日毎に発展していくモスクワを目の当たりに眺めながら、三十年前のモスクワのことを思い起こすのは難しいことである。
立ち並んだ新しい建物──それは遅れた農業国から強力な工業国へと発展していった国全体の動きを象徴するかのようであり、巨大な工業の中心地に発展していった首都モスクワの生きた証拠である。
新しい工場の建物を眺めながら、昔そこにあった裏庭や貧民窟や袋小路などを記憶に呼び起こすことは難しい。
だが、十月革命によって開かれた人類史上の新しいエポックの黎明期に映画製作の基地、スタジオ、アトリエがどのようなものであったか、テーマやまた製作のうえでの映画の規模そのものがどのようなものであったかを思い起こすのはなおさら難しいことである。
巨大なモスフィルムが八方にそのステージを広げ、モスクワ河を隔てて、都内各所のスタジオと呼応し、多民族映画文化の輝かしい作品の製作基地であるレニングラードとキエフ、トビリシとスヴェルドロフスク、タシケントとバクー、エレバンとスタリナバードの強力なスタジオが国の隅々からジュピターの強い照明灯光を投げ、遠きアルマ・アタより近きオデッサとヤルタが十分装備された基地として誇っている今日、ソヴィエトの映画技術の最初の歩みが踏み出された三十年前、この未曾有の規模の外形がわずか二つのみすぼらしいセンターに限られていたことを思い起こすのは困難である。
それはガラス張りの横腹と紫色のカーテンとで、むしろ古くさい写真屋のアトリエのような、ジートナヤ通りのちっぽけなアトリエと、それにそれはじきに焼けてしまったが、エントジアスタ街道のどこか奥まったところにあって、その後「メジュラブポム」となった当時の「ルーシ」会社がその将来に慄きながら巣食っていた、郊外の別荘に似て、柵で囲まれた小庭のあるアトリエとであった。
それは遠い昔のことであるけれども、十月革命以前の「映画芸術」の道徳的、思想的な性格を考えることはさして困難なことではない。なぜならば、もちろん、当時とは比較できないほど豐富になり、金メッキされ、新しい映画技術のあらゆる手法で、入念に磨き上げられてはいるが、質的には瓜二つのその末弟が現在でもブルジョア諸国のスクリーンをにぎわしているからである。
革命前のロシヤの唯美主義的ブルジョア批評家どもは、ほとんど誰一人として、映画を現代の芸術の最も重要なものの一つとして、巨大な精神的進歩のファクターとして、大衆の社会的発展の武器として理解してはいなかったのである。
それだからこそ、すでに一九〇七年にレーニンによって与えられた映画の将来の社会的な役割、社会的な意義、社会的な可能性に関する予言的な評価が偉大な響きをもつのである。
ソヴィエト映画は、我が国を隔離していた防壁を打ち破って、十月革命の溶鉱炉のなかから生まれ出た我が国の精神的偉力、道徳的風貌の偉大さ、英雄主義、高貴さ、高さを世界に告げたのである。
人類の歴史に、新しい、社会主義の時代の到来したことを謳歌し、人民に永遠の搾取の軛から脱するように呼びかける確信的情熱の炎に燃えた芸術作品の前に、恐れ慄いたブルジョア官憲は検閲の防波堤を築き上げた。しかし、ソヴィエト同盟の革命の本質の正しい描写は十月革命によって震え上がった進歩の敵が打ち立てた悪意に満ちた嘘と虚偽と誹謗の防壁を打ち砕いたのである。
あるいは「マクシム三部作」の生きた形象を通じて、あるいは「偉大な市民」の厳しいシーンを通じて、あるいは「十月のレーニン」、「一九一八年のレーニン」のクラシックな画面を通じて、あるいは「誓」の無窮の英雄史を通じて、あるいは「チャパーエフ」や「シチョールス」の感動的なシーンを通じて、弛みなく、闘争へ呼びかけ、人民大衆をその闘争の経験に馴染ませるとともに、その最初の第一歩から、映画が真の、偉大な芸術であるということを認めさせる戦いの闘士となった。ソヴィエトの生活は、映画に真の文化を──思想とテーマのみでなく、メソッドをもまた実践のみならず、理論の第一歩をも形象の創造ばかりでなく、芸術のなかの芸術である映画の基礎を科学的に解明しようとする弛みなき志向を注ぎ込んだのである。
しかし、新しく映画にやってきた主人公には、くつがえされたものに対する燃え上がるような憎しみ以外に、ごく近くにある映画の腐りはてて、新しい思考、新しい思想、新しい感情、新しい時代の新しい言葉の表現には明らかに不適当な「過去」を非認する感情以外には何らの新しい伝統もなく、映画芸術に対する何らの新しい態度もなかったのである。
かつてない偉大な思想の世界、かつてない新しい課題の波、地球六分の一にわたる社会主義的改造の全世界的歴史的プログラムの形象化に対するかつてないほど強力な大衆的な要求──これこそがその最初の第一歩から我が国の映画の未曾有の特殊性を規定した基本的な、重要なものであった。
しかし、事前の完全な「無」から、我が国の若い映画人の頭のなかに突然、この前例のない映画が生まれ出たのであろうか?
