一 武蔵野の気候
一 武蔵野の気候
武蔵野には多様な気候の地域がある。西端には、山の地形に強く影響された地性の強い山地気候。続く武蔵野台地には日本の代表的な平野気候がある。その東には、コンクリートジャングルの都心が作り出している都市気候。さらに臨海部の低地では海洋の気象変化に影響されやすい気候地域がある。武蔵野の気候はこのような多彩な気候が集まって作り出していることに特徴がある。
日本は、ケッペンの気候区分によれば、気候Cに当たり、詳細に言えば、cfa湿帯湿潤気候の区域にある。
その日本のなかにあって、武蔵野のある関東地方は日本のサンベルトとも言うべき陽光に恵まれた区域にある。このような地域の特徴は次の現象によりもたらされたものである。①地形、②冬の北西卓越風の存在、③西側を北上する対馬暖流。これらにより陽光に恵まれた地域が作り出された。
武蔵野の気候を、平成七年(一九九五)を例にして、具体的に記せば次表のようになる。
二 最近の武蔵野の気候
しかしながら、最近になって武蔵野の気候は大きく変わってきた。なかでも都心部の変化が著しい。外気温度の急激な上昇が見られるようになったのである。明治九年(一八七六)〜平成七年の間に東京の気温は夏冬共に一・七〜二・六℃も上昇してきた。この一〇〇年間での地球全体の気温上昇が〇・六℃と言われているので、東京の気温上昇は極めて大きいと言わねばならない。最低気温が二五°Cを下回らない日を熱帯夜と言うが、一九〇〇年代の初頭では皆無であったものが、最近では五〇日を数えるに至っている。高度成長期を経て①都市域の拡大、②地表面の人工材による被覆化、③エネルギー需要の増加、などが都市気候を形成したためである。都市の内外で気温の等高線を描くと、都市内部の高温域があたかも島のように浮かび上がってくる。そこからこの現象を熱の島、ヒートアイランドと呼ぶようになった。都心は海の沿岸にあるため、等高線は半円状になっている。都心に比べると周辺部は二〜四℃の気温差が見られる。このヒートアイランド現象は熱気団を作り都市温度を上昇させるのみならず、都市風と言う特別な都市気候を生み、様々な影響を生活に及ぼし始めた。島の中心部が低圧となるため、周囲から汚染物質を集めてしまう。さらに上部に逆転層ができるため、気温をさらに上昇させてしまう。武蔵野の気候では、海風による気温上昇の低減効果が大きかったが、風の減退が起こりやすくなった。また、雲量が増加しやすい。対流性の雲が発生しやすくなり、俗に言われる「環八雲」が発生する。都市部の気温上昇は熱対流を強くし雷雨など大雨が起こりやすくなった。また、集中豪雨となりやすい。このような気候変動が起こりやすくなってきたのはヒートアイランドの影響である。これらへの対策が現代の大きな課題となってきた。
現在、都市計画の決定されている縁地が全て整備された場合どのような改善が見られるかなをシミュレーションした研究があるが、確かに緑地の周辺では気温の低下が見られるものの、都市全体の気温を下げるのは困難であることが分かってきた。有効な手段の一つは海風を利用することである。そのため、東京都では都市計画に緑地や緑化された道路を組み合わせて、海風を都市内に導入する計画を始めている。武蔵野の風は、昼間は陸地から海へと流れ、夜間はその逆となる。そのため、都市の緑地配置がその流れを助ける形で構成されれば大きな効果が出る。既にそのような試みは全国各地で行われ始めた。
三 歴史的に見た武蔵野の気候
気候を歴史的に見ると、高温と同時に低温が起こす諸現象がいくつも記載されている。『武江年表』の安永二年(一七七三)の冬には両国川も氷結して通船も絶えたとあって、かなりの低温であったことがわかる。歴史書を見ると、一五〇〇年の前後の数十年(戦国時代)、一七〇〇年の前後(元禄の頃)、一七八〇年代(天明の頃)、一九一〇年代(明治末期から大正初め)に気温が低かったことが分かる。いずれも凶作の年である。
コメの作柄は時代の気温を知る、よい目安となっている。水稲は本来熱帯植物である。統計的に見ると七・八月の平均気温が一九℃以下になると収量は半分以下になる。統計によれば世紀単位の平均値で夏季の気温の平均値が二℃違うと、水稲の収量が半分以下になると言うような農業災害が生じていると言う。気候が温暖な世紀では、そのようなことは起こらないのであるから、気温と言うものは無視できない環境要素である。
