府中市美術館所蔵不同舎資料は、主に水彩、鉛筆素描による明治中期武蔵野の風景画から成っている。絹本でも和紙でもカンヴァスでもなく、安価で粗末な洋紙に描かれた水彩画と鉛筆画だ。もちろん、それは塾生にとって洋画訓練、技能向上の為の風景写生であり、習作に過ぎないともいえよう。だが現代の私たちにとって、それは見て心地よい鑑賞の対象であり、描かれた明治の風景、人物、静物を見て、構図、形象、陰影、色彩に見とれ、また往時に思いを馳せる。いずれにせよそれは第一に美術作品であり、鑑賞の対象である。しかし同時にまだ写真が一般的ではなかった明治中期に、それらの素描は、記録的意義、美術教育史的意義などを多くの歴史的価値を持つ文字通りの「資料」でもある。
この不同舎資料の多くは、鉛筆による風景素描で占められている。画塾不同舎を主宰していた近代洋画の先駆者小山正太郎の方針で、門人たちはしばしば東京近郊の森や多摩川などの自然、民家、街道等を写生に出かけた。その結果、明治中期の東京近郊風景が多くスケッチとして現代に残されることになった。写生の多くは、横長の画用紙に一点透視で道路を配し、両側の民家や樹木が遠近法に沿って大きさを変えて描かれて、多くの場合中景と遠景に点景人物が配されるなど、一定のスタイルを持っている。「道路山水」とは、明治美術会に出品された油彩風景画やこうした風景素描に対して当時言われた呼称或いは蔑称だったようだ。当時の人々にとって、自然は風景ではなく、山水だった。さらに絵の中心になっているのが、聖人や故事ではなく何の変哲もない道路だった。だから明治の人々にとって、不同舎風景素猫はいかにも奇妙な「書画」であった。逆に現在の私たちにとっては、それは当たり前の風景画であり、「美術」である。むしろこの「道路山水」という言い方の方が奇妙だろう。そこには微妙だが大きな認識上の断絶がある。この呼称は、近代日本における芸術と外界の認識の転倒をあらためて想起し意識し理解するために歴史的に重要だと思う。それは、明治の日本人が西欧の影響を受けて近代化する過程で大きな精神的変容を受けたこと、そして変容の結果現在私たちが暗黙の前提にしている美術=芸術概念の枠組みが決して自明かつ当然なものではないことを再認識させてくれる。
本論は、明治中期、東京近郊武蔵野の地を舞台に描かれたこの不同舎風景素描を対象にして、「道路山水」の明治時代における意味を巡って、考察を試みようとするものである。まず、「道路山水」しかも武蔵野の道路山水について文献等から確認する。そして、本館所蔵不同舎資料の概要と「武蔵野の道路山水」と言えるものを拾い出して整理する。次に、不同舎と漢学の関係、そして道路山水の性格とその終わりについて考える。その上で「風景」概念の成立についてもう一度遡行的に考えてみたい。
一 道路山水とは何か
(一)不同舎とは
画塾不同舎は、明治二〇年小山正太郎が本郷団子坂上に転居し、それまで引き継いできた洋画研究所十一会を改称して家塾としたものである。校舎は小山の居宅で、今の文京区立森鴎外記念館の隣辺りにあった。明治33年、小山正太郎はそれまで勤務していた高等師範学校と毛筆画教育をめぐって対立して辞職し、以後明治三〇年頃まで一〇年間は不同舎の運営と教育に多くの時間と力を注いだ。不同舎の美術教育は、石版画の模写、石膏像素描、人物、風景の素描を段階的に学ぶもので、最初は鉛筆、コンテ、木炭を用いて、後に水彩、油彩画へと進むことが許された。加えて小山による様々な講義もあり、投影画法や透視画法等が教えられた(注1)。また「題畫」と称して、小山が出したテーマに沿って塾生が自由に挿絵を考案することもあった(注2)。さらに、中江兆民が訳したフランスのジャーナリストE・ヴェロンの著書「維氏美学」を輪読するゼミなどもあったらしい。不同舎の理想は高かった。小山は、単に美術専門家養成のために不同舎を運営していたのではなかった。彼は、洋画教育を基礎にして若者に必要な教養を身につけさせ、国家有用の人物を育て上げようとしていた。一時に七〇〜八〇(一説に一五〇人(注3))の門人が通っていた時期もあるといい、『小山正太郎先生』所収の「明治十一年以降師弟ノ禮ヲ執リタル姓名(入學順)」を数えると延べ三二一人もいる。中には石川寅治、鹿子木孟郎、長尾杢太郎、安西直蔵、山下繁雄など、不同舎に寝泊まりして塾の雑務を行う寄宿生もいた。名著『日本近代美術発達史明治編』を書いた浦崎永錫は、小山が幾多の洋画家を育成したことは「小山正太郎不滅の大功績の一つ」であると称え、門弟の人数を「実に四百有余名に及んでいる」としている(注4)。
(二)不同舎集団写生旅行
不同舎では風景写生を重視していた。小山正太郎は、普段から塾生が各自自主的に一日で帰れる地域を写生することを奨励していた。また、春秋の年二回は小山正太郎自ら引率して二〇〜三〇人の塾生を従えて数日〜一週間程度の写生旅行に出かけ、各地を宿泊しながら風景素描を続けた。例えば、当館所蔵素描で吉田ふじをの《別所》《野村》などは恐らく長野が写生地であり、「武蔵野の道路山水」とは言えない素描も数点ある。そうした遠隔地のデッサンは、特別な集団旅行の際の産物だろうと思われる。また、長期旅行でなくとも、飯能、入間付近、多摩川べりなどのスケッチにも、小山正太郎がふじをなど塾生と連れだって宿泊旅行したのではないかと思われるものがある。吉田ふじをの不同舎時代デッサンについては、各年ごとに検討したことがあるのでそちらを参照いただきたい(注5)。
この集団旅行は、どの塾生も口を揃えて非常に楽しみにしていたと回想している(注6)。また、塾生同士が連れだって自主的にしばしば無銭で野宿しながら写生旅行を行うこともあったようだ。これら写生旅行を通して、多くの「道路山水」が生まれた。
(三)「道路山水」の用例
繰り返しになるが、「道路山水」とは横長の画用紙に一点透視で道路を配し、両側の民家や樹木が遠近法に沿って大きさを変えて描かれ、一定のスタイルを持った風景画である。水平線は画面の真ん中か、屡々低いところに置かれている。多くの場合、点景人物が中景と遠景の道路上に数人配置されるのがポイントで、恐らくはこれが明治初期に流行したと言われる文人画、山水画を連想させたのだろう。
しかし、「道路山水」とは確かに奇妙な名称である。筆者は、「道路山水」という言葉が当時の美術雑誌に見つからないかと思い、明治美術会展及び太平洋画会展に関する記事(即ち社会の反応、受け止め)を明治二〇~三〇年代を中心に注意して『美術評論』『美術新報』等の雑誌を調べてざっと読んでみたが、残念ながら発見することができなかった。しかし、この呼び方を第二次大戦以前に実際に使用している用例としては以下のような文献がある(丸括弧内引用者)。
「......中村不折君が田端あたりの初夏の風景を描いて来ると、その中景に馬に乗った花嫁の去り行く姿が(小山先生によって)描き入れられると云った風であつた。風景が只の風景では面白くなく、必ず點景人物とか何か人生の、生活のある現象が織り込まれたものである。(中略)其の頃の不同舎つまり小山先生の對社會的の活動、乃ち展覧會に出陳する時の態度は、中々大がかりのもので、塾生總動員なのである。油繪のやれる者は勿論まだ夫迄に出来ない者も、木炭画なりなんなりも可なりの大幅に筆を取る。そして大略出来上がった處で、先生の漢詩的畫趣から一々畫に命題を與へられて、各々菊の葉のしるしを附して大量出陳をしたものである。(中略)所謂不同舎風道路山水が此時代の我等の仲間に對する世間の見方であつたらしい。人物畫としても何等の計畫とか形式が基調となつて、自然其物にぶつかって出来あがった種類のものではなかった。」(満谷国四郎、昭和九年 注7)
