HUMANITIES

武蔵野の環境と人間

武蔵野文化協会

 

September 2020|Archived in January 11th, 2025

Image: Sato Koichi, “The Musashino of Today”, 2024.

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

底本の行頭の字下げは上げた。
本稿は、武蔵野文化協会著『武蔵野事典』から掲載している。掲載を承諾いただいた武蔵野文化協会に厚く感謝申し上げる。
 
武蔵野文化協会と『武蔵野事典』について
武蔵野文化協会(前身「武蔵野会」)は大正5年7月に創立。旧武蔵国を中心に、 武蔵野の歴史と文化を調査・研究してその成果を『武蔵野』に発表。『武蔵野事典』は、『武蔵野』創刊100周年を記念(大正7年7月創刊)して、令和2年5月に第359・360号として刊行。『武蔵野』は現在通巻362号。
武蔵野文化協会WEBサイト

BIBLIOGRAPHY

著者:武蔵野文化協会(1916-)(樋渡達也)
題名:武蔵野の環境と人間原題:生活の自然
初出:2020年9月
出典:『武蔵野辞典』(武蔵野文化協会。2020年。18-28ページ)

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一 学園都市と自然

一 武蔵野の住宅建設
江戸は不思議な構造の都市であった。幕末に来日したフランスの貴族ボーボワールの言うように市街から歩いて行くと、いつのまにか美しい田園へと入ってしまう。しかし、その美しい田園・武蔵野に別邸を持とうと言う人はいなかった。武蔵野に別荘を探し始めるのは、大正期の初め頃からである。国分寺周辺にはこの時代、現在、殿ヶ谷戸庭園や滄浪泉園となっている地所や、日立中央研究所となっている広大な地所が別荘として造られている。現在、知られているだけでも六か所ある当時の別荘には、敷地選定に特徴がある。国分寺崖線に沿った地元で「はけ」と言われる場所、泉が湧き出る場所が選ばれているのである。崖の上にに別荘を建て、斜面と低地を使って優雅な庭を作っている。「はけ」は昭和年代に入って、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』で有名になるが、大正の初めに別荘を探した人々は、その場所の自然環境の価値を見抜いていたのである。崖の上の別荘からは富士山が見え、多摩川へと広がる風景が一望できたのであるから、週末を寛ぐには誠によい場所であった。当時の地図を見ると殆どが桑畑であり、それに畑地が点在し、農家が点々とあると言う環境である。鉄道は既に敷設されていた。
 
しかし、一般の人々が武蔵野に住まいを求める動きが出始めるのは、関東大震災以後である。震災で住宅を失った人々の目が一斉に武蔵野へ向けられたからである。
 
二 住宅と学校の武蔵野への進出
この時代、注目すべきは住宅地を武蔵野に求める需要と共に、多くの学校が都心から武蔵野台地へと移り始めることである。大正一三年(一九二四)には、はやくも成蹊学園が池袋から武蔵野村へと移転している。
 
関東大震災後、東京商科大学長であった佐野善作は、堤康次郎に勉学に相応しい環境の土地を探してくれるよう依頼するが、その条件を満たしたのが、自然の豊かな武蔵野台地であった。現在の国立周辺がその候補地となったのである。このような動きは次々と現れる。大正五年には東京高等音楽院、昭和二年(一九二七)には東京商科大学専門部がいずれも国立へ、昭和六年には津田英学塾が麹町から小平へと移ってくる。さらに昭和八年には東京商科大学予科が石神井から小平へ、昭和九年には自由学園の新校舎が久留米に建設される。勉学に良い自然豊かで静かな場所、即ち武蔵野と言う共通した思いがそこにあったに違いない。
 
三 学園都市と言う名の住宅地開発
堤康次郎は当時箱根土地の専務であったが、佐野が土地探しを依頼したとき、既に大泉と小平で宅地開発を進めていた。名付けて学園都市開発である。箱根土地の開発方式は対象範囲を全て買収する方式で、様々な困難を抱えながらも、地主からの分譲業務だけを引き受けると言う安易な方式を避け、総合的事業を進めていた。堤は都市基盤の整備された良好な環境の住宅地こそが学園都市であると考え、また事業にその名を冠して実現に情熱を注いでいたのである。佐野はこのことを知っていたからこそ、堤に土地探しを依頼したのであろう。この人々の気持ちを他の不動産業者も鋭くキャッチする。学園都市と名付けた一般分譲地が続々と登場するのである。
 
