PAINTING

鹿子木孟郎
明治の武蔵野と不同舎

志賀秀孝

 

September 2014|Archived in January 11th, 2025

Image: Kanokogi Takeshiro, “Tanashi village at midnight, a wild wolf seeking food”, 1893.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

底本の行頭の字下げは上げた。
挿図は割愛した(ぜひ底本を参照されたい)。
掲載を許諾いただいた志賀秀孝氏、鹿子木孟郎「田無町近郊 野狼半夜来求食」(1893年)のデータを提供いただいた府中市美術館に厚く感謝申し上げる。

BIBLIOGRAPHY

著者:志賀秀孝
題名:鹿子木孟郎—明治の武蔵野と不同舎原題:明治の武蔵野を歩いた不同舎の画家たち 鹿子木孟郎の鉛筆写景を中心に
初出:2014年9月
出典:『明治を歩く-湘南と武蔵野 府中市美術館コレクションを中心に』(茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団 茅ヶ崎市美術館。2014年。6-11ページ)

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不同舎による武蔵野鉛筆写景図「道路山水」の誕生

明治中期、不同舎に集った青年画家達は、武蔵野の名もない路傍の景色を一幅の山水画のような幽玄な空間として描出した。洋紙に鉛筆で描くといえば、簡素な技法と思われがちであるが、鉛筆も珍しく、和紙とは異なる表面の平滑な西洋紙なども十分普及していなかった明治初期にあっては、いわば最先端の画材と技法であった。絵筆から鉛筆への転換は、容易ではなかったのである。そして、この鉛筆と紙を用い、的確な描写によって近代日本の風景画がつくられていった。これらは「道路山水」と呼ばれる。本稿はこの「道路山水」の成立を跡づけ、いささかの考察を加えるものである。
 
この「道路山水」といわれる風景写生図の発生には、不同舎の主宰者小山正太郎の指導の与かるところが大きく、鹿子木孟郎は後年「小山画伯の薫陶は大いなる感激であった」(注1)と述べている。小山正太郎[安政4(1857)年—大正5(1916)年]は新潟・長岡に生まれ、漢学の素養があり、明治5(1872)年10月に上京し、手始めに日本画法を川上冬崖から学んでいた青年であった。小山は、上京4年後の明治9年11月に工部美術学校が創設されると、浅井忠や松岡壽、山本芳翠らとともに入学し、フォンタネージの着任にあたりその助手と他の青年学生への通訳を務めた。結局、小山は、工部美術学校に約二年間在籍した。フォンタネージが帰国すると、後任教師のフェレッティの指導に不満を示し、浅井忠・印藤真楯・松岡壽・高橋(柳)源吉らとともに、工部美術学校を退学。そして同年11月11日に退学者の彼らは、十一会ともいわれる会を結成、さらに松井昇・本多錦吉郎らも加わり自前で研究所を開いた。
 
当時東京には、続々と優秀な洋画志望の青年たちが全国から集まってきた。小山正太郎が明治20年にひらいた画塾「不同舎」は本郷区団子坂上に転居し、拡張開設された。洋画志望の青年たちは画塾という場で研鑽を積んだ。不同舎開設の翌明治21年1月、岡精一が入舎。同2月には京都府画学校を卒業した伊藤快彦が上京(同11月には、原田直次郎の「鐘美館」へ移る)、4月には、中村不折が長野から上京しいずれも不同舎に入舎した。また同じ長野から同5月丸山晩霞が、不同舎と気脈を一にする洋画塾「彰技堂」(明治7年国沢新九郎設立)に入堂し、本多錦吉郎(注2)に師事している。
 
不同舎の塾生たちは、紋付袴姿で正座してイーゼルを立て、石膏デッサンなどに励んだ(cat.no.88 注3)のであった。さらに年に数回武蔵野に赴き鉛筆写生に興じたことが特徴的である。目的地を大まかに決め、三脚を背負い、脚絆を足に巻き、一日数枚の写生をしながら武蔵野を歩き(fig.1 注4)、夕方は宿にて小山からその日の成果の講評を受け、放歌高吟して眠り、また翌朝出立した(注5)という。明治の画家はよく歩き、旅をした。旅と絵画制作は同義語でないかと思える程である。思えば明治の画家は、沢を下り、山に登り、尾根を超え、やがて海を渡って欧米を巡ったのであった。
 
