摘要 : 長期的にみた場合の景観に対するイメージ形成のメカニズムを解明するための試論として,東京の自然の代表である武蔵野を取りあげ,各時代毎のイメージの内容とその変化の過程,イメージ変化と景観変遷との関係,イメージ変化の要因について分析した。その結果、イメージと景観は異なる変化のしかたをしてきたこと,イメージ変化のきっかけとして文学作品などが重要であったことが明らかになった。
1. 目的・対象・方法
これまでの都市開発は人間本位の方向で進んできたが,これからは自然の保全・創造をも考えた都市整備でなければならない。そのためには,過去の開発における自然の保全が,どのような地域のイメージに基づいてなされていたのかを明らかにしておくのも必要なことである。本論文は,そのような問題意識のもとに,最も都市開発の進んだ東京の自然を代表する存在として武蔵野を対象とし、長期的にみた場合の,「何が,どのようにして,ある地域の自然のイメージとして定着し変化するか」という,風景に対するイメージ形成のメカニズムを解明しようとした試論である。具体的には,中世以来の歴史を粗く概観して各時代毎に武蔵野のイメージの実体とその変化の過程を明らかにし、イメージの変化と景観の変遷との関係及びイメージ変化の要因について考察した。
資料としては,景観の分析には郷土史誌,地理学民俗学等の文献,及びそれらに関する先人の研究を用い,イメージの分析には小説・和歌等の文学作品,絵画,写真等を用いた。
なお,武蔵野の開発の歴史については,江戸期から地誌等が発行されており,それを基にした近年の研究も併せて,かなり明らかになっている。また、武蔵野の風景については,田村(1941) 1)が、地形・文学・水景・植生・土地利用等を総合して,昭和16年当時の武蔵野の風景の総合的・科学的な記述を試みている。武蔵野の風景を捉えるときの風景観の歴史的変遷については小寺(1961) 2)の考察がある。近年は,雑木林を単独で取り上げるものがみられる 3)。
2. 江戸期以前
武蔵野では,照葉樹林に焼畑農業が始まり,焼畑跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり,牧(図1)ができて牧草地となるなど次第にひらかれていき,平安期までには主として原野の景観が形成されたといわれている。そのとき,河川や湧水のある地域に村落が成立し,水の便の悪い武蔵野台地上は原野のまま放置された。
文学上に武蔵野が現れるのは,奈良期の『万葉集』が最初であると考えられる。巻第十四「東歌」は東国の風俗や心情を都の人に紹介するために集められたもので,実際に東国の住民が詠った歌と解釈されている。その中の「武蔵の国の歌」9首のうち,3首において「うけらが花」(2首),「武蔵野の草」(1首)が詠まれ,武蔵野は‘野草の野’として表れている。5)都人の撰により『万葉集』に収まったことが,‘野草の野’というイメージを形成する要因になったと考えられる。このイメージは,平安期の『伊勢物語』には,女を武蔵野の草むらに隠すという話 6)にも表れてくる。
更に『古今和歌集』からは、野草の中でも特に紫が取り上げられ、「紫の一もとゆゑにむさしのの草はみながらあはれとぞみる 7)等の,都で武蔵野を想像して詠んだ和歌に詠まれた。このイメージは,鎌倉期の更級日記の作者が「むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、ことにをかしき所も見えず」 8)と言った話にも表れている。実際には草深い原野が,文学上に表れることで‘紫の野'として定着したと考えられる。
鎌倉期には‘茫漠の野’というイメージが強くなった。「行く末は空もひとつのむさしのに草の原よりいづる月かげ」 9)や,「むさしのは月の入るべき峯もなし尾花が末にかかるしらくも」 10)が表す武蔵野である。この頃の紀行文に表れる植生も,蘆・荻 8),萩・薄 11),女郎花 12)といった淋しさを強調するような野草であった。旅人は,行けども行けども果てしない原野で淋しさや心細さを感じ茫漠とした野に月が落ちるのを見たのであろう。そのような街道沿いの風景を見た旅行者が都に帰って話したり紀行文にした内容が,都の人々に「武蔵野全体が野である」というイメージを抱かしめたと考えられる。このとき,都では見られない珍しさや非日常的な美しさが評価されていた。