大正一二年には大泉学園が分譲を開始する。続いて一四年には小平学園が、一五年には国立大学町が分譲を開始している。なかでも国立の開発には開発者の自然環境と、住宅建設との共存に対する並々ならぬ意欲が感じられる。中央を開く二四間幅の大通りから放射状に広がる街の姿には、それまでの住宅地分譲の計画とは異なる斬新さがあった。国立の学園都市構想にはお手本があったと言われる。ドイツの大学都市ゲッチンゲンである。設計者である箱根土地専務の中島陟は東京商科大学の要求を殆ど取り入れ、同時に鉄道省に用地を提供し、新駅の開設許可まで取り付けている。国立大学町は教育の聖都を目指した。その後、不況によって経営不振に陥ってもこの方針だけは変えなかった。これが後に文教地区指定にいたる背景となっている。
 
学園都市ブームは大正一四年頃から下火になる。同年に東京土地住宅が作成した『武蔵野の理想郷』と名付けた小冊子がある。そのなかで「空気禧澄風光明媚で付近に行楽の名所旧跡に富む地」と謳っているのを見ても、当時の人々が武蔵野の自然に抱いていたイメージを知ることができる。
 
郊外の街づくりは既成の大都市の再開発と同時に進められるべきものであり、大都市が住みにくくなったら、郊外へ逃避すればよいと言うものではない。日本の学園都市においても、それさえできれば東京の都市問題は解決すると言った簡単なものではない。当時造られた学園都市には、そのような影の部分を持っていた。
 
▼文献
金子 淳『住宅・団地・ニュータウン』
『多摩のあゆみ』100、二〇〇〇。
くにたち郷土文化館『國都市開発と幻の鉄道』二〇一〇。
パルテノン多摩編『多摩ニューダウン開発の軌跡』一九九八。
くにたち郷上文化館蔵『国立大学面分讓地区画図』。

二 団地と自然

武蔵野の住宅建設史は、武蔵野の自然の保全と破壊との間で揺れ動いてきた。なかでも集合住宅地開発では大きな課題であった。学園都市の場合、武蔵野の自然の保全と、それの有効活用自体が販売の目玉であり、建築形態も戸建住宅であったので、自然保全の立場からすれば共存の余地は大きかった。しかしながら団地と呼ばれる集住形態が考案され、中高層建築を主体とした、かつ規模の大きい団地が丘陵地に導入されるに及んで、事態は大きく変わってきた。特に多摩丘陵のような起伏に富んで、谷が複雑に入り組む地においては、大型土木機械を投入した土木工事による地形改造が伴うの自然の改変はより激しくなった。
 
開発の軌跡が顕著な南多摩の開発の歴史を見ると、昭和三三年(一九五八)に多摩動物公園が開園し、昭和三七年頃から私立大学・高校の建設が各所で始まる頃から、開発行為は開始されたと言ってよいであろう。昭和三九年には柚木に大学セミナーハウスがオープンする。これらの時代の開発は自然を大幅に取り込んだ計画が多く、さほど自然破壊の問題は起こっていない。現在の状況を見れば、多摩動物公園の樹林が周りを住宅地で囲まれている状態で、この緑が、逆に、地域に残った貴重な自然となっている。
 
しかしながら昭和三九年に八王子インターチェンジの建設が始まり、町田市鶴川で大規模団地の計画が動き始めると、自然への影響は目に見えて増加していった。昭和四〇年に八王子市長沼・平山地区の傾斜地に宅地が造成され、多摩市に桜ヶ丘団地が造られると、自然の改変度合いは人々に可視的な形で示されるようになった。当時、地元自治体は開発志向で、八王子市は五十万都市宣言をすらして開発を是認していた。この頃から市民による自然保全の機運が動き出し、新聞などもキャンペーンを開始する。昭和四三年には多摩ニュータウンの建設が始まる。𨯯水地区に柚木郷土研究会が発足し、開発問題に取り組み始めるのと並行して、東京経済大学に多摩の文化と自然を守る会が発足し、地元に作られた多摩史研究会が、代表に東京経済大学の色川大吉教授を迎えて、市民による地域の歴史と自然保全の問題を研究し始めるのも、この頃である。
 