明治の青年洋画家達は、工部美術学校でフォンタネージから自然主義のバルビゾン派絵画を学び、日本の実際の風景画を描く(注6)野外写生の重要性を知った。工部美術学校退学、十一会や不同舎の設立に関わるいわゆる旧派系の画家達は連れ立って明治13年夏、甲州に旅行した。明治17年8月には、浅井、小山、高橋(柳)源吉、本多錦吉郎らは足尾に旅している。こうした旅の中で、不同舎で行われる野外写生実習という教程が出来上がったものと推定される。しかし、工部美術学校でフォンタネージの指導した風景デッサンとは、描画法において、差異があるように思われる。工部美術学校の松岡あたりの鉛筆風景は、樹木を黒く塗りつぶすような描法である一方、不同舎のものは、あまり紙を汚さず制限した線を中心としている。
 
こうした過程を経て、不同舎の塾生達の描いた武蔵野の鉛筆風景写生が「道路山水」と呼ばれるものである。そもそも「道」という語には、哲学的な意味が含まれるのに対し、「道路」には生活必需品的な卑近なニュアンスがともなう。一方「山水」には仙界を思わせる東洋的な高邁な雰囲気があり、「道路山水」の語はそぐわない二つの語を併せ、新式の珍妙な画題であるという一種の揶揄がこめられたものである。明治10年代は、洋画が排斥された時代であり、排斥側の反発も多分に含まれていた。
 
不同舎の門人は、延べ300人余ともいわれるので、そこで描かれた風景写生は実際にはおびただしい数に上るのであったろう。府中市美術館では、不同舎習作関係は鹿子木孟郎資料として156点、また吉田博資料として107点を収集している。他に東京文化財研究所にも、満谷国四郎などのこの時代の風景鉛筆デッサンが十数点存在する。さらには全国の施設にもまだそれぞれの画家達の資料が保管されているものと思われる。また不同舎での写生ではないが、平木政次の風景デッサンや、関西美術院における風景デッサンも不同舎同様の作例が残ってもいる。しかし、現在では限られた作例しか確認できない。それは紙白を多く残す鉛筆画は、習作として扱われたことも事実だからである。また長い年月の中で、紙が左右二つに折れて破れたものもあり、脆弱な画材であったことも遠因しているであろう。このように現在残された不同舎デッサンの全数把握は大変困難な状況にあるが、今後の発見が期待できる分野でもある。
 
それでは主宰者たる小山正太郎の自身のデッサンは、どんな作風だったろうか。小山正太郎は、不同舎に集った青年たちに、「たんだ(方言)一本の線で」と教えた。たった一本の線を大切にして描くべきだと指導し、洋画制作においても「線」を重視したのであった。府中市美術館所蔵の《猿橋》(cat.no.7 注7)は橋を下から見上げるという特異な構図で遠近法を展開し、渓谷に鬱蒼と茂る樹木の翳りが川面に反映するなど、その場の臨場感までを表わすさすがに指導者らしい表現が見える。さらに「線」自体も美しく、線の重なりが秩序をきざんでいる。残念ながら年紀が判読できないが、小山らしい貴重な鉛筆デッサンである。《猿橋》の画面左下のサインをこれまで「◻︎十一.八」と読んできた。しかし金子一夫氏は、小山正太郎、浅井忠、大河内信矼、高橋(柳)源吉、印藤真楯の5人は、明治13年夏甲州旅行に出た(注8)と述べておられる。7月26日に神田を出て、新宿、府中、八王子、五日市に泊。8月2日に甲府に泊。8月4日に猿橋に泊。8月6日に与野、八王子、日野と移動し、府中から帰宅した。そこで、金子氏の報告と併せて考えれば本図は、明治13年8月4日の猿橋取材による作品であろうと推測するが、このサイン部分の赤外線等の調査を待ちたい。ただし、この日の行程は、田野村→(山中踏破)→白野→初雁→花咲→大沢→岩殿村(城址登山)→強瀬村→(渡河)→猿橋(泊)と過密である。従って本図のような丹念な作品をこの行程の同日内に完成させることは不可能と思われ、いかに小山といえどもおそらく帰宅後に完成させたのではないかと怪しむほどである。何れにしても、小山の作風と力量を伝える貴重な一点であり制作年を明治13年頃とすべきと思う。

