PHILOSOPHY

内面の発見

柄谷行人

 

First Published on October 1st, 1978. Revised in 2004|Archived in January 11th, 2025

Image: Unknown, “The Plains of Musashi”, 17th century.

CONTENTS

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EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

底本の行頭の字下げは上げた。
掲載を許諾いただいた柄谷行人氏に厚く感謝申し上げる。

BIBLIOGRAPHY

著者:柄谷行人(1941-)
題名:内面の発見
初出:1978年10月1日(「内面の発見」『季刊芸術 秋号』)
改稿:2004年(『定本 柄谷行人集〈1〉日本近代文学の起源 増補改訂版』)
出典:『定本 日本近代文学の起源』(岩波書店。2008年。42-102ページ。注は329-335ページ)

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中村光夫は、「明治十年代が一種の疾風怒濤時代とすれば、二十年代は統制と安定の時期といえます」といっている。明治以後に育った者たちにとっては、この秩序はすでに堅固なものとして映っている。あるいは、明治維新後の可塑的な可能性がすでに閉ざされてしまったものとしてうつっている。中村は、明治十年代の自由民権運動に関してつぎのようにいう。
 

この運動は、ともかく維新という大きな改革の論理的な発展であり、そこにはこの社会革命によって呼びさまされた民衆の大きな希望が託されていたからです。この運動を通じてこれまで士族の専有であった維新の精神がようやく民衆のあいだに浸透しかけたので、その挫折は、すべての革命を起す要素としてそのなかに含まれ、その進行の途中で変えられる理想主義の破滅でした。士族の困窮が大きな社会問題になったのは明治初年ですが、これは彼等の間に得意の境遇にある少数者と失意に陥った多数者ができたということで、政治や文化の支配権は問題なく士族の手中にありました。それが西南戦争を経て、明治十七八年ごろになると、士族そのものが階級として解消して行く傾向がはっきりでてくるので、学生の間でも平民の子弟がようやく数を増し、明治の社会は武士の出身者がつくりあげた町人国家としての面目をようやく明かにしてきます。

 
ここにやがて出現する実利と出世主義の支配する軍国主義国家にたいして、自由と民権の幻は、維新の気風をうけついで青年たちが生命をかけるに足ると信じた最後の理想であったので、それが失われたのち、消しがたい形でのこされた精神的空白は、やがて政治小説とはまったく違った形で、表現の道を見出しました。(『明治文学史』同前)
 
このことは、ある意味で漱石についてもあてはまるだろう。漱石は、正岡子規、二葉亭四迷、北村透谷、西田幾多郎といった同時代者と同様に、明治国家が強いる近代化とは異なる未来への理想を抱き且つその敗北を味わっていた。しかし、漱石は彼らのように深く現実にコミットしなかった。北村透谷が自殺し、正岡子規が結核で死に、二葉亭四迷が小説を放棄した時期、漱石は自らいう「洋学隊の隊長」としての道を歩んでおり、しかもそのなかでいつもそこから逃亡したい衝動に駆られていた。彼がなしうるのは、すでに彼が選択した「英文学」の中でそれに対して一つの決着をつけることであり、それは〝理論的〟であるほかなかった。だが、小説家としての漱石は、この時期の「選択」と「遅れ」の問題に固執していたようにみえる。そこからみれば、漱石が「生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべし」と思った「漢文学」とは、近代的な諸制度が確立する前の雰囲気だといってよい。そして、漱石のいう「英文学に欺かれたるが如き」感は、成立した制度が欺瞞でしかなかったことに対応するといえる。
 
明治二十年代の「内面性」がそのような政治的な挫折から来ているということは明瞭である。実際、そのような視点に立った研究や批評は無数にある(1)。そして、文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる。しかし、私がここでそのような見方をあえて避けてきたのは、その前に、内面性がある種の装置(制度)の中で可能になるということをいいたかったからである。そのような制度が不問に付されるかぎり、「政治的挫折から内面=文学へ」というパターンが不毛にくりかえされるだけである。明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度——内面や風景——が確立されたからである。
 
近代文学を扱う文学史家は、まるで「近代的自己」なるものが頭のなかで成立するかのように考えている。自己あるいは内面性が存在するには、もっとべつの条件が必要なのだ。たとえば、フロイトはニーチェと同様に、「意識」を、はじめからあるのではなく「内面化」による派生物としてみる視点をとっている。フロイトの考えでは、それまで内部も外界もなく、外界が内部の投射であった状態において、外傷をこうむりリビドーが内向化したとき、内面が内面として、外界が外界として存在しはじめる。ただし、フロイトはこうつけ加えている。《抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくことになり、それによって、内的事象そのものが、しだいに知覚されるようになったのである》(『トーテムとタブー』西田越郎訳、「フロイト全集」第三巻、人文書院)。
 
フロイト流にいえば、政治小説または自由民権運動にふりむけられていたリビドーがその対象をうしなって内向したとき、「内面」や「風景」が出現したといってもよい。しかし、ここで重要なのは、「内部」(したがって外界としての外界)が存在しはじめるのは、「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて」可能だということである。われわれの文脈において、「抽象的思考言語」とはなにか。おそらく「言文一致」がそれだといってよい。言文一致は、明治二〇年前後の近代的諸制度の確立が言語のレベルであらわれたものである。いうまでもないが、言文一致は、言を文に一致させることでもなければ、文を言に一致させることでもなく、新たな言=文の創出なのである。
 
最初の言文一致の試みは、憲法が発布され議会が開始された明治二十年代初期になされている。その有名な例は、二葉亭四迷の『浮雲』(明治二〇—二二年)である。しかし、これは同時代にはほとんど影響力をもたず、二葉亭自身も創作をやめてしまった。彼の「言文一致」の試みが真に影響力をもったのは、その翻訳、特にツルゲーネフの翻訳によってである。鷗外や透谷のように、この時期の「内向的」作家らは文語体に向かったのであり、「言文一致」の運動そのものもすぐに下火になった。それが再燃しはじめたときは、すでに独歩が『武蔵野』を書いた時期、すなわち二十年代末である。そして、独歩が影響を受けたのは、二葉亭の『浮雲』ではなくツルゲーネフの「あひびき」の翻訳からであった。
 
国木田独歩にとって、内面とは言(声)であり、表現とはその声を外化することであった。このとき、実は「自己表現」という考えがはじめて存在しえたのである。それ以前の文学について、「自己表現」として論ずることはできない。「自己表現」は、言=文という一致によって存在しえたのだ。だが、独歩が二葉亭のような苦痛を感じなかったのは、「言文一致」が制度であることが意識されていなかったということである。そこでは、すでに「内面」そのものの歴史性・制度性が忘れさられている。いうまでもなく、われわれもまたその地層の上にある。われわれを閉じこめているものが何であるかを明らかにするためには、その起源を問わねばならないが、その鍵は、「言葉」が露出すると同時に隠蔽されたこの時期をさらに検討することにある。

言文一致の運動は本来、坪内逍遥のような小説家によって「小説の改良」を目指して試みられたものである。江戸時代の小説においてすでに会話の部分が口語的(言)であり、地の文が文語的(文)であったが、後者をも口語的(言)にしようとすることが言文一致である。もちろん、それは言文一致というよりも、口語的な新たな「文」の創出である。このような経緯からみれば、言文一致は小説の問題であるかのようにみえる。しかし、そう呼ばれなくても、言文一致への企ては各所にあった。それを見なければ言文一致の問題を理解することはできないし、逆にいえば、それを見ることによってはじめて小説における言文一致がはらむ問題の特異性を理解することができる。
 
言文一致の運動は幕末に前島密が『漢字御廃止之義』(慶応二年)を建白したことにはじまるとされている。いうまでもなく、それは小説における言文一致と無関係であり、何の影響も与えていない。しかし、言文一致の本質を考えるときに、この提言は重要である。前島は幕府の開成所反訳方であり、長崎遊学中に知りあったアメリカ人宣教師から「難解多謬の漢字」による教育の不都合を説かれたのがきっかけだったと語っている。
 

国家の大本は国民の教育にして、其教育は士民を論ぜず国民にあまね からしめ、之を普ねからしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざる可らず、其 深邃 しんすい 高尚なる百科の学に於けるも、其文字を知り得て其事を知る如き難渋迂遠なる教授法を取らず、すべ て学とは其事理を解和するに在りとせざる可らずと 奉存 ぞんじたてまつり 候。

 
最も早いこの提言は言文一致の本質をよく示している。第一に、言文一致は近代国家の確立のためには不可欠なものとみなされている。事実、この提言自体は無視されたが、明治十年代後半に近代国家としての諸制度が確立されようとするとき、大きな問題として浮かび上ってきたのである。「かなのくわい」(明治一六年七月)や「羅馬字会」(明治一八年一月)が結成されたのは、鹿鳴館時代といわれる時期である。この時期には、「演劇の改良」や「詩の改良」があり、さらに「小説の改良」がつづいた。だが、それらは広い意味で言文一致の運動のなかに包摂されるものだといってよい。
 
第二に、前島密の提言が興味深いのは、一般に考えられているような言文一致とはちがって「漢字御廃止」ということを主題にしていることである。それは、言文一致の運動が根本的には文字改革であり、漢字の否定なのだということを明確に示している。前島密がいわゆる言文一致について語るのは、わずかに次のような条りにおいてだけである。
 
国文を定め文典を制するに於ても、必ず古文に復し「ハベル」「ケル」「カナ」を用ふる儀には 無御座 ござなく 、今日普通の「ツカマツル」「ゴザル」の言語を用ひ、之に一定の法則を置くとのいい に御座候。言語は時代に就て変転するは中外皆然るかと奉存候。但、口舌にすれば談話となり、筆書にすれば文章となり、口談筆記の両般の趣を異にせざる様には支度事に奉存候。
 
これだけを言文一致の思想としてとりだすことは、その運動の本質をみのがすことになるだろう。肝心なのは文字改革なのであって、右の意見は派生的なものである。もともと話し言葉と書き言葉はちがっている。それは「話す」ことと「書く」こととが異質な行為だからにすぎない。したがって、それらが一致している言語などはけっしてありえない。日本語だけがとくにひどいということはできないのである。問題は前島がいうように文字表記にあった。
 