昭和四五年の長沼における斜面造成地の崩壊事故は、多くの課題を顕在化させた。昭和四六年には八王子は宅造ラッシュとなり、都内の宅造の八〇パーセントが八王子に集中すると言う事態となり、自然保護を唱える市民団体1〇〇を超えたと言う。昭和四七年、八王子市議会は環境保全条例を可決し、東京都議会は東京の自然の保護と回復に関する条例を可決して、自然保護の姿勢を明確にした。八王子市広報が緑を守ろうと呼びかけたのは昭和四八年である。これらの一連の動きは、団地と言う集住形態が引き金となったものと言ってよいだろう。
 
昭和三三年、多摩地域の人々は東京の膨張を防ごうとして、制定された首都圏整備法によるグリーンベルト計画に反対して立ち上がり、反対期成同盟はその頃できた日本住宅公団と会談して、団地建設をグリーンベルト計画地に建設するよう働きかけていく。その結果、昭和三〇年代には、昭和三二年の東伏見住宅を皮切りに、近郊地帯の自治体の区域のなかに一九もの団地が建設されていった。昭和三〇年代から四〇年代にかけて建設された公団団地は、五〇〇戸以上のものに限っても三二ある。そのうち二〇〇〇戸以上の大規模団地は八団地ある。また都営団地は一〇〇〇戸以上のものが一三あり、武蔵村山に建設された村山団地は五二一〇戸と言う巨大なものであった。
 
団地と言う用語が社会に定着したのは、昭和三〇年に日本住宅公団が設置されて、各地に大規模な団地を開発し始めてからと言ってよいだろう。住宅団地は区部に隣接する北多摩東部から始まる。畑作地帯を中心に進められた団地立地の条件は、水利が悪く農地としての価値が低く、地価の安い所から始まる。多摩地域の大規模団地は武蔵野台地と、多摩川沿いの低地に建てられたものに大別される。台地上の団地は谷頭浸食で形成された低地、水の便が極度に悪い台地の尾根部分、さらに旧軍用地などを中心に建設されている。また、多摩川沿いでは多摩川の氾鑑原や、自然堤防の背後の低地が狙われている。これらの地に共通するものは、農耕に不適な土地と言う条件であったと言ってよい。南多摩では機械力で整地する手法が主流となったが、価格の安い広大な未利用地が開発の対象となっているので、論理は同様である。日本住宅公団はこのような自然の破壊防止については、公団発足当時から対策を検討し始めている。昭和四六年より入居が始まった多摩ニュータウンを初めとする大規模開発では、それまでの各種の経験と研究の成果を活かして、自然の毀損を最小限にする方策を具体化している。武蔵野の自然と人々の住まいと言う、根源的な、かつローカリティの強い課題のなかでの開発行為の結果が、どのようになるかに注目したい。そこでは、自然科学的評価と共に、社会学的視点からの評価も不可欠である。
 
▼文献
色川大吉編『多摩の五千年 市民の歴史発掘』平凡社、一九七〇。

三 農業と自然

 
一 江戸の農業
江戸は大消費地であった。その生活は、西の台地上に描かれた新田と、東の低湿地に造られた新田から送られてくる農産物の供給に支えられていた。両地域とも、本来の自然は農業に適してはいなかったのであるが、その自然を改良し、農地としたのである。
 
武蔵野の新田開発は、南町奉行大岡越前守忠相が担当した。それまでは肥料や飼料のための草刈り場として利用されていた秣場を開拓し、新田八二か村を開設したのである。新田農家の敷地の形態は、道から長い短冊状のものとなり、そこに住居と畑と農用林、並びに防風林として雑木林が造られている。
 