「第一回(明治美術会)展覧会の出品を此図録に就て見ると、本多錦吉郎の「梅花村」「麗日」小山正太郎の「山村嫁女」浅井忠の「馬蹄香」「春畝」「山驛」柳源吉の「満野菜花」原田直次郎の「収穫」等田園に取材したものが相当にあり......(中略)新たに透視法に醒めさせられた彼等は、道路、並木の屋並等の緒線が地平線上の消失点の方へ消失する現象に悦びを感じて、しきりにさう云ふものを画いた。人は後にこれを道路山水などと呼んで居る。小山の「山村嫁女」も其の一つの例であるが、小山は其の趣味から単なる写生に満足せず、自身のものばかりでなしに其の門下の作品にも屡々歴史的点景、人物を加へて居る。(中略)第二回の明治美術会に小山の出した「濁醪療渇黄葉村店」と云ふのは、所謂道路山水的構図に、狩猟姿の馬上の武士が路傍の店先で濁酒を購ふて居る処が書き込まれて居たし、翌二十三年の第三回内国博覧会に出た二神の作「慈悲者の殺生」と題するのも、寺院内部の写生に幾人かの山法師の武具を着る処が点じられて居る。」(石井柏亭、昭和一七年 注8)
いずれも、小山と不同舎に親しかった満谷国四郎と石井柏亭が、自分自身と仲間たちが若い時代に描いていた風景画を「世間」や「人」からそう言われていたと自嘲を込めて回想している文章である。のみならず「何等かの計畫とか形式」とか「趣味」など小山に対する批判的な気持ちさえ読み取れる。小山が塾生たちの風景に必ず点景人物を加えようとしていたこと、出品作に漢詩的画趣による命題を与えていたこと、そして展覧会への出品を不同舎チームの一種の社会的活動として認識していたことなどが分かって、実に興味深い。道路山水は画塾不同舎の言わばチームカラーでもあった。
(四)文献資料から見た「武蔵野の道路山水」
満谷国四郎や石井柏亭の回想によると、「道路山水」は小山正太郎と明治美術会初期の絵画、そして彼が主宰する不同舎塾生の画風に対する「世間の見方」であった。だから、明治美術会の出品目録そして太平洋画会初期の目録を見てその典型的作例を探すのが適当だろう。柏亭の記述からして、時期としてはおよそ明治二〇年代から三〇年代にかけての洋画である。また、写生地として武蔵野を描いたものかどうかは一般的には画題で判断するより他にない。
明治美術会の出品目録を見ていると、画題や図柄から「武蔵野の道路山水」と言えそうな絵画がいくつか出品されている。例えば、第一回展(明治二三年・一八九〇年)では、図柄から、高嶋信《山水》、脇谷本吉《神田明神》、佐久間文吾《豊年》、小山正太郎《山村嫁女》(挿図4)などは典型的な道路山水と言える。第二回秋季展(明治二三年・一八九〇年)では、画題から、本多錦吉郎《玉川源流氷川村真景》が目を引き、また有名な小山の《濁醪療渇黄葉村店》が出品されている。飛んで第七回展(明治二八年・一八九五年)では、画題から、再び本多錦吉郎《玉川上流小丹波の景》、《柚木村の景》、三宅克己《青梅付近山嶽眺望》、渡辺審也《氷川村より御嶽山眺望》などが目に留まる。最後の二点は「眺望」なので道路山水とは言えないが、明確に多摩地域の風景を描いた絵画である。この年は図柄から見るとバルビゾン派風の風景画が多く出品されていて、典型的な道路山水は見当たらないが、和田英作《海辺早春》や岡田三郎助《田舎の坂道》は、それに近い絵画だろう。第八回展(明治三〇年・一八九七年)は、さらに沢山の風景画が出品されている。画題から、都鳥英喜《赤羽村》、大下藤次郎が巣鴨、三河島、西多摩郡白丸、日暮里、金杉村、武蔵向畑など水彩画風景を出品し、渡辺文三郎も王子瀧野川、理科大学、根津神社、池之端の風景を描いている。図版を見ると、高嶋信《天泣地哭》、庄野宗之助《大和田村景》などが道路山水と言えようか。創立一〇周年第九回展(明治三一年・一八九八年)では、大下藤次郎の水彩画に《武蔵赤工村ノ景》、《巣鴨村ノ雪景》、《武蔵府中町の景》、《秩父三峯神社》《武蔵原市場の秋色》、《根岸の雪景》、《武蔵布田町》などがある。萩生田文太郎の油彩画《五日市ノ景》、西山千克《北多摩の秋色》、山田全次《雑司ヶ谷》、《渋谷川》、《渋谷橋》などがある。図版で見ると、中川八郎《雪林帰牧》、河合新蔵《村落首夏》、都鳥英喜《村落》などは典型的な道路山水と言えるだろう。(注9)
明治美術会出品作には風景画が多い。しかし、青木茂氏が既に指摘しているように、出品目録を見ていると「山水」「景色」という題名がほとんどで、「風景」というタイトルが付くようになるのは明治二八年の第七回展頃からであり、しかも七点に過ぎない。もちろん「山水」にしても意味はほぼ今日の風景と同じで、写生地は分からないにしてもほぼ実景の写生だろう。題名も「春色」「秋色」「暮色」「夕陽」「小川」「往来」「山家」「…の景」「…の雨」「…の野」といった自然の気象、季節、田園、生活を表したものである。これらも、遠近法を意識した構図に点景人物が添えられた広義の「道路山水」だったと考えてもあながち間違いではあるまい。なお、青木茂氏は第7回明治美術会展の開催された明治二八(一八九五)年をもって「「風景画」の成立した年である。」と書いている(注10)。
もちろん初期の太平洋画会展の出品作にも道路山水は多い。図版を見ただけでも明治三五(一九〇二)年第一回展の萩生田文太郎《驛道》、吉田博《朝風》、明治三六(一九〇三)年第二回展の石井満吉(柏亭)《北上川》、翌第3回展の萩生田文太郎《河辺の夕照》などが典型として挙げられる(注11)。
なお、文献上の題名や図版だけでなく現在実作品の所在が確認できる代表的な「道路山水」としては、小山正太郎の第二回明治美術会出品作《濁醪療渇黄葉村店》(明治二三年 ポーラ美術館蔵)、浅井忠《八王子付近の街》(明治二〇年 愛知県美術館蔵)、そして当館蔵本多錦吉郎《景色》(明治三年)を挙げればいいだろうか。いずれも道路を画面中央に配し、その両脇に人家ないしは並木を置いて遠近を強調し、中景から遠景にかけて人馬を置いてアクセントにし、また遠近感を補完している。しかし比較して見ると、視点の高さなど微妙な構図、道路の曲がり具合、人物の大きさと配置、構成、詩情、歴史性、物語性の強さなど、様々な違いも見えてくる。小山の歴史主義、本多のロマンティシズム、そして浅井のリアリズムが認識できる。また、小山の取材した風景がどこかは分からないものの、浅井と本多が描いた道路山水はまさに武蔵野の道路山水であることに注目したい。
二 当館所蔵不同舎資料の概要
次に、不同舎資料の先行研究及び当館所蔵資料の概要について紹介したい。
(一)先行研究
不同舎及びその風景素描については、一九八〇年代後半から、各美術館そして明治美術学会を中心に一部ではあるが注目されてきた(注12)。美術館では、小山正太郎、鹿子木孟郎、長尾杢太郎、吉澤儀造、吉田ふじを等の回顧展や明治美術会、太平洋画会等を取り上げた企画展に際して、不同舎時代の風景素猫についても関心が持たれてきた。特に青木茂、金子一夫両氏による「小山正太郎および不同舎の資料的研究」、さらに教育史を含めた金子一夫氏の長年に渡る小山正太郎資料研究と再評価が大きな刺激となり、不同舎の風景素描に一定の注意が持たれるようになってきた。
当館コレクションに関しては、二〇一四年九月から十一月にかけて茅ヶ崎美術館で企画展「明治を歩く-湘南と武蔵野 府中市美術館コレクションを中心に」が開催された。不同舎コレクションを中心にして茅ヶ崎市美術館所蔵作品と併せて、明治時代の江戸東京、武蔵野風景、湘南風景を紹介したものである。本論で取り上げる作品の大方はこの図録に掲載されているので、参照していただきたい。また、同図録所収論文に「明治の武蔵野を歩いた不同舎の画家たち 鹿子木孟郎の鉛筆写景を中心に」(志賀秀孝(注13))と「鉛筆と風景」(小川稔)がある。志賀氏は不同舎の紹介と鹿子木作品の分析を中心に素描と水彩の関係を論じ、また小川氏は西欧近代の歴史と精神を視野に入れ、ドラフツマンシップ、道路山水、武蔵野、鉛筆と風景の各トピックについて広く深い視点から論じている。
府中市美術館には、画塾不同舎の門下生が描いた鉛筆素描と淡彩画の大きなコレクションが二つある。平成一〇年に一括して購入した「鹿子木孟郎旧蔵不同舎資料」と「吉田博旧蔵不同舎資料」である。それに加えて、当館がこれまで一点一点購入した寄贈を受けてきた絵画の中で、不同舎門人等が描いた明治の風景画がある。もちろん全て府中市美術館所蔵作品だが、区別するために以下便宜的に鹿子木資料、吉田資料、美術館資料と略称する。
(二)鹿子木資料