「言文一致」の運動は、なによりも「文字」に関する新たな観念からはじまっている。幕府反訳方の前島密をとらえたのは、音声的文字のもつ経済性・直接性・民主性であった。彼にとって、西欧の優位はその音声的文字にあると思われたのであり、したがって音声的文字を日本語において実現することが緊急の課題だとみなされたのである。音声的文字は音声を写すものと考えられる。実際、ソシュールは言語について考えたとき、文字を二次的なものとして除外している(2)。「漢字御廃止」の提言に明瞭にうかがわれるのは、文字は音声に仕えなければならないという思想である。このことは、必然的に話し言葉への注目となる。いったんそうなれば、漢字が実際に廃止されようとされまいと、実は同じである。すでに漢字も音声に仕えるものとみなされているとき、漢字を選ぶか仮名を選ぶかは選択の問題にすぎないからである。
 
重要なのは、この提言が根本的に「文」(漢字)の優位を否定していることである。「文」の優位ということはさまざまなコンテクストで考えることができる。だからまた、一見無関係な相異なる領域で生じた変化は、広い意味で「言文一致」の展開としてみられることができるのである。たとえば、それは演劇において生じている。実際、明治の文学史を小説に偏した眼でみないならば、「演劇の改良」こそ最も重要な事件であるといってよい。
 
鹿鳴館時代とよばれる欧化主義の絶頂期、明治一九年には、伊藤博文や井上馨などを発起人とする演劇改良会が組織された。文学芸術の領域で、何をさておいても「演劇の改良」が明治政府の後援でおしすすめられたことは注目に値する。それは、ちょうど前島密が「言文一致」が日本の近代的制度の確立に不可欠と考えたのと同じような意味で不可欠だと思われたのである。坪内逍遥による「演劇の改良」はそのまま「小説の改良」あるいは言文一致の運動につながっている。中村光夫はいう。《改良会の実際の事業はほとんど見るべきものはなく、間もなく消滅しましたが、この我国の社会でも芸術の位置を改良によって高めようとする機運は、たんに演劇だけでなく、明治芸術の諸部門の勃興に大きな力として働いたので、逍遥の小説革新はこの大きな時代の波に乗り、それに内容を与えたものといえます》(『明治文学史』同前)。
 
ところで、「演劇の改良」は露骨な欧化主義の波に乗る前に、明治十年代にすでに進行していた。それを担ったのは、新富座の俳優市川団十郎と、座付作者河竹黙阿弥である。
 

市川団十郎が当時大根役者と言われたのは、その演技が新しかつたからである。彼は古風な誇張的な科白をやめて、日常会話の形を生かした。また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝へる表現を作り出すのに苦心した。それは守田勘弥の企てた演劇改良の思想と一致するものであつた。明治時代の新しい知識階級者は、団十郎のこの写実的でかつ人間的な迫力のある演技に次第に慣れ、彼を認めて当代第一の役者と見なすに至った。(伊藤整『日本文壇史』第一巻、講談社)

 
団十郎の演技は「写実的」であり、すなわち「言文一致」的であった。もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである。「古風な誇張的な科白」や「身体を徒らに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が非人間化し「人形」化するために不可欠だったのである。歌舞伎役者の、厚化粧で隈取られた顔は「仮面」にほかならない。市川団十郎がもたらし、のちの新劇によっていっそう明瞭に見出されたのは、いわば「素顔」だといえる。
 
しかし、それまでの人々は化粧によって隈取られた顔にこそリアリティを感じていたといえる。いいかえれば、「概念」としての顔にセンシュアルなものを感じていたのである。それは、概念としての風景に充足していたのと同じである。したがって、「風景の発見」は素顔としての風景の発見であり、風景についてのべたことはそのまま演劇についてあてはまる。
 
レヴィ=ストロースは、素顔と化粧・刺青の関係についてこういっている。《原住民の思考のなかでは、すでにみたように、装飾は顔なのであり、むしろ装飾が顔を創ったのである。顔にその社会的存在、人間的尊厳、精神的意義を与えるのは、装飾なのである》(『構造人類学』荒川幾男他訳、みすず書房)。顔は、もともと形象として、いわば「漢字」のようなものとしてあった。顔としての顔は「風景としての風景」(ファン・デン・ベルク)と同様に、ある転倒のなかではじめて見えるようになるのだ。
 
風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかし、それがたんにそのようなものとしてみえるようになるのは視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて、素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深くみえはじめたのである。それこそ私が「風景の発見」と呼んだ事柄である。
 
伊藤整は、市川団十郎が「精神的な印象を客に伝へる 表現 、、 を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が 何か 、、 を意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその 何か 、、 なのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。市川団十郎がはじめ大根役者とよばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が、「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。
 
それまでの観客は、役者の「人形」的な身ぶりのなかに、「仮面」的な顔に、いいかえれば形象としての顔に、活きた意味を感じとっていた。ところが、いまやありふれた身ぶりや顔の〝背後〟に意味されるものを探らなければならなくなる。団十郎たちの「改良」はけっしてラディカルなものではなかったが、そこには坪内逍遥をしてやがて「小説改良」の企てに至らしめるだけの実質があった。
 
このような演劇改良の本質が「言文一致」と同一であることはすでに明らかだろう。私は「言文一致」の本質は「漢字御廃止」にあるのだと述べた。音声から文字が作られたのではない。文字はもともと音声とは別個に存在するのである。大脳に文字中枢があるということは、人類が生まれたときから文字能力をもっていたということを意味する。たとえば、ルロワ=グーランがいうように、絵から文字が生じたのではなく、表意文字から絵が生じたのである。そのような文字の根源性あるいはデリダのいうアルシエクリチュールをみえなくさせてきたのは、文字を音声をあらわすものとみなす音声中心主義の考えである。
 
漢字においては、形象が 直接 、、 に意味としてある。それは、形象としての顔が 直接 、、 に意味であるのと同じだ。しかし、表音主義になると、たとえ漢字をもちいても、それは音声に従属するものでしかない。同様に、「顔」はいまや素顔という一種の音声的文字となる。それはそこに写される(表現される)べき 内的な音声 、、、、、 =意味を存在させる。「言文一致」としての表音主義は「写実」や「内面」の発見と根源的に連関しているのである。

ところで、前島密が言文一致として、まず「ツカマツル」や「ゴザル」といった語尾を問題にしたことに注意すべきである。「言文一致」が当初からまるで語尾の問題であるかのようになっていったのは、日本語の性質からくる必然だった。日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないし、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができるからである。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記がいうように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。この場合、前島は「ツカマツル」とか「ゴザル」を用いるように提言しているが、それは武士という身分またはそのような「関係」と切りはなすことはできない。
 
一方、二葉亭はつぎのように回想している。
 

言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、むし ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由来——も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まったという 一伍一件 いちぶしじゅう の顛末さ。

 

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行って、何うしたらよからうと話して見ると、君は円朝の落語を知つてゐよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

 

で、仰せのまま にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持って行くと、とく と目を通して居られたが、忽ちと膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう 仰有 おっしゃ る。

 

自分は少し気味が悪かったが、いゝと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばかりであるから無論言文一致体にはなつてゐるが、ここ ¥にまだ問題がある。それは「私が……でござ います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の点もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、まづ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めたそもそ もである。

 

そもそ暫くすると、山田美妙君の言文一致が発表された。見ると、「私は……です」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「です」主義だ。後で聞いて見ると、山田君は始め敬語なしの「だ」調を試みて見たが、どうもうま く行かぬと云ふので「です」調に定めたといふ。自分は始め、「です」調でやらうかと思つて、遂に「だ」調にした。即ち行き方が全然反対であったのだ。(「余が言文一致の由来」)

 
二葉亭四迷は「敬語なし」の「だ調」を試みたというが、「だ」はやはり相手に対する関係を示しているのだから、広義の〝敬語〟であることにかわりはない。われわれが話し言葉で「だ」を用いるとき、ふつう同格または目下の者との関係においてである。「です」であっても、「だ」であっても、本当は同じことで、関係を超越したニュートラル(中性的)な表現ではない。にもかかわらず、「だ」調が支配的になっていったのは、それがいわば「敬語なし」に近くみえたからだと思われる。そして、二葉亭四迷が山田美妙と「行き方が全然反対であつた」のは、同じように話し言葉をとりいれたとしても、二葉亭はそれを書き言葉に向けて抽象化しようとしていたからである。いいかえれば、二葉亭の方が「文」が何たるかを理解していたのである(3)。
 
言文一致は新たな文語の創出であるが、それは事実上語尾の問題に帰着する。しかし、語尾の問題が重大なのは、日本語では、それが主語の問題と直結しているからである。たとえば、人称の明記されない『源氏物語』のような文でも、主語が誰であるかがわかるのは、語尾が関係を意味するからだ。この点は、江戸文学においても大して変らない。だが、語尾が「だ」に統一されると、主語としての人称が不可欠になる。そのため、「彼」や殊に「彼女」というような見慣れない人称が頻用されはじめたのである。それは「私」にかんしてもいえる。「私」という語は、「余」とか「吾輩」とかいった表現とは違って、他者との関係から中立的な「自己」を指示しはじめるのである。
 
さらに、二葉亭が企てた言文一致において重要なのは、過去を指示する文末詞として「た」を使ったことである。言文一致以前の文語には、過去を示す助動詞は多くある。「た」は、「たり」から派生したものだといわれる。大野晋によれば、これは「タリがキとケリとを滅ぼし、その役目をかかえこむという現象」から生じた結果である。「キ」は「過去のことについて自分に確実な記憶があるときに使う」助動詞であったのに対して、「ケリ」は「よく知られていない過去に存在したものが、今や自分の範囲のなかにはっきりあることを表わす」助動詞だった(大野晋『日本語の文法を考える』岩波新書)。野口武彦は、こうした多様な文末詞が「た」に統一されてしまったことの、物語論的な意味に注目している(『小説の日本語』「日本語の世界」第一三巻、中央公論社)。たとえば、「青男ありけり」というのは、「青男がいたそうだ」という意味である。「けり」という文末詞によって、これが 虚構 ハナシ であることが提示される。だが、口語においては、文末詞が「た」しかない。あとで述べるように、このことが小説における言文一致にとって大きな障害となった。
 
たとえば、二葉亭四迷や山田美妙が言文一致を試みていたとき、森鷗外は『舞姫』(明治二三年)を擬古文で書いた。そして後者が好評を博したため、小説の言文一致の試みはたちきえてしまった。したがって、一般には、明治二三年から二七年までは、言文一致の停滞期と目されている(4)。しかし、近代小説という面から見れば、それは重大なことではなかった。たとえば、夏目漱石はこういっている。《今日では一番言文一致が行はれて居るけれども、旬の終りに「である」「のだ」とかいふ言葉があるので言文一致で通って居るけれども、「である」「のだ」を引き抜いたら立派な雅文になるのが沢山ある》(「自然を写す文章」明治三九年)。これは逆に、一見して「雅文」と見えるものが、語尾を「のだ」や「のである」に変えたら立派な言文一致になる可能性があるということを意味するのである。ここで、言文一致で書かれた『浮雲』と雅文で書かれた『舞姫』の出だしの文章を見比べてみよう。
 

