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ソヴィエト映画は共産主義の旗印のもとに、ソヴィエト国家とともに生まれ、育ってきた。ソヴィエト映画の歴史は単なる芸術家の仕事(創作の手法、撮影技術、モンタージの分野での発明等々)の羅列でもなければ、作品を年代順に並べただけのものでもない。また芸術家の個人的な性格と才能による偶然の成功や失敗の連続とみなすこともできない。
ソヴィエト映画の発展は国家の発展と非常に密接な関連をもっている。映画のなかにはレーニン、スターリンの思想、共産党のたゆみない指導的活動、そして全人民の社会主義文化への創造活動が統一されて織り込まれている。だから芸術家の作品上での勝利は彼がどれくらい人民の生活と有機的に結びついているかによって決まるのである。もし芸術家がなにか部分的な、あるいは形式的な問題の解決に熱中して、生活から離れてしまうなら、彼は必ず失敗する。けれども彼がふたたび生活を振り返るなら、もっと正確にいえばふたたび生活が彼を捉えるならば、新しい勝利が必ず訪れる。
わが国の芸術は社会主義リアリズムの方向を目指しており、芸術家たちの優れた仕事の内容と形式をしっかりと規定している。社会主義リアリズムとは作品に対する仕事の方法であり、芸術家を生きた現実と深く結びつけ、人民の仕事の直接的參加者、すなわち共産主義社会の積極的な建設者にするにふさわしいものである。我々は「リアリズム」という──なぜならば我々の芸術は生活をその複雑さ、豊かさ、前進する運動のなかで捉えるからである。我々は「社会主義(的)」という──なぜならば、我々の創作活動は社会主義国家の発展、共産主義社会の建設という全人民の高い目的にしたがっているからである。芸術におけるこのような方向は革命後につくりだされた条件のなかではじめて生まれることができた。そしてこの方向の発展は、ソヴィエト国家の発展途上のあらゆる困難、あらゆる勝利、すべての重要なできごとと密接に結びついている。
社会主義リアリズムの芸術はなによりもさきに、まったく社会主義的な、ただ一つの、深く人民的な芸術である。社会主義リアリズムを諸国に存在する種々雑多な芸術の傾向の一つであるとみなすことはできない。このような色々の傾向はその作家たちやファンの小さなグループとともに生まれ、やがて死んでいく。しかるに社会主義リアリズムは人民の生活から生まれ、人民とともに成長し、人民とともに栄えていくものである。
私はさきに、ソヴィエト映画の歴史は国家の歴史によって規定されたと述べておいた。その観点から三十年間の映画の歴史を、社会主義の建設・発展と合致させて四つの段階に分けることができるとかんがえる。
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党第十八回大会の報告のなかで、同志スターリンは国家発展の第一段階を「それは十月革命から搾取階級の清算までの期間である。この期間の基本的な課題は、打ち倒れた階級の抵抗を粉砕し、干渉軍の攻撃に対して祖国の防衛を組織し、工業と農業を復興し、資本主義的要素を一掃するための条件を準備することにあった」と特徴づけている。
この段階と関連のあるソヴィエト映画発展の第一段階は、わりあい最近ではあるが映画がまだ無声だった時代である。ソヴィエト映画の特徴は人民の生活の歴史的な出来事との関係のうえに、一つ一つ積み重ねられていった。社会主義リアリズムはブルジョア的な、観念的な美学の影響下にある敵対的な流派やグループとの激しい戦いのなかから生まれ、育った。党はその政策によって新しい芽を伸ばし、力強く若々しい芸術を心を込めて育てていった。
ルナチャルスキーとの会談のさいにレーニンは、共産主義の思想によって貫かれ、ソヴィエトの現実を反映する新しい映画の製作は、記録映画からはじめられるべきであると指摘した。この言葉は大きな意義をもっている。レーニンは映画人の活動をして人民の生活へ近づけしめる方向を指し示したのである。そして将来の芸術の端緒として記録映画をつくることの必要性を指示することによって、レーニンは社会主義リアリズムの本質をあますところなく規定したのであった。レーニンの提唱によって国内をまわる煽動映画班が組織され、若いカメラマンや監督が続々と参加した。