この時期は,景観の大部分は原野でほとんど変化せず,イメージも大枠は‘野’で、内容的にも時間的にもほぼ一致している。しかしイメージの中心となる要素には変化がみられる。武蔵野が薬草のうけらや染料の紫を採集する場所として文学上に表れたことで野草がイメージの中心となり,鎌倉に幕府がおかれて旅行者が増えたことで草原に月が落ちるほどの‘広さ’が発見され,イメージの中心となったのであろう。‘月の名所’ともなった。当時は交通機関が未発達で武蔵野の実体を見る人が少なかったために,想像で詠まれた和歌や,紀行文という限られた文学が,一般の武蔵野のイメージをつくったと考えられる。
3. 江戸期
行政の中心が江戸に移ったことにより,武蔵野では街道整備や新田開発等が進み,大規模に開発された。新田開発は江戸初期から始められ,1654年には玉川上水が開通して水利の便を得,1722年には産業奨励政策の一環として新田開発令が出されて,武蔵野台地は全面的な開発が進められた。この時期の開発により,田畑,社寺林,屋敷林,街道防風林,雑木林,松・杉林等,今日の武蔵野の景観を構成する要素が造成された 13)。現在武蔵野の自然と言われるものは、この時期に人為により造られたものなのである。これらの開発により,以前の原野は一新され,「昔に引きかへ,十万戸の炊煙紫霞と共に棚引き,耕田林園となり」14) ,「農田」となり 15) ,農村風景に変化した。『武蔵野話』の中の写生と思われる図絵にも、田畑のある農村風景として表れている (図2)。
大消費地江戸が形成され,武蔵野で江戸向けの近郊農業が始まると、江戸住民から武蔵野に興味が向けられるようになった。それまでの京都人による江戸案内書と異なり,江戸人によって武蔵野に関する地誌や案内書が著されるようになった。
しかしこの時期には,江戸においても,京文化が形成したイメージで武蔵野の風景を評価していた。当時は,武蔵野といえばまだ‘茫漠の野’のイメージであり‘月の名所’だったのである。武蔵野といえば「草木生茂りて住む人もなき原野」17) であり、「武蔵野は数百里の平原にして月光万里玉川に及び富士の嶺を照し無双の勝景」18) であった。そして,当時の江戸案内書に「月夜狭山に登りて四隣を顧望するときは、往古の状を想像するに足れり。」14),「(富士見坂よりの)眺望,田野平々として際涯なく,園林草樹天に接し,自らにして懐古の感あり、今武蔵野の月を見るはこのあたりにや。」15) とあるように,大部分が失われてしまっていた‘茫漠の野’を探しだして,それを武蔵野の風景として観賞していたといえよう。
江戸期は,原野から農村風景への景観の大きな転換点である一方,イメージは中世の‘茫漠の野’のイメージから抜けられない時期であった。その理由として,①江戸が行政の中心になったにもかかわらず,和歌に代表され伝統文化の中心は依然として京都であったため,中世の文芸上で定着していたイメージは変化しなかったこと,②定着していたイメージどおりの風景が農村風景によって破壊され失われると,それを惜しむ気持ちから希少価値が高まったこと,の二点があげられよう。
4. 明治期
明治期になると鉄道が次々に開通して 19) 武蔵野は時間的に近くなり,東京市内への通勤圏になったため,沿線の住宅地化が始まった。しかし,武蔵野の景観を構成する要素の種類は江戸期とほぼ変わらない。
一方,明治維新に伴う自然科学や自然主義文学の流入等を背景として,風景観は大きく変化した。それまでのように珍しい風景を評価するだけでなく,あるがままの一見平凡な自然にも美を見いだすようになった。