或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、 我がモンビシユウ街の橋居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。 余は彼の灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の 大欄 おばしま に干したる敷布、 襦袢 はだぎ などまだ取入れぬ人家、頰髭長き 猶太 ユダヤ 教徒の翁が戸前にたたず みたる居酒屋、一つのはしご は直ちにたかどの に達し、他の梯はあなぐら 住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みこと幾度なるを知らず。(『舞姫』)

 

千早 ちはや る神無月も 最早 もはや 跡二日の 余波 なごり となツた廿八日の午後三時頃に、神田見附の内より、 塗渡 とわた る蟻、散る蜘蛛の子とうよ〱ぞよ〱沸出でゝ来るのは、いづ れもおとがい を気にし給ふ方々。しかし 熟々 つらつら 見てとく と点検すると、是れにも 種々 さまざま 種類のあるもので、まづ髭から書立てれば、口髭、頬髭、あご の髭、やけ 興起 おや した 拿破崙 なぽれおん 髭に、狆の口めいた 比斯馬克 びすまるく 髭、そのほか 矮鶏 ちゃば 髭、むじな 髭、ありやなしやと幻の髭と、濃くもうす くもいろ〱にはえ 分る。……(『浮雲』)

 
『舞姫』は雅文であるが、その骨格は完全に欧文の翻訳体である。他方、『浮雲』はなかば人情本や滑稽本の文体で書かれている。もちろん、第二編において文体が変わってくるのだが、その場合、二葉亭はまずロシア語で書いてみてそれを翻訳したといわれている。彼はそこで『浮雲』を放棄し、以後二〇年ほど小説を書かなかった。彼は新たな文語の創出を断念したわけではない。自らの創作としては断念したが、その後も、ツルゲーネフの翻訳などにおいて「言文一致」の試みを継続したのである。のちに述べるように、国木田独歩らが影響を受けたのは、『浮雲』ではなく『あひびき』などの翻訳であった。
 
この二つを見比べて気づくのは、『舞姫』が雅文であるのに〝写実的〟だということであり、『浮雲』は髭が列挙されているわりに〝写実的〟でないということである。この違いは、絵画との類推でいえば、『舞姫』には幾何学的遠近法があるが、『浮雲』にはそれがないということだ。それは小説において、話法 narration の問題にかかわっている。『浮雲』では以下のように、物語の語り手が目だって存在する。
 

「フヽヽン馬鹿を言給ふな

 

ト高い男は顔に似げなく微笑を含みさて失敬の挨拶も手軽く、別れて独り小川町の方へ参る。顔の微笑が一かわ〱消ゑ行くにつれ足取も次第〱に緩かになつてつひ には虫の様になり悄然と頭をうな垂れて二三町も参った頃不図立止りて 四辺 あたり 回顧 みま はし 駭然 がいぜん として、足三足立戻つてトある横町へ曲り込んで角から三軒目の格子作りの二階家へ這入る、一所に這入ツて見やう——(『浮雲』)

 
作者が「一所に這入ツて見やう」というような条りは、明らかに滑稽本の流儀である。それにかんして、野口武彦はこういっている。
 

ふつう滑稽本は次に述べる 読本 よみほん との対比の上で「写実型」といわれるが、それはかならずしも近代の写実主義を先取りするものではなかった。また、ありえなかった。ここで支配的なのは、歪んだレンズにもたとえられそうな誇張的な主観性をとおした対象の現前である。この主観性は、作中人物を卑小化し、滑稽化し、戯画化せずにはいられない。人間たちはただ笑われるためにしか作中世界に登場しない。再現される会話の口語性と「地の文」の口語文性が与える見せかけにもかかわらず、ここにはそうした主観性と一体化した一人称話法が潜在的に遍満している。もし望むなら、これを量質ともに極度に切りつめられた一人称性と呼んでみてもよい。概していって近代以前の日本文学は、このように屈伸自在な一人称性の埒外に出ることはなかった。つまり、近代のいわゆる三人称客観描写なるものを知らなかった。それならばなぜ、西欧文学の強烈なインパクトから出発した二葉亭は、江戸戯作中の滑稽本寄りのタイプをまずお手本にしなければならなかったのか。いやしくも近代写実主義をめざすかぎりは、文章の口語性を尊重しなければならず、身近にはさしあたりこのタイプしか見当らなかったからである。そのためには、江戸時代の口語的小説語法と不可分に結びついていた対象滑稽化機能をもいやでも背負いこまねばならず、しかもまたそれは『浮雲』前半部での社会諷刺の動機要素と微妙に交錯してもいた。(『近代小説の言語空間』福武書店)

 
しかし、第二編以後では、こうした「作者」(語り手)が消える。《第一編ではもっぱら外側から主人公を観察するのみであった作者は、第二編、第三編ではしだいに有形の語り手としての姿を消し、そのかわりに主人公の内面深く入り込んでいくのである》。ここに、ようやく「三人称客観描写」に近いものが実現される。『浮雲』が日本最初の近代小説と呼ばれるのは、そのためである。しかし、二葉亭四迷はそれを好んでいたわけではない。彼はその続きを書くことを放棄したし、晩年に『平凡』を書いたときには、「語り手」を前面に出しまさに「対象滑稽化」をもたらす戯作的話法をとったのである。彼が反撥していたのは、たとえば、『破戒』において確立された、次のような話法だといってもよい。
 

丑松は大急ぎで下宿へ帰った。月給を受け取って来て妙に気強いやうな心地になつた。昨日は湯にも入らず、 煙草( たばこ も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日を過したのである。実際、懐中に一文の 小使 こづかい もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。 悉皆 しっかい 下宿の払ひを済まし、車さへ来ればただち に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであった。(『破戒』)

 
これが「三人称客観」である。ここでは、語り手が主人公の内部に入り込んでいる、というより、語り手は主人公を通して世界を視ている。その結果、読者はこれが語られているのだということ、つまり語り手がいるのだということを忘れてしまう。たとえば、「懐中に一文の小便もなくて、笑ふといふ気には誰がならう」というのは、語り手の考えである。しかし、それが主人公の気持と別だということが目立たない。そのために、ここでは、語り手は、明らかに存在しながらしかも存在しないようにみえる。語り手の中性化とは、語り手と主人公のこうした暗黙の共犯関係を意味する。
 
しかし、このような「三人称客観」という話法が容易にできると考えてはならない。たとえ西洋の小説をよく読み知っていたとしても、日本語ではそれができないのである。三人称でやるとすると、二葉亭四迷の『浮雲』第一編が示すように、たちまち語り手が出てきてしまうからである。一八世紀イギリスの小説では、デフォーは『ロビンソン・クルーソー』を一人称で書いた。一人称が旧来の物語と異なる〝真実性〟を付与したのである。三人称を使うと、物語になり写実的でなくなってしまう。しかし、三人称客観は一人称からただちに移行したものではない。一人称から三人称客観への過渡的な段階として、リチャードソンの『パメラ』のように一人称が交錯する書簡体小説があった。語り手と主人公の暗黙の共犯関係をもつような三人称客観が確立されたのはその後であり、一九世紀になってからである(3)。
 
そのようにみると、森鷗外の『舞姫』が一人称で書かれたことは不可避的であったといえる。そこでは語り手が主人公である、いいかえれば、語り手が消去(中性化)されている。もちろん、それは「三人称客観描写」ではないが、そこに至るために通過せねばならない道であった。他方、二葉亭は『浮雲』を従来の物語の話法で書いたため、語り手を中性化できなかったのである。それゆえに、近代小説という意味では『浮雲』よりも『舞姫』が大きな影響を与えたということは不思議ではない。『舞姫』には、現在の「余」から回顧された過去に対してパースペクティヴ(遠近法)が確立されている。そこで、鴎外は多くの過去を指示する文末詞を使い分けた。鷗外が言文一致を避けたのはそのためであったといってもよい。つまり、俗語には「た」という文末詞しかなかったからである。
 
しかし、俗語によってはこうした遠近法が不可能だというわけではない。肝心なのは、ある一点から過去を回顧するような遠近法を可能にする話法なのである(6)。むしろ俗語において過去を指示する文末詞が「た」しかなかったということは、連続的等質的な時間の遠近法を容易にする。そのことに貢献したのは、実は二葉亭の翻訳であった。それから二〇年後に書かれた『破戒』を見るとき、島崎藤村が苦もなくこうした話法を駆使していることに驚かされる。だが、同時に、彼はそれが話法であること、いいかえれば幾何学的遠近法と同じ「作図」でしかないということをまったく忘れているのである。一方、二葉亭自身はそのような話法に対する反撥、いいかえれば、近代小説の根本的な前提に対する疑いを失わなかった。

柳田国男は『紀行文集』(帝国文庫、昭和五年)で、「近世著名なる旅行家の紀行文で、自分が小年期以来再三読し、今後も し出来るならば又読んで見ようと思ふもの若干」を編輯したと述べつつ、次のように指摘している。
 

名は均しく紀行とあつても、一方は詩歌美文の排列であり、他の一方は記述を専らとし、旅人はその事実の陰に只つつましやかに自ら語るに過ぎぬものであつて、之を一架に統括することは甚しく読者子の思索を紛乱せしめる。紀氏の土佐日記を始として、古来世に行はるゝ紀行の書なるものかは、むし ろ前者の方が日本には多かつた。従つて後世新たに出現した風土観察の書は、往々にして文学の愛好者によつて、意外な俗文としてうと んじ棄てられる懸念があつたと共に、更に此種の記録を世に遺さんとする者として、無益の彫琢に 苦辛 くしん せしめるやうな結果をさへ見たのである。

 
柳田は「風景の発見」が事実上、紀行「文」の変化にほかならないことを語っている。それはさしあたって「詩歌美文の排列」、つまり「文」からの解放を意味するのである。
 
その意味で、国木田独歩の『武蔵野』(明治三一年一月)を特徴づけているのは、風景が名所から切断されていることである。名所とは、歴史的・文学的な意味(概念)におおわれた場所にほかならない。独歩が見出した風景には、そのような歴史が一切捨象されている。そのことは、明治二八年北海道の開拓に出かけた経験を書いた『空知川の岸辺』(明治三五年)において顕著である。
 