ソヴィエトの記録映画ははじめて映画芸術と人民の生活を直結させた。記録映画は革命思想を宣伝しブルジョア的残滓との戦いの共感に貫かれていた。その後記録的な撮影をもととして、政治評論的な性格をもった最初の独特な映画が生まれた。この映画で作者は、幾人かのカメラマンによって撮影された記録的なカットを主題に基づいて結びつけようとした。こうした映画はより鮮やかに人民の革命的高揚を描き、その戦闘的な確信を固める可能性を与えた。いわゆる「キノプラウダ」の発行は大衆の歴史的創造の正しい反映として、広汎かつ当然の成功を収めた。
私はここで記録映画の立派な仕事と、芸術映画の形成とは、はじめから深く関係していたことを強調しておきたい。芸術映画部門では、芸術家が人民の生活と結び、社会主義の勝利を目指す戦いの直接的参加者になるということが、ゆるやかにしか行われず、また大変難しいものであった。革命前から仕事をしていた監督や俳優にとっては、いろいろなことが人民の生活を正しく描く邪魔をした。第一にこの生活に対する不充分な知識と傍観的な態度が邪魔をし、つぎには革命前の映画の保守的な習慣と、いまでは役に立たない古い技術が邪魔をし、そして課題の解決を助ける新しい仕事のスタイルに対する無能力が邪魔をした。
多くの障害にもかかわらず、一部の古い映画人たちは、新しい革命的な主題に近づくことができた。しかし映画における新しい勝利を決定したのは古い映画人たちではなかった。ソヴィエト政権は、人民のあらゆる階層の才能ある人々に対して芸術への広い道を開いた。映画界に若々しい創造的な人々が入ってきた。彼らはまったく多種多様で芸術にとって予期しないような職業の人も多くいた。技師エイゼンシュテイン、医者ローム、化学者プドフキン、赤軍兵士政治部員エルムレル、ウクライナでは画家ドヴジェンコが、グルジアでは彫刻家チアウレリが映画界に入ってきた。彼らは若々しい衝動、ただちに行動しようという欲望、大きな勇気をもちこんできた。熱烈な議論、討論、必要な実験等が行われた。だが彼らの未熟、未経験、不完全な知識が活動のブレーキとなっていた。未熟さはとくに理論的な命題について多くの混乱をもたらした。それはとくに映画人のあいだにブルジョア芸術の有害な影響を吹き込ませる恐れがあった。この困難な条件のもとで共産党は積極的に異分子的な敵対的なブルジョア芸術思想に対する戦いを指導し、辛抱強く社会主義リアリズムの体得を援助した。
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ソ同盟共産党第十二回および第十三回大会の席上で、同志スターリンはソヴィエト映画の任務についてとくに言いおよび、「映画は大衆煽動の偉大な手段である。我々の手にそれを握ることが必要である」と述べた。党第十三回大会映画の任務についての決議を採択した。一九二五年党中央委員会は「文学部門における党の政策について」という特別の決定を採択した。この決定は社会主義的プロレタリア文学の創造と、ブルジョアジーの手先による敵対的な観念論的な影響に対する作家の闘争の必要性を明らかに提起し、若い作家の党的ボリシェヴィキ的養成に関する問題を提起した。
この決定は攻撃だけでなく映画をも含むすべての芸術に大きな影響をもたらした。一九二四年から二七年にかけて革命的な主題をまったく新しい形で解決した幾本かの映画がつくられた。その最初の一本はエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」である。この映画の新しさと威力は、明らかに若い芸術家が深く観察し体得した革命的な主題の新しさと威力から生まれたものである。立ち上がった水兵たちの革命的爆発が燃えるようなペーソスで全篇を貫き、多くの予期しなかった映画の表現形式を解明したのである。「職艦ポチョムキン」は全世界に深い印象を与え、その後のソヴィエト映画人の仕事に偉大な影響を与えることができた。