風景観の変化と共に,武蔵野のイメージは大きく変化した。國木田,徳富,田山らの作家が自然主義文学の影響を受けて小説や随筆を著し、新しい武蔵野のイメージを大衆に広める役割を果たした。そのうち、現在武蔵野を語るうえで最もよく引用されているのは,國木田独歩の短編小説『武蔵野』20)であろう。彼は明治29年から30年の半年間渋谷村に住み,31年に短編小説『武蔵野』を発表した。彼は,平凡で身近な風景に自然の神秘を感じ,それまで評価が低かった関東平野の農村風景を,「美といわんよりむしろ詩趣といいたい」20)と評価した。彼は「今の武蔵野は林である」20)と明言してそれまでの武蔵野のイメージを否定した上で,「林は実に今の武蔵野の特色といってもよい」20)と武蔵野の中で雑木林を位置づけて落葉林の詩的な美しさについて具体的に描写した。また後半は,散歩によって得られる,一面の平原のようで窪地があり,谷には水田があり,高台は林と畑でさまざまの区画をなし,その間に農家が散在する,すなわち「野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて,たちまち林に入るかと思へば、たちまち野に出る」20)という総合的な風景,更に人文的な風景の美しさについても記述している。このように,独歩の作品からは,雑木林の美しさだけでなく,多様な要素を含んだ風景を評価していることが読み取れる。
彼は、自分の小説により大衆に自分のイメージを広めただけでなく,「有名な話上手を以って」21)作家仲間の間にもそのイメージを広めたという。景観に対する独歩の新しい評価・発見は,幾人かの彼の作家仲間が媒介者となって彼らの愛読者に伝え,それから世間にそのイメージが広まったと考えられる。明治期におけるイメージの転換期において,彼は文学界における景観の第一次の媒介者であったといえよう。
また絵画や写真は、その時代の美意識を最も端的に表すものと考えられるが,これらにも明治後期から大正初期にかけて大きな変化がみられる。日本画においてはまだ伝統的な野のイメージを固持していたのが,西洋画が基盤を得てようやく農村風景としての武蔵野が表れた。具体的には,横山大観が明治28年に『武蔵野』(図3)を野のイメージで描いているのに対して,大正4年には岸田劉生が『早春』(図4)等の風景画で代々木周辺ののどかな農村風景を絵にしている。「早春」は平凡で日常的な美しい風景であり,独歩の小説『武蔵野』に共通する世界であった。一方,当時建設され始めていた私鉄沿線の新興住宅地は絵画の対象とはならず,記録写真21)に見つけられるのみである。
このように、武蔵野のイメージは,実際の景観の転換点に遅れること約200年にして,ようやく‘野’から‘武蔵野独特の農村風景’への変化点を迎えたのである。この変化の理由として,次の三点があげられる。一つには,明治になると鉄道が次々と開通して武蔵野がずいぶん近くなり、多くの人々がその実態を実際に認識するようになったことである。特に明治18年に渋谷駅ができ,明治22年には新宿―立川―八王子間が開通した。二つには明治維新を経て,海外の文化が広く流入したことである。それは,自然科学・自然主義文学といった,対象そのものの現実の姿を見つめるような文化であった。したがって,それまで‘茫漠の野’という非日常的な風景としてイメージされていた武蔵野は、急激にその現実の姿を大衆の前にさらすこととなった。三つには,このころの武蔵野の風景は,時間の作用によって,人為によって作られた植生であるということを忘れさせるほど自然に融け込み,風景として定着していたこともあげられよう。
5. 大正期から昭和期戦前まで
私鉄による沿線開発も盛んにおこなわれ 25),特に関東大震災後は都市によるスプロールが進み,東京西郊の開発は急激に進んだ。東京市に近い停留所周辺では農地が宅地に変わり、東京市から少し離れたところでは雑木林が農地に変えられ 26),徐々に都市近郊らしい景観になっていった。
國木田のつくった武蔵野のイメージは,他の作家や読者によって媒介されるうち,内容に誤差が生じた。雑木林の美しさは,その目新しさのため,保護,研究,文芸の対象として特別な注目を集めるようになり,以後の武蔵野の風景のイメージを形成する上で重要な位置を占めるようになった。
