意識と無意識
最近十年間をかえりみると、いろいろ異常な、ほとんど筆紙に尽くしがたいほどの事件が続発しているので、これが原因でなにか特殊な心理的の動揺、 擾乱 といったようなものが人間の心を飲んでいるのではなかろうかということが、誰しもの頭に浮かんでくる。こころみに精神病理学者に、この現象に関する意見を叩いてみると、その答えは大体専門的立場から観察した結果を出てないようだが、それも無理のない話で、精神病理学者だからといって全知全能者ではないのだから、こうした広範な説明を要する複雑な問題に対する答えは、いきおい、せまい一分野の研究に限られざるをえない。
ここでひとつ読者にぜひ記憶しておいてもらいたいことがある。というのは、群集心理病理学の基礎は個人個人の心理に置かれているということである。すなわち群集心理の現象は、個人心理の研究にはじまるものである。こうして個々別々の個人に共通なある現象ないしは徴候というものを把握することに成功しさえすれば、それによって類似の群集心理現象を研究する緒ができたことになるわけである。
読者諸君もすでにご存じと思うが、いわゆる「意識の心理」と「無意識の心理」──まずこの二つの問題を私は考えてみたい。これにはまず「夢」というものを試験台にのせてみる必要がある、というのは、夢は無意識活動の所産だからである。
大体、無意識心理過程と意識心理活動とのあいだには生物学的関係が存在していることは、周知の事実である。この関係は相互補完という作用をもっているのが特色で、すなわち意識における欠如──たとえば誇大な考え、一方的な言行、機能の欠如といったようなのが、無意識心理過程において、適当に補われている現象がそれなのである。
私はすでに一九一八年に、ドイツ人患者たちの無意識心理にあらわれた特殊の擾乱状態に気づいていたが、その現象は決して彼らの個人的心理に帰せらるべきものではない。かかる非個人的現象は神話的モティーフとして常に夢にあらわれるもので、世界いたるところ、伝説、お伽話のなかに見出されるものである。私はこれらの神話的モティーフを『 原型 』(注)と呼んでいる。すなわち集合的現象がそのなかで経験される定型的様式なのである。ドイツ人の患者一人ひとりの場合についてみても、そこには集合的無意識心理の擾乱が認められた。こういう心理擾乱の現象は、その場の場当たり的な説明ですますこともできるかもしれないが、しかしそうした説明では結局不十分たるを免れないのはいうまでもない。私の観察した『原型』は原始性、暴力、残忍というようなものが現れていた。
(注)『原型』はユングの用語にしたがえば、「人間が過去において一人種として経験したところのものに起源を発し、個人の無意識中にあらわれる思想の遺伝的観念また様式をいい、個人の世界を知覚する方法を統御する心理」だとされている。
ドイツ人の群集心理
こうした数々の実例を見るにつけ、私は当時ドイツに 瀰漫 していた特殊な心理状態に注意を向けるにいたった。その結果、ある憂鬱状態と大きい不安状態とを認めるにすぎなかったが、しかしそれらの現象は私の抱いていた疑惑と矛盾するものではなかった。で、私はそのころ発表した一論文でこういうことを示唆したのである──「 金髪獣 」(注)が不安な睡眠のなかに動きまわっていて、いつそれが爆発するかわからない──と。
かような状態は、数年後にいたって明らかになったことだが、決して純粋にチュートン民族だけの現象ではなかった。原始的な暴力でもって襲撃を加えるということは、多少とも一般に行われたことである。ただドイツ人の場合には、その特殊な心理的傾向のために、群集心理にいっそう敏感であるという点が、ほかの民族と異なるところである。加うるに敗北とか社会的災厄とかいうものが、ドイツ人の群集本能を増大した結果、どうかすると、ドイツは西欧諸民族のあいだで、最初の犠牲になるかもしれぬという可能性が大きくなってきた。この犠牲という意味は、いつ道徳制御の 堰 を破るかもしれぬ無意識中に眠る暴力の激発によって引き起こされる群集運動の犠牲ということである。前に述べた法則にしたがえば、この暴力は相互補完作用をなすものであって、もし無意識心理の補完運動が意識のなかに流れ込んで補完をまっとうしないということになると、個人の場合では神経官能症または精神異常を起こし、群集の場合でも同様のことが起こるのである。この場合、この種の補完作用を受け入れるべき意識の態度になにか狂いがあるに違いないので、つまりなにかの調子が狂っているか、病的になっているかである。多分、無意識心理の側で反対運動を起こさせるのは、こうした狂った意識状態に限るからであろう。