鹿子木資料は、京都のご遺族の下に伝わったもので、鉛筆素描は一三五点ある(表裏両面に素描あるものは一点と数えている)。全て鹿子木孟郎が描いた素描と水彩である。一九九八(平成一〇年度に当館が一括購入しているが、その一〇年前一九八九年八月に三重県立美術館と鹿子木孟郎調査委員会の共催で開催された「鹿子木孟郎水彩・素描展」に出品された作品であり、その中から不同舎時代を中心に選択したものである。鹿子木孟郎が不同舎に在籍していたのは明治二五(一八九二)年一〇月から明治二八(一八九五)年六月までで、同年九月から滋賀県尋常中学校助教諭として赴任しているので、その間の作品が「不同舎時代」の素描ということになる。但し、年記がないものでも、「三河島」や「道灌山」を描いたものや「画塾」「人物」などは不同舎仲間を描いた素描と考えられる。殆どが道路山水であり、写生の時期は明治二六〜二八年に集中している。これが、当館不同舎流道路山水コレクションの核をなす。
なお、所蔵品目録では「水彩・素描2 鹿子木孟郎旧蔵不同舎資料」ではなく「水彩・素描1」に分類されているので分かりにくいが、同じく平成一〇年度に購入された鹿子木孟郎の水彩と淡彩一二点もある。同じ遺族から購入したものであり、この一二点も合わせて「鹿子木資料」と呼ぶ(合計一四七点)。これには《根津権現》(明治二七年)や《赤羽風景》(明治二七年)など完成度の高い淡彩が含まれる。特に後者はいわゆる木炭画ではあるが大きさもあり典型的な道路山水である。但し鹿子木資料には、道路山水を油彩画にしたものは見当たらない。
鹿子木孟郎の素描能力は高い。確かに習作であり鉛筆写生には違いないが、深い空間と空気の存在が感じられて真っ直ぐに画面に引き込まれてしまう。巧いだけでなく、しっかり描き込んだ密度と堅牢な構成力が印象的である。また、日付と写生地の記載がしっかりしているのも几帳面な鹿子木資料の特徴である。
(三)吉田資料
吉田資料九四点は、吉田家のご遺族の下に伝わったもので、同じく一九九八(平成一〇年度の一括購入である。吉田博とふじをが描いた素描も数点あるが、他の不同舎門人が描いたもの、そして作者不詳の作品が相当数含まれている。また、風景写生だけでなく、人物、静物、風俗、植物、挿絵、模写など、作者とモチーフの多様性が吉田資料の特徴である。吉田夫妻が生涯不同資料を大事に保存していた事実が、彼等の不同舎時代に対する思い入れの強さを物語っている。
吉田資料に含まれる画家としては、石川寅治、大和田篤治、鹿子木孟郎、土岐芳助、中川八郎、沼辺強太郎、丸山晩霞、満谷国四郎、矢野覚一郎、吉沢儀造、吉田博、吉田ふじを、吉田みち(美智)、吉田あぐりがいる。制作者不詳の水彩素描が5点もあり、モノグラムで「YS」「木下」と読めるもの、「T.AIDA」「望月」とだけ署名があるものがあるが、誰かは不明である。『小山正太郎先生』に掲載されている「明治十一年以降師弟ノ禮ヲ執リタル者姓名(入學順)」を見ると、吉田ふじをの姉(美智)と妹(あぐり)を除いて全て不同舎門人である。但し門人名を全部辿っても、「YS」「木下」「T.AIDA」「望月」にあたる名前は見当たらない。吉田姉妹を含めて同名簿に載っていなくとも不同舎に一時通学していた学生は更に多いのではないかと推測できる。
明治二五年から三〇年頃にかけての、鉛筆による東京近郊と思われる風景写生も多数ある。横長の紙に克明かつ正確に当時の家屋、道路、自然が写し取られている。
(四)美術館資料
次に美術館資料では、小山正太郎の素描《猿橋》(制作年不詳)が一点あり、不同舎出身者で前述した鹿子木資料と吉田資料に含まれない塾生としては、佐久間文吾、青木繁、小杉未醒、森田恒友、寺松国太郎、児島虎次郎、福田たねがいて、彼らの作品を数えると合計四四点になる。
これに加え、不同舎出身者以外にも、高橋由一の油彩《墨水桜花輝耀の景》(明治七年)を始めとして、明治期の風景画が油彩、水彩、素描を含めて合計七五点ある。また、不同舎門人の作ではないが、正に「道路山水」に違いない風景画もある。本多錦吉郎『景色』や五百城文哉『小金井の桜』が典型だが、他にも例えば小山正太郎と一緒に高等師範で教鞭を執っていた平木正次の素描二点「野上村(秩父)」(鉛筆、明治四一年)と「宮城県鹿島台」(鉛筆、明治四四年)等も珍しいものである。また。チャールズ・ワーグマンの「街道風景」(油彩)は、イギリス人が描いたものではあるが、典型的と言えば典型的な道路山水である。畑と森を描いた小山の恩師フォンタネージの油彩風景スケッチも1点ある。
(五)武蔵野の道路山水について
モチーフや構図などから見て「道路山水」と呼べそうな風景画は、鹿子木資料一三〇点、吉田資料五七点、美術館資料で三〇点、合わせて、全体で約二一七点に上る。「約」というのは、何が道路山水かの客観的判断は困難であり、これが筆者の主観的判断に過ぎないからである。
「道路山水」のうち、書き込みから写生地として「武蔵野」(武蔵の国郊外だが、広く東京近郊風景とする)を描いたものであることが確実で、かつまた年記のあるものとしては、鹿子木孟郎の素描群が一〇〇点を越えて大半を占める。鹿子木資料以外では、佐久間文吾《長房村風景》、河合新蔵《綾瀬》(明治二六年一一月八日)、吉田博《是政》(明治二九年一一月一一日)、《御岳、奥の院》(明治二九年)、丸山晩霞《藤沢》(淡彩、明治三一年)、本多錦吉郎《景色》(油彩、明治三一年)がある。
また、吉田資料の中など、不同舎の門下生で、日付と写生地が明確でない水彩、素描の中にも、恐らくは武蔵野だろうと思われる風景画は沢山ある。既に一九九二(平成四)年、青木茂氏と金子一夫氏が遺族宅に残る資料を調査した「不同舎の資料的研究」(注14)があり、小山正太郎、吉田博、吉田ふじをの各水彩、素描の調査データが大量に含まれている。小山正太郎は、明治一三年から大正二年に至るまで、ほぼ毎年に渡る水彩、素描が残っていて、写生地は武蔵野を始め各地に及んでいる。日時と写生地を素描にきちんと書き込む習慣は、小山正太郎自身が塾生に先んじて実践していたことが分かる。明治中期、小山と不同舎門下生たちはまさに武蔵野を歩き回り、風景写生を繰り返していた。今後、各門人素描データの調査と統合が進めば、誰と誰がいつどこで写生を共にしていたかなど、さらに正確な足跡が分かると思われる。
(六)府中市美術館の代表的道路山水と佐久間文吾の《長房村風景》
さて、府中市美術館所蔵の代表的道路山水だが、完成度が高く十分鑑賞に耐え、大きさもある油彩画が数点ある。その代表的なものとしては、
*佐久間文吾《長房村風景》(明治二二年)、吉田博《川のある風景》(明治二九年)、渡辺審也《河口風景》(明治二九年)、*本多錦吉郎《景色》(明治三二年)、*五百城文哉《小金井の桜》、渡辺文三郎《富士遠望》、沼辺強太郎《宿場風景》などだろうか。道路を中央に配しているわけでないが和田英作の《富士》(明治三二年)も浮世絵風の古風さがあり、捨てがたい。水彩、淡彩で眼を惹くものとしては、*鹿子木孟郎《赤羽風景》(明治二七年)、五姓田義松《修善寺風景》、*吉田博《府中》、《石橋》などが挙げられる。しかし、*マークを付けた五点を除いて、必ずしも「武蔵野の道路山水」とは言えない。
本多錦吉郎の《景色》は、ケヤキ並木の形状などから、当時の写真と照合して府中の風景を描いたことが分かる。当館にとって貴重な絵画である(注15)。以上、当館で明治二二年の《長房村風景》から、明治三一年の《景色》まで、明治中期約一〇年間の武蔵野の道路山水絵画を見ることができる。
本論は個別作家や作品の研究は目的としないが、佐久間文吾《長房村風景》については少しだけ触れておきたい。佐久間文吾(一八六八 — 一九四〇)は、宮内庁の《和気清麿奏神教之図》など歴史画で知られる。福島県出身で、明治一五年頃本多錦吉郎の主宰する彰技堂で洋画を学ぶ。二二年明治美術会創立に参加し会員となる。同二九年白馬会創立に参画。戦争画も描いたようだ。晩年の経歴は分かっていない。