低温の原因は小氷期の存在である。小氷期とは、最終氷期以降、山岳氷河が伸張し世界の大半の地域で気温が低下した時代を言う。小氷期には三つの波動が見られる。第一期は一五四〇〜一六八〇年頃、第二期は一七四〇〜一七七〇年頃、第三期は一八〇〇〜一八九〇年頃である。その原因は火山噴火説・太陽活動衰弱説などがあるが、まだ十分には解明されていない。天明三年(一七八三)から天明八年頃の時代の災害、いわゆる天明の大飢饉を記録したものに杉田玄白の『後見草』がある。家康人国後の二〇〇年ぶりと言われる災害について、玄白は科学者らしい詳細な記述をしている。文化九年(一八一二)から翌年にかけて、山陰地方を襲った低温災害では、現在では想像もつかない大河川氷結が起こった。この寒さがナポレオンをモスクワから敗退させた寒気であった。医者の橘南渓はこれらの災害に伴う餓死や疫病の惨状を『東西遊記』に記している。このような異常気候による災害は江戸時代に何回も起こるが、関東から東北にかけては壊滅的な惨状となったのに対し、九州では、人々の持ちあい型の社会が機能し、対策を立て、なんとか惨状になるのを防いでいる。
江戸時代の異常気象については飢饉の記録として多く残っている。八戸藩の上野伊右衛門が書いた『天明卯辰簗』は、天明の飢饉を記録したものであるが、同時に異常気象の記録でもある。江戸中期になると各藩の日記に毎日の気象が記録されているので状況を把握しやすくなるが、間歇的に異常気象に見舞われるのが我が国の気象の歴史と言ってよいだろう。
明治から昭和にかけての異常気象についてはあまり記録されていない。明治三五年、三八年を中心に明治末期には寒冷期が現れ、大正二年(一九一三)まで続いている。昭和になっても寒冷期が現れ、昭和六年(一九二一)、九年、一六年、二〇年と冷夏が続いている。二・二六事件の当日は大雪であったことが知られているが、この昭和凶作期が小作農を困窮に落ち入らせ、社会的騒動の引金となったと言われる。
昭和二〇年の異常気象による冷害は、戦争終結の騒ぎであまり知られていないが、二八年、四六年、五一年、五五年、平成五年にも異常気象は起こっている。
江戸の気温がかなり低温であったことは、浮世絵からも読み取ることができる。歌川広重の描いた桜田門付近の浮世絵や、芝・増上寺の山門付近を描いた浮世絵を見ると、モミが数多く描かれている。モミは北に多い常緑樹であり、温暖化の進んだ現在の東京では、皇居など、限られた場所以外では見ることはできなくなっている。
▼文献
旧家 康「気候で読み解く日本の歴史」日本経済新聞社、二〇一三。
二 武蔵野の地形・地質・水・埋立地
一 武蔵野の地形、地質、水
武蔵野とは、『広辞苑』第六版によれば、「関東平野の一部。埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域。広義には武蔵国全部」とある。この地城は西から東に向かって、地形的には山地・丘陵地・台地・低地が連なり、それぞれ地質が異なっている。地形分類図や地質図などの平面図を見れば、地形と地表を作っている地層と岩石は分かるが地下の状況は読めない。そこでこの地域を東西に切って断面模式図を作ると、山地・丘陵地・台地・低地の地下がどのようになっているかを理解することができる。武蔵野はこのような地形・地層の上にあり、その殆どは武蔵野台地と呼ばれるものである。
(a) 武蔵野台地の地と水
武蔵野台地は主として砂や礫で作られた層と、関東ローム層から構成されている。砂や礫は水が溜まりにくく、地表面を流れる大河川もない。そのため江戸時代までは草原や林が広がる平地として放置されていた。砂礫層の下の古い地層が不透水層となって地下水を貯留していたのだが、台地の西部では非常に深い位置となるため、深井戸を掘る技術が未熟の時代には利用できなかった。承応三年(一六五四)に玉川上水ができて、初めてこの台地に新田が開発されている。台地の東部では地下水が地表に湧き出て泉や池を作り、その水は台地を削り、谷を作っていった。神田川・石神井川がそれである。台地南部の多摩川に面した段丘崖には豊富な湧水が見られ、「はけ」と呼ばれている。
台地の北端は急な崖で荒川低地に接している。この低地に向って柳瀬川・黒目川・白子川が台地を刻み込んで流れている。川の間の台地は、柳瀬川の北側は所沢台、柳瀬川と黒目川の間は野火止台、黒目川と白子川の間は朝霞台、白子川の東は成増台と呼ばれている。
台地の南端は数段の崖線により多摩川沖積地に接している。青梅付近か世田谷の二子橋付近までは立川段丘が続いている。中間の国立付近には青柳段丘が発達し、昭島付近には拝島段丘・天ヶ瀬段丘がある。多摩川の下流部では立川段丘より上位の武蔵野段丘、田園調布付近では下末吉段丘が見られる。武蔵野段丘と立川段丘の崖線は国分寺崖線と呼ばれ、標高差はじつは二〇メートルにもなる。国分寺付近を水源とする野川は兵庫島(世田谷区玉川)付近で多摩川に合流する。武蔵野台地の東端は本郷台・黄島台・淀橋台・目黒台・荏原台で、急な崖の先に東京低地が広がっている。武蔵野台地の標高差は大きく、青梅付近では約一八〇メートルあり、東端の低地に接する所では二〇メートルくらいである。