武蔵野の保護に関しては,大正6年に井の頭恩賜公園が初の郊外自然公園として誕生し,12年に多摩霊園が雑木林の風趣を活かして開園した。風致地区としては,昭和5年に善福寺・石神井・洗足が武蔵野特有の湧水地景観を保護するため,昭和8年には多摩川や大泉などの住宅候補地が良好な住宅地造成を目的として指定された。更に昭和18年以降は東京緑地計画に基づき,砧,神代,小金井の大緑地が買収された。雑木林は風致林として保存の対象となった。
また,大正7年創刊の雑誌『武蔵野』27) や柳田国男の『武蔵野の昔』21) にみられるように,武蔵野が研究対象として取り上げられるようになった。文芸上でも,徳富盧花が「みみずのたはこと』で失われつつある農村風景を紹介して「武蔵野の特色なる雑木山を無惨々々拓かるゝのは、僕にとっては肉を削がるゝ思だ」28) とまで表現したほか、昭和初期には北原白秋が「雑木こそうれしけれ」29) と詠うなど,雑木林の美しさが定着していたといえる。明治期の大きなイメージの変化点において,雑木林のイメージが、それまでの経済林から風致林に変化したことがあまりに大きな転換であったため,‘雑木林’は武蔵野のイメージの中心となった。それが公園や風致地区として保護されたことで更に強まり、現在の,武蔵野といえば‘雑木林’を思い浮かべるほどのイメージの基礎となったのである。
6. 昭和期戦後
戦後復興では①畑地,②山林・原野,③水田の順に宅地化が一層進んだ。戦前に東京緑地計画に基づき買収された大緑地も,戦後の農地開放により縮小された。そのような動きに対して身近な自然を見直す運動も起こり,昭和36・37年 風致地区として新たに玉川上水,五日市道等の街道屋敷林,その他の丘陵地が,武蔵野の郷土風景の保護を目的として指定された。しかし,拡大する東京の勢いは防ぎようもなく,公園や風致地区を取り残して、市街地化は武蔵野を蚕食していった。
イメージどおりの武蔵野を見られる場所が少なくなるに従って,それを個人の庭園において再現しようという動きがみられるようになる。雑木林の庭である。実際は多様な要素で構成されている武蔵野から特に‘雑木林’を抽出したのは,それが武蔵野のイメージの最も特徴的な要素だったからであろう。庭園造成の中では戦後早くから雑木の活用は進んだようだが,昭和23年上原は「イヌシデ・コナラ・エゴノキ・ゴンズイ・ヤマハンノキ・スイカヅラ等」30) を庭園樹として推奨した。近年では建築家の芦原が「リョウブ・ゴンズイ・シャラノキ・ヤマザクラ・ウリカエデ・オトコヨウゾメ」31) を,作家の山口が「ナラ・クヌギ」を主体に「ヨウドメ・ナナカマド・ナツハゼ・ガマズミ・エゴ・ヤマボウシ・ムラサキシキブ・ウメモドキ」32) を庭に植栽していると述べている。
これらを見ると,雑木林の構成樹種が多様になってきたことがうかがえる。その原因として,実際に武蔵野特有の雑木林を見る機会が少なくなるにつれて,一般の二次林を参考にして樹種を選択するようになったためではないかと思われる。‘武蔵野の雑木林’のイメージの内容は,武蔵野としての固有性を失い,極く一般的な二次林と変わらないものに変化したといえよう。
このように現在の武蔵野は、東京の都市圏に組み込まれて農村風景が消え,雑木林も失われてきたが,‘雑木林’はイメージの中心となりかえって強調されている。しかしその内容は,武蔵野特有の雑木林ではなく、一般の二次林に微妙に変化しているのである。
7. まとめと考察
(ⅰ)景観とイメージの内容
武蔵野のイメージは,奈良及び平安期に‘野草の草’として定着したのち,鎌倉期には広さと月が加わって‘茫漠の野’及び‘月の名所’となった。明治後期に田畑中心の‘農村風景’に一変したが,その後徐々に‘雑木林’に特化し,現在のイメージは,武蔵野としての固有性を失った一般的な二次林と同質の内容を持つ‘雑木林’が中心となっている。
一方,中世の景観は原野が主だったが、江戸期の大規模な新田開発により農村風景を主とする景観に一変した。その後は近郊農業の発達,郊外電車の開通、震災,戦争を契機にした都市化の波により市街化が進み、現在は狭山丘陵周辺に農村風景の名残をとどめるほか,雑木林,遊水地,並木については,公園や風致地区,社寺境内に保護されたものが残るのみである。