この絵画は図版の通り上下に余白があり、極端な横長の構図になっている。余白には上下ともローマ字筆記体による書き込みと葉(菊の葉か)模様による水墨調のラフな装飾が施されていて、左上には遠方に鳥が飛んでいる。ローマ字は上部に「Sketing of Nagafusamura Stady of life(ママ)」とあり、これが表題の根拠となっている。長房村は現在の八王子市西南部の丘陵地帯長房町であると思われ、旧大字上長房の一部が後に裏高尾町、西浅川町になっていて、旧甲州街道沿いの集落である。下段の余白には日本語のローマ字表記と年記が見られる。「Watakushi wa kono keshikini tuite hanahada komatute Alishiikantonaleba ichi hamaligataku I am very sorry indeed/ katu mata eno sau no uchio dochile yokika sotokoroga hadan dekizu koremata oyowali/ begun from Apreel th 1 1889 B.Sakuma(ママ)(私は、この景色について甚だ困ってありし。如何となれば、位置嵌まりがたく マッタクヨワッタモノデス。かつまた、絵の層の内を(?)どっちへ(寄せるのが?)よきか そ(この)ところが判断できず、これまた大弱り。一八八九年四月一日より描き始める。)括弧の中は筆者の解釈だが、いずれにせよ構図と絵画の枠をどこで切ればいいのか、迷っていたのではないかと推測される。
興味深いのは、第一回明治美術会展出品目録で、出品者から縮図を集めて浅井忠や小山正太郎が石版に写した白黒の図版である。二〇番に掲載された佐久間文吾の《豊年》縮図を見ると、この《長房村風景》と非常によく似ている)。縮図としては十分な類似だと思うが、点景人物の細部はともかく、顕著な相違は幟の本数と形状である。出品作縮図は中景両側二本の幟に加えて、奥手にさらに両側二本上部飾りのある幟があるが、《長房村風景》にはない。また手前二本の白いの形状も出品作縮図はほぼ真っ直ぐなのに対して、《長房村風景》は風になびくように捻れている。しかし、この油彩を近くで子細によく見ると消失点近く遠景の山並み上夕焼けに輝くオレンジ色の背後層に黒い幟の輪郭線が切れ切れに垣間見える。図版では明確に確認できないだろう。断定できないが、縮図作成段階では存在した奥側の幟2本を後で塗りつぶし、構図を整理して、手前の白い幟の形を修正した可能性はあるだろう。書き込みにあるように佐久間文吾は構図には相当迷いがあったようだから、搬入直前に小山正太郎に何か言われたのかもしれない。以上、本館所蔵作品が、第一回明治美術会出品作《豊年》だと断定はできないとしても、少なくとも大いに関係があるだろうと考えられる。
三 不同舎と漢学
不同舎はもちろん明治中期の洋画塾に他ならない。描かれた素描、水彩、油彩は透視遠近法に則った風景画であり、陰影も施された「洋画」に違いない。教育も洋画材料、技法、教育材料、そして洋書を軸にした小山正太郎の西洋知識に基づいた講義であった。それは小山が学んだ工部美術学校におけるフォンタネージの衣鉢を継ぐものである。つとに指摘される通り、小山が明治一三年に書いた絵画論「画談一班(ママ)」は、一八世紀イギリス美術書の理論を下敷きにしたヨーロッパの伝統的思考を汲む風景画論である。
(一)小山正太郎の詩と画趣
しかし、不同舎に東洋画の伝統や知識が無かったわけではない。前述したように実技や講話会の他、一定の画題を元に各自自由に作画する題画会も行われた。そして、ほとんどの塾生の記憶に強く残っているのが、小山正太郎が行った漢詩の詩と画越の一致に関する熱意溢れる講義である。例えば、門人青木彝蔵は次の様に回想している。
「先生は能辯と云ふには非ざるも諄々として名句名詩の詩趣と畫趣と一致せる所を説明せらるるときは、聴者をして身は畫中に在り心は仙境に遊ぶの感あらしむるものあり。余は此詩境談を聴くを最も楽しみとしたり。」(注16)
この講義が具体的にどのようなものであったか非常に興味があるが、講義ノートに類したものがあるかどうか寡聞にして知らない。
小山正太郎が新潟から上京したのは明治四年一〇月一五歳の時であり、当時開成所で洋画を研究していた川上冬崖の聴香読画館に入門を乞うたのは翌明治五年のことである。冬崖は、小山の入門を許し、長岡藩で漢学を学んだこの佐幕の利発な少年を引き立て可愛がった。小山が後に陸軍士官学校の図画教師になれたのも、東京師範学校の図画教員になれたのも冬崖のおかげである。まもなく、小山は一六歳にしてこの洋画塾の塾頭になったと言われる。小山自身が冬崖を回想した文章に拠ると、聴香読画館では洋画と文人画の両方を教えていた(注17)。そもそも川上冬崖自身が洋画家というよりも文人画家であり、漢学の素養を持った武士だった。冬崖は、下谷の半閑社と言われた知的サロンのメンバーであり、奥原晴湖、鷲津毅堂などの画家や漢学者、そして『西画指南』や地理書『輿地誌略』を執筆した内田正雄、神田孝平、西周など洋学者とも交友する幅の広い教養を持った知的官僚であった。そもそも小山は明治四年未だ一五歳の少年時代にこの内田正雄が招来したオランダ絵画を見て強く感動して洋画家を志したのである。(ちなみに隈元謙次郎氏は、そのオランダ絵画の中に「風景画や静物画があったことは疑いをいれない」と書いている。しかも「ヤコブ・フォン・ロイスダール Jacob van Ruisdael の作品か、あるいはその流れを汲む作家の作品」(注18)とまで断言している。)その冬崖が主宰する聴香読画館の性格が一筋縄である筈はなかった。陰里鉄郎氏はこう書いている。「鷲津毅堂が南宗画の画人による半閑社をおこすのに冬崖を加えたことに明らかなように明治初期のころ一般には南画家として冬崖が知られていたのであろう。こうした重層した、または整序されないままに複雑にからみあった構造を一身に備えていたところに洋画の先駆者といっても高橋由一とは異なった冬崖の性格をみるのである。」(注19)
僅か一六歳で複雑な知的文脈がからみあった冬崖の聴香読画館の塾頭を務めていたと言われる小山正太郎にしても、もちろん一筋縄で行く人物ではない。洋学、漢学、文人画的教養が複雑に入り組んだ環境の中で、しかも幅広い年齢の人間が出入りする中で小山正太郎はたくましく成長した。残された小山の著述や文章を見ても、彼が相当の勉強をして幅広い教養と重層した価値観と実践的技能を身に付けていたことが分かる。冬崖と同じく、小山も又「整序されないままに複雑にからみあった構造を一身に備えていた」のである。しかし、その小山正太郎は、何より自然が好きであり、漢詩が好きであった。彼は、自然、いや山水に身も心も耽溺する情熱に溢れていた。『小山正太郎先生』には「生出氏の學生紀行文に記入せられたる先生の俳句、詩、短文」として、俳句、漢詩と共に以下のような小山の短文が掲載されている。小山という男の基盤にある人生の価値観がよく出ている文章だと思う。
「流水青山未だ曾て人を拒(ふせ)がずして人々自ら拒ぐ者は何ぞや。蓋し彼俗物自然の美に感ずるの眼なく、造化の言を聞くの耳無きが故なり。生れて瞽と聾とに異ならず憐れむ可し。鳴呼我之を擲つも人拾はず、吾之を拾ふも人咎めず、天地の純美皆我が徒の専有に帰す、蓋し天眞樂の法を授けて清貧に報ゆるなり。遊ばずんばある可らず。精神を爽快にし皮膚を強壮にし、腹胃の消化を助け血液の巡還を能くす不老不死の藥は之に他ならず。」(注20)
小山はまた、俳句にも情熱を持っていた。小山旧蔵資料の中には小山自ら編集筆記した俳句集『俳句適意集』(明治十四年)『有声画巻』(明治十五年)があり、後者の冒頭で以下のように書き、写生と発句の自然に対する実感の近さを述べている(括弧内引用者)。
「(漢詩や和歌と違って)独俳諧者流ハ否ス。草鞋蓑笠必ス物ニ触レ景ニ対シテ而後其感スル所ヲ発ス故ニ愈出テ愈実境ニ近シ(中略)
唯古人ノ集中ヨリ佳ナル者ヲ絞鈔セハ十七字能ク一枚ノ写景画ニ当ルヘキモノ多シ。小窗夜雨或ハ臥遊ノ謀ト為スニ足ラン。鈔録スル所以ナリ。」(注21)
(二)詩画一致
小山正太郎が絵画の精神性を極めて重要視し、通常の講義以外にも若い塾生に自然な形で教え込もうとしていた興味深いエピソードがある。小山は厚い木札に墨書して「詩歌留多」を作り、それを使って正月などに塾生と一緒に遊び、漢詩の精神性と趣味を彼らの身体に直に覚え込ませようとしていた。例えば、吉田博は次のように回想している。