すでに言ったように、第一次大戦後、無意識心理のなかに起こった潮流が個人の夢のなかに、原始性、暴力、残忍、一言でいえば暗黒の力を表わすところの群集的──すなわち神話的──シンボルとして反映されたのであった。で、かようなシンボルが多数の個人のなかに起こり、しかもその理由が分からないと、これらの個人は、さながら磁石に引きつけられるように、一ヶ所に集合して、ここに 群衆 を形成する。するとすぐに 指導者 が現われてくるのだが、それは外部の勢いに屈しやすい、責任感の最も乏しい人間──自分の性格が劣性であるだけ、それだけ権力意志の大きい人間──がなるのである。この指導者は、機会さえあればいつでも激発しようとしているあらゆるものを、制御から解き放してしまうから、群衆は 雪崩 のごとき抵抗すべからざる勢いをもって彼に追随することになる。
(注)「金髪獣」とは北欧原始人の金髪タイプをいう。ニーチェなどはしばしばこれを、優れた理想的な肉体をもった動物として、あるいは略奪を事とする動物として考えた。したがって後には略奪的な行動をする人間も言うにいたった。
一縷の希望の光
私はドイツ革命を、個人の病症を試験管のなかで試験するように観察した結果、右のような人々が一緒に集まってしでかす恐ろしい危険に気づかざるをえなかった。だが、そうかといって、彼らが一団になって不可避的に暴動を起こすにいたるかどうかということについては、その当時まだ十分に知るところがなかったが、たくさんの個々の事例を調査したうえで、暗黒の力の激発が試験管のなかでは十分に起こりえることを認めることはできたのである。すなわち私は、この暗黒の力が個人の道徳的ならびに知的自制力を突き破り、意識の世界に氾濫してゆくのを知りえたのである。そこには恐ろしい苦痛と破壊とがともなった。しかしながら、そうした場合でも、もし個人がちょっとした理性を残していてそれにすがり、人間の相互関係という絆を維持することができさえすれば、そこに新しい補完作用が起こって、混沌たる意識心理が無意識心理のなかにその補完作用を持ち込み、かくて補完作用が意識心理を完全なものになしえるのである。そこで集団的性質をもった新しいシンボルは秩序の力を反映する。そこには特殊な算術的、幾何学的な性質において表現された尺度、割合、対称的配列がある。そしてこれらのものは一種の軸性体系を表す。いわゆる 曼陀羅 構成として知られているものである。
私はいま、こういう高度な学術上の問題をここで説明することはできない。しかしこのむずかしい、ほとんど理解を超えた問題が、一道の光明をもたらす──もっとも、現在の分離と混沌のめちゃくちゃな無秩序の時代に、かかる光明を望むことは無理であるが──それゆえに、あえてここに一言せざるをえないのである。いまや世界的に瀰漫している意識心理の混乱と無秩序とは、個人の心理における同様な状態に対応するものであるが、その正しい関係を欠如した状態は秩序の「原型」によって意識心理へと補完されるのである。しかし私がここでふたたび言わなければならぬことは、これらの秩序のシンボルが意識心理のなかに入って完全なものとならないときには、そのシンボルの表現する暴力は、二十五年前(注)に無秩序と破壊の暴力が示したように、危険な度合いに累積していくであろう、ということである。無意識心理の内容を完全ならしめるのは、理解力と道徳的評価とを個人が体得することにある。これは高度の倫理的責任感を要するものであるだけに、非常に困難なことであり、ただ比較的少数の人がそれをやりとげる可能性をもっているにすぎない。かかる人は人類の政治的指導者にあらずして、道徳的指導者であるべきは言を俟たざるところで、文明の維持と発展とは、ただこの種の人の双肩にかかっているといっても過言ではない。