鹿子木孟郎の道路山水

不同舎風景写生のうち、年紀と場所のサインがあるのは、何と言っても鹿子木孟郎(注9)[明治7(1874)年一昭和16(1941)]のものが多く、これらが「道路山水」を代表している。鹿子木は、明治7年11月、岡山に生まれ、明治21年松原三五郎の画塾「天彩学舎」に入舎。《野菜図》(fig.2 注10)に見られるように、14歳とは思えぬ程の技量の高さを示している。明治23年東京に出たが脚気を患い、岡山に帰郷し中学の図画の教員となったものの、再び上京を果たし、不同舎に明治25年11月1日から28年6月まで在籍し小山正太郎に学んだ。在籍中には援助してくれた兄を亡くし、家長を継ぐことになり、教員免許を取得して、同28年9月に滋賀県彦根の中学校に赴任した。不同舎で「道路山水」を描いたのは18歳から20歳までの間であった。
 
鹿子木が不同舎に入舎した時、小山正太郎は17歳年上の師であった。鹿子木が入塾する二日前「25 10 30.」のサインのある人物画(cat.no.24 注11)がある。このモデルは、不同舎の誰かであろうと思われるが不明である。また、先輩には慶応2(1866)年長野生まれの8歳上の中村不折がいた。鹿子木はパリ留学時に不折にアパートを明け渡してもらうような関係でもあった。そして後輩には、明治9年生まれで2歳年下の吉田博がいた。鹿子木とは同郷で同い年、郷里の同門(松原三五郎の塾)でもあった満谷国四郎も同じく不同舎に学んだ。この吉田と満谷とはアメリカへともに旅行することになり、後に太平洋画会の設立と運営にも関わった。さらに、明治32年に8歳年下の青木繁や福田たねも入舎してくるが、その時はすでに鹿子木は舎を去った後である。このように不同舎は多彩な画家達が集うところであった。
 
ところで不同舎の主な風景写生会(注12)の場所としては鹿子木の写生と年紀によって以下が確認できる。明治26年9月の葛飾区亀井戸付近。明治26年11月の千葉県綾瀬市綾瀬、武蔵野市吉祥寺、西東京市・田無、小平市小川、小金井、府中市是政付近。明治28年4月の町田市忠生図師、川崎市高津区二子玉川付近。これらの写景実習があったことをデッサンは物語っている。むろん、これ以外にも当然開催されていたに違いなく、それらは今後の小山正太郎等の資料の調査によって明らかになるものと思われる。ちなみに、不同舎風景写生はいつ頃まで行われていたかと言えば、明治35年吉田ふじを《河原と橋》(cat.no.21)あたりを下限とすることができよう。ただし、鹿子木の場合、明治末年まで描いており、京都に移っても不同舎風景写生と同じスタイルで描き続けている。
 
鹿子木は道路山水という課題にどのような取り組みを見せたのだろうか。最初の作品が《山門(鎌倉)》(fig.3 注13)で、明治25年(1892)年12月14日の年紀を有する。石垣や石段の直線部分には生硬感があり、中景の奥行きを出すために、線を重ねて描き込み遠近を表そうとしている。また同日描いた《家屋、人物》(fig.4 注14)には濃淡表現において戸惑いが見える。習作であるが、鉛筆による奥行き表現を、線の交差よりも色面として捉えようとして、軒先が黒く塗りつぶされてしまっている。
 