我国本土の中でも中国の如き、人工稠密の地に成長して山をも野をも人間の力で平げ尽したる光景を見慣れたる にありては、東北の原野すら既に我自然に帰依したるの情を動かしたるに、北海道を見るに及びて、 如何 いか で心躍らざらん、札幌は北海道の東京でありながら、満目の光景は殆ど余を魔し去ったのである。

 

林が暗くなったかと思ふと、高い枝の上を時雨がサラ〱と降つて来た。来たかとしん思ふと間もなく止んでしん として林は静まりかへつた。

 

余は暫くジツとして林の奥の暗くなつて居る処を見て居た。

 

社会が何処にある、人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。此場所に於て、此時に於て、人はたゞ「生存」其者の、自然の一呼吸の中に託されてをることを感ずるばかりである。露国の詩人は曾て森林の中に坐して、死の影の我に迫まるを覚えたと言ったが、実にさうである。又たいわ く「人類の最後の一人が此の地球上より消滅する時、木の葉の一片も其為にそよがざるなり」と。

 
独歩がこう考えたのは、たんに北海道の原始林に立ったからではない。なぜなら、彼が実際に行ったのは先住民のアイヌによって名づけられていた所なのである。ゆえに、独歩が立ったのはラディカルな観念上の地点なのだ。そのような地点からみれば、マルクスがいったように、われわれのみる「自然」はすでに人間化されたものであり、また柳田国男がいったように、風景は「人間が作る」ものである。ここから、「歴史」を、政治的または人間的出来事としてではなく、「人間と自然の交渉」(柳田)において見出す視点が生まれる。一度括弧に入れた歴史は回復される。しかし、「名所」としてではない。たとえば、『武蔵野』では次のような描写がある。
 

武蔵野には決して 禿山 はげやま はない。しかし大洋のうねりの様に高低起伏して居る。それも外見には一面の平原の様で、むし ろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなして居るといつた方が適当であらう。此谷の底は大概水田である。畑はおも に高台にある、高台は林と畑とで様々の区画をなして居る。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても 一眸 いちぼう 数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑は三方は林、といふ様な具合で、農家が其間に散在して更にこれを分割して居る。即ち野やら林やら、たゞ乱雑に入組んで居て、たちま ち林に入るかと思へば、忽ち野に出るといふ様な風である。それが又た実に武蔵野に一種の特色を与へて居て、こゝに自然あり、こゝに生活あり、北海道の様な自然そのまゝの大原野大森林とはことなっ て居て、其趣も特異である。

 
独歩は武蔵野を地理的に劃定して、つぎのようにいう。《僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかし之は無論省かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の 官衙 かんが 巍峨 ぎが としてそびえ て居たり、鉄管事件の裁判が有つたりする八百八街によつて昔の面影を想像することが出来ない》。それが意味するのは、東京という政治的歴史は、武蔵野という「人間と自然の関係」としての歴史の一部にすぎないという認識である。いいかえれば、国木田独歩にあって、「風景の発見」はそのまま「歴史の発見」となるのである。
 
国木田独歩の新しさは、そのような〝切断〟にある。しかし、それはいかにして生じたのか。私はさきに独歩の『忘れえぬ人々』を論じて、そこに「風景」の発見を見た。それは外的な対象が、内的な転倒によって見出されるということであった。しかし、そのとき述べなかったのは、そのような主観—客観の基底に新たな象徴的形式(言語形式)が存するということである。実は、それらは互いに切り離すことができない。今や明らかなのは、独歩による風景の発見は内的な転倒によって生じただけでなく、ある言語的な転倒とともに生じたということである。
 
独歩自身はそれをつぎのように説明している。《徳川文学の感化も受けず、紅露二氏の影響も受けず、従来の我文壇とは殆んど全く没関係の着想・取扱・作風を以て余が製作も初めた事に就ては必ず基本源がなくてはならぬ。基本源は何であるかと自問して、余はワーズワースに想到したのである》(「不可思議なる大自然」)。しかし、大切なのは、「頭」ではなく「手」である。西欧文学からいかに影響を受けようと、「書く」ことはまったく別のことがらだからだ。実際、『武蔵野』で彼が引用したのは、「露国の詩人」ツルゲーネフというよりも二葉亭四迷によって翻訳されたその風景描写なのである。
 
くりかえすが、国木田による風景の発見、旧来の風景の切断は、新たな 文字表現 エクリチュール によってのみ可能だった。『浮雲』(明治二〇—二二年)や『舞姫』(明治二三年)に比べて目立つのは、独歩がすでに「文」との距離をもたないようにみえることである。彼はすでに新たな「文」に慣れている。それは、言葉がもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく、「内面」に深く降りたということを意味している。というよりも、そのときはじめて「内面」が直接的で現前的なものとして自立するのである。同時に、このとき以後「内面」を可能にするものの歴史的・物質的な起源が忘却されるのだ。
 
たとえば、ルソーは明治十年代の自由民権運動に決定的な影響を与えた。しかし、ルソーの「影響」とはなにか。というより、ルソーとは何者なのか。たとえば、それまで旅する者にとって障害物にすぎなかったアルプスの山中で「風景」を見出したルソーがおり、『告白録』を書いたルソーがおり、政治思想家ルソーがいる。ルソー自身が矛盾にみちた多義的な存在である。
 
スタロバンスキーは『透明と障害』のなかで、多義的なルソーのテクストに、一つの明確な視点を与えた。それは「透明」という問題にかかわる。ルソーにとって、自己意識だけが透明なものだと、彼はいう。それは自己自身にとっての直接的な現前性のみが透明で、それ以外のものは二次的であいまいで不透明だということである。この不透明なものへの怒りと、透明な直接性をもっていた(と彼の信ずる)原始人への賛美が、彼の政治・文化論となっている。
 
ところで、この不透明性への攻撃がまず文字表現にむけられたのは当然である。文字表現は二次的なものであり、直接的な透明性を裏切るものである。しかしまた、ルソーにとって、音声表現もまたそれ自体では重要ではない。重要なのは、自分自身が聴く音声、内的な音声であり、それだけが透明なのである。そこでは、《主体と言語はもはや相互に外的なものではなくなる。主体は感動であり、感動はただちに言語なのである。主体、言語、感動はもはや区別されない》(「透明と障害』山路昭訳、みすず書房)。そこに、スタロバンスキーはルソーの「新しさ」をみる。
 

ここではじめて、ルソーの作品のもたらしたこの上ない新しさが考えられるのだ。言語活動は、依然として媒介の道具でありながら、直接的な経験の場となったのである。言語活動は作者の内面の「根源」に固有なものであると同時に審判に直面すること、すなわち普遍性によって正当化される欲求を証明している。このような言語活動は古典的な「言語表現」とはいかなる共通点をももたず、それに比べてかぎりなく傲慢で、不安定なものである。言葉は真正な自我として存在するが、他方では、完全な真正性はなお欠けており、充足はなおかち取らるべきであり、証人が同意を拒否するならば、なにごとも保証されていないことを示している。文学作品は作家と一般大衆のあいだに「第三者」として介在する真実にたいして読者の賛同をもはや求めず。作家は作品によって自己を示し、その個人的体験の真実にたいして賛同を求める。ルソーはこのような問題を発見したのであり、近代文学の態度となるような新しい態度(ジャン・ジャックが責任を負わされてきた感傷的なロマンティシズムの向う側に)をまさしくつくりだしたのであり、自我と言語の危険な約束、つまり人間がみずからを言葉にするような「新しい結合」を典型的なやり方で実践した最初の人だということができよう。(『透明と障害』同前)

 
おそらく国木田独歩の「新しさ」もそれに類似している。彼の根本的な「障害」は、彼の「透明」、すなわち「主体と言葉が相互に外的でない」ような「新しい結合」にこそ胚胎するのだ。友人が自殺したあとのことを書いた『死』(明治三一年)は、すでに彼の「障「害」が何であるかを告げている。
 

医師は極めて「死」に対して冷淡である、しかし諸友とても五十歩百歩の相違に過ぎない、吾等は生から死に移る物質的手続を知ればもう「死」の不思議はないのである、自殺の源因が知れた時はもう其れ けで何の不思議もないのである。

 

自分は以上の如く考へて来たら丸で自分が 一種の膜の 、、、、、 中に閉じ込 、、、、、 められてゐる 、、、、、、 やうに感じて来た、天地すべ てのものに対する自分の感覚が んだか一皮隔てゝゐるやうに思はれて来てたまらなくなった。

 

そして今も悶いてゐる自分は固く信ずる、フェース フェース 、直ちに事実と万有とに対する能はずんば「神」も「美」も「真」も遂に幻影を追ふ一種の遊戯たるに過ぎないと、しかしてたゞ斯く信ずる計りである。

 
これは『牛肉と馬鈴薯』では、もっと極端にあらわれている。主人公の岡本は、「驚きたい」という「不思議なる願」をもつ。彼の願いとは、「宇宙の不思議を知りたいといふ願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいといふ願」であり、「死の秘密を知りたいといふ願ではない、死てふ事実に驚きたいといふ願」であり、また、信仰そのものではなく「信仰無くしては片時たりとも安ずる能はざるほどに此宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願」なのである。
 
国木田独歩は、自分が自分自身から隔てられているように感じている。そこに不透明な「一種の膜」がある。「驚く」ということはそれを突破することであり、「透明」に到達することだ。そこには、まるで「真の自己」なるものがあるかのような幻影が根をおろしている。この幻影は、「文」が二次的なものとなり、自分自身にとって最も近い「声」——それが自己意識である——が優位になったときに成立する。そのとき、内面にはじまり内面に終るような「心理的人間」が存在しはじめるのである。
 
日本の近代文学は、国木田独歩においてはじめて書くことの自在さを獲得したといえる。この自在さは、「内面」や「自己表現」というものの自明性と連関している。私はそれを「言文一致」という文字表現の問題として考えてきた。あらためていえば、内面が内面として存在するということは、自分自身の声を聞くという現前性が確立するということである。ジャック・デリダの考えでは、それが西洋における音声中心主義であり、その根底には音声的文字(アルファベット)がある。プラトン以来、文字はたんなる音声を写すものとしておとしめられてきたのであり、意識にとっての現前性すなわち「音声」の優位こそ西欧の形而上学を特徴づけているというのである(7)。
 
日本の「言文一致」運動が何をはらんでいたかはすでに明瞭である。くりかえしていうように、それは形象(漢字)の抑圧である。そう考えたとき、夏目漱石が西洋の「文学」に深入りしながら、他方で「漢文学」——和歌に代表される古典文字ではなく——に固執していたことが了解できるだろう。漱石は出口のない「内面」にすでに全身を浸らせていながら、線的な音声言語の外に、いわば放射状の多義的な世界を求めていた。われわれにはそれを想像することさえ困難である。アンドレ・ルロワ=グーランはつぎのようにいっている。
 