(b) 丘陵部の地層と水
武蔵野には五つの丘陵がある。南に多摩丘陵、西に加治丘陵・狭山丘陵・草花丘陵・加住丘陵である。
多摩丘陵 多摩丘陵の西端は高尾山で、東端は三八メートル離れた鶴見(横浜市)となっている。標高は関東山地に接する所で二三〇メートル、東端で七〇メートルとなる。多摩丘陵には標高が付近に高度差四〇メートルの急な崖があり、これを境に西を多摩上位段丘、東を多摩下位段丘と呼んでいる。地層は上部から関東ローム層・段丘礫層・上総層となっている。段丘礫層の下に続く上総層群の地震は泥岩や砂岩からでき、岩質の違いで地形の様子が変わっている。砂質の地域では浸食が進んで谷幅が広く、尾根幅も広く、関東ローム層を厚く載せている。泥質の地域では尾根幅が狭く、殆ど関東ローム層を被せていない。
狭山丘陵 武蔵野台地からの比高が五〇メートルほどの独立した丘陵となっている。二本の大きな谷は堰止められ、狭山瀬と多摩湖が造られている。地層は礫や泥からなる第四紀更新世のものである三ツ木礫層と谷ツ粘土層で、その上に芋窪礫層が重なり、さらにその上にローム層が重なっている。この人造湖があるために周辺の開発が抑えられ、広い範囲で自然が保たれている。
加治丘陵 西は秩父山地に、北は入間川によって限られ、東西一〇キロメートルと延びた長い丘陵となっている。ここでは上総層群の飯能礫層や下総層群の豊岡礫層も丘陵や川で見ることができる。ここの地層にはスギ科やヒノキ科の針葉樹からなる豊富な亜炭層や、貝化石・アケボノゾウの化石が発見されている。
草花丘陵・加住五陵北部 青梅市南方に位置し、北側は多摩川により、南は平井川によって開析されている。標高は二〇〇メートルくらいで東側ほど低くなっている。第四紀更新世の上総層群である飯能礫層が広く見られる。
(c) 山の手の台地と水
豊島台・本郷台 武蔵野台地の東端にあり、北は石神井川、東は下町の低地で半島のような形態になった、完全に都市化された台地である。
淀橋台 神田川の谷と目黒川の谷に挟まれた地域である。玉川上水が流れ、明治神宮には清正の井戸がある。淀橋台の東端には千代田区・港区があるが、坂道が多く名前の付いている坂だけでも八七もあるほどの地形である。この台地の東端には急な崖があるが、昔の海岸線である。新宿御苑付近の地図を見ると、標高三〇メートル付近に渋谷粘土層があり、これに溜まった水が新宿御苑の池・明治神宮の池・松濤公園の池に湧き出していると考えられる。
荏原台・目黒台 この台地の西端は二三区で最も標高が高く五四メートルもある。荏原台の多くは下末吉面で東端は武蔵野台に相当する。呑川による谷が台地の中央を切り開いている。
(d) 下町の低地と水
東京湾は凡そ二万年前の氷河期に海面が下がり、利根川などが谷を深く掘り下げている。縄文時代に入ると海面は上昇し、湾内は堆積物で埋められた。その後小さな海面低下を繰り返し、現在の下町低地が出現している。近世から現代にかけて埋め立てが進行した。そのため様々な自然環境の変貌が起こっている。東京低地では沖積層の下に洪積層が広がっている。沖積層は概ね泥資で青灰色であるのに対して、洪積層は砂質で黄褐色のことが多い。青灰色は還元状態にある鉄の色で、黄褐色は酸化鉄の色である。沖積層は酸素の供給の悪いところに堆積したため、そのような色になるが、洪積層は、もとは陸上の風化物であり、空気に触れて酸化されたため、地表部分が黄褐色になったものである。東京低地の沖積層基底深度分布は複雑に見えるが、二種類の段丘状平面と、それらを刻む埋没谷の組み合わせと見ることができる。沖積層と言っても多摩川中流・上流部の上から下まで礫の沖積層と、江東の軟弱な砂泥よりなる沖積層では全く違う。この沖積層の違いと厚さが地盤沈下、震災とからんで重要な問題となる。
二 埋立地
武蔵野の土地のなかで特徴的なものは、江戸湊に人力により造られた土地が少なからずあることであろう。太田道灌が江戸城を建設するのは長禄元年(一四五七)であるが、その際、江戸湊も創られている。徳川家康は江戸に入り、直ちに埋め立てによる土地造成を始めている。江戸に集まる多くの武家を受け入れるために、大量の土地が必要であったのである。当時、日本橋・京橋・有楽町は低湿地であり、日比谷公園付近まで入り込んだ入江は、江戸城のすぐ広くにまで追っていた。大規模な埋め立ては文禄元年(一五九二)から始まる。天正・文禄年間に江戸市街は急速に拡大し埋立地と言う土地を創り出していった。人により創り出された土地は、その上に植えられた樹木と運河と言う人工の河川を巡らした庭園都市とも言える風景を創り出していった。