「また詩歌留多といふものを先生が考案されて、これで先生が読み我々が拾ふといふやうにして遊んだ。これは先生がよく詩境と画境という題で話された事を具体化したもので、漢詩などの意味を画で描き、また時々写生旅行をして先生と生徒が同じ道を歩き、同じ宿に泊まり一緒に研究したり教へられたりしたもので、恁うして教へる事以外に門下生の中に入り込んで面倒を見られた事も、多くの人を集めた理由であらうと思ふ。」(注22)
吉田ふじをの回想によると、この絵歌留多に具体的には「高山流水亦明暗」とか「柳暗花明」という詩句があったよう(注23)。前者は、『列子』からの引用で、琴の名手伯牙(はくが)とその友人鍾子期(しょうしき)のことを指している。伯牙が高山を思いながら琴を演奏すると、聞いていた鍾子期も高山の偉容を連想し、川の流れを思いながら演奏するとまた大河の雄大さを連想したという故事に拠っている(注24)。「亦明暗(まためいあん)」とあるのは、恐らく音楽だけでなく、絵画の明暗によっても同じ事が可能だと塾生に教えていたのではないかと思われる。つまり、明暗によって表現された絵画平面によって、それを見る者の胸中に高山の情景と崇高さを生き生きと呼び起こし、また蕩々たる大河の流れを鮮明に連想させなければならないのである。単なる写生ではなく、そこには大自然に対する詩的な高揚と畏敬の念がなければならなかった。武家に育ち、幕末洋画の先駆者川上冬崖の薫陶を受け、漢学と文人画の素養があった小山正太郎は、絵画の精神性を大切にしていた。
勿論、詩画一致は東洋美学だけの概念ではない。詩は絵のように(ut pictura poesis)とは、古代ローマの詩人ホラティウスの『詩論』(Ars poetica)の一節であり、一七世紀のバロック詩学において「詩は絵のように、絵は詩のように」と拡張され、一八世紀にレッシングがこれに反対して、詩と絵画のパラゴーネ、いわゆるラオコーン論争を行ったことはよく知られている。それ自体クロード・ロランやプッサンの描いた理想的風景画と大いに関係がある。小山正太郎が西欧詩学についてどれくらい知識を持っていたかは定かではない。しかし、彼が愛していたのは漢詩である。
このように、小山の絵画の教えは漢詩を中心とする中国芸術論の伝統とヨーロッパ絵画の理論と技術を高度に折衷した重層的な性格のものだったと思われる(注25)。明代の董其昌に倣って、富岡鉄斎(一八三七生)は「万巻の書を読み、千里の道を歩く」を座右の銘にしたと言われているが、川上冬崖(一八二八生)や小山正太郎(一八五七生)そして不同舎の門人たちもその気概を持っており、文人画家の衣鉢を継ぐ者たちだとも言えるだろう(注26)。冬崖の聴香読画館も、小山の不同舎も、中国そして韓国と共通する東アジアの伝統的書画の概念を保持しながら西欧的な美術を受容しようとする近代の激動期に相応しい重層性を色濃く帯びてきた私塾だったのである。道路山水という点景人物を含む絵画と呼称に纏わる奇妙な感触は、この重層性と密接不可分な性格の故であると考える。
四 道路山水の性格と終焉
石井柏亭の実弟で明治三七年に入塾した後の彫刻家石井鶴三に拠れば、「不同舎」の名称は論語の一節「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」から取られたものだという(注27)。不同舎は、明治以前の東洋文化の伝統的枠組み、即ち「書画」の精神圏にあった私塾であり、従来の漢学の精神圏で師弟と仲間が繋がりつつ、西欧が強いる近代という激動の世界を生きていくため洋画と洋学をそれぞれが学ぼうとしていた集団だった。
周知の通り、明治一〇年代から二〇年代にかけて、近代日本国家はそれまでの急速な欧化政策に対する反省から伝統重視の動向が顕著になっていた。これまで、しばしばフェノロサと岡倉天心の東洋復古時代、ナショナリズムの時代、そして洋画家受難の時代と言われてきた。しかし近年、それは単なる反動や懐古趣味の時代ではなく、基本的には西洋列強が植民地化を推し進め帝国主義時代の中で、国家が国際社会と市場の中でどのように国家的アイデンティティを確立し、文化と経済政策をどう推し進めるべきかという戦略と選択の問題として捉え返されつつある(注28)。小山正太郎と岡倉天心の「書ハ美術ナラズ」論争もこの文脈の中で考え直す必要があり、不同舎と小山正太郎そして道路山水の評価も改めて検討すべきであろう。この危機意識の上で考えれば、洋画も日本画も対立軸ではない。また、近代を、西欧と日本ではなく、広く中国を中心とする東洋文化と西洋文化のヘゲモニーをめぐる葛藤の時代として記述することも重要だと言える。当時東アジアの人々にとって新しい制度概念であった「美術」の形成について、東アジア文人文化の伝統的枠組み「書画」の再編成として再吟味すべきだろう。今からおよそ120年前、明治中期の日本は文明の大きな転換期の中にあったし、一人一人の知識人や画家も強い危機意識を持っていた。東洋山水画の権威であり美術史家の小川裕充氏は東アジア美術史の構築を念頭に置きつつ次のように書いている。「中国・韓国・台湾と日本は、伝統的な書画の概念ないし枠組みを共有しつつ、中国は清朝晩期から明国期の半植民地化、韓国・台湾は当の日本による植民地化、日本自体は、欧米列強による植民地化を免れつつ、近代化に成功した、欧米列強以外で唯一の帝国主義国家という、それぞれが置かれた相異なる政治的・文化的状況に即して、近代的な美術の概念ないし枠組みを受容せざるを得ない、時代それ自体の転換期にあったからである。」(注29)
では、このような時代背景の中で、明治二〇年代の不同舎流道路山水は、西欧風景画の東アジアへの移入または影響として捉えるべきなのか、それとも中国山水画の伝統と江戸絵画の延長上で考えるべきなのか。筆者には手に余る問題ではあるが、それぞれの関係に注目して少しだけ考えてみたい。
(一)道路山水の性格
小山正太郎は、明治九年から十一年にかけて工部美術学校でフォンタネージから本格的な西洋絵画について直接教えを受けた数少ない美術学生の一人であった。実技と共に幾何学、透視図法、解剖学などを論理的に学んでいる。また、明治一〇年代のいわゆる国粋絵画運動の逆風の中で、社会的にも教育者としても洋画推進を頑固に主張したイデオローグ(理論的指導者・唱道者)と言っていい。しかし彼が実際に欧米に行ったのは、明治三三年にパリ万博の絵画係として仕事で赴いた一度きりしかない。小山が洋画を勉強したのは高橋由一や川上冬崖と同じく洋書や石版画を通してであり、内田正雄招来のオランダ絵画を見て洋画家を志したのである。代表作《濁醪療渇黄葉村店》を見ても、鉛筆風景素描、そしてその他の絵画作品を見てもフォンタネージ風と言えるかどうか微妙である。なるほど《秋景》や習作性の強い風景淡彩と素描の多くは一九世紀自然主義のロマンティシズムを日本流に消化しており、そう言えるかも知れない。だが、《濁醪療渇黄葉村店》を始め不同舎流道路山水は人馬を中景、後景に必ず配置して歴史性、風俗、物語性を強調する点に特徴があり、これは必ずしもフォンタネージ風とは言えないだろう。満谷国四郎の回想にあるように、小山は出品直前の門人の絵画に必ず点景人物を入れていたのであり、門人は「先生の漢詩的畫趣から一々畫に命題を與へられて」、これが不同舎流道路山水を特徴付けていたのである。
小山の洋画は実践的でもあった。明治七年、陸軍兵学寮陸軍文庫の名前で出版された『写景法範』『東京近郊写景法範』があり、石版画による簡単なスケッチではあるが小山が描いた写生も数点掲載されている。青木茂氏が指摘するとおり「日本の画家が自分の眼でみた風景を自分で写した、日本最初の石版画集である。」(注30)小山は、フォンタネージに風景画を学ぶ以前に、石版画模写に加えて実践的に自分の目で東京近郊風景即ち武蔵野の自然を描いていたのである。この点は強調しておきたい。ある意味で、武蔵野の道路山水の嚆矢と言っていい。