この後、12月20日の《風景》(fig.5 注15)では樹木の枝の広がりを面として捉え、線で階調を出そうとしている。すでに線を自立させ、スクラッチの方向や密度、強弱に挑戦するようになっている。不同舎に入門して一ヶ月弱、《北豊島郡田畑》(cat.no.27 注16)では、鉛筆による風景表現に生硬感はさらに払拭され、濃淡の単調さを自然な奥行き感とリズムに変えている。この成長ぶりには驚嘆すべきものがある。
 
鹿子木は、明治26年2月11日に赤羽街道を写生(cat.no.39 注17)した。ここに不同舎風景写生の手順が見られるように思われる。つまり最初の第一手順は、輪郭線で区画を決め構図を決定すること、第二手順は奥へ奥へと次第に濃く黒くなる「遠濃」方式で奥行き感を出し、状況説明を加える段階である。また、この鉛筆デッサンをもとに、更にもう一枚輪郭線による下図を描いた後、次に木炭で《赤羽風景》(cat.no.106 注18)を描いている。全く同じ図様であるが、サイズを縦横とも15センチずつ伸ばしている。
 
この《赤羽風景》のように不同舎・鉛筆野外写生は、後日これらをもとに木炭画にも、水彩画にも展開させることができた。不同舎風景写生とは、後日修正の際の描起しの下図でもあるとはいえまいか。また、近景よりも中景を尊重する姿勢も手伝っている。
 
他方、人物画における写生方法の特徴を鹿子木の木炭画《横向きの男》(fig.6 注19)に見ることができる。現在の木炭デッサンの場合は、実際に光が当たる部分を白く描くことが多いように思う。鹿子木の木炭デッサンは、遠くは濃く近くは淡く描く。その為には、常に光は画家の背中からモデルに向かって射している必要がある。画家の背後に光源がある場合、遠くは濃く、近くは明るく描くことで、奥行き感が生まれるのである。《横向きの男》は、恐るべき描写力をもって、モデルの表情から性格にいたるまで克明に映し出している。この人物画の立体的描写法は、不同舎・風景鉛筆写生に見える「遠濃」での遠近法という点で共通する。
 
前年、十分スクラッチによる濃淡表現ができるようになった鹿子木が、翌年輪郭線だけの写生を残している。《田端》(fig.7 注20)にはさらに中景の樹木に濃いスクラッチが入れられている。まず、細線で全体を描く。画面の中心点をおく。遠近法の消失点と地平の高さを決める。中心的モチーフを決める。左右の主従モチーフを決める。ここにアクセントとなる部分を最小限描き込むのである。2月の降雪のため輪郭線のみで手をとめたのかもしれない。しかし、ここに、アクセントとなる中央部分の船と人を濃く描いている。それだけで鉛筆画とはいえ、完成した風景画の美しさが現れている。要点を残し、大幅に不要部分を捨象している。前景を省略し、輪郭線で全体構図の境界をつくり、鉛筆の濃淡で濃い部分をアクセントとして最も黒く、次第に薄くするように描いている。これは最初から水彩画の仕上がりを予測し、再制作すべき下絵を描いていることになる。実際に目の前に広がる景色を観察しながら、絵画としての風景を作って行く作業の積み重ねが道路山水図を生んだ。
 
明治26年11月23日の《北多摩郡府中駅》(cat.no.74 注21)では、細線で輪郭線をとりながら、全体的に濃淡をあまり用いず淡く描いている。最濃部分は、軒の人字部分に用いられ、全体のアクセントを為している。
 
また、明治25年12月26日《北豊島郡田畑谷田橋》(cat.no.25 注22)では、近景と遠景を省略、中景の細線描写によって奥行き感をもたせ、最も濃い部分が右手樹木の上部一カ所から次第にグラデーションを帯び、風景画として完成され、不同舎風景写生の水準を示すようになる。上述の風景を田端で描いた同じ12月の30日に、駒込でも《駒込動坂上リ口》(cat.no.26 注23)を描いている。ここでも、遠景は濃く描こうとする態度が見える。また不同舎道路山水に特徴的な横長の画面も使いこなして、遠近法のおもしろさを発揮し、広々とした空間と奥行き表現ができている。さらに点景に人馬を配して観者を画中に引き込んでいる。

