LITERATURE

国木田独歩
散策は遊民とともに

赤坂憲雄

 

2008|Archived in January 11th, 2025

Image: Kanokogi Takeshiro, “Okura Village in Minami-Tama District, Musashi Province”, 1893.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

底本の行頭の字下げは上げた。
掲載の許諾をいただいた赤坂憲雄氏、鹿子木孟郎「南多摩郡大倉村」(1895年)のデータを提供いただいた府中市美術館に厚く感謝申し上げる。

BIBLIOGRAPHY

著者:赤坂憲雄(1953-)
題名:国木田独歩 散策は遊民とともに
初出:2008年(『日本経済新聞』)
出典:『旅学的な文体』(五柳書院。2010年。43-45ページ)

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国木田独歩の「武蔵野」を、一篇の紀行として読んでみたい誘惑に駆られる。そこには、明治三十(一八九七)年頃の東京郊外の風景が、それゆえに武蔵野の面影が生き生きと描かれている。
 
秋から冬、春にかけて、独歩は七か月ほど渋谷村に暮らした。いまの渋谷区宇多川町のあたりだが、そこはいまだ郊外であり、かたわらには武蔵野がはるかに広がっていた。林や野をくりかえし散策し、思索と瞑想に耽りながら、その一端を日記に書き綴った。「武蔵野」はそれを元にして書かれた随筆であるが、そこには近代のあたらしい旅と、あたらしい紀行のかたちが鮮やかに提示されている。
 
このとき、散策という名の旅が生まれた。日記には、朝まだき野を歩み林をおと なう、林の奥に座して黙想す、夕暮れに独り風吹く野に立つ、月を踏んで散歩す、足にまかせて近郊をめぐる、などと見える。それは「武蔵野を大観する」ための方法だった。旅人の観察ではない。林の奥に座し、野に立ち尽くす。ひたすら耳を傾ける。瞑想をうちに宿した散策は、いかにも近代に固有の旅のスタイルではなかったか。
 
だから、五感を研ぎ澄まして紡がれた自然描写がいい。空と野を取り巻く景色は、たえず変化している。日の光、雲の色、風の音。 時雨 しぐれ が囁き、こがらし が叫ぶ。黄葉の林では、澄みわたる空が梢の隙間から覗かれて、陽光は風に動く葉末ごとに砕ける。雲の影、緑の光。橋のしたでは優しい、人懐かしい水音がする。どのページをひもといても、そこにはきっと、光と影、かそけき音が奏でる交響楽がある。
 
ツルゲーネフの「あいびき」(二葉亭四迷の翻訳)の仲立ちによって、独歩は武蔵野の「落葉林の美」を発見している。このナラなどの落葉樹の林こそが、いまの武蔵野の特色である、という。秋には黄葉し、冬はことごとく落葉するが、春には滴るばかりの新緑が萌えいずる。そんな変化に富んだ「落葉林の美」が、独歩によってはじめて発見されたのである。
 
風土としての武蔵野が細密画のように描き取られている。高台の所どころ、浅い谷の底は水田である。畑はすなわち野だ。野と林とが高台に入り乱れ、農家が散在する。そうした生活と自然とが密接にからみ合う姿こそが、武蔵野の風土そのものである。だから、武蔵野を散策する者は、路に迷うことを苦にしてはならない、という。武蔵野の美は、ただ数千の路を当てもなく歩くことによって獲得されるからだ。
 
夏のことである。友と二人で、小金井の堤を散策していた。茶屋の婆さんが、「今時分、何にしに来ただア」と尋ねる。独歩は笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えた。婆さんは馬鹿にしたような笑い方で、「桜は春花咲くこと知らねえだね」と追撃してくる。そこは桜の名所であった。だからこそ、春ではなく、夏の盛りに堤を散歩する愚かさが活きてくる。
 
「東京の人は呑気だ」と言い捨てにした婆さんは、散策という名のあたらしい旅が、都会に出現した遊民階級のものであることを、痛いほど見抜いていたのかもしれない。
 
「武蔵野」は終節において、明治三十年代の郊外論へと架橋されてゆく。郊外とは、生活と自然が微妙に配合された場所だ。そこには社会の縮図があり、小さな、哀れの深い、抱腹するような物語が隠れており、都会と田舎とが落ち合って、ゆるやかに渦を巻いている、という。
 
独歩はみごとな、あたらしい明治の旅師であった。