ホモ・サピエンスの進化の最も長い部分は、われわれに疎遠なものとなってしまった思考形式のなかで行われたが、それでもこの思考形式は、われわれの行動の重要な部分の底流をなしている。われわれは、音と結びついた書字によって音が記録されるという単一の言語活動を行なって生きているので、思考がいわば放射状の組立てをもって書きとめられるといった表現方式の可能性はなかなか想像できな_。(「身ぶりと言葉』荒木亨訳、新潮社)

 
グーランのいう「われわれ」はむろん西洋人のことだが、すでにわれわれのことでもある。しかし、夏目漱石、二葉亭四迷、森鴎外のような明治の文学者は、すでに近代文学の中に属しながら、同時に、そのことに対する違和と異議を表明していたのである。たとえば『妄想』(明治四四年)のなかで、鷗外はこういっている。「自分」は、死に際して肉体的苦痛を考えることはあっても、西洋人のような「自我が無くなる為めの苦痛は無い」。
 

西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂う野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時二親が、侍の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々論したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することはできない。

 

そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。漢学者の謂ふ酔生夢死といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。

 

それが煩悶になる。それが苦痛になる。

 
これは一見すると「驚きたい」という独歩の作品と似ているようにみえる。しかし、独歩において、あの不透明な「膜」がいわば内面にあったとすれば、鷗外においては外側にある。彼にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張てゐる糸の湊合してゐる」ものであり、マルクスの言葉でいえば「社会的諸関係の総体」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)にほかならなかった。いいかえれば、鷗外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである(とはいえ、これが鷗外のユーモアだということに注意すべきである)。したがって、鴎外の本領は、徳川時代の人間を書いた晩年の歴史小説で発揮されている。そこでは、彼は心理的な内面性を徹底的に排除しようとした。この姿勢は、午前中に小説を書き、午後には漢詩や山水画の世界に浸っていた晩年の夏目漱石と共通している。おそらく、彼らは「文学」とけっしてなじめないものをもっていたのである。
 
近代「文学」の主流は、鷗外・漱石・二葉亭ではなく、国木田独歩の線上に流れて行った。夭折したこの作家は、ある意味で、次の文学世代の萌芽をすべて示していたといってもよい。たとえば、『欺かざるの記』という告白録を最初に書いたのは彼である。柳田国男との関係はいうまでもないが、田山花袋も「国木田君は肉欲小説の祖である」(「自然の人独歩」)と書き、また、芥川龍之介は『河童』のなかで、独歩をストリンドベリー、ニーチェ、トルストイとならべ、「轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人です」と書いている。さらに、初期の志賀直哉は明らかに独歩の影響下に出発している。こうした多義性のゆえに、たとえば国木田独歩はロマン派か自然主義派かといった議論が生じるのだが、彼の多義性は——ルソーの多義性とある意味で似ている——、まさに彼が はじめて 、、、、 新たな地平に立ったところからきているといってよい。ヴァレリーがいうように、ある一つの事柄で新たな視野をひらいた者は一挙に多方面の事柄が視える。ポーは推理小説の基本的なパターンを書きつくしてしまったが、しかし彼の〝一歩〟は、犯罪という行為ではなく、詩作という行為を意識化するという未曾有の試みにこそあった。国木田独歩の多彩さは、文学流派の問題などではなく、はじめてあの「透明」を獲得したことにあったのである。

言文一致の運動は、小説において二つの源泉をもっている。私はこれまで二葉亭四迷、国木田独歩、自然主義者といった流れについてのみ語ってきた。しかし、言文一致はそれに限定されるものではない。もう一つの源泉として「写生文」という運動を見落とすことができない。江藤淳は、近代日本のリアリズムを二葉亭や自然主義者の線で考える一般的傾向に反対して、正岡子規や高浜虚子の「写生文」の画期性を主張した。「描写」とはものを描くことではなく、「もの」そのものの出現にあること、それゆえに「もの」と「言葉」との新たな関係が出現することだ、と江藤はいう。
 

それは認識の努力であり、崩壊のあとに出現した名づけようのない新しい もの 、、 に、あえて名前をあたえようとする試みである。いいかえればそれは、人間の感受性、あるいは言葉と、 もの 、、 とのあいだに、新しい生きた関係を成立させようとする「渇望」の表現でもある。リアリズムという新理論が西洋から輸入されたから、リアリズムでやろうというのではない。「知らずや、二人の新機軸を出したるは消えなんとする灯火に一滴の油を落したるものなるを」。彼らは もの 、、 に直面せざるを得ない場所にいるから、「新機軸」を立てたのだと、子規は主張するのである。

 

したがって、虚子も碧梧桐も、「古来在りふれた俳句」を去って「写生」におもむくほかない。芭蕉が確立し蕪村が開花させた俳諧の世界が、江戸期の世界像とともに「将に尽きん」とするとき、それ以外に俳句を、いや文学を蘇生させるどんな手段があるかと、子規は必死に反問しているように思われる。(「リアリズムの源流」「新潮』昭和四六年一〇月号)

 
この論文は、「リアリズム」を対象の再現としてではなく、言葉(文)そのものの次元で、しかも日本の文脈において見ようとしたという点で画期的なものだが、幾つかの点で修正の必要がある。江藤淳は、子規たちは「リアリズムという新理論が西洋から輸入されたから、リアリズムでやろう」というのではなく、「もの」に直面したから「新機軸」を立てたのだ、というのだが、自然主義者といえども、西洋から輸入した「新理論」だけで『破戒』や『蒲団』を書きえたわけではない。彼らはすでにある種の「文」を獲得していたのであり、そのなかで見出された「もの」(風景)を「写生」しようとしたのである。そこにいたるまでには、「言文一致」という長い試行錯誤の過程がある。「言文一致」とは新たな「文」の創出であり、それこそが「再現」すべきものとしての「もの」を見出さしめたものである。子規の写生文もそのなかに属する。ただ自然主義派と子規が違っているとしたら、その差異は、前者が新たな文の創出のなかで「文」への意識をなくしてしまったのに対して、子規が「文」(言葉)にこだわりつづけたということにある。
 
江藤淳は、正岡子規にとって「写生」の客観性は自然科学的なものに近く、そこでは、「言葉は言葉としての自律性を剥奪されて、無限に一種透明な記号に近づくことになる」という。それに対して、「ものと言葉の新たな関係」を作り出したのは子規ではなく、高浜虚子だ、と江藤はいうのだ。彼の考えでは、漱石は子規ではなく虚子の側にある(8)。しかし、このような評価に私は賛同できない。高浜虚子は写生文について、つぎのように書いている。
 

今日の写生文は、吾々の一派がはじ めたものである、といつてもよからうと思ふ。また、恐らくは世間もさう許してくれることゝ信ずる。尤も、明治文学の新機運を促がした坪内逍遥氏の『当世書生気質』は、最も早き一種の写生文であったが、 なほ七五調に 、、、、、
縛られて 、、、、 、古い形式になず んでゐた気味がある。その後に起つた硯友社一派の新運動も、また写生的ではあるが、然しなほ旧来の戯作者系統を免かれなかつた。今からあの当時の文学界を願れば、古い鋳型を脱せんとしながら、しかもそれを 脱しては小 、、、、、 説が書けない 、、、、、、 といふ気味があった。

 

丁度その頃である。西洋画家——自分等が直接に接したのは中村不折氏である——が、写生といふことを唱へ出した。在来の日本画家の説を聞くと、 女郎花 おみなえし の下にはうずら がゐなければせならぬ、蘆があれば、雁を描かねばならぬと、古人の描き来つた型を尊重して、かの 能楽や歌舞 、、、、、 伎などと等 、、、、、 しく 、、 、偏へに旧慣のみを墨守してゐた。然るに、西洋画家はこれに反して、古人の書いた型をそのまま 踏襲するのは陳腐である、目に見る自然界を写生して、そこから新しいものを取つて来ねばならぬと主張した。(「写生文の由来とその意義」)

 
この意味でなら、虚子の写生文が「リアリズムの源流」にあるということは確かである。つまり、これは明らかに私小説・心境小説などの源流となったのである。しかし、このように説かれた写生文の定義から最も逸脱してしまうような写生文がある。子規や漱石の写生文こそそのようなものである。子規における「写生」は「自然科学的な」言語とは違っている。子規自身も絵画(油絵)における写生を見習ったといっている。だが、実際に彼が俳句にかんして「写生的」とか「絵画的」というとき、すべて言葉にかかわっている。たとえば、子規が蕪村の句や実朝の歌が写生的だというとき、彼が意味しているのは、むしろ、彼らの言葉、すなわち、彼らが漢語を使っているということ、あるいは助辞が少なく名詞が多いということである。そして、和歌の腐敗について、子規はいう。《此腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、又趣向の変化せざるは用語の少なきが原因と 被存 ぞんぜられ 候》(「七たび歌よみに与ふる書」)。それゆえに、「用語は雅語俗語洋語漢語必要次第用ふる」というのである(9)。
 
要するに、子規にとって「写生」において大切なのは、ものよりも言葉、すなわち、言葉の多様性であり、その一層の多様化であった。そのことを理解していたのは、多種多様な言葉をふんだんに使った漱石だけである。一般に、写生文は、平板な言葉による「写生」という方向に受けとられた。それを促進したのが、もともと小説家を目指していた高浜虚子なのである。そして、それは島崎藤村らの「写生」と同じことになる。したがって、言葉を「無限に一種透明な記号に近づく」ことにさせたのは、子規ではなく虚子であり自然主義者であった。
 
子規は写生文——ここでは「写実的の小品文」と呼んでいる——の工夫について、次のように述べている。
 

それには課題を出して募集した小品文もあるが、最も骨を折つたのは写実的の小品文であつた。(中略)空間的の景色でも時間的の動作でも其文を読むや否や其有様が直に眼前に現れて、実物を見、実事に接する如く感ぜせしむるやうに、しかも其文が冗長に流れ読者を飽かしめぬやうに書くのに苦辛したので、其効果は漸く現れんとしつつあるやうに見える。写実だといふので無闇(ルビ:むやみ)に詳しく書いた処で其事物が読者の眼前に躍如として現れなくては写実の効が無いのであるからこゝはわれわれの大に研究すべき事である。(「ホトトギス第四巻第一号のはじめに」「ホトトギス』明治三三年)