水彩・油彩画への展開

明治26年10月28日の《赤羽村河岸》(cat.no.60 注24)は、輪郭線だけの部分もあり、中景への描き込みを加えた作例である。まず、輪郭線を描き、中景を濃く描き、遠景を淡く加筆するという工程がここでも理解できる。ただし、「線遠近法」とでも呼ぶべきか、近景に太い輪郭線を用いつつ、遠景へと次第に細く淡い輪郭線を用い奥行き感の表現に供している。
 
11月7日の《綾瀬》(cat.no.62 注25)では、輪郭線の肥瘦も僅かな幅におさめられ、また濃淡の幅も狭く、全体として淡く気品ある鉛筆デッサンとなっている。この綾瀬の5日後、淡白で静かな風景《根岸》(fig.8 注26)が描かれ、あの長谷川等伯の《松林図屏風》を思わせるような、森厳な風景が鉛筆デッサンによって誕生している。
 
明治26年11月23日の府中の農家を題材にした《府中鶏争穀》(cat.no.75 注27)では、屋根が輝き、そこにまばゆい光が感じられる。これは中景となる屋根の軒下に影が強く描かれたためである。中景描写の効果を大切にしている。建物の重厚感と、画面の光を鉛筆のスクラッチだけで描き出している。コントラストを強く、しかしトーンの幅は狭く画面を仕上げている。どの不同舎鉛筆デッサンでも、消しゴムを用いていないことも重要であろう。白いハイライトによる「消白」の効果はどの作例にも用いられないのである。
 
描写は短時間でまとめられている。また平面の組み合わせによる奥行き表現をとることで、後日これに着色すれば、明るい部分の紙を汚すことなく水彩画ができあがる。水彩画技法と衝突することなくすんなりと水彩画に移行できるのである。水彩画の下書き図としても成立しそうな描法となっている。
 
このような作風は鹿子木だけであろうか。丸山晩霞の《藤沢》(fig.9 注28)は、不同舎「道路山水」のなかでも優れた作品の一つである。吉田博にもまた同様の作品《中神》(cat.no.16 注29)がある。不同舎デッサンの特徴が、水彩画技法への転用を視野に入れた鉛筆デッサンであったという推測を実証するものでもある。淡く入れられた緑や黄色によって、日本らしい風景の画面全体が明るさに満たされている。
 
水彩画への転化を示すものとしては、鹿子木の《根津権現》(cat.no.78 注30)もその重要な一例である。構図的には《府中 鶏争穀》と同じく、建物を正面から捉え、様々な平面を組み合わせたものである。舞台の幾重にもおろされて行くスクリーンのような、なんともいえない奥行き表現の絶妙さがある。この絵のおもしろさは、着色の妙味にもある。さらに神社の中心(賽銭箱)を僅かに左にはずすことで、この絵に動きと緊張感を持たせている。鹿子木は、わずかな色数で濃淡表現を行っているが、それでも境内の細かい埃までが表現されている。一般的に水彩画の面白さは、様々な色合いの響きにあろう。しかしこうした不同舎の水彩画は、落ち着いた色調でまとめられ、そこに重厚感と静けさが漂っている。
 
鹿子木の水彩画《水車小屋》(fig.10 注31)には、塗り重ね部分がない。むしろ下書きの鉛筆線を残そうとしているのではないか。下書き線の濃いところには、濃い色を塗っている。鉛筆で形をとりつつ、鉛筆で濃淡をつけ、これに非常に淡く薄い色彩を乗せる方法でこの水彩画をつくっている。
 
不同舎の門人吉田博もまた、写景演習にでた。明治29年に府中の多摩川の北岸、《是政》(cat.no.18 注32)を描いた。付近に是政の渡しがある。淡い中間トーンでの鉛筆の描写があり、ここに淡く水彩絵の具による着色の余地を残しているかに思われる。
 