これらの農業は玉川上水が造られ、分水されて利用できるようになって、初めて可能になったのである。雑木林は薪を生産し、後には炭を作って江戸に選んでいる。江戸までは距離があるので、重い薪よりは軽い炭のほうが効率的であった。
 
農民はやがて肥料として糠や灰を購人し、粟や稗・麦などの雑穀を生産して売り出す一方、水路により可能となった水車を使って製粉販売も始める。このように農業が進展してくると水車稼ぎ人なども現れるようになり、商品流通が始まることとなる。台地上の農業にとって、用水と雑木林は生活に不可欠の存在となってゆくが、いずれも自然が造った川や林ではなく、人が造った武蔵野の自然であった。
 
一方、東部の湿地帯、葛西は、洪水や日照りに悩まされる湿地帯であった。関東平野は乱流する河川に悩まされ続け、用水や溜め池の整備も早くから進められている。新田開発は様々な災害との戦いであり、なかでも水との戦いが厳しかったが、粘り強く進められている。
 
江戸中期になると、葛西では町民や農民の手による新田開発も進む。水田地帯であった葛西に畑作が加わり、いわゆる江戸地廻り経済圏に組み込まれてゆくこととなる。小松菜や砂村葱は葛西の特産品として評判を生む。このような軟弱な野菜は早く輸送しないと新鮮さが失われる。そのため新川や小名木川の船を使っての高速輸送が始まる。本所や京橋の市場に運ばれた野菜は、短時間で市中に届けられたのである。野菜栽培には肥料が必要であったが、江戸市中から出る下肥は格好の肥料であった。
 
武蔵野の西の山地に近い地域では農地が整備しにくい。そのため桑畑を作り養蚕が始められる。また、より山地部では林業が行われてゆくこととなる。青梅林業と呼ばれるものでスギ・ヒノキを中心とした林業で、集約的かつ平均三〇年ほどの短伐期で、長丸太や小角物を生産していた。スギの栽培には適当な気温と土地の傾斜が必要である。八〜二〇℃と言う気温と、緩やかにカーブしている下降斜面型と言われる山の斜面形はスギの生育に適切であった。この斜面形は近世以降、営々として人が造ってきたものである。丸太と言えば四谷丸太が有名であるが高品質の木材を狙っていた。青梅丸太は足場丸太などに重宝されていた。
 
二 東京の農業
東京の農業は昭和二〇年(一九四五)の戦争終結と共に、大きな変革が起こる。昭和二一年に公布された自作農創特別措置法による大量の自作農の輩出である。農地所有者で耕作をしていなかったと認定された者の所有する農地を、実際に耕作をしていた者に渡すと言う、この法律で大きな被害を受けたのは公園管理者であった。公園事業は用地を買収し、それを順次整備してゆく事業であるが、戦時中、防空上の必要もあって大量の農地を買収していた公園管理者は、急増した買収地の維持・管理に困っていた。そのため農民に一時貸付のような形で管理をさせていたものも少なくなかったのである。これらの用地は耕作をしていない地主のものと判定され、耕作していた農民に解放されたのである。戦後、都市計画の必要から公園用地取得は必須となる。四六三ヘクタールもの解放された用地は、再び買収されることとなり、買い戻され、公園として整備されていった。
 
戦後、都市化が進展し農地の環境が悪化するなかで、農業の継続は段々と困難になってゆく。同時に、近郊の人々は巨大都市東京と対抗するために、小さな自治体が集まって大きな自治体を作ろうとする動きを強めた。ここで農地は、農業のための自然地であると同時に、都市開発予備地としての価値を強めてゆく。農家は農業の継続か、開発用地としての不動産収入を期待するかの選択に迫られてゆく。
 
