨーロッパ中世の宗教にして同じことがいえる。そして、ヨーロッパの絵画において、それを破ったのがイタリアのルネサンスにおいて始まった幾何学的遠近法であった。
 
ここで注意しておきたいのは、一八世紀半ばには、日本に幾何学的遠近法が導入されていたことである。しかし、それは従来の遠近法を駆逐しなかった。従来の遠近法には、近くのものを大きく遠くのものを小さく描く大小差遠近法、近くは明るく遠くは暗く描く明度差遠近法、あるいは近くのものは細部まで鮮明に描き遠くのものはぼやっとあいまいに描く鮮明度遠近法などが知られている。江戸の画家たちは、「写生」を唱えた円山応挙が典型的だが、一方で幾何学的遠近法を導入しつつ、従来の遠近法あるいは視点の移動を併用した、そのようなスタンスは明治二十年代まで続いている。というのも、日本の美術は浮世絵を中心にして欧米で高く評価されていたからである。そのため、他の領域で西洋化がはかられたのに対して、美術だけは別格であった。最初の美術学校の設立において、フェノロサや岡倉天心といった日本美術派がヘゲモニーをもったのはそのためである。だが、明治三〇年には、西洋絵画派が勝利し岡倉天心は放逐された。それは文学においても「言文一致」や「風景」が確立された時点であった。たとえば、岡倉天心が日本美術院を創立して西洋に対抗しようとしたのは、明治三一年、国木田独歩が『武蔵野』を発表してから間もないころであった。
 
(6) ゲオルク・ジンメルは「風景の哲学」のなかでこのように指摘している。《数え切れぬほど度重ねて、われわれは戸外のひろびろとした自然の中を歩き、その時々に放心していたり気持を集中していたりする、程度の違いはあるにしても、木々や水を眺め、草原や畑を眺め、丘や家々を眺め、光と雲のおよそ千変万化の移ろいを眺める。だがわれわれはその時、どれか一つを見るか、あるいはせいぜい幾つかをまとめて見ているわけなので、「風景」を見ているとはまだ自覚していない。ほかでもない、視野にあるこうした一つ一つのものが、われわれの感覚を束縛していてはよろしくないのだ。われわれの意識は新しい全体を、統一体を持たねばならない。もろもろの要素を超え、それらの特別な意味とは結びつかず、それらを機械的に組み合わせたのでもない、新しい全体を。それが取りも直さず、風景にほかならない。私が思い違いをしていなければ、地上にあれやこれやのものがずらりと並んでひろがるさまが、そのまま目にうつるということで、風景が成り立つわけではないのだと、はっきり述べた議論はこれまでほとんどなかった。そうしたすべてから初めて風を生み出す、独特な精神のプロセスを、その若干の前提と形式から解き明かしてみようと思う。
 
まず第一。地上の一画に見えるものが「自然」であって、人工物がそこにあるにしても自然に組みこまれており、百貨店やら自動車やらをくるみこんだ大通りではないということ、これだけではまだ、その地上の一面を風景とすることはできない。自然といえば、われわれの理解では、限りなく続く物のつながり、形が生み出されては亡びて行くひっきりなしの営み、時間と空間の中に存在するものがずっと連絡していることから明らかになる事象の流れるような統一である。ある現実の存在を自然と呼ぶ時、われわれの念頭にあるのは、人間の手になるものと異なり、観念や歴史と異なる、ある内的な特性であるか、あるいは、その存在が前に述べた全体の代表、象徴と見なされ得、全体の流れがその中でさわさわと鳴るのが聞えるということである。「一切れの自然」という言い方は、厳密には内的矛盾なのだ。自然には切片はない。それは全体の統一であって、そこから何かが切り取られたなら、即座にその何かは自然ではなくなる。境界線のない統一の中でのみ、全体の流れの波としてのみ、それは「自然」であり得るのだからである。
 
さてしかし、風景にとっては、ほかでもない局限が、瞬間的であれ持続的であれ、ある視野の地平のうちに包みこまれることが、何よりも重要なことなのである。風景の物質的な基盤、ないしその個々の部分は、いかにも自然以外のものではあり得ないだろうが、「風景」として思い描かれた時、それは目で見ても、美的な意味からしても、気分の上でも、他からへだたった自分だけの存在であることを要求する。自然の中ではすべての切片は、存在全体の絶大な力にとって、単なる点にすぎないのだが、その自然の不可分の統一から、独自の性格を与えられた単独者として解放されることを要求するのだ。土地の一画を、その上にあるものをひっくるめて、風景として眺めるとは、自然から切り抜いた一片を、それなりの統一として眺めることにほかならない。およそこれほど自然の概念からかけ離れたことはないのだ》(『ジンメル・エッセイ集』川村二郎編訳、平凡社ライブラリー)。
 
(7) 明治二十年代に井原西鶴を復活させたのは、淡島寒月・幸田露伴・尾崎紅葉・樋口一葉たちである。のちに、田山花袋は西鶴をモーパッサンのような自然主義者として評価している(「西鶴小論」)しかし、廣末保がいうように、それらは俳諧師西鶴の「俳諧」性を無視している。《私は俳諧的なものの根底に、短句を基礎にした、連想、飛躍、そこから生じる価値転換といったものを考えたいと思う。それは、俳諧の根本は滑稽なりといったこととも無関係ではありえないが、こうした精神と方法——その方法は偶然、連想、飛躍を生きる精神の運動と見合うものであるが、——そうした精神と方法が短句を軸に実現されていったものが俳諧であると考える》(廣末保『西鶴と芭蕉』未來社、一九六三年)。この「俳諧」は、ヨーロッパでいえば、シェークスピア、セルバンテス、ラブレーといったルネサンス文学における「グロテスク・リアリズム」(バフチン)に対応するものである。この問題については、第七章で論じている。
 
(8)明治二七年日清戦争のさなかに志賀重昂の『日本風景論』が出版されて人気を博した。志賀は従来の名所旧跡的風景を否定し、「日本には気候、海流の多種多様なること」「日本には水蒸気の多量なること」「日本には火山岩の多々なること」というような自然によって作られた景観美を主張した。しかし、これは「日本アルプス」をはじめ、新たな名勝を作るものである。志賀はネーション性を自然によって説明することによって、自然(風景)をナショナライズしている。それゆえ、これは日清戦争において昂揚したナショナリズムの下に風靡したのである。一方、日清戦争において従軍記者として人気があった国木田独歩が見出した「風景」とは、むしろ、戦後ナショナリズムの昂揚から醒めたときに意識した「空虚」に対応するものである。志賀がいう「日本風景」が「忘れて叶ふまじき」ものであるならば、独歩のいう風景は「忘れえぬ」ものである。
 
(9)この点について、私は岡崎乾二郎の『ルネサンス経験の条件』(筑摩書房、二〇〇一年)から大きな示唆を受けた。ルネサンスの画家たちが熱中したのは、透視図法という仮説を設定したとき産出されるさまざまなパラドックスをいかに解決するかという問題であったという。このパラドックスは、哲学において(デカルト以後)超越論的な主観が出現したときに生じたパラドックスと同じものである。岡崎はルネサンスの建築家ブルネレスキが考案した透視装置に注目している。それはいわば、透視図法を開発した当人によるそのディコンストラクションというべきものである。「日本近代文学の起源」において、私はブルネレスキの透視装置に似たものを見出す。それは漱石がいう「写生文」である。それは風景の発見であると同時にその否定であり、超越論的な主観性の発見であるとともにその否定である。