(ⅱ)景観とイメージの関係
以上を考え合わせると,武蔵野のイメージは景観と異なる変遷をしてきたことがわかる。本研究では,武蔵野における景観とイメージの関係及びその関係性の理由として,以下の三種を見いだすことができた。
①江戸期以前
景観の大部分を占める‘野’がイメージの大枠となったが,その中心となる要素は‘野草’から‘広さ’へと変化した。
これは,交通機関の発達前においては,一般に大衆が景観の実態を実際に認識することはないのである一部分を表した文学的表現が全体を代表するイメージとして定着してしまうためと考えられる。
②江戸期から明治期前半
景観は田畑中心の農村風景となったが,イメージは中世の‘野’のままであり、内容的,時間的なずれが認められる。
これは,一度定着したイメージは簡単には変化しないため、またある要素が喪失の危機にさらされると希少価値が生じて高く評価されるためと考えられる。
③大正期から昭和期
景観の一部分である‘雑木林’が誇張されて全体のイメージを代表している。
これは,風景に対するあるイメージが一般のイメージとして定着するまでに,景観とイメージの内容差が生じるためと考えられる。
(ⅲ)イメージ変化の要因
武蔵野のイメージ変化の要因として次のものがあがった。‘野草の野’のイメージが形成された要因は,当時の文化の中心であった『万葉集』,『古今和歌集』といった和歌集であり,‘茫漠の野’に変化した要因は『新・続古今和歌集』等の和歌集,及び鎌倉幕府の成立を背景として現れた紀行文であった。そのイメージは江戸期に地誌や名所案内記で紹介されてさらに強まった。‘農村風景’に変化したときは,自然主義文学の流入を背景として著された國木田の『武蔵野』が要因となった。その後‘雑木林’に特化したことに関しては,風致地区や公園制度による保護対策の影響が大きいと考えられる。
このように武蔵野では,先端的文学作品が,景観に対するイメージ変化の要因となっていたといえる。また,それらの作品は唐突に現れたものではなく,その背景に遷都,異文化の流入,都市化等による社会状況の変化があった。さらに,そのようにして生まれた新しいイメージを定着させた要因として,案内書,多数の類似文学作品,行政施策があったのである。
引用・参考文献および註
1) 田村剛(1941):武蔵野の風景:武蔵野:科学主義工業社
2) 小寺駿吉(1961):武蔵野風景観の生長発展:武蔵野・40巻(3・4号)
3) 過去10年の,雑木林(平地林)の今日的意義について考察している学術論文には次のものがある。足田輝一 (1977):武蔵野の雑木林Ⅰ・Ⅱ:国立公園336・337,p.1
進士五十八(1979):郷土景観と平地林についての一考察:国立公園351,352,p.1
日下部甲太郎(1983):武蔵野の雑木林国立公園415,p.3
4) 斎藤鶴磯 (初編1815,二編1827):武蔵野話:日本名所風俗図会3.江戸の巻Ⅰ,p.381
5) 万葉集,巻第十四:「武蔵の国の歌九首」のうち3首。
3376:恋しけば袖も振らむを
武蔵野のうけらが花の色にづなゆめ
3377:武蔵野の草は諸向きかもかくも
君がまにまに我は寄りにしを
3379:我が背子をあどかもいはむ
武蔵野のうけらが花の時なきものを
6) 伊勢物語(10世紀前半:作者未詳):十二段「武蔵・つまもこもれり我もこもれり」
7) 古今和歌集(910年頃):巻第十七:867,選者は紀貫之。
8) 更級日記(1058年頃):五段「竹芝の伝説・今は武蔵の国になりぬ」,作者は上総国出身の菅原孝標のむすめ。
9) 新古今和歌集(1205):巻第四:摂政太政大臣
10) 続古今和歌集(1265):巻第四:大納言通方
11) 柴屋軒宗長(1509):東路のっと続帝国文庫第24編。続紀行文集,p.154:博文館
12) 北条氏康(1546):武蔵野紀行:続帝国文庫第24編. 続紀行文集,p.194:博文館