しかしながら、埋め立ては遠浅の海と言う自然を消滅させることでもあった。浅海部の自然の消滅と共に、漁業も大きな影響を受けて行く。埋め立てにより創られた都市と港は、明治期以降、さらに拡大され、埋め立てによる自然の破壊に気が付き、再び海に自然の貴重さに気付いて、その保護と再生に取り組むようになるのは、昭和四〇年代の半ばである。
江戸時代における内湾の埋め立てを整理した資料によると、文禄元年の日比谷の入江埋め立て以後、天保五年(一八三四)までに、三二件の埋め立て記録がある。そのうち一七件は工事名称に新田と言う名が記されている。新田と言うと、武蔵野台地に展開された開発農地を思い出すが、埋立地の場合、その多くはゴミ処理場である。理立地の造成は、ゴミ問題と密接な関係があり、これは昭和四〇年代に発生しゴミ戦争まで継続し、現在もまだ続く都市問題の一つとなっている。しからば、臨海部の人工の土地は江戸時代以後どのようになっていったのであろうか。明治から昭和三五年(一九六〇)までの造成規模を東京都港湾局の資料で拾えば一八七八ヘクタールとなる。またその後も続いた埋め立て工事により平成五年(一九九三)までに三一七五ヘクタールの土地が造られ続けている。合わせて四二四〇ヘクタールとなる土地造りは、江戸時代から昭和三五年までの埋め立て累計一一〇〇ヘクタールと比べて、いかに広大なものであるかが分かる。この埋め立ては単に浅海の自然の消失のみならず、その自然を生活の場としていた漁業の消滅にも連動している。そのため漁業権の補償を巡る激しい攻防が繰り返されたことは、『東京都内湾漁業興亡史」(一九七一)に詳しい。このような経済的機能拡大を第一義とする姿勢を転換させ、自然環境の質的改善と保全を中軸に据えた新しい方向が、港湾審議会で決定されたのは昭和四九年である。江戸時代以来問題となり続けていた武蔵野の海辺の自然は、ようやく保全と再生に向けて進み始めた。
▼文献
貝塚爽平『東京の自然史』講談社学術文庫、二〇一一。
貝塚爽平監修・地学のガイド編集委員会「東京都地学のガイド 東京都と地質とその生い立ちー』コロナ社、一九九七。
田家 康『気候で読み解く日本の歴史』日本経済新聞出版社、二〇一三。
東京経済大学多摩学研究会『多摩学のすすめ』けやき出版、一九九六。
東京都『東京港史』一九九四。
東京都環境局「レッドデータブック東京二〇一三』二〇一三。
東京都内漁乘興亡史編纂委員会編『東京都内湾漁乘興亡史』同刊行会、一九七一。
岩林敬子『東京湾の環境問題史』有斐閣、二〇〇〇。
三 武蔵野の昔の動植物
ー 武蔵野の生物
武蔵野の生物の歴史は古い。植物で言えば、縄文晩期には西日本は照葉樹林帯となり、中部高地から東北へかけては落葉広葉樹林帯であったと言うのが一般的な脱である。堆積物の層や花粉分析、及び放射性炭素による年代測定が可能となったので、関東地方の植生史についても過去一五万年間くらいの研究が進んでいる。しかし、同一地点の連続した堆積物がまだ得られていないので、細かな研究はこれからである。東地方の太平洋沿岸における約一万年前の後水期の照葉樹林研究では、シイ林の拡大は沿岸域のみで、内陸ではカシ林が拡大していたのではと言われている。そのとき、ナラ類やシデ科の落葉広葉樹を随伴していたのではと言われている。後氷期には減暖期があるが、山地部では亜寒帯性針葉樹林が拡大し、スギ林を含めた温帯性針葉樹が平野部の森林構成樹になっていたらしい。その後変遷を繰り返し、現代の森林帯となっていくのである。開東は日本のほぼ真ん中で、地形としては東西方向と南北方向の屈曲分岐点にある。これが植生の移行に大きく影響している。その後、武蔵野は広大な草地となり、詩歌などにはそれらの風情を偲ぶものが少なくない。しかし、江戸時代になると用水が開発され新田の時代を迎えるようになる。『江戸名所図会」巻三にあるように、柳沢吉保が川越城主となって実施した北武蔵野新田開発の際、一部に往時の原野を偲ぶ風景を残したとあるのを見ても、この時期には既に武蔵野の草原風景は少なくなっていたのであろう。
二 江戸時代の生物とナチュラリスト
江戸時代の武蔵野の生物を知るには当時の自然誌を探る方法がある。スウェーデンの植物学者リンネは全ての動植物・鉱物を、有用・無用を問わず対象として扱う手法を生み出した。ナチュラルヒストリーと呼ぶこの考え方は、江戸時代の人々の考え方と似ている。江戸時代の人は今の博物学のように、自然を細分化せず総合的に見ていた。日本ではこの考え方は自然誌と言う考え方に集約される。江戸時代このような考え方で武蔵野の自然を見ていた人は少なくない。貝原益軒は『大和本草』を宝水六年(一七〇九)に出版するが代表的自然誌と言ってよいだろう。農業も自然を建盤にした産業であるが、有名な「農業全書』は宮崎安貞によって元禄一〇年(一六九七)に出されている。