映画の伝統については「否」と言い得る。しかし、その代わりに、ほかの世界の文化的伝統のなかで最も偉大なもの──ソヴィエト同盟に合流して一体となったロシア民族文化の伝統と友交的民族文化の伝統──があったのである。
各時代に人類が創造したすべての優れた遺産の相続者である我がエポックはその映画文化の原則を生み出すに当たっても、もちろん世界の古い文化の実質的な財宝を拒否したりなどはしなかった。
しかし、我々はまず第一に我が国特有の汲み尽くせないほど豊富なロシアの文化的遺産と不可分につながっているのである。ロシア文化の伝統、その特殊性は母親の乳とともに我々に受け継がれている。そして、これこそ、何よりも先に、十八年──二十年──三十年代に十月革命の波のうねりと歩調を合わせて、過去の城壁に突撃し、未来の予見にまで高まっていく現在の創造を打ち立てていくべき任務を負った巨匠たちを導いてきたのである。そして、我々は固有な、ロシア文化のあらゆる多角的な面を通じて世界の文化を受け入れ、認識し、必要な場合に自己の経験のなかへ取り入れていったのである。
では、我がソヴィエト映画の風貌をかくも深く規定した我が祖国の文化の伝統の基本的な性格とはどのようなものであろうか?
まず第一にそれは、もちろん、過去の我が民主主義文化が常に、変わりなく思想性のスローガンの下に進んできたということである。最初の発端からこのように一貫して変わりない常に燃えるような思想性、常に社会に貢献しようとする願望、常にノミや筆の動き、言葉や音楽の響きによって進歩的思考をもたらし、思想のために闘い、そして何よりもまず、自己の人民に奉仕しようという志向に満ち満ちている世界のほかの文化を探し出すことは難しい。
しかし、思想の不変の存在だけが、以前のロシア文化の創造をその発生の発端から我がソヴィエト映画と一つの離すべからざる連鎖につないでいるのではない。この連鎖をさらに一層離れがたくしているのが我が芸術をその起源からその頂上たるその最高の繁栄まで貫いているテーマなのである。それは我が民族の民族的自覚のテーマである。
ロシア文化の伝統のなかでほかの文学的型式よりも我々にとって最も高価なのは叙事詩の伝統である。そして、我が国の映画が敘事詩的な画面から始まっているということこそは非常に特徴的なことである。
そのなかにますます新しいテーマ問題を取り入れ、ますます新しい表現上の課題を取り入れて、複雑化していく叙事詩的形式の展開こそが、革命的過去の叙事詩(「戦艦ポチョムキン」、「母」、「マクシム三部作」)、市民戦争の敘事詩的歷史(「チャパーエフ」、「シチョールス」、「われらクロンシュタットより」)、遠い過去の叙事詩(「アレクサンドル・ネフスキイ」、「イワン雷帝」、「ミーニンとポジャールスキイ」)、より近い過去の叙事詩(「ピョートル大帝」、「スウォーロフ」、「クトゥーゾフ)、革命闘争の最も緊張した時代の叙事詩(「十月のレーニン」、「一九一八年のレーニン」、「銃を持った人」、「偉大な市民」)、そして最後に最近の歴史の叙事詩──「誓」によって開かれた祖国職争に関する「若き親衛隊」、「スターリングラード戦」、「第三の打撃」のような映画──を同じように製作している世界中のほかのどの映画にも見られない叙事詩的な──我が映画の歴史の重要なモメントを強調するものである。
過去の三十年間にソヴィエトの映画はいま一つのロシア文化の偉大な伝統を継承している。ソヴィエトの映画はほかに比較するもののない、唯一の存在であると同時に、最も驚異的な統一体なのである。
そして我が栄えあるソヴィエト映画のこの統一についてこそ、この統一の主要な性格についてこそ、その三十周年紀念日に当たって特に強調したいのである。