この映画の特別な功績は、共通の感情と行動によって統一された人々の、集団的な説得力を鮮やかに描き得たことにある。大衆はこの映画によれば平凡な一般的な背景という地位を脱している。当時一部の人々は、大衆の描写が個々の性格の奥深い解明の必要性を全面的に排除した結果になっていると考えたが、これは軽率である。このことの正しさは「戦艦ポチョムキン」に続いてつくられたいくつかの映画によって証明された。エルムレル、ブドフキン、ドヴジェンコ(ウクライナで)、チアウレリ(グルジアで)の映画が次々と現れ、アルメニアではア・ベック──ナザーロフの初期の作品が現れた。新しい映画の作家たちは「戦艦ポチョムキン」において発見された多くのものを創造的に利用するとともに、ソヴィエト映画における俳優の演技の深さと真実さ、人間形象の正確さと真実さを発展せしめた。人間はスクリーンのうえで社会主義社会の英雄としての素質を備えだした。
第一段階の終わりにはすでに相当の創造的な力が映画に結集されていた。党は注意深くその育成にあたっていた。農業の復興と工業化のための全人民の努力はますます記録映画や芸術的「劇」映画の分野に反映していった。そしてまだ芸術界に根を張っている異分子的な、時には直接敵対的な諸流派を、成長していく社会主義リアリズム芸術から除きさることの必要性がますますはっきりと現れてきた。
ソヴィエト社会の第二段階がやってきた。それとともに芸術の課題も成長し、倍加されるにいたった。
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第二の段階──それは都市と農村における資本主義的要素の清算から、社会主義経済の完全な勝利と新憲法採択までの期間である。
この段階の基本的な課題は「全国にわたる社会主義経済の組織と資本主義の最後的要素の清算、文化革命と国防軍の組織にある」と同志スターリンは述べている。またさらに「現在のわが国内における基本的な課題は、平和的な、経済的、組織的、文化的、啓蒙的な仕事にある」とも述べている。このようにして生活そのものが芸術に対してその文化的──啓蒙的意義の急速な高揚を要求しはじめた。生活は党と芸術の有機的なより深いつながりと、労働への芸術家のより積極的な参加を要求しはじめた。
しかしすでに述べたように、まだ完全に清算されていない資本主義的な要素はわが国の芸術界に混乱と不安定を持ち込み、多くの映画人を虚偽の主観的──観念的な道へ導いた。
「戦艦ポチョムキン」と「十月」のすぐあとでエイゼンシュテインは、「古きものと新しきもの」において農村の古いしきたりに対する進歩的農民の戦いという大きなテーマを取り上げながら、この深い意義をとるにたらない技術的な手法によって覆い隠してしまった。プドフキンは新しい技術的な手法の発明に熱中して、「平凡なできごと」の社会主義的道徳というテーマを、姦通についての空虚なセンチメンタルな話に置き換えてしまった。ほかの多くの芸術家たちも形式探究という殻のなかに閉じこもり、生きた現実との深いつながりを失っていった。
この誤りはいつものように党によって指摘された。一九二八年同志スターリンの発案によって全同盟の党映画人大会が開かれた。この会議はソヴィエト映画発展の道を明らかにし、決議をもって映画が最も重要な芸術であるがゆえに、広い教育活動、共産主義の宣伝のスローガンと課題のまわりに大衆を結集させることを遂行しなくてはならないとし、最も適当な休息と娯楽の手段としても文化革命の事業に大きな地位を占めるものであり、また占めなくてはならないと指摘した。その後一九三二年に文学団体の改組についての党中央委員会決定が発表された。この決定は新たに芸術の巨大な宣伝的役割を指摘し、創造的な働き手たちに対して重大な課題を提出した。