動物を海外から取り寄せ研究することも、この時代から始まる。将軍吉宗は享保一三年(一七二八)に博物学の研究のため、ベトナムから象を取り寄せ、現在の浜離宮恩賜庭園で飼育し、研究させていた。吉宗の蔵書には外国の動物図鑑がある。職業として本草学を作った小野蘭山はリンネより二二歳年下であるが、『本草綱目啓蒙』と言う、その後広く利用されるようになった図書を享和三年(一八〇三)に出版している。シーボルトの来日が文政六年(一八二三)であるから、この頃日本の自然誌は充突し始めていたのであろう。岩崎堂正の『武江産物志』は文政七年に出版されるが、日本橋から約二〇キロメートル圏内の生物の解説と、その遊覧のための案内書である。言わば身近な生物を学ぶため自然誌である。なお岩崎は号を灌園と称し、『本草図譜』と言う日本の代表的植物図鑑を作った人としても著名である。飯沼守之(慾斎)は安政三年(一八五六)に『草木図説』を出版しているが、「本草図譜』と共に当時の植物図鑑の双璧と言ってよい。シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』の出版はこれらの図鑑が出版されて、間もなくの一八七〇年である。これらのナチュラリストの活躍は、幕末から明治に入って田中芳男・馬場大助・大槻玄沢・伊藤圭介らに引き継がれてゆく。これらの人々のした自然誌は、当時の生物の状況を知る貴重な資料となっている。
三 『武江産物志』と武蔵野の生物
本書は日本橋を中心に約二〇キロメートル圏内の身近な生物を紹介した貴重な資料である。しかしながら僅か三六ページと言う資料であるので、その内容には限界がある。この資料の特徴は生物の記述のみならず、記載された生物がどこで観察されたかも記されているので、細かな分布状況が把握できることにある。さらに鳥の記載の多いのは、農家が肥料として雑木林を経営する時、林の面積を土地面積の二五〜三〇パーセントとっていたので、これが野鳥の渡りの飛び石となり、江戸市中でもたくさんの鳥の姿が見られるようになっていたのであろう。
さらに便利なのは、この本には地図がついていて一寸が一里で書かれているので、様々な読みが可能なことである。本文で取り上げている内容は、①野菜 一〇二件、②キノコ 二〇件、③薬草木類 三六五件、④遊観類(花見) 一三三件、⑤名木 八六件、⑥虫類 七五件、⑦魚類 六八件、⑧鳥類 六四件、⑨獣類 一四件である。内容としてはツル・コウノトリなど、現在では全く見られなくなった種類を除けば、個体数は激減しているが、現在でも見られるものが少なくない。なお、この時代の大名庭園内の生物について柳沢信鴻が書いた『宴遊日記』に詳しい。
▼文献
小野佐和子「六義園に見る江西大名庭園の動物」『ランドスケープ研究』64ー5、二〇〇一。
芸能史研究会編『宴遊日記』日本庶民文化史料集成13、三一書房、一九七七。
野村圭佑『江戸の自然誌』丸善出版、二〇一六。
四 武蔵野の現代の植物
変貌してゆく環境のなかで、武蔵野の植物は現在、どのような状態にあるのだろうか。これを把握するには二つの方法がある。一つは大地の緑被の状況を把握し、現在の緑の量的分布状況を把握し、同時にその変貌を把握する方法である。もう一つは、植生図を作成し緑の内容を把握すると同時に、その変化を把握する方法である。この場合の変化は、自然植生が二次植生に変化すると言う、極めて長い時間での変化であり、緑被が開発などにより比較的短時間で変化するのとは違った変化となる。
一 緑被率から見る現在の植物
土地が樹木や草地などで覆われている程度を、緑被率と言う指標で表現する。東京都ではそれをさらにそれを区分して緑被率一〇パーセント以下を一、一〇〜三〇パーセント以下を二、三〇〜五〇パーセントを三、五〇〜七〇パーセントを四、七〇パーセント以上を五として段階別の指標にして公表している。以下、東京都の資料に基づきその実態を紹介したい。
(a) 区部では緑被二が最も多くなっており縁被一を合わせると、昭和四七年(一九七二)では五九パーセントあったものが五八年以降は六三パーセントになっている。部心・山の手・下町の各地区で緑被ーと緑被二が広く分布している。
(b) 都心地域では緑被一の地域が五〇パーセント以上になっている。昭和四七年の五四パーセントが少しずつ増え、六二年には五八パーセントまでいったのだが、平成三年(一九九一)には五四パーセントに戻った。
(c) 山の手地区では昭和六二年までに緑被一が二九パーセントから四七パーセントに増加し、緑被が四五者から三六パーセントに減少して相対的に緑被の減少が起こった。しかし、増加傾向にあった緑被一の地域も平成三年には四三パーセントで落ち着いている。
(d) 下町地域では緑被一が減少し、緑被二と緑被三が増加している。