 
このような「現前性」をもたらすために、子規がとったのは、時制を現在形あるいは現在進行形にするということである。先に述べたように、文末詞の「た」は、物語の進行をある一点から回顧するような遠近法的な時間性を可能にする。中性的な語り手と主人公の黙契はこのような「た」において実現される。しかし、写生文はこのような「た」を拒むのである。日本語にそんな時制はないが、写生文は、いわば現在進行形で書かれている(10)。
 
たとえば、漱石の『幻影の盾』や『薙露行』は、「である」を取ればまさに「雅文」なのだが、ここにはほとんど過去形がない。「遠き世の物語である。バロンと名乗るものゝ城を構へ濠を環らして、人をほふ り天におご れる昔に帰れ。近代の話しではない」(「幻影の盾』)とはじまっているにもかかわらず。過去のことを書いているのだが、「た」がほとんどないために、ある統合された回想とならず、「現在」の意識が多方向的に拡散している。
 
次のように書き出される『坑夫』のような作品では、こうした現在形は、自分を確かに自分と感じられない主人公の病的な状態に対応している。
 

さっきから松原を通ってるんだが、松原と云ふものは絵で見たよりも ぽど 長いもんだ。何時迄行っても松ばかり生えて居て一向要領を得ない。 此方 こっち がいくら 歩行 あるい たって松の方で発展して呉れなければ駄目な事だ。いっそ始めから突つ立つたまま 松と睨めつ子をしてゐる方が増しだ。(『坑夫』)

 
「た」が或る一点からの回想としてあるとするならば、漱石は「た」の拒否によって、全体を集約するような視点を拒んでいる。それはまた、確実にあるようにみえる「自己」を拒むことである(右の文では「私」が抜けている)。こうした「現在形」の多用は、「写生文」一般の特徴である。
 
一方、漱石は写生文の特質を対象面や話法においてよりもむしろ、「作者の心的な状態」に見ようとした。
 

写生文と普通の文章との差違をかぞ へ来ると色々ある。色々あるうちで余の尤も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である。他の点は此一源泉より流露するのであるから、此の源頭に向って工夫を下せば他はことごと く刃を迎へて向から解決を促がす訳である。(中略)

 

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が患者を見るの態度でもない。(中略)男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり、大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はさう思ふて居るまい。写生文家自身もさう思ふて居るまい。しかし解剖すれば遂にこゝに帰着して仕舞ふ。(「写生文」明治四〇年一月二〇日)

 
この点から見れば、正岡子規の写生文を特徴づけるのは、死の床にあって無力な自分自身に対してとる態度である。たとえば、子規は『死後』と題する文で、つぎのように書いている。
 

余の如き長病人は死といふ事を考へだす様な機会にも度々出会ひ、又そういふ事を考へるに適当した暇があるので、それ等の為に死といふ事は丁寧反復に研究せられてをる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるといふのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気がおど つて精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるといふのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残つてゐて、其考が自己の形体の死を客観的に見てをるのである。 主観的の方 、、、、、 は普通の人 、、、、、 によく起こ 、、、、、 る感情であるが 、、、、、、 客観的の方 、、、、、 は其すら解 、、、、、 せぬ人が多 、、、、、 いのであらう 、、、、、 。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪へられぬやうな厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど 冷淡に自己 、、、、、 の死といふ 、、、、、 事を見る 、、、、 ので、多少は悲しい 果敢 はか ない感もあるが、或時は寧ろ 滑稽に落ち 、、、、、 て独りほゝ 、、、、、 ゑむやうな 、、、、、 事もある 、、、、 。(「ホトトギス』明治三四年二月)(傍点、筆者)

 
この『死後』という題から、読者が彼岸とか霊界というようなものを予期するならば、見事に裏切られるだろう。これは死後、自分の死体がどう処理されるかという話だから。棺は窮屈だし、土葬は息苦しい、火葬は熱い、水葬は泳げないので水を飲みそうだ、ミイラも困る、というような話が延々と書かれているのである。この「態度」はユーモアと呼ぶべきものである。
 
興味深いことに、漱石が写生文に関して述べたことは、フロイトがユーモアにかんして指摘した「精神態度」と完全に合致している。《誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供に対するような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである》(『ユーモア』高橋義孝訳、「フロイト著作集」第三巻、人文書院)。フロイトは、ユーモアの例として、月曜日絞首台に引かれていく囚人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言った例をあげている。しかし、子規が『死後』で書いていることも、ほとんどそれと同じである。
 
晩年に喉頭癌の手術を幾度も受けながら平然と仕事を続けたフロイトと、結核で病床にありながら活発に思索=詩作をつづけていた子規に共通するのは、このようなユーモアである。フロイトの考えでは、ユーモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己を——時には(三島由紀夫のように)死を賭しても——蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すロマン的イロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーが他人を不快にするのに対して、ユーモアはなぜかそれを聞く他人をも解放するからである。フロイトは、先に述べた囚人がとった態度が彼自身にとって快であるとしても、なぜそれが関係のない聞き手にも快感を与えるのか、という問いからはじめている。
 
ボードレールはすでにこのような問いに答えている。彼は「有意義的滑稽」(ウィット)と「絶対的滑稽」(グロテスク)を分けている。ベルクソンが考察したのは前者であり、バフチンが考察したのは後者である。いずれの場合でも、結局、笑いは笑う者の優越性の徴である。それらを考察しながら、ボードレールは、どちらとも異なるケースを挙げている。
 

笑いは、本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾をふくむものだ。すなわち、笑いは無限の偉大さのしるし であると同時に無限の悲惨さの徴——人間が頭で知っている「絶対的存在者」との関連においてみれば無限の悲惨さを、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さを、あらわすものだ。この二つの無限の絶えまない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者のうちに存するのであり、笑いの対象のうちにあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分のころんだことを笑ったりは決してしない。もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象を局外の傍観者として眺める力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話が別であるが。(『笑いの本質について』阿部良雄訳、「ボードレール全集」第四巻、筑摩書房)

 
その語を使わなかったとしても、ここで、ボードレールが敬意をもって「例外」として挙げているのは、ユーモアである。それは、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ユーモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。ユーモアを受けとる者は、自分自身において、そのような「力」を見いだす。だが、それは必ずしも万人に可能なことではない。フロイトはこういっている。《人間誰しもがユーモア的な精神態度をとりうるわけではない。それはまれにしか見出されない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたユーモア的快感を味わう能力すら欠いているのである》(『ユーモア』同前)。
 
国木田独歩の「風景の発見」には、経験的な自己に対する超越論的な自己の優位を示すイロニーがある。それは現実的に無力な自己を高みにおく転倒をもたらす。近代文学はそのようにして政治的現実を無化する視点を与え続けたのである。ユーモアがそれとは逆のスタンスであることはいうまでもない。しかし、日本文学における写生=リアリズムは、イロニーの方向すなわち独歩や島崎藤村の方向において実現されていった。それに対する根本的な申し立てが、三人の作家によってなされた。すでに述べたように、二葉亭四迷、森鷗外そして夏目漱石である。彼らが「文学」を相対化する視点をもっていたことはいうまでもない。たとえば、二葉亭四迷はつぎのように書いている。
 

よほど人が文学や哲学を 難有 ありがた がるのは 余程 よほど 後れていやせんかと考えられる。第一 其等 それら が有難いと云うな、うそ の有難いんだ。何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果してそう云うモーメントが有ったか、有るまい。今の文学者なざ殊に、西洋の影響を受けて いきなり 、、、、 文学は有難いものとして担ぎ廻って居る。これじゃ未だ未だ途中だ。何にしても、文学を尊ぶ気風を一旦壊して見るんだね。すると其 敗滅 ルーインス の上に築かれて来る文学に対する態度は「文学も悪くはないな!」ぐらいなところ になる。心持ちは第一義に居ても、人間の行為は第二義になって現われるんだから、ま、文学でも仕方がないと云うように、価値が まって来るんじゃないかと思う。(「私は懐疑派だ」)

ここで、私は、二葉亭四迷の小説ではなく翻訳が影響を与えた理由について考えておきたい。明治前期には、多くの西洋の小説が翻訳されたが、それらは翻訳というよりも翻案に近かった。つまり、言文の意味あるいは筋を紹介すれば足りるという考えでなされていた。その中で初めて、原文に対して忠実に逐語的な翻訳を試みたのが、二葉亭四迷なのである。彼は翻訳の仕方について独自の意見をもっていた。《外国文を翻訳する場合に、意味ばかりを考えて、これに重きを置くと原文をこわすおそれ がある。須らく原文の音調を呑み込んで、それを移すようにせねばならぬと、こう自分は信じたので、コンマ、ピリオドの一つをも濫りに棄てず、原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風にして、原文の音調を移そうとした》(「余が翻訳の標準」)。
 
しかし、これはたんなる思いつきではなかった。彼は翻訳をどうすべきかについてかなり研究していたのである。彼はバイロンをロシア語に訳したジュコーフスキーのやり方がよいと考えた。それは簡単にいえば、「原文を全く崩して、自分勝手の詩形とし、唯だ意味だけを訳している」というやり方である。そのロシア語訳は、彼の英語能力で読むバイロンよりも、見事だ。自分もそのようにしたいと思ったが、できなかった。「何故かと云うに、ジュコーフスキー流にやるには、自分に充分の筆力があって、よしや原詩を崩しても、その詩想に新詩形を附することが出来なくてはならぬのだが、自分には、この筆力が覚束ないと思われたからだ」。だから、逐語訳のやり方でやったというのである。しかし、この自嘲的な回想を額面どおりに受け取るべきではない。
 
たとえば、森鷗外の翻訳はいわばジュコーフスキー流の翻訳で、原作から自立した創作として定評があった。それに対して、二葉亭の翻訳は、「いや実に読みづらい、佶屈警牙だ、ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い。従って世間の評判も悪い、偶々賞美して呉れた者もあったけれど、おしなべて非難の声が多かった」と二葉亭はいっている。しかし、実際には彼の翻訳、特にツルゲーネフの『あひびき』などの翻訳は、大きな影響を与えたのである。一方、彼自身が書いた小説『浮雲』は言文一致で書かれ、日本最初の近代小説としてのちに評価されるようになったが、ほとんど同時代に影響を与えなかった。二葉亭自身も創作への関心を棄ててしまった。では、彼の小説ではなく、翻訳がなぜ影響を与えたのか。それは、彼の小説は徳川時代の俗語的な小説を受け継いだ文体で書かれたのに、翻訳はロシア語の原作の逐語的な翻訳だったからである。
 