昭和三一年に東京の限りない膨張を防ぐために、大規模なグリーンベルトを東京近郊の農業地帯に創ろうとする首都圏整備法が提案されると、農地所有者は直ちに反対運動を起こし、昭和四〇年にはこの計画を事実上、骨抜きにしてしまう。開発地予備軍としての農地の魅力は譲れなかったのである。同時に、土地所有者は自ら工場や住宅地の誘致に積極的となる。その結果、武蔵野緑町団地(武蔵野市)や東久留米団地(東久留米市)などが相次いで建設され、武蔵野の農地の自然は急激に改変されていった。農業経営者と団地開発者との間には、ある共通した関係がある。農地のうち灌漑用水を得にくい土地は地価が低い。しかし、団地開発者にとっては灌漑用水よりも低い地価が魅力であるので、両者の意見は一致しやすいのである。団地開発はこのような土地から集中的に始められた。
 
手放しの宅地開発は問題であると言う問題意識から、昭和四二年(一九六八)には都市計画法が改正されることとなる。この改正で、将来宅地化すべき地域と、そうでない所との線引きが始まる。市街化区域・市街化調整区域の線引きである。計画のない所に開発なしとする姿勢は、昭和四六年に宅地並み課税制度を作り出した。農地でも将来の宅地となる所では宅地並みの課税をする制度である。農地所有者は大反対を起こした。今度は都市に貴重な農地と言う、自然の存在を軽視するのかと言う理論である。調整の結果、昭和五七年に長期営農継続農地制度と言うものが作られ、市街化区域内の農地は宅地化される農地と、生産緑地のどちらかにすることとなった。平成三年(一九九一)には、昭和四九年に作られていた生産緑地法が改正され、この方針が確定されている。このように見てくると、農地の行く末は税制が極めて大きなカギとなることが分かる。
 
三 都市農業
多摩地域の農地は急激に減少している。昭和三五年と平成七年を比較すると約二九パーセントにまで減少している。地区別に見ると、南多摩で二二パーセント、北多摩で三四パーセント、西多摩で三〇パーセントとなる。この減り方の内訳を見てゆくと、八王子市と町田市の減り方が、北多摩の武蔵野市や府中市・調布市、さらに西多摩の青梅市よりも著しい。
 
武蔵野の農地は、都市農業と言う新しい経営形態の農業へと切り替わりつつある。農業の後継者不足もあって多様な農業により農業を保持しようと、平成二七年には都市農業振興基本法が農林水産省と国土交通省の共管で作られた。共管になっていることから知られるように、農業サイドからの発想だけでなく、都市づくりの視点からも農業の将来を考えてゆこうとする法律である。しかし、都心部に近い農家では、だいぶ前から新しい形態を模索していた。その一つが市民農園である。二三区のなかで最大の農地を持つ練馬区では、区が経営する区民農園・市民農園が、既に二六か所できて稼働している。加えて、農家が経営する体験農園が一七か所も出現している。これは、実際の農作業の多くを農家が分担し、利用者は来られる時に来て農作業をするシステムである。農家はそこに直販所やレストランも併設しているので、都会人にとってはレクリエーションでもあり、農家にとっては農地の新しい利用である。農地を駐車場にする事例の多いなかで、土壌を本来の自然の姿で活用している点で、自然は活かされていると言える。しかしながら、農家の手不足はさらに深刻である。そこで武蔵野市は手不足の農家を支援するNPOが発足している。しかも、その畑で生産された小麦粉を使って、地元の商工会が地元特産のウドンに加工して販売する所まで進展している。東京への通勤者が多く住んでいると言う地域の地元特性を活かした特別な事例と言えるかもしれない。
 
このような新しい手段で農の継続が試みられているなかで、本来の農業を生産品の高級ブランド化と言う方法で保持しようとする農家も出てきた。国分寺のウド生産などがそれである。高度な品質の確保によりブランド化されたウドは極めて、競争力が強く、市場で健闘を続けている。
 
一方で、農の風景は武蔵野の自然の重要な景観要素であった。江戸時代から続くこの風景を継承しようと、都市計画の手法を使った『農の風景育成地区制度」が東京都の主導で始まっている。指定された区域のなかの樹林や水系を活かしつつ、生産緑地などの制度も活かしながら、近くの公園緑地とも連携し、農の風景のネットワークを作ろうとするものである。既に世田谷区や練馬区では具体的な事例が始まっている。武蔵野の自然を保持し、現代的な姿でその継承塞を進めることが求められる現在、有効な手段の一つと言えるだろう。いずれの方法にせよ、農業が健全に経営されることが前提であり、同時に都市民が都市と農業の共存の必要を理解していなければならない。武蔵野の農の自然を考えるとき、話題は都市になぜ農の自然が必要かと言う間題に収斂していく。
 