(e) 北多摩地区では、昭和四七年から六二年にかけて緑被五は二四パーセントから五パーセントに大きく減少したが、平成七年には七パーセントに回復した。緑被二は昭和四七年から六二年にかけて八パーセントから一六パーセントに増加したが、平成三年には横ばいになった。
(f) 南多摩地区では緑被三が昭和四七年から五八年にかけて六二パーセントから五一パーセントに減少し、緑被四が同時期に八パーセントにから一四パーセントに増加した。
(g) 西多摩地区では昭和四年から平成三年までに緑被五が七七パーセントから六五パーセントに減少しており、緑被一から緑被四までは、いずれも増加傾向にある。
多摩地区を地区別緑被率の変化で見ると、昭和六二年から平成三年にかけての変化は極めて僅かである。北多摩地区では昭和四七年の五七パーセントから平成三年には四四パーセントに減少したが、緑被率は区部の二倍である。南多摩地区では昭和四七年の八七パーセントから六二年には七九パーセント、平成三年は七八パーセントと徐々に減少しているが変化量は少なくなってきている。西多摩地区では平成三年の緑被率は九五パーセントと非常に高く、減少傾向にあるとは言え、その減少は小さいものになっている。
二 植生図から見る現在の植物
(a) それらの緑の内容は植生図から読み取ることができる。植生には自然植生と代償植生とがある。武蔵野を中心とする地域は、古くは台地・低地にスダジイ・タブノキ・シラカシ・ウラジロガシ・アラカシ林などと言う、常緑広葉樹林の自然があったと言われる。一度、人の手が加わった上に成立する樹林を二次林・二次草地と言うが、武蔵野の樹林はこのような変化を長い時間をかけて行ってきた。模式的に言うと、昔は武蔵野の西の地域にブナ林があり、東の地域にはシイ林・カシ林と言う常緑広葉樹林があったものが、今では、西の地域はミズナラの植林となり、東の地域はクヌギ・コナラ林と言う落葉広葉樹の林に変わってきたと言うのが、武蔵野の植物・樹林である。厳密に自然植生を探すと奥多摩にあるブナ林・コメツガ株など、僅か八パーセントくらいのしかないと言うのが実情である。
(b) 武蔵野の樹林を平地と山地に分けてその内容を見よう。平地には広葉樹と針葉樹がある。広葉樹には常緑樹と落葉樹があり、前者はスダジイ林とシラカシ林となる。後者はクヌギ・コナラ林である。針葉樹は植林であってスギ・ヒノキ林である。山地にも針葉樹と広葉樹があるが、針葉樹はコメツガ林とモミ林となる。平地の植林は揃って植えられているが、山地の植林は不揃いのことが多い。山地の広葉樹はブナ・ミズナラ林である。このように立地により植物の内容は異なってくる。このような植物の状況を平面に図化したものが植生図である。東京の植生図には五八の植物群落と、六六の区分が描かれている。代表的な区分を地名で言うと、山地(奥多摩・高尾山・八王子)・丘陵地(町田)・台地(小平)・低地(足立)、台地と低地の境目(太田)となる。
(c) 東京の植生図には自然植生(コメツガ林・ブナ林・モミ林・シラカシ林・スダジイ林など)と代償植生(常緑二次林・植林など)が描かれている。そのため緑の内容とその変化が把握できる。
▼文献
東京都『’91東京都緑の倍増計画』一九九一。
福島 司編者『日本の植生』朝倉書房。二〇一七。
五 武蔵野の現代の動物
一 武蔵野の動物の衰退
現在の武蔵野の動物については、植物における緑被図や植生図のような、武蔵野の全体を見渡せるような、総合的な資料は見当たらない。しかし、都市化に伴う動物の退行曲線は作成されている。
一九七〇年代に、品田穣らが始めた東京の自然史研究会が実施した生物衰退実態調査は、武蔵野における生物の衰退実態をよく示している。ホタルは既に昭和三五年(一九六〇)には東久留米・立川・府中市の郊外を結ぶ線まで後退している。ホタル同様、幼虫時代を水生生物として過ごすトンボは、昭和四〇年までに武蔵野台地の大半から消えている。トノサマバッタも昭和四四年までには、武蔵野台地の大部分で消えてしまっている。別の調査によれば、タヌキやキツネのような中型の哺乳類は、一九七〇年代に武蔵野台地から姿を消していった。
その原因の一つに谷津田の埋め立てがある。狭山丘陵・加住丘陵・多摩丘陵では、昭和四五年頃から谷谷津田の消失が急増した。小泉武栄の調査によれば、谷津田の分布数は一九五〇年代のそれに対し、狭山丘陵で一六パーセント、多摩丘陵で一六パーセント、草花丘陵で一二パーセントになったと言われる。津田の埋め立ては、殆どが両側の雑木林を切って斜面地を削り、造成される。谷津または谷津田を生息場所とする動物は、これらが失われるならば消滅せざるを得ない。同じく小泉武栄の調査によれば、狭山丘陵では大正五年(一九〇)四九地点あった谷津は昭和六三年には一〇地点に減少し、多摩丘陵では一九二〇年代には五五八地あったものが、昭和六三年には一〇一地点まで激減したとある。谷津田を生息場所とする動物が減少したのも当然である。その後、このような動物相の変化を調査し情報を発信しようとする試みも各地で見られるようになってきた。