中村光夫はこう述べている。《この方法は彼自身の眼から見ても必ずしも成功したとは云えず、当時一般の作家の間では不評でしたが、原作者の感受性の動きが、そのまま日本語に移し易えられたような一種独特な調子が、青年たちに、清新な印象をあたえ、在来の文章感覚に馴れた目からは、ぎこちなく整わぬものに見えた文体が、彼等の若い感受性に、新しい表現の道を示唆しました》(『明治文学史』同前)。しかし、このことをたんに偶然的な結果とみなしてはならない。二葉亭が、自分は日本語がよく出来ないから原作の意味を巧みに伝える創造的な翻訳をあきらめたというのは、例によって自虐的な言い方にすぎない。彼は、本当はそのような方法を否定したかったのである。人々は二葉亭の翻訳のユニークさ、そしてその結果の大きさに注目する。しかし、彼がもっていた認識には注目しないのだ。それに関して、私は、ベンヤミンが「翻訳者の使命」というエッセイで述べた事柄が示唆的であると考える。一九世紀にヘルダーリンによるソフォクレスの翻訳が逐語訳のひどい例とみなされてきたが、ベンヤミンはそのような翻訳を擁護し、また、ルードルフ・パンヴィッツの次の言葉を引用している。
 

わが国の翻訳はその最良のものすら誤った原則から出発している。それはドイツ語をインド語化、ギリシャ語化、英語化するかわりに、インド語、ギリシャ語、英語をドイツ語化しようとする。それは外国語による作品の精神にたいしてよりも自国語の慣用法にはるかに大きな畏敬を抱いている……翻訳者の原則上の誤謬は、自国語を外国語によって激しく揺り動かすかわりに、自国語の偶然的状態を墨守するところにある。翻訳者は、とくにきわめて遠い外国語から翻訳する場合には、語と像と響とが合一する言語そのものの窮極の 状態 エレメンテ にまで遡ってゆかねばならない。かれは自国語を外国語によって拡大しなければならない。(ルードルフ・パンヴィッツ『ヨーロッパ文化の危機』一九一七年。ベンヤミン『翻訳者の使命』円子修平訳、「ベンヤミン著作集」第六巻、晶文社、より)

 
この主張は、まさに、二葉亭が参考にしたジュコーフスキーの翻訳のやり方を全面的に否定するものである。ベンヤミン自身は、逐語的な翻訳をすべき根拠を、次のような考えに見出している。文学テクストには、言語的な形式自体がもたらし、けっして何らかの意味に還元されてしまわないような何かがある。ベンヤミンはそれを「純粋言語」die reine Sprache と呼ぶ。逐語的な忠実さが、翻訳者に、原作をたんに意味として受け取るのでなく、「純粋言語」に向かうことを強いる。そこで、ベンヤミンはつぎのようにいうのである。
 

もはやなにを言いなにを表現するものでもなくて、無表情な創造的な語として、あらゆる国語によって意味されるものそのものであるこの純粋言語において、竟に、あらゆる伝達あらゆる意味あらゆる志向は、そこにおいてそれらが消滅すると定められていたひとつの層に達する。そしてまさしくこの層を根拠として翻訳の自由はひとつの新しいより高次の権利であることが証明されるのである。そこからの解放こそ忠実の使命であったあの伝達される意味によって自由が存続するのではない。翻訳の自由は、むしろ、純粋言語のために翻訳の固有の言語によって自証するのである。外国語のなかに鎖されているあの純粋言語を翻訳固有の言語のなかに救済すること、作品のなかに囚えられているこの言語を改作のなかで解放することが翻訳者の使命である。この使命のためにかれは自国語の腐朽した柵を打ち破る、ルター、フォス、ヘルダーリン、ゲオルゲはドイツ語の限界を拡大したのである。(『翻訳者の使命』同前)

 
ルターが『聖書』をドイツの俗語で翻訳したこと、そして、それが標準的なドイツ語になったことはよく知られている。フィヒテは、ドイツ語はギリシャ語のみが比肩しうる唯一の原言語であると述べたが、そのとき彼はドイツ語が翻訳によって形成されてきたことを忘れているのだ。ドイツ語だけではない。近代のナショナルな言語はすべて翻訳を通して形成されているのである。しかし、大切なのは、なぜルターの翻訳がドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもったのかということである。ベンヤミンは、ルターの『聖書』がもった影響力を、やはり、それが逐語的な翻訳であったことに見出している。そして、ルターに逐語的な faithful な翻訳を強いたのは、『聖書』という神聖なるテクストへの彼の信仰 faith である。
 
それは、しかし、二葉亭が逐語的な翻訳をした理由を説明するものでもある。二葉亭はいう。《文学に対する尊敬の念が強かったので、例へばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを翻訳するにも同様に神聖でなければならぬ、就ては、一字一句と雖も、大切にせねばならぬとように信じたのである》(「余が翻訳の標準」)。《ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云へば、行住坐臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である》(同前)。
 
このような観点からみれば、二葉亭の逐語的な翻訳は、意味を伝達するだけでなく、それぞれの作品から、意味に囚われている「純粋言語」を、日本語において救済するということにほかならないのである。彼が日本語よりロシア語のほうがよく分ったというのは、誇張ではない。むしろ外国語だからこそ、意味に還元されない「純粋言語」を感じとろうとすることができたのである。他方で、彼の逐語的な翻訳は、まさに「自国語を激しく揺さぶる」ことにほかならなかった。若い人たち、たとえば、国木田独歩のような作家が、他の何よりも、二葉亭によるツルゲーネフの翻訳に震撼されたのはそのためである。それ以前の翻訳、あるいは、日本語によるさまざまな取り組みは、「自国語の偶然的状態をあくまで保持しようとするところ」にあったので、二葉亭の翻訳が与えたような清新さを与えなかったのである。
 
だが、問題は、日本の近代文学が、彼が翻訳したツルゲーネフの方向に向かってしまったことである。実は、それは、彼の『浮雲』が影響を与えなかったということと関連している。二葉亭によるツルゲーネフの翻訳は逐語訳だからこそ影響を与えた、と私は述べた。しかし、二葉亭が逐語的に翻訳したのはツルゲーネフだけでない。彼は、ゴーゴリやゴーリキーをも逐語的に翻訳しているのだ。注目すべきことは、彼のゴーゴリの翻訳の文章がある意味で二葉亭自身の『浮雲』の文体に似ているということである。さらにさかのぼっていえば、それは式亭三馬のような江戸の作家(滑稽本)と似ているのである。
 
二葉亭四迷はツルゲーネフを訳したが、それを好んでいたとはいえない。彼の資質は明らかに、ゴーゴリ、ドストエフスキーの線にあった。ところが、彼の翻訳が与えた影響はゴーゴリではなく、ツルゲーネフの線上においてだけであった。それは何を意味するか。明治日本の作家たちは、江戸小説とつながるサタイア的な小説ではなく、先ずリアリズム的小説を日本語で実現したかったのだ。
 
リアリズム小説をもたらすのは、語り手がいるのにまるでそれがいないかのように見せる話法の工夫である。たえず動くような語り手があると、固定した一点がなく時間的遠近法がなく、それゆえ、「現前性」あるいは「奥行」がなくなる。リアリズムの話法の完成された形態が「三人称客観描写」である。これはフランスでは一九世紀半ばに成立した。ロシアではツルゲーネフによって確立されたといってよい。それが二葉亭によって日本語に訳されたのである。しかし、同時期のロシアには、むしろそのようなリアリズムを拒絶した作家がいた。ゴーゴリやその「外套から出てきた」と称するドストエフスキーである。
 
彼らの作品はいわばルネッサンス的な小説であり、バフチンが強調したように、そこに「カーニバル的な世界感覚」が保持されている。バフチンは、イギリスの前期ロマン派文学、殊にローレンス・スターンに「カーニバル的世界感覚」が主観的な形で回復されているといっている。漱石がデフォーを嫌って、スターンやスウィフトを賞賛したことを想起しよう。こうして、ゴーゴリに親近性を覚える二葉亭四迷と、スターンに親近性を覚える夏目漱石が共鳴しあうとしても不思議ではない。そうした「カーニバル的世界感覚」は、江戸の戯作というよりももっと根本的に、「俳諧」という日本の伝統に根ざしていたのである(それについては第七章で詳述する)。
 
先に述べたように、西洋人が幾何学的遠近法を疑いそこからの脱出の鍵を日本の浮世絵に見出したとき、逆に日本人は油絵でリアリズム絵画を実現しようとした。たとえば、岡倉天心がフェノロサとともに東京美術学校を設立したとき西洋画派が排除されたのは、伝統主義やナショナリズムのためだけではない。それらが西洋においても高く評価されていたからである。しかし、明治三一年、岡倉は西洋派によって美術学校を追われた。それは国木田独歩が二葉亭の翻訳を長々と引用して書いた『武蔵野』を発表したのと同じころである。したがって、日本美術の領域に生じたアイロニーは共時的に文学にも生じたということができる。
 
二葉亭の訳したツルゲーネフの翻訳の影響力が結実したのが『武蔵野』であった。その一方で、彼の訳したゴーゴリは無視され、『浮雲』も無視された。ずっとのちにそれが最初の近代小説という評価を受けたときも、それはまだ江戸の小説の古さを引きずった過渡的な作品であると思われたのである。しかし、二葉亭四迷自身は終生そのスタンスを変えなかった。たとえば、最晩年に漱石に請われて朝日新聞に連載した『平凡』では、次のように書き始めている。
 

さて、題だが……題は何としよう?  此奴 こいつ には昔から 附倦 つけあぐ 附んだものだッけ……と思案の末、はた ひざ を拊つて、平凡! 平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡といふ題は動かぬ所だ、と題がきま る。

 

次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云つて、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、いささ かも技巧を加えず、あり まま に、だらだらと、牛のよだれ のやうに書くのが流行るさうだ。好い事が流行る。私も矢張りそれ で行く。

 

で、題は「平凡」、書方は牛の涎。

 
それ二葉亭は彼の翻訳したツルゲーネフの線上に発展した日本近代文学の主流、つまり、自然主義小説を「牛の涎」と呼んだ。そして、自然主義が全盛であった時代に、彼はある意味で『浮雲』と同じようなスタイルで同じような経験を書いたのである。そして、彼は最後に、この自伝的小説を徹底的に「滑稽本」に変えてしまう。《二葉亭が申します。此稿本は夜店を冷かして手に入れたものでござりますが、跡は 千切 ちぎ れてござりません。 一寸 ちょっと お話中に電話が切れた恰好でござりますが、致方がござりません》。すなわち、彼自身は『浮雲』あるいはゴーゴリの線上にありつづけたのである。