▼文献
進士 五十八『都市になぜ農地が必要か』実教出版、一九九六。
東京都江戸東京博物館『図表でみる江戸・東京の世界』二〇二一。

四 産業と自然

一 産業と武蔵野の自然
武蔵野の西部にある多摩地域の歴史をたどると、そこに住み・働く人にとって、武蔵野の自然がいかに重要な産業基盤であったかがよく分かる。西多摩では青梅で採掘される石灰鉱業と、青梅林業による木材生産、さらにクワの栽培による養蚕と繊維産業が盛んであった。北多摩では広大な台地を、玉川上水の助けを受けて耕作した農業が主産業となる。南多摩では、八王子を中心にした養蚕と繊維産業が主産業であり、さらにその繊維産業は、八王子の絹織・青梅の絹綿交織・村山の紺絣と、地域の個性を持たせた産業へと分化される。多摩地域の産業は全て自然環境がもたらしたものだった。しかし、昭和五年(一九三〇)の昭和恐慌が引き金となって多摩の産業は大きく変貌する。
 
武蔵野の広大で、平らで、地盤がよい地形資源は立川飛行場を作り出す。その周りには航空機関連産業と軍需関連産業が集積し、いわゆる空都が建設されていった。この優れた自然地形がなければ、この地にこのような飛行機産業の集積はとうていあり得なかったであろう。
 
繊維産業も航空機産業も、いずれもその時代の先端産業である。武蔵野は、その意味では、つねに先端産業の集積地であった。この種の産業は大量の従業員を必要とすることから住宅建設も急速に進む。それに伴い住みよい住環境の整備も積極的に進められた。
 
しかし、昭和二〇年の戦争の終結と共に、これらは一変する。これらの産業は全て平和な時代の産業へと一斉に転換することとなった。また、それを可能にする技術力を多摩の産業は持っていたのである。
 
戦後、戦災による極度の住宅不足は、その建設用地を平坦で住宅を建設しやすい農地がある多摩地域に求めてゆく。農地解放により誕生した多数の小規模農家は、農業所得と不動産所得の間で選択に迷うこととなる。
 
多摩地域の産業立地としての長所を挙げれば四つあろう、①東京に隣接していること、②鉄道網が確立していること、③自然環境に優れていること、④広大な土地があること、などである。ここで再び武蔵野の自然は大きな産業資源として取り上げられることとなる。
 
戦前の産業がその成立のために依拠していた武蔵野の自然の価値は、規模の広大さと地形の平坦さの価値であったが、今回の価値は、住み・働くための生活環境としての質の高さへと変化したのである。
 
現在、多摩地域の特色は企業の研究所が多いことである。平成五年(一九九三)の時点で一〇四の研究所があると言われているが、製造の場は海外に移しても、新製品を企画し開発する研究所は、武蔵野に残してあるのである。その理由は東京に近いこと、開連企業が集積していることなどの利点の他に、研究者が働きやすく創造の場として、必要な緑豊かな自然環境が豊富にあると言う立地条件にある。現在、この地域には先端的ベンチャー企業や、創造型産業が増加しており、さらにアニメ製作会社なども増えているが、知的創造に必要な創作環境が武蔵野には豊かにあると言うことであろう。
 
二 都市周辺施設と武蔵野の自然
武蔵野の産業の特徴の一つは、都市周辺施設産業の存在である。大正期頃から、武蔵野の自然が持つ環境特性を求めて、多様な都市周辺施設が武蔵野に集まってきた。求める環境特性別に整理すると次のようになる。
 