多摩市文化振興財団では平成二一年(二〇〇九)に「ほ乳類が見た地域の歴史」と言う企画展を行い、多摩丘陵におけるほ乳類の変貌を見せている。多摩市には明治初期に連光寺村御料場と言う皇室の猟場があった。大正の初めになって猟場のあとに農商務省の鳥獣実験所が建てられ、研究が続けられた。その歴史と多摩ニュータウン建設に伴う生物の減少もあって、この企画展が開催されたのであろう。
二 武蔵野の動物の新しい動き
退行一方であった動物の生息状況に、最近、新しい動きが出てきた。動物が戻ってきたのである。しかも都市内に出現すると言う報告が、各所で見られるようになった。動物たちが新しい環境に対応する術を会得したのである。これらの動物については資料も少なく、系統的には説明しにくいので、以下、個別的な紹介にしたい。
(a)「ほ乳類」 この代表はタヌキである。小宮輝之によれば、三〇年ほど前には多摩動物公園には野生のタヌキが住み着き、放し飼いをしている鳥類を襲っていたと言う、この時代はタヌキを捕まえた人と、それを放せと言う住民の対立が多かったと言う。野生生物を貴重と考える新興住民が増えてきたのが理由と小宮は解説する。一九八〇年代に入ると、日野市・町田市・八王子市・青梅市などからタヌキが観測され、九〇年代に入ると都心に近い小金井市・調布市、さらには杉並区や板橋区でも目撃されるようになったと言う。千代田区の皇居や赤坂御用地では平成一一年頃から住み着いたようである。多摩丘陵から二三区周辺部までは約一五キロメートル、二三区周辺部から都心までを一〇キロメートルとすれば、野生のタヌキが都心に現れてもおかしくはないとのことである。都心は残飯が多く、里山で餌を探すよりも容易で、人もタヌキの存在に無関心であるので都会は意外と住みやすい環境なのであろう。
(b)「鳥類」昭和四五年頃までは日野市より上流でしか見られなかったカワセミは、一九七〇年代中頃から都心に向かって復活し始めたと矢野亮は言う。八〇年代には多摩川中流域へ、昭和五七年には杉並区の和田堀公園や練馬区の石神井公園、昭和六三年には港区の自然教育園での繁殖が確認されていると言う。最近では、都心の多くの公園・庭園で観察できるようになった。その理由は、矢野によれば、農薬が規制されモツゴやザリガニが増えたこと、カワセミに適応性ができたこと、人々の愛鳥精神が高揚してきたことにあると言う。カワセミの繁殖には赤土の崖が必要と言うのが通念であったが、ゴミ捨て場や砂の貯留施設の利用まで観察されると言うから、適応力は幅広いものになっているようである。自然教育園では最近、繁殖が止まっていると言うが、それはブルーギルなどが離されてカワセミのエサが全滅したためと言われている。カワセミの復活一つとっても外来種との戦いと言う現代的な課題が浮かび上がってくる。
(c)「両生類」トウキョウサンショウウオの生息地は激減し、絶滅が危惧される地域個体危惧種に指定されているが、まだ有効な保全は取られていない。平成一〇年にはボランティアによる多摩全域の一斉繁殖状況調査が行われた。その結果、約二〇〇か所の産卵場と約六〇〇〇頭の個体が確認された。現在の環境悪化の進度では減少傾向に歯止めが掛かりそうにない。奥多摩山地には渓流に住むヒダサンショと、ハコネサンシショウウオがいるが、山奥に住むためトウキョウサンショウウオほどの影響は受けていない。
(d)「魚類」 武蔵野の最も身近な魚であったメダカは遂に絶滅危惧種になってしまった。平成二年度の都立公園の池の調査では、五か所の公園で確認されたに過ぎない。平成二三年度の環境調査でも、多摩川とその支流の土地点でしか観測されていない。農薬の仕様が規制されたにも拘らず減少する理由は、浅井ミノルによれば、生息環境である浅い緩やかな流れの川や、水路が無くなってきたためと言う。田んぼ水路は管理しやすいコンクリート水路となり、稲作が終わると排水し、乾かしてしまう。これでは生息環境にはならないからであると言う。もう一つの問題は、ペットショップで買ったメダカを放してしまうことだとも言う。このメダカは黒メダカであるため遺伝子が混じってしまうのである。メダカを増やそうと言う善意が意外な形で跳ね返っている。