芸術家がその創造において党的となり得るためには、政治的哲学的な教養を身につけ、ボリシェヴィキ的自己批判の精神で育成され、人民によって提出された偉大思想と目的の、いかなる歪曲を鋭く見抜く人間にならなければならない。だからこそ党の啓蒙活動が、ブルジョア的な影響に対する芸術家の意識的な戦いを支持する方向へ向けられたのである。我々は当時の芸術界の闘争を、まず第一に形式主義に対する闘争であると規定し得る。
形式主義が立体派や表現派、未来派、その他無数の「イズム」のように部分的な、浅はかな流派の一つだと考えることは誤りである。形式主義は芸術家を、生きた人民の生活とその要望から切り離すすべての要素を含む一般的な概念である。芸術家が創作する場合は必ず二つの道に突き当たる。一つは作品を現実の推移の生きた真実と比較するために、いくども生活の観察に立ち返りながら、自己を検査し、人民の思想と目的に合っているかどうかをつねに確かめつつ進めていくか、あるいは一つには彼にとって唯一の大事なものと思われる自己の個人的な世界のほかは、なにものにも目をくれないで進めていくか、である。後者の場合はいとも簡単に音楽的リズムの面や、外面の絵画的な面や、とくに彼が感じやすいどれか一つの部分的な面のみに熱中してしまう。このような芸術家はしばしば無意識のうちにたやすく生活から離れ、自己の貧しい、想像だけによってデッチ上げられた世界へと没入していく。どんな生きた現象からであろうとも、それが空虚な想像の世界に移されれば、中身のないものとなり、真実の内容はデッチ上げられた一面的なものに置き換えられてしまう。こういう道を進む芸術家は形式主義のなかに落ち込まざるを得ないのである。
いかなる型の形式主義であろうとも、社会主義リアリズムとは正反対のものである。なぜならば、社会主義リアリズムは芸術と生きた現実を正しく結び合わせるものであり、形式主義は芸術を生きた現実から切り離し、遠ざけるものにすぎないからである。形式主義は社会主義リアリズムの芸術にとって明らかに敵対的である。自国の人民に対する愛情の欠如、人民の生活と要望についての知識の欠如、人民の仕事に参加する熱意の欠如──これが形式主義の起源である。形式主義と形式主義的な傾向に対する闘争は芸術家のマルクス──レーニン主義哲学、進歩的な社会科学の深い研究によってのみ、人民と祖国への愛情ならびに共同の事業に全力を捧げる熱意を育てることによってのみ、すなわち芸術家の党的育成によってのみ可能である。
我々の戦いはこの道に沿って進められた。第二段階における社会主義機構の全面的な勝利、人民の一致団結、芸術部門における党の政策はソヴィエト映画の新しい開花をもたらした。
一九三四年、ソヴィエト作家同盟第一回大会において、ゴーリキーは「我々の作品の基本的な主人公として我々は労働を選ばねばならない。近代技術の威力によって武装された労働の過程で形成されていく人間を、労働を組織し、より手軽な生産率の高いものとし、ついには芸術の段階にまで高まっていく人間を描くべきである。我々は労働を創造し理解することを身に付けねばならない」と述べた。ゴーリキーはわがソヴィエト的、社会主義的現実の根本に据えられている労働というものの、新しい形式について語ったのである。労働は社会主義機構の基礎である。同志スターリンは「社会主義は決して労働を否定していない。反対に社会主義は労働の上にこそ打ち立てられる。社会主義と労働とは互いに切り離せないものである」と明確に語っている。
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第二の段階でソヴィエト映画は、自己の労働によって若い国を改造していく一連のソヴィエト人たちの形象をつくりだした。現代の中心的な主題への新しい転換をもたらした最初の映画は、エルムレルとユトケウィチの監督した「呼応計画」であった。そしてさらにこれはソヴィエトの最初のトーキー作品中の一本であった。言葉と音楽は物語をより深く、現実的に取り扱うための新しい表現手段を与えた。この映画では社会の動きがまざまざと描かれ、労働の社会主義的な形式がどのように人間を改造し、その心理を変化させ、彼を社会の活動的メンバーの理想に近づけるかが解明されている。