同じく吉田博の水彩画《雨上がりの少年のいる風景》(fig.11 注33)は日本の湿潤な気候を捉え、空気感の豊かな作品である。吉田は中川八郎らとともに、アメリカに渡りボストンで水彩画展を開催し、「ポケットに入らぬ程」の札束を得る大成功をおさめ、念願のヨーロッパへの切符を手に入れたのだった。この成功の鍵は、展示作品のどれもが、英国水彩画家にも劣らぬ情緒ある作品であったことである。描きためた水彩画をアメリカに持ち込んだとされるが、手早い写生による下絵があれば、着色は意のままであったろう。不同舎風景デッサンの成果が、ここに一つ結実したということはできまいか。
 
明治37年、『明星』と『美術新報』で三宅克己と鹿子木孟郎が「水彩画論争」を交えた。水彩画専門の画家は必要かどうかという論点ではあるが、これは鹿子木がフランスから帰国し、白馬会批判を行ったのと同じ文脈での専門水彩画家批判で、つまりは油彩画の優位を訴えるものであった。鹿子木は、これまでみてきたように不同舎デッサンを着実に鍛錬し、その上で非常に優れた水彩画が描けたのであった。これを考えれば、言葉通り水彩画そのものを批判したものでは全くない。
 
水彩画論争で話題になった、水彩専門画家といえる大下藤次郎の作品には、水彩画の妙味である瑞々しさがあふれている。《尾瀬》(fig.12 注35)を描いたこの構図は、全く不同舎風といってよい。やや遠い中景とのれんのように背後に正対する山、手前には省略されながらも、どんどん広がる空間が心地よい。不同舎風景写生は、水彩画の中に深く浸透したスタイルであるといえよう。
 
不同舎風景写生が盛んに行われる頃、明治27年に出版された志賀重昴『日本風景論』(政教社発行)は、刊行から8年間に十数版を重ねたベストセラーであった。刊行の時期が、明治27—28年の日清戦争の世相とも重なり、日本の風景が非常に特殊であり極めて美しいと主張するこの風景論は、国粋主義的な機運と関連づけられるかもしれない。志賀重昴の風景論は、日本列島を地質学、気象学、地形学などの観点から考察し、加えてそのすばらしさを賞揚した。その一項目「日本の文人、詩客、画師、彫刻家、風懐の高士に寄語する」の中で画家達に対して日本の自然界における奇岩、奇観の重要性を説きつつ、風景画を日本のアイデンティティの形成とも関連づけているからである。
 
鹿子木の不同舎への入学の仲介者は杉浦重剛であった。杉浦はイギリス留学の後、新聞『日本』を創刊したことで知られる。杉浦は志賀重昂らとともに欧化主義に反対し「日本主義」を唱えた。陰里鐵郎氏によれば「杉浦が化学,物理といった自然科学を学び,欧米の自然科学思想を尊重しながらも日本歴史や文学にみられる日本思想との調和を志向したように,後年の鹿子木は西欧絵画の技術の科学性を一面的ではあったが強調し,同時に日本的なるものとの調和を主張したことを考えれば,鹿子木の思想の根底には杉浦らの主張した日本主義がよこたわっていたようにもおもえる」(注36)という。日本らしさを国粋というか否かは別として、日本らしさについてむしろ非常に強い関心を鹿子木は寄せていた、洋画普及こそ日本らしさを中核主題としていたといえる。そして、彼を指導した小山正太郎も不同舎の塾生も同様である。だからこそ、国粋主義による「洋画排斥」に強く反発したといえる。
 
だがしかし、志賀重昴の風景論の説く日本らしい風景のすばらしさ、美しさに応じて不同舎の画家達は描いている。ただしなるべく素顔の日本の風景、つまり奇観、奇岩はないが、平遠な武蔵野を描くことに徹していた。ただ一本の線に、色彩の広がりや情感をのせ、やり直し、描き直し、修正が許されないたった一度の描写で、彩色するように、鉛筆で描いたのではないか。この、筆一本、ワンストロークの長さに託した気迫は、鹿子木の場合、水彩画のみならず油彩画へと展開した。平成13(2001)年に開催した「鹿子木孟郎 師ローランスとの出会い」展(府中市美術館)で紹介した「オイルスケッチ」を、鹿子木は《ノルマンディーの浜》(fig.13 注37)制作のために多数残しサロン入選を果たした。油彩画における筆致の妙は、こうした長年の修養の賜ものである。
 