(注)一九二二年にはムッソリーニのローマ進軍、二三年にはヒトラー等のバイエルン国民主義叛乱〔いわゆるミュンヘン一揆〕があった。
大戦にいたる過程
群衆の意識心理は第一次世界大戦以来、あまり進展しなかったということは明らかな事実である。内省的な精神は豊富になり、道徳的、知的水準は著しく高まった。それは 畢竟 人々が巨大にして圧倒的な悪の力を知り、人間はややもすれば、その悪の力の道具になりがちであることを痛感したためにほかならぬ。しかし一方ではそれほどの自覚力のない一般人は、第一次大戦の終末期と同じ状態に留まっているために、秩序の力を完成しえないでいることも、遺憾ながら事実であると言わざるをえない。秩序を破壊し去る幾多の動因が意識のなかに侵入してきて、人間の意志に反して意識を脅かし、暴力に導こうとする。我々はそうした兆候をいたるところに見ることができるのである。全体主義、奴隷国家というようなものがすなわちそれである。個人の価値と重要性とが急激に低下し、個人の正しい声が聞かれる機会は、いよいよ消滅せんとしているではないか。事態が悪化していく過程は、長くかつ苦痛に満ちているが、それにもかかわらず悪化の傾向は避けがたいようにみえる。だが、結局におい人間の悲しむべき無意識心理、子どもじみた無思慮、個性の弱さは姿を消して、人間は自らの運命の創造者であり、国家は人民の主人ではなくしてその道具であることを認識した未来人がこれに取って代わるであろう。ただし人間がかかる水準に到達するには、基本的な人権を(賭博で金を すって しまうように)無意識心理によって すって しまったという事実を知悉したときに限られる。ドイツはこの心理的発展の最も啓示的な実証を我々に示してくれた。そこでは戦争が無意識群集とその盲目的欲望とに勃発するのと同じ過程をたどって、あの第一次大戦が隠れた悪の力を解き放したのであった。いわゆる「 平和皇帝 」はその最初の犠牲者であり、ヒトラーはその不逞にして無秩序な欲望を表明して、ついに戦争に巻き込まれ、避けがたき悲劇に到達したのである。第二次大戦は第一次大戦と同じ心理的経過を繰り返したが、その規模においては測るべからざるほど大きいものであった。
国家の工業化によって、ドイツ国民の大部分は根こぎにされるように徴用され、大工業中心地に集められた。このために生活様式は一変して、群集心理に動かされやすくなり、社会は市場と賃銀の同様に一顰一笑(ルビ:いっぴんいっしょう)し、個人の生活は不安定に陥り、えてして外部の暗示に感応しやすくなる。彼らは自分の生活が会社の重役や経営者によって思うままに左右されることに気づく。自分たちの生活は大部分金銭上の利害によって動かされるのだ──その考えが正しいか正しくないかはともかくとして──と想像する。どんなに良心的に働いても、自分の力ではどうすることもできない経済的変動で、いつかは クビ になるということが分かってくる。それでも頼みとするものはほかになにもない。加うるにドイツの道徳的ならびに政治的教育はすでにその頂点に達して、いまや下り坂にあり、ただしかたなしに服従しているのだという投げやりな精神が人心を蝕んでくる。そして自分たちの欲しいものは上から──小心翼々法律にしたがっている市民の上に神慮によって君臨し、そのくせ個人としての責任感は特殊な義務感に圧倒されている人間から──くるのだと思ってしまう。かような状態に落ち込んだドイツがついに群集心理の餌食になってしまったということは、けだし当然ではあるまいか。
自分は弱い者だと思い込む無力感──というよりも自分の存在を無にしてしまっているような虚無感に乗じて、いままで表面に出なかった権力が頭をもたげて補完作用をやりだした。それは「持たざる者」の貪欲の現れであり、権力なき者の叛逆である。かようにして無意識心理は人間をして自己自身を意識せしめるのであるが、不幸にして個人の意識心理には価値の範疇が存在しない。もし存在していたら、反動が意識に達したとき、その反動を理解し、統合することができたであろうと思われる。一方ではまた、ドイツの最高当局者は物質主義以外の何物をも宣伝しない。宗教的組織があっても、この新情勢に対抗することができず、教会もただいたずらに抗議するだけで、ほとんどなんの役にも立たなかった。