一九三四年、人民ならびに同志スターリンによって高く評価された「チャパーエフ」が封切られた。映画人に対するメッセージのなかで同志スターリンは「ソヴィエト政権は、君から『チャパーエス』のように労農政権獲得のための偉大な事業を謳歌し、新しい課題の遂行を鼓舞し、社会主義建設の成果と困難を思い起こさせるような新しい映画──新しい成功を期待する。そして諸君が『最も重要な』(レーニン)もっとも大衆的芸術である映画の新しい分野に、勇敢に立ち向かわれんことを期待している」と述べている。
第二段階ではまた、コルホーズの労働に関する十数本の映画がつくられている。当期の基本的な課題の一つが全国的な社会主義経済の組織であったことから、これは容易に理解できるであろう。農業、すなわち農村と農民は国民生活にとってまさに決定的な役割を果たしつつある。
ソヴィエト映画発展のこの段階はソヴィエト的主人公の集団的な、肯定的な形象の創造によって飾られている。我々にとって、完全な人間の形象は完全な共産主義者のそれと合致するものである。社会的な義務を行うにあたっての確かな原則性、豊かな感情と冴えた頭、個人的なものと社会的なものとの調和、理性と感情の統一──これらすべての特徴は党派性と関連したものであり、真のボリシェヴィキ的形象を生みだすものである。このような形象は「われらクロンシュタットより」で現れ、「マクシム三部作」で展開され、この種の映画中最も優れた作品である「偉大な市民」で、さらに一層深められ、発展させられた。
共産主義者の形象の創造は、自然のうちに人民に偉大な指導者をみせるという大胆な試みへ、創造的な働き手たちを導いた。そしてこの難しい課題は見事成功した。「偉大な黎明」「十月のレーニン」「一九一八年のレーニン」「銃を持った人」等等は、監督と俳優の創造的な才能が、人民にレーニンとスターリンその偉大な活動のなかにおいてみる可能性を与え得ることを証明した。
生活のすべての部門における社会主義の勝利は、人民の確固とした精神的政治的統一を生みだし、スターリン憲法の採択によってさらに強固になった。三十年代の幾本かの映画が人民のこの統一を反映しているが、最も優れたものとしてヘイフィツとザルヒの「国会議員」を指摘できるであろう。
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「諸君、生活は楽になった、楽しくなった」と同志スターリンは言った。そしてあたかもこの言葉を裏書きするかのように、次々とスクリーンのうえにソヴィエトの喜劇が現れだした。
イー・プィリエフの「富める花嫁」「トラクター運転手」「コーカサスの花嫁」などは抒情詩的な、陽気な喜劇の新しい分野を開いたばかりでなく、深く民族的な、完全に社会主義的な芸術への大きな前進を示すものであった。これらプィリエフの立派な作品とともに、一方には健康な調刺と楽天主義に満ちたアレクサンドロフの映画があったことも付け加えなければならない。
さらにこの期間中で特別の意義をもっているのは歴史的な主題を扱った映画である。ソヴィエトの映画人は弁証法的・史的唯物論の深い研究と習得によって、歴史的な人物と歴史的な現象を描きだすという新しい態度をつくりだした。同志スターリンは「歴史学が本当の科学であろうとするならば、これ以上歴史を皇帝と将軍の行動、他国の侵略者と征服者の行動に帰着させてしまうことは許されない。歴史学はまず物質的な富の生産者の歴史、勤労大衆の歴史から手がけるべきである」と述べている。ソヴィエトの映画人は歴史上の主人公を社会的な活動、人民とのつながりにおいて描きだすこと、そして時代の進歩的な動きを肯定的に掴みだすことを第一の目標とした。こうして「アレクサンドル・ネフスキイ」」「ピョートル一世」「ミーニンとポジャルスキイ」「スヴォーロフ」などが生まれた。