13) 宮本常一(1981):武蔵野の開発と景観の変遷:宮本常一著作集26,p.228:未来社
14) 斎藤長秋(1834):江戸名所図会:日本名所風俗図会4.江戸の巻Ⅱ,p.270「武蔵野」
15) 斎藤月岑(1838):東都歳事記:日本名所風俗図会3.江戸の巻Ⅰ,p.168「月」
16) 斎藤鶴磯(初編1815,二編1827):武蔵野話:日本名所風俗図会3.江戸の巻Ⅰ,p.377
17) 古川古松軒(1794):四神地名録近世社会経済叢書第九卷
18) 仲田惟善撰(1825):東都近郊図
19) 明治期になると,上野—熊谷(16年),品川—赤羽(18年,渋谷駅設置),新宿—八王子(22年)に鉄道が開通し,飯田橋—中野(37年),渋谷—玉川(40年),大塚—飛鳥山(44年)に電車が開通した。
20) 國木田独歩(1898):武蔵野:岩波文庫
21) 柳田国男(1918):武蔵野の昔:日本現代文学全集. 柳田国男:創元社:この中で「近年のいはゆる武蔵野趣味は、自分の知る限りに於ては故人國木田独歩君を以て元祖と為すべきものである。」と、國木田の重要性を指摘している。
22) 横山大観(1895):武蔵野:現代日本美術全集2. 横山大観,図版6:集英社
23) 岸田劉生(1916):早春:岸田劉生画集,図版98:岩波書店
24) 松島栄一・影山光洋・喜田川周之/編集(1971):東京・昔と今—思い出の写真集—,写真326「駒沢」:東京ベストセラーズ
25) 当時私鉄の郊外電車としては,京成線,京王線,玉川線,武蔵野鉄道(今の西武池袋線)西武鉄道等があり,沿線の開発を行っていた。
26) 小田内通敏(1918):帝都と近郊,p.102「土地と其利用」:大倉研究所
27) 武蔵野(1918創刊):原書房
28) 徳富蘆花(1913):みみずのたはこと:明治文学全集第42.徳富蘆花集,p.199:筑摩書房
29) 北原白秋(1929):雑木白秋詩抄,p.37:岩波文庫
30) 上原敬二(1948):雑木林の庭造林と造園,p.39:東洋堂
31) 芦原義信(1984):雑木林のすすめ:屋根裏のミニ書斎,p.43:丸善株式会社
32) 山口瞳(1987):雑木林の庭:英雄の死,p.216:新潮文庫
Summary: Development of cities needs the conservation and creation of nature, and Musashino represents the nature of Tokyo. The aims of this study are to make clear,
(1)the substance of 'the image of Musashino' of each age, and how the image haschanged,
(2)the relation of the image and the real landscape,
(3)the decisive factor when an image changes.
The results are as follows:
(1) The image has changed from a field of wild grasses' to' a vast stretch of land', and
next to an agricultural landscape', and today's image is 'coppice'.
(2) There is a difference in the appearance of the change between the image and the real landscape.
(3) There is a literary work as a decisive factor when an image changes.
図録
図1「牧馬之図」4) (出典『武蔵野話』)
図2「箱根ヶ崎村」16) (出典『武蔵野話』)
図3「武蔵野」22) (出典『横山大観』)
図4「早春」23) (出典『岸田劉生』)