点景人物以上に、小山正太郎が重視したのは絵画が単なる写生ではなく思想の表現であるということである。先述した明治一三年執筆の「画談一班」の冒頭には、「山水中の三大区別」として「ヒストリカールスタイル」「ビュー」「ルーラールスタイル」を挙げている。要約すれば、風景写生の「ビュー」、歴史的連想を誘う「ヒストリカールスタイル」を越えて、画家の創意と自由を活かして風景に描かれる事物や構成を取捨選択し再構成するべき「ルーラールスタイル」を推奨している。不同舎と小山正太郎の研究者山田直子氏はこう書いている。「小山は、名所をはじめとした日本の風景観を念頭に置きながら、そういった伝統から脱しようとする考えをもったのだと思われる。自由な場所へ行き、自由なモティーフを描くという考え方は、小山時代前にはなかったといえる。画家の意による主題や場所の決定の自由とは、画家と自然の関係の変化を見ていく上で、重要な意味をもっている(注31)。」
「画談一班」に示された小山の絵画観は、下敷きにしたと思われる本多錦吉郎旧蔵の一七八六年刊英書『The Artist's Repository and Drawing Magazine』とフォンタネージの教えによる影響が大きい。山田氏が言うように、そこには自由の思想が見て取れる。不同舎で中江兆民翻訳の『維氏美学』が講じられていたことも連想される。しかし、元々伝統的山水画は自然の写生だけでなく写意の絵画であり、画家が自由に画面を再構成すべき鑑賞の絵画であり、その伝統は短く見ても五代(一〇世紀)以来で多様かつ深いものがある。絵画が精神性の高い高尚な芸術であり、世界観や思想の表現であるという考え方は、小山のみならず漢学と書画の教養のある東アジア人にはむしろ親しいものであった。
また、川上冬崖や小山正太郎が親しんだ文人画が興盛していた明治初期に先だって、元々江戸後期において文人たちの間で山水ブームがあった。いわゆる名所に限らず各地を旅してその自然を愛し、山岳の眺望やそれまで見たことがない実景に感動し、その感興を画や詩文に記す風景趣味の文人たち、知識人たちがいた(注32)。また、画家にとって真景図そして実景図も絵づくりのための一つの素材であった。江戸期の画家たちが、漢画風の山水であれ実景であれ「自然景」をどのように利用し、再構成し、作品化していたのか再考した論考もある(注33)。結局、江戸後期と明治初期の洋風画、文人画には断絶があるのかないのか。実証的には判断が難しいところだが、将来東アジア美術史の可能性を考えるならば、積極的にそれを連続性において見てみるべきであると考える。西洋美術史の東アジアへの単なる影響史として近代を見るのではなく、東アジア美術史の主体的可能性を日本近代において見ようとするならば。
小山正太郎は、透視図法で描いた風景画に胸中の山水を重ねようとした。小山は、漢詩の詩境を洋画に籠めようとして、詩趣と画越の一致点を山水=風景の一致点に求めようとした。もちろん違和感はあっただろう。小山は洋画における歴史画の困難について書いているが、同種の難しさが風景画にもあった。その一つが風景に人物や風俗を描き加えることにあった。小山は門人たちの作品によく点景人物を描き加えたが、満谷国四郎は、それを広重等の古い浮世絵のようだと言い、明確に嫌悪していた。明治三〇年代初めには既に不同舎の指導的存在だった満谷は、そのような絵作りは古いものであり、自分たちの世代には到底受け入れがたいものだったと回想している。「黒田久米の先生方が新に歸朝され印象派風の明るい作風は天下を風靡するし、段々と外に目を着けるとなると我等若い者が動揺せずには居られん道理であつて、遂に有志の者等が先生の畫室を占領して、近所からモデルを見付け出して寫生に専念する傾向になり、時々は先生の批評を避ける様な珍景を出す様になった。先生の批評は「ホンタネジー」に付かれた丈あつて今から考えれば可なりに徹底した簡單化でもあったが、其頃の我等に受け入れらるる筈はなかつたのである。」(注34)
(二)「道路山水」の終焉
明治三〇年代後半以降、道路山水は次第に少なくなっていく。洋画による歴史画が次第に下火になっていくのと軌を一にして、物語性や風俗性を帯びた道路山水も徐々に数が減っていった。それは、より広い視点から見れば、物語的山水画、歴史画から主観的風景画への移行期だったとも言える。先述したように、明治美術会そして太平洋画会初期の出品作の題名は「山水」や「景色」から「風景」へと移行しつつあった。白馬会の領袖黒田清輝自身が、明治後半期からは象徴的な「構想画」の構築から離れて、スケッチ的小品へと制作の軸足を移し始めていた。絵画の主観化、個性重視の傾向が芽生えつつあった。明治四三年、春季に白馬会と太平洋画会展覧会が開催されたあと、黒田清輝は「美術新報」の取材を受けて、双方の出品作を比較しながらこう評している。
「(白馬会と太平洋画会)両方の展覧會を見て、最も著しく違ふ點は、太平洋画會の方には、纏つた畫畫になつた畫が多い、太平洋の方では、仕上げない畫をば畫と見ない様な傾が見える、それで畫に纏めたのが多い。白馬會の方では、畫は必しも仕上げたものでなくてはならぬとは見做さない。それだから、太平洋画會のに比べると畫になつてゐない様なのが多いかも知れぬ。我々の方では、畫は必しも纏めてなくても、光なり、色なり、形なり手法なりに、研究がしてあつて、面白いところがあれば採るのである。小さな板つぺらに描きかけたものでも、自然なり人間なりの感興が出て居れば採るのである。そこが、双方の書と云ふものに對する考や主義の違ふところである。」(注35)
明治四三年における黒田のこのコメントは色々なことを考えさせるが、ともかくも「纏った」風景画の一つとして、道路山水は旧い絵画と見られていたのだろう。
一九〇二(明治三五)年、満谷国四郎、鹿子木孟郎、吉田博、中村不折、小杉未醒など不同舎門人の中心画家たちは、明治美術会を解散し、新たに太平洋画会を発足させ。その創立会員となった。彼らは、不同舎を離れて各々欧米に留学、遊学して美術館や博覧会などを巡りつつ海外で作品を販売して自信を深めていた。彼らはやがて不同舎流道路山水を離れて、それぞれに独自の絵画を追求していった。各々が自分らしい「纏った畫」を求めて試行錯誤を繰り返していったのである。
満谷は、第三回太平洋画展に《軍人の妻》、一九〇七年(明治四〇年)東京勧業博覧会には《戦の話》等を発表し、1等を受賞。翌年の第二回文展に《車夫の家族》など大作を次々に発表し、日常の情景に社会性を含んだ主題を追求し、後年は裸婦を中心に装飾的で平面的な画風に転ずることになった。鹿子木孟郎はパリでジャン=ポール・ローランスに師事し、明治三七年に帰国後は京都に移住して関西美術院の創立に参画しつつ、歴史主義と象徴主義を融合した群像表現や堅牢な構成による人物画を制作した。吉田博は二度にわたる欧米遊学中にジャポニスムを加味した叙情的風景画を開拓し、その後山岳風景画と浮世絵の伝統を継ぐ木版風景画に新境地を見出した。中村不折はパリでローランスのアカデミー・ジュリアンに学び、帰国後は日本の神話や中国の故事に取材した歴史画を描き、また中国の書の研究者、収集家としても知られた。小杉未醒は、シャヴァンヌを思わせる象徴的絵画を描き、また石井柏亭らと共に一九〇八年(明治四一年)に美術版画誌『方寸』の同人に加わり、その後水墨山水画を描き院展にも所属して東西を融合するユニークな絵画を制作した。こうして振り返ると、不同舎出身の主導的画家たちはそれぞれの方法で東アジアの伝統と西欧文化を綜合(悪くすれば折衷)しようとしてきた傾向が見える。彼らは、それぞれ東西混合の近代を生き、彼らの思想を絵画で表現しようと前人未踏の道を歩んだのである。その一方で、萩生田文太郎、佐久間文吾、沼辺強太郎など、不同舎流道路山水を忠実に描いていた風景画家たちの大正期以降の画業についてはほとんど知られていない。「道路山水」は明治と共に終ったと考えていいだろう。
五 風景と近代
「事実は、愛を通じて芸術となる。愛は事実を統一し、現実のより高い領域へとこれを高める。風景画の場合、一切を抱擁す愛を表すものは光である。」(ケネス・クラーク 注36)
ヨーロッパにおけると同様、私たちにとっても自然は愛と秩序の宿る神聖な場所である。山水画は特定の自然ではなく、桃源郷を想像させる象徴的な風景であった。山水画によって、人々は自然を「気」として意識し、先人の詩画、先人の気韻と共に、自然に畏怖を抱きながら、やがて自分もその循環に戻るべき大きな輪廻として感じていたのだろう。西洋の風景は「光」、東洋のそれは「気」が統一し抱擁しているとひとまず言えるだろうか。