ソヴィエトの芸術家の活動はいつも現代性と密接な関連をもっている。それは世の中一般について芸術家の思考や空想が無意味にさまようことではなく、一定の目的に向かった一貫した活動である。歴史的真実は機械的に無意識に事実を集めただけでは得られない。それはしっかりした見さだめのもとに正しく研究された事業の、相互の結びつきから生まれてくる。民族の過去も未来も、生きた現実、現代性につながっている。ゆえに芸術家の創造は現代性に従属すべきである。霊感とか創作衝動は天から降ってくるものではなく、当面の現実的な関心と、欲求とに血のつながりをもっているものである。だからこそ、わが国の歴史的な映画は必ず現代的な課題との関連のうえに真実を解き明かし、未来に馳せる我々の空想は現存する若い芽にその基礎を置いているのである。
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第二の段階ではウクライナ、グルジア、アルメニアの溌剌とした民族映画もつくられ、アゼルバイジャンには大きなスタジオまでができた。多民族のソヴィエト同盟は、ますます強く発展していった。同志スターリンは「ソヴィエトの愛国主義のなかには、各民族の伝統と同盟の全勤労者の共通した利盆とが有機的に結合されている。わが国の愛国主義は国家と民族を分離させるのではなく、一つの友好的な家族に結合させるものである」と書いているが、この友情がわが国の芸術のなかに開花し、ファシスト侵略者に対する大祖国戦争の偉大な力となった。
戦時にまたがる第三の段階に移る前に、私はソヴィエト映画発展の過程における、非常に重要な面について述べておきたい。
社会主義的、全人民的経済の最も重要な特徴はその「計画性」にある。計画は社会主義的・創造的労働の中核であり、掠奪的な無政府的なブルジョア経済体制と真っ向から対立するものである。それゆえ、計画性の精神、人民の献身的な奉仕の精神が芸術のなかに入りこんできたとしても不思議はない。いまでは自分の創造活動を、国全体が何をしているか、何をもって生きているかということとつながりなしに考えることはできない。個人の創造上の意欲と、全体的な事業の思想や傾向との結び合いこそ、わが国の芸術の基本的な素質である。
「生産計画」という言葉は、わが国では深い創造的な内容にみちている。なぜならば「計画」こそはわが国が進みつつある全体の目的を理解している人々、共産主義の建設を眼の前にみている人々の「友情」の高度な形態であるから──。ソヴィエトの芸術家たちは「生活」から要求されている大事な主題を、全体的な事業の利益のために自由に分かち合った。かくて彼らは互いに力強くなり、党と政府に対しても一層固く結びつき、映画をして統一された戦線の一翼たらしめた。
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この結合がとくに決定的な役割を果たしたのは、映画全体が祖国の防衛のために再編成された大祖国戦争の期間中である。ニュース・カメラマンは赤軍の隊列に加わって、「モスクワ近辺におけるドイツ軍の壊滅」「スターリングラード」「黒海艦隊」「戦うレニングラード」「ソヴィエト、ウクライナのための戦い」等々の偉大な力と真実性をもった作品を命がけで撮影した。
戦争は党と社会主義機構によって育てられたソヴィエト人の優れた素質を明らかに証明した。映画はそれを自らの作品の主人公とした。この主人公は人の心のなかに、ファシズムに対する最後的な勝利の確信を植えつけていった。
この期間にはしかし、現代的な主題ばかりが問題とされたのではない。以前と同じように、祖国へこの愛情を育てるような、歴史的な作品に大きな注意が払われた。「クトゥゾフ」「ツァリチンの防衞」「イワン雷帝(前編)」「ゲオルギオ・サアカッゼ」「ダヴィッド・ベック」等は戦時中につくられ封切られた映画である。この期間に同じく着手されていたチアウレリの「誓」はとくに注目すべき作品である。人間──性格の取り扱いの簡潔さと結びついた独特な叙事詩的形式はまったく新しい分野を切り開いたものといえよう。
大祖国戦争の期間は、芸術家の団結力を試練し、点検することを余儀なくした。これによって芸術家たちは人民と党に対する深い忠実さを示し、ソヴィエト社会にとって必要な文化財をつくりだすための新しい確信を得ることができた。