(a) 丘陵地形を求めたもの
代表が貯水池である。村山・山口貯水池は、当初、日の出町案もあったが、検討の結果、村山に決定されている。地図を見ても狭山丘陵に挟まれた立地は貯水池に適している。大正五年(一九一六)に工事が始まり、上貯水池が大正一三年に完成し、下貯水池が昭和二年に完成している。さらに山口貯水池が計画され昭和八年には完成している。貯水池計画とセットで計画されたのが境浄水場(武蔵野市)である。境浄水場は大正一三年に通水を開始しているが、東京市は昭和七年に市域拡張を行っているので、それよりか僅か前に建設されたのである。過密化する都市地域内では建設が難しい広い敷地を必要とする施設を、市域を越えて外部に造ることはしばしばあるが、境浄水場もまた、武蔵野の自然の広大さが持つ大規模施設受け入れの余裕を利用して造られたと言ってよいであろう。なお、村山・山口貯水池では建設後の所員の努力で、現在では見事なサクラの名所となっている。単に施設を建設するだけではなく、それを地域の環境に溶け込ませようとする計画と努力が、昭和の初期に既に進められていたことは、記憶すべきことである。
 
(b) 清浄な空気を求めたもの
長期療養型病院などがそれである。平成一一年の『東京都衛生年報』を見ると、市町村別の病院病床数の表がある。これを見ると、八王子・青梅・町田・小平・東村山・清瀬の病床数が他の都市に比べ著しく多いことが分かる。その内訳を見ると精神病床が多い。また、清瀬には結核病床が目立ち、これらの病院が清浄な空気を求めて武蔵野に進出していることを示している。清瀬に初めて結核病院ができたのは昭和六年であるが、当時は昭和恐慌の時代であり、反対も少なかったのであろう。清瀬の病院建設は昭和二五年頃まで続き、療養の街として商店構成も療養者に便利なように造られていった。結核患者が少なくなった結果、現在では一般病院に転換したものも少なくない。
 
病院ではないが、老人福祉施設もまた清浄な空気と静かな環境を求める施殿である。八王子・青梅・町田は施設数から言ってトップスリーであり、東村山・あきる野がそれに続く。この施設の建設は、昭和三〇年代から四〇年代には、八王子など一部の地域に集中していたが、最近では全体の地域に広がってきた。街のなかの立地が増えてきたのである。その理由は、老人も街のなかで共に暮らそうと言う福祉思想の転換が作用しているものであろう。清浄な空気を求めた施設で異色のものが多摩動物公園である。元上野動物園長古賀忠道は密集した都会のなかにある上野動物園では動物の健康はもとより、繁殖すらできないと危機感を募らせ、昭和三三年に多摩の広大な雑木林の丘に多摩動物公園を建設した。効果はてきめんで、キリンの繁殖に見事な結果を出している。しかし現在では、周辺の住宅地建設の急増により、逆に、多摩動物公園の樹林が住宅地に囲まれた緑の孤島のようになってしまった。
 
(c) 閑観さを求めて造られたもの
霊園がその代表である。東京市では大正の初めに所有する墓地が満杯となったので新墓地の計画を始める。大正八年には東京市墓地並施設設計計画案をまとめ、東京市の東西南北に三〇万坪の墓地を計画している。東京市の井下清はドイツの風景墓地を研究し、多磨霊園を最初の公園墓地として設計した、完成は関東大震災の年、大正一二年である。東京市は続いて千葉県松戸市に八柱霊園を建設する。この時から墓地は霊園と呼ばれるようになった。そして第三の霊園として小平霊園が造られている。八王子霊園は丘陵地に造られた都営霊園で、昭和四六年に開園している。それまでは台地上の平地に造られていた都営霊園は、八王子霊園になって、遂に霊園としては建設のしにくい高低差のある丘陵地に造られるようになったのである。民間の霊園は八王子霊園ができた頃から、丘陵地の各所で造られるようになり、八王子・青梅・町田など、西部の地域にまで広がっている。このように、都心では求められない環境を求めて、多くの産業が武蔵野に進出している。武蔵野の自然の豊かさがもたらす環境の良さは、これらの産業にとって格好の立地資源であった。
 
▼文献
姫野 侑『多摩の工業化の軌跡』『多摩学のすすめⅢ』けやき出版、一九九六。
村越知世『多摩霊園』東京公園文庫、東京都公園協会、一九九四。