自然は、中国文明の影響の元に江戸時代までは「山水」として表象され、また浮世絵、名所絵によって親しまれてきた。明治時代に入り、西洋文明の影響下で、「書画」は「美術」となり、東洋的「山水」は次第に「風景」へと変わっていった。また「道路」は、西欧近代の産業革命がもたらした影響の下に、鉄道と共に明治以降整備された近代交通の新しいインフラである。従って「道路山水」という言葉の中に、新しい技術と古い芸術が同居している。山水は、道路を内面化しながら変質して近代的風景になった。「道路山水」は風景として意識されるようになり、「道路風景」へと変わった。やがてそれは当たり前の外界となり、そのうち意識さえされなくなる。明治日本という、大きな過渡期の中に「道路山水」はあった。
一九八〇年に柄谷行人が論じたように、明治中期における「風景」の発見は「……それまでの外界に対する疎遠化、同じことだが、極度の内面化によって見出される過程」(『日本近代文学の起源』講談社一九八〇(昭和五五)年 二九頁)を経なければならず、内面的な人間そのものが形成されていく過程とパラレルである。「風景」を発見することは「それまでの外界」すなわち「山水」を忘れることであり、「山水」が表していた東洋的伝統、共同体、自然、環境、精神世界を捨て去ることでもある。
それは端的に、当たり前にあった「精神」を捨てて「モノ」に向き合うことだ。既存の言葉やイメージを忘れて、新たに目の前の現実、そして物自体に対峙することである。柄谷行人の言うように、それが「風景」の発見に他ならず、「近代文学の起源」であり、さらには美術も含む近代芸術の起源なのである。だから西欧近代と風景は不可分の関係にある。
しかし、すぐにその空白に日本的近代の枠組みや近代の物語、文脈が入り込み、起源は忘却された。近代以降、風景は当たり前の広い意味の概念となった。道路山水を風景への発展において見るか、それとも山水の連続可能性において再評価するのか。どちらも文脈の再設定であることに変わりはない。風景から見ても山水から見ても、「起源」は滑り落ちてしまう。では、どうすればいいのか。端的にいえば、江戸後期の浮世絵版画や洋風画と同様に、それは山水と風景の両面から見ていくほかにない。道路山水そして明治の絵画(洋画も日本画も含む)は、江戸絵画の延長であり、また西欧の影響でもある。
言うまでも無いが、本論はポストモダンの立場・観点から近代芸術を批判的に検討しようとするものではない。むしろモダニズムの起点、あわよくば起源に立ち返って現在を考えようとする検証作業の一つである。近代美術、近代文学そして近代芸術(モダン・アート)については、それが既に終わったと言われて久しい。日本画、洋画、そして美術という概念、ジャンル、制度など、「美術」を巡る様々な近代的概念の制度性、人工性、恣意性が盛んに言われるようになってからすでに三〇年以上が経過した。恐らく一九八〇年代を分岐点として、いわゆる「近代(モダン)」から「脱・近代(ポスト・モダン)」へと時代が変わったというのが、現代日本文化理解の一般論になっている。内面的な表現やモダニズムは影を潜め、その中で徐々に漫画、アニメ、映像、デザイン等所謂サブカルチャーが「スーパー・フラット」「クール・ジャパン」などと持て囃され、現代美術に再利用され、また江戸絵画や日本美術の伝統との繋がりが強調され評価されてきた。それは、欧米におけるポスト構造主義、ポストコロニアリズムの流行によって、アジア、アフリカ、中東など欧米とは異質の文化・社会に世界美術ジャーナリズムの注目と関心が向かっていったとの軌を一にする現象である。
しかし既に、一九八〇年代から始まったこの「近代芸術の終わり」さえ終わろうとしている。近代芸術のみならず、芸術という概念それ自体が内実を欠いてきている。美術館で取り上げるべき展覧会の枠組みや作品の質と意味が問われている。のみならず、公的機関と民間の役割も見直されている。美術館の運営と事業のあり方も根本的に問い直されている。今現在、一般の人々が知らない「専門的な」作家や作品は敬遠されはじめている。端的に言えば、近代・現代芸術が批判もされず単に忘れ去られ、今人気のある対象(美術とは限らない)にしか人々の視野に入らない。これは日本だけの状況ではない。この末期的ポスト・モダン状況にあって、危機意識を持って、改めて日本近代美術を内省的に考え直したいというのが本論の動機であった。モダンもポスト・モダンも、その起源を具体的に内省することが必要だ。柄谷行人氏が言うように、相変わらず資本・国民・国家が強固なボメロオの輪を結び続ける中で、それらを越える普遍的な「統整的理念」(注37)にもし「芸術」が積極的に与することができるとしたら、それはやはりモノに対峙しつつ行うべき内省的な遡行と再吟味においてしかないと考えるからである。
六 おわりにー武蔵野から多摩地域へ
以上、「道路山水」について文献から検討し、本館不同舎資料の概要と「武蔵野の道路山水」について整理した。そして不同舎と漢学の関係、さらに道路山水の重層的性格とその終わりについて考えた。その上で風景と近代についてもう一度考えた。武蔵野風景に孤独と詩的な感傷を感じる近代的人間の登場が、風景画の成立と重なっている。以前の共同体の価値観から切れて、一人で孤独に風景を眺望し、国土に向かい合う近代的な国民(ネイション)の誕生である。
改めて国木田独歩を引用するまでもなく、武蔵野は、日本近代を振り返って考えるのに相応しい対象であり、また場所であった。現在からほぼ一二〇年前、武蔵野の一角は「山水」として受け取られ、それが次第に景色や風景として捉えられることが当たり前になっていった。明治四年の廃藩置県により奈良時代律令制以来の武蔵国多摩郡は東京府と入間県に分かれ、一度神奈川県に編入された後、明治二六年(一八九三)に東京府に移管された。明治中期、武蔵野は江戸から東京へと都市が変貌しつつある過渡期にあり、かっての武蔵国府所在地府中も東京西部多摩地域へと変貌していった。武蔵野は、道路山水の恰好のモチーフとして選ばれた。江戸の中心地は既に西洋建築が続々と建ち都市化されていたが、武蔵野には林、そして農村がまだ広く残っていたからだ。道路が敷かれた自然即ち「道路山水」が、まさに武蔵野風景だった。しかし、道路が普請され、街道沿いに各地方へ続く道路そして鉄道が急速に敷設され、また都心へ燃料や資源そして食料と人材を供給するためのルートが整備され、江戸が東京へと変貌するに連れて、少し遅れて武蔵野も多摩地域へと変わっていったのである。「道路山水」としての武蔵野は、大正時代には草土社の画家たちによる「切り通しの風景」となり、戦後は私たちが住む住宅地へと変わっていった。昔の風景はすっかり変わってしまった。
東京西部多摩地域には、少しずつ人口が増えていった。明治維新以後、日本は産業資本主義を発展させ、東京に権力と情報を集中させる中央集権化を加速させていった。とくに大正後期の関東大震災以後、そして第二次世界大戦以降、多摩地域は爆発的に人口が増加した。日本近代の成立過程の中で、それは全国でも最も急激に変貌していった地域の一つと言って過言ではない。日本全国から続々と若者が仕事を求めて東京に上京し、住む場所を求めて多摩地域を開発して移住した。年月を経るにつれ、多くの日本人が多摩地域を「第二の故郷」にしていった。府中市美術館所蔵不同舎資料は、美術としての素描、水彩作品であると同時に、以上のような武蔵野の歴史的過程を思い出させる貴重な日本近代資料でもある。
注
1 鹿子木孟郎風景素描の裏面には、「球切断面投影図」等、幾何図形が描かれたスケッチが多く残っている。
2 「吉田資料」の中に、与えられた題は記載されていないが中川八郎の描いた「天使と悪魔の図案」がある。
3 安西直蔵『小山正太郎先生』不同舎旧友会 一九三四年 一八三頁
4 浦崎永錫『日本近代美術発達史明治編』大潮会出版部 一九六一年 一五四頁
5 拙論「朱葉の記─吉田ふじをの生涯と作品(不同舎時代を中心に)」「府中市美術館開設準備室研究紀要第3号』一九九九年