(1)たとえば、明治初期から学問による「立身出世」という思想が青年、特に旧士族の子弟の間で強く奉じられた。それはかなり近年まで日本人を動かしてきた「思想」である。前田愛は近代小説の出現を、青年たちが立身出世に幻滅し挫折しはじめた時期に見出している。《立身出世を目指す青年達を取り上げた小説は明治一七年の『世路日記』から、明治二三年の『帰省』にいたって一つのサイクルを終えたのである。このサイクルの中程には『当世書生気質』『浮雲』『舞姫』がそれぞれ位置するはずである》(「明治立身出世主義の系譜」『近代読者の成立』一九七三年、有精堂出版)。しかし、こうした挫折や幻滅は明治の国家体制が明治二十年代に確立されたときにもたらされたのであり、広い意味で自由民権運動の挫折の中に入るといってよい。
 
(2)ソシュールは文字を言語にとって外的なものと見なしたが、それは文字が音声にとって二次的であるという考えからではない。たんに音声言語と文字言語が異なるということである。音声言語を第一次なものとみなし、また、文字言語は音声を写したものだと考えたのは、ロマン派の言語学者なのである。ソシュールが批判したのはそのような言語学である。音声中心主義は近代のネーションにおいて普遍的に見られるものである。そして、そこには起源の忘却がある。ロマン派が出発する音声言語とは、帝国の言語(ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語など)を翻訳する過程で形成されたものである。つまり、実際は文字が先行しているのに、あたかも感情あるいは内面から直接に出てきたかのように考えられる。精しくは、拙稿「ネーション=ステートと言語学」(『定本柄谷行人集』第四巻、岩波書店)を参照されたい。
 
(3)山田美妙がとった「です・ます」体は、最初二葉亭の「だ」体以上に風靡した。しかし、それが衰退したのは、「です・ます」は明らかに女性的有微性をもつために中性的な表現となることが難しかったからである。しかし、その際、女性作家がどうなったか。絓秀実は、若松賤子から樋口一葉にいたるまでの女性作家が言文一致では「です・ます」体で書いていたことを指摘し、明らかに男性的な「だ」体が標準化していったとき、彼女らがどのような対応を強いられたかを論じている。これは重要な視点である。たとえば、絓秀実の次のような考えは示唆的である。《この意味で、樋口一葉は明治二〇年代の俗語革命に、もっとも根底から抵抗した作家であると言いうるだろう》)(『日本近代文学の〈誕生〉』太田出版、一九九五年)。
 
(4)山本正秀は明治二十年代における言文一致の変遷についてこう述べている。《この期間は大体西鶴調の雅俗折衷体が風靡した時で、二二年九月幸田露伴の『風流佛』の出現によって西鶴熱がにわかに高まり、紅葉・露伴次いで一葉らの西鶴ばりの雅俗折衷文体が小説界の王座を占め、また一方には落合直文らの新国文運動があり、森鴎外の和漢洋三体折衷の新文体も現われて称讃を受け、また評論界では民友社系欧文直訳体が幅を利かせたのであって、言文一致の方は、なお惰性的に言文一致体小説に筆を染める者がないわけではなかったが、それらも美妙以外は西鶴調により多く媚態を示し、上述の折衷文章体の諸派の隆盛に比べれば影の薄いものにすぎなかった。
 
美妙自身にしてもこの頃からは退いて俗語摂取の国語辞典や口語文法の研究また言文一致指導書の編纂の方により多くの関心を払うこととなったし、二葉亭や逍遥に至っては小説界とは疎遠勝ちになってほとんど何も出していない。ただ初めは言文一致を罵倒し西鶴模倣に血道をあげていた尾崎紅葉が、しだいに地の文と会話との調和の必要を感じて来て、この期に『二人女房』(二四年八月—二五年一二月)はじめ『隣の女』『紫』『冷熱』の数篇を である 、、、 調言文一致体で試作したこと、若松子の『小公子』(二三年—二五年)内田不知庵の『罪と罰』(二五年)のかなりりっぱな口訳が現われたこと、巌谷小波が童話物を言文一致で書き始めたことなどが、特記するに足るだけである。よってこの時期は言文一致の停滞、とりどりな和漢洋俗諸体の配合による数種の折衷的新文体流行の時代であって、そうした対立の中に明治的な普通文が摸索されつつあったところの、いわば混沌であったのである(『言文一致の歴史論考』桜楓社、一九七一年)
 
(5)三人称客観が形成されるためには、旧来の物語ではなく一人称の手記のような形式から始めなければならない。一人称は物語のような間接的な再現ではなく、直接的な現前性の効果を与える。イギリスにおいては、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のような形式。しかし、そこから三人称に転化することはできない。次にとられたのは、多数の書簡の交錯という形態である。リチャードソンの『パメラ』、あるいはラクロの『危険な関係』。この形式は多くの主体の発話から成り立つので、それを総合するような俯瞰的な視点はない。総合するのは読者である。三人称客観が成立するのはその後である。この問題は、マルクスが『資本論』の冒頭で論じた価値形態論の問題に似ている。すなわち、一人称形式は「単純な価値形態」に、書簡形式は「拡大された価値形態」、つまり、まだ一般的な等価物が存在しない状態に該当する。そして、三人称客観描写は「一般的等価形態」であるといえる。そこでは、あらゆる人物を隈なく透視しうる視点が成立するのである。
 
しかし、三人称客観は透視図法と同様にフィクションである。それに比べると、書簡小説のほうが斬新に見える。漱石の作品はその観点からみると興味深い。写生文から始めた漱石の場合、三人称客観といえるのは『明暗』だけであった。たとえば、『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』などでは実質的に書簡形式がとられている。その効果として、これらの小説は、容易に片づけられない謎をはらむのである。
 
(6)絓秀実は、山本正秀の『言文一致の歴史論考続編』を引いて、「である」体の成立に言文一致の完成を見るべきだといっている(『日本近代文学の〈誕生〉』同前)。「「た」体のみでは「語り手の中性化」(柄谷行人)が行われない」という絓の批判は正しい。「である」体は、「た」体では散乱してしまう多数の時点を、超越論的に統合するような視点(遠近法)をもたらすのである。
 
(7)音声中心主義は実際の音声を優位におくものではない。それは内的な音声(内言)を優位におくものである。要するに、意識が先にあり、それが外化(表現)されるという考えこそ、音声中心主義なのである。また、共同的な対話を斥け内向するのが音声中心主義である。前田愛は、リースマンの『孤独な群衆』を援用しつつ、近代にいたるまで一般に書物が音読されたこと、黙読はきわめて近年に成立した慣習であることを指摘した(「音読から黙読へ」『近代読者の成立』同前)。日本では、明治二十年代に黙読する「近代読者」が成立したのである。その意味では、「音声中心主義」の覇権はいわば黙読の普及にこそ見出されたといってよい。
 
(8)かつて高浜虚子の内弟子であった勝本清一郎はつぎのように書いていた。虚子に代表されるような写生文は、微温的で花鳥諷詠の範囲を出られない。そのような写生文に不満を抱いた島崎藤村が、『千曲川のスケッチ』を書き、さらに『破戒』を書いた。そして、それを漱石が絶賛した。そこで、「結局あの写生文というものは近代文学のほんとうの意味の温床にならずに終ったと私は思います。漱石を生み出したのが事実でも、漱石文学の本質的なものは写生文の否定の上に成立したのです」(「座談会 明治文学史』岩波書店、一九六一年)。江藤の意見は、これに対する反論である。しかし、私の見るところでは、彼らはともに、子規や漱石の「写生文」の意味を理解していない。確かに勝本がいうように、高浜虚子の写生文には限界がある。そこには、北村透谷や国木田独歩に見られるような倒錯的なまでの内面性が見られない。虚子はそれとは無縁であった。だから、子規の否定した俳句の宗匠・家元に平然となりおおせたのである。
 
(9)正岡子規はつぎのように述べている。《数学を修めたる今時の学者は云ふ。日本の和歌俳句の如きは一種の字音僅かに二三十に過ぎざれば、之を錯列法に由て算するも其数に限りあるを知るべきなり。語を換へて之をいはゞ和歌(重に短歌をいふ)俳句は早晩其限りに達して、最早此上に一首の新しきものだに作り得べからざるに至るべしと。(中略)而して世の下るに従ひ平凡宗匠、平凡歌人のみ多く現はるゝは罪其人に在りとはいへ、一は和歌又は俳句其物の区域の狭隘なるによらずんばあらざるなり。人間ふて云ふ。さらば和歌俳句の運命は何れの時にか窮まると。対へて云ふ。其窮り尽すの時は固より之を知るべからずと云へども、概言すれば俳句は已に尽きたりと思ふなり。よし未だ尽きずとするも明治年間に尽きんこと期して待つべきなり。和歌は其字数俳句よりも更に多きを以て数理上より算出したる定数も亦遥かに俳句の上にありといへども、 実際和歌に 、、、、、 用ふる所言 、、、、、 語は雅のみ 、、、、、 にして其数 、、、、、 甚だ少なき 、、、、、 故に 、、 其区域も俳句に比して更に狭隘なり。故に和歌は明治已前に於て略々尽きたらんかと思惟するなり》(「俳句の前途」『獺祭書屋俳話』明治二五年)。「短歌命数論」として知られる子規のこの意見から、言葉をたんに記号として見るという科学的立場のみを見出すのは的外れである。子規がいうのは、たんに、和歌や俳句に多様な言語を導入しろという要求にすぎない。その際大げさに順列組み合わせなどを持ち出すのは、子規のユーモアなのである。

(10)おそらくこの「た」は、フランス語でいえば、近代小説を支配した単純過去に対応するだろう。それについて、バルトは次のように書いている。《単純過去は、どんなに暗いリアリズムが問題である場合でも安堵感を与えるが、それは、単純過去のおかげで、動詞が、ある閉じられ、限定され、実体化された行為を表明し、物語が名前をもって、無際限のコトバの恐怖から逃れるからである。現実は痩せほそって、親しげなものとなり、文体のなかに入って、言語からはみ出しはしない》(『零度のエクリチュール』渡辺淳・沢村昂一訳、みすず書房)。ところで、バルトは、半過去形で書かれたカミュの『異邦人』について、それがこうした単純過去の機制をこえて「中性的な(零度の)エクリチュール」を実現したといっている。私がこの評論で「中性的」と呼んでいるのは、バルトがいうのとは逆のケースである。ただ、写生文について「現在」とか「現在進行形」といっているのは、フランス語では半過去に対応するといっていいかもしれない。