新秩序の夢
群集を騙って指導者に向かわしめる猛烈な勢いの雪崩の音は、ドイツじゅうに響き渡った。そして完全に国民を破滅に追い込む道具として一指導者が選ばれたのである。だが、この指導者が当初抱いていた意図はどんなものであったろうか。思うに彼は「新秩序」というものを夢見ていたのだ。彼がいくらかの種類の世界秩序を創る意図を持っていなかったと想像するならば、それは大きな誤りである。持っていなかったどころではない。欲望と 貪婪 とが意識を完全に 虜 にしてしまった瞬間に動き始めたところの秩序の動因が、彼の心の底を揺さぶっていたのだ。ヒトラーは「新秩序」の代表者であり、それが全ドイツ国民をして彼に傾倒せしめた真の理由でもある。ドイツ国民もまた秩序を意図したのであるが、その結果はかえって無秩序の最初の犠牲を指導者として選んだという致命的な誤りを犯したのである。彼らは権力を渇望したように秩序に対しても飽くことを知らざる欲望を持っていた。ほかの諸国民と同じように、彼らはヒトラー出現の意義を理解しなかった──ヒトラーは全個人のシンボルであり、人間の劣性の驚くべき権化であったことを解しなかったのだ。ヒトラーは無能な、不適当な、無責任な、精神病的な個人であり、空虚な、子どもじみた愚かしい妄想でいっぱいになった男であった。ただネズミや不良少年に見られるような鋭い直感力を持っていただけである。彼は最大の度合いにおいて、自身のうえに幻影を体現し、人間の個性中の劣性感を具現していた。これは全ドイツ国民が彼に傾倒するにいたったもう一つの理由ということができる。
ドイツ国民がもし賢明であったなら、ヒトラーのなかに自分自身の影を、自分自身の最悪の危険性を認めたであろう。このような影を自覚し、それを適当に処理することが人間の運命であるにもかかわらず、ドイツ国民はこの単純な真理を理解するにいたらなかった。この真理が一般に認められるのでなければ、世界は秩序ある状態に達することはできないのだ。
たとえばフランス語を話すスイス人が、西南ドイツ人系スイス人を悪魔だと罵るとすれば、スイスはたちまち激しい内乱の巷と化するであろう。そして我々はなぜ戦争が避けがたいかという確かな経済上の理由を発見するであろう。我々は四百年以上も昔にその教訓を学んだ。すなわち外部との戦争は避けるほうが賢明だ。かえって我々自身の内部の戦いをやろうという結論に達したのだ。スイスでは、我々はいわゆる「完全デモクラシー」を樹立したが、そこでは戦争本能は「政治生活」と呼ばれる国内闘争のかたちのなかに消失してしまった。我々は法律と憲法との範囲内でお互いに争う。そしてデモクラシーとは内乱の和らいだ慢性状態のかたちだと考える。実際我々は、我々相互が平和な状態にあるなどとは夢にも言いえない。互いに憎み合い、かつ戦っている。それは外部の戦いを内部に向けることに成功したからである。我々の表面の平和な様子は、我々の生活を撹乱する外部の侵入者を防いで、我々の内部闘争を庇うのに役立つにすぎない。
とにかく、我々はここまでは成功したのであるが、しかし終極の目標には前途ほど遠しと言わねばならぬ。我々はまだ我々の肉のなかに敵を持っている。そして政治的不調和を我々の自我の内に向けることに成功していないにもかかわらず、我々は内において平和であるという不健全な考えの下に苦しんでいるのである。万人が自己の影をはっきりと認め、戦うに足る唯一の闘争、すなわち内なる戦いを始めるならば、緩和された国家の戦争状態は終局を告げるであろう。内なる戦いとは他を圧倒せんとする力に抗する戦い、我々自身の影を駆逐する戦いである。スイスでは、我々が我々のあいだにおいて戦っているがゆえに、相当の社会的秩序が存している。もし人々が闘争の欲望を内に向けることができさえすれば、秩序は完全であるはずだが、不幸にして現代では宗教教育までが、内なる平和がすぐにもくるような偽りの約束をして、平和の到来を妨害している。真の平和は結局において訪れてはくるのだが、それはただ、勝利と敗北とがその意義を喪失してしまったときでなければならぬ。キリストが「地に 泰平 を出さんために我来たれりと思うなかれ、刃を出さんために来たれり」(注──マタイ伝第十章第三十四節)といったときに、キリストはいかなる意味でこれを言ったかを思うべきである。