6 例えば、「春秋二期ノ写生旅行會ハ甚ダ愉快ナリキ。中二泊ニテ府下各地方ノ山野ヲ渉シ、孰レモニ捻ヲ懸ケ、風景畫實寫ニ熱中スルナリキ。」高村真夫編『小山正太郎先生』不同舎旧友會 昭和九年九月 一八三頁
7 澁谷国四郎『小山正太郎先生』前掲 一七八一一七九頁
8 石井柏亭『日本絵画三大志』ぺりかん社 一九八三年(原書は一九四二年) 四五頁
9 青木茂監修『近代日本アートカタログコレクション 008明治美術会』ゆまに書房 二〇〇一年
10 青木茂『岩波近代日本の美術八自然をうつす』岩波書店 一九九六年 六六頁
11 青木茂監修『近代日本アートカタログコレクション009太平洋画会第1巻』ゆまに書房 二〇〇一年
12 不同舎風景素描に関連した先行研究としては、管見の及ぶ限り以下のものがある。
一九八八年 青木茂「先楽・小山正太郎のこと」、金子一夫「小山正太郎と明治期美術教育」『小山正太郎と「仙台の桜」近代日本洋画の夜明け展』新潟県美術博物館
一九八九年 荒屋敷透「鹿子木孟郎とルネ・メナールー素描にみる鹿子木の主題・技法の展開『鹿子木孟郎水彩素描展』三重県立美術館
一九九二年 金子一夫・青木茂「小山正太郎および不同舎の資料的研究」平成3年度科学研究・一般研究C
一九九二年 金子一夫『近代日本美術教育の研究ー明治時代』中央公論美術出版
一九九三年 金子一夫「小山正太郎資料」「五浦論叢第一号』
一九九三年 金子一夫「小山正太郎評伝ー在長岡時代から明治一五年まで」『近代西説第二号』
一九九五年 児島薫「明治の洋画ー鹿子木孟郎と太平洋画会」『日本の美術第二五二号』至文堂
一九九六年 青木茂『岩波近代日本の美術八自然をうつす』岩波書店
一九九七年 森田恒之「不同舎のデッサンと明治の日本画」『近代画説第六号』
一九九八年二月 田中正史「吉沢儀造について」「幻の画家吉沢儀造展』小杉放庵記念日光美術館
一九九九年 山村仁志「朱葉の記吉田ふじをの生涯と作品(不同舎時代を中心に)」「府中市美術館開設準備室研究紀要第三号』
二〇〇一年 志賀秀孝「百年前、武蔵野を描いた不同舎の画家たち」、金子信久「府中、多摩の風景」「描かれた風景を訪ねる」『百年前の武蔵野・東京不同舎画家たちのスケッチを中心に』府中市美術館
二〇〇二年三月 泰井良「吉田博の水彩画について―不同舎時代を中心にして」『静岡県立美術館研究紀要第一七号』
二〇〇二年 山田直子「小山正太郎における自然写生について―日本近代風景画誕生に関する一試論」「女子美術大学研究紀要』第三二号
二〇〇二年六月 梶岡秀一「正岡子規の邦画洋画優劣論―小山正太郎画塾不同舎における写生の意味」「眞保亨先生古希記念論文集芸術学の視座』勉誠出版
二〇〇三年 志賀秀孝「明治洋画の胎動とうねり―明治美術会から太平洋画会へ」、泰井良「道路山水と風景画について」「もうひとつの明治美術―明治美術会から太平洋画会へ』府中市美術館ほか
二〇〇七年三月 山村仁志「吉田博《川のある風景》について」「府中市美術館研究紀要第一一号』
13 志賀氏論文中には、後述する当館コレクションの数を「鹿子木孟郎資料として一五六点、また吉田博資料として一〇七点を収蔵している」とあるが、これは平成一〇年に一括購入した資料に加えて、同年度に購入した鹿子木孟郎水彩一二点、そして当館が個々に収集した鹿子木関連作品、吉田関連作品などをそれぞれ加えた数であろう。
14 金子一夫・青木茂「小山正太郎および不同舎の資料的研究」平成三年度科学研究・一般研究C 一九九二年
15『バルビゾンからの贈りもの』府中市美術館 二〇一〇(平成二十二)年 一五一頁を参照。
16 青木彝蔵『小山正太郎先生』一六五頁
17 「それ故此『聴香調整』の中には、洋壺の生徒六分、所謂折衷の様なものの生徒二分、純然たる南の生徒二分とい様な譯でした。」小山正太郎「先師川上冬崖翁(二)」『美術新報』第二巻第六号一九〇三(明治三十六)年
18 隈元謙次郎「図版解説川上冬崖の樹木図」『美術研究』二七九号 一九七二年一月号 一九四頁 内田正雄招来のオランダ絵画は渋沢家にあったが、今では所在が分からないようである。
19 陰里鉄郎「川上冬崖の日本画」『三彩』三五〇号 三彩社 一九七六年十月 三二頁
20『小山正太郎先生』二二二頁
21 金子一夫『近代日本美術教育の研究―明治・大正時代』一九九九年 二六一頁
22 吉田博『小山正太郎先生』一八九頁
23 吉田ふじを『朱葉の記夫博と絵と旅と』太陽出版 一九七八年 三六頁
24 『小山正太郎先生』の掲載図版の一つに《鍾子期未来(しょうしきいまだこず)》がある。樹下、琴を足の上に置き腕を組んで仰向けに眠る白髭の人物を描いたものだが、図柄と題名から明らかに伯牙を書いた作品と知れる。明治二〇年、上野で開催された東京府工芸共進会出品作である。
25 小山正太郎における、この重層的性格は、明治一三年三月、小山正太郎が病気で苦しんでいたときに書いたと伝えられる「画談一班」にも表れている。同論考は十三の小論から成るが、とくに「画談一班(山水中の三大区別)」「品格の説」「結果の一致」「画中の主」「一画禁二主説」などは、中国の絵画論と洋書の理論そして自らの経験的な知識と実践理論が総合しているように思われる。「小山正太郎資料(二)」金子一夫『五浦論叢』第3号茨城大学五浦文化研究所紀要 一九九六年
26 小山正太郎のこの教えを誰よりも徹底して吸収し、明治中期から大正にかけて愚直と言って良いほどに継承したのが吉田博だった。例えば、明治二九年夏吉田博が丸山晩霞と一緒に奥飛騨山中を山籠もりしながら写生旅行した時に船津(岐阜県飛騨市、平湯温泉)に泊まったとき野宿を繰り返していて汚れた二人の異様な風体を怪しんだ地元の警察部長に職務質問されたことがある。二人の油絵を見て「これは平湯とは似ていない」言った地元の警察部長に対して吉田博は、以下のように言ったという。
「汝等の如く、日々凡俗に接し、物質的な名誉栄達のことしか知らない陋劣の眼には、どうして我々の筆になりし神韻縹渺たる霊画を理解することができようか。我々は平湯で、そこの山紫水容の形相を借りて、これに理想の極地をもって、内包する真趣精粋を描き出したのがこれである。写真または地図と同一視し、物質的な見地のみで平湯でないと言われるのは、流石に汝の凡俗を明らかにした名言である。」(安永幸一『山と水の画家吉田博』弦書房二〇〇九年三三三四頁原文は丸山晩霞「飛騨の旅」『みずえ』一九〇六年)
これなどは、先ほどの詩歌留多「高山流水亦明暗」に籠めた小山正太郎の教えを彷彿とさせるエピソードである。「神韻縹漑」とか「真趣精粋」とかは、小山の詩歌留多に書かれた言葉を覚えていて口から出たのかも知れない。
27 「画を学ぶ者は和して同ぜず野の君子の精神でなければならぬ。然るに世の画を描く者付和雷同の徒が多い。よってジュクの名を不同と称していましめとするのであるといわれ石井鶴三「小山正太郎先生(師を語る)」「石井鶴三全集第一〇巻』形象社 一九八八年 二〇二頁(原文は昭和三十年五月十七日朝日新聞)
28 高階秀爾「和製油画論」「国華』第千三百八十二号 二〇一〇年 二八頁
29 小川裕充「東アジア美術史の可能性」「美術論叢』第二七号東京大学大学院文学部美術史研究室 二〇一一年 二二頁
30 青木茂「先楽・小山正太郎のこと」『小山正太郎と「仙台の桜」近代日本洋画の夜明け展』新潟県美術博物館 一九八八年 七頁
31 山田直子「小山正太郎における自然写生について―日本近代風景画誕生に関する一試論」「女子美術大学研究紀要』第三二号 二〇〇二年 一六七頁 ー 一六八頁
32 鶴岡明美『江戸期実景図の研究』中央公論美術出版 二〇一二年
33 金子信久「洋風画家と自然景―技術と作品の間にあるもの」「府中市美術館研究紀要第4号』二〇〇〇年
34 満谷国四郎『小山正太郎先生』一七九頁
35 「黒田畫伯断片」『美術新報』第9巻第8号一九一〇(明治四三)年六月
36 ケネス・クラーク「風景画論」佐々木英也訳 ちくま学芸文庫
原著(Landscape into Art by Kenneth Clark)一九四九年、翻訳初版 一九六七年、文庫版二〇〇七年 五五頁
37 柄谷行人『世界史の構造』岩波書店 二〇一〇年 四六五頁