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さて第四段階は、戦後から現在までである。ファシズムに対する勝利のあとに、ソヴィエト人民は新しい課題に立ち向かった。平和的な労働へ、破壊された経済の復興へ、スターリン五ヶ年計画の遂行へと突進していった。
ソヴィエトの観客大衆は戦時中にずいぶん成長した。芸術に対する要求も急速に高まった。彼らは生活に対する知識の不充分さからくる嘘も、粗雑さも鋭く見抜く力を習得した。
ところが芸術家の多くは戦争が終わったとき、このことに気がつかずにいた。戦争という大きな試練を経たにもかかわらず、一部の映画監督はその教訓を忘れた。彼らは現代の重要な問題に対して表面的な軽々しい態度で臨んだ。
一九四六年九月四日、映画「大いなる生活」についての党中央委員会決定が発表された。「この映画は一部の芸術家たちが人民のなかで生活していながら、その高い思想的道徳的資質を見きわめず、それらを作品のうえに正しく反映していないことを証明する。多くの優れているはずの映画人が自己の義務に対して無責任であり、仕事に対して非良心的である」とこの決定は述べている。このような観点からさらに続けてプドフキンの「ナヒーモフ提督」エイゼンシュテインの「イワン雷帝(後編)」コージンツェフ・トラウベルグの「凡人」を鋭く批判した。「大いなる生活」についての決定は芸術における党の政策の必然的な結論であった。これに次いで翌四七年にかけて雑誌「ズヴェズダ」と「レニングラード」について、またムラデリの歌劇「大いなる友情」についての決定が採択された。芸術におけるレーニン・スターリン主義的政策は、哲学・文学ならびに音楽について同志ジダーノフが展開した基本的な結論によって次々と解明された。彼の文献は一貫したボリシェヴィキの美学理論によって組み立てられ、芸術における党派性の問題を深く追求している。芸術家は生活としっかり結びつき、人民にとって最も重要なことを見極めなければならず、それを作品に反映させるための第一の条件として深い党派性を身に付けなくてはならない。芸術における党の明確な政策はソヴィエト映画のその後の発展にとって決定的に有意義であった。多くの不完全な映画はつくりなおされた。優れた芸術家たちは「シベリヤ物語」「ロシア問題」「村の女教師」「若き親衛隊」「真実の人間の物語」「名誉の裁判」等の輝かしい作品を生みだした。これらの映画は党派性の精神とソヴィエト人民の共産主義への道をはっきりと指し示している。
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いま、世界のいたるところで非常に緊張した社会的勢力の衝突が行われている。反動勢力に対する民主主義の戦い、圧迫された民族の独立のための戦い、戦争挑発者に対する平和擁護者の戦いが繰り広げられている。
映画は人間に対する作用の強力な手段である。その作用の力だけによって強力なのではなく、短期間に数千万の人間に見せられるというその規模の大きさによってもまた強力なのである。芸術家がその思想を生きた形象として映画に吹き込むならば、数千万の人々の意識のなかへ深く入っていくことができる。人間の理性と感情に対する真の模範ほど強い作用はない。映画こそはこのような生きた模範を与え得るものである。まことに、映画の作用こそは演説の言葉よりも、新聞の記事よりも、書物や演劇あるいはラジオよりも、はるかに強力なのである。
ソヴィエトの優れた映画はいつも人民の創造活動の模範を示してきた。このような映画は全世界の進歩的な勢力を援助し、戦争挑発者のデマと虚偽を打ち砕くことができる。そして平和のための闘士を倍加させ、我々の思想は必ず勝利するという確信を一層弱めさせるだろう。
我々はソヴィエト映画の偉大な力を知っているし、全人類に対する芸術家の責任をいつも感じている。この意識を我々に与えてくれたのは人民であり、党であり、同志スターリンである。この意識こそ将来の成功への正しい鍵である。