平和か闘争か
我々は真のデモクラシー──すなわち我々自身の内なる群集的もしくは個人的の緩和されたる戦い──を確立しえるがゆえに、我々は秩序の動因を 実覚 し、これを現実のものたらしめえるのである。けだし、その動因は秩序ある環境に安住するために絶対に必要なものとなってくるからである。我々はデモクラシーのなかに、外部からくる干渉や悶着の煩わしさがはいってくるのを忍ぶことはできない。諸君は内からの攻撃に対し、いかにしてその内なる戦いを処理することができるであろうか。諸君がおのれ自身と戦っている場合、当然その戦いを戦い抜くべきであるにもかかわらず、自分のために同情を表するような同胞を歓迎し、かえってそれと親しくなるような傾向があり、そのために、真に自分のために助力を与え、苦悩を取り除いてくれる人々を敬して遠ざけるという結果に立ちいたる。心理学者は長いあいだの苦しい経験によって、意識内容から脱却しようとしている人に諸君が助力を与えるならば、諸君はその人の一番善いものをその人から奪い取るのだということを知っている。ゆえに諸君のその人に対する助力は、意識の内容を十分に目覚めせしめ、その人の内なる意識闘争を導き出してやることに 止 むべきであろう。かくして意識内容は生命の焦点となるのである。心理上の諸現象の目録表から消え去るものは、いつかは姿を変えて敵となり、必ずや諸君の怒りを挑発し、諸君をして攻勢的態度を取らしめる。諸君は最悪の敵は諸君の心のなかにあるということを知らねばならぬ。人間の闘争本能は到底根絶しえないものであるがゆえに、完全なる平和の状態は考ええられない。それのみならず、いわゆる平和なるものは、そのなかに戦争を育むがゆえに、なんとなく気味悪いものに感ぜられる。これに反して真のデモクラシーは高度の心理的有機体であって、人性をあるがままにその考慮に入れ、したがって国家の枠内においての闘争の必要を 斟酌 するのである。
諸君が現実のドイツ人の精神状態と私の所論とを比較されるならば、諸君は全世界がいま当面している大事業を認識することができるであろう。心理的に 頽廃 したドイツの大衆が単純なこの心理学上の真理の意義を悟ることは、ちょっと期待しがたい。しかし西欧デモクラシーは、外部の敵の存在と、内部の平和に対する欲求とを信ぜしめようとする外部戦争を寄せつけないかぎり、前途の望みは洋々たるものがあるであろう。国内紛争に対する西欧デモクラシーの傾向は、大いなる希望の道に導くまさに唯一のものである。だが私はひそかに恐れる、このせっかく希望も逆の過程──すなわち個人の破滅と、いわゆる国家という擬制をいまなお信じているところの支配者のためにその実現が遅れはしないかと。心理学者は、精神と生命とを内に保有する唯一のものは個人であることを固く信じている。
社会あるいは国家はその特性の源を個人の心的状態に発している。なぜなれば、社会、国家は個人およびその組織体によって構成されているからである。しかるにこの明々白々の事実が一般大衆の意見のなかになお浸透しないために、大衆は「国家」という言葉を依然として用いている。彼らは国家というものが無限の力と資源とを賦与された超個人的なものであるかのごとく思惟しているのである。今日でも国家は個人の力でできないものをなしえると考えられているらしい。群集心理にまでおよんでいくこの危険な傾向はどこから出てくるかというに、大多数の大衆と強力な組織団体──そこでは個人はだんだん小さくなってついに無に帰してしまう──のなかに存するいかにももっともらしい考え方から出てくるのである。人間的なるものの範囲を超えたものは、どんなものでもすべて人間の無意識のなかにおいて非人間的な力を呼び起こす。真に達成しえるものは個人の道徳性への最小の一歩であるという自覚の代わりに、全体主義の悪魔が呼び出される。武器の破壊力は途方もなく増大して、この心理学の問題を人類のうえに押しつけてくる。これらの武器の使用を決定する人間の精神的ならびに道徳的状態は、それから生ずるであろう悪逆極まりなき結果に対して、果たしてよく善処しえるであろうか?