武蔵野の実景を眼前にし、鉛筆の筆先に日本的近代風景画の獲得を願って描かれた写景素猫は、浅井忠、鹿子木孟郎らによって関西にも広がり、やがて明治末年の水彩画大流行の伏線となり、はたまた欧州における水彩画制作と油彩画下絵のオイルスケッチ技法へ、そして日本的水彩画および油彩画の誕生へと連なっていったのである。「道路山水」と呼ばれた不同舎武蔵野風景鉛筆写生は、まさに一本の筆線にのって、どこまでも続いていったのである。

(府中市美術館学芸係長)

1 徳美松太郎「鹿子木孟郎画伯小伝」「鹿子木孟郎画集」鹿子木孟郎画伯記念会、昭和9(1934)年
 
2 明治10(1877)年に病没した国沢新九郎を継いで以後本多吉郎が塾生を指導。また不同舎の構図担当者は、本多錦吉郎が指導にあたった。浅井忠が二つの型に在籍したこともあり、塾生指導には共通してあたった。
 
3 鹿子木孟郎《画塾》明治期 28.5×47.3cm 紙・鉛筆 府中市美術館蔵
 
4 写真「不同舎の写景旅行」明治27(1894)年4月8日 利根川の堤にて
 
5 満谷国四郎「不同舎の思いで」「小山正太郎先生」不同舎旧友会、昭和9(1934)年
 
6 浅井忠《鍛冶橋明治11(1878)年頃 13.3×18.0 紙・鉛筆 千葉県立美術館蔵など
 
7 小山正太郎《猿橋》明治期 44.0×24.0cm 紙・鉛筆 面左下:猿橋 ◻︎十一.八
 
8 金子一夫「小山正太郎資料(四):遊録艸稿 庚辰夏日 小山正太郎 記」「五河茨城大学五浦美術文化研究所紀(12)」茨城大学五浦美術文化研究所、平成17(2005)年
 
9 鹿子木孟郎については、昭和60(1985)年発足の鹿子木孟郎調査委員会による調査がはじめられ、平成元(1989)年に「鹿子木孟郎水彩・素描展(三重県立美術館)が開かれ、平成3年には三重県立美術館、神奈川県立近代美術館、京都国立近代美術館、岡山県立美術館において「没後50年鹿子木孟郎展」が開催された。子木孟郎の風写生についても、荒屋透「鹿子木孟郎とルネ・メナールー素描にみる鹿子木の主題・技法の展開」「鹿子木孟郎 水彩・素描展」(三重県立美術館、1999年)に詳しい。
 
10 鹿子木孟郎《野菜図)明治21(1888)年 26.5×49.6cm 紙・水彩 府中市美術館蔵
 
11 鹿子木孟郎〈眼鏡の青年)明治25(1892)年 36.7×28.8cm 紙・鉛筆 画面右下:T.KANOKOgi 25 10 30. 府中市美術館蔵
 
12 拙稿「百年前、武蔵野を描いた不同舎の画家たち」「(府中市美術館収蔵品ガイドブック)百年前の武東京一不同舎画家達のスケッチを中心に」府中市美術館、平成13(2001)年
 