(e)「昆虫」 都心にニホンミツバチが増えている。一時は都市開発の波におされて大きく個体数を減らしていたニホンミツバチが、都心で復活し始めた。小野正人によれば、理由は二つある。一つは都心はコンクリート・ジャングルであるため、ニホンミツバチの天敵であるオオスズメバチがいない。二つ目は、都心には皇居や公園など大きな緑地があり、また街路樹などもあって、蜜花粉源植物が中途切れることなく咲き続け、食環境が安定しているためと言う。そのため、都心でニホンミツバチを飼育し蜂蜜を作り始めた人もいる。問題は「ハチは刺すもの」と言う概念があり、人間とハチの共存を難しくしている点にあると言う。これをいかに解消させるかが課題である。
▼文献
東京都『緑の倍増計画』一九八四。
東京都環境局『レッドデータブック東京二〇一三』二〇一三。
東京都環境保全局『東京都現存植生図』一九八七。
東京都公園協会『東京の自然図鑑合本』二〇〇九。
広井敏男『多摩の「緑」』東京経済大学多摩学研究会編『多摩学のすすめⅢ』けやき出版、一九九六。
六 自然を守る
自然を保護するための方策として、通常、法律などの制度を作ることが行われる。これをより地域に密着したものとするために自治体の法律・条例が作られるのが一般である。武蔵野の主要部分は東京都であるが、昭和五〇年(一九七五)に具体的な方針を示す東京における自然の保護と回復の基本方針が公表されている。この方針には自然の保護と回復のためのゾーニングが記されており、施策の大綱が分かるので紹介しておきたい。
①原生自然保護区域 原生自然を現状のまま保護すると共に、一部に見られる植林地などについては、長期的に見て自然林への復元を目指す区域。
②自然保護区域 自然の保護を第一に考えるが、自然の探勝の場としての利用は認める区域。
③植林地保全区域 自然保護との調整を考慮した林業経営を主体とする区域で、原生自然保護区域・白然保護区域の緩衝地域としての性格を持たせる区域。
④丘陵地保全区域 丘陵地に残存する大規模な樹林や、丘陵としての地形及び景観を保護する区域。
⑤多摩川保全区域 多摩川の河川敷を中心に、周囲の緑を含めて、良好な自然環境を保全する区域。
⑥田園都市区域 残存する樹林や農地の保存を図りつつ、合わせて必要な都市的施設を整備し、緑豊かな魔都市地域を目指す区域。
⑦都市緑化区域 緑化を重点的に推進し、失われた自然の回復を図る区域。
⑧海浜保全区域 東京湾岸の海浜の自然をできるだけ保護し、都民と海との接触を図る区域。
⑨島嶼自然保護区域 海洋性・火山性の特異な自然環境をできるだけ保護する区。
なお、ゾーンごとに大網も決められている。以下に、武蔵野に関係の深い部分を紹介する。
④「丘陵地保全区域」 丘陵ごとに保全区域の指定を含めた保全のための計画を策定する。この区域のうち、市街化区域以外の土地については、公益性の強いもの以外は開発行為を認めないものとする。開発を許可する場合にあっても、緑地の保護・緑化の厳しい条件を付すなど、可能な限り自然の保護と回復に努めるものとする。
⑤「多摩川保全区域」 自然環境保全地域などの指定を図り、水辺の植生や野鳥などの保護に努める。
⑥「田園都市区域」 自然公園、風致地区の緑を始め、社寺の緑、段丘崖に遺された緑などの保護を図り、これらを含めて緑の連鎖帯を形成して環境保全の軸とする他、中小河川を利用した水と緑の散策道を設置するなど、自然の回復に努めるものとする。その一環として、残存する良好な緑地のうち適切なものは、保全地域など緑地を守るための地域指定を考える。また、返還軍事基地を利用した大規模な公園、その他都市公園などの自然空間の造出に努めると共に、地域の緑化・施設の縁化を合わせて推進する。開発行為については、緑地の確保などを条件とする。
以後、この方針に沿って事業は進められたが、地球温暖化・生物多様性などの新しい課題も入れて環境基本計画が改良されている。平成二八年(二〇一六)の環境基本計画では、自然豊かで多様な生き物と共生できる都市環境の継承と言う大頃目のなかに、①生物多様性の保全・緑の創出、②生物多様性の保全を支える環境整備と言う裾野の拡大をした柱を立てている。これからわかるように多様な分野との連携と、その強化が重要な課題となってきた。なお、最近の計画では、従来使われてきた縁被率ではなく、みどり率と言う用語が使われている。緑が地表を覆う部分に公園区域、水面を加えた面積が、地域全体に占める割合を示す指標で、平成一五年の部全体のみどり率は五〇・五パーセントで、うち、区部は一九・八パーセント、多摩部は六七・一パーセントとなっている。平成二〇年と比較して、区部で初めて上昇、多摩部では低下幅が縮小し、全域ではほぼ横ばいとなっている。長期的な緑の減少瀬向は継続している。
▼文献
土居利光『東京都における公園緑地計画の系譜Ⅱ』東京公園文庫・東京都公園協会、二〇〇九。
広井敏男『多摩の「緑」昨日・今日・明日』東京経済大学多摩学究会編『多摩学のすすめⅢ』けやき出版、一九九六。