13 鹿子木孟郎《山門(鎌倉)》明治25(1892)年 44.7×27.3cm 紙・鉛筆 「25.12.14」のサインがあり。府中市美術館蔵
 
14 鹿子木孟郎《家屋、人物》明治25(1892)年 37.0x29.0cm 紙画面右下:25.12.14. 府中市美術館蔵
 
15 鹿子木孟郎《風景》明治25(1892)年 29.0×38.0cm 紙・鉛筆 画面下:25.12.20. 府中市美術館蔵
 
16 鹿子木孟郎《北豊島郡田畑》明治25(1892)年 29.4×46.3cm 紙・鉛筆 画面外:北豊島郡 明治五年十二月日府中市美術館
 
17 鹿子木孟郎《赤羽村》明治26(1893)年 29.3×44.8cm 紙・鉛筆 正面右下:赤羽村 26.2.11. 府中市美術館蔵
 
18 鹿子木孟郎《赤羽風景》明治27(1894)年 45.7×60.5cm 紙・木炭、淡彩 府中市美術館蔵
 
19 鹿子木孟郎《横向きの男》明治26(1893)年 56.3×37.3cm 紙木炭 画面右下:8.◻︎1. T.KANOKog(以下欠失) 府中市美術館蔵
 
20 鹿子木孟郎《田端》明治26(1893)年 28.7×45.0cm 紙面外:田端 二六,二,十九 府中市美術館蔵
 
21 鹿子木孟郎《北多摩郡府中駅》明治26(1893)年 29.1×46.7cm 紙・鉛筆 画面左下:北多摩郡府中駅 廿六,十一,廿三 画面右下:T.Kanokogi 府中市美術館蔵
 
22 鹿子木孟郎《北豊島郡田畑谷田》明治25(1892)年 46.0×28.4cm 紙・鉛筆 北豊島郡田畑谷田橋 画面外:25.12.26. 府中市美術館面右下
 
23 鹿子木孟郎《駒込動坂上リロ》明治25(1892)年 29.2×46.2cm 紙・鉛筆 画面外:駒込動坂上リロ 25.12.30 画面外:25.12.26 府中市美術館蔵
 
24 鹿子木孟郎《赤羽村河岸》明治26(1893)年 29.6×57.5cm 紙・鉛筆 画面右下:赤羽村河岸 二六,一◯,廿八 府中市美術館蔵
 
25 鹿子木孟郎《綾瀬》明治26(1893)年 29.5×46.7cm 紙・鉛筆 画面右下:綾瀬  26.11.7. 府中市美術館蔵
 
26 鹿子木孟郎《根岸》明治26(1893)年 26.2×55.7cm 紙・鉛筆 画面外:26.11.12. 根岸 府中市美術館
 
27 鹿子木孟郎《府中鶏争殺》明治26(1893)年 29.5×46.5cm 紙・鉛筆 画面右下:府中. 明治廿六年十一月三日. 鶏争穀 府中市美術館蔵
 
28 丸山晩霞《藤沢》明治31(1898)年 28.5×47.5cm 紙・鉛筆・淡彩 画面右下:fujisawa 31.6 Banka. 府中市美術館蔵
 
29 吉田博《中神》明治27(1894)年 29.3×38.1cm 紙・鉛筆 画面右下:Nakagami Nov.5◻︎(Mか)27. 府中市美術館蔵
 
30 鹿子木孟郎《根津権現》 明治27(1894)年 26.8×57.6cm 紙・水彩 府中市美術館蔵
 
31 鹿子木孟郎《水車小屋》明治期 47.8×30.8cm 紙・鉛筆、水彩 府中市美術館蔵
 
32 吉田博《是政》明治29(1896)年 19.8×38.2cm 紙・鉛筆 画面右下:Koremasa Nov11◻︎(Mか)29. 府中市美術館
 
33 吉田博《雨上がりの少年のいる風景》明治36(1903)年 49.7×67.5cm 紙・水彩 画面右下:H.yoshida 1903 府中市美術館蔵
 
34 拙稿「鹿子木孟郎ーデッサンとタブローの間で」「鹿子木孟郎 師ローランスとの出会い(展覧会図録)」府中市美術館、平成13(2001)年
 
35 大下藤次郎《尾瀬》明治41(1908) 48.0×68.0cm 紙・水彩 左下:T.OHITA.OZE.1908 府中市美術館蔵
 
36 陰里鐵郎「鹿子木盂郎と日本近代」「没後50年 鹿子木孟郎(展覧会図)」三重県立美術館他、平成2(1990)年
 
37 鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》明治40(1907)年 164.0×219.0cm キャンバス・油彩